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この間の遠足と話が前後するのだが、5月になって暖かくなったので、Ryuの幼稚園のクラスの前には「晴れの日は、外で遊ばせますので上履きに履き替えさせないでください。」と張り紙が張り出された。先週末は久しぶりに雨が降ったが、5月はずっと晴れ続きだったので、毎日園庭で、どんどん日焼けしていくRyu。ああ、母は美白肌を保つために暑くても長袖を着て、帽子をかぶって必死なのに、息子の南米混血の肌があからさまに太陽光線を吸収し、早くもよその子に比べて真っ黒状態で、親子と判別するのが難しくなってきた。そうやって外遊びを始めたある晩。Ryuはパジャマを着て、おっとと一緒にベッドに入った。わたしは皿洗いをしていると、伊語でRyuが「あっちあっち!」と必死におっとに訴えているのが聞こえて子供部屋をのぞいた。「お母さん、あっち見て!」とわたしを真面目な顔で振り返り、雨戸のすでに閉まった窓を指す。「お母さん、あっちにいるよ。」と突然正座して、身体を前後に揺らし始めた。その異様な光景にびびるおっととわたし。「誰かいるの?」「悪い人。クルマで来るの!」身体をこわばらせて前後に揺れながら、目がうつろである!ひ~。。。「いたいの。」と右頬を指す。「どうしたの?」「悪い人につねられたの!」キャアアアああああおっと「お願い、今日寝るとき電気消さないで。。。」(←父がこわがってどうする?)この夜、父と母は全部の部屋の電気をつけっぱなしたまま、ぶるぶる震えながら寝たのであった。次の日。幼稚園の担当の先生、3人のうちのひとりに前の晩の話をした。「う~~ん、わたしはまだ子供たちを外で遊ばせたことないけど、前の日に遊ばせた先生に聞いてみますね。たぶん、園庭にいるときに『園庭から出たら外には悪い人やクルマがいるよ。』って注意したんじゃないかなあ?」なるほど!!それならつじつまが合う!なんだ、こわがって馬鹿みたいだった。わたしはホッとしてすぐにおっとに電話をして話した。おっとも「ああ、きっとそうだよ。びっくりした。」と、はずかしそうだった。午後になって、お迎えに行くと、前の日担当の先生がいたので、さっそく聞いた。「ああ、それね。昨日Ryuはひとりで園庭の隅に駆けていったんですよ。ほら、あそこに戦死者の慰霊碑があるでしょ?そこをひたすら指して『悪い黒いひとがいる!』って叫んでいたんですけど、誰もいなかったし。きっと黒猫でもみつけたんでしょう。」わたし「。。。その黒猫は、先生みたんですか?」「いいえ、見てませんけどね。」ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃ~~~~~~っ!!!!こわいよ~、こわいっ!!!あれから数週間経つが、Ryuは未だに夕暮れ時以降になると「あっちに悪い人がいる!」と窓やら、部屋の隅を指す。しかし、今は右頬を指すとき「きょうりゅうに噛まれた!」と言っている。どこまで本気なのか、何を見たのか。。。。。子供というのは、こわいのであった。
2011.05.16
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現在Ryuは週2回、隣の市でボランティアのお母さんたちがやっている、無料の保育所に通っている。 ラテンの血が争えないのか?大勢で騒いでいることが好きな彼は、ここに通って、 まだハイハイしかできないのにお遊戯に参加したり、 家ではいやがって食べないバナナやりんごもよその子のお皿から奪ってまでバクバク食べたり、 貧乏な両親がとても買えない様な、大きなおもちゃで遊ぶのが楽しくてしかたがない。 そしていつも終わり際には家に帰りたくなくて大泣きするのである。 しかし、ここは母親同伴なので、まあ本当の保育園に通う「慣らし」みたいなものだ。 おととい、9月から始まる市立の保育園の申し込みに行った。 大勢が好きなRyuは家でわたしと2人きりよりもよほど保育園のほうが楽しいに決まっている。 だが、義務教育ではないので、私立の保育園ほどではないが月謝が高い! こうして9月をリミットに仕事を見つけざるおえなくなるように自分を追い込む目的もあった。 わが市はゆるくて、条件として、共働きでなくてもいいし、9月の段階で2歳に達していなくても、2007年12月生まれまでの子供はOKなのだが、近隣の市ではそうではなく、自治体によって違うらしい。 