37話 【A Well-Wisher!】


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37話 (―) 【A Well-Wisher!】



【透子side】

(やだ、やだ、やだ、やだ――!)
先ほど目の当たりにしたシーンはあまりに強烈で、頭から追い出そうとしてもちっとも離れてくれない。
胃がムカムカする。歩幅が広くなる。どうして涙が込み上げてくるの?
あの噂は本当だった。不破犬君は満更でもなく、千早さんの方はベタ惚れだ。その証拠に、彼女は柾チーフと麻生チーフの目の前で……。
(私、こんなにショック受けてるなんて)
鏡に映った自分の顔を見て、眉根を寄せる。なんて不細工な顔。唇を引き結んでから、口角を上げてみる。
(うん、大丈夫。まだまだイケる)
急に逃げ出してしまったけれど、あの後はどうなったのか。このまま帰ってしまおうという思いと、様子が気になって仕方がない思いがせめぎ合う。
戻って窓の端からこっそり中の様子を窺い、その時点で判断しようと決めた。
不破犬君も、柾さんも、麻生さんもいない。POSルームには千早さんだけがいた。既にパソコンは復旧しており、ジッとモニター画面を見つめている。
廊下ですれ違っていないので、3人共、私とは反対の方向に行ったとみて間違いないだろう。
千早さんに声を掛けるべきか。多分、チャンスはそんなにない。彼女の本心を聞くなら、今がその時だ。私はPOSルームに足を踏み入れる。
気まずい空気に居心地の悪さを感じつつ、千早さんの横顔を盗み見ると、驚いたことに彼女は静かに涙を流していた。
「……千早さん!? 2人は……柾チーフたちは……?」
私の問い掛けに、やっと聞きとれるほどの小さな声で彼女は言った。
「……出て行かれました」
「何で泣いてるの? あの後どうなったの? 出て行ったって、怒って!?」
「……違うんです。違うんです、透子先輩。私……私……っ。柾さんと麻生さんから、『おめでとう』って言われ……ひっ……祝福、されて……っ」
「……!」
「笑、いました。私、笑顔で……『はい』って言っちゃ……言っちゃったん、です……。でも、……っ」
今の状況で。一体誰が幸せになれるって言うの? 交わらない螺旋を描き続ける本心を抱いたままで――。
「私が……、私が好きなのは……っ」
「……そう。やっと自分の気持ちに気付いたんだね?」
「と、とう……透子、先輩……っ」
千早さんは、零れる嗚咽を何度も飲み込もうとして、むせてしまう。その背中を摩りつつ、彼女の肢体を受け止める。
この身体のわななき。後悔の涙。本心との葛藤。
(あぁ、私たちは似ているね、千早さん)
「お互い、もう間違えないようにしようね」
私の言葉に、千早さんは泣きじゃくりながらもしっかり「はい」と答え、大きく頷いた。
『なぜ千早さんは不破犬君と付き合うことにしたんだろう?』――その理由は結局、聞けずじまいだった。
『こうなったいま、彼女は不破犬君と別れるつもりだろうか?』――でも、不破犬君の方に別れる意思はあるのか……。


*

ドアベルを鳴らし、カウントする。1、2、3。アポもなしに突然来たのだ。彼はどんな顔をするだろう? 7、8、9。
10秒きっかりで、ドアが開く。伊神さんが私の顔を見て、「入って」と言った。
時刻は21時を回っていて、片付けられた食器類を鑑みるに、伊神さんは夕食を摂り終えたのだろう。
私は食欲がなかったので食べていない。「今から作るよ」と勧めてくれたけど、首を横に振って断った。
「伊神さん、……ごめんね」
「何を謝るのさ?」
そう尋ねた伊神さんの優しさは相変わらずで。あぁ、多分、彼は何もかもを承知のうえで、私に応えてくれているのだなと思う。
「この前、伊神さん言ったよね。『透子ちゃんをお嫁さんにできる人は幸せ者だね』、『オレにその資格があるのかな』って」
「……うん」
「どうしてそう思ったの?」
「オレたち2人の未来に対して弱気になってた。透子ちゃんはもう、オレからはとっくの昔に卒業してるなって思ったんだ」
私の心が不破犬君に向いていたことを、伊神さんは知っていたんだ……。
「ごめんなさい、伊神さん。……私、杣庄に言われるまでちっとも気付かなかった。
つい最近まで本当に思ってたよ。どうしたら伊神さんとひとつになれるのかな、喜ばせてあげることが出来るのかなって。
でも結局空振りで。柾チーフに相談したの。そしたら、伊神さんは心の奥から私を信じることが出来なかったんじゃないだろうかって。
壊れるきっかけは私にあって、伊神さんは私の幸せを願って身を引こうと考えたのかもって。……合ってる?」
伊神さんは答えなかった。その代わり、私の崩れた髪をひと房、耳にかけ直しながら言った。
「……透子ちゃん、オレとのことをたくさん考えてくれたんだね。ありがとう」
「伊神さん、私は……」
「うん?」
「私……は」
「……うん、いいよ。全部話して。大丈夫、透子ちゃんの心、気持ち、全て受け止めることが出来るよ、オレには」
「……今日、千早さんと不破犬君がキスしてるとこ見たの。私、ショックだった。2人があんなに好き合ってるなんて思わなかった……」
「え……? 今日? ……そんな筈は……」
伊神さんは考え事をしているようだった。やがて、私を安心させるように優しい声で言った。
「今でも不破くんの透子ちゃんへの想い、信じられる?」
社内旅行の2日目。『この先、例え何かが起きたとしても、僕は透子さんを想い続けます。好きな気持ちは変わりません』と彼は言った。
でも、実際は? 私は彼に嫌われるよう仕向けたし、その結果として彼は千早さんと付き合い始めた。今日のキスがその最たる証拠だ。
「信じ……たいけど、実際に起きているのは、私が信じたくないことばかりだよ……」
不破犬君の告白は無効になったのだと思う。でも、私はこのまま伊神さんの横にいてはいけない。もう伊神さんを解放してあげなくては。
「私、別れたくない……。伊神さんのこと、本当に好き」
この期に及んでもなお、未練たらしく厚かましい自分を心中で罵る。でも、伊神さんの本心を聞きたい。彼が出した答えを尊重し、従いたい。
「……伊神さん。伊神さんが決めて」
そして彼は、きちんと答えを用意しているのだと思う。怖いけれど、聞く覚悟は出来てる。
「……本当は別れたくないよ。でも、」
「……っ」
「でも、透子ちゃんは不破くんと一緒になるべきだ。だから……別れよう、オレたち」
「……ごめんなさい、伊神さん……。本当にごめんなさい……!」
「謝らないで。楽しかったよ、透子ちゃん。今までありがとうね」
「そんなことない! 私も楽しかった! 伊神さんがいたから私、人を好きになる気持ちを知ることが出来たの。
独占欲の怖さも、その想いの強さや深さも理解できるようになった……!
私、伊神さんのお荷物になってなきゃいいな……。私と過ごした日々が無駄な時間だったって思われたら……、それだけが怖くて……!」
「そんなわけないだろう? オレ、本当に楽しかったよ。心の底から慕ってくれたこと、きちんと届いてる。キミは、オレの最高の恋人だったよ」
「……伊神さん……」
もう抱きつくことも許されない。2人を繋ぐ糸はもう、するりとほどけてしまったから。
苦しいよ。切なくて上手く呼吸が出来ない。でも、受け入れなければ先に進むことも出来ない。未来へ渡れない。
それに、そう思っているのは伊神さんもだと思うから。お互いに乗り越えなければならない痛みなのだ。
「透子ちゃん、今までありがとう」
「伊神さん、私の方こそありがとうございました!」
涙でぐしゃぐしゃだけど、笑顔で挨拶できてよかったよ。
さようなら、どこまでも優しかった貴方。


*

伊神さんの手が、私の首に伸びた。私の首にかかっていたナットのネックレス、それを外す。
「……もう、必要ないね?」
伊神さんの頬に伝う涙。それを見て、私はまたひとつ、嗚咽を漏らす。こくりと頷いた。
「透子ちゃん、幸せになるんだよ」
私は頷く。何度も何度も頷いた。
伊神さんの声は僧侶の声。心に沁み入る聖者の声。希望は叶うかもしれないと、そんな錯覚を起こしそうになる。
「伊神さんもよ!? 絶対絶対、幸せになって!」
伊神さんが幸せにならなければ。誰よりも。だって、誰よりも優しいひとだから。それに見合うだけの幸運に預かっていて欲しいのだ。
「透子ちゃん、このドアを開けたら、オレたちはもう他人だ。でも、オレのわがままを聞いてくれるかな?」
「なに? 伊神さん」
「ずっと、友達でいて欲しい」
本当に……貴方は優しいのね。私が欲しい言葉を、最後の最後に贈ってくれるのね。
「勿論だよ……! 何言ってるの、当たり前でしょ!」
差し出された右手を握る。もう恋人同士が交わす類の握手じゃない。友人としての握手。
立ち位置は変わるけれど、それだけだと言い聞かせる。何も壊れてなどいない。
私の大切な人は、私の未来にもい続けてくれる。だから安心してこの部屋を出よう。一歩を踏み出そう。
「……バイバイ、伊神さん。また明日ね」
「バイバイ、透子ちゃん。また明日」
手が離れる。足が玄関の外へと移動する。
ドアが閉まる。
私と伊神さんの恋人関係は、こうして幕を閉じた。


