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Jun 9, 2009
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カテゴリ: Rock Boxx
SCORPIONS スコーピオンズ のお勉強でした・・・・!!
ハードロックの理想型に最も近い存在。衝撃の蠍団!

ハードロック・ファンなら誰もが理想として思い浮かべる、重くスピード感のあるリズム、パワーのあるハイトーン・ヴォイス、卓越したギター・テク、ポップすぎない曲の良さ・・・
70年代半ば、ブリティッシュ・ハードがその勢いを失いつつある頃、彼らはそれらを全て兼ね備えて登場し、当のイギリス人達よりブリティッシュっぽい音で、往年のハードロック・ファン達を熱狂させた。特に日本においては、ウルリッヒ(g)の奏でるマイナー調フレーズが、より多くの人々を虜にしていったのだ。
よくドイツ人の感性は日本人に似ていると言われるが、彼らがライブでよくカヴァーしている日本の代表的叙情歌「荒城の月」を聞くと、「あ~、この重苦しいようなマイナー旋律を彼らも理解できるんだな~」と、なんだかうれしくなる。「蠍団爆発~スコーピオンズ・ライヴ」に入っているこの曲などは、後半から絡みつくように入るウルリッヒのギターが、何の違和感もなく、自然な形で曲にとけ込んでいるのがわかるのだ。それは彼らがもともと日本人的な感性を持っているからなのだろう。

2人の天才リード・ギタリストと世界一のサイド・ギタリスト

自分の場合、ブリティッシュ・ハードの中堅バンドだった UFO は古くからのファンで、マイケル・シェンカー加入当初からよく聞いていた。マイケルはウルリッヒと同じドイツ人ということもあって、やはり日本人のツボを刺激するような、何とも言えないマイナー調フレーズを得意としていただけに、すぐに大好きになった。しかし、そのマイケルがスコーピオンズ出身だったと知ったのは、もうすっかりスコーピオンズ自体が有名になってからのことだ。
日本ではアルバム「復讐の蠍団」でデビューしたスコーピオンズであったが、実は彼らのルーツは1965年までさかのぼる。
この年16歳のルドルフ・シェンカーがウォルフガング(ds)らとともに、ドイツのハノーバーで結成したバンドが最初のスコーピオンズの原型で、当時すでにスコーピオンズの名を名乗り、ルドルフはヴォーカル&ギターを担当していた。
一方、ルドルフの弟マイケルは69年頃からバンド活動を始め、いくつかのバンドを渡り歩くうちにクラウス・マイネと出逢うことになる。
そして、71年マイケルが当時加入していたバンド、コペルニクスの解散を受けてクラウスと共にルドルフ達と合流。こうしてスコーピオンズにデビュー当時のメンバーが揃った。
Rudolf Schenker ルドルフ・シェンカー/ギター、ヴォーカル
Michael Schenker マイケル・シェンカー/リード・ギター
Klaus Meine クラウス・マイネ/ヴォーカル
(*1st.アルバムのクレジットにはMeinerというスペルになっている)
Lothar Heimberg ローザー・ハインベルグ/ベース・ギター
Wolfgang Dziony ウォルフガング・ズィオニー/ドラムス