申込用紙は3枚。 1枚目はRyuの名前や住所などの基本データー。 2枚目は「カトリック教の授業を受けさせますか? はい いいえ」 3枚目はカトリック教の授業を受けさせない場合において、どんな授業を受けさせたいかの一覧があった。 Ryuは去年5月に初来日した際、春日大社でお宮参りをした。 わたしとしては「せっかく日本に行ったんだから着物を着せてお宮参りの写真を撮りたいな~。」ぐらいの軽い気持ちだったのだ。 が、神社の別殿にて神妙な笛太鼓の生演奏が奏でられる中、Ryuは立派な桐だか檜だかのベッドに寝かされて、神主さんが長々と祝詞をあげ、巫女さんが鈴がたくさんついた棒でシャンシャンとなでるのを見たときには「ああ、お宮参りって神道の洗礼式だったんだ。」としみじみ思った。 というわけで、Ryuは今のところ神道なのである。なので、何の迷いもなく「カトリック教の授業を受けさせない。」に印をつけた。 おっと「え~、カトリックの教えはやっぱり知っておかないと。。」 わたし「何言ってるの?あんたもカトリック教じゃない(エバンジェリック)くせに。」 しかしその夜中、考えた。 子供にカトリック教を受けさせたくない親ってどんな親? 日本人のほとんどが仏教徒のように、イタリア人の大半はカトリック教だ。 それ以外の宗教って、イスラム教、ヒンズー教、仏教、神道、儒教、ブードゥ教、真光教、オウム教、スパゲッティモンスター教、Etc... 当たり前だけど、みんな外国の宗教か、カルトじゃん? ってことは、Ryuのクラスメイトは外国人か、カルトな怪しい親を持つ子供。。。。 NNNNNNNN NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!! Ryuにはイタリアに住んでいる以上、やっぱり外国人よりも多くのイタリア人と交わって欲しいし、カルトな人々とはやはり関わりになりたくない。 わたしが小学生の頃、転校生がやってきて、自己紹介のときに「はじめまして!挨拶代わりに◎◎教の踊りを踊ります!!」と唄いながら踊りだしたときにはクラス全員で凍ってしまったことを今でも忘れられないのである。 よく考えたら、かく言うわたしも小学生のころはプロテスタントの日曜学校に通っていたが、今ではすっかり無宗教だ。 カトリック教の教えぐらいは、知っておいても無害だろう。 将来、どんな宗教を信じるかはRyuに任せよう。 そういったわけで次の日の朝、「カトリック教の授業を受けさせる。」に印をつけなおして提出した。 受付のおばさん「はい、じゃ受け取っておきますね。」 わたし「あの、受領証とかなにかあります?」 受付のおばさん「いいえ、以上ですよ。こちらから連絡しますから。」 わたし「あの。。いつごろ連絡があるのでしょう?」 受付のおばさん「あるときですよ。」 わたし「。。。。。。」 しまった、申込用紙のコピーぐらいとっておくんだった。 イタリアだってのに、基本的なミスだ。 連絡、あるだろうか。。。?
2009.02.14
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Ryuは離乳食を食べなくなって、というか、離乳食なんて食べていたっけ?というぐらいずいぶん早くから、大人と一緒のごはんを食べている。というか、Ryuが大人のものを食べたがるようになってから、わたしたちが毎回幼児食のような刺激のない、柔らかいものばかり食べるようになったのだが。ところが数ヶ月前までは、たいがいなんでも食べていたのが、最近になって、パンと白ごはん、デザート類しか食べなくなってしまった。これでは栄養が偏る!と苦肉の末、今夜のおかずの肉じゃがをごはんに混ぜ込んで小さなおにぎりにして出したところ、わざわざおにぎりをひとつひとつ崩し、肉やじゃがいもをていねいにつかんで、これまたていねいに下にぽいぽい捨て、一粒一粒、米だけを食べているのである。この光景には腹が立ったと同時に、感服してしまった。このきめこまやかさは、いったい誰に似たのだろう?Ryuはたいてい午後1時ごろに30分ほど昼寝をする。正直、近所の3週間早く産まれた赤ちゃん友達クラウディオみたいに毎日2~3時間ぐらい寝てくれたら、家事もできるし、ブログもまめに書けるのに、と思う。遅まきながらも1歳が過ぎて、やっとハイハイ、つたい歩きを始めた彼には家でじっとしているのがたまらないのだ。