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ジェイク・シマブクロの登場を見ようと思い、結局、全部見てしまった第57回NHK紅白歌合戦、大ハプニングが起きてしまいました!!白組、DJ OZMAのパーフォーマンス。大勢のバックダンサーたちが、リオのカーニバルのような衣装を着て踊っていたのだが、歌えや踊れやの大騒ぎの終盤、あれっと思ったら女性のダンサーたちがおっぱいぽろりと出しちゃいました。え、え、ええ~~、NHKでこんなことやっていいの?と思ってよく見ていたら、フィギュアスケートで着るような薄い肌色のボディースーツに、本物のおっぱいと同じ位置に乳首が書いてあるようなのです。なんだ、こりゃ、と思っていると、最後にはパンツ(ビキニの下のような)を脱いで、バタフライというんですか(最近、聞かないな今言葉)、ようするにアソコをぺこっと隠しただけの姿になってしまいました。男性も脱いでましたから、何名がそんな格好をしていたか、わけわかりませんでした。で、これはNHKがよくこの演出・企画を許したなぁ、と思い、もし、事前にNHKがOKを出していたのなら、「あっぱれ!」と思いました。しかし、赤組司会の仲間由紀恵が、唖然としていてフォローする言葉が出てきませんでした。少なくとも、彼女は事前には知らなかったと思います。また、すこしたってから曲の合間にNHKの男性アナウンサーは、「ボディースーツのようなものを着ていたので、決して裸ではありませんでした」と弁解の言葉をはなしました。じゃあ、ひょっとしてDJ OZMAが、「やっちゃえ、やっちゃえ、どうせ俺たち今年しか出られないし、だったら、やったもん勝ちだぜぇ~~!」と考えて、リハーサルではみせなかった演出をしたんではないだろうか、と思いました。だったらDJ OZMA、快挙!!だと思いました。NHK紅白は、いつもアーティスト側の意向を軽視した強引な演出をやるので、いわゆる大物は敬遠して出てこないのですが(例えば、ユーミン、例えばサザン、彼らは自分たちが特別待遇のように意味ある演出がされる場合以外、出てきません)そんなNHKに一発かましてやった、という感じです。お笑い芸人も、あたえられた時間を目いっぱい使って、どうやってアドリブするか苦心しているようで、昨日も、ナイナイの岡本隆史が、打ち合わせにないことをちょっとやりましただ、まあたいしたことではありませんでした。で、今朝、NHK紅白のサイトを見たら、出てました、出てました。http://www3.nhk.or.jp/kouhaku/『DJ OZMAのバックダンサーが裸と見間違いかねないボディスーツを 着用して出演した件について、NHKではこのような姿になるということは 放送まで知りませんでした。 衣装の最終チェックであるリハーサルでは放送のような衣装ではありませんでした。 今回の紅白のテーマにふさわしくないパフォーマンスだったと考えます。視聴者の皆さまに不快な思いをおかけして誠に申し訳ないと考えております。』NHKは一切知らなかった、ということですね。やったじゃないか、DJ OZMA!!快挙!快挙!もしかしてこの瞬間が最高視聴率だったら面白いのになぁ、と思います。パスタさんは、どうしてそんな下品なパーフォーマンスを支持するの、と言われるかもしれませんが、理由は下記のとおり(1)民放、または世の中の常識的には、それほどたいした露出ではない(だて裸とは違うことがわかるのですから)(2)表現の自由のほうがNHKの都合より重要(3)NHK紅白は、時間と表現、演出に制約が非常に多く、力の弱い出演者がいつもへんてこな演出を押し付けられている。例えば、早い時間帯に出ていた男性演歌手の鳥羽一郎が「兄弟船」を歌う後ろにウルトラマンが出てきたりするのです。これって、歌手のファンにも、ウルトラマンのファンにも失礼じゃないですか?どちらにとっても違和感のある演出、というか意味不明です。そんな演出がここかしこでみられました。で、問題のDJ OZMAの事前のコメントを調べてみると、ありましたありました。『「小林幸子さんの後で歌うと知ったのは今朝。これはまずいことになったと思った。」とOZMAさん。開き直ったのか「衣装じゃかなわないからステージでTake offしちゃうよ。NHKの人は俺を選んで後悔するよ。」と爆弾発言?。きらきら衣装で始まりだんだん、、、、していくとか。DJ OZMAのステージから目が離せない!? 』ちゃんと、書いてあるじゃないですか、そのままのことが事前に!!確信犯、確信犯、そりゃあ、誰だって、小林幸子の大衣装パノラマ・ショーみたいの後に出演順が決まったら、一発かましてやるしかないですよね。いいじゃないですか、年に一度のお祭り騒ぎ、このくらいのハプニングがあっても、とパスタは思うのですが、不快に感じるひともいるんでしょうね、きっと。さて、本命のジェイクの登場ですが、夏川みりと一緒に彼が出てくる流れは、上記のハプニングとは違ってよく考えられた流れだったと思います。まず、Orange Rangeが沖縄のライヴ・ハウスからの中継で歌いました。彼らがインディーズ時代に出演していたライブ・ハウスでした。ギターの音など、いわゆるライブ・ハウスの箱らしい音響で、ロックしてました。次に、渡辺謙がゲストで登場(審査員でもありますが)、白組司会の仲居くんが、「『硫黄島からの手紙』に出演してみてどう感じられましたか?」、と質問すると渡辺謙が、「平和の意味を、このように年末に素晴らしいイベントができるという平和の大切さを普段から考えていかなきゃならないと思いました」とこたえました。次に、沖縄出身の赤組司会 仲間由紀恵が、「次は夏川りみさんです」と紹介して「花~すべての人の心に花を~」の歌詞を少し読み始めました。この曲は、「すべての兵器を楽器にかえて!」と平和を訴え続ける、沖縄の喜納昌吉の歌で、いまやアジアの多くの国で親しまれている曲です。その平和のメッセージが織り込まれた歌を夏川りみが張りと艶がある素晴らしい声で歌う横で、ジェイクがウクレレを弾いていました。ジェイクもやっぱり沖縄出身の日系4世(だったかな)です。津軽三味線の上妻 宏光(あがつま ひろみつ)は、藤あや子だったかな、女性演歌歌手のバックで三味線を弾いていましたが、彼を紹介する字幕は出ませんんでした。しかし、ジェイクは夏川みりのよこに椅子に座って、思い入れたっぷりにウクレレを演奏していました。しかも、画面には字幕で縦に ジ ^ ェ ウ イ ク ク レ ・ レ シ マ ブ ク ロと、出ています。扱いが上妻 宏光より大きいじゃないですか。よかったね。