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17話 【目論見】
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17話 (芙) 【目論見】―モクロミ―
――7年前
薄暗い店内では皆がマナーを守り、静かなトーンで会話が繰り広げられていた。
シチュエーションにピッタリのジャズが、雰囲気を損ねない音量で流れている。
揺らめくキャンドルライトの数々に、錯覚を覚える。異国を訪れたようなそこは、お洒落な大人のバーだった。
敷居の高い店に招待してくれたのは、ユナイソン岡崎店酒売場担当の加納倭、独身。
人づてに30代半ばと聞いた。いま乗りに乗った幹部候補生として、社内では話題に上っているとかいないとか。
一方私は同じ店舗にサービスカウンターとして配属されたばかりの新入社員。
こうして加納さんと2人きりで会う――つまりデートだ――ことなどおこがましいと女性先輩方に睨まれかねない程度の身分差がある。
それでも私は自分の願望を曲げたりせず、駄目元覚悟で加納さんを食事に誘った。
大学在学中、ミスキャンパスとして多少名を知られていた私は、よく言えば有頂天に、悪く言えば天狗になっていたのだと思う。
将来を約束された出世頭でメンズモデルも務まりそうな加納さんと過ごす日々は、栄誉の延長線上にあると考えていたし、当然だとも思っていた。
まずは手始めにランチから。次にディナー、外でのデート、そして――。
今日は何度目の逢瀬になるだろう。やっと片手から両手の指を折るぐらいには会っているはずだ。
「芙蓉」
彼が私の肩に手を置いて到着を知らせた。私は自信のある角度で振り返る。もちろん微笑みも添えて。
「加納さん。お疲れ様です」
「すまない、遅くなった」
「いえ、私もいま来たところですから。でも先にカクテルをいただいてます」
実際には20分前に着いていたので、型通りの挨拶だ。それもこれも、加納さんに好かれたいがゆえの小さな努力の1つだった。
鞄と上着を店の人に預け、身軽になった加納さんは、ネクタイをほんの少しだけ緩めながらハイスツールに座った。
「カクテルか。芙蓉にはワインが似合うと思うが」
「ワインは私にはまだ早いような気がして」
「そんなことはないさ。あぁ、君。彼女にシャトー・ラトゥールの95年を」
カウンター越しに声を掛ける加納さんは堂々したもので、そのひとの横に座れることが誇らしく、光栄だった。
すぐにワインが私の前に置かれた。赤い液体をまじまじと見つめる私に向かって、加納さんは「飲んでごらん」と促す。
「きっと気に入ると思う」
律儀に真ん中で分けられた黒髪。僅かに吊り上った切れ長の目。普段は強面と恐れられている加納さんの笑みを、私は独占している。
火照ったのは、与えられたワインの所為か、それとも……。間が持たなくてグラスを傾けた。
「ほんと……美味しい」
「気に入って貰えて良かったよ。それで、芙蓉」
「え?」
「早速本題に入って申し訳ないが、あの話考えてくれたか?」
「あの話……」
「繭美第一商事の幹部をお持て成しして欲しいと」
「でも……私は受付嬢ですよ? 接待でしたら秘書ですとか……。何も私じゃなくてもいいと思うんです。会社の代表だなんて荷が重そうで」
「君は花形ポストにいるんだ。そういう仕事も回ってくるさ。たまたまその機会が早かっただけで」
「恥ずかしながら、通常業務をこなすだけで精一杯の身です。接待なんてどうすればいいのか……。右も左も分からないですし」
「そんなに難しく考えることはないさ。ただ向こうの話に頷くだけでいい」
「頷くだけで?」
「実はね、大方の話は先方とついているんだ。だからまぁ……打ち合わせと言っても形式上行うだけで、すぐに済む」
「あぁ、そういうことなんですね」
つまり最後のサインだけ受け取ってこればいいのだ。それなら私でも出来そうだ。
「何だか美味しいところだけ掻っ攫うようで、申し訳ない気もしますけど」
加納さんは私にお膳立てしてくれるつもりでいるのだ。既に商談をほぼ成功させたも同然で、すべて加納さんの力量によるものなのに。