(せっかくのコーデイネートもよだれかけとスリッパでだいなしである。。)なので午前はイル ジガンテ、午後からはグローボ、というように毎日ふらふらとショッピングセンターを幽霊のようにあてもなく徘徊するのが日課となってしまった。午前のイル ジガンテなどはしょっちゅう通っているので、Ryuは大忙しだ。なぜなら、店員さん、警備員さん、買い物に来る近所のシニョーラたち、駐車場で小銭をせびっているジプシーのお姉さんとまで親しくなり、手を振り、笑顔で「あう~!」と話しかけなければならないのだから。おかげでわたしは時々ここのバールのカプチーノがただになるので、うれしい反面、行きたくなくても毎日通わなければならないような強迫観念にときどき駆られることがある。まるで仕事に行くときのようである。(お客なのに。。)しかしこの間、大雪で家に閉じ込められてしまった。Ryuは家にあるおもちゃにはすっかり飽きて、すぐにぐずりだしたので、ひさびさに宮崎駿の「魔女の宅急便」とディズニーの「ラタトゥユ(日本題『レミーの素敵なレストラン』)」のDVDをつけてみた。気がついたらRyuはひとりでぐずぐず言っていて、わたしだけ集中して観ていた。「魔女の宅急便」で主人公のキキの魔法が弱くなって焦るシーン。「わたしは魔女です、わたしから魔法を取ったらなんの取り得もなくなるんです!」ハッとした。わたしからデザインを取ったら何が残る?Ryuを妊娠したときから、いや、ミラノで8年間勤めてきた会社があやうくなりかけたときから、仕事が減って、会社にはただ「通っている」だけ状態になったときからデザインに対するパッションをすっかり失ってしまった。考えたら、あのときから取り得がなくなってしまっていたわけだ。森に住む彼女の画家の友人が「わたしもね、そんな時期があった。そんなときはじたばたするしかないよ。」。。。。。。。ああ、じたばたさえすることなく、いったい何年情熱を殺して、「生活する」だけを取って無駄に過ごしてしまったんだろう?しかし「ラタトゥユ(日本題『レミーの素敵なレストラン』)」の美食家エゴーの記事でじーんとした。「誰でもアーティストになれるものではない。しかし誰もがアーティストになれるのだ。」。。。。。。。ああ、そ~だよ。今からでも遅くない、努力しよう。わたしにとって、アニメは時々バイブルだ。こうして自前のちゃらんぽらんさに拍車をかけているのだろうか?それはともかく、ネット生活から離れているうちにネット上でのコミュニケーションがすごく変わってきたと思う。以前に比べて、情報の交換なども専門のサイトを探さなくても、質問を投げかければ誰かがとても正確に細かく答えてくれて便利になった。と同時に気軽にちゃらんぽらんなことを書くことが出来なくなった気がする。自分のコメントを読むひとがわたしと同じようにちゃらんぽらんなひとばかりではないのだ。なんだかネットが息苦しくなってきた。もちろんちゃらんぽらんがいいわけがないのだけど、以前はネット上で気軽に知らない人と知り合いになり、気軽にコメントを交わして親しくなり、そしてリアルで遭ったときにも、はじめての人でもすっかり昔からの友人のように会うことが出来たような気がするのだけど。それはブログを通じての出会いが多かったからだろうか?ブログはコミュニティなどと違って、個人的で一方的な情報の発信だから、それに同意してくれるひとばかりと交信していたためなのか?最近、書く時間がなくなったことでブログに対するパッションもネットサーフィンするパッションも失せてきたので、長年書き続けてきた楽天日記を閉じようかと何度も思った。(最後に書いた去年11月の日記でコメント67通中、58通がスパムだったし。汗)しかし、おっとが買ってきたり、もらってきたり、拾ってきた無駄なものは簡単に捨てられるけど、自分のものはなにかと捨てられない性分なので、次の更新がいつになるかはわからないけれど保存しておくことにした。****ただ、スパムがうざったいので楽天日記のコメント欄、BBS欄はクローズします。もうこんなにご無沙汰じゃ、読んでくれるお友達も少ないだろうし、わたしも返事ができないので。。。それでも日記でも読んでくれた方、ありがとう。そしてごめんなさい。わたしは元気です。Ryuもおっとも、エルトンもウイリアムも、その他おっとのヤギ友達たちも元気です。そのうちパッションが復活したらまたお会いしましょ~っ!!ではでは!!!!!
