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17話 【Sea Change!】
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17話 (―) 【Sea Change!】
ゴールデンウィークはあっという間に過ぎ、6月に入っていた。
気象予報士は『東海地方の梅雨入りは例年より遅くなる見込みです』と告げ、農家の人々は作物の実りに悪影響を及ぼす連日の青天を憂いていた。
(農家の人には申し訳ないけれど、今日と明日は雨に降られて欲しくないな)
どう見ても枯渇している畝を横目に、潮透子は大きめのPUMAバッグを肩に掛け直し、チクリと痛む胸を心の隅に追いやった。
そう、せめて今日から明日にかけては晴れていて欲しい。
(雨に降られたら楽しみが減っちゃう。私たちの楽しみを奪わないで)
なぜなら大型スーパーマーケット、ユナイソンネトナゴヤ店に属する従業員にとっては待望のイベントが待っているからだ。
透子は空を仰ぎ、東に昇った太陽を遮る雲の群れを睨んだ。
まるで太陽の為のボディガード。太陽との面会を拒むかのように、鉛色の雲たちが次々と流れて行く。
*
「おはようございます、透子先輩」
POSルームに入るなり淑やかな笑顔と挨拶を向けたのは、既に勤務体制に入っていた千早歴だった。透子を見るなり彼女は目を丸くした。
「透子先輩! 髪、切られたんですね」
艶めいた黒髪を結わえている歴に対し、ユル巻きブラウンヘアだった透子は焦げ茶色に染め直し、肩下まで切り落としていた。
「凄くお似合いです! 今までも可愛かったですけど、ぐっと大人びて見えます。美人さん……」
お世辞のような言葉でも、染めた頬や潤んだ瞳で切々と語られては、『イメチェン成功かな?』と自惚れなくもない透子である。
「……ありがとう。最近、梅雨前だって言うのに真夏のように暑かったじゃない? 鬱陶しかったから切ったの」
照れながら言うが、建て前を述べたに過ぎない。本音はイメチェンであり、それについては黙秘を決め込む。だって、何だか言いづらい。
「おはよう」
次いで入って来たのは八女芙蓉。入室早々、ルイ・ヴィトン・ボストンバッグの置き場所を探しあぐねていた。
「あなたたち、荷物はどこに置いたの?」
「ロッカーに押し込みました」とは透子の弁。
「入口に臨時の預かり所があったので、私はそこに」と歴が言うものだから、芙蓉と透子はそんなのあったかしら? と首を傾げ合う。
次の瞬間、2人は部屋を出て、今日1番大切な荷物を最適な場所へと移動しに行った。
就業時間を意識しつつも、残念ながら芙蓉たちは就業時間に間に合わず、歴が1人で仕事を進めていた。
3分遅れで戻って来た2人は書類ケースから入力依頼書を取り出し、個人デスクに座った。作業をしながら芙蓉が言う。
「千早、遅れてごめんなさい。まさかあんなに目立つものを素通りしていたなんて」
「右に同じですよ。ごめん、千早さん。置くスペースがなくて難儀してたの。参加者結構いるみたいでビックリ」
参加者という言葉を聞いて、歴の顔がわずかに強張った。
自分で口走っておきながら、1人勝手にダメージを受けた透子も然りだ。失言を悔いても仕方がない。気まずい沈黙が横たわる。
旅行自体は楽しみだ。だが参加者の中には、微妙な関係になってしまった男性がいるので内心穏やかではない。
歴と透子の沈んだ顔を見て、芙蓉がアラアラと溜息をついた。彼女たちに覇気がなければ、こっちまでツマラナイではないか。
芙蓉はPC画面の時計に視線を走らせる。5時間後に控えた行事を前に、前途多難を覚悟しておくべきなのかもしれない。
*
13時15分。
バックヤードから従業員出入り口を目指していた平塚は、自分の前を歩く柾と犬君の姿を見付けた。
平塚と同じ、白の半袖カッターシャツを纏っていた2人は会話をしながら黒のスラックスを穿いた足を進めている。
目的地は一緒のはずだ。このまま出入り口へと向かい、横付けされた貸切バスへ乗り込むに違いない。
小走りに近付き、右腕を柾の肩、左肩を犬君の肩に回し「やっほ~です★」と挨拶するも、「ウザい」の二重奏が返ってくるのみ。
「も~、ツレないな~!」
「不平を言いたいのは僕の方だ」
「まぁまぁ。楽しく行こうぜ~。なんてったって今日は、楽しい楽しい社内旅行ーっ。ですから!」
正確には『しゃないりょこーッ★』と弾みをつけた発音で、平塚は2人に回した腕に、より一層力を加えて抱き寄せる。
「今年は社員の意見を反映して1泊2日の宿泊旅行になったんですからね! ほらほら御両人、ちゃんと用意してきましたか~?」
「用意って、お前……」
浮かれる平塚に、犬君は溜息を漏らした。黒縁の眼鏡を押し上げながら呆れ顔で窘めるも、舞い上がる平塚の前では無力に等しい。
「もちろん持って来てますよね? あ、忘れたなら俺に言って下さい。数は足りると思うん、痛てー!」
勢いよく蹴られた背中をさすりながら振り向いた平塚はこの世の地獄を見た。般若だ。般若が立っている。
「用意とは何の話だい、平塚君?」
「お前ー。柾に何を勧めようとしてるんだー?」
「うわ、麻生さん……千早事務長」
さて、果たして自分に強烈なミドルキックを食らわせたのはどちらだろう?