「この商談が纏まれば岡崎店……いや、ユナイソン自体も安泰になるはずだ。競合店との差別化も図れる。会社の為、いや、私の為にどうだろう?」
「加納さんのため」
反芻する私に、加納さんは優しく言った。
「頼めるのは芙蓉しかいないんだ」
「私しか?」
「あぁ。今回は芙蓉に手柄をあげようと思ってね。これがうまくいけば、上層部の覚えもめでたいぞ。教育係である俺も鼻が高い」
「……嬉しい。加納さんがそこまで私のことを考えてくれていたなんて……。……分かりました。加納さんの為なら、なんだってします、私」
素直に頷く私に満足したのか、加納さんは「さすが芙蓉だ」と褒め称えた。
その称賛だけでも舞いあがれるのだから、私はこのひとのことを異性として好ましく思っているのだろう。
*
翌週金曜日。加納さんの指示に従う形で待ち合わせの場所へと赴いた。相手先の本社がある名古屋市へと。
駅から徒歩5分の場所にその商事会社はあった。受付で名乗ると、約束をしていた『渡瀬さん』が下りて来た。
加納さんより年上に見える。40歳前半ぐらいだろうか。
短髪にして筋肉質。肌がわずかに黒いところから察するに、スポーツ焼けをしているようにみえる。
とはいえ、まだ答え合わせができるような間柄でもない。正解は保留のままにしておこう。
「はじめまして。加納の使いで参りました。八女と申します」
「はじめまして。渡瀬です。へぇ、君がねぇ」
最後の方は、独り言に紛れて聞こえなかった。気になる思案顔をされたのも束の間、渡瀬さんは外への移動を促した。
「え? あの、一体どちらへ?」
てっきり社内で会談するものだとばかり思っていたから、渡瀬さんの行動は全くの予想外だった。
季節は初夏で、歩けば汗が滲む。あまり遠くへ行くのは勘弁願いたかった。
「すぐそこだよ」
ひょっとして、向かう先は喫茶店だろうか。それなら合点がいく。なにせここは名古屋だ。県民の喫茶店好きは全国でも有名だ。
心なしか競歩になりつつある渡瀬さんに追い付こうと、私も歩幅を広げる。
やがて案内されたのは、昼間なのにグレーの壁にやたらピンクの装飾とネオンが点滅する、およそ喫茶店とは思えない小さな建物だった。
「……え? ちょっと待って下さい。ここ……」
入り口と看板を交互に見返す。何かの冗談に違いない。いや、そう思いたかった。
「ここで正解だよ。ほら、行こう」
「えっ!?」
だって、ここはホテルではないか。それも、ビジネスとは遠くかけ離れた、いかがわしい類の――。
「真っ昼間のホテルって興奮しない? せめて部屋だけでも選ばせてあげるよ。どれがいい?」
「い、嫌です! 私……行きません!」
強引に手首を掴まれ、引き摺られるように建物の入り口へと連れ込まれそうになる。
(痛い! 痛いってば……っ。やだ……。なんで、なんで、なんで……!?)
こんな展開、嘘だと言って欲しい。何かの間違いであって欲しい。
「助けてっ! 加納さ……っ」
それなのに、残酷にも『商談相手』は下卑た笑みを浮かべて私の耳元で囁いてきた。
「今日だけ我慢してくれたら、あいつの望み通り、業務提携結んでやるよ」
「!?」
「加納の為なら何でもするんだろ? これも間接的にだけど、加納の為だから」
私が必死で抵抗する姿を白けた様子で見下ろしながら、彼は大仰に溜息をつく。
「まだ分かんないの? 君は加納から献上された『女』なんだってば。これはあいつからの『気持ち』なんだから、俺は受け取るだけなんだよ」
「加納さんから……献上された、オンナ……?」
「きみも健気だよねぇ。加納が好きで『いい子』を演じてるんだろうけどさ。裏では出世の為に自分の女、こうやって送り込むんだから。
(何ですって……!? 加納さんは、私の身体と引き換えに商談を成立させようとしてるの……!?)
しかも、私以外にも女性を派遣している口振りではないか。こんなことが頻繁に横行しているとでも言うのか――。
「それにしても加納が送り込むだけあって、さすが上玉だよなぁ。さ、時間稼ぎはもうおしまい。部屋も俺が決めるからさ。来いよ……早く!」
苛立ちを顕わにして渡瀬さんは怒鳴った。逃げるべきなのに、私の足は恐怖で竦んでしまう。
再び強引に腕を引っ張られたところで、ようやく意識がはっきりしてきた。そうだ、逃げるべきなのだ……!
