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NHKの「ハートをつなごう」という番組で昨日とおととい、「性同一性障害」の皆さんが登場した。みんなテレビにまでにカムアウトして楽しそうだった。お話も痛快なものがあった。MtF(男から女)の人どこから見ても女性にしか見えない人男性ぽさが残っている人だれもが個性的に見える。FtM(女から男)な人やさしそうな男おだやかそうな男堂々と物怖じせずみんな自分を誇っているように見えた。
2007年01月31日
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昨晩は、集会にどなたも来られなかったので、聖書を読んで終わりにした。ちなみに箴言25章をよんだが、27節を選び、色々な翻訳で対照してみた。訳文の違いに唖然。「蜂蜜を食べ過ぎればうまさは失われる。名誉を追い求めれば名誉は失われる。」(新共同訳)「蜜を多く食べるのはよくない、ほめる言葉は控え目にするがよい。」(口語訳)「 あまり多くの蜜を食べるのはよくない。しかし、りっぱなことばは尊重しなければならない。」(新改訳)「過ぎたるは及ばざるごとし、何ごともほどほどに」
2007年01月29日
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「ヤコブの生涯」は、人間の弱さと強さが相まっている。ヤコブは歳を取り、エジプトで大成したヨセフと再会する。「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」創世記46章30節人は、幾つになっても、全身で愛を注ぐ場所を探すものだ。ヤコブにとっては、年寄り子のヨセフだった。エジプトの宰相となったヨセフを見上げたヤコブは、辛苦の人生も何かは。心の中で勝利の凱歌をあげただろう。しかしエジプトの王ファラオの前では、あくまでも控えめだった。ここに苦労人ヤコブの真骨頂を見るのだ。ファラオが、「あなたは何歳におなりですか」とヤコブに語りかけると、ヤコブはファラオに答えた。「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」創世記47章8~9節
2007年01月28日
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ヤコブの母は、荒くれの上の息子(エサウ)よりも、静謐な下の息子(ヤコブ)を愛しました。母はヤコブをそそのかして、夫イサクをだまして、上の息子がもらうはずの祝福(遺産相続)を、下の息子(ヤコブ)に与えてしまいます。精神よりも欲望(食欲)を優先する上の息子に家督を託したら、わが家もお先が知れていると考えたのでしょう。その母の判断は正しかったと言えます。ヤコブは「狡猾」だと言われることがありますが、それは当たらないと思います。先を見通す母の「知恵」と言った方が正しいのです。それにしても、母の子への愛は、夫をさえ欺くものなのです。愛とはそういうものでしょう。愛をあやまつと、取り返しがつかない結果をもたらします。神様の愛こそ強く激しいものがあります。その独り子を与えるほどの愛、それがボクたちにまっすぐに向けられています。神様の愛の大洪水の中でボクたちは生きているのか?神様の愛は、過つことがありません。ボクたちの愛は、どんなにしても神様の愛には届かないんだね。だから過たないように、神様に助けを求めるんだね?
2007年01月27日
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ラケルと結婚初夜を過ごしたと思いこんでいたヤコブ。翌朝、目覚めるとそれは姉のレアだったのです。7年間、恐らくラケルに指一本もふれずに、この日を待っていたヤコブの怒りと絶望はどんなだったでしょう。彼女たちの父親ラバンは「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。」創世記29章26節こんなことを言ってうそぶくのです。ボクなら、切れてしまうでしょう。沼津の千本浜には、幾千本もの松が植えられています。強い風に耐えている松は曲がりながらも、しっかりとそこに根付いています。これがヤコブです。困難に突き当たっては、耐えながら、やがて活路を見いだしていく。ヤコブの生命力は、ますぐに祝福を与えると約束された神様の御心の実現に向かいます。
2007年01月26日
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「ヤコブが旅を続けていると、突然、神の御使いたちが現れた。」創世記32章2節ヤコブの生涯は苦労の連続でした。これが神様に祝福された人の人生なのだろうか、と正直思います。人間関係の苦労が一番たいへんです。ヤコブの目の前で、4人の奥さんが相争うように子作り合戦を繰り広げるのですから。これが栄光に輝くイスラエル12部族の起源なのですから、現実は甘いものではありません。ボクだったら、死んだ方がまだましだと思うでしょう。そんな苦労の多い歩みの中に、しばしば天使たちがヤコブに姿をみせます。こんな場面に出会わなければ、ヤコブの人生はわかりません。苦難の中にも神様がおられる。ヤコブは自分の身に降りかかる「苦難」を受け入れ、神様の栄光を現した人と思います。(ヤコブの生涯は、創世記25章あたりから)
2007年01月25日
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「ヤコブは、息子たちに命じ終えると、寝床の上に足をそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた。」創世記49章33節生きることが神様の御手の中にあるなら死ぬことも神様の御手の中にあります。聖書の中の遠い父祖たちは神様に従う生き死にをしました。運命には逆らわないがその時が来るまで、静かに自分の命を燃やします。そういう生き方をしたい。そしてそういう生き方をしている人の側で共に生きられれば幸せです。
2007年01月24日