考えたところでどちらでも同じに違いない。堅物な聖人君子という意味では、麻生も凪もいい勝負だ。
痛む背中に手を添えながら、平塚は苦し紛れに嘘をつく。
「や、やだなぁ。ビールですよ。宴会にアルコールは付き物でしょ?」
「どうして酒類を持って行く必要が? 今日は年に1度の無礼講。お酒ならふんだんに振る舞うと通達しておいたろう?」
顔の雰囲気こそ妹の歴に似ているものの、今の凪にその片鱗は見受けられない。
真剣に怒った歴も、凪のような冷徹な顔をするだろうか。いや、微笑む歴からそんな想像をするのは土台ムリな話である。
とはいえ、凪が釘を刺した相手は平塚ではなく柾だった。
「いいか、歴には近付くなよ。言ってる意味は分かるな?」
「やれやれ。保護者付きの社内旅行とはな。笑わせてくれる」
柾はしれっと受け流すと、入り口に預けてあったバッグの山から自分の分を取り出し、さっさと歩き出した。
が、観音扉に手をかけたところでふと足を止め、その形のいい唇の端を僅かに上げる。凪に対し、壮絶な笑みを向けることも忘れない。
「だが……そうだな。確かに僕を監視下に置いておいた方がいい。その点は否定しない」
それは牽制だった。想い人の実兄に向かって放たれた、愛妹への夜這い宣言。絶句した凪は、ただただ柾の後ろ姿を見送るのみ。
「おっとこれは……発破を掛けられた気がする」
やり取りを見ていた犬君が呟き、一方で麻生は頭痛に苛まれてしまったのか、米神を押さえている。
柾の動向が分かったところで、では自分はどのように動くべきか。そもそも動くべきではないのだろうか。
(ったく、柾は……。相変わらずこの手のゲームを仕掛けるのが板についてやがる。それにしても、ちぃは大変だなぁ)
このままでは兄から終始監視されるだろうし、柾からは何かしらのアクションがあるとみて間違いないだろう。
歴がのびのびと旅行を楽しめるとは到底思えない。
持ち物検査に怯える平塚、呆然と立ち尽くす凪、思案に耽る犬君、タイミングを窺う柾、胸をざわめかせる麻生。
様々な思いを乗せたバスの出発まで、あと僅か。
*
ユナイソンネオナゴヤ店の従業員30名を乗せたバスは、14時きっかりに従業員駐車場の砂利道からゆっくりと北上して行った。
1泊2日ということで、旅行参加者は5時間の勤務を経てからの出発となる。
社員旅行の候補地には、比較的近い温泉地である岐阜県の下呂温泉が選ばれた。
とは言え、高速道路経由でも2時間はかかる道のりだ。渋滞予測とトイレ休憩を加味すれば、下呂到着は16時半くらいになるだろう。
荷物の積み降ろし作業やチェックイン、軽い打ち合わせなどを含め、宴会開始は19時の予定になっていた。
それらを踏まえて参加者を募ったところ、これが意外にも大好評。とても1台のバスに収まりきらなかった。希望者は3倍近くに上った。
『3台100人』案が挙がったものの、翌日の営業に穴を開けるわけにはいかないという理由で呆気なく絶ち消えた。
業務に支障をきたす恐れがあるため、旅行参加者は日を跨いで第1陣から第3陣と全3回に分けられる運びとなった。
ドライ売場の犬君と青柳は同じ日を選べなかったし、芙蓉は馬渕とは行けても香椎や黛とは日程が合わず、別々になってしまった。
「それなのに、POSが全員同じ日を選べたのはどうしてなんだ?」
バスに乗り込む際、数珠つなぎの順番待ちをしていた柾は、自分の前に並んでいた芙蓉に尋ねる。
芙蓉はイタズラ猫のような視線を柾に向けると、口元に妖艶な笑みを浮かべた。
「システムがバージョンアップするの。その動作を確認するために、情報システム部がPOS業務を担ってくれることになったのよ」
「しかし、1人ぐらい付いていなくてよかったのか?」
「ダメ元で『いなくても大丈夫だったりする?』って訊いたら『大丈夫』って請け負ってくれたから、お言葉に甘えたの」
「その美貌が憎いな」
「お世辞でも嬉しいわ、柾さん」
はたから見れば、駆け引きを楽しむ男女の姿に見えなくもない。
「杣庄ー。あんたの八女サンが他の男性に色目使ってるわよー」
芙蓉の前に並んでいた透子が宿泊先のパンフレットを眺めながらスパイ紛いの密告をするが、声が小さいため肝心の杣庄まで届かない。
「潮……恐ろしい子!」
「……? なんですかそれ」
「あら、知らない? 『ガラスの仮面』。マヤ……恐ろしい子! って」
「すみません、知りません」
そんなやり取りを交えながら、全員がバスに乗り込む。
指揮を執るのは幹事役の凪だ。素早く点呼を済ませると1番前の席に座る。
華やかなバスガイドが隣りに座ったことでブーイングが起きたが、当の凪はそれどころではない。柾と歴の件が目下最重要課題なのだから。
幸い、柾、麻生、五十嵐の最後尾に座っていた。その前に犬君と平塚が座り、芙蓉と馬渕の列を経て、歴と透子が座っている。
直接隣り合ったり前後になったりしていない分、凪は少しだけ安堵していた。
それでも監視を緩めたりはしない。なにせ、相手は『隙あらば』が信条の柾なのだから。
一方で歴は、柾たちと距離を置けたことにホッとしていた。2人を見ると児玉絹の言葉を思い出してしまう。意識せずにいられない。
(柾さんと麻生さんが私を?)
同じ疑問がずっと頭の中でループしている。今にも知恵熱が出てしまいそうだ。
(あれは絹さんの冗談よね? そもそも絹さんの能力はどれほど正確なんだろう……)
大好きな絹をインチキ呼ばわりしたくはない。となると、絹の言い分を信じざるを得なくて。
(そうなると、柾さんと麻生さんが私を……ってことに……わわわわ!)