2009.02.07
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子供の教育に悪いから、味噌汁にパンを浸して食べるのはやめてほしい、と今更おっとに言っていいものなのか日々悩んでいるいくきーとです。お久しぶりです、お元気でしたでしょうか?前の日記から3ヶ月近くも経過。。。もう日記とも月記とも呼べませんが、まだ年記になっていないだけマシでしょうか??ただ今11月1日早朝5時近く。。。昨日の夜、Ryuに添い寝でうっかり爆睡してしまい、「33%オフ10月31日まで」のインターネットで注文できる写真カレンダーの締め切りに間に合わず、たった数時間差で15ユーロも値上がりして、悔しくてもう一度寝てることが出来なくなったので久しぶりに日記を書くことが出来ました。ああ、せっかくここ数日かけて作ったのに。。。ず~いぶん前から夏の豪華海外バカンスの日記を書かなければ、と思っているうちに月日が過ぎ、「せっかく途中まで書いたのに。。」と思いながらも書く時間がないまま、ミラノはすっかり冬に突入。そして書く気が失せ。。。という言い訳を並べ立ててもしょうがないですね。楽天には今更UPするのは恥ずかしいので、忘れた頃に(来年の夏までには!)こっそりこちらの旅サイトにUPしようかと計画中です。わたしは元気です。Ryuもおっとも元気です。Ryuはもうすぐ11ヶ月になります。なんとまだ伝い歩きはおろか、ハイハイもここ数ヶ月「あ、もうすぐしそう。。」状態で出来ないままです。。。それでも屋内では、座ったままボールを遠くに投げてわたしに「取って来い。」と命じたり、誰かに抱っこしてもらったら「そのまま歩いて窓の外の景色を見せろ。」など自分の足のかわりに上手にまわりの人を使いこなすことだけは覚えました。外では「まあ、なんて可愛い坊やなの!」と言われるのがうれしいらしく、笑顔を振りまき、すれ違う人々に手を振り、人々が気がつかなければ気がつくまで「あっ!あっ!あ~~っ!」と叫んで何か言ってもらうまでやめない愛嬌者です。そして5月の日本滞在の際、あれだけギャン泣きしてウン万円もする写真屋さんを手こずらせたのに、この間、6枚5ユーロ(700円ぐらい)の滞在許可証用の証明写真を撮ったところ、一回で「なんでこんなときだけいいお顔をするんだっ!?」というぐらいのショットを撮らせてくれたので、証明写真だけではもったいないから近況報告用にUPしておきます。(「ちびっこモデル大募集!」の宣伝に使えそうだ。)この間からずいぶん成長しましたね。↓おっとは相変わらずステファノ2に手こずってます。ステファノ2はこれだけのためだけに働いているとしか思えないぐらい、うちの郵便受けにはしょっちゅう罰金のお知らせが入っていて、毎日郵便受けをのぞくたびにヒヤヒヤします。最近は我が家の大黒柱、2人の従業員のボスになったになった責任感からか?おっと自身のネタはあまり提供してくれないのでホッとしています。わたしは。。。とうとうクルマの運転歴14日目を迎えました!自分が運転できる日が来るとは夢にも思わなかった。思い起こせばイタリアではじめて運転を試みたのは4年前。こんなことや、あんなことが懐かしい。というのも、あれだけわたしたちのために尽くしてくれたフォード マニュアル もんで男くんがわたしとRyuは最後のお別れも出来ないまま、とうとう逝ってしまい、かわりに我が家に豊田 オートマ びっつさんがいらして、わたしに手取り足取り運転を教えてくれたおかげなのです。どうしてものぐさな人種がほとんどのイタリアでクルマの90%がマニュアルなのか不思議で仕方がないのですが、オートマな彼女はわたしにやさしいです。。Ryuはわたしが横に座るといつも大騒ぎで一睡もしないのに、わたしの運転が安心なのか?いつも運転席に乗り込むたびに「はああ。。。」と大きなため息をつき、気絶するように寝てくれるので落ち着いて運転ができます。そういうわけで、ここず~~~~っと雨なのにもめげず、今日はイル ジガンテ、明日はエッセルンガ、と毎日スーパーマーケット散策を楽しんでおります。半年後ぐらいにはあのカオスのミラノ中心街までクルマで行けるようになるのが目標です。(目目さん、ちずさん、ありまりちゃん、ひろぽん、るみぶー、その他のお友だち~!待っててね!!!)しかし。主婦業、そろそろ精神的にも経済的にも疲れてきました。早く次の職を見つけないとなぁ。あ、Ryuの目が覚めてしまった。なんか中途半端ですが、また深夜に起きることがあればUPします、ではでは!!PS.タイトルの2ヶ月と3ヶ月、間違えてました。最近時間の感覚がなくなってきてます。。
2008.11.01