ジェイクの演奏ですが、残念ながら私のところは普通のテレビなので、あんまりはっきり聴こえませんでしたが、仲間由紀恵の朗読の時から、「ぴよ~~ん」というジェイク独特の音色(映画『フラガールズ』のなかの旋律に似た綺麗な音色)が聞こえてきました。夏川りみが歌うよこで、身体を大きく動かしながら弾いているフレーズも、番組の視聴者に対する音響バランスでは、綺麗なメロディのところがあまり聞こえず、アタックを強く弾いているフレーズ、フレーズの最初の部分だけが、よく聞こえました。もう少し、ウクレレの音量のバランスを大きくしてくれればよかったのに、と思いましたが、5.1chなどのいいテレビで見ていた人にはよく聴こえていたのかもしれません。その後、白組からキムタクが出てきて、ジョン・レノンの「Imagine」の歌詞の意味を日本語で朗読しました。そして「Imagine」を歌ったのは、布施明です。英語でちゃんと歌いました。最後には、外国人が大勢の合唱団が出てきて、布施明も、おそらく得意の高いキーに変調して、歌い上げました。そういうことだったのか、布施明が「イマジン」を歌うって書いてあったけど、まさかジョン・レノンの「Imagine」じゃないよね。ちょっと唐突だよね、と思っていたのですが、Orange Range~仲間由紀恵~夏川りみ~ジェイク~喜納昌吉は沖縄つながりです。そして沖縄は第2次世界大戦で大変な犠牲者がでたところです。渡辺謙の「硫黄島からの手紙」~喜納昌吉の「花~すべての人の心に花を~」~ジョン・レノンの「Imagine」は、戦争の意味を考え、世界に恒久的な平和がおとづれるのを願う歌です。最初は、へんてこな順番だなと思っていましたが、このパートの流れだけは、そのメッセージが明確に伝わってきました。とてもよかったと思います。さて、あと面白かったのは審査員の女子プロゴルフの横峯 さくらにむかってステージから呼びかけた細川たかしが、歌詞を間違えてしまいました。さてなぜそうなったのでしょうか。下記のうちからふさわしいと思われる番号を選びなさい。(1)横峯 さくらの美しさに、思わずうっとりとしてしまったから(2)横峯 さくらの斜め後ろの席に、さくらパパがいたから(3)応援ゲストのベッキーの前髪が黒柳徹子していたから(4)上記のいずれでもないさて、何番でしょうか。正解は。。。。ご想像におまかせします☆その2に続く
2006年12月31日
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「君の友達」 赤い鳥 の山本潤子がゲスト出演でした。東京では、月曜日の深夜に、TBSで小田和正 が司会進行しながら、ゲストと自分が演奏して歌っちゃう、といういい音楽番組が始まった、と、ぼくの楽天日記に遊びに来てくれる人が教えてくれた。小田和正が、3年間、TBSでやった「クリスマスの約束」 という良質の音楽番組から、発展してきた番組かもしれない。はじめて、この番組を見た。ゲストは赤い鳥の山本潤子 さん、といわれても、ぼくにはピンとこなかった。実は、小田和正が大学生の時、アマチュアでオフコースをすでにやっていたのだが、いよいよ、卒業や就職などを考えなければならず、このコンテストで優勝しなければ、音楽をやめようと思っていたらしい。そして参加したのが、「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」 の第3回大会、1969年のことであるらしい。そうやって人生の岐路にたってのぞんだコンテストだったのだが、なんと優勝したのは、赤い鳥というグループだったらしい。そこの女性ボーカルとして山本潤子さんがいた。小田和正は、とてもこのひとの天性の歌の上手さには、かなわない、と思ったそうだ。負けたら、音楽やめようと思っていたのに、小田和正は、悔しくて、このままで引き下がってはいけないと思い、結局、1970年にオフコースはプロデューしたそうだ。まさに、小田和正の人生を変えたライバルだった。 このへんのエピソードは、前にちらっと聞いた気もするが、こんなにちゃんと小田和正本人が語ったのを聞いたのははじめてだった。赤い鳥は、『竹田の子守唄』『翼をください』などのヒット曲で有名。そしてぼくが知らなかったもうひとつのエピソードが。「赤い鳥」が解散して、グループが2つに別れた時、山本潤子も参加するハイファイ・セット が誕生し、小田和正は、ハイファイ・セットへの加入を打診されていたらしい。そんな話、全然知らなかった。小田和正は、当然、断ったそうだ。ハイファイセットは、「フィーリング」 などのヒット曲でも有名だが、荒井由実の「卒業写真」 もカヴァーしている。(それがハイファイセットのデビュー曲か?)そんな、永遠のライバル、山本潤子と小田和正が一緒に歌った曲がとても素敵だった。番組は、小さめの会場で、ミニ・ステージのようなところを観客が取り囲み、椅子に座って、ギターを抱える小田和正と、ボーカルに専念する山本潤子。最初の1曲目は、まだゲストが登場する前に小田和正が歌った。永遠のスタンダードというかバラードの名曲「Without You」 ニルソンの歌で有名な曲で、小田和正にこの曲はあうのかなぁ、と思ったら意外や意外、高音で歌う小田和正にぴったり。♪I can't live, if living is without youI can't live, I can't give anymore♪ x 2回のさびは、あまりにも有名のはず。この「Without You」は、いろんなアーティストがカヴァーしていて、マライヤ・キャリー (1994年)などが、最近では記憶にあるが、実はニルソンのオリジナルではない。悲劇のバンドといわれるバッドフィンガーが1970年に発表した曲。一方、ニルソンの方は、この曲で1971年に大ヒットするまでは、主に他のアーティストに楽曲を書いていたみたいで、たとえば、モンキーズ、ヤード・バーズ、スリー・ドッグ・ナイト など。また、ニルソンが1967年に書いて、68年に発表した「Everybody's Talkin'」は、ダスティ・ホフマンが主演する、僕が大好きな映画「真夜中のカウボーイ」 (1969年)のなかで使われて有名になった。小田和正が音楽を続けていくか、音楽をやめて就職するか、などと悩み、デビューしたての頃、おそらくラジオから聴こえてきたのか、まさに彼の同時代の音楽だったんだなァ、と思う。それから、ゲスト山本潤子が登場し、赤い鳥のヒット曲「竹田の子守唄」 を歌う。あまり、力まないで、身体の力を抜きながら歌うその声はとても綺麗だった。