堂々巡りの難題から逃れるため、頭を振って思考を絶ち切った。
(そうだ! 隣りに座っている透子先輩と会話をしていれば、気分も紛れるに違いないわ)
そう思い、通路側の透子に声をかけてみたものの返事はない。
遠慮がちに覗きこむと、肘宛てに左肘をのせて頬杖をつき、視線を右斜め前へと向けていた。
「……透子先輩? 杣庄さんに用でも?」
その名前には反応した。透子はぎょっとしながら歴を見る。「な、なに!?」
「あのぅ、それはこちらのセリフです」
上目遣いで不平を漏らす歴に、透子は下唇を噛む。
「人の視線の先を辿るなんて、最低よ」
辛辣な言葉だったが、透子の口の悪さにはすっかり慣れてしまっている歴である。
「だって、透子先輩とお話ししたいんです、私」
「あーもー知らないわよそんなこと!」
「とぉーこせんぱぁーい!」
「なんなのよ、なんで私なんかに懐くのよ!? 可愛がった覚えなんてないのに!」
ツンデレ気質とはいえ、潮家では長女の役割を果たしてきた透子である。
文句を言いつつもフォローを忘れない性格のため、頼もしがられているのだが、本人にはその理由が全く分からない。
逆に蝶よ花よと溺愛気味に育てられてきた歴は、しっかり叱ってくれる年上に飢えていた。透子に懐くのは自然の成り行きかもしれない。
「別に杣庄を見てたワケじゃないったら!」
「でも、じーっと見てました」
「違うったら! 何で私が杣庄を!? な・ん・で・わ・た・し・が・杣庄なんかを!?」
「でも……」
「しつこい! 杣庄じゃない!」
そう、それは本心だ。決して杣庄を見ていたわけではない。ないのだが……。
その奥側に座っている伊神を見ようとしていた、なんていうことは。
(口が裂けても……言えない!)
*
「何で私が杣庄を!? な・ん・で・わ・た・し・が・杣庄なんかを!?」
その言葉を聞いた杣庄は、思わず口に含んでいた緑茶を吹き出した。最悪の瞬間に聞いた、最悪の文言。
杣庄の隣り、窓際側に座っていた伊神は、むせる杣庄に気付くや「大丈夫?」と尋ねながらハンカチを差し出した。
ハンカチを受け取ると口元を拭い、呼吸を整える。
「っけへ……。ぅあ、りがとうございます……」
(あ、あいつ……なんつー会話してやがんだ……!)
大方、隣りに座っている伊神を見ようとしていたに違いない。耳を澄ませば歴と「ああでもないこうでもない」と押し問答。
「伊神さん、今の……」
「今の?」
「聞こえてました?」
「ごめん、仕事のことで碩人にメッセージ送ってて、そっちに夢中になってたから……。何かあったのかい?」
そう答える伊神の手にはスマホが収まっている。ありがたいことに、伊神の耳には無粋なやり取りが聞こえていなかったようだ。
「ハンカチは洗ってお返します」と伊神に詫びると、杣庄は居住いを正す。
(つーか……なぁ、透子。お前はいつまでそうやって逃げ続けるつもりだ?)
狭い空間の中、足を組み換える。
その時、杣庄は妙案を思い付いた。それが吉とでるか凶と出るかは分からない。博打に似た荒療治になる可能性は高い。
(だが生憎と、俺も気が長い方じゃないんだ)
ジャケットから行程表を取り出すと、ざっと目を通し、計画に最適な場所とタイミングを弾き出した。
(いつ第二、第三の都築が現れるか分からねぇ。それに、この旅行には厄介な不破もいやがるしな。だから透子、賭けさせて貰うぜ)
仕掛けるならここしかない、と杣庄は1点を注視した。閃いた計画は至極単純なもので、だからこそリスクを冒す危険性も低かった。
あとから透子に二言三言言われるかもしれないが、それでもいいさと杣庄は思う。動く気配のない透子を動かすことが狙いなのだから。
このときバスは名古屋都心環状線を走っていた。これから複数のJCTをパスし、名神高速道路、東海北陸自動車道と進んで行く。
その後、郡上八幡I.Cで下り、せせらぎ街道と益田街道をひたすら走るルートだ。
杣庄が目を付けたのは1回目の休憩所――川島PA。
*
川島PAはアミューズメントパークと言っても過言ではない。隣接する川島ハイウェイオアシスには淡水魚水族館もあれば、観覧車もある。
子供向きの施設かと思いきや、SNS映えするおしゃれなスイーツも販売しており、施設内は活気に満ちていた。
かくいう透子も早速爽やかなベリージェラートを買い求め、舌鼓を打つ。歴はバニラの濃厚さを堪能した。
透子と歴は出発時刻の2分前にバスへと戻った。既にバスに乗り込む列が出来ており、譲り合っている内に2人が最後の搭乗者になった。
先程と同様、歴が窓際に座り、透子が通路側に座った。……否、座るはずだった。
透子が座る直前、手首を掴まれた。凄まじい力で引っ張られ、気付いた時には声を出すタイミングを逃していた。
唖然としながらも現状の把握だけはしておきたくて、狼藉を働いた人物を振り返る。そこには自分を正面から見据えた杣庄の硬い顔があった。
一体どういうつもりと、わなないた透子の全身が尋ねている。杣庄は透子を引き寄せると耳元に唇を寄せ、「俺と代われ」とだけ短く囁く。
その言葉の意味を咀嚼しようにも、杣庄の行動の方が早くて後手後手に回ってしまう。
次の瞬間には杣庄の座席だった椅子に押し込まれ、当の本人は透子の座席にどかりと腰を下ろしてしまっていた。
(杣庄の席? 嘘、そんな……! だって隣りは……)
「杣庄、待っ……」
「千早さん、急にワリィ。下呂まで俺で我慢してくんねぇか?」
杣庄は顔の前で手刀を切ると、心の底から申し訳なさそうに歴に詫びた。
隣りに杣庄が座ろうが、歴は一向に構わない。それは別にいいのだ。問題は、透子が嫌がっていないかどうか。それだけで。
透子を見ると、すがるように歴を見返していた。その瞳が語っている。『嫌じゃないの、でもどうしたらいいの?』と。
「……私、友達として不破さんが好きなんです。だから不破さんの恋を応援してあげたい」
歴は杣庄の目を見ながら、声のボリュームを落として自分の気持ちを素直に伝えた。
「……あぁ」
驚いたことに、杣庄はただ優しく頷いただけだった。歴は唾を飲み込むと、迷っていた言葉も口に出してみた。
杣庄なら、ちゃんと聞いてくれるに違いない。受け止め、理解してくれるはずだ。
「透子先輩も好きなんです! 透子先輩にも幸せになって欲しい。透子先輩の恋も応援したい」
「分かるよ」
「私……透子先輩が今でも伊神さんを想っている気がしてならないんです」
「千早さんは、どっちの恋を応援する?」
「伊神さんを知らないんです。今まで話したこともありませんし……。
でも、透子先輩も芙蓉先輩も、もちろん杣庄さんも、すごく伊神さんを慕ってますよね? だから、とてもいい人なんだろうなと……」
「あぁ。いい人だよ、伊神さんは」
「透子先輩が伊神さんと向き合うチャンスがあってもいいと……私は思います」
「――だよな」
きっぱり言い切った歴に、杣庄はふっと微笑んだ。
透子は困惑顔を2人に向けていたが、杣庄が意味ありげに顎をしゃくるのを見て、覚悟を決めたようだった。
*
(あああああああの馬鹿! 杣庄のアホナス! な、な……なんてことしてくれたのよ~~~~!)