【芙蓉side】

ピンポーンと来客を告げる音。23時を回っているのに、一体誰……?
怪訝に思いながらもドアを開けると、立っていたのは伊神だった。
「……伊神!? どうしたの?」
こんなことは初めてだ。何もかも初めて尽くし。
アポなしで部屋を訪れるのも、こんな夜遅くに来るのも、覇気のない弱った顔で現れたのも、何も言わず玄関へ入り、ドアを閉めたのも――。
「いが……」
「振られた」
「!?」
「……違う、オレが振ったんだった」
そう言って、伊神は私の肩にポスンと額を乗せた。
「振ったって……。あなた……潮を……!?」
「うん。さっきね……」
クラっとした。展開が急すぎて、ついていけない。
確かに私は潮の背中を押したわよ。でも、別れたのがさっきって……。
「……失恋って、苦しいね」
その姿勢のまま、気弱に呟く。私は心臓を鷲掴みにされる感覚に襲われる。
片方の恋の成就を願えば、もう片方の恋は諦めざる方向へ行くのはこの世の摂理。
分かってはいるけれど、大切な友人の恋が粉々に散ってしまった姿は、見ていて気の毒になってくる。
「伊神……」
「昔さ、八女さんもオレの部屋をこうして訪ねて来たじゃない? その時の気持ちがよく分かったよ。人恋しくなるね」
加納の件だとピンと来た。あの時私がとった行動と、今の伊神の行動は、丸きり同じだ。
あの日、私はそのまま伊神のベッドを借り、眠りについた。……え、ちょっと待って。
「い、伊神……? あのね、さすがにこのまま泊まらせることは出来ないわ? 杣庄を裏切れないし……」
「勿論帰るよ」
くすっと弱々しく笑う伊神の答えに、ホッと胸を撫で下ろす。
はぁ、と溜息を漏らしながら時折鼻をすする伊神は相当参っているようで、私はその頭を抱き締める。
「よしよし。泣いちゃいなさい。たんとお泣き」
思えば伊神の恋は波乱の連続だった。まさか、わんちゃんが原因でこんな運命を辿るなんて、思ってもみなかった。
「これでよかったんだよね? オレのエゴで彼女を引き留めるなんて真似、出来なかった……」
「引き留めたら、潮は留まったでしょうね」
「それが分かってた。だから突き離すしかなかった」
「そう……」
「オレ、不破くんと喋ったんだ。何もかも聞いたよ。友達にもなった」
「あら、凄いじゃない」
「でしょ。……だからね、もうオレの出る幕じゃないんだなって思ったんだ。オレの役目は終わり。透子ちゃんのナイト役も、恋人役も」
「……お疲れさま」
「……うん」
偉いでしょ、褒めて。
まるでそんな心の声が聴こえてきそうだった。
「私ね、いまとても嬉しいわ」
「どうして?」
「伊神がこうして私を頼ってくれて。ありがとう」
「お礼を言うのはオレの方だよ。……文字通り八女さんの胸を借りたこと、杣庄くんには内緒にしてて欲しいな」
私は苦笑して、OKと言った。
「八女さん、これ」
ごそごそとズボンのポケットから取り出したのは、ナットだった。
「これってひょっとして、潮の首にずっとかかってたナット?」
「うん、そう。返して貰った」
「伊神……」
「オレね、今からちょっと、計画立ててることがあって」
今度は珍しく、悪ガキのように笑ったので、私はとても興味をそそられた。
「なぁに?」
「透子ちゃんと不破くんが結婚して子供が出来たら、ベビーカーを造って贈ろうと思うんだ。
その時に、このナットを使おうと思う。あ、別に変な意味じゃないよ。友情の証としてね」
「……貴方らしいわ! 素敵だと思う」
ちゃんと未来を見据えることが出来るのね。本当、強いひとよ、貴方って。
私が微笑むと、伊神も笑い返してくれた。
そう、貴方はそうでなくちゃね。


*

「ねぇ、恋人がいなくなってヒマでしょ? ちょっと私を手伝ってくれないかしら」
「傷心に浸ってるオレを、もう扱き使うの? 碩人や幹久も言ってるけど、八女さんって稀に人遣いが荒いよね」
「あら、言うようになったわね。それだけ言えれば充分よ」
「それで、何を手伝えばいいんだい?」
「人に会って欲しいの」
「勿論いいけど……誰?」
「千早歴」
「……分かったよ、八女さん」
伊神にとっても、千早はキーパーソンたる人物だ。千早の行動如何によっては、わんちゃんや潮の未来にも関わってくるのだから。
「でも、今まで一度も会話したことないんだ。大丈夫かな、オレで」
「だから適役なのよ。それに、私はこれ以上何も指示しないわ。千早と会って、話してみて。それだけでいいの」
「? 指示ないの? 言ってる意味がよく分からないな……」 
「いいのいいの。天然者同士、きっと『何とかなる』わよ。貴方自身が、千早との会話を楽しみなさいな」
「また随分と小難しいこと言ってくれるね。まぁ今に始まったことじゃないし、お安い御用だから引き受けるけどさ」
そう言うと、伊神は玄関のドアを開けた。自分の部屋に戻るのだろう。
「もう肩を貸さなくて大丈夫?」
「平気だよ。ありがとう」
「伊神、あんたはとことんいい男なんだから。絶対素敵な人、見付かると思うわ」
「だといいけどね」
はは、と笑って手を振る。
「夜分にごめん。でも、ありがとう。……じゃあね、お休みなさい」
「お休み、伊神」
静かにドアが閉まり、伊神が歩き去る。
また1つ、恋が終わった。でもきっと、生まれる恋もあるのだろう。
「そう思わないと、やっていけないわよ」
あとは、そう。千早。千早歴。
彼女が最後の鍵を握っている。


2014.07.11
2020.02.02 改稿


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