そのあと、山本潤子が何かの歌を歌った気がするが、だ曲名は忘れた。どちらかというと、 PPM(ピーター・ポール&マリー) のような曲調。さて、そのあと、ふたりで荒井由実の「卒業写真」 を歌う。小田和正と山本潤子の声は、じつはすごく相性がいい感じだ。荒井由美が1975年に書いた曲だが、ハイファイセットの1975年のデビュー曲でもある。どおりで、山本潤子の歌がうまいわけだ。だけど、この曲、荒井由美とハイファイセット、どっちが先に歌ったのだろう。そもそも、荒井由実が、ハイファイセットのために書いて、自分もあとから歌ったのか?どなたか、そのへんの事情に詳しい人がいたら、教えてください。最後に、ふたりで歌ったのは「You've Got A Friend(君の友達)」 小田和正は、どんな曲を歌っても小田和正の曲にしてしまう。息すぎとか、ぱっと音を変えるときのタイミングとか、どこまでも小田和正の「オレ流」だ。そんなところが彼の魅力なのかもしれない。そういう意味では、山本潤子のほうが、少し丁寧に歌っていたようなきもする。この「You've Got A Friend(君の友達)」も、 キャロル・キング の有名な曲で、アルバム「Tapestry(邦題:つづれ織り)」(1971年)に入っているが、ジェームス・テイラー のカバーでも有名。(1971年か)この曲は、キャロル・キングとジェームス・テイラーの両方がグラミー賞 を受賞しているらしいが、やっぱり、どっちが先に歌ったのかわからない。さっきの「卒業写真」といっしょ。キャロル・キングがジェームス・テイラーに曲を提供しつつ、自分でも歌ったのか?これも、詳しく知っているひとがいたら教えてください。この曲も、やっぱり「Without You」と同じで、オフコースや赤い鳥がデビューしたてのころの、同時代の歌として、ふたりで歌ったみたいだ。それに、歌の題名が、なにやら小田和正と山本潤子の、今の関係を表現しているようで、なんだか嬉しくなった。小田和正、ぼくは、あまり彼の音楽を聴いてこなかったし、「クリスマスの約束」で好きになったアーティストがだ、なんかいいなぁ。こういう形で、同時代のアーティストとコラボレーションをしながら、幅広い世代が楽しめる音楽を作っていこうとしている姿勢って。この秋、大人がゆったりと楽しめる、大人の音楽番組 というのが、いくつかはじまったそうだが、小田和正の「月曜組曲」 、とってもいいな、と思う。さて、来週は誰がゲストなのかなぁ。今から楽しみだ。
2004年11月02日
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「Black or White」のマイケル・ジャクソンのビデオを見た人は多いと思う。軽快なリズムで、白人や黒人の男性や女性が連続してどんどん変身していくシーンが印象にのこっている人も多いと思う。曲名とこの映像によって、「人種の違いを越えて」というメッセージがわかりやすい形で伝えられている。何度もそのシーンをMTVなどで見た人も多いと思う。しかし、このプロモーション・ビデオには、コンプリート版、すなわち完全版という長いバージョンがあって、その完全版の最後のシーンは、当時、かなり物議をかもしていたのだ。最近、あらためてこの完全版のビデオを観てみた。ビデオは、アフリカの砂漠と思われる場所で、アフリカの人たちが輪になって踊っているシーンからはじまり、民族衣装を着たバリ(?)またはタイ(?)カンボジア(?)の女性ダンサーとマイケルが踊っているシーン、アメリカの先住民(インディアン)とマイケル、コサック・ダンサー、NYのストリート・キッドなど次々とマイケルと踊っている人たちが変わってゆき、ついに、マイケルはNYの自由の女神の冠の上で踊り、身体を揺すり歌っていく。このシーンでのマイケルは実に堂々としていて、体も存在感も大きく見える。この後、例のいろんな人種の顔が連続して変わっていく映像が出る。最初は、サモア系(本当は何系かわからない)の男性の顔が変化していき、黒人、白人、インド系、中国系と思われるアジア系、などの男性、女性に顔が変身していく。これは、モーフィングという技術で、実在の人間は、最初の男性と最後の黒人女性だけで、途中であらわれた様々な人種の男女はすべてコンピュータが作り出したものだ、ということに当時は驚いたものだ。たしかに、このモーフィングのシーンは、ひとの顔だけではなく、首や肩、胸の上部などが一緒に変化していく。おそらく、各人種の男女の典型的な人物の骨格などのデータをあらかじめ入力しておいて、コンピューターで映像を次々に変えていくのだろうと思う。しかし、たとえば中国系をおもわせるアジア系の女性の顔と肩、鎖骨などの骨格をみると、アジア系にしてはごっつすぎる印象があり、やっぱりデータが作り上げた架空の人物の不自然さを感じる。これは、自分が同じ東アジア系の人間だから気がついたことなのだと思う。ビデオ・クリップでは、ここで、この人物(最後の黒人女性)の撮影が終わって、スタッフがお疲れ様、という感じで終わるのだが、完全版では、ここから先に続きがある。撮影所を抜け出す黒豹がいて、この黒豹がNYのハーレムかサウス・ブロンクスを思い起こさせる雨の降る街かどの路地で、マイケルに変身する。そして、マイケルが息も尽かさぬ切れ味で、音楽がとまった画面で、体全身、手先、つま先、腰、頭、それこそ体全体のすみずみなでコントロールした踊りを披露する。そのマイケルが、路上にとまっていたクルマに乗っかり、次々に窓ガラスを割り始めるのだ。昔、このビデオを見た時は気がつかなかったのだが、マイケルが次々に割っていくクルマの窓ガラスには、ペインティングで文字が書かれていて、よく読むと、最初に割った窓からすには、「ハイル・ヒットラー」と書いてある。ナチスのかぎ十字のマークも見える。次にたたき割った窓ガラスには「Nigger Go Home」と書いてある。ニガーとは黒人に対する蔑称で、黒人よ、とっとと(アフリカに)帰れという差別用語である。次にたたき割ったガラスには「No More Wet Backs」と書いてある。Wet Backsとは、背中が濡れている人、すなわち、アメリカの国境沿いの川を渡ってきた(不法)移民のメキシコ人の蔑称である。これ以上、メキシコ野郎を入国させるな。メキシコ野郎なんかいらねえ、という意味だろう。ご存じのように、その当時からアメリカは、不法・合法を問わず、メキシコや中南米からの移民がいなければ社会・経済が立ちいかない国になっている。さらに、マイケルがハンマーのようなものを投げつけた建物の窓ガラスには「KKK」の三文字が。KKKとは、ご存じのように、白人至上主義者の団体で、白い頭巾をかぶり全身白装束となって、過去、なんども黒人を惨殺してきた集団である。しかも、現在でもこの集団が存在しているというのだから驚く。すなわち、マイケルが次々に叩き割ったガラスは、ユダヤ人の大量虐殺をおこなったナチス、アメリカの黒人差別やメキシコ人(ヒスパニック系といかえてもいい)差別白人至上主義者たちの有色人弾圧や殺戮などに対して、すべてNOをたたきつけたメッセージだったのだ。一聴して、楽しいPopソングで、ビデオを観れば、モーフィングをつかったあらゆる人種の融和を、エンターテイメントとして楽しく見せていた「Black and White」は、そのバックグランドに、とてもシリアスな問題意識、あらゆる人種差別にたいするNOの強いメッセージが隠されていたことになる。アメリカでは、おそらく、いらぬ人種間の対立意識をあおるのではないか、という意見が出て物議をかもしたのだとおもうが、アメリカの歴史、現在の社会の実態をみてみれば、そのメッセージをやわらかなオブラートに包んで、雰囲気としての「人種間の融和」を伝えるよりも、しごくまっとうな主張であって、どこに問題があるのか、と私は思ってしまう。さて、踊りまくって、あばれてガラスをたたき破りまくったマイケルは、また黒豹に変身してNYの路地を去って行って、ビデオは終わる。マイケル・ジャクソンのやわらかなメッセージ、Popソングと極めて質の高いエンターテイメント性の裏側には、憎悪とまではいかなくとも、アメリカ社会の不条理、世界の不条理についてのきわめて強い「反対の意」があったのだということは、知っておいたほうがいいかもしれない。いずれにしても、この「Black and White」の完全版ビデオ・クリップはマル必のビデオ、未観のひとには、ぜひ見てもらいたいと思う。この完全版が見られるのは、マイケル・ジャクソンの「ビデオ・グレイテスト・ヒッツ~ヒストリー」だ。マイケル・ジャクソン/ビデオ・グレイテスト・ヒッツ~ヒストリー(DVD) ◆20%OFF!★入荷しました!!(DVD)マイケル・ジャクソン/ビデオ・グレイテスト・ヒッツ~ヒストリービデオ・グレイテスト・ヒッツ~ヒストリー / マイケル・ジャクソンソニー・ミュージックダイレクト マイケル・ジャクソン/ビデオ・グレイテスト・ヒッツ~ヒスト...ビデオ・グレイテスト・ヒッツ~ヒストリー/マイケル・ジャクソン[DVD]ビデオ・グレイテスト・ヒッツ~ヒストリー【送料無料選択可!】ビデオ・グレイテスト・ヒッツ ~ ヒストリー / マイケル・ジャクソン10%OFF★マイケル・ジャクソン DVD【ビデオ・グレイテスト・ヒッツ ~ ヒストリー】【Aポイント+メール便送料無料】マイケル・ジャクソン Michael Jackson / ビデオ・グレイテス...{Black and White」以外でも、ロングバージョンがおさめられているものが多く「Bad」では、、夏休みかなにかで、白人ばかりの寄宿制の高校から中距離列車に乗ってNYのグランド・セントラル駅についたマイケルが、NYの地下鉄に乗り換えてスラム街の家に帰ってくるシーンではじまる。そこで、昔の仲間たちがワルぶってたかりやひったくりするのをやめさせようと、マイケルが本当のワル(Bad)とは、こういうもんなんだ、と有名なNYの地下鉄駅構内(実際にはLAのスタジオで本物そっくりに再現した)での群舞がはじまる。エディー・マーフィーがビデオ出演し、まるでエディの出演作、アフリカの某国王の王子がNYのクイーンズに行く映画「星の王子ニューヨークへ行く」の設定を彷彿させる「Remember The Time」などのほか、定番のスリラー(ロングバージョンではない)ビリー・ジーンBeat It「オフ・ザ・ウォール」からもっとR&B/ダンス色の濃いRock with YouDon't Stop Til You Get Enough(この辺の曲は、ディスコでよく踊っていた記憶がある。クラブではなくディスコで)が入っているDVDだ。マイケルの歌と映像を永遠に脳裏に焼き付けるためにも、もう二度と観られない、彼のパーフォーマンスを何度でも味わうためにも、一家に一枚、持っていてもいいDVDではないかと思う。マイケルの存在が永遠に僕たちのものになるためにも。。
2009年07月11日
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アントニオ・カルロス・ジョビン。ボサノヴァを生む出した男。その彼の曲に、重低音のベーシスト、ブライアン・ブロンバーグが挑戦した。『イン・ザ・スピリット・オブ・ジョビン(In the Spirit of Jobin)』ワン・ノート・サンバWAVEイパネマの娘など、ボサノヴァの名曲に、重低音ベーシストが、ギターなしでいどむ。ちょっと、軽快で心地いい音楽、ボサノヴァに、重低音、超低音のベースは一見、あいそうもない。ところがこれが凄いのだ。ブライアン・ブロンバーグ/In The Spirit Of Jobimブライアン・ブロンバーグ(b)/In The Spirit Of Jobimイン・ザ・スピリット・オブ・ジョビン【送料無料選択可!】イン・ザ・スピリット・オブ・ジョビン / ブライアン・ブロンバーグ【ポイント5倍 5/28 9:59迄】In The Spirit Of Jobim / ブライアン・ブロンバーグ【春第3弾5】CDには、わざわざ「このアルバムには一切、ギターは演奏されておりません」と書いてある。ギター・サウンドを思わせる演奏は、ブライアン・ブロンンバーグが、ナイロン弦とスティール弦のピッコロ・ベースを使って演奏してある、と書いてある。(よく聴くと、本当は、ナイロン弦のリズム・ギターリストがところどころ演奏しているが、ブライアン・ブロンンバーグの演奏ではない)かつて、プログレ・ハードと呼ばれた「ボストン」がデビュー・アルバムを出した時、このアルバムには、いっさい、シンセサイザーは使われておりません。すべてギターとディバイシスで演奏されています、と書かれていたのを思い出す。ブライアン・ブロンンバーグは、パスタ的には、ジャコ・パストリアスがなくなって以来、あらたなベース革新を起こしている数少ない有力なベーシストのひとりと思っており、ジャコの曲をカヴァーした『ポートレイト・オブ・ジャコ』は、ブライアン・ブロンバーグ/ポートレイト・オブ・ジャコ【ポイント5倍 5/28 9:59迄】ポートレイト・オブ・ジャコ / ブライアン・ブロンバーグ【春第3弾5】数多くある、ジャコのカヴァー・アルバムのなかでも秀逸な存在だと思うが、その話は今度する。