発車寸前のバス内で、座席を奪われた。
それだけならいざ知らず、代わりに宛がわれた席はなんと伊神の隣りである。
杣庄の悪知恵には舌を巻くやら腹立たしいやら口惜しいやらで、透子はパニック状態。
唯一の頼みは歴による反論だったが、その望みもあっという間に潰えてしまった。変なところで気を回すのだから始末に負えない。
斜め後ろを振り返れば、『頑張れ』とでも言いたげに顎をしゃくる杣庄の姿。
(コクッじゃないわよ! なにそれ、全然意味が分っかんないんだけど!)
悪足掻きをするために立ち上がりかけたが、無情にもバスは動き出してしまった。
杣庄は左指を動かして、ジェスチャーで「→(右を向け)」と指示を送る。
腹を括った透子は、それでものろのろと時間をかけてシートベルトを着用し、恐る恐る伊神の方へと視線を持って行った。
伊神は驚いた顔で透子を見ていた。どうやら杣庄の行動に度肝を抜かれた点では、伊神も同じだったようだ。
「透子ちゃん……」
掠れた声で、伊神は8ヶ月振りに透子の名を呼ぶ。
「う……あ……その……え、っと……」
透子は言葉に窮しながら視線を外した。まずい対応だったと後悔してももう遅い。
伊神も透子の名前を呟いてからはなかなか次の言葉が出せないようで、お互いに体感時間の長さを痛感していた。
それでもやはり、伊神は優しかった。伊神は伊神らしい言葉を重ねてゆく。つい昨日も会話したみたいに。
「久し振りだね。元気だった?」
透子は俯いたまま、大きくコクンと頷いた。続けてもう1回、今度は小さく。
「そう。……よかった」
安堵に満ちたその声に、透子の胸は痛いほど締め付けられた。
(隣りに伊神さんがいる。伊神さんと会話してる。どうしよう、私)
それだけのことなのに、こんなに嬉しいなんて。
*
(まるで借りてきた猫だな)
この距離でも十分に分かる。頬を染めた透子の顔が。
(あれが常日頃、不破犬君を相手に怒鳴り続けてきた女性と同一人物だなんて誰が思う? すっかり恋する女の顔だぜ)
杣庄は、歴の右腕をトントンと指先で叩く。
「まずは、いい塩梅」
不安を抱いていた歴が、その知らせを聞いて顔を綻ばす。
*
伊神に訊ねたい質問が、幾つか。
沈黙が横たわる中、透子は意を決して蚊の鳴くような小さな声で訊ねた。
「私がキスしたこと、怒ってる?」
既に8ヶ月も前のことだ。――8ヶ月! そんなに長いあいだ放置していたのかと、透子は青ざめる。いつだって伊神は同じ建物の中にいたのに。
それを言うなら伊神もなのだが、肝心の透子が伊神を避けてしまっていては、それも無理からぬ話。
うつむく透子に伊神の表情を知るすべはない。怖くて恥ずかしくて、顔などとてもではないが上げれない。
嘘をつかないのが伊神十御という男だった。
伊神が告げた言葉を疑う必要も、理由もない。本心から物を言うから、その言葉には重みがあり、説得力がある。
彼の誠実さは誰もが知るところで、だからこそ彼の口から『否定されること』と『答えをきくこと』を恐れた。優しい彼に見放されたくなかったから。
「怒ってないよ。全然怒ってない」
柔らかい口調、言い聞かすような話し方。胸を撫で下ろす。それは欲しかった言葉の1つ。
それを聞けただけでも、勇気を出した甲斐があった。勢いに乗れとばかりに、さらに聞きにくい質問へとシフトさせた。
「迷惑だった? 困らせたよね、きっと」
「迷惑だなんて……。オレに話しかけにくかった?」
伊神は気遣わしげに透子を見るが、どんな言葉が返ってこようと、まともに向き合えるはずもなく、透子はまだ俯いてしまっている。
「だって勝手にキスしちゃったし、気付いたら公衆の面前だったし……。その……ごめんなさい」
「謝らないで透子ちゃん。謝らないといけないのはオレの方だよ。
あの時はイレギュラーな出来事が次々と起きてしまって、情けない話だけど驚く暇もなくて。オレがハッキリしなかったせいで透子ちゃんを悩ませてしまった」
物事が一気に動き出した気がして、思わず透子は顔を上げた。透子の怯えた目と、伊神の優しい目が交差する。
「透子ちゃんのこと、今の今まで杣庄君に頼りっ放しで、そのことに関しても申し訳ないと思ってるんだ。
彼はずっと八女さんが好きだったのに、オレのエゴで香港にいる間じゅう縛り付けてしまった。せめてもの救いは、彼の想いが無事彼女に伝わったことかな……」
その想いは透子も同じだ。大事な人たちだからこそ幸せになって欲しいと願うし、祝福もしたい。
(その先は? 私のことは、どう思ってるの?)
「……どこまでも卑怯だね、オレって」
卑怯ってどういう意味? それってつまり、どういうこと?
「この期に及んで、透子ちゃんからの出方を待ってるなんて……。八女さんと杣庄君に知られたら、こぶしで殴られてしまうかな」
(やめて、言わないで)――だって、もう引き返せなくなる。
(イヤ、伊神さんの声をもっと聞いていたい)――だって、あまりにも心地いいから。
混乱。混乱。押し寄せる不安。高まる期待。6月のバスの中。パニック。パニック。パニック。時間よ止まれ。
「今度こそ、ちゃんと伝えるよ」
鼓動。鼓動。心臓の鼓動。震え。怯え。
怖い。怖い。助けて伊神さん。違う、貴方はだって、ここにいる。隣りにいる。
「これからは、オレが透子ちゃんを守るよ」
スカートの生地を固く握り締めた透子の拳を包み込む、人肌温かい伊神の手。
それはとても伊神らしい丁寧な動作。それでも、その武骨な手は明らかに異性のものだった。
透子は改めて意識する。『伊神は男であり、自分は女である』。そんな、当たり前の事実を。
*
動揺する透子をよそに、遠回しな愛の告白を遂げたばかりの伊神は言いにくそうに照れ笑い。
「守るよっていうのは偉そうな物言いだよね。ごめん。ニュアンス的には『守らせて欲しい、見守り続けて行きたい』と言いたかったんだけど――」
語尾が途切れたのには理由があった。
ただでさえ些細な出来事で泣いてしまう透子である。ここで泣かないわけがない。落ちる水滴を拭うでもなく、透子は伊神をまっすぐ見つめていた。
その反応には不意を突かれてしまったが、そんな透子だからこそ、伊神は彼女が愛おしく思えて仕方がない。
人に伝えることが不得手だった透子。でもそこが人間臭くて好感が持てた。泣くというストレートな行動そのものが感情を代弁していた。
「ビックリさせてしまったね。ごめんよ」
ハンカチは先ほど杣庄に渡してしまっていた。伊神は己の指の腹部分を使って、透子の目尻に溜まった涙を拭い去る。何度も、何度も。
「……聞きたい」
「何を?」と優しく尋ねる伊神。彼女の願いならば、それが自分に叶えられるものならば、叶えて行きたい。可能な限り。
「ちゃんと言って欲しい。伊神さんの口から、伊神さんの本心を、伊神さんの言葉でしっかり聞きたい。私を異性として、どう思っているのか」
2人の想いは過去に一度実ったと思った。だが結局、それは目敏い害虫によって蝕まれてしまった。今や2人を遮るものは何もない。
「ここはムードに欠けてる気がするけど……構わないかい?」
「ムードなんて、そんなのどうでも良い。伊神さんがいる。それだけで私、かなりヤバい状態」
顔を真っ赤に染めて言い切る透子に、伊神は微笑む。
誠実な彼らしく、身体を僅かに捩り、真正面から透子の顔を見据え、柔らかい声で愛の言葉を紡ぎ始めた。
「オレは、透子ちゃんが好きです。どうかオレの隣りにいて下さい」
およそ告白には不向きな場所で、これまたムードに欠けた透子の涙腺崩壊。ぽとぽととスカートに染みを作ってゆく。もはや伊神の指では追い付かない。
「隣りにって……やだ、ちゃんと言ってくれなきゃ……」
透子が意固地になるのも無理はない。なぜなら、遠回しな言葉では理解できないから。今の、完全にパニクってしまった状態では。
伊神は虚を衝かれたかのように、一瞬だが言葉を失う。もっと噛み砕くとなると……どういう表現になるのだろう?
こと恋愛に関しては不得手な伊神なものだから、普段のようにスマートな解決法を導き出せないでいる。
そんなの、透子は百も承知だ。だから、彼女が精一杯の勇気を振り絞る。
「私をっ、い……い、伊神さんの、彼女に……してくれるのかな……っ?」
透子が欲しかった言葉は、つまりそういうことだったのだ。
遅蒔きながらその事実に思い至った伊神は、この時ほど己の鈍感さを呪わずにはいられなかった。
透子は確固たる名目を求めていたのだ。彼氏彼女という関係、steadyという記号を。
安心という名の太鼓判。女性なればこそ、その点は特にはっきりさせておきたいと常々願っているに違いない。
(やれやれ、女性の機微に疎いと、これから先が思いやられるな)
しかも相手は潮透子なのだから、何倍も気を付けないといけない。
「透子ちゃん。こんなオレだけど、彼女になってくれませんか? オレと付き合って下さい」
透子からの返事はない。
振られたな。
そう思った時だった。シートベルトの存在をものともせず、伊神の胴体に透子の両腕が巻き付いてきたのは。
「とっ……透子ちゃんっ?」
それは、周りに気付かれないよう、十分押し殺した声だった。初心な伊神にしては上出来な采配だ。
「伊神さんっ。こんな私だけど、よければ私の彼氏になって下さい。私と付き合って下さい」
「……うん。喜んで」
器用な格好で、ぎゅ、としがみ付く透子のつむじを見下ろして。
伊神は柔らかい笑みを保ったまま、その髪を丁寧に撫でるのだった。
*
そびえ立つモダン式の旅館へと誘うよう配置された遊歩道には等間隔でキャンドルライトが灯され、まるで手招きするかのごとく宿泊客を出迎えていた。
バスから降り立った透子は、歴と杣庄さんを見るなり、への字型の口角を作り、フン! とばかりにそっぽを向いた。
夜目でもしっかりと目視できるほど、その両頬を赤く染めて。
*
透子は伊神との進展を仄めかさなかった。
それでも杣庄が察知できたのは、同期という間柄と、疑似彼氏役を勤めてきた数年があったからこそだろう。
バスの収納スペースから次々と運び出されるボストンバッグを取りに横切る透子を見送りながら、杣庄は歴の耳に顔を近付け、こそりと囁く。
「どうやらカップル1組誕生らしい」
(そんな――!)
