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スペインの画学校に通って描いたり、スケッチ旅行に行った時の絵です。水彩画 「エスパニア広場の王宮」油絵 「静物」水彩画 「スペイン郊外の街」水彩画 「風車の街 Canpo de Criptana」パステル画 「男の顔」水彩画 「夜の石畳の街角」油絵 「裸婦」
2014/10/25
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夕焼けを描くのは紅葉を描くのと同様に、むつかしい。なぜなら、それ自体が、色彩鮮やかで美しいから、そのまま、描くと、風呂屋のタイルの富士山のように、安っぽい絵になってしまう。でも、銀座の画廊「一枚の絵」では、そんな絵が結構売れるようで、売上上位の「夕焼け専門の画家」がいる。そういうわけで、夕焼けを描くことは、あまりなかった。「亡くなったかみさんの両親をハワイに連れて行きたいから。」娘のそんな願いがかなって、娘はハワイで身内だけの結婚式を行った。小さな丘の上の別荘を借り切って楽団を呼び、花嫁の歩く床には、花を敷き詰めてあった。夜景を見ながらの素敵な結婚披露宴だった。翌日、浜辺で憩っていると汚染されてないハワイの夕焼けがほんとに美しかった。迷ったけど持参したクレパスと水彩で思い切って夕焼けに思い切って挑戦。心の底から魂がほとばしるような絵を描きたいと思っていた頃だったので、荒削りのクレパスのタッチを走らせて一気に描いた一枚。実を言うと自分でも気に入っている一枚です。どんなかな?八月の濡れた砂デザイン・アート部門のプログランキング参加中。クリックして応援してくださいね。
2010/10/10
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日本の国宝「弥勒菩薩」などの仏像の原点がパキスタンにある。そこは、ギリシャと日本をつなぐ、不思議な接点でもあった。首都イスラマバードから1時間、タキシラと呼ばれる丘がある。遠くから眺めると、潅木のみの荒涼とした丘陵。そこにガンダーラ美術の傑作といわれる多くの仏像が眠っていた。仏陀の灰を収めた舎利塔を支えるのは、ギリシャのアトラス神、印度仏教とギリシャの文化の交じり合ったさまざまな様相を呈す。その彫像技術はやがて、中国、朝鮮を経て日本に伝えられた。もともと偶像崇拝がなかった仏教に仏像製作を教えたのは、遠いギリシャの地からはるばる連れてこられた彫刻家だった。BC326年アレクサンダー大王はペルシャの王を執拗に追跡、ペルシャの王は、自分は何故こんな目にあわねばならぬのかと悲運をかこちながら逃避行をつづけたが、やがて度重なる退却に嫌気をさした部下によって殺害される。大王はさらに東征を続けて、インダス川流域に侵入していった。そんな遠い昔の歴史が日本の文化に大きな影響を与えることとなった。もし、彼がタキシラにギリシャ文化を伝えなければ‥‥‥‥日本の「弥勒菩薩」などの仏像も存在しなかったかもしれない。タキシラは、76年のクシャーナ朝の下、ガンダーラ美術が開花する。しかし5世紀になると白い匈奴と呼ばれるイランの遊牧民族が侵入、多くの仏像が破壊されて土に埋められてしまった。1872年にイギリス人考古学者が発掘し、ガンダーラ美術の傑作といわれるギリシャ風の仏像や仏舎利塔が数多く現出した。しかし、この世界遺産の仏教遺跡は、イスラムの国に残った為、簡単な屋根に覆われただけで風雨に晒され放置されていた。案内の若者は他の丘陵も発掘すれば遺跡が出土するという。しかし誰も手をつけることなくこのまま眠り続けるだろう。もしガンダーラ遺跡が、印度領にあったなら事態は違っていただろうに、この郊外の荒地の丘陵の地は、今はただ放牧されたヤギのもの悲しい鳴き声がこだまするのみだった。今日の2枚 「ガンダーラの仏像」デザイン・アート部門のプログランキング参加中。クリックして応援してくださいね。
2010/05/08
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北の美しいオアシス都市、ムガール帝国の古代都市ラホールでは、爆弾を身につけた若者が、仲間が尋問されている警察で自爆した。45人が死亡したそう。このカラチでも、宗教抗争でのテロで先日数十人が死亡。しかし、この東京並みの大都会では、交通事故のようなものと、割り切って、たくさんの日本人が生活しています。先日、行きたかった待望のカラチのバザール(市場)へ。価値観が違うゆえの喜びがしきり。まずは、6種類近いターメリック他のカレー粉が、樽に山盛りあった。頼むと300円ほどで、袋いっぱいに、6種類を目の前でひしゃくでブレンドして、ほいとわたしてくれた。菅平のスキー場にあった、パキスタンカレーの深みのあるなんともいえぬおいしさに魅せられたので、これが一番わくわくする買い物だった。長い間、やけに高いSBカレーの小さな缶しかなかった日本のカレー粉の食の貧しさに、改めて気づく感あり。このカレー粉を買い占めて池袋の西武の地下マーケットで実演し、ブレンドして売ったらみんな喜ぶだろうに。 次は、石ころのように無造作に樽のつんである、ピンク色の岩塩。1kg150円。ただみたいなものだけど、、世界中の岩塩を味比べしている僕にとって、宝石のような産物。これを摺り鉦でおろしたりしてオリーブオイルで新鮮なサラダを食べたり、梅干をつくると、うまみのあるおいしい梅干ができる。食卓塩というイオン交換樹脂でできたNaCLのみの精製塩のまずさに長い間日本人は気づかなかった。カリウムなどの多くのミネラルを含んだ岩塩のおいしさは、格別だし、身体に必要なミネラルの宝庫でもある。 バザーなどでの買い物は、ここなっつの実、柘榴、みかん、岩塩、石の花瓶。螺旋状に拡大縮小する木の果物お皿。そしてカレー粉。楽しい買い物でした。
2010/03/14
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ある夜、ホテルのいずくかより、にぎやかなる異国のしらべ。ブーゲンビリアの道をたどれば、大ホールにて盛大なうたげの宴。海外郵便会社の年に一度の謝恩パーティとかや。手招きされて周囲をながむるに、舞台で歌うも、踊り狂う輩もみな髯をたくわえし中年の男ばかり。美しき乙女は、わずかに数名、席にいるのみ。女の居場所は、家庭か墓場しかない。」とはこの国の男の弁。女が顔を見せるは親族まで、仕事に就くなどもってのほか。短パンでジョギングしたり水着で泳ぐなど、一生かなわぬ国。したがって、企業のうたげの宴では、かくなる髯の男が踊り狂う!この国に到りて、はや一月になるに、いまだパキスタンのおみなご、いかなるかんばせなりしか、鼻や口のあるかすら、さだかならず。仕方なく所望されて描くは、気の進まぬ、かくのごとき中年男ばかり。もっとも、この人はゴルフ場の総支配人でゴルフはシングルの腕前。この絵が気に入ったらしく店に飾り、気前よく本皮のゴルフシューズと欲しかった赤いユニークな木のパターを定価の半額に割引をしてくれた。パキスタンでは、ゴルフは18ホールがたった千円!週末はいつも、緑の草原のみならず池や林の中まで変化を求めながら散歩しています。デザイン・アート部門のプログランキング参加中。クリックして応援してくださいね。
2010/03/07
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先週、ドイツのクリスマスフェスタの旅で、近郊の風景を描いた。これはニュールンベルグへのバスの中で見た心象風景。水彩画 「夕暮れの丘」ドナウ河の河岸には、歩きたい細道、描きたい風景がたくさん。水彩画 「河岸の遊歩道」 以上は、ダーマトグラフという黒い濃い鉛筆で描いて水彩を塗ったもの。描きやすいが説明的な輪郭線。それの全く無い絵を描いてみたくなった。そこで、一切下書きせずに直接、水彩で描いたのが次の一枚。ドイツで珍しく戦禍にあわなかったレーベンスブルグの古い町並み。色面のみで建物の立体を構成すると心地よく陰影が描けた初めての体験。水彩画 「ドイツの古い町並み」 デザイン・アート部門のプログランキング参加中。クリックして応援してくださいね。
2009/12/15
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先週、ドイツのクリスマスフェスタに行ってきました。12月のドイツは、どこの街の広場にもテント村ができる。ガラスや紙の色とりどりの灯篭や工芸品やパブの店でいっぱい。ハーブの入った赤ワイン、ソーセージ、クレープ等の店に、若いカップルや家族づれのにぎやかな列ができる。たくさんの人で終日にぎわい、特に夜の光景が美しい。 ライン川の向こうに獣の皮を着た野蛮人がいると、ローマ人に言われたゲルマン民族の子孫であるドイツ人。そんなドイツ人に美人はいないと言うひそかな確信をもっていたのですが、クレープハウスの前で、偶然、ふたりの美女に遭遇! ニュールンベルグのフェスタ広場を高台に登ると、ここを繁栄させた城主のお城が黄葉の中にあった。「ニュールンベルグ城」 私の好きなドナウのさざなみという歌の川べりを描いた。日本のおろかな官僚たちが、どれだけ日本の河岸を破壊したことか。ドイツの河べりは、みにくいコンクリートがなくて美しい。「ドナウの河岸」 バスでとおりすぎりる遠くの夕焼けの野を描いた心象風景。「遠い野の夕焼け」つづくデザイン・アート部門のプログランキング参加中。クリックして応援してくださいね。
2009/12/12