『イン・ザ・スピリット・オブ・ジョビン(In the Spirit of Jobin)』に話をもどすと、CDの1曲目、ジョビンの「ワンノート・サンバ」が、いきなりアップライトのウッド・ベーすが乾いた空気感と、ヘビーな体感をもってぐぐっと、ぼくの体にボディ・ブローのように迫ってくる。大きな音で、リビングルームの、ヨーロッパの木の材質でできたスピーカーで聴いて欲しい。アコースティックで、ヘヴィーな音。こんなボサノヴァがあったのか、という演奏。収録曲は(1)ワンノート・サンバ」One Note Samba(2)Wave(3)コーストライン・ドライヴ:Coastline Drive(4)リトル・チューン:Little Tune(5)トリステ/ディサフィナード:Triste/Desifinado(6)コルコヴァード:Corcovado(7)Once I loved(8)イズント・イット・ビューティフル?:Isn't It Beautiful?(9)Ray Of Sunshine(10)タリア:Talia(11)エレン:Ellen(12)イパネマの娘:The Girl From Ipanemaこのうち、アントニオ・カルロス・ジョビンの曲は、(1)ワンノート・サンバ」One Note Samba(2)Wave(5)トリステ/ディサフィナード:Triste/Desifinado(6)コルコヴァード:Corcovado(7)Once I loved(12)イパネマの娘:The Girl From Ipanemaの6曲で、のこりの6曲は、ブライアン・ブロンンバーグのオリジナル曲。ジョビンの各曲は、ウッド・ベースでメロディを奏でたり、アドリブ・ソロをとったり(その低音の迫力と、タッピング、乾いた波動がたまらない)(例:1曲目の「ワンノート・サンバ」、2曲目「トリステ/ディサフィナード」など)ウッド・ベースを伴奏として演奏し、ピッコロ・ベースでメロディやアドリブ・ソロをとったり(ギターの弾くような手軽さでピッコロ・ベースを弾きながらも、ピッキングにある種の弦の重さを感じさせ、ギター演奏とは違うアクセントとスリリングな凄さを感じさせる)。(例:2曲目の「WAVE」)このピッコロ・ベースのアドリブを聞くと、ジェフベックがかつて、スタンリー・クラークと来日した時、ジェフ・ベックのギター・ソロより、スタンリー・クラークのベース・ソロのほうが速弾きだったのを思い出させてくれる。それだけ、このふたりのベーシストは、指の力が強いということか。まあ、超絶技巧なわけだけれども、この『イン・ザ・スピリット・オブ・ジョビン』というCDは、テクニックそのものをひけらかすということなく、ボサノヴァという音楽を、新しい切り口で、つまり、低音で、ベースが主役の演奏で、新たな魅力を開拓している、と感じる。5曲目の「トリステ/ディサフィナード」の中間部での、ウッド・ベースのソロは本当に素晴しい。しかも、そのあとの展開では、ピッコロ・ベースによるメロディとソロが、対比的に出てくるのがまた魅力的。パーカッションに、ブラジル音楽とジャズの架け橋をしてきたベテランアイアート(モレイラ)ドラムスは曲によって、アレックス・アクーニャがたたいている。6曲目の「コルコヴァード」のポルトガル語のボーカルは、アイアートの声だ。ボサノヴァの心地よさと、ちょっとしたせつなさと、それでも、人生を愛しているニュアンスが、このボーカル一発で表現される。そして、そのあとの、ウッドベースのアドリブ・ソロ。これがまたすごくいい。ボサノヴァでありながら、アコースティック・ジャズのよさを取り込んだ音楽というべきか。アレックス・アクーニャは、もともとパーカッショニストで、このCDでもパーカションをたたいているが、ウェザーリポートの名盤「ヘヴィーウェザー」でもドラムスをたたいているように、アレックス・アクーニャはこのCDでも数曲、ドラムスを叩いている。しかし、もともとパーカッショニストだけあって、アレックスのたたくドラムスが、スカーンとスネアやタムをたたくタイミング、これがちょっと並のドラマーと違って、気持ちいいほど、ツボにはまる。(例:7曲目の「Once I loved」)「Once I loved」のベース・ソロがまたカッコいい。ウッド・ベースのソロと、ナイロン弦のピッコロ・ベースのソロ。生で聴いたらぶったまげそうな凄さだ。ピッコロ・ベースのソロは、これも、並のギタリストアコースティック・ギターソロをはるかに凌駕していると思う。この曲での、アクーニャとアイアートのブラジリアン・リズムは心浮き立つ名演。ジョビンの曲のカヴァーはみんな、名演だが、7曲目の「Once I loved」は、ひとつのハイライトかもしれない。アレックス・アクーニャのツボにはまるドラムスは、ブロンバーグのオリジナル曲8曲目の「イズント・イット・ビューティフル?」でも大活躍。オリジナル曲では、サックスやフルートのソロが入り、音楽の幅が広がっている。ボサノヴァの超有名曲、12曲目の「イパネマの娘」は、うってかわって、ゆったりしたリズムではじまる。ウッドベースのゆったりしていて、落ち着いていて、安定感と信頼感のあるグルーブピッコロ・ベースのメロディ背景のストリングス、フルートのメロディそんな贅沢な「ゆったり感」が続く中、またまたブロンバーグのウッドベース・ソロそして、ピアノ・ソロへ。ブロンバーグによる、ジョビンの名曲のカヴァーだけでも、聴きどころ十分だが、彼のオリジナル曲は、どちらかというと、すごく聴きやすい、ブラジリアン・フュージョンの様相。ジョビンの曲で、自分なりの独創的な演奏をくりひろげる一方で、オリジナル曲では、聴き心地いいサウンドで、全体として、難解にならない、聴いていて気持ちいいアルバム作りをめざしている。フュージョン系の音楽が好きな人は、ブロンバーグのオリジナル曲の演奏も気に入ると思う。とにかく、ボサノヴァの心地よさとアコースティック・ジャズ・ベースのアドリブの醍醐味とピッコロ・ベースのスリリングなアドリブとブラジリアン・フュージョンの気持ちよさ、そんなものが全部つまったCD。丁度、今の季節、朝起きがけにさわやかに、午後のけだるい時間に、寝る前の、ゆったりとした眠りにはいる前にどんな時にも、気持ちよいCD.ベーシストは必聴だけれども、ボサノヴァ・ファンにもアントニオ・カルロス・ジョビンにもジャズ・ファンにも、気持ちいい音楽の好きな人にも、ぜひオススメしたい新たな名盤だと思う。こんなアントニオ・カルロス・ジョビンがあったのか!驚きの1枚。恐るべし、超低音ベースの帝王、ブライアン・ブロンンバーグ