歴はまるで酸素を求めて喘ぐかのように顔を歪ませ、反射的に犬君の姿を探した。
後部座席にいた犬君はまだ荷物を受け取っておらず、それどころか未だにタラップを1段1段踏み降りて来る途中だった。
(一刻も早く不破さんのところへ……)
しかし、踏み出した1歩目で歴は腕を掴まれた。その力強い握力は透子のものだった。
驚く歴をよそに、透子は真剣な顔を作り、真正面から見据える。その迫力に気圧され、歴は口を噤んだ。
周りが旅館の外観に関し、思い思いに感想を述べ合っている中、歴と透子だけが無言のまま対峙している。
やがてふっと力を抜き、困惑の笑みを浮かべた透子が、おさな子相手に言い聞かせるように、ゆっくりと告げた。
「自分でもビックリしてる。結論出すの、早過ぎたかな? って。でも、どうしても伊神さんの隣りにいたかったんだ」
「透子先輩……。私、不破さんが心配で……」
「ん。その優しさは健在だね、千早さん。……まぁその……不破犬君には、私からちゃんと話すからさ」
「でも私……なんてことを。けしかけるような真似をしてしまって、どうお詫びしたらいいのか」
「違うよ。千早さんは何も悪くないし、そもそも誰も、誰1人として悪くなんかない。だからさ、そんな風に考えないで?
これは恋愛だもの。私は私の意思で伊神さんとこうなった。決めたのは自分。杣庄が背中を押してくれた。ただそれだけのことよ」
「まさか、こんなに早く決まっちゃうなんて思わなかったんです」
しゃくり上げ始めた歴の背に手を回し、優しく摩る透子。自然とその口調も柔らかい。
「……ね、千早さん。これ見て」
言うなり、ボウタイブラウスのリボンをしゅるりと解き、ブラウスのボタンを外し始める透子。
公然の前で急に何を!? と焦る歴をよそに、上から2つ分を開くと、ぐいと押し広げ、その鎖骨部分を晒した。
ライトに照らし出されて光るそれを見て、透子が見せたがっていたものの正体を知る。それはネックレスだった。
まじまじと顔を近づけたのは、垂れ下がっていたのが宝石の類ではなかったからだ。どう見ても、工具用の六角ナットにしか見えない。
「これは……?」
「毎日着けてるネックレス。伊神さんと出逢った頃に貰った、思い入れのある、大切なナットなんだ。
岐阜店時代、強引に本部へ連れて行かれた時、伊神さんが香港に行ってしまった時、不破犬君に告白された時……。いつも、常にココに在った。
外そうと思えば外せたのに、どうしてもね……無理だった」
つまり、それが伊神への想いの深さ、ということなのだろう。
本人の口からハッキリと言い切られてしまった以上、歴がとやかく言うのは間違っているし、ルール違反のような気がした。
だから込み上げる全ての感情を、鼻をすすることで押し留め、歴ははにかむ。
「成就、おめでとうございますっ」
「……ありがと」
受け取った透子からも、照れ笑いが零れた。
*
夜19時を回っていた。手荷物をロビーに預け終えた者から順に、宴会場へと場所を移す。
幹事による挨拶は簡素で、かえってそれが好評だった。飲み物で満たされたグラスを手に、乾杯の音頭が取られた。
透子と伊神が付き合い始めた件について、『不破犬君には、私からちゃんと話すからさ』と請け負ったのがほんの30分前のこと。
なのになぜだろう? 本人たちの預かり知らぬところで、その情報は周知の事実となっていた。
「私じゃありません」
「俺が言うワケねぇだろ」
歴と杣庄は、周囲が出し物の余興を楽しんでいる最中、口を揃えて己の潔白を訴える。
透子も発生源が2人だとは思っていない。寧ろ心当たりがあり過ぎて、ギロリと馬渕を睨みつけていた。
「……馬渕先輩」
「あらあらあらあら、どうしたの、潮ちゃん」
「あらあらあらあら、どうしたの、潮ちゃん、じゃありません! 広まっちゃってるじゃないですかっ、噂が!」
「だってねぇ、あの伊神君にやっと彼女ができたのよ? 天変地異の前触れなんじゃないかしらと思って」
「心の中に留めておけばいいじゃないですか! わざわざ伝聞する必要はありませんよねぇ!?」
肩で息を切らす透子を宥めるのは伊神の役目だ。
「透子ちゃん、落ち着いて。馬渕さんも悪気があったわけじゃないんだし……」
「いやん伊神君、その優しさに乾杯★ そうだわ、私、部屋を変わりましょうか?」
突然の申し出に呆れたのは芙蓉だった。
「ちょっと、何を言い出すのよ馬渕。私との同室を喜んでたじゃない」
「野暮なことをお言いでないわよ芙蓉。私が出て行ってあげるから、あなたは杣庄君と一緒に過ごしなさいな。杣庄君が抜けた伊神君の部屋には潮ちゃんが」
「ぎにゃあああああああああああああ」
素っ頓狂な声をあげたのは透子である。意味不明な悲鳴を使って馬渕の発言を遮ると、その手首を鷲掴み、宴会場の外へと転がるように飛び出した。
「あら、あら、あら、あらぁ?」
襖を隔てた廊下に連れて来られた馬渕は意味も分からず首を傾げるばかり。
ビールやジュースの追加をせかせかと運ぶ仲居たちが2人に短い視線を投げかける中、透子は口元を引き攣らせて厳しく言い聞かせた。
「あのですね、馬渕先輩? 付き合い始めて1時間と経っていないのに、その……一夜を過ごせと言うのは、神経を疑いますよ?」
きょとんと団栗眼を瞬かせて、馬渕はふわふわのロングヘアーを指でくるくると巻きつけながら一言。
「何も、しなきゃいけないとは言ってないわ?」
「うっ……!?」
透子が怯む。
「一緒にババ抜きでも七並べでもして、ゆっくりと2人で過ごせば良いじゃない。で、眠たくなったら手を繋いで寝れば良いのよ。楽しいわよ~?」
「あのぅそりゃ伊神さんがあんな風ですから私だって何かが起こるだなんて思っていないですしアワヨクバとか考えるだけムダかなーなんて思いますけど」
「意外と考えてるのね、潮ちゃん」
指摘された透子は顔を真っ赤にする。馬渕はそんな透子を見てゆっくりと言った。意味深な視線を送りながら。
「だって、そもそも伊神君にそんな度胸はないでしょうし~?」
これには透子もムカッとして、思わず反論する。
「伊神さんは度胸無しなんかじゃありません!」
「えー? そうかしらぁ?」
「そうですとも」
「じゃあ、明日どうなったか、お姉さんに聞かせてね」
「いいですよ!?」
言ってしまってから気付く。売り言葉に買い言葉。仕組まれたトラップだったことに。
のほほんとした馬渕はなるほど、芙蓉の友人だけあって抜け目がない。すかさず言い添えていた。
「女の二言は見苦しいわよ、潮ちゃん?」
間抜けにも、透子は口をぱくぱくとさせるしかなかった。
*
困惑、憤怒、放心、羞恥。
異なる感情が渦巻き、混じり合う。透子は無言のまま馬渕を見返していた。
「顔が強張ってるわよ、潮ちゃん? 女の子はスマイルでいなくっちゃね」
馬渕の白魚のような手が、透子の頬を撫でる。尚も絶句したままの透子に向かって、馬渕はわずかに小首を傾げながら、にこっと微笑んだ。
「伊神君は、きっと優しいわよ。安心なさいな」
駄目押しの一言を耳元で甘く囁かれ、透子はぎょっと目を剥き、後ずさる。
馬渕はその反応を楽しみながら、トイレに向かう為に宴会場からひょっこり出て来た平塚を呼び止めた。
「あ、ねぇ、平塚君?」
「何スか、馬渕さん」
馬渕と透子という組み合わせが意外だったのだろう。平塚は酒によって赤みを帯びた顔で2人を交互に見やる。
馬渕は平塚にこそりと耳打ちし、少なからず彼を驚かせた。その内容が過激だったからだ。
「馬渕さん、今日は長い夜になりそうですね」
にやりと笑いながら、平塚は羽織っていた薄手のパーカーのポケットに手を突っ込む。
「……あれ? ここじゃねぇや」
今度はスラックスのポケットに手をやり、馬渕から求められたブツを捜しあてる。
「何個要ります?」
「2個」
「馬渕さんの相手が気になるところですけど」
「あら。使うのは私じゃないの。夜が長いのもね」
その言葉に、へらへらとだらしなく笑っていた平塚の顔が、みるみる内に様変わりした。
まさかとばかりに透子に視線を投げかけ、彼女の強張った顔を認めるや否や、口元を引き攣らせながら尋ねる。
「もしかして、使うのは……潮さん?」
自分が何を言われているのか分からなかった。思わず眉根が寄る。陰謀めいたものを感じずにはいられなくて、反論すべきであることを雰囲気で悟った。
「待ってよ。私は何も――」
「平塚君、有り難う」
遮るように放たれた言外から匂ってくる。
『それ以上追及するのは野暮というものよ?』という、意味ありげな含みが。
平塚はそれに気付き、口を閉ざした。後ろ髪を引かれながらも、平塚は「じゃあ」と、ぎこちない挨拶を残して姿を消した。
「これ、潮ちゃんに」
馬渕は平塚から貰った物を1個、透子に渡す。もう1つは自分の懐へ。
正方形の薄い包みを手に乗せた透子は「これ……」と呟く。「え、これって……」
「何を平塚君から貰ってるかと思えば! やだ、馬渕先輩っ。ちょっ……!」
「透子ちゃん曰くー、伊神君には度胸があるみたいだし? 透子ちゃんも、ちゃんと愛されたいでしょう? だから、馬渕お姉さんからの餞別」
「餞別ってそもそも平塚君のですから! それに、お陰で平塚君に色々とバレちゃったじゃないですか!」
「こらこら、興奮しないの。大丈夫よ、わんちゃんの邪魔が入らないように、お姉さんがちゃんと夜通し見張っててあげるから」
「!!?? 馬渕先輩、それってどういう……」
恐る恐る尋ねる透子の脳裏をよぎる、つい今しがたの出来事。そう言えば馬渕は平塚から貰ったもう1つを、己の懐にしまっていた――。
「……まさか」
「さ、お互い楽しい夜にしましょうね」
優しく甘い声で締め括る馬渕。タイミングがいいのか悪いのか、2人の元に、芙蓉と杣庄と伊神が宴会場から退席する旨を告げてきた。
「馬渕、いつまで宴会場にいるつもり? 他の場所も見てみたいし、行くわよ」
宴会場にはまだ酒を楽しむ者や、話に花を咲かせている者もいたのだが、早々に切り上げて場所を移し、二次会へ興じるケースも出始めていた。
伊神と杣庄は大浴場で汗を流したいらしく、芙蓉はエステティシャンによるリラクゼーションの施術を試したいと言う。
「あら、千早ちゃんは?」
宴会場では千早歴も一緒だった。その彼女の姿が見当たらない。
「麻生さんと柾さんのところにいるわ。もう少し宴会場で楽しむつもりみたい」
その展開に、透子は首を捻った。
(たしか千早さん、麻生さんたちから距離を置きたがっていたはずよね? 私が茶番劇を繰り広げている間に進展でもあったのかな……)
悶々と考えていると、伊神が「透子ちゃん」と声を掛ける。
「な、何? 伊神さん」
慌てて馬渕から貰った包みを後ろ手に隠す。伊神は杣庄を振り返りながら言った。
「今から杣庄君と大浴場に行くんだけどどうする? 八女さんと一緒にリラクゼーションに行くかい? それとも下呂の夜景を見たいなら一緒に行くよ」
透子はごくりと唾を飲み込む。早くも選択肢にぶち当たってしまった。
夜景を見て、ムードを盛り上げるのもいいかもしれない。きっとロマンチックだろう。
でも待って。外には他の社員たちがうようよ行き交っているに違いない。付き合い始めて2時間余り。冷やかされるのがオチだ。
「私もお風呂に行く」
「馬渕は?」
「勿論、芙蓉と一緒にリラクゼーリョンよ」
21時を知らせる鐘が鳴り響いた。辺りを見渡せば、誰しもが睡魔とは無縁のハイテンション。
平塚の言う通り、誰にとっても長い夜になりそうだった。
*
リラクゼーリョンのスタッフたちは、芙蓉と馬渕を笑顔で出迎えた。店内には柑橘系ムスクが立ち込めており、早くもリラックス効果を発揮していた。
足つぼにも惹かれたものの、2人はハーブアロマオイルを使ったアロマテラピー60分コースを希望する。
背中のトリートメントもコースの内。脱衣ののち、ベッドの上へ寝そべるよう指示される。
薄いカーテンを隔てた向こうには馬渕がいて、それでも小声での会話が可能な近さだった。
「さっきは潮と何を話してたの?」
「迷える子羊の潮ちゃんに、優しいお姉さんが道を示してあげたのよ」
「何を仕出かしたの?」
「あら、心外だわ。私はただ『頑張って』って潮ちゃんの背中を押してあげただけよぅ」
「何か渡してたでしょ」
どうやら芙蓉にそのシーンを見られていたらしい。
馬渕は器用に手を伸ばし、ベッドの下に置かれた自分の服をまさぐって包みを芙蓉に渡した。避妊具1つ。
「これを潮に渡したの? ちょっと馬渕、やり過ぎよ」
「潮ちゃんには刺激が強過ぎたかしら?」
ペロリと小さく舌を出しつつも、ウインクするから敵わない。
「あの子は怯える子羊でもあるのよ。こんなもの渡したら、かえって怖気付くに決まってるじゃない」
「何があるか分からないのが男と女という生き物よ。備えあれ」
「……それで? これは何なの? あなたが使うわけ?」
「わんちゃんが潮ちゃんの邪魔をしないように、私が夜通し見守るって約束しちゃったのよねぇ」
「あなた、まさか」
馬渕は今にも振り降ろされかねない芙蓉の握り拳に視線を合わせ、くすくすと笑った。
「潮ちゃんも芙蓉、あなたと同じ誤解をしていたわ。夜通し見守るっていうのは、その言葉通り。そんな物を使って、わんちゃんを引き留めたりしないわよぅ」
「? じゃあ、これは何なのよ?」
エステティシャンの指使いに酔い痴れた馬渕が、恍惚とした顔で芙蓉を見詰める。
「んふふ。それは、芙蓉へのプレゼント。杣庄君と仲良くねン」
「……お節介が過ぎるわよ!」
芙蓉は手を伸ばすと馬渕のふわふわヘアーを掴み、自分の方へと引っ張った。
*
『YOU WIN!』
マシンボイスによって勝利を称えられた犬君は、満足気にハンドルから手を離した。
「これで3連勝。ビール1本だよな?」
「ちくしょー、カーレース強ぇなぁ、お犬様はー」
ガシガシと頭を掻きながら平塚は。
「負ける気がしないな。ハンデでも付けてやろうか? マシン替えてやるよ」
にやにやと笑う犬君に、平塚は「へぇ、そうかよ……」と口の端を上げた。
21時台のゲームコーナーに子供の姿は見られない。入り口には21時以降の児童の出入りを禁じる立て札があった。今いるのは大人だけだ。
単なる旅館と侮るなかれ。下呂でも有名なこの宿泊施設は多くの人数を宿泊させることが出来、各施設の規模も大きかった。ゲームセンターも然り。
ユナイソンに入っているゲームセンターよりは劣るものの、それでも大の大人を足止めするには十分なマシンが揃っていた。
平塚は犬君に勝てそうなマシンを探し始めたが、どうせなら同じ競技でし返してやりたい。
「いや、このままでいい」と強気な姿勢を示せば、「骨は拾ってやるよ」と鼻で笑われた。
「そう言ってられるのも今の内だぜ、お犬様」
「あぁそうかよ。じゃあ啼かせてみろよ?」
犬君は100円を投下し、ハンドルを握り直す。カウントダウンが始まり、カーレースが始まった。
余裕綽々の犬君に対し、平塚は頃合いを見計らって爆弾を投下した。
「潮さんと伊神さんが付き合い始めたってさ」
「知ってる。風の噂で聞いた。つか、それで動揺を誘うつもりか?」
犬君はアクセルを踏み込み、平塚カーを大きく引き離す。
「ふーん……。本人から直接聞いたわけじゃないのね」
ぽそりと呟くところがまた嫌味な感じだ。肯定したくない話題なだけに。
「じゃあ、これはどうかなー?」
「何を聞かされてもビクともしないから無駄骨だぜ、平塚」
「俺さっき、潮さんにコンドーム渡した」
犬君はハンドルを切り損ね、操っていた車は壁に激突、大破した。その横を平塚の車が通り過ぎ、やがて『YOU WIN!』の賛辞を受ける。
『YOU LOSE!』の赤い文字が明滅を繰り返していた。
2010.06.28 - 2010.10.14
2019.12.17 改稿
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