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またまたお久しぶりです。せっかくのコメントにお返事もせずに失礼しています、ごめんなさい。今日は子供の日ですね。うちのRyuの初節句。母と爺婆が祝い鯛を食べてお祝いしました。そう、4月20日からなんとか日本に滞在してます。しかし、もうわたしのことなんて記憶の彼方にいかれたお友達も多いはず。。。すでに日記ではなく月記いや、2ヶ月記?と化しております。この帰国の目的には今までひとりで昼間、育児をしていたから行けなかった歯科や、帰国1ヶ月前にごく普通の坂道でこけて捻挫した右足首のリハビリ、RyuのBCG接種など、医者通いがメインにあった。なので日本に着いた翌日から我がお嬢母にRyuを預けて、市役所に保険証を作りに行ったり、ペーパードライバーだってのに日本の免許の更新などに行っていたら、デリケートな母は4日目にして育児に疲れて熱を出して寝込んでしまった。こうして母は未だベッドの中なので、育児と家事でイタリアにいたときよりも忙しくなって、何も出来ないまま滞在日数の半分が過ぎ、とても焦りを感じている。******4月9日前回の日記を覚えておいでならば、結果からいうと日本のパスポートが、うまくいかなかったのだ。あの2日後ぐらいに日本領事館から「申し訳ございません、申請用紙に問題がありましてRyuさまのパスポートを発行することができません。」と電話があった。日本サイドにおいてはなんの落ち度もないと信じていたわたしはショックだった。「な、なにを書き間違えました?」やっぱり父親の国籍が欠けていることがダメだったのか?領事館「まことに申し訳ありません。申請用紙に傷があったらしくPCに取り込めないのです。もう一度書き直しに来て頂けますか?」こういう落とし穴があったのか。。。ちょっとわたしは意地悪になった。「そんな!ということはまたミラノまで往復しなければならないんですか?遠いし、子供もいるし何回も行きたくないんですけど?」領事館「いえ、今回は来て頂ければ1時間ほどで発行させていただきます。」なんだ。そんなことが出来るのなら最初からそうしてくれたら傷にもすぐに気がついてその場で書き直せたのに。。。というわけで4月9日早朝から、エクアドル大使館に出生届を出しに行ってから日本領事館に行くことになったのだ。これに反して困難を予想されたエクアドル大使館は、乳児&外国人妻連れが効いたらしく、大使館前の列も待合室の番号札もかっ飛ばし、優先的に入れてくれて、一番恐れていた「もう4ヶ月も経っちゃってますので出生届なんて受け付けませんよ。」という言葉を聞くこともなく、あっさり出生届は受理されたのである。そしてイタリアではRyuはおっとの苗字だけの「アンコロ(仮名)龍輝」なのだが、エクアドルではおっととわたしの苗字を連ねた「アンコロ 田舎野(仮名)龍輝」と無事登録された。そして頼みもしないのに親切?にも、わたしに言わせれば世界最強かと思われる日本のパスポートをもうすぐ所持するというのに、日本の値段の倍もするエクアドルのパスポートまで「すぐにお作りしますからー。」と作ってくれそうになって慌てて止めた。このスムーズさ、というかいい加減さ。。。さすがはヤギの排出国、エクアドルの大使館である。こうして我々は思ったよりもずいぶん早くエクアドル大使館を後にした。そして日本領事館で本当に1時間でパスポートを作ってもらい(←この辺が日本だなあ)、しかも「こちらに不備がありましたので値引きさせていただきますね。」と3ユーロも負けてもらってちょっとお得な気分になって出てきたのである。あ、ちなみに日本では「田舎野(仮名)龍輝」と登録されている。この日の用事はこれで終わらない。なんせめったに取れないおっとの休みをフルに生かしてめったに行けないミラノでの用事を全て済ませてしまわなければならない。この後、わたしたちはミラノのトルトーナ地区に住む昔からの友達、ひろぽんの家に行った。ひろぽんは7月出産予定。先日、性別が男の子だとわかったので、お土産にRyuの古着を大きな紙袋にギュウギュウに詰めて行った。実はこの日、ひろぽん宅でRyuの仕事の打ち合わせがあったのだ。ミラノで毎年開催される家具の見本市でのあるベビーベッドのモデルにならないか、とひろぽんと共通の友達から話があった。なんでもオランダの有名な家具デザイナーのベッドらしい。わたしは一も二もなくOKした。そんな有名どころのモデルといえばRyuの名を売るチャンスである。極貧家庭なのだからRyuにもやっぱりどんどんデカセギしてもらわなければ!!おっとは「これでRyuは将来のトップモデル間違いなしだな!(←親バカ)」とウキウキして、わたしたちを送っていくと仕事に戻っていった。しかし、いつもはよそのお宅では借りてきた猫のようにおとなしいRyu、そんな両親の期待が重かったのか、珍しくご機嫌斜めである。デザイン事務所のマリオ(仮名)が着いたとたんに火がついたように「うぎゃー!!」と泣き出した。わたