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ナイト1960

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せつぶんまめ @ Re:うぅぅ~。。。確かにサンピねぇ~(06/06) New! こんばんは 北海道のYOSAKOIソーラン祭り…
ひろみちゃん8021 @ Re:うぅぅ~。。。確かにサンピねぇ~(06/06) New! こんばんは(^^) 「北のふーどパーク」珍…
タヌキの子 @ Re:うぅぅ~。。。確かにサンピねぇ~(06/06) New! こんばんは~ なるほど、地元ではそんな事…
nik-o @ Re:うぅぅ~。。。確かにサンピねぇ~(06/06) New! へ~~~~~~~、よさこい祭り、地元の…
かずまる@ @ Re:うぅぅ~。。。確かにサンピねぇ~(06/06) New! ナイトさんお疲れ様です! なるほど・・・…

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Jun 9, 2009
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カテゴリ: Rock Boxx

本日久しぶりの晴れでしたね~!!昨日の"ボヤッキー"モードから一転です。RockBoxxを語ろうかなと思いましたら?その前に・・・と言うわけで!スコーピオンズのお勉強なのでした・・・!!

スコーピオンズ Blackout - 』以降、世界的な人気を得、日本では英米のバンドと同等の影響力がある。だが、スコーピオンズ登場前のドイツはロック不毛の地と呼ばれるほど、スター・アーティスト不在の状況であった。スコーピオンズはドイツHR/HMのカテゴリーを超えたジャーマン・ロックの始祖とも言える存在なのだ。

略歴

1965年にルドルフ・シェンカー(1948年8月31日、ハイルドシェイム生まれ)がバンドを結成。メンバーはルドルフ・シェンカー(vo.g.)、カール・ハインツ・ヴォルマー(g.)、ウォルフガング・ズィオニー(ds.)、アチィム・カーチョフ(b.)の4人組。

1972年にコニー・プランクのプロデュースで、デビュー・アルバム『恐怖の蠍団 - Lonesome Crow - 』を発売。プログレッシヴ的なサウンドの作品でありハード・ロックとは言えない作りはプロデューサーの志向だと思われる。同年ユーライア・ヒープ、ロリー・ギャラガー、UFOなどのサポーティング・アクトとして西ドイツ国内ツアーを行う。サーキット中にUFOのミック・ボルトンが失踪し、急遽代役ギタリストを務めたマイケル(g.)がUFOに移籍。

1973年6月、ローザー(b.)とウォルフガング(ds.)が脱退。一時活動停止を余儀なくされる。

1974年、オーディションによりウルリッヒ・ロート(g.)、フランシス・ブッホルツ(b.)、ヨルゲン・ローゼンタル(ds.)がメンバーに決定。RCAレコードと新たに契約し、11月に移籍第1弾としてアルバム『電撃の蠍団 - Fly To The Rainbow - 』を発表。バンド自らがプロデュースした本作は、ウルリッヒのギターをフィーチャーしたハード・ロック色が濃く、以降のサウンドの基礎となる作品となった。1年半ぶりのツアーで夏のドイツ国内をサーキット中にヨルゲンが脱退。ルディ・レナーズ(ds.)を加えて、ベルギーとフランスで国外ツアーを行う。その後、スウィートのサポーティング・アクトで北欧をツアー。この時、後に6人目のメンバーと呼ばれ、長年作品を手掛けることになるプロデューサー、ディーター・ダークスが自らプロデュースを申し出て、新作のレコーディングに着手する。

1975年、アルバム『復讐の蠍団 - In Trance - 』を発売。プロモーションの一貫としてロンドンのマーキー・クラブでイギリスでのデビュー・コンサートを成功させる。キッスのサポーティング・アクトとして西ドイツ国内ツアーを行う。ドイツの音楽誌での人気投票でグループ部門3位を獲得。

1976年11月に『狂熱の蠍団~ヴァージン・キラー - Virgin Killer - 』を発売。メロディ・ラインに哀愁を帯びハード・ロックの様式美を前面に出した作品で、バンドの代表作となった。

1977年の全英ツアーは規模を拡大し、ホール・クラスでのバンドに昇格するがルディが心臓病を患い脱退。4代目ドラマーとしてハーマン・ラレベルが参加し、5作目のアルバム『暴虐の蠍団 - Taken By Force - 』を発売。

1978年に日本ツアーを行う。4月25日の東京から26日の大阪まで、5回の公演は全てソールド・アウトを記録、日本での人気の高さが確認された。 東京、中野サンプラザでの2ステージをレコーディング、同年8月に初のライヴ・アルバム『蠍団爆発 - Tokyo Tapes - 』として発売される。この後、ウルリッヒはバンドがコマーシャルな方向に向かっていることを理由にバンドを脱退。バンドは、イギリスの音楽誌メロディ・メイカー紙に募集告知を掲載し約140名をオーディションするが、後任は見つからなかった。改めてドイツ国内でメンバーを探し、地元ハノーファーでマティアス・ヤブス(g.)を3代目ギタリストに決定

1978年9月、新ギタリスト披露のため、ドイツで開催の「サマータイム・オープン・エアー・フェスティバル」出演。ニューアルバムのレコーディング直前、アルコールとドラッグの併用で精神的な支障をきたしUFOから失踪・脱退していたマイケル・シェンカー(g.)を、ルドルフとクラウスが迎え、レコーディングに参加。

1979年4月、6人編成で制作されたアルバム『ラヴドライヴ - Lovedrive - 』を発売。同編成で3月23日のマルセイユから開始したヨーロッパ・ツアーは好評を博し、マイケルの完全復帰を思わせたが、ケルン公演直前にマイケルが倒れ、バンドから離脱。日本で2度目の来日公演が決定していたがマイケルの登場はなかった。6月3日からジャパン・ツアー。8月にテッド・ニュージェントのサポーティング・アクトとして初の全米ツアー。同8月にイギリスのレディング・フェスティバルにシン・リジィの代替でヘッドライナーとして出演。同12月、RCA時代4枚のアルバムの中から11曲をセレクトし初のベスト・アルバム『蠍団伝説~スコーピオンズ・ベスト - BEST OF SCORPIONS - 』を発売。

1980年、5月に『電獣~アニマル・マグネティズム - Animal Magnetism - 』を発売。イギリスでのNWOBHMムーヴメントを契機とした、ヘヴィメタルシーン活性化を受け、レインボー、ジューダス・プリーストなどと共に第1回モンスターズ・オブ・ロックに参加。前年の続編となるベスト・アルバム『蠍団帝国~スコーピオンズ・ベストII - SCORPIONS BEST2 - 』を発売。

1981年クラウス(vo.)が声帯を痛め医師に1年間の静養を言い渡された。バンドは一部録り終えていたレコーディング作業を一時中止し静養期間とした。

1982年、3月に『蠍魔宮~ブラックアウト - Blackout - 』を発売。2年振りのこのアルバムは全英11位、全米10位の売り上げとなり、最強のライヴ・バンドと評されながらセールスが反映されなかったアメリカ・マーケットで初のビッグ・ヒットを記録。4月に同アルバムのプロモーション・ツアーをイギリスからスタート、アメリカ、日本などをサーキットする。

1983年5月にアメリカのサン・バーナディーノで開催されたUSフェスティヴァル、同年12月に本国ドイツのロック・ポップ・ヘヴィ・メタル・スペシャルに出演。同年10月にイギリスのロンドン・ハマースミスオデオン劇場で行われたマイケル・シェンカー・グループのライヴにルドルフとクラウスが飛び入り参加しファンを沸かせた。

1984年3月に『禁断の刺青 - Love at First Sting - 』を発売。8月に日本で初のヘヴィ・メタルのビッグ・イベント「スーパー・ロック '84 イン・ジャパン」にホワイトスネイク、マイケル・シェンカー・グループ、ボン・ジョヴィなどと共に出演。

1985年1月に初の武道館公演を果たし同年のジャパン・ツアーと6月のイギリスのネブワース公演後、2枚目のライヴ・アルバム『ワールド・ワイド・ライヴ - World Wide Live - 』を発売。若干の充電期間と発表し、しばらくの間表立った活動を停止する。

1988年5月に4年ぶりのスタジオ録音アルバム『サヴェイジ・アミューズメント - Savage Amusement - 』を発売。ペレストロイカ最中のソビエト・レニングラード(現ロシア連邦・サンクトペテルブルク)でコンサートを行う。

1989年8月、前年のコンサートが契機となり、歴史的イヴェントとなったモスクワ・ミュージック・ピース・フェスティヴァルが開催。ボン・ジョヴィをメイン・アクトに、スコーピオンズ、オジー・オズボーン、モトリー・クルーなどが参加した。付随したチャリティー企画でアンチ・ドラッグ/アルコール・キャンペーンのオムニバス・アルバム『メイク・ア・ディファレンス - Make A Difference - 』が発売され、スコーピオンズはザ・フーのカヴァー「アイ・キャント・エクスプレイン - I Can't Explain - 」が収録された。

1990年「ベルリンの壁崩壊」の年7月に、そのベルリンの壁の前で行なわれた元ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズ主宰による「ザ・ウォール・ライヴ」に参加。演奏は、『ザ・ウォール ライヴ・イン・ベルリン - The Wall Live In Berlin - 』として発売された。 11月にアルバム『クレイジー・ワールド - Crazy World - 』を発売。このアルバムは長年のプロデューサーであるディーター・ダークスに代わりキース・オールセンがプロデュースを務めている。「ウィンド・オブ・チェインジ - Wind of Change - 」がシングル・カットされ、全米第4位、全英第2位を記録するビッグ・ヒットとなった。

1992年の活動は無く1993年にはラルフ・リーカーマン(b.)を迎え9月にアルバム『フェイス・ザ・ヒート - Face the Heat - 』を発売。

1994年1月の来日公演は、 M.S.G.(マイケル・シェンカー・グループ)に終止符を打ったマイケル・シェンカーがスペシャル・ゲストで参加し、アコースティックで夢の共演を実現させた。しかし、この時期に70年代からのメンバー、ハーマン・ラレベル(Ds.)が脱退。ライヴでは、カート・クレスやピティ・ヘチットがドラマーとして参加、ルーク・ヘルゾッグやコーエン・ヴァン・ベイルといったキーボード奏者も参加していた。

1995年ライヴ・アルバム『ライヴ・バイツ - Live Bites - 』を発売。

1996年デビュー25年を迎えイースト・ウエスト・ジャーマニーと契約。5月にレーベル移籍第1弾アルバム『ピュア・インスティンクト~蠍の本能 - Pure Instinct - 』を発売し活動を再開。

1997年にベスト・アルバム『蠍の刻印~マーキュリー・イヤーズ:ベスト・オブ・スコーピオンズ - DEADLY STING:The Mercury Years - 』を発売。

1999年4月、3年ぶりスタジオ録音アルバム『アイ・トゥ・アイ - Eye II Eye - 』発売。オーストリア人ピーター・ウルフ(ジェファーソン・スターシップやハートのプロデューサーとして知られる)プロデュースで制作されたこのアルバムは、コンピューターを導入し、ハードロックやヘヴィメタルの枠を超越したアプローチを展開。同アルバムのレコーディング中にラルフ(b.)が脱退。ジェイムス・コタック(Ds.)が一時参加で製作されている。

2000年ドイツ、ハノーヴァーで開催されたEXPO2000のテーマ曲を担当し、「モーメント・オブ・グローリー」を発表。同年夏にその曲も含みベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共演によるアルバム『栄光の蠍団~モーメント・オブ・グローリー~ - Moment of Glory - 』を発売。

2001年2月9日にポルトガル・リスボンでアンプラグド・ライブを行い、7月に『アコースティック・ライヴ - Acoustica - 』として発売。

2004年『反撃の蠍団 - Unbreakable - 』を発売。 

現在のメンバー  

  • クラウス・マイネ(ボーカル)
  • ルドルフ・シェンカー(リズムギター)
  • マティアス・ヤプス(リードギター)
  • パウエル・マキオダ(ベース)
  • ジェイムス・コタック(ドラム)  

ハードロックの理想型に最も近い存在。衝撃の蠍団! いかがですか?まだまだありますよん・・・・・!!






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Last updated  Jun 9, 2009 11:06:20 PM
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