「は、離して!」
力任せに腕を振ると、運が良かったのか、相手の手から解放された。逃げるなら今しかない。
ハイヒールのかかとを思いきり蹴り上げながら逃げる。焦るあまり、つんのめりそうになる足を叱咤しながら。
(お願い、動いて……! 動きなさいよ、私の足……っ!)
「待てよ!」
(誰が待つもんですか!)
尚も追いかけてくるしつこい男を巻くため、名古屋の街を縦横無尽に駆け抜けた。ただただ我武者羅に。
加納さんの裏切りとか、今はそういうことを極力考えないようにして。
*
名古屋から岡崎へ戻った私は、その足で加納さんが住むマンションへと向かった。
居留守を使われるかと思いきや、彼は存外涼しい顔をして出てきた。
「おや、芙蓉。駄目じゃないか、逃げたりしたら。――いけない子だね。さぁ中へ入っておいで」
どうやら渡瀬さんから事情を聞いて、事の顛末を把握しているようだ。
「……」
ここで、『怖かったから思わず逃げてしまいました』とでも言えば、加納さんとの関係は続いたかも知れない。
でもそれは私の本心ではなかった。
こんな目に遭わされて、私は怒髪天の如く怒り狂っている。加えて裏切られた悲しみはそれ以上だった。
「……あれはなんなの? 一体どういうつもり!? 私を売ったの?」
「おや。渡瀬ではお気に召さなかったかな。いやはや、芙蓉は極度の面食いだな。渡瀬もそこそこの容姿だったはずだが」
「容姿なんて関係ない! 論点はそこじゃないわ。私をなんだと思ってるの!? ずっと弄んでたわけ!?」
「……弄んだ?」
反復した加納さんの口角がわずかに上がった。『笑うとこ?』と忌々しく思ったが、それにしてはどうも様子がおかしい。
次の瞬間、私はそこに嘲りが含まれていることを確信した。
「私が芙蓉を誘ったことが一度でもあったか?」
「……何を言い出すの……?」
「ひとつ面白い事実を教えてあげよう。最初にランチに誘ったのは誰だったかな?
ディナーに誘ったのは誰で、テーマパークに誘ったのは誰だったろうね?」
「……っ」
「私は一度として、君を誘ったことなどなかったはずだ。いつだって誘うのは芙蓉の方だっただろう?
僕から誘ったのは……そう、今日の商談に行って欲しいと頼んだあの日が初めてだったはずだ」
「なによそれ……! 迷惑だったって言うの!?」
「迷惑? とんでもない。良い女だったよ、君は」
不愉快極まりない物言いに、ぞわりと鳥肌が立つ。こんなことは受け入れたくないと、心が叫んでる。
でもこれが現実なのだ。受け止めなくてはいけない。立ち向かわなくてはいけない。
(そうじゃないと、私が報われない――)
感情も直情的なら行動もワンパターン。力任せに繰り出した平手打ちが華麗に決まった。
「金輪際、私に話しかけて来ないで!」
相手の言葉を待たず、踵を返し、そのマンションを後にした。ここへ来ることは二度とないだろう。
*
向かった先は、私が住んでいる社宅マンションの上の階、同期の部屋だった。
22時過ぎ。そんな非常識な時間にアポ無しで押し掛けようとしているのだから、門前払いも覚悟のうえだ。
けれど、どうしてもそこに行きたかったのだ。
躊躇なくチャイムを鳴らす。こんな静かな夜だ。きっと隣りの部屋にも届いてしまっていることだろう。申し訳なさはMAXだ。
やがてドア越しに「どなたですか?」と誰何する静かな声があった。
「私よ」
「その声は八女さん……?」
小さな驚き声に続いて、これまた静かにドアが開いた。
僅かなマンションの蛍光灯と、満月の明かりだけが頼りの中、私の姿を認めた伊神・ラジュ・十御は呆気に取られた様子で私を見下ろす。
「こんな時間にどうしたの?」
「……伊神……」
「えっと……取り敢えず、入りませんか? というか、入って下さい」
戸惑いながらも私を招き入れてくれた人物は、紺色のサテンパジャマを着ていた。
その伊神を前に、私は言い放つ。なるべく小さな発声を意識しながら。
「振られた! それも、こっぴどく!」
「そう……ですか」
「違う! 振ってやったのよ!」
「……? どっちですか? いや、どっちでもいいんだけど……」
「全然よくないし! 慰めなさいよっ!」
「あ……。気が利かなくてごめん。ケーキ、食べますか? 待ってて下さいね。コンビニで買って来ます」
「食べないわよ馬鹿! 女が慰めろって言ってるの。どういうことか分かんないの!?」
「慰め方なんて、オレ……」
「抱けって言ってんのよ!」
「……抱けってそんな……八女さん?」
「抱きなさいよ! ……なによ、どいつもこいつも……!
