忘れじの初Mt.Cook&Naska飛行(その3)

★忘れじの初Mt.Cook&Naska飛行

(その3〔全3回〕)

☆小型機観光の勧めと、話しておきたい

「ナスカ1dayセスナツアー」の実例(下)」

※(2004年1月30日の楽天日記掲出分)

ナスカ空港の正門の前景・後景・昼食・食堂
       組写真上は、ナスカ空港正門の前景・後景。組写真下は、同空港前
       アエロ・コンドル直営レストランでの昼食と、プール付近の前庭
ナスカ地上絵ツアー、単発セスナの機長と私大陸縦貫道脇の櫓の左が木、右が手の地上絵
▲現地で乗り換えた単発セスナの機長と私▲大陸縦貫道脇の櫓の左が木、右が手の地上絵
▼1dayツアーのパンフレット表紙(宇宙人)と、▼筆者撮影の猿の地上絵
ナスカ地上絵1dayツアー パンフレットナスカ1dayセスナツアー 地上絵モンキー
機長から貰ったナスカ地上絵概略案内図L←地上絵概略案内図

ナスカ地上研究家マリア・レイチェ測量図マリアレイチェ女史の記念署名入り 著書
▲ナスカ地上研究家マリア・レイチェ女史の測量図と同著書表紙(猿の地上絵)


▼講演される晩年のマリア・レイチェ女史と著書見返し頁に残された署名
地上絵研究家マリアレイチェ女史ご本人sリマ→ナスカの機長と記念撮影
  リマからナスカへ送ってもらった親切な双発機の機長と筆者(本文参照)▲


§11.帰路の機中で案じられた出迎え…。だが約束どうりでホッと安心

待望の地上絵を間近に目撃できた上、思いがけずソノ研究者とし て筆頭に挙げられるドイツ人学者、マリア・レイチェ(Maria Reiche)女史とも会えた。満足一入な参加者十数人と同乗して再び 双発の小型機でナスカからリマへの帰路に就く。

 ご承知の通りペルーは南米大陸の西海岸沿いに、南北に細長い国だ。とは言いながらも、東はアンデスの高峰が長く続き、ソレを越えればアマゾンの源流地帯だ。また西海岸は太平洋に沿った長い海岸線が続く。首都のリマは、その南北に長い海岸線の真ん中近くだ 。そしてナスカは、その首都と南の国境との略中間で、アンデスと太平洋に挟まれた殆ど不毛に近い荒野に在る。

 そんな土地に、何故こうした謎を秘めた文明の痕跡が残されているのかと改めて考えさせられるうちに、乗機は何時か一旦海上に出た。そして進路をヨリ北に向け一路リマを目指した。

 ソコは多分、漁業基地として世界的に有名なピスコより少し南のように思えたが、右手の海岸線は断崖だった。そしてソノ崖の上は海に向かって半直角ほどの斜面を見せ、長く連なる広幅の砂の帯の ように見えた。

 …とソノ時、その帯の一点にサボテンか燭台かは判じかねたが、 あの地上絵と同じような大きな絵模様が描かれているではないか。 それは、平面に描かれたナスカの絵と違い、機窓に向かった斜面に 描かれていただけに、ヨリ鮮やかに見て取れた。

 疲れて眠っていて気が付かなかった同行者も多かったとは思うが 、私は好奇心旺盛にコレを眺め、これは一体何だろうと思う。でも 、昔からのものならヨリ評判になるはずだし、多分ナスカの地上絵を模倣し現代人が描いた作品だろうと考えながら見送る。

 しかし、高度で独特な多くの文明があったとされるこのペルーである。侵略者スペイン人に追われアマゾンに消えたインカの謎など 、歴史の闇に消えた先住民族の遺産が、まだまだ沢山眠っていそう な国だナァ…といった思いを強くさせられた事を思い出す。