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北欧のジャズは、しかめっ面の難解なのが多い。ブラジルのジャズは陽気でリズミカル。そのうちに、ウエイトレスまでが、踊りだした。南半球のジャズは、タンゴ同様、身体で楽しむ。そのうち、観客も一緒に踊りだし、私のクレヨンも、箱から出て踊り始めた。リーダーのこのおじさんが、にっこり笑って話しかける。「その絵、俺にくれんか。」声もいいが、風貌も良かった。ジャズに聴きほれ、カクテルに酔って、心地よく描いた、今夜の一枚 「「ジャズは身体で聴こう」デザイン・アート部門のプログランキング参加中。クリックして応援してくださいね。
2009/03/18
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ブラジルのリゾート、ブジオスは、不夜城の町。夜10時頃、レストラン街からジャズが聴こえてきた。好きなサックスのソロがろうろうと響く。個々の演奏が、どれもレベルが高い。そして演奏を心から楽しんでいる風情がいい。このカスタネットの爺さんが、奇妙だった。妙な仕草で、首や腰を、ひょいと動かす。そのタイミングが絶妙で、心地よい。身体全体のリズムでジャズを演奏していた。観客はシックな若者たちがおおく、座る席はいっぱいで、立ち見の人々も。そんな風にブジオスの夜は更けていった。つづくデザイン・アート部門のプログランキング参加中。クリックして応援してくださいね。
2009/03/17
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1年間の南米での楽しい仕事を終えて、2月半ばに日本に戻りました。しばらく、「ブラジル水彩画紀行」を紹介します。まずは、正月をすごしたブラジル有数のリゾート、「ブジオス」リオから数時間の、たくさんのビーチに囲まれた小さな半島。
2009/03/09
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正月休暇をすごしたブジオスは、リオから2時間半の美しい浜辺にが無数にあるという小さな半島でした。ブジオス 浜辺には、多数の小船が浮かんでいました。いま、まさに大きなパパイヤ2個を積んで出航!出航 私も3時間の島めぐり遊覧船に乗り込んでいざ出航。私が乗ったのは、あとで中産階級船とわかりました。いざ出発 こちらは、上流階級船の優雅な島めぐり。ゆったりとねそべって、くつろげます。高級船 こちらは、庶民階級船。積めるだけ積み込むので、ねそべるスペースはどこにもありません。が、たくさんの人と友達になれます。庶民船 美しいブジオス半島、こんな浜辺が無数に点在していました。ブジオスビーチ遠景さあ、しばらく停泊するから、ここで飛び込めとドボンドボン。さあ、とびこめ昔、流体力学の教授が言ったのを、思い出しました。「優れた機能をもったものは美しい流線型をしている」と。「なるほど。」判るような気がしました。流線形 今日の一枚 「浜辺巡りの遊覧船」寒流の上ってくる冷たいチリの太平洋と違って、ブラジルの大西洋の海は暖かく柔らかい水の感触。そして、初めての真夏の正月元旦。くつろぐには南半球もいいものです。デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてくださいね。
2009/01/24
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リオデジャネイロはやはりサンバの街。賑やかな音楽が遠くから・・。近寄ってみると。海岸通りを激しい腰の振りのサンバチームが行き来していた。サンバチーム 中心になって、激しく踊っていた娘をサンバチームが休憩の合間に描いてプレゼント。こんな触れ合いが楽しい旅のひととき。a href="http://photozou.jp/photo/show/184663/16841471">サンバの踊り子さて、サンバショーに大枚1万円を払ったが、その価値はあった。衣装も、踊り子も美しく、踊りは妖艶。野性的な表情が、なお踊りに妖しさを増した。美しいサンバショー風の盆を「静の舞踊」とするなら、これはまさしく動の舞踊」踊り子の飛び散る汗が、ふりかかりそうな最前列だった。サンバショーショーの最後には、観客がどこの国かの紹介がある。各国の代表が舞台にあがって、お国自慢を踊る。日本代表ただひとり!上を向いて歩こうを歌わされた。踊り子 ショーは、22時から2時間、帰ったらすでに深夜。明日は、ブージオスという海辺のリゾートへ。しかし寝るのは惜しいような夜だったので、ふたたび、コパカバーナ海岸のカフェで麦酒。踊り子 次回は、ブラジルの夏のリゾート、ブージオス海岸。美しい浜辺が無数にある半島の宝石のような町でした。デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてくださいね。
2009/01/18
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南米チリに仕事で滞在してはや1年、いつのまにか休日は、南米の歴史をたどる旅となっていった。ペルーのマチュピチュは、滅びゆく王国の悲しみの城塞、100人の宮殿の侍女は、去る時にミイラにされていた。空中都市マチュピチュ チリのモアイ像の島では、奴隷狩りにあった住民の悲劇、1万人の住民は一時期、11人にまで減っていたという。アルゼンチンのブエノスアイレスは哀切なタンゴの調べ。イタリア移民の帰路を断たれた切ない望郷の念があった。残るはブラジル、ここには悲しみの翳りがどこにもない。時は夏の盛り。迷ったあげく、美しいビーチ巡りに決定。年末の繁忙期をネットでホテル探し。苦労した甲斐あって、旅行会社の半値で、最適な場所を旅することができた。題して、正月休みの「ブラジル水彩画紀行ひとり旅」コパカバーナ海岸 これが、名にし負うコパカバーナ海岸コパカバーナは昼よりも夜が幻想的でした。コパカバーナ海岸の夜 イパネマの娘で有名なイパネマの海岸はその隣。より高級でシックなブティックがならぶ雰囲気の良い一角。浜辺の人々も、こちらはがらりと高級志向の方ばかり。イパネマの海岸 脚は大学ワンダーフォーゲル部で鍛えた健脚。浜辺をコパカバーナからイパネマまで歩いた。やがて波の音が闇に消える頃。夕暮れはどこも美しい。イパネマの夕暮れ 夕焼けを背景に、ビーチテニスに興じるふたり。のびやかな肢体のシルエットがとても印象的だった。黄昏の人影 人間やれば何でもできるとはいえ、よく5年もかけて、この世界最大のキリスト像(重量635トン)を急峻な山上に作ったもの。この絵を描いたおかげで、ツアーバスに遅れて自分で帰る羽目に。しかし、その巨大さに圧倒され去りがたい場所ではありました。山上のキリスト像変わった東洋人に驚いてにっと笑ったブラジル娘がいた。これぞブラジル娘。恥じらう可愛さ。さっそくモデルになってもらった。ブラジル娘 日本人の、平坦な起伏の顔と違って、特徴がたくさん。したがって、気持ち良く、たのしく描いた1枚とはなった。ブラジル娘 さて、ブラジルと言えば豊満な肢体あらわなサンバの国。次回は、サンバーショー。夜9時にお迎えにあがります。踊り子の飾りつづく。
2009/01/14
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「南へ行ったことあるかい?」「泊まるんだったら、プエルトバラスがいいよ」そんなチリの友人の勧めに従って、その湖畔の町に二泊した。チリの富士 湖畔に立ち並ぶ多くの別荘。チリは平均給与が、日本の1/4以下。しかし、こういう別荘が1千万代で買える。湖畔この宝石のような町の丘陵地帯を、一日かけて、トレッキングしました。ローストチキン半身とビールを買ってこの丘の野辺でお昼、美味しかった。美しい町明治維新の頃、数千人のドイツ人が移住して発展した。日本の南米移民は、ずさんな外務省のために多くは辛酸をなめたが、ここは大成功だったよう。受け入れを行ったドイツ人がしっかりしていた。ドイツの移住者たち移住した人々は、ドイツ風の風雅な建物を建て町中を花木で満たし化粧を施した。花の塔 途中で、馬が草を食べるのをやめて私を見つめた。日ごろ見かけない東洋人が珍しかったのだろう。何かもの言いたげな表情をしてじっと動かない。「おまえ、英語話せるかい?」「・・・・・・・・・・・・」やはりスペイン語圏の馬は英語は理解できないようだった。うまが合いそうだったのに残念。スペイン語圏の馬 丘の上から石段を降りていくと、青いうろこ板でおおわれた、メルフェンチックな家を発見。今度来たら、この家に泊まろう!と思って近づいてよくよく見たら、なんと昨夜、泊まった民宿でした。1泊朝食付で2800円。うろこ状の小さな板を重ねた外壁は、湿気が室内に及ばぬような知恵だとか。鱗壁の青い家 一日、町の後ろの丘をぐるりとトレッキングして、描いた一枚 水彩画 「プエルトバラスの町」プエルトバラスの町デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてください。
2008/11/27
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大きな湖畔の町、独逸風のプエルトヴァラス周辺には大小、無数の湖沼が広がっていた。オソルノ火山に行く途中で、その湖沼のひとつを小舟で探勝できると聞いて、参加した。。まず茂った緑陰の中を舟は進んでいく。湖沼めぐり まずは湖上の麗人をふたり。ツアーで一緒になった、チリ美人。チリ美人 あまり見かけない容貌だなと思ったら、遠いロシアからやってきた娘さんでした。ロシア美人 湖水をわたる初夏の心地よい風を受けて、舟は、更に湖水の奥へ奥へと進んで行った。湖沼めぐりにて やがてアンデスの雪山を背景に広い湖沼へでた。湖畔を滑る今日の一枚 水彩画 「湖沼の陰影」 デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてください。
2008/11/22
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チリの美しい富士山「バルカン オソルノ」。楽しみながら撮った写真を紹介します。富士山のカメラマンというのは、超美人モデルを専属にしているようなもの。どんなに下手に撮っても、それなりの作品になる。まずは 「恋人たち」恋人たち 「風薫る 湖上に憩う 帆影かな」湖畔の富士 湖では、こういう姿が駆け抜けていった。「はつなつの 風をはらんで 帆が駆ける」湖を駆ける 湖畔の町、プエルトバラスの憩いの場。「夏湖畔 去りがたくして 暮るるまで」ゆうもやにけむると、山肌は淡いクリーム色に変わっていった。このほのかなあかるさが、チリは長くて9時くらいまで続く。ものみな溶けゆきて、とても大好きなひととき。たそがれの富士一日、この丘の上に登って、湖畔を眺めながらスケッチブック片手にトレッキングしました。後日、また絵を紹介します。今日の一枚 水彩画 「湖畔の別荘地」デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてください。
2008/11/20
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チリは左を海、右をアンデス山脈の、縦4500kmの細長い国。パタゴニアに近いチリの南部地方には、広大な湖沼が多い。季節によっては、アンデスの山々でスキーをしたその日に、湖で泳ぐこともできるような、自然に恵まれた国であるが、俳句を作る人にとっては、季語が四季と一致しない困った国。この湖の向こうは、アルゼンチン。ペトロウエのみずうみ 雪山を背景に、静かな湖でウインドサーフィン。ほんとに滑るように走って、心地よさそうでした。みずうみを駆けるこれは、オソルノ火山の中腹から、チリ最大の湖を眺める人々。ディジカメの20倍ズームも、こういう時には効果を発揮。人のシルエットって、意外と、性別、年齢、人柄までわかりそう。湖の人々湖巡りのトレッキングの最後の湖では、すでに夕暮れ。よりそう恋人同士の影が、斜光にまばゆく輝く頃。「みずうみ」とかけて「あなたの胸のなか」と解く。そのこころは・・・・・・、「心を解き放つことができる空間」湖沼の恋人たち今日の一枚 「太陽の恵み」風景写真を撮りながら、思いました。すべては太陽が恵んでくれた贈り物。自然の恵み デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてください。
2008/11/16
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パタゴニアと言う名の地域は、人を寄せ付けない自然のままの最南端から、北のチロエ島まで1500km以上の広大な領域。今回、旅したチロエ島も、いまだにダーウインがビーグル号で航海した頃と、変わってない自然が残っているとか。朝霧 観光協会の所蔵品の中から撮らせてもらった、そんな美しい風景。長い間、ほとんど未開の雨の多い樹林におおわれた島。スペイン人は黄金を求めて侵入し、オランダの海賊は、反抗した現地人の成人男子を惨殺し、若い男女を拉致した。しかし、明治維新の頃、やってきたドイツ人は、違っていた。たそがれのチロエ島 「寒さに弱い」スペイン系のチリ政府の依頼で、「寒さに強い」ドイツ人が4000人、この地方に入植した。彼らは樹林を開拓しただけでなく、69ものの教会を作って、現地の人々と交流、教化し美しい町を作っていった。開拓された島チロエの岸辺 交易する船を侵入する外敵から守ったアンクドの要塞。写っているのは典型的なチリ美人カロリーナ嬢。日本と違って太っていても全くかまわない。チリ美人の必須条件は、胸とお尻が大きいこと。ツアーを一緒にまわりましたが、チリの自然のようにのびやかで、おおらかなお嬢さんでした。チロエの要塞 このチロエ島は、描きたくなるような風景がたくさんあって、レンタカーを借りて、島の岸辺を一周したくなりました。でも、この島は、南米第二の大きな島なので、描きながら旅したら、数日かかりそうな素敵な島でした。 川べりの町 今日の一枚 「チロエ島の岸辺」チロエ島 デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてください。
2008/11/16
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パタゴニア紀行 第1弾南米チリと日本までは、途中、隔てるもののない大海原したがって、海の向こうに、時折、蜃気楼が現れくっきりと富士の霊峰が見事にその美しい姿を現す。まさしく世界で唯一無比の日本人の心のふるさと。と、前回書いたら、たくさんの方が信じられましたが、まことに、すみませんでした。実は、これは、前回のヴィラリカ山とは別のチリの富士。パタゴニアに近い、チリ国立公園の雄峰、オソルノ火山です。湖畔の富士 「南に行ったことあるかい?」チリ人のよく言う言葉。チリの北は乾燥地帯だが、南は緑濃い美しい風景が開ける。10月末の3連休、その南の中心、プエルトモン市へ。ここからパタゴニア南端行きの2泊3日の巡航船がでている。この周辺は、チリでも最も緑豊かで美しいところとか。南米一と言われる湖、オソルノ火山は、その湖畔にあった。湖畔の宝石のような町プエルトバラスに2泊し、3日間の周辺のトレッキングを楽しんだ。オソルノ火山チリには、富士に似た単独峰の美しい火山が3山ある。オソルノは、昭和新山らしき裾野の突起まで、よく似ていた。チリ富士 さて、今日のトレッキングは、湖畔を巡って、オソルノ山の直下までやってきました。遠景は、湖畔のもうひとつの雪嶺。湖畔をめぐって オソルノ火山は、標高2652m。春スキーのメッカ。しかし、一見なだらかにみえるその登頂は厳しく、山頂直下は45度の急登ののち、ほぼ垂直の登攀、ザイルで降下中に、時折深いクレバスに落下して救助不能となって死を迎える若者がいるとか。頂上直下 湖沼をつなぐ河川が溶岩でせき止められてできたぺトロウエの滝ペトロウエの滝 山あり湖沼あり滝ありの、変幻豊かなチリの自然。このチリと言う国は、南米では異色の存在の感あり。恵まれた自然のゆえか、人々は心優しく秩序ただしく、、南米特有の血気盛んさやテロとか暴動とは無縁の国。滝の彼方に今日の一枚 「ヴァルカン オソルノ VOLCAN OSORNO 」チリ富士オソルノ デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてください。
2008/11/13
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イースター島は、大陸から4800km離れている。四周を海に囲まれた孤立した島ゆえに自然に風化されるべきところを人間の歴史によっても翻弄されてきた。島はかっては熱帯雨林の密林で豊かに果実の実る島だった。モアイ戦争 この小さな平坦な島には池も川もない。飲料水の多くは、椰子の実などの果汁。それらが、人々の喉をうるおしていた。しかしモアイ像の搬送に大量の木を切り倒した為に表土が流出、豊穣な土壌が消失し養える人口が減少。それも人口減少の一因とか。この快適な丘陵も、人間が荒廃させた馬しか育たぬ草原かもしれない。おかげで、馬にとっては、この上なく住みやすい別天地となっていた。海辺の草原 トレッキングする楽しみは、いろんなものに出会うこと。まず丘陵には、昔、人が住んでいた基礎の跡が無数にあった。そして、大きな陥没。ペルー人による奴隷狩りからのがれて、800mもの深い洞窟を掘って住んでいた人々の名残りだった。この写真はピンボケ。映っているのは、この島で知り合った日本人。人使いの荒い会社を退社して、世界一周36万円の切符を買って、3か月ほど世界中を旅しているという、さわやかな若者でした。長い洞窟 アキビのモアイ像を見ての帰り、戻るのは味気ない、海沿いの道なき道をたどると言う案が正解だった。バスツアーを断ってなかったら、出会えなかった、絶壁沿いの道は、荒々しくかつ爽快だった。断崖トレッキング 日本の海岸線は、コンクリート工事で天下りしようとする、愚かで節操のない官僚によって、白砂青浪の砂浜のすでに60%が無用なテトラポットなどで醜く破壊されているが、ここは、太古よりそのままの景観である。絶え間ない波涛 今日の1枚 「残照の海」残照の海 デザイン・アート部門のプログランキング。ブログが気にったら、クリックしてください。
2008/11/04
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I am now near Patagonia staying at pretty Hotel near a lake where I can see Osoro volcano which well resemble Mount Fuji. I drunk too much wine by exchanging merry conversation with German guy and Chillean lady last night. Around here many German and English people entered and developped native land, then landscape and houses have the same impression as those in Europe. Today I will go nearer the volcano and draw paintings . Later I will show many beautifull photos of lakes ,mountains and people.See you later again.
2008/11/01
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ゴールズワージーの珠玉の作品「林檎の木」は二人の青年が英国のヒースの丘陵をトレッキングするところから始まる。そして一夜の宿で天真爛漫な乙女と出会い・・・・・かなしい結末に至る、胸がさけるようなせつない物語。さて、今日は、イースター島をめぐる、その快適な丘陵トレッキング。汗水たらして高山を登るのは達成感もあり魅力はたくさんあるけれど、なだらかな丘陵をトレッキングするのも最近好きになってきた。快適なトレッキングイースター島のアキビという丘に7体のモアイ像があるという。帰りは海辺の道なき道をたどって帰ろうとあてづっぽうな計画をたてた。広い快適な草原に忽然とモアイ像がのんびりと姿を現した。アキビのモアイ像 近寄ってみると結構、でっかいし威厳があった。後ろに人骨が埋めてあったことから7人の部族長の墓だとか。近寄ると大きい モアイ像の大きさを比較したもの。とにかく大きいのはケタはずれ。右から二番目のちっぽけな像が「偉大な人間」である。「為せば成る、為さねばならに何事も・・・・」たしかにそう実感!そこの受験生!人間の力は発揮すればすごいよ。がんばれ!モアイ像の大きさ ところで威風堂々としたモアイ像も後ろにまわれば、どこか飄々としていて、のんびりと海風に吹かれながらこんな会話でも交わしていそうな雰囲気だった。「あの丘一つ越えた村に可愛い娘がいるそうだがな。」「ほう、喜作どんとこの嫁っこにどうかいなあ。」「喜作のせがれは、まだ後家にうつつぬかしとるつう噂だがな。」「若え時に一度は狂った方が良か。歳とって狂ったら始末におえん」「なんや、おいのことば、言いいよっなさっと?仕方無かばい。走り出したら止まらんとやけん。」後ろ姿はユーモラス トレッキングの面白さは、思いがけないものに出会うこと。草原に深いくぼみがあり、棕櫚で覆われていたが、回ってみると、人間が作った巨大な深い洞窟があった。洞窟の入り口 入口には、火を炊いたかまどが、そのまま残っていて、いまにも奥から人がでてきそうな生々しい気配。19世紀のペルー人による奴隷狩りから逃げるため、一部の島民はこの洞窟で生活していたという。洞窟 つづく。今日の水彩画 「部族長たち」 デザイン・アート部門のプログランキング。このブログが気にったら、クリックしてください。
2008/10/28
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「イースタ島トレッキング続編」島の支配権をめぐる鳥の卵競争の島は、急峻な断崖絶壁の下にあった。この絶壁をどうやって降りて行ったかを再現した映像を島のホテルで見た。映画の題名は「Rapa Nui」。島の原住民名。ビデオショップにもある一見の価値ある映画。俳優ケビンコスナーがプロデュースしたものでモアイ像の移送シーンも再現してある貴重な作品。「Rapa Nui 予告編」「卵取り競争のシーン」今日の一枚 「伝説の島」鳥の住む島 火山の火口を一周するトレッキングは、崩壊がはげしく禁止。その崩れやすい絶壁で、映画撮影はよくやれたもの。火山に登ったあと、海辺の道をたどって帰った。島は絶海の孤島だけに、海辺の風景が美しい。太平洋 日が傾くころ、海辺のレストランにたどり着いた。チリで「唯一」美味しいのは、シェビッチェという料理。まぐろや鮭をぶつ切りにしてサラダに載せて塩とオリーブ油だけ。これを山歩きのあと、海辺のレストランで初めて食べたが、冷えたビールによく合ってとても美味しかった。試す価値のある、簡単だが美味しい魚の食べ方。 山頂からの四周海ばかりの景色は、地球は丸いを実感できた。海図も羅針盤もなしに島を行き来した古代ポリネシア人の勇気と不思議な知恵もさることながら、島の人々が、自由に行き交う鳥を神とあがめた理由も理解できた。そんなことを考えながら酔いがまわってくる頃、目の前を島の娘が、自転車で通り過ぎていった。こんな一瞬の至福のために、ひとり旅を続けている。海辺の残照 デザイン・アート部門のプログランキング参加中。良かったら1日1回クリックしてください。
2008/10/25
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イースター島に泊まった夜、島の娘たちのダンスショウがあったが、彼女らの先祖は、あまり幸せではなかった。一時1万人いた島民は、あるとき108人に減っていたと言う。ペルーに鉱山奴隷として拉致された数、実に4000人。さらに欧州人がもたらたした天然痘などが不幸を招いた。可愛い踊り子たち 翌朝、バスツアーの大半は断って、自分の脚で歩くことにした。まずは、遠くに見える火山の火口湖まで1日トレッキング。目的地にただバスで行くだけの旅行は味気ないもの。途中の風景、風の音、鳥の声、潮の香を味あわなければ。みなみの火山へ島の小さな中心は、遠くに去って、灌木帯を登っていく。太平洋に囲まれた島の全貌が見えてきて馬が放牧された広い草原を登っていった。町とおき山麓 イースター島は火山の噴火でできた孤島。大きな火口湖は、尾瀬の湿原のようだった。火口湖へ 山頂に不思議な形状の石室群がたくさんあった。かって、ある神事のおり、人が居住していたという。低い天井の丸い室内だが、明かりは入口だけで中は暗かった。不思議な住居跡 モアイ戦争のあと、この島に移り住んだポリネシア人は、部族間の争いを終焉させるため、ユニークな案を出した。絶壁の向こうの島各部族の若者が、この急峻な絶壁を下り、島の鳥の卵を真っ先に取ってきたら、その部族が翌年の政治を司ると。真偽はさだかではないが伝説がほんとうなら悲しい話、負けた若者達は、この石室で餓えて死を迎えねばならなかったとか。今日の一枚 「遠くを見つめるモアイ像」つづく。デザイン・アート部門のプログランキング参加中。気に入ったら1日1回クリックして応援してください。
2008/10/19
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さて親友ロドリゴの誕生パーティの宴もたけなわ。興がのってきたら、心地よくダンスを踊りだす人も。自然体で、ゆっくりと身体をうごかして。陶酔しているような踊り方は、見てても絵になります。ハンサムなロドリゴの友人は、みな美人揃い。チリでは、全員、会った時と別れる時は、抱き合って頬にキスする「義務」があります。私も「やむをえず」その義務を遂行しました!これは、その後、街でばったり会った時も、この「義務」は遂行しなければなりません。いやあ。こげん、よか風習は、なか。陽気なチリ美人チリでは名前を日本語で書いてあげると、とても喜ばれます。知らないのをいいことに、ときどきいたずらします。エドワルド君、ごめんな。エドワルド君 江戸の悪人といえばエドワルド君。その多くは霞が関界隈に棲息しています。国家破産の危機なのに眠ってるかのごとく、何の策も打たない絶滅寸前の下等動物。学名「ハタラカントテ・タカルザウルス」俗称「ジミントウ=自眠党」。よく居眠りします。もうひとつの悪人達は、昔は多少働いたけど、最近はとんと働かず他人に寝食をたかる寄生動物。別名「過去官僚」。性根が腐ったような悪人たちです。この肥満動物は、特殊法人という隠れ家で棲息し、これを飼うのに3兆円も餌代がかかっています。貴方の憧れる江戸は、そんなに良いとこではありません。お口直しの今日の一枚 「おしゃれな会話」おしゃれな会話 デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてくださいね。
2008/10/14
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先週、あるパーティに誘われて参加したら、陽気なチリ美人と知り合う機会がありました。チリの若い女性 「自分の誕生パーティやるんだけど、こないか」週末に二人でテニスしているロドリゴから誘いの電話。彼はジャズを演奏したりするパブレストランの若旦那。スパゲッティなど料理上手で心が真っ直ぐな気の良い男。9時に始まり、シャンペントピザがふるまわれ、延々と深夜一時迄、語っては飲みのパーティ。「ブロス」は、日本語ではなんて言うんだ?「カンペイ」 じゃあみんなで「かんぺーーーーい!」パブの誕生パーティ チリの男は描きたくなる起伏のある顔をしています。これ、似てる? その夜、チリのアートスクールの先生がいた。似顔絵を見て、「2時間アートについて講義して」と頼まれまれて、びっくり。絵画について語ることは山ほどあるから、まあいいかな。さて最後の一枚 「シックなチリ美人」赤いテープを首に巻いたおしゃれがとても似合っていました。チリ美人デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてくださいね。
2008/10/12
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南米チリの滞在している街の近くに小さなナイアガラ瀑布があるそう。そう聞いて、さっそく、土曜日の午後スケッチブックを持ってでかけました。住んでる街からバスに揺られて1時間半。バスを降りたら、もうその滝の壮観さが、遠望できました。S alto del Laja 「ラハの滝」遠い瀑布 ナイアガラ瀑布ほどではなかったけど、ここも近寄っていくと、圧巻でした。峡谷をえぐり、かなりの水量の瀑布が一気に落下。幅7mの華厳の滝と違って幅100mの河が一気に落ち込んでおり、水量も多く、壮観。滝壺から舞い上がる、細かい霧状の水滴によって、初春の太陽の光が当たって美しい虹が発生。滝の上で、記念撮影。細かい水滴が無数に舞っていて、寒いほど。ピンボケはカメラのレンズがすぐ曇るため。華厳の滝のような高い観覧料はとられず、滝壺に下るエレベータもなくただ柵があるだけ。チリはいずこも、日本の愚かな官僚によるような、コンクリートによる河川の破壊が全くない。危険とかいてあるけど、そこは、おおらかなチリ人気質。自己責任で滝に近づくのはまったく自由。飛び込みも希望すれば可能!さて、今日の一枚、「夕暮れの瀑布」夕暮れの斜光を受ける頃、白い瀑布は、淡いクリーム色に染まり、とてもきれいでした。デザイン・アート部門のプログランキングに参加中。このブログが気に入ったらクリックして下さい。
2008/10/05
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2008年7月上旬、アンデス山脈に沿って北上。滞在していたチリよりペルーへ。まずは、ペルーの首都リマで一泊した。海辺のランコア地区の美しいレストラン街。更に飛行機で1時間、インカの古代都市、クスコは、標高3400mの美しい高地。美しい盆地だが、希薄な高地の空気は、訪れるものを、しばし高山病で苦しませる。スペインのならず者、ピサロの集団は、わずか150人で、5万人のインカの軍隊と対峙。友好を装って奇襲し、国王を生け捕りにする作戦が成功しその後、金銀財宝を強奪し続けたインカ帝国の首都でもある。そのクスコより更に電車で4時間、ウルバンバ峡谷をたどると、マチュピチュの登山口アガリカリエンテスにようやく到着。3,000m以上の山々に囲まれた深い峡谷の奥にある。発見当時は貧しい人家がわずかに2軒。今は3000人が住む峡谷の露天風呂の町。峡谷の町より、徒歩で2時間、バスなら30分。いよいよ、山上の古代都市マチュピチュへ。足を踏み入れていく人みなに、不思議な感動が湧き上がってくる。周囲は、青い峰々が連なる人跡未踏の深山幽谷。突然、精巧な石を積み上げてできた人工都市が出現する。かって、ここには、インカの国王と、月の神殿の乙女たち150人。そして、軍隊や従者たち800人ほどが、滞在していたと言う。歩いてみると、意外に広く美しい緑の平地に囲まれた城砦である。デザイン・アート部門のプログランキング。
2008/08/07
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この太平洋の孤島になぜ、この巨像制作の巨石文化が起こったのか?少しづつ、謎が解けてきました。モアイ像の製作は、部族の先祖信仰から生まれたという説が有力。同時に支配部族の権力誇示の意味もあったもよう。また、もろい火山岩を切り出せる山が島の北側にあったこと。これは、7つの部族の酋長のモアイ像。モアイ像の大半は、この岩山の石壁から切り出された。石の塊を削るのではなくて、石の壁から切り出すという大変な労苦。当時、鉄器はなく、硬い石で叩いて石を砕く途方もない作業。切り出された像は、てこや縄で起こしては下に石を敷き、一旦立てられて仕上げた後、寝かしてコロで搬送。その後、この山裾を下って、遠くのアモイ像のように並べられた。遠いところは、10km以上先まで、木材のころと人力で移送。これが、遠くに見えた、アモイ像。発見当時、ほとんどのモアイ像は、反乱部族によって倒壊。これを立てたのは、四国のクレーンメーカー「タダノ」ガイドの話によれば、10億ほどかかった費用の半分はなにやかやとチリ政府が献上させ,吸い取ったとか。それでもやりとげた「タダノ」さんは、本当に立派。余談だが、世界有数の収益を挙げながら、全く社会に還元しないことで世界中に名をはせているのが、日本のトヨタ。外人記者クラブの記者会見で、社会還元を問われ、自動車博物館(入場料千円!)とトヨタの社長が答えたので、外人記者達はあきれて「トヨタの馬鹿三兄弟」と皮肉っていた。この島には多くの部族がいたが、支配階級の耳を長くした部族が「耳短族」に、この過酷なモアイ像製作を強いていた。16世紀から17世紀にかけて耳短族が、遂に反乱を起こし、長い部族間紛争が勃発、最後に耳短族が勝利を収めた。これは、切り出されて打ち捨てられたモアイ像群。土の下に完成された胴体がうずもれている。ともあれ、この島で最も屈託なく印象的だったのは「雲」でした。四周遮るもののない広大無辺な空間で変幻自在。実に気持ちよさそうに変化していました。デザイン・アート部門のプログランキング。
2008/07/03
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モアイ像の謎は、やや語りつくされているので、次回に。今回は、世界にひとつしかない、「モアイ像の嘆き」編を。 「新1年生 両手を揃えて」「気をつけえーーー!」校長先生のつぶやき 「今年の一年生は、なんか、さわやかさがないのう。妙に、ひねた格好しおって。 親がなっとらん。」「あーあ、恋人同志っていいなあ。」「ずーっと、右座が空いてるって言うのに。」「先生! 先生でも、人に恋したことあるんですか?」「愛しあうって、どういうことなんですか?」 「・・・・・・・・・・・・。 知るか!」夫婦喧嘩のふたり。 日暮れになっても・・、こじれたまま。「今夜の晩飯、作ってくれそうにないなあ」「ふん!」「あ-あ、俺の人生って・・・、何だったんだろう?」デザイン・アート部門のプログランキング。
2008/07/02
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南米での発電所建設の仕事を無事終えて、13日間の南米紀行。初日は、チリから空路4時間。西へ3,700km、イースター島に到着。全周60kmほどの小さな島。 海中火山が噴火してできた島。大きな船もない時代に、どうやって人々はここに来たんだろう?と思うくらい、四周、果てまで海ばかりの絶海の孤島である。伝説では「ホトゥ・マトゥア」という首長が2艘のカヌーで渡来したとか。最も近い人の住む島から1200kmも離れている。人は日中歩き続けると、佐賀から福岡までの距離。私も歩いたけど、一日せいぜい70km前後。カヌーならもう少し早く1日120kmは行くだろうから、1200kmなら、10日間。次々に島伝いに渡っていったのだろうけど、しかし、当時は、海図もコンパスもない時代。島を見つけられねば、漂流して死が待っていたはずなのに、すでに4世紀頃、ポリネシア諸島の人々が渡来したもよう。古代人間の不思議な能力には脱帽するしかない。波が打ち寄せる岩壁のそばに、まず第1群の巨像。大昔、ここには、ふたつの部族が住んでいたそう。耳の長い背の高い支配者階級は、弱い部族を酷使して、権力を誇示するために、大小合わせると100体近くこの巨像を、島を監視するように作らせたとか。さて、どうやって、この巨像を立てたのか?推論では、ふたつの丸太を、てこで順次引き起しその下に土を埋め込んでいく大変な作業。そんな過酷な使役を課したため、酷使に耐えかねた耳短部族は、耳長部族に逆襲して激しい部族間抗争が勃発、遂に勝利した。ともあれ、不思議な感動を覚える巨像群でした。今日の一枚 「海辺のオブジェ」デザイン・アート部門のプログランキング。
2008/07/01
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チリでの仕事を無事終えました。帰りに南米各地を少し旅して帰ります。明日は、不思議な巨像群が林立するイースター島へ。実況中継ができるかもしれません。乞う、ご期待!
2008/06/29
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チリにいると、同じ思いを、しばしば感じる。600年前、ここは、どうなってたのだろうと。我々の先祖モンゴロイドは海峡を超えて北米を南下、原住民として、ここチリに住み着いていたはず。スペインの征服者が来たのは高々1500年代。そのスペイン人が、「バル・パライソ」と名つけたのが、この坂の多い「天国の谷」。世界遺産でもある。ケーブルカーで坂を上ると、こんな風景が待っていた。この右側の壁絵の家に入ると、港を見下ろす眺めの良いレストラン。こんな夏の薄絹をまとったお嬢さんが、何にしますかと優しく声をかけてきた。こんな人がデッサン会のモデルだったら、清瀬の皆は、よろこぶだろうなあ。坂の上の一角は、こんな美しい家々が。チリを代表する画家がキャンバスとして描いたのが、この一帯の家々の石壁。青空美術館と称される由縁。生活空間を遊び心で愉しむ、チリ人の姿勢がうかがえる。こんな街にぴったりの衣装のカップルとたまたま、出会った。今度は、こんな格好をして、この街に溶け込んでみよう。チリでは、ときおり不思議な人物に出くわす。この人もそのひとり、白い着流した服に身を固め、ひげも帽子も調和良く統一されてセンスは秀逸!でも、ゆったりとした雰囲気は、旅人でもなく、ものを売るひとでもない。ひがな、港の風に吹かれるのを楽しんでいるような風情だった。さて、今日の一枚は 「港の見える丘」気に入ったらクリックしてください。
2008/02/27
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今は昔、ブエノスアイレスを愛せし画家ありけり。思い募りて、港近き町の一角を買い求め、おのがパレットの如く町そのものを鮮やかにして多彩なる色彩りで飾る。これをこそ、タンゴの名曲となりし「カミニート(小さな小道)」と言ふ。今の世も人あまた集いて管弦遊学に興じたる。我もまた、今日もかくてありけり。明日をのみ、思いわずらわず。日よけの傘の下の一角に陣取って、目の前の華麗な踊りにみとれつつ思えり。「この黄色い鳥雑炊、なかなかのもん、うまかばい」と、眼前に、豊満な姿態の踊り子現われて、四肢あらわに妖艶にかつ華麗に乱舞す。視線あいしばかりに何故か意気投合、交わす言葉定かならねども心通じてやあやあとまずは麦酒で乾杯!踊り子志望のフランシスカ嬢なりし。名曲「カミニート(小さな小道)」は歌う。「たそがれの小さき路よ、愛の歌を歌いて、歩き回りし日々。今は、遠い昔のことなれど、彼女が、いま一度ここを通ることあるとても、決して言わないでくれ。我が涙こぼれて、舗道を濡らした日々のことを。」と、哀愁帯びて感傷に浸っておりしに、「タンゴのレッスンあるからバイバイ!」と、あっさり居なくなりました。去りゆきて行く方ぞ知らぬ、何処の踊り子。古人曰くすべて、この世は、うたかた、一条の夢なりと。初夏の 風にゆらぎし ほつれ髪デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてください。
2008/01/05
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元旦の朝、ブエノスアイレスで目が覚めた。さて、今日一日、どこへ行くべしとホテルの受付嬢にきいた。「絵ば描きたかとばってん、どっか良かとこなかとね?」「プエルトマデーロに行ったら良かたい!」なるほど、横浜の赤レンガ倉庫そっくりの風情ある建物が延々とつづく港のプロムナード。日よけの下に、たくさんのレストラン。昔の4基の巨大ドックは、今は美しいヨットの停泊場。生き抜くために覚えたスペイン語をここでも駆使する。「フリドデポジョ(鶏肉のフライ)!イ(&)セルベッサグランデ(麦酒大ジョッキ)!」にっこりうなづく給仕。 おっ通じたな。目の前を、こんな初夏の装いの乙女らが闊歩。眼のやり場には、まったく困らない。今回は麦酒に酔いながらも、じっくりと鎌倉カンジ先生指導の水彩画に取り組んだ。青に統一されたらしいヨットの帆が美しい。水彩画 「港の風に吹かれて」5個の好きなヨットを、方々から選んで、バランス見ながら配置し、バックの建物も、好きなのを選んできて描きました。絵画は、創作。NHK絵画教室のように、見たとおり描く必要はない。しかも、あの絵は魅力も個性もないつまらない描き方。なぜNHKはあの先生を選んだのでしょう。人は白い紙の上では、現実を離れて、全くの自由。シャガールのように、心にあふれる愛や詩を描いてもいい。デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてください。
2008/01/03
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年初には想像もしなかったブエノスアイレスの大晦日。夜8時、洞窟のようなタンゴクラブへ。シャンペンを渡されて待っていると、さっそく、妖艶なタンゴショーが始まりました。踊り手は、妖しいまなざしの「恵詩歌」嬢。私は、その夜は、ひとりでしたが、誘われて、もう、あまり妖しくない「亜丹多」女史ほか、かしましい中年の米人女性4人組の席へ。「早くあの愚かなアメリカ大統領を変えて欲しいなあ。」「彼はPuppet(操り人形)。 私達も大嫌い!」「知性派のゴアは素敵だけど、彼は大統領にならない?」「彼はノーベル賞を望んでたの。選択を誤ったのよ。彼が大統領になる可能性はないわ」3cmもの分厚く硬いステーキに悪戦苦闘しながら、会話をを楽しんでると10時から本格ショーが始まった。若い踊り手6人による華麗なタンゴの演舞。美しいまなざしと踊りに、うっとりと時を忘れる。やがて、幕は降りて、真っ暗となり、新年のカウントダウン。いっせいに周囲の誰彼と抱き合っていると、突然、幕が開き、舞台は一変して、キューバン・サンバの踊り子たちが登場。観客も一体となって大きな踊りの輪が広がっていく。この夜一番の美女を従えた髭の若者。髭の似合う若い男が、外国には、たくさんいた。僕も、生やしてみようかなあ。深夜2時まで華麗でファンタスティックな夜でした。デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてください。
2008/01/01
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ブエノスアイレスには、エビータ夫人他、著名人の冥福を祈る壮大なレコレータ墓地がある。一種の美術館と言って良いほど、素敵な彫像があった。私はブエノスアイレスの碧い空を見上げる天使たちと共にある少女が書いた、この詩を思い出していました。「私のお墓の前で 泣かないでくださいそこに私はいません 眠ってなんかいません千の風に 千の風になってあの大きな空を 吹きわたっています秋には光になって 畑にふりそそぐ冬にはダイヤのように きらめく雪になる朝は鳥になって あなたを目覚めさせる 夜は星になって あなたを見守る私のお墓の前で 泣かないでくださいそこに私はいません 死んでなんかいません千の風に 千の風になってあの大きな空を 吹きわたっています千の風に 千の風になってあの 大きな空を 吹きわたっていますあの 大きな空を 吹きわたっています」”A thousand winds”Do not stand at my grave and weep;I am not there, I do not sleep.I am a thousand winds that blow.I am the diamond glints on snow.I am the sunlight on ripened grain.I am the gentle autumn's rain.When you awaken in the morning's hush,I am the swift uplifting rushOf quiet birds in circled flight.I am the soft stars that shine at night.Do not stand at my grave and cry;I am not there, I did not die.ネットは、空渡る風のように多くの孤独な人の心を結びつける不思議な魔法のようなもの首の長い渡り鳥のように国境を超えて世界をかけめぐり優しい羽音を残していく亡くなった人の心にも残された人の悲しみにも詩は「千の風に乗って」と少女が書いた原詩。写真はブエノスアイレスのレコレータ墓地で撮った「ブエノスアイレスの天使たち」デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてください。
2007/12/31
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今、南米チリに仕事で滞在中。年末、年始を、どこで過ごそうかと迷うこと、しきり。パタゴニア?イースター島?マチュピチュ?結局、アルゼンチンのブエノスアイレスへ。ファドのリスボン、タンゴのここが、予ねてから、行きたかったとこだった。好きなタンゴのディナーショーを大晦日と元旦にふたつ予約。今日は、これから美術館めぐりします。帰ったら、また更新しますね。南米は、いま、初夏の気候で、こんなにたくさんの花が咲き乱れています。ここは、仕事先の部長さんのパティオで、バーベキューに招待されたとき。ラベンダーが咲くきれいな庭でした。水彩画 「赤い屋根の博物館」デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてください。
2007/12/30
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滞在しているホテルの傍のアルマス広場には、日比谷公会堂のような舞台がある。クリスマス間近いある日、オーケストラを背景に人気歌手の素敵なポップコンサートが催されていた。ほとんどが市民の為の無料コンサート。日本は建物にばかり無駄なお金をつかわず、こんな楽しい催しを何故しないんでしょう。ろうろうと絶唱する歌にみなうっとり。交響楽団と歌えるような歌手を日本では見かけない。クラシック、演歌、フォークとか分かれすぎて、中間の素敵な歌の領域が閉ざされているよう。そんな事を考えながら、傍の花束を渡す美女にもうっとり。チリでは、ほとんど見かけないスリムな方々。こんな美女はめったに出会えないので、澄まし顔をすばやくスケッチ。でも、にっこり笑って、「欲しいわ」と言われると断れず。取られちゃいました。そして、昨夜クリスマスイブには、市の音楽教団のクリスマスコンサート。右端の腰に手をあてた男の襟をはだけた格好は、まさに「俺は自信を持って生きてる」って風情。みな、本当に格好良く、声も素晴らしかった。音痴でなかったら、あんな服着て歌いたかった。この方が伸びのある素晴らしい声で、大好きなカッシーニのアヴェマリアを歌った。鳥肌立つような瞬間がありました。下記を右クリックすると、この美しい曲が聴けます。ほんとうに、美しいすばらしい曲です。カッシーニ アヴェマリアたくさん並んでる他の歌手のをクリックするとしばし聞惚れるでしょう。ビデオ画像の右下の四角をクリックすると、パソコン画面いっぱいに大きくして見れます。油絵 「天使」さて今日は敬虔なクリスマスの夜なので、チリの美味しいさくらんぼをつまみながら亡くなったかみさんとシャンペンで乾杯。デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてください。
2007/12/25
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なんとなく街中に貼られた広告を見てたら、今宵、ホテル「エルドラド」でジャズの演奏会!8時までみっちり仕事して、一目散、夕食も食べずに会場へ。 歌はチリの人気歌手、陽気なアンドレアテッサさん。チリ固有のジャズを聴きたかった私には、アメリカのスタンダードナンバーは、やや物足りなかった。けど、会費2千円に高級ワインが3杯付いていて、各有名ワイナリーのボトルを自由に選択できた。さすが、チリワインの産地。 ワインをたっぷり注いでくれた御礼に一枚プレゼント。嬉しそうに微笑んでくれたフェルナンダさん。 一緒に澄まして、記念写真。 「ジャズのTシャツ買いませんか?」と可愛いお嬢さん。ハイハイ 買いますとも。もちろん! その夜は、もう一軒、行きつけの酒場でもジャズの演奏会 ジャズ酒場の主は、私のアミーゴ、ハンサムなフロリーゴ氏。 カウンターにいたウエイトレスさんがにっこり笑う。笑顔につられて一枚描いてプレゼント。 もう、既にワイン三杯。酔ってたので筆が良く走る。どうも、酔っ払って描くと、表情がのびやかになるよう。 古代より、人々は歌が好きだったよう。こんな、ほのぼのした土偶がありました。じっと見てると、ほっと心が解き放たれますね。 デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてください。
2007/12/21
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チリに来て、はや一月。今いるとこはチリで二番目の都市。大学が多く、街の広場や歩行者天国には若者があふれ、夜更かし好きな街の雰囲気は、どこか博多に似ている。「貴女と夜と音楽と」 そんな名曲があるけど、異国の街で夜になると生の音楽が聴きたくなる。ここには、あまりないのかなとずっと思っていた。先日、歩き回ってたら、びっくり、ある一角にあるわあるわ。これぞ、博多の「親不孝通り」そっくり。若者にあふれた酒場が、たくさん軒を揃えていた。この人懐っこい二人が、TOYOTAで有名な日本人かと、話しかけてきて、案内してくれる。ギターとボーカルの生演奏で、店は客でいっぱい。このギターリストが、クールな良い歌を歌った。最近、気分の良い時は、赤で描くのが気に入っている。俺も、描いてくれと、ひげの歌手がやってくた。「もちっと、静かな美しか歌ば、歌わんとね?」と博多弁で言いたいけど、スペイン語では通じない。あなたの絵、いけてるよ、と隣のチリ美人。緑の服はHerval lifeという環境団体の制服。ここで環境関係の会合があったそう。「CO2削減を反故にしたブッシュを殺してやりたいね」「うん、ほんとにそう。」と英語で話しが合う。酔っ払いの変なおじさんが握手を求めてきて傍に座った。友達の、この人を描けと言う。女性は、室内デザイナーのカナさんだった。「ここの主人はクレイジーだけど、良い店よ。」変なおじさんは、この店のオーナーだった。おかげで、支払いしようとしたら、只!「私を描いて。お願い。」と、後の席からまた声がかかった。セルベッサ(麦酒)1本で請け負ったら、酔っ払って、何人描いたか覚えてない。「貴女」はいなかったけど、代わりに「異国と夜と音楽と」のチリの夜は、こんな風な出会いと共に更けていきました。デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてください。
2007/12/15
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今日は、南米に来てはや15日目の花の金曜日。ホテルで仕事の報告書を書き終えて、食事に外へ出たら、広場からにぎやかな音楽。8時でも、こんなに明るい夕暮れが続き、舞台では、クリスマスまぢかな歌と踊りが。このいかにも南米の楽師達といった服装の演奏がろうろうと深夜の公園に響き渡る。どこかスペインのサンチャゴ大学の学士団にそっくり。互いに視線を交わしながらほんとに、歌うのがが楽しくてたまらないといった風情。公園はたくさんの笑顔で埋め尽くされ、こんな可愛い観客も!絵を描いてあげたら、「これ、私?」って顔をなされましたが、たしかに天使って、こんな顔かと思うほど可愛いチリ美人でした。驚いたのは、チリの人々の元気なこと。深夜1時くらいまで、この催しは続き、子供たちは公園を駆け回り、お巡りさんが遠くから優しく見守っていました。日本は、あまりに国や警察が人々を管理しすぎます。さて、今日の一枚はチリ美人歌手。豊かな声量をその豊かな胸にふるわせて心地よく歌っていました。チリ美人の共通点は、この豊満さ。チリの緑多い大学構内を散策しても、早くも20代にして、ほとんどが、この体型を確立されておられます。古代から、この雲竜型土俵入り力士風の安定したこの体型が好まれたよう。チリはアンデスの山々と豊かな海に挟まれた数千キロメートルの細長い国。地震は多いけど海と山の幸に恵まれ、どちらかといえば国境紛争や争いも少ない。その豊かな土地で伸びやかに、おおらかに育ったチリ女性の人柄のゆえでしょうか。クレヨン画 「古代チリ美人」デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてください。
2007/12/01
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南米チリの首都サンチャゴでの休日。さて、どこに行こうかと迷うことなく、真っ先に出かけたのは、ある博物館。そこには、私がかねてより大好きな宝物がいっぱい展示されているから。その発想の豊かさ、心憎いユーモアのセンス。奔放なデフォルメがかもし出す天衣無縫さ。それが、このプリコロンビア時代の土偶。日本の埴輪も好きだけど、それに比べて、その発想の豊かなこと。このふくよかな、古代美人のふくいくとした肢体。いったい、どんな人がこんなユーモア豊かな塑像をどいいう意図で作ったのだろうか。自分の恋人を、愛情込めて作ったのだろうか。2時間あまり、博物館の片隅に座って、好きな土偶を次々に心満ち足りて飽きることなく描いていたのであります。ほんとうに、うっとりと幸せなひとときでした。クレヨン画 「古代チリ美人」デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてください。
2007/11/28
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2007年、晩秋の11月15日、私の乗ったLAN航空のジェット機は、マドリードから大西洋を渡って南米大陸を南下、アンデス山脈の雪の峰を越えていった。やがて、3000m級の山々を背に、南米一の経済発展を続ける大都市、チリの首都サンチャゴに到着。インディオの国と思っていたら大間違いで、、スペイン等白人が75%を占め、私の好きなヨーロッパの都市そっくりの街並み、600万人がこの豊かな首都に居住。地球の裏側まで長い航海をして大都市をつくった、スペイン人の情熱に、今更ながら感心した次第です。昔、先住民と戦った将軍が作った城砦は、春たけなわ。不思議な糸状の花弁の赤い花が咲き乱れていた。志望していた欧州の仕事が入ると言うので、上海の仕事を早々に切り上げたら、たくさんの幸運が一度に舞い込んできた。ブルガリアでの仕事はどうですか?北フランスとロンドンに行ってくれませんか?チリのサンチャゴで仕事があるけどどう?結局、選んだのは、南米のチリ。最初にオファーがあったからでもあるけど、滅多に行けない未知の国だし、好きなタンゴの国、アルゼンチンは隣!パタゴニアにも、古代インカのペルーも近い!このアンデスの雪解け水が潤す緑多い街並みには、歩行者天国に、たくさんの民芸品の屋台が並ぶ。春と言うより汗ばむような初夏の候、噴水に入って遊ぶ子供たちでいっぱい。子供の世界にも絵画の世界にも国境はない。すぐに、かわいいアンドレア君と国際交流を開始!ブッシュのような劣等生にでも大統領が務まるのなら、利権や世事に疎い画家と純朴な子供に国家元首を任せたら、国家紛争は、すぐに終りを迎えれるかもしれない。デザイン・アート部門のプログランキング。気に入ったらクリックしてください。
2007/11/25
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街中に疎水が流れている、水郷の街、蘇州を再び、訪れました。滞在している張家港市から、バスで1時間半。中国語で、バス乗り場で切符を買ってと言う、初めての経験。中国語は発音が複雑で、同じマーでも、抑揚で4つの意味になるので、最初は、「チンブトン」 「解らんばい」という返事ばかり。中国語は、漢字を並べたものを、そのまま発音する。I want to go to Suzhou. の英語と配置は同じ。「我想行蘇州」 ウオー・シャーン・チュー・スズウ今回は、一発で成功!まずは、柳の新芽が美しい疎水をしばし舟に揺られて。前世は河童かと思うほど、無性に心地よい、ひととき。迷路のように、路地が入り組んだ街中に、疎水は初夏の日を映して輝く。こんな、ゆったりと心をいやす疎水の街に住む人は、幸せ。さて、今日のは、ペンで描いて、淡彩で色をつけた一枚。鎌倉の絵の先生、カンジ先生に教えていただいた手法。素早く描けるので、大変、気に入っている。