私が誘わないと抱いてくれないの!? 誘いたくないのは魅力がないから!? 馬鹿にしないでっ! 何よ、何よぉ……っ!」
「……八女さん」
「抱いて証明してよっ。私はいらない人間なんかじゃないって。お願いよ、お願い……だからぁっ……」
私の両手は、伊神の胸板を容赦なく叩いていた。伊神はそんな私の両手を優しく包み込む。
「自棄にならないで。落ち着いて下さい、八女さん」
そうだ、落ち着かなければ。しまった、そうじゃないでしょ! 証明してくれなくちゃダメじゃない。
でも相手は伊神。魔性の声を持つ伊神だから。結局逆らえないし、無茶な要求を取り下げなければならなくなった。
「うっ……わあああああんっ!!!」
塞き止めていたダムが決壊するように。込み上げる感情は、激情と言っても過言ではなかった。伊神に優しくされたことでそれは倍増した。
「なんで……なんで加納さんだったの? なんで伊神じゃなくて……!」
伊神のように、決してひとを傷付けない男性を好きになれれば良かったんだと思う。
でもこれからも伊神を異性として意識したり、好きになることはないだろう。なぜだかそんな予感がした。
私が「つらい」だの「くやしい」だのと悪態をついたことが伊神にとってショックだったのだろう。ふわりと私を包み込んだのは伊神の両腕だった。
「……え……?」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
私はいま、自分より背の高い男性の――同期に抱き締められている。ほどよく鼻孔をくすぐるのはジャスミンの香りだろうか。
大きな胸板は硬く、普段おっとりしている彼からは想像できない厚さだった。
(……え……え……え???)
初めて『伊神は異性なのだ』と気付かされる行為。
よもや伊神がこんなに大胆な慰めかたを仕掛けてくるとは夢にも思わず、目尻に溜まっていた涙はあっという間に引っ込んでしまった。
(まさか伊神……このまま私を抱くつもりじゃ……)
確かに彼をけしかけたのは私だ。根が真面目な伊神は、私のわがままを受け入れるだけの度量も持っているのだろうか。
「あ、あの……伊神……」
「えっと……これでいいかな……? 大丈夫? 苦しくない……? ごめんね、経験がないから力加減が分からないや……」
どうやら恐る恐る私に触っていたらしい。そして、彼の『抱く』は『抱き締める』の『抱く』だったことが判明した。
「はぁぁぁ、やっぱりね……。あなただったらそういうお約束のボケをかましてくるんじゃないかと思ってたわ」
「? どういう意味だい?」
「……ううん。何でもない」
それでも伊神の純粋な心遣いが嬉しくて、私はどさくさに紛れて伊神の腰に両腕を巻き付けた。
傍から見れば、恋人との抱擁にみえるだろう形になっていると思う。
伊神は『やめてください』とも『困ります』とも言わないので、この際どこまでも甘えてしまおうと思った。
胸板に頬を寄せる。どくん、どくん、と脈打つ伊神の心臓の音がダイレクトに伝わってきた。
「元気出して下さい。八女さんに元気がないと、オレまで調子狂うよ」
「……知らないわよ、あなたの調子なんて。知ったこっちゃないわ」
無茶苦茶、支離滅裂、厚顔無恥。こんな夜中に勝手に頼っておいて、抱けと喚いたり、罵ったり。
でも伊神はそれら全てを許してくれる。それが分かっているからこうして甘えてしまう。困らせてしまう。
「ダメだなぁ、私……」
ついポロッと漏れたことばだった。伊神はそれを、一言に凝縮した私の本音だと思ったらしい。
身体を引き離すと、今度は両肩を掴んで私の目を覗き込んだ。
「八女さんはダメなんかじゃないよ。自信持って下さい。……ね?」
「……」
『ね?』じゃないでしょーが。どこまで御人好しなのよ、伊神って男は。
「……なんだか悩むのが愚かしい気がしてきた。言っておくけど褒め言葉よ」
「それ、褒め言葉なのかなぁ……」
一人真剣に悩み始める伊神を放置して、私は部屋を見回した。
「伊神、ベッドはどこ?」
「隣の部屋だけど……なぜ?」
「寝るから」
「誰が?」
「私が」
「八女さんが? オレのベッドで?」
「寝付けそうにないけど明日も仕事だし、横になっておかなくちゃ」
「待って待って。そうじゃなくて。どうしてオレのベッドで……」
「自分の部屋に帰りたくない気分なの。……分かるでしょ?」
伊神の顔には『きみの理屈はさっぱり分からない』と書かれていた。本当に困惑しているようで、珍しくことばに詰まっているようだ。
それでも、
「……いいよ、好きに使って」
負けた、と苦笑する伊神。その伊神は玄関へ向かう。
「え、ちょっと待って。どこ行くの?」
「ん……漫画喫茶かな……」
「なんで?」
「『なんで?』はこっちのセリフなんだけどな……。同じ屋根の下で寝るわけにはいかないだろう?」
一体どういう情操教育を受けてきたんだろう。伊神には性欲がないのだろうか。
最も、私も彼には期待していない。彼は友人であり、決して恋人にはなり得ない。さきほどの抱擁のやり取りでそれがハッキリと分かった。
何もしないから(ん? これって女側が言うセリフ?)せめて今だけは傍にいて欲しいのに、この男はそれすら拒むのだろうか。
「そんなことさせられないわよ。ここは伊神の家なんだし。……今日は振られて傷付いちゃったから、人恋しいなって思っただけ」
伊神は押し黙った。何をそんなに考えることがあるのだろうかとこっちが心配になるぐらいの間を開けた後、伊神は優しく笑った。
「分かった。八女さんが寝付けるまで、傍にいるよ」
「……うん、ありがとう」
やっと伊神に対して素直な言葉がすんなりと出た。
*
翌日は、小奇麗に片付けられた部屋の、心地良いベッドの上で目が覚めた。
起きたての脳内が覚醒するにつれ、昨日の失態や立ち回りが次々と浮かんでは消える。
穴があったら入りたい。このまま布団に包まり続けていたい。
でもそういうわけにもいかず、身体を起こして気配をうかがう。おや? この部屋のあるじはどこだろう?
(……あ、美味しい匂いがする)
香りに導かれるように向かった先はキッチンだった。テーブルの上には白色で統一された食器が並んでいた。
1つ目の皿には焼きベーコン、スクランブルエッグ、サラダスパゲッティがあり、ラップできちんと覆われていた。
その隣りにはクロワッサン。律儀にバターも添えてある。コーヒーメーカーはすぐ注げるようになっているし、ミルクも用意済みだ。
メモがお皿の下に挟みこまれていた。クセのある右上がりの字で、『良かったら食べてください。伊神』とある。
「……私より上手なんて、何かムカつく……それに、この凝り具合はなにごと?」
大人しく席につき、ラップを剥がした。その時、玄関のドアが開いた。パジャマではなく、ジャージ姿の伊神がキッチンに入って来る。
「あぁ、起きたんだね。おはよう」
「おはよう。その格好は? どこ行ってたの?」
「朝ジョギングするのが日課なんだ。汗臭くてごめん」
「殿方がスポーツで流す汗と、仕事で流す汗は好きよ。気にならないわ」
「それならよかった」
伊神が冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを飲む姿を、ベーコンにフォークを刺しながら眺める。
(ジョギングが日課なのか……)
今まで知らなかった伊神の日常。特に意識してなかっただけに、何もかもが新鮮にうつる。
「……口に合わなかったかな?」
「え?」
「量が減っていないから」
「あぁ、私いま席に座ったばかりだから。一口食べてみけど、悔しいほど美味しいわ」
「本当に? よかった」
心の底から嬉しそうに笑うのだから参ってしまう。
「ゆっくり食べてて。オレは今からシャワー浴びてくるから」
「要施錠」
「どうして?」
「私が覗くかもしれないから」
苦笑いをする伊神を見送り、食卓に並んだ料理を食べ尽くす。ありがたいことに食欲はある。
伊神の手料理が美味しかったのも理由の1つだが、失恋休暇などないのだから、エネルギーは満タンにしておかないといけなかった。
