Nonsense Story

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ポケットの秘密 7




 家に帰ると母の姿がなかった。雨が降っているのに何処に行ってしまったのだろうと思いながら、キッチンへ向かう。
 キッチンの床には無数のビールの空き缶が転がっていた。私は不吉なものを感じながらも、缶を拾って流しへ並べた。電気も付けず、薄暗い中で雨音を聞きながら缶を拾っていると、チャイムが鳴った。
 玄関の鍵を開けると、青い顔をした母と一緒に叔父が立っていた。母の弟にあたる人だった。
「叔父さんどうしたの? 急に」
 叔父は九州で暮らしている。ここから簡単に日帰りできるような距離ではない。最近よく母に電話をしてきていたようだけど、ここへ訪ねてくるという話でも出ていたのだろうか。
「出張で一週間くらいこっちにいることになったんだ。それで今日ここへ来てみたら、お母さんが台所で倒れていてね。慌てて病院に連れて行って、さっき検査してきたんだけど、肝臓をやられてるかもしれないって。詳しい結果は三日後くらいじゃないと出ないようなんだが」
 母を寝室に寝かせると、居間へ移動して叔父が説明してくれた。
「そう。ごめんね、叔父さんにまで迷惑かけちゃって」
 叔父がソファに身を沈めたのを見計らって、私は言った。努めて明るく聞こえるように。
「いや、迷惑なんて思わなくていい。それより、かなり弱ってるみたいだし、真剣に考えてみてくれないかな?」
「考えるって何を?」
「お母さんからは何も聞いてないかい?」
 叔父は驚いた顔をした。私は頷いてお茶を淹れた。
「そうか。姉さんは何も言ってないのか。決心がつかないのかもしれないな」
「何の決心?」
 叔父は一口お茶を啜ってから答えた。
「・・・・・・離婚のだよ」
 今更驚くような単語ではなかったけど、私は少し眼を見開いて見せた。叔父は気の毒そうに私を見ると、励ますように笑顔を作った。
「離婚して、うちに来るように姉さんに言ってたんだ。どうしても嫌なら離婚までしなくてもいい。でも、うちで一緒に暮らすことを考えようって。姉さんとおまえ達だけで暮らしていくには、今の姉さんの精神状態じゃ無理があると思ってね。幸いうちの子供たちはもう独立しちゃって家にはいないし、窮屈な思いはさせなくて済むと思うんだ」
 叔父はうちの事情を全て知っていた。その上で、いろいろと考えてくれていたのだろう。
「それって、私も一緒に九州へ行くってこと?」
「そうだよ。転校するのは嫌かい?」
 一瞬、彼の顔が浮かんだ。
「友達と離れるのは嫌に決まってるか。だけど、お母さん一人でうちに来させるのは、少し心配だと思うんだ」
 叔父は優しい目を私に向け、諭すようにゆっくりと言った。
「お母さんと一緒によく考えてみる」
 叔父の好意に、反対することなどできるはずがなかった。
 居間のガラス窓を、雨が激しく叩いていた。


 覚えてない。
 彼はそう言った。靴泥棒を見た翌日には、もうすっかり忘れていたと。
 中学の時、焼却炉の前で彼の言った言葉を思い出す。
 俺はどうでもいいから。
 それでも今日までは、二人になれば本当のことを話してくれるのではないかと思っていた。でも、そんなことはなかった。
 守られていたんじゃない。許されていたんじゃない。彼は本当にどうでも良かったのだ。
 クラスメートの靴を探していても、犯人に興味などなかった。被害が拡大するかもしれないことや、自分に火の粉が降りかかるかもしれないことを考えていなかったのかもしれない。彼にとってはそれさえもどうでもいいことだったのかもしれない。
 あの視線。何の感情もこもっていないかのような無表情な視線。あの中に軽蔑や憐れみがなかったのは、何も覚えていなかったからにすぎなかった。
 そういう人だったのだ。もともと感情の希薄な人で、他人をかばおうなんて考えは微塵もない。なのに、この期に及んでまだ彼と遠く離れることに不安を覚える自分がいることに驚いていた。
 どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。言わなければよかった。彼が去った後で激しい後悔に襲われたけれど、後の祭りだった。
 私は彼が好きなのだろうか。心の支えであることは確かだった。いつも心のどこかで彼を追っていた。
 赤松さんを羨む気持ちもあったけど、私にはあの思い出があるから特別だと思っていたのかもしれない。
 一番ショックだったのは、あの日、犯人に会ったことすら現実かどうか分からないと言われたことだった。
 彼は私のことなどきれいに忘れていた。