すぐに国内のレーベルとの契約を取りつけた彼らは、翌72年「恐怖の蠍団」でアルバム・デビュー。このアルバムは、プロデュースが後にウルトラヴォックスやディーボを手がけたコニー・プランクということもあって、その後の彼らのサウンドとはかなりかけ離れたもので、少々プログレっぽい。どちらかというと ユーライア・ヒープ などにも通じるようなものだ。マイケルもまだ自分のギター・スタイルが出来上がっていない感じで、かなり荒削りな弾き方が目立つ。しかし、まだ当時17歳(レコーディング時点では16歳)という事を考えると、すでにギターの腕前が世界レベルに達していたことは驚異的とも言える。
彼らは、このアルバムを発表後ドイツ国内をツアーして回るが、まだ無名であったことから、当然欧米の有名バンド達の前座をつとめていたのであった。そんな有名バンド達の中に UFO もいた。
そして、ある時UFOのツアーをいっしょに回っていた際、同バンドのミック・ボルトン(g)が突然失踪。急遽代役にマイケルが起用されるという事件が起こった。UFOのメンバー達はこの時のマイケルの演奏をとても気に入り、その後何人かの代役を立てたものの、結局1番気に入ったマイケルにバンド加入の要請をしてきた。
当時ロック後進国であるドイツから、まさか世界的なバンドが生まれるとは思えなかったので、すでにヨーロッパや日本で大きな人気を持っていたUFOへマイケルが加入することには、ルドルフや他のメンバー達も賛成し、快く彼を送り出すことになった。
これが、結果的にはマイケルだけでなくスコーピオンズ自体にとっても、非常に良い選択になろうとは、この時点では思いもしなかっただろう。
しかし、その後UFOで大活躍するマイケルよってスコーピオンズもクローズアップされ、共に世界のビッグスターになってゆくのだ。アルバム1枚のみのメンバーとはいえ、マイケルがスコーピオンズに残した功績は計り知れない。
もう1つマイケルはバンドに素晴らしい置き土産をしていった。それは、知り合いの凄腕ギタリスト、ウルリッヒ・ロートを自分の後任にと推薦していったことだ。もっとも、電話で直接マイケルから加入要請を受けたとき、ウルリッヒは一旦断ってはいるのだが、その後マイケルからその話を聞いていたルドルフからも強い要請を受け、クラウスをバンドに引き戻すことを条件に、スコーピオンズ加入を承知したということだ。(よくライナーなどにはオーディションで加入したと書いてあるが、これはウルリッヒ本人が後に語っていたことなので確かだろう。もしかしたら、一応形式上のオーディションもやったのかもしれないが・・・)
話は前後するが、マイケルが引き抜かれた後、スコーピオンズの方は次々とメンバーが脱退し、オリジナル・メンバーはルドルフ1人になっていたらしい。
ウルリッヒの加入は、スコーピオンズにとって、 ジミ・ヘンドリックス ばりの凄テク・ギタリストがいるという話題を提供しただけでなく、とても大きな意味を持っていた。
クラウスを引き戻したのも、ウルリッヒが早くからその名ヴォーカリストとしての資質を見抜いていたからに他ならないし、その後のスコーピオンズを世界的なスターへと導く足がかりを作ったのも、ほとんど彼の力によるところが大きいからだ。
74年になると、ルドルフとクラウスがオーディションにより他のメンバーも集め、新生スコーピオンズとも言うべき布陣でセカンド・アルバム「電撃の蠍団」をリリースした。第2期スコーピオンズとも言える、このときのメンバーは、
Rudolf Schenker ルドルフ・シェンカー/ギター、ヴォーカル
Ulrich Roth ウルリッヒ・ロート/リード・ギター、ヴォーカル
Klaus Meine クラウス・マイネ/リード・ヴォーカル
Francis Buchholz フランシス・ブッホルツ/ベース・ギター
Jurgen Rosenthal ヨルゲン・ローゼンタル/ドラムス
このセカンド・アルバムでは、ウルリッヒのギターを前面に押し出した、スピード感のあるハードロック・サウンドへ変貌を遂げたが、毛色の違うマイケル作の曲も数曲入っており、まだ独特のスコーピオンズ・サウンドは確立されていない。
とは言え、マイケルの曲もかなりの名曲で、すでにマイケルがコンポーザーとしても素晴らしい才能を発揮していたことが分かる。個人的にはかなり好きなアルバムだ。
この後ドラムが Rudy Lenners ルディ・レナーズ に代わり、75年にサード・アルバム「復讐の蠍団」をリリース。
ここで一気にウルリッヒの超絶ヘヴィ・ギターが炸裂!特に日本ではこのアルバムでデビューしたため、1曲目の「ダーク・レディ」を聞いただけでもうビックリ!!背筋がゾクゾクするほどカッコよかった。他にも名曲が目白押しで、サウンド面でも独特の重厚感を出すことに成功している。また、このアルバムからは「ロボット・マン」のシングル・ヒットも生まれ、彼らの知名度をヨーロッパ全土へ広める結果となった。
つづいて76年リリースしたアルバム「狂熱の蠍団」も大好評で「幻の肖像」(Pictured Life)がスマッシュ・ヒットした。だが、このあたりから、しだいにウルリッヒの ジミ・ヘンドリックス 崇拝志向が強まり、バンドとしてのまとまりが弱まってきた。ウルリッヒは自作の曲は自分で唄うようになり、明らかにルドルフやクラウスの作る曲とは違う曲調で、自分だけの世界を作り始めていた。
77年またもやドラムが交代し Harman Rarebell ハーマンズ・ラベル が加入すると、ウルリッヒのスタジオ録音最後のアルバム「暴虐の蠍団」を発表。前作につづいてジャケットが問題(テロ事件を連想させるとか・・・)となったこのアルバムからは、「スティーム・ロック・フィーバー」がヒットした。
翌78年には、このメンバーで初来日を果たし、その模様も同年2枚組のライブ・アルバム「蠍団爆発」としてリリースした。
このライブ・アルバムも素晴らしく、ウルリッヒのギター・プレイはスタジオ盤よりさらに熱く、クラウスの声も全てレコードと同じ高音域までを再現。いやがうえでも翌年にも予定された来日公演への期待が高まった。
そして、自分も関係者づたいに、その79年の中野サンプラザでの公演チケットを手に入れ(なんと前から5列目ぐらいの位置)、期待に胸を膨らませていたのだが、その前にウルリッヒは脱退していた・・・ショック・・・
しかし、79年早々にリリースされたアルバム「ラヴ・ドライヴ」には、なんとマイケル・シェンカーが復帰しているではないか!! しかも来日公演にもマイケルが同行するというので驚喜した!!
だが、コンサート当日中野サンプラザのステージにマイケルの姿はなかった・・・。直前にキャンセルされたのだ。UFOでの幾度かの失踪事件も耳にしていたので、そう驚くことでもないのだが、UFOとスコーピオンズ両方のファンであった自分にとってはかなり失望させられた。
実際は、ライナーなどに書いてある「ヤブスの働きで大成功を収めた」などという印象はまったくなく、はっきり言って魂の抜け殻のようなスコーピオンズといった印象だ。
唯一の収穫は、まだ慣れていないヤブスに代わり、ところどころルドルフが急遽リードを取る場面もあり、「ルドルフって、本当はこんなに上手かったんだ~」と感心させられたことだ。
常にマイケルとウルリッヒという天才ギタリストの陰に隠れてサイド・ギターになるしかなかったルドルフだが、もともとはギターもヴォーカルも1人でやってのける器用な人なのだ。まあ、マイケルと同じ血が流れているのだから上手くないわけはない・・・。しかし、このルドルフお兄さんはとても良い人柄で、常にマイケルを温かく見守り、「いつでも帰っておいで」といった感じで幾度となく精神的に異常をきたしたマイケルを快くスコーピオンズに迎え入れている。他のメンバーの意見もよく聞き、その人柄の良さのおかげでクラウス、ウルリッヒ、ヤブスなど有能な人材を獲得することが出来たとも言えよう。バンド内でも常に出過ぎることなく、正確に単調なリズム・ギターを刻み、リード・ギターやヴォーカルを引き立たせることに徹している。だが、必要とあらば、いつでもリード・ギターの代わりとなり、ヴォーカルの代わりもできる、なんとも頼もしいお兄さんなのですよ。






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Last updated  Jun 9, 2009 11:57:57 PM
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