自分で食べた分の食器を洗い、食器棚に片付けていると、シャワーを浴び終えた伊神が戻ってきた。
「伊神、本当にありがとう」
「少しは元気になったかな」
「えぇ。伊神が思ってる以上に回復したわ。あなたのお陰よ」
「そう? でもオレ、そんなたいそうなこと何もしてあげれてないけど……」
「深夜の突撃にも関わらず、ドアを開けて招き入れてくれた。ハグをして慰めてくれたし、私のわがままを逐一受け止めてくれた。
温かくて美味しいご飯を用意してくれたし、たくさん優しいことばをかけてくれた。……これで元気にならない方がどうかしてるわ」
「知らないうちに、お役に立てていたんだね。それならよかったよ」
にこりと笑う伊神は、結局最後まで優しかった。
「じゃあね、伊神」
「うん。また後でね」
さすがに着替えとシャワーは自分の部屋じゃないと出来ないため、ここで私は退散だ。すぐに用意して、出勤の準備をしなければ。
無用心にも大胆にドアを開けてしまったため、運悪く伊神の部屋から出たところを他の社員に見られてしまった。彼は目を丸くして驚いている。
あちゃー、これは絶対誤解されたなと後悔したものの、『噂相手が伊神なら別に構わないか』と思い直し、すれ違う目撃者に向かって目礼した。
それに伊神の方も、私と噂になったところで、特になんとも思わないだろう。
*
奮起して出勤した私を、受け入れがたい現実が待っていた。業務部の副店長から受け取った紙を見て、私は抗議した。
「なんですか、この異動って!?」
「きみをサービスカウンター業務から異動することが決まった」
「何故ですか!」
「加納を敵に回すとは……。信じられんよ」
「……!」
まるで吐き捨てるような口調だった。
業務副店長とは昨日まで円滑に仕事をしていただけに、日を跨いでのあまりの変わりようは青天の霹靂だった。
「男をたぶらかせるような女を、店の顔であるサービスカウンターに置いておくわけにはいかない。POSの席が空いているからそこに行きたまえ」
「私はたぶらかしてなんか……!」
「そんなのは表向きの理由に決まっているだろう。きみにはスケープゴートになって貰う」
「スケープゴート……?」
「加納を訴えられたら困るからな。先手を打たせて貰ったよ。彼には出世して貰い、きみの手が届かない本部へ行った」
訴える――。そんな言葉が出て来たということは、悪事が蔓延っていることを副店長自ら認めたことに他ならないではないか。
「いいか、加納を陥れようとしても無駄だぞ。彼は本部の人間に可愛がられている。誰もきみの肩を持つ者などいないんだ」
加納に会ったらどうしてやろうとずっと考えていたのに、本人は早々に安全地帯へ引き上げられ、ぬくぬくと謳歌しているというのか。
いま私が聞かされている副店長のことばひとつひとつが、私をとことん惨めにする呪いのようなものだった。
「出世ですって!? 私は降格なのに!?」
「勘違いをしてもらっては困る。POSオペレータもサービスカウンターと同じ、業務部扱い。降格扱いにはならない。
ただ、華々しい花形ポストか、日の当らない裏方作業か、それだけの違いだ」
「なんて言い草なの……。っていうか、なんなのよ、この会社は! こんな時代錯誤の男社会が世間でまかり通ると思ってるの!?」
「それが嫌なら辞めるんだな」
「……っ!」
なんて非情な会社。なんて非道な人たち。上層部の実態が、こんなに野蛮でいい加減で腐敗した惨状にまで落ちぶれてしまっているとは思わなかった。
「……分かりました! 八女芙蓉、喜んでPOSの任を拝命致します!」
私が吐き捨てた言葉に対し、満足げに頷く古狸を上司だと思うことは不愉快だったし、不可能だった。
*
昨日からの出来事を秘めておこうかとも思ったものの、ひとりで抱えるには問題が大き過ぎ、いつか押し潰されるんではないかと危ぶんだ。
このままでは精神が持つかどうかも怪しい気がして、素直に仲間に打ち明けることにした。
昼休憩を使って早速3人の同期に報告する。彼女たちは各々、最後まで黙って耳を傾けてくれた。