 消えた靴が返ってきた。
 その情報を教えてくれたのは、前の席の男子生徒だった。
「今朝、昇降口に盗まれてた靴が並べてあったんだってさ」
 朝の喧騒の中、彼はぼくの方へ体を捻って興奮気味に話した。
「全員の分が?」
「いや、そういうわけじゃないけど、この間の子のは返って来てたらしい。でも、返ってきた靴もほとんどがドロドロになってて、もう使い物にならないって」
「そりゃ気の毒に」
 そんな話をした日の放課後、借りていた英語のノートを返しに赤松のクラスへ行くと、藤田が抱きついてきた。
「俺のナイキがああああああ」
「うわっ。なんだよ、急に」
「俺のナイキが消えたんだよぉ」
 藤田はぼくに抱きついたまま、半泣き状態の情けない声で訴えた。なんでも、あの高価な陸上用のスニーカーをとうとう盗まれてしまったらしい。
「気持ちは分かったけど、暑苦しいから離れろ」
 ぼくは藤田を突き放した。そんなぼく達を見ていた人間が、くすくす笑っている。
「笑い事じゃない! 一大事なんだぞ!」
 いや、この場合笑われても仕方ないだろう、と思いつつ、興奮する藤田をなだめる。
 笑っていた彼らも藤田の靴紛失騒動に散々付き合わされていたらしく、少し気の毒そうな、それでいて助かったという目をぼくに向けて、教室を去っていった。
 ぼくは藤田に状況を説明するよう促した。
「前にも言ったけど、靴の紛失が続いてたから、あれは教室のロッカーに置いてたんだ」
 赤松や藤田の教室は、定時制でも使用されている為、一人に一つずつロッカーが用意されていた。しかし鍵などは取り付けられてはいないので、中身を取り出すことは誰にでも可能である。
「それを知ってた人間はどれくらいいる?」
「分からん。別に言いふらしてたわけでもないけど、こそこそ隠してたわけでもないからな。盗られるのは下駄箱の靴だけだと思ってたからさ。定時制の生徒が犯人だって噂だったから昼間は安全だと思ってたし、夜は毎日持ち帰ってたし」
 たしかに、下駄箱以外の場所にある靴を盗まれたという話は聞いたことがなかった。昼間にうちのクラスの靴が盗まれたことについては、彼は知らなかったらしい。
「それが、さっき体育が終わって教室に帰ってきたら消えてたんだ」
 藤田はあのスニーカーを部活専用にしていた。通学や体育の時は、別の靴を履いていたようだ。
「今朝聞いた話だと靴が戻ってくる現象も起きてるみたいだから、もう少し探しながら待ってみろよ」
 ただしボロボロの状態でだけどな、と口に出さずに付け加える。
「とりあえず、これから部活なんだろ? 行かなくていいのか?」
「でも靴が・・・・・・」
「明日の放課後にでも一緒に探してやるから、今日は通学用ので我慢しろよ」
 面倒だが、今はこうでも言わないと解放してもらえそうにない。彼はしぶしぶぼくから離れた。普段のふんぞり返ったような態度の彼からは考えられないほど、しょげ返っている。
「そういえば赤松知らない?」
 ぼくは、肩を落として部活へ向かおうとしていた藤田に訊いた。
 さっきから教室内に姿が見えないのだ。ぼくは藤田ではなく彼女に用があるというのに。
「俺の靴より赤松さんの方が大事なのかよ」
 当たり前だ。
「俺、あいつにノート借りてたんだよ。靴は明日探してやるってば」
「もう帰ったんじゃない? ホームルーム終わった時にはもういなかったと思う」
 後ろから声がして振り向くと、田口加奈子がいた。ぼくは先日の彼女とのやりとりを思い出し、どう接したものかと一瞬戸惑ったが、彼女はごく普通の知人と会った時のような顔をしている。
「それより瑞葉見なかった? あの子、体育休んだのにホームルームの時もいなかったのよね」
「杉本さん? そういや、いなかったな」
 藤田も同意する。田口は至っていつもどおりだったが、ぼくは居心地の悪さを感じた。彼女の足元を見て答える。
「俺は見てないけど」
「そう。荷物はあるから帰ってはいないわね。ちょっとそこら辺探してみる」
 田口は自分の荷物も杉本のものらしい机に置いて、教室を出て行った。
 なんとなく、二人で彼女の後姿を見送る。彼女の白く細い足がドアの向こうに消えると、藤田がまたぼくに顔を寄せてきた。
「田口さんって最近、雰囲気変わったと思わないか?」
 教室には他に残っている人間もいないのに、藤田は何故か小声だ。
「ああ、スカート丈のせいじゃない?」
「スカート?」
「うん。少し前までは膝下まであるスカート穿いてたのに、今日は膝上になってた」
 ぼくは、自販機にもたれかかり、自分のスカートの裾を見つめていた田口を思い出しながら言った。先ほどの彼女は、膝頭が丸見えのスカートを着用していたのだ。
「お前、よく見てるな」
 藤田が「そんなもんに興味を示す暇があるなら陸上部へ入れ」と言わんばかりの視線を向けてくる。ぼくが何も言わないでいると、彼は「田口さん、何か心境の変化でもあったのか?」と言い、「好きな男でもできたかな」と勝手に推測していた。
「単に暑くなってきたからじゃない?」
 ぼくが彼の一人問答に割り込むと、
「お前のキャラってよく分からん」
 と、意味不明な返事がかえってきた。ぼくは、そのセリフをそっくりそのまま藤田に返した。
 彼は最後に「絶対明日、探すの手伝えよ」と言い残し、やっと教室を出て行った。「くれよ」とか「ください」とか言えないのかね、まったく。
 ぼくは田口の発言にヒントを得て、赤松の荷物を確認した。結果、彼女は犬のタカヨシに『お裾分け』に行っているらしいと判断した。鞄などはそっくり残っているのに、弁当袋だけが消えていたのだ。


つづく



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