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友だちとの約束をすっかり忘れて、また妻を連れて千本浜に行ってしまいました。 (○○先生ごめんなさい)日没に間に合うかな、と西日を追いかけて車を走らせます。海岸の水際近くに、いつもより人がいます。ちょっと春めいた陽気だからでしょうか。堤防にも、一人で、または二、三人で夕日を眺めている人がいます。美しい風景の中に人々があるのはいっそうふさわしいのです。
2007年01月23日
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いつも頑張っている人がいる。そんな人に「頑張らなくてもいいんだよ」なんて言うのは、残酷なこと。あなたは頑張らなくて大丈夫。でもがんばり屋さんには優しいまなざしを頼みます。
2007年01月22日
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「お前をどうしたらよいのか。 お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ。」ホセア6:4 神様は失恋なさったのだ。 だからボクは2度と 悲しみを 神様に味合わせたくない。「遠くから、主はわたしに現れた。 わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し 変わることなく慈しみを注ぐ。」エレミヤ31:3
2007年01月21日
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長所と短所は表裏一体で風に舞う木の葉のように表を見せ裏を見せる。聖徒などど見なされている人物だって、同じこと。愛するなら、長所だけを見るように心がける。風に舞う木の葉が裏返りそうになるのを見たらさっと顔を背ける。それでなかったら、長所は無視して相手の短所をこそ愛さなければならないだろう。
2007年01月20日
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「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」聖書より(ヘブライ12:4)神様は、御元から離れたボクたちが帰ってくるのを待っておられます。神様の愛が、ボクたちをお求めになります。心を神様から引き離す原因になるものに、心を傾けたり求めたりしてはいけません。神様よりも輝いて見せるものがあります。それに心を傾けるなら、どんなものでも、「偶像」となります。心が引き寄せられて、神様から離れていく時、「偶像礼拝」になります。偶像の輝きが、時にボクたちの目を奪い、ボクたちの心を生き返らせることがある。神様を少し信じたけれど、魅力がなかったよ。第一目には見えないし、ものも言わない。神様が詰まらないもののように感じる。神様がボクたちを楽しませ、ボクたちの心を豊かにするために置かれた、たくさんのすばらしいものが、「偶像」にならないように、神様の深い愛に目覚めているのです。「恵みの手段」と言われるものがあります。礼拝やその他の集会に出席すること。一人で聖書を読んだり、賛美を歌ったり、祈ったり、黙想をしたりする。そういうわざを通して、神様を信じる喜びが増し加わります。そして神様というかたが、わかってくるのです。「罪と戦って血を流す」すでにもう、偶像の虜になりかかっている!その時でも、きっと大丈夫。自分自身の中にある行き過ぎた「こだわり」や、大したことのない損得勘定、神様を離れて美しいものを求めようとする思いと戦い、わが身が再び神様の愛に勝ち取られるように、軌道修正するならば。
2007年01月19日
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だれにだって神を信じることは奇跡に近いからその身に奇跡を負っている人たちと共に生きることが幸せなのだ
2007年01月18日
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「そろそろ朝の祈りのために起きなければ」フトンの中でもぞもぞしていた。その時、大地がゆっくりと弱々しく揺れたことを覚えている。それが近代未曾有の大都市地震だったことを間もなく知った。祈りを終えて居間に帰り、テレビを点けると画面は赤く燃え続ける町が映し出されていた。読み上げられる犠牲者の名前ボクがお勤めする教会の信徒さんの親戚消息不明が2人一人は無事で、一人は亡くなった。当時、ボクたちの教団に属していた大阪の教会の仲間も救援活動に当たり、逐次、報告があった。やがて若者たちも、ボランティアをするために出かけていった。--------------------http://plaza.rakuten.co.jp/naomi1988/
2007年01月17日
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「夕日を見に行こう」と言ったら、向こうも同じことを考えていたらしい。千本浜の堤に出て、そぞろ歩きながら、沈み行く日を追う。盆のような日が、向こうの半島の端にゆっくりと隠れていく。日が無くなると、しばらくは名残の赤みが空に残される。主を失った空はやがて闇のとばりを下ろすのだ。「さぁ、帰ろう」朝になると、日は昇る。沈む時とはうってかわってさんさんと光りを放ち日は一日のために準備する。朝日の強さは命の強さのように思える。だから日のあるうちに励もうと願う。
2007年01月16日
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持ち歩き用のデーターバンクとしてPALM機のPDAを愛用しています。一種の「電子手帳」です。これに新約聖書のデータを全部書き込みました。Jバイブルからのコピー&ペーストで、書き込みました。電車の中や待ち時間などに、気軽に聖書を読むことが出来ます。良く歌う聖歌や賛美歌も、書き込んでいます。海岸とか、山とか、自然にとけ込むと、歌いたくなる癖があるもんで。PDAはかわいくて大好きです。外出のとき、携帯電話はよく忘れますがこれを忘れることは、あまりありません。
2007年01月15日
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今日の日曜日は信徒さんとお祈りする機会が何度かあった。自分の霊性の低さと直面する。牧師は祈りをすることが大事な仕事なんだな。普段から、もっと祈ろう。
2007年01月14日
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毎週土曜日の午後、一人のご婦人が必ずお掃除に来て下さいます。雨の日も風の日も。朝からちょっと鬱気分だったのですが、信徒さんの前でそんな顔はできません。
2007年01月13日
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弟子団の中にマタイありローマ総督府ユダヤ○×収税所彼はそこで税金を徴収していた。仕事はなかなか気疲れする。昨日も事務所に石が投げ込まれた。紙に包まれてあり、開いてみると「売国奴、おめーなんて死んでしまえ」いじめか暴力か迫害か。その日もマタイは事務所にすわって執務中だった。イエスがやってきて声をかけた。「わたしに従いなさい」え~~っ まさか!マタイは驚いた。そのかたの声の、きっぱりとした明るい響きが彼の全身を喜びと期待に包んだ。「わたしに従いなさい」彼は収税所のペンをそこに置いて立ち上がった。やがて、主の御生涯を書き記すペンを取るために。
2007年01月11日
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イエスは故郷の湖のそばを歩いた。湖畔では2人の漁師の兄弟が働いていた。イエスが彼らを呼ばれると、彼らは網をそこに置いてイエスに従った。3人で湖畔を進むとまた別の漁師の兄弟が、父と一緒に網の手入れをしていた。イエスは彼らをもお招きになった。「父さん、 あなたのお手伝いをずっとするつもりでしたが、 主がボクたちを呼ばれたので、 ボクたちは行きます。」「お前たち、行くのか オレの仕事も一代限りになったか」
2007年01月10日
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今朝は朝焼けを見た。昼間には青いカンバスに雲夕には、夕焼け、舞い降りる夕の闇冬は空も遠景も澄んで見える。昔、早朝の山小屋から外に出た時しばらく立ちつくしていたことがあった。ここでは、これが毎日普通なんだと知った時もっと感動した。いい星に住んでいる自分。ああ神様、感謝します。
2007年01月09日
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成人となられた方、おめでとうございます。「聖人」と変換されちゃった!
2007年01月08日
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メッセージの準備の仕上げのために今朝は5時前から起きていた。昼間の務めは無事に終えたが、夕食の後はモウロウとしてきて、思わずもう寝てしまいたいと思った。それでも部屋を暖めて夕の礼拝の時間を待っていたら2人の若者が来られた。うれしさのあまり眠気も吹っ飛んで全力で礼拝を司った。
2007年01月07日
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お父様の介護を終えられたかたが使わなかった介護用の紙パンツを置いて行かれた。ボクのためというわけでもないだろうが、疑似体験してみることに。はいてから、恐る恐る1回分漏らしてみたが、水分はきちんと納まって、動き回っても漏れてこない。外から見てもわからない。良くできている。でもなま温かい感触はいまいちだ。少し匂う、妻には近づけない。腰に締まるゴムで、肌が荒れてきた。夏ならタイヘンだろう。
2007年01月06日
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空に背を伸ばすシクラメン。クリスマスとお正月、ボクたちの前で、おすまし顔を見せていた。見ると、日当たりで疲れたように茎を傾けていた。「シクラメンが謙遜になっているよ」妻に伝えると悲鳴を上げて出て行った。
2007年01月05日
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当たり前のように、今日まで生きてきた。普通のことが大きな喜びだったことを今、知る。共に生きる明日を信じられること、それも、心震わせる喜びだと知る。
2007年01月04日
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末子が寿司を下げてやってきた。ボクが頼んだのでお金を払おうとしたら取ろうとしない。すっかり大人になったと思った。下から大人になるんだな。食べ終わってお話ししていたらアフリカから長女とハズが電話をかけてきた。
2007年01月03日
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午前中は、妻と年賀状の続きを書いていました。箱根駅伝を見ながら。最後になって順大が大逆転し、往路優勝です。駅伝を見届け、書いた賀状を郵便局に出しに行きます。本局まで歩いて約30分の道のりです。帰り道トイレに行きたくなったのでイトーヨーカドーに寄ってトイレを借りました。店内の書店に寄ろうかと思いましたがあまりの混みようで、やめて帰りました。大社へ初詣に向かう人々の群に逆らって家路に。どこかのキリスト教の団体の人が拡声器で流しています。「偶像礼拝」へ「神のさばき」を警告する内容でした。高飛車な言説。人々とのコミュニケーションを拒んで、神様のご用をしているという自己満足。伝道の仕方を考え直してほしいものです。駅前で、古い知り合いに遭遇し会い、立ち話をしました。
2007年01月02日
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息子が来て「元旦礼拝」に出たうれしいなぁみんなの中で歌っていた祈りの時はちゃんと目を閉じていたうれしいなぁ奥さんもそばにすわっていた若夫婦はいいなぁ子供たちのために去年の倍はぜったいに祈ろうと決意した
2007年01月01日
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