話を聞いた後、彼女たちは憤りを露わにするだろうか。私に同情して目を潤ませたりしないだろうか。それとも復讐を企るなんて言い出したりしないだろうか。
そんな反応を予期していたのだが、蓋を開けてみればそんな気配は微塵もなく、あろうことか「昼ドラみたい!」と言われる始末だった。
「……あんたたちねぇ……」
血も涙もないとはこういうことを言うのか。勇気を出して告白したのに、ひとりの胸にも響かなかったなんて。
「それでPOSってところに異動になっちゃったのね」。目を丸くして馬渕は言った。
興味がないことには一切知ろうとしない性格の黛が、気だるそうに尋ねる。「POSって何するんだっけ?」
「店内の値段変更部署よ」と、歩く辞書として重宝がられている香椎がそれに答えた。
「ひたすら値段打ち込むのよね。間違えちゃいけないから、神経磨り減る磨り減る」
「……楽しそうね、香椎?」
「えぇ、すごく」
真顔で肯定する香椎の背中には悪魔の翼が生えているに違いない。
「芙蓉ったら、一人でドラマみたいな体験をするからそんなことになっちゃうのよ。ズルイわ」
「馬渕。あんたも香椎と一緒でひとの不幸を楽しむつもり?」
「そうじゃなくて、刺激的な日常で良いなぁって言ってるの」
同期の女性新入社員どもはあてにならない。唯一伊神だけがまともだ。
(……違う。どちらかと言えば、あいつもまともじゃないんだった……)
悩むのも馬鹿馬鹿しく思えてきて、私は露骨に溜息をついた。当然、誰も気にしてくれなかったけれど。
「ボイスレコーダーとか動画とか、そういった何らかの証拠媒体があれば、警察署に持ち込めたかもしれないのに……!」
返す返すも記録に残せなかったのが悔やまれてならない。
「そうね。芙蓉には悪いけど、このままでは全部まるっとあなたの妄想と判断されるのがおちね」
黛の正論が耳に痛い。
「悔しいわ。このまま泣き寝入りしなきゃいけないなんて」
ぎりりと歯噛みしていると、馬渕は「あら」と小さく呟いた。
「およそ芙蓉らしくない反応ね。勇猛果敢だと思っていたんだけど、違ったのかしらぁ」
「一昨日までは、私自身そう思ってたわよ」
それをこっぱみじんに打ち砕いてくれた加納にお礼参りをしたいのは山々だが、彼はもう手の届かないところへ雲隠れときている。
とは言え、私自身に非がないとは言い切れない。悪かった点を全て洗い出し、猛省して次に活かさねば、また同じことの繰り返しだ。
或いは他の誰かに迷惑をかけかねない。反省は、私に課せられた宿題だ。
「じゃあ、これから積み重ねていけばいいんじゃない?」
あっさり口にする馬渕に、黛と香椎も頷いている。
「私たちの可愛い芙蓉がこんな目に遭わされて、怒ってないとでも? あなたはしても、私たちはしないわよ。泣き寝入り」
そう言い切った黛は、いつの間にかスマホをいじっている。
「……よし、決済完了」
「? 何を買ったの?」
てっきり服や装飾品の類だと思っていたから、「高性能ボイスレコーダーと隠しマイク。あと、痴漢撃退スプレー」と返ってきた時は心底驚いた。
「時間はかかるかもしれないけど。やるだけやってみましょうよ」
「黛……!」
「でも、自ら危険な行動を起こすことだけは禁止よ。いいわね?」
「そんな悠長なこと言ってられな……」
「だめ。ほんとに危ない橋を渡ろうとしてるんだから。こつこつと、でも確実に」
「追い詰める!」
馬渕が目を煌めかせ、腕をあげた。『エイエイオー』のつもりだろう。
「私も情報を得ておくわ」
『歩く辞書』までそう言ってくれるのだから、これはもう百人力だ。
「……ありがとう、香椎。ありがとう、黛。ありがとう……馬渕」
時間差の慰めが相当効いたようで、私の涙腺は一気に崩壊した。
ひとりじゃない。そう思ったら、心の底から勇気が湧いてくるような気がした。
2019.06.03
2024.02.26
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