 サテ機窓の風景にソンナ事を考えながらリマに近付くと、ふと出迎えの約束が気になりだした。
 何しろ確かコノ旅は、後年あの日本大使館乗っ取り事件を起こし た反政府組織「センデロ・ルミノソ(輝く道)」が国中で大暴れ。今にも革命が起こるのではと騒がれている最中のペルーであった。
 これから空港に着いて、もし旅行社の迎えが来ていなかったらどうしよう…? まあ有名なホテルらしいし、名前さえ伝えられればタクシーで帰れない事もないだろう。でもタクシ ー・ドライバーによっては、何処の誰とも判らない事もあろう。旅行者と見て突如強盗や誘拐者などに変身しないとも限るまい。そんな不安を抱きながら、何はともあれリマの空港に無事帰着しロビーに向かった。

 するとドウだ、あの恰幅の良い女性支配人マリヤさんが大勢の出迎え人に混じって今や遅しと待っていてくれ、ニコニコ顔で「大丈夫、ココに来ているわよ」とでも言うように手を振ってくれていた。
 その嬉しかったこと。私も思わず「オー、マッリ~ア !!」と大声を上げてしまったものである。




§12.クスコへの早発ちを思い出し、誘った感謝の夕食会もドタキャン

空港の駐車場には、朝と同じベンツが停まっていた。私達が近付くと運転手が降りてきてサッとドアを開けて出迎えてくれ、手荷物のザックを受け取ってトランクにしまうと、まだ明るい夕暮れのリマ郊外の道を中心街の宿舎「ホテル・クリヨン」に向かって走り出した。

 擦れ違う車の殆どがポンコツ車同然で、その程度の悪さはコノ旅で巡った3ヶ国中最低に思えた。また沿道に目立つスラムの数も質も尋常ではなく同様に思えた。

 そんな風景が展開する中、車中の私は正直な所スッカリ有頂天になっていた。
 だって、同じ旅仲間の半額以下の料金で、よりグレード感の高いナスカツアーを心行くまで満喫でき、こうして全て順調 に宿に帰り着こうとしているのだ。しかも空港にも顔が利く旅行社の女支配人が、こうして直々高級自家用車で送迎までしてくれている…。
 これは、このままアリガトウで済ませては申し訳ない。そう思った。

 そのうち私が、「ヘイ、ドライバー。ラジオ、スイッチオン !! プリーズ、ミュージック」とか 何とか適当に英単語を繋ぎ合わせて、運転手に音楽番組は放送されてないかと意思表示してみた。カーラジオのスイッチが入れられダイヤルを回すうちに、折り良くフォルクローレが流れてきた。
 …と、左手で右の親指を握る形で上に組み合わされていたマリアさんの残り4指が、軽くリズムを刻み始めた。彼女も音楽好きなようだ。またハンドルを握る運転手の指も、小刻みにリズムに合わせて動いていた。

 それから車内の空気はスッカリ打ち解け、お互いカタコトの英語やスペイン語やジェスチャーなど 凡そ頭の中に浮かぶ表現方法を総動員し、実に珍妙な会話が弾んだ。
 マりヤが言った。
「貴方は音楽が好きなんだ」。
 これに答えて私が又吹き出しそうな英語で答える。  
「イエス !! …タンゴ・フォルクローレ、アイ・ライク・イット」。
 すると、マリヤが続けてコンナ風に言った。
「カンターレ !! ハポンタンゴ」
 まあ多分コレ、(歌ってみてよ、日本語のタンゴを…)てな事だろうと思い。
「OK・OK」と言いながら歌い始めたのが、アルゼンチンの教科書にも採用されていると伝え聞く アノ名曲『カミニート♪』だった。

 でも調子に乗って歌い始めたまでは良かったが、途中から日本語訳の歌詞を堂忘れしちゃって、
「ララ・ラーララ・ラーララ・ラーララ・ラーララ…♪」
てな調子のハミングで誤魔化しちゃった。
 そしたら、マリアさんと運転手がスペイン語の原曲や鼻歌で後を続けてくれ、私に恥を掻かせない ように気を使ってくれたっけ。