2007年05月25日
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10月9日はジョン・レノンの誕生日。(ジョンの、生な声が身近に聴こえるアルバム)ジョン・ウィンストン・レノン 、1940年リヴァプールに生まれる。生きていれば、64歳。そして、オノ・ヨーコとの子供、ショーン・タロー・オノ・レノン の誕生日でもある。1975年生まれだから、29歳。ジョンが35歳の時に生まれた子供だ。♪Beautiful, beautiful, beautiful boy, Darling Boy♪も、もう29歳か。ジョンとショーンが同じ誕生日だと、はっきり気がついたのは、ぼくがNew York に留学している時。前に、何かでちらっと記事で読んだ気もしていたが、忘れていた。アメリカの大学は9月から始まるから、留学して、New Yorkの大学院の寮で必死に勉強していた頃。毎晩、New YorkのFM放送を聴いていた。日本と違って、いろいろな音楽ジャンル専門のFM局がいっぱいある。どの局だか忘れたが、夜中にFMを聴きながら勉強していたら、なぜか、ビートルズとジョンの曲ばかりかかっている。あれ、ジョン・レノンの特集でもやっているのかなぁ、とおもっていたら、数曲かかった後、女性のDJが、少し低いふくよかな声で言った。「Happy Birthday, John & Sean(ショーン)♪」 と。そうか、今日は、ジョンとショーンの誕生日だったんだ。24時を過ぎて、10月9日になった夜中のことである。ジョンとショーンがなぜ、同じ誕生日かって?それは、ヨーコが、ジョンと生まれてくる子が同じ誕生日になるように、タイミングをみはからって計画的に妊娠し、最後に生まれてくる日は、自然分娩ではなく、帝王切開で産んだからだ、とどこかで読んだことがある。ジョンとヨーコなら、きっとそうしたのかかもしれない。でも、ヨーコは、1933年、2月18日生まれ、ジョンより7-8歳年上なのだ。つまり出産した時は42歳。今では医療技術が進歩しているので、40代で子供を産む女性も多くいると思うけれども、(今でもそうかもしれないが)75年当時では、もう十分に高齢出産。だから、もともと帝王切開せざるおえなかったのかもしれない。ただ、妊娠のタイミングを計画的にしていたのは確かだと思う。そして、ジョンとショーンは、めでたく同じ誕生日になったのだ。ふたりにとって、ショーンはかけがいのない子供であったに違いない。ショーンが生まれて、しばらく音楽活動をはなれて、ハウス・ハズバンドをしていたジョンは、ショーンが、「イエローサブマリン」の映画を友達の家で見て、「パパって、ビートルズだったの?」 と聞かれ、働く父親の姿を息子に見せなければいけないと思い、音楽活動を再開、ショーンが生まれてから、5年、1980年。あの忌まわしい年。10月に40歳の誕生日に、息子が5歳になったジョンは、11月に、ジョンとヨーコのアルバム 「Double Fantasy」をリリース。そして、それから、まもなくジョンは、12月8日に凶弾に倒れるのである。ジョンのファンなら誰でも知っているだろうことだけど、今でも、思う。父親になったジョン、40歳になったジョンは、その後生きていたら、どんな音楽活動を行っただろうかと。それが、とっても見たかった。聴きたかった。今でこそ、ローリング・ストーンズ やポール・マッカートニー など、60歳を超えたロック・ミュージシャンが活動するのを同時代のこととして体験しているが、1980年のぼくには、40代のロック・ミュージシャンってどういうことなんだろうと、とても想像できなくて、とても知りたかったことだ。宇崎竜童が、以前、テレビ番組で本当に正直に言っていた。「ロックン・ロールやっている奴が50歳になるなんて、考えてもいなかった。そういうことは想定していなかった。だから、今実際に50歳になった自分が、今後、人生をどう生きていいかわからない」と。そして、悩める50代、宇崎竜童は、中国で、就職せず、ロック・ミュージシャンになる夢を追い続ける青年達(20歳前後か)と、ロックの演奏を通じて交流する、というテレビ番組。昔、30歳を越えた大人は信用するな、といっていたロック・ミュージック。そのころ、ロックを聴いていた少年少女たちは、みな30歳を超えた。もし生きていたら、64歳のジョンが、40歳になったその後、64歳まで、どういう活動をしたか、今でも、時々、考える。ジョンについては、伝えたいことがいっぱいあるが、いつかまたの機会にしようと思う。1つだけ、 「Imagine」 は、ウクレレ・ソロのライブでも、ウクレレ&スティール・ギター・バンドでも、ゲストではなく、メインのステージで出る時は、いつもエンディング曲にしている。最初は、こんな、あまりにも有名な、平和への願いをこめた歌を歌うのなんて、と思っていた。ところが、2001年 9.11後、世界はヘンな方向へ暴走し始めた。アフガン戦争、イラク戦争、パレスチナ自治区へのイスラエルの空爆と「壁」の建設。世界は、21世紀は、平和どころか、ますます戦争だらけの世紀になってしまった。だから、自分のステージ、自分たちのバンドでのステージでは、やっぱり「Imagine」を歌っている。ボブ・ディラン が風に吹かれて(Blowin' in the Wind)で歌っている「How many years……The answer, my friend, is blowin' in the wind,The answer is blowin' in the wind」 と歌ったのが、1963年。 ベトナム戦争、ケネディ大統領が暗殺された年。1965年、ジョンソン米大統領は、北爆を開始する。「How long, how long must we sing this song, ?」 とU2のボーノ がアルバム「WAR」の1曲目「Sunday Bloody Sunday」で、歌ったのが1983年。北アイルランドで繰り返される、テロの報復の連鎖についてだ。どうやら、人類は、40年たっても進歩しないらしい。そして、今は、2004年。ぼく達は、いつまで「Imagine」を歌い続けなければいけないのだろうか。♪天国も地獄もなく、ただぼくらの上に空があるだけ国境も、宗教もなく、欲望や飢えもなく、世界中の人が、世界を分かち合い、平和に暮らしているそんな世界を想像してごらん♪ ぼく達は、いつまで、この歌を歌い続けなければいけないんだろうか。Happy Birthday, John & Sean.