2007/06/18
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上海は、かっては、情緒あふれた魅力ある都だったと、そこに住んでいた欧米人は口をそろえて懐かしむとか。衰弱した清朝政府を大砲で脅した英国にならって、列強各国が治外法権の租界地を獲得していった結果、英国風、仏蘭西風といった多国籍の文化の華が咲き、魅力ある歓楽街が各租界に生まれ不夜城のように栄えていたと言う。4月に訪れた上海の街は、きらびやかなネオンにあふれてはいた。魔都、上海の雰囲気を求めて、夜の街をさまよったけど、かっての生き残りの「和平飯店ジャズクラブ」も、訪れてみれば、気の抜けたビールのようなジャズを演奏しているだけ。欧州の旧市街にある長い年月に曝された風貌を持つ店もなく、風雪を生き抜いた陰りある情緒にあふれた居酒屋もなく、画一化された味気ないナイトクラブしか残ってなかった。そんな折、魔都「上海」をほうふつとさせる映画に偶然出あった。映画の題名は、「上海の伯爵夫人」原題は White countess 「白い伯爵夫人」この白いが意味深なのであって、色白のではなく、白系ロシアを意味している。上海にいた外国人の中で唯一悲惨だったのがロシア人。革命によって祖国を追われて、祖国の後ろ盾を失ったロシアの人々は、頼るべきものを亡くして困窮のきわみのような生活を強いられていた。「白い」美しい伯爵夫人も、そのような一人。夜のクラブでダンスの相手をして家族をささえていた。その伯爵夫人にストイックな恋をするのは、爆撃で視力を失った英国の有能な外交官。戦争で家族を全て失った今は、栄光の職も色あせて、上海一の居心地の良い理想のクラブを創ろうと、この零落しながらも気品ある伯爵夫人に夢を託す。このふたりの、互いへの思いを抑えた、ひめやかな恋心が美しい。そして、上海特有の芸術の薫り高いクラブを実現する。上海の町をさまよってみいだせなかったものが、ここにあった。水を得た魚のように華やいで客の間をまわる美しい「伯爵夫人」。彼女が、時折みせる、あでやかなまなざしの先には、その外交官がいた。しなやかに伸びた美しい鼻筋のナターシャの表情に、しばしうっとり。舞台は、日本軍が軍靴で無残に踏みにじる直前の1936年の上海。そんな上海の、華のようなナイトクラブは、今は見る影もない。上海の夜の街でたどり着けなかったかっての面影を、この映画は、美しく眼前に再現し、消え失せた青春の光と影を追うように、上海の残光を懐かしんでいる。うーん。あまり似てないなあ。まあ、いいか。
2007/05/22
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20日間ほどの西遊記を終えて、只今、上海空港!ANAのラウンジのインターネットデスクで書いています。雨の蘇州、上海博物館の逸品、海のように広大な揚子江。意外と、豊かで、繁栄を極める大都市。一方で月に1日の休みも無い私企業の過酷な労働事情。ところでこの歴史ある国で日本兵が中国本土で行った残虐な行動の凄まじさに圧倒されている。今日も、空港である写真付きの本を買い、中国人から見た日中戦争の過酷な真実を知った。中国3千年の歴史「青銅器に書かれた美しい古代文字」 日本兵に首を切られ、まだ首が半分残っていて哀願する女性の悲しいまなざし。この写真が、米国全土の新聞に報道され、アメリカ世論をして、日中戦争に介入もやむなしと決断させたと言う。南京を落とせば、日中戦争は終結するという、軍部の無謀な暴挙が、結局、戦争を拡大させ、東京大空襲、広島、長崎の原爆と、多くの国民の命を巻き添えにした。そんな軍部は、国民に謝るどころか、戦後60年を過ぎて、いまだに1兆円もの税金を、遺族年金としてもらい続けている!巻き添えにあった国民の遺族には一文もなし。こんな不合理を何故、国民は許しているのか。 こんな悪政を戦後から今まで執政してきたのは、他ならぬ、満州侵略を企画した戦前の商工省の官僚岸信介と彼が継承した戦後の自民党政権。戦後も、岸信介は、フィリピン賠償利権に介入し、巨額の税金を詐取した。戦前は侵略で、戦後は賠償で私腹を肥やした「悪い奴ほど、良く眠る」の典型的な人物。現安倍政権はいわばその直系の利権集団。首相本人が「そのDNAを誇りに思っている」から、憲法改正、防衛庁の格上げと戦争利権を拡大する。アメリカの大統領選挙では、南部の頑迷なアメリカ人が好む「偉大なアメリカ、偉大なアメリカ」と言えば、得票が10%は増えるとは、ブッシュの選挙参謀の狡猾な戦略。それをまねて「美しい日本」を繰り返す愚かなブッシュの真似をする、より愚かな首相。岸慎介と言う戦争首謀者が首相に返り咲いたから、霞ヶ関の戦争犯罪者はこぞって旧職に復帰して閨閥を継承した。亡命者を締め出した中国の阿南大使は東條の孫がその実例。岸信介と言う狡猾な官僚が生まれていなければ、極論すれば、彼がA級戦犯で絞首刑になっていれば・・・・、霞ヶ関の戦争責任が明確になり、憲法改正など言う者は淘汰され、我々、国民は、もっと幸せに安心して生きられただろう。久しぶりに日本の新聞を読んで、あいもかわらぬ自民党政権の利権を漁る政治に、帰る気がやや失せてきた。いっそ、この不快な国を離れて、遠くの国へ移住したい。「美しい日本」を口にする「醜い政治家」の国から。
2007/05/01
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私の好きな街は水郷 「柳川」街中を迷路のように、ゆったりと疎水が流れ、悠久の時間が、人の思いを無視したようにゆったりとながれている街。疎水の舟に乗って、流れに棹させば、洋館の美しい芝の庭が見えてくる。無防備な家々のありのままのたたずまい白秋の詩の昼下がりの密会の吐息が聞こえてくる。「春疎水 ひそやかに吐息 くぐもれる」さて今滞在している張家港市から、バスで1時間半,ようやく、憧れの東洋一の水郷 「蘇州」へ。世界遺産の庭園「拙攻園」は、水路をめぐらし、新緑の柳と満開のつつじの咲く最も美しい時期。つつじの向こう、迷路のような回廊をわたる人影。しかし、蘇州の一番の魅力は人工庭園より、生活の匂いのする疎水のたたずまい。描きたい風景が無尽蔵にあった。緑陰の深い影、遠くに映える水面の淡い光。今日は、そんな憧れの蘇州をようやく描いた一枚疎水にどうして、こんなに心魅かれるのか。水の流れは、刻々と変わる光や影も人も歴史も飲み込んで悠然としているからか。「水匂う 蘇州をつつむ 春の雨」このブログが気に入ったら、クリックしてくださいね。
2007/04/27
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上海経済圏の中の北の都市、南通市は、東レ、川重などの進出で潤っている豊かな大都会。静かな郊外には、こんな風情有る山上の寺院があまた。 休日に、そのひとつの「狼山」に登った。山の周辺は、水路があって、美しい庭園。紅い提灯が、たくさん木々に吊られて美しい。長い石段はまさに揚子江河岸の金比羅神社。違いは、壁が美しい黄色で、色鮮やかな事。 参道は多くの参拝者でにぎわっていた。記念写真を撮る中国の少女等の表情は、日本と変わらない。参道には、こんな物がたくさん売ってあった。初めは花火と思っていたら、なんとこれは線香!中国人は心が大きいのか、線香も巨大!やがて、山頂の寺院へ到着。仁王様も菩薩像もどこか、日本と違って、幼く可愛い顔をしていた。頂上の五重塔の中は、木で作った螺旋階段。拝観料を払って登ってみると、さすがに怖いほど高い。スペインのサクラダファミリアのてっぺんを思い出した。神社参拝の後、広大な揚子江の河岸の公園へ。柳眉と言うけど、まさしく柳の芽吹きの美しい岬でした。 揚子江は広大で、対岸は春の霞で見えないほど遠かった。たくさんの行きかう船は、新しい中国の未来の夢を運んでいた。このプログが気に入ったらクリックしてください。
2007/03/24
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1933年頃、英国の劇作家バーナードショウが上海を訪れて、中国の思想家魯迅などの前で、講演を行った頃、上海には、英米、フランス、イタリア、日本の軍隊が共同租界に駐留し、一方で十九路軍と言う共産主義の軍も、反共的蒋介石の軍隊も駐留し牽制しあうという不思議な混沌とした状況にあったそう。かって外人租界の魔都と言われた上海は、大学教授や芸術家が暗黒街の地下組織の親分集と一緒にジャズを楽しむような自由豁達な気風に満ちて、東洋と西洋文化が混淆した上海文化が花開いた時代だったとも。その後、日本軍が侵略して南京から上海まで占拠して、暴虐の限りを尽くして破壊つくすまで。今、その上海は、明るい都会に生まれ変わっていた。東欧のくすんだ活気の無い街に比べて、これが共産圏の街?と疑うほど、東京都庁や赤坂プリンスホテルのような立派な高層ビルが立ち並び、歩行者天国の街の中心は、若者たちの活気に溢れていた。春浅い3月の候、仕事で上海近郊に二週間ほど滞在してきました。上海から2時間、北上して揚子江を渡った対岸の南通市。川重、東レ、丸紅などのたくさんの工場があるとかで、日本人は、600人ほど常駐している工業都市。日本料理屋が10軒ほど、こんな明るい中国の娘さんが出迎えてくれました。時給150円前後なのに、みな希望に満ちている顔ばかり。給料は、日本の企業の工員さんで6万円。通常の中国の平均月収が1万円以下なので、この上海近郊の経済圏は豊かなようでした。中国料理のレストランの若者も、どこか明るい。日本のように、遊びほうけている学生や若者があまりいない。本屋には、英語や日本語を学ぶ参考書を求める若者でいっぱい。みな、働いているか、何かを身につけようと必死に生きていた。次回は、休日の美しい山上の寺院散策です。このブログが気に入ったら、クリックしてくださいね。
2007/03/20
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