 ともあれ、ソンナコンナの後で、私は先程から思っていた事。つまりコノ女支配人マリヤさんと運 転手に、例の如き話し方で
「出来たら些か感謝の意を表したいので、宿へ着いたら一緒に夕食に付き合ってくれませんか?」
と持ちかけた。勿論この会話も例によって例の如き、当たって砕けろ式ではあったが、何とか意思が通じ快諾してもらえた。

 ところがソンナ誘いを持ち掛けておいた私なのに、ホテルに戻り二人をロビーに待たせ、荷物を預けにフロントへ立ち寄ったところ、添乗員から次のようなメッセージが預けられていて、そうも出来なくなってしまった。

 それは、
「明日は、富士山と同じ程高いクスコへ向かって早発ちします。
 このため、今夜は出来るだけ食事は控え、
 特にお酒は飲まないで早くオヤスミを !!」
と言った指示であった。

 とにかくツアー参加者の中で、何処へ行ってもオプショナルツアーを敬遠し、自由時間も自己流を貫き通してきたコノ私だ。
 折角ここまで「マイ・スタイル」でなんとも順調な旅が続けられたのに、ココで無理をしてアゴを出したら、あの生意気な添乗員にソレ見た事かといわれるのは必定。
 こうなったら仕方がない。良い気分で付き合ってくれると言うマリアさんと運転手氏には悪いが、何とか上手く事情を話して、失礼を許してもらう他なしと腹を決めロビーに戻った。

 でも、そうは思ったものの、こうした一寸ややこしい事情を、予想される言葉の壁を隔てて彼等が気を悪くせず判ってくれるだろうかと案じられたものであった。何しろ、先程の車中の会話では威力を発揮した音声翻訳機も、こんな特殊な会話には応用の範囲を超えていた。こうなったら、文字通り「ゴオ・フォア・ブローク(当たって砕けろ)」あるのみだ…。
 そこで私は、日本語で書かれた添乗員からのメッセージと旅程表、そしてロビーに置かれていたクスコやマチュピチュの観光案内の写真を示し、
「明日の早発ちと気圧の変化に自信がないので何とかドタキャンの失礼を許してもらいたい」
と、身振り手振りを主にコレを伝えたところ、案外上手く判ってくれた様子で安心した。それもそのはず、彼等は旅行業者だ。この国で明日クスコへ早発ちと知れば、高地に慣れた同国人でも無理には誘わないのが常識だとかで、笑って許してくれた。

 それで、食後に渡す筈だった寸志に少し足しまって別かれる事にしたが、それでもこのナスカへのツアー代金は送迎代とこの寸志も含め確か総額二万円を出なかったように思う。

 まあ、ケース・バイ・ケースとは思うが、自ら「南米八分旅」とも呼ぶコノ異色旅の中でも、特に大成功の思いが今も残る、快適な小型機での独自旅行だった。

 なお蛇足ながら、この想い出の「HOTEL CRILLON(ホテル・クリヨン)」。
 この混迷極まりなかった当時のペルーに一大転機をもたらした初の日系人大統領「プレジデンテ・フジモリ」が、確かアノ翌年に此のホテルのバルコニーに立ち、劇的選挙で予想外の当選を果し勝利宣言をしていたので、なにか余計印象付けられたものであった。
 そして又そのフジモリ氏が、それから十数年後に失脚し、今も日本に亡命中とは…。

 人の世の有為転変と人生の旅の侭ならなさ…。思い一入の感を今日もまた新たにして筆を置く事にしたい。
(完)


南米土産・インカ最後の皇帝アタウアルパ像←南米土産・インカ最後の皇帝アタウアルパ像
 ※(スペイン人ピサロに騙し討ちにされた悲劇の王)
イグアスの滝4景。珍しく水が澄んでいた。
▲南米異観・青いイグアスの滝5景(下の左右二景はヘリからの俯瞰)。
 最もコワ~イ悪魔の喉笛の直ぐ上では、こんな美女が水浴していて仰天。
 又これまでコーヒー色が常と思っていた水が、何と青く澄み私達を歓迎。


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