2004年10月09日
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六本木のとなり飯倉に キャンティ というイタリアン・レストランがある。ここにデビュー前のユーミンが、八王子から通っていたそうだ。当時まだ14歳。ぼくは、キャンティの西麻布店には行ったことがあるが、なぜ、みんなが「キャンティ、キャンテイ」とちょっと気取っているのかわからなかった。それが、先週のTV番組で分かった。飯倉のキャンティ本店は、1960年にはじめて日本に出来たイタリアン・レストランらしい。海外生活の長かった川添夫妻が、まさに、パリのカフェのように、文化人が集まってくるサロンような、ヨーロッパの香りのする、そんなお店を目指して作ったそうだ。だから、本格的な料理を出すだけではなく、そこでの人の交流が目的でもあったそうだ。キャンティをサロン文化の発信基地、カフェ・ソサエティとしてお店を育てていきたかったらしい。お店の設計やインテリアも、そうした考えから作られた。そして、当時、そのようなレストランが皆無にひとしかったことから、黒澤明、岡本太郎、三島由紀夫、小沢征爾 などの文化人や、来日したさいに立ち寄った外国の著名人、たとえば、シャーリー・マクレーン、シルビー・バルタン、ピエール・カルダン、イヴ・サンローラン、ロバート・キャパ(写真家)ダイアナ・ロス なども多かったそうだ。そんな雰囲気にあこがれて、ムッシュかまやつ、篠山紀信、堺正章、加賀まりこ なども集まっていたらしい。スパイダース結成前のかまやつ ひろしは、キャンティなどに通いつめていたため、周りからフランスかぶれ、としてムッシュかまやつと呼ばれるようになったらしい。そこに、そんな雰囲気にあこがれて、実家の八王子から通ってくる女子中学生がいた。しかも電車賃を節約するため、JR(当時は国鉄)四谷駅から、歩いて飯倉まで通ったそうだ。そんな、ストーリーを、内山理名が演ずるJ―WAVEディレクターが、当時の常連客であった、ムッシュかまやつ、堺正章、加賀まり、井上順パリまでいって、ピエール・カルダンなどにインタビューしながら、ラジオ番組を作っていくというお話。(これはラジオ番組の企画をつめていくという話)しかも、そのラジオ番組企画の話を題材にしたこのTV番組のナレーターを ユーミン本人 がつとめていて、当時のキャンティや自分のことをしゃべっている。そこで、面白かったのは、ストーリーにあわせて、ポイント、ポイントで、当時の状況にちなんだ歌を、別のミュージシャンが歌う、という構成。1. 荒井由美の「あの日に帰りたい」を河口恭吾が歌う。2.「Only You」をスガシカオが、オリジナルなアレンジで歌う。とってもヘンで面白い。3.セルジュ・ゲーンズブールの曲をクレモンティーヌが歌う4.スティービー・ワンダーの「Movin’ On」を大黒摩季が歌う5.スパイダースの「フリフリ」や「バンバンバン」をムッシュかまやつと、アルフィーが演奏する。みんな楽しそうに歌っている。高見沢のギターがぶんぶんうなる。6.荒井由実の「ひこうき雲」をあやや(松浦亜弥)が歌うが、ちょっと力不足か。 エピソードは、福沢諭吉の孫で、レーサーだった常連客の福沢幸雄が、海外から持ってきた最新ファッション、最新音楽、最新情報など、まわりに大きな影響を与えたことも教えてくれる。まさに、そうしたサロン文化と人との交流を求めて、 子供の心を持った大人と、大人の心を持った子供 が出会う場所だった。 ユーミンは、そんな、ちょっと背伸びしながら、大人の文化の香りを体感したくて、八王子から通い続けたそうだ。そうしたことがきっかけになって、ユーミンは、300枚しか売れなかった、幻のレコード「返事はいらない」をレコーディングすることとなった。売れなかったことを、ディレクターやスタッフらはちっとも気にせず、当時、歌謡曲全盛の時に、全く違うものをやろうといって完成したのが荒井由美のデビュー・アルバム「ひこうき雲」 1973年のことである。細野晴臣、松任谷正隆 などの全面的バックアップ。当時の「シンガー・ソング・ライター = フォーク」という図式をぶちこわした衝撃作である。このあと、番組は、デビュー作発売直前になくなってしまった、川添夫妻の梶子さん(たんたん)と、ふたりで好きだった曲7.プロコルハルムの「青い影」をユーミン自身が歌う。8. 最後に、1974年に出されたセカンド・アルバム「MISSLIM」から「やさしさに包まれたなら」を、ユーミンが、細野晴臣や佐藤竹善 (Sing Like Talking)らをバックに歌った。 「MISSLIM」というアルバムは、ファーストと同じく細野晴臣や松任谷正隆らがバックアップしているが、さらに、山下達郎がコーラス・アレンジ、吉田美奈子、矢野顕子らもコーラスで参加している。この番組、J-WAVEや東芝EMI(ユーミンが所属するレコード会社)が実名で出てくる。ユーミン自身がナレーションをやっているし、歌まで歌っている。キャンティに集まってきた国内外の人たちの超豪華な顔ぶれに比べて、そこから誕生したのが、スパイダースや荒井由美だけなの?って、ちょっと?マークがついちゃって、ちょっと大げさだなとは思うし、原作の「キャンティ物語」 (幻冬舎文庫)と、どのくらい違っているのだろうとは思う。多くの同世代や、上下の世代の女性が、「ユーミン世代」だと思うのだけれども、バブル期三部作Delight Slight Light KISS(リフレインが叫んでいるが入っている)1988年LOVE WARS 1989年天国のドア 1990年 は、実は持っているのだけれども、そして、これらのCDの売り上げが、ドリカム に破られるまでCDアルバム売上枚数 トップだったし、当時は、ユーミンは恋愛の神様、マーケティングの神様といわれていたのだけども、ファンの方、ユーミンと一緒に育った「ユーミン世代」のひとたち(多くは女性だと思うが)には、ごめんなさいなのだが、正直に告白すれば、実はそれほどにファンでもなかった。ところが、私がやっているウクレレ・バンドで、たまには女性をフロントにたたせて、男性メンバーはバックに徹しよう、すなわち、ステージ上でフロントがウクレレ&ボーカルの女性と、スティール・ギター&三線(沖縄の)の女性バックが、ウクレレ、ベース、パーカッションの男性3名で、今年の3月にライブで演奏した曲のひとつが、「やさしさに包まれたなら」 だったのです。メロディは知っていましたが、歌詞を真剣に聴いたこともなかったのが、楽譜を読んでみると、♪ 小さな頃は、神様がいて、不思議に夢をかなえ~てくれた~ぁ♪♪ 小さな頃は、神様がいて、毎日、夢を届けてくれた~♪ なんと、素晴しい歌詞 ではないですか。そうか、ユーミン(この曲は荒井由実時代)の曲って、こんなことを歌っていたのか、ととっても自分の中で、ユーミンの評価が上がったのです。そんなことを思いながら、イタリアン・レストラン、キャンティの誕生と、そこに集まった文化人、そこからバトンをわたされた(?)スパイダースやユーミンについて、思いをはせたのでありました。
2004年10月15日
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ラリー・カールトンの疾走感あふれる『Firewire』今年のベスト・ギター・アルバムの1つであると思う、ラリー・カールトンの『Firewire』 を紹介する。●3000円以上購入で全国送料無料!(一部地域除)ラリー・カールトン/ファイアワイヤーラリー・カールトンを知ったのは、クルセイダーズ やスティーリー・ダン でのプレイから。最初に聴いたのは『南から来た十字軍』 (Those Southern Knights)1976年で、それからさかのぼって、クルセーダーズの全盛期のアルバム(ボーカルが入る前の第一次全盛期)『Southern Comfort』 1974年『Scratch』(Live盤) 1974年『Chain Reaction』 1975年などを聴きあさった。また、スティーリー・ダンでのプレイも有名で『AJA(彩:エイジャ)』 1977年でのソロは圧巻。もっとも、スティーリー・ダンは、ラリー・カールトンや、ジェイ・グレイドン など、ロック、フュージョン系の名うてのギタリストを個々にスタジオに呼んで、誰のテイクを最終的にアルバムに入れるかは最後までわからないらしく、およそ、ライブ感や、インタープレイとは無縁のレコーディング方法なので、スティーリー・ダンの仕事は二度としたくない、といっているギタリストもいる。さらに、ソロ・アルバムでは、『Larry Carlton』 (夜の彷徨)1978年が、特に有名で、「Room 335」 という曲は、ラリーカールトンが使っている、ギブソンのES 335モデルの名前から来ている名曲。◎Gibson Custom Shop Larry Carton ES-335さて、そんなラリー・カールトンのステージは、何回も観てきたが、彼の演奏は期待を裏切ったことがない。いや、いつも期待以上だ。最初に彼の生ライブを観たのは、彼の本拠地、LAの郊外、あそこは、ノース・ハリウッドというのだろうか、それともオレンジ・カウンティ(?)「ベイクド・ポテト」 LAに住んでいる人は教えてもらいたいが、とにかくラリーの本拠地で、お客さんも学生風の若者が多く、カジュアルな雰囲気の中でおおいにリラックスして、のびのび演奏しているラリー・カールトンがそこにいた。常連のお客さんも多いのだろう。「おお、これが、3大フュージョン・ギタリストのラリー・カールトンか!しかも、彼の本拠地だぞ!」と大いに感激したのを覚えている。次に彼を観たのは、今はなきNYの「ボトムライン」 「ボトムライン」は、NYの4th Street Broadwayあたりにあったと記憶しているが、「YMOと渡辺香津美」 のアメリカー・ツアーや、「渡辺貞夫」 LAの日系4世が中心になった「ヒロシマ」 というグループなど、日本になじみの深いアーティストが沢山出演していたことでも有名。ぼくは、あそこで、マーカス・ミラーや、ブレッカー兄弟、ヴィクター・ベイリー、マイク・マイニエリ、ボブ・ミンツァーなど、パーマネント・グループではなく、NYのFirst Call(最初に声をかけられる腕利きの(スタジオ)ミュージシャン)たちの、さまざまな組み合わせでの演奏を聴いている思いで深いお店。そこにLAのラリー・カールトンが一人でやって来た。ちょうど『Alone/But Never Alone』 1986年という、それまでのラリー・カールトンとは全く違ったアコースティックなサウンド・アプローチをしたCDをひっさげて。まあ、そのころぼくはNYのジャズ・クラブにしょっちゅう足を運んでいたので、お客としては非常にリラックスしていた。と、ステージ上のラリー・カールトンを見ると、かなり緊張しているではないか。最初の1曲目でもまだ緊張が解けない様子だった。LAと勝手が違うのかなぁ。とびっくりしたものだ。それもそのはず。NYでのライブの評判は、「Village Voice」(当時は有料)「New York Times」の日曜版や、「New Yorker」「New York Magazine」などの雑誌で手厳しい記事を書かれると、プロモーションとしてはかなりの打撃、失敗とみなされる。一方、そこで絶賛されると、プロモーションとしては大成功。CDの売り上げや、全米のFM局(といってもフュージョンをかけるFM局は、NYなどの大都市以外は少ないのだが)でのオンエアー回数などに影響してくる。ミュージシャンも真剣勝負なら、耳の肥えたオーディエンスも演奏が素晴しければスタンディング・オベイション、演奏がひどければブーイングの嵐。そこに辛口の音楽ライター達までやってくるわけで、ラリー・カールトンの緊張もよくわかる。でもさすが、ラリー・カールトンはその重圧を跳ね返し、ステージでたった一人のアコースティックな演奏で観客を魅了してくれた。最後は、スタンディング・オベーション。もちろん、前から2-3列目にいたぼくも、そっせんして立ち上がり拍手をおしまなかった。その後、同じような「アコースティック路線の」『Discovery』 1987年で、 グラミー賞のベスト・ポップ・インストゥルメンタル賞 を受賞。あの時のボトムラインのライブは、彼自身にとってもおおきなジャンプ台というか、自信を深めたライブだったのだと思う。そんな彼に悲劇が起きたのは1988年。自宅に帰ってきたラリー・カールトンは、彼の高価な楽器や機材を盗み出そうとしていた暴漢と遭遇してしまい、頚椎に銃撃を受けるという大変な重傷を負ってしまったのです。ケガをした場所が場所だけに、もうギターが弾けないのではないか、と心配したものですが、おそらく相当な苦痛をともなう困難なリハビリの末、ラリー・カールトンは、音楽シーンにカムバックしてきました。復帰後の初来日は1991年。ぼくも、復帰後の彼がどれぐらいギターが弾けるのだろうかと、ブルーノート東京に出かけました。内心、痛々しく演奏する彼を想像していたぼくですが、重症をおったとは思えない見事な感バックで、立ち見で満席のブルーノートの会場全体が熱く盛上がりました。 「ラリー・カールトンが帰ってきた!」 負傷のことなど微塵も感じさせない見事なプレイでみんながそのサウンドに酔いしれていました。その後、1998年のスティーブ・ルカサーとの共演 や、Fourplay (リーリートナーから受け継いだギタリストとしてボブ・ジェームス(key, piano)ネーザン・イースト(b)ハービー・メイスン(ds)とともに)での来日ライブなど、何回となく、彼のライブを観ていますが、本当に期待を裏切ったことのない、素晴しいプレイヤーです。そんな彼の最新作「Firewire」は、本人いわく「ジャズとは全く関係ない音楽、ジャズから最も遠ざかった音楽」 をやりたかった、という言葉どおり、ブルージーなギターで、ロック寄りのギター・サウンドを聴かせてくれます。こんなに、ギターを弾きまくる彼は、ものすごい久しぶりですし、ドライブ感、スピード感、疾走感いっぱいのプレイ。それでいながら、彼の特徴のひとつである、ひとつひとつの音色、感触、音のニュアンスにこだわった艶っぽい音を出しています。ブルージーだけでども、けっしてアーシーじゃないんですね。また、ホーンセクションを上手く入れて、サウンドの豪快さが炸裂。「ルーム335」の頃の疾走感いっぱいの曲もあれば、まるで、ジェフ・ベック が弾いているんじゃないかって、錯覚してしまうような曲もあります。たとえば、3曲目の「ネイキッド・トゥルース」うそだと思ったら、今度、誰かにブラインド・テストしてみるか、それとも、「これ、ジェフ・ベックの新曲だぜい」って言ってみてください。かなりの確率でだまされてしまうかも。バンドのメンバーも、Fourplayのアダルトなメンバーたちとは離れて、ぐんぐんごんごん迫ってくるプレイヤーたちばかりです。特に、ドラムスのバコバコ、きもちよく、ラリーのギターをあおるかのようなプレイのマット・チェンバレンは要注目です。とにかく、こんなにギターを弾きまくっているラリー・カールトンは久しぶりだし、それがどんなにロックよりのアプローチになろうとも、音色、フレーズの「セクシーさ」は、やっぱり彼にだけしか出せないものです。フュージョン・ファンにも、ロック・ファンにも、ギター・ミュージック・ファンにもぜひ聴いてもらいたいCDです。オススメです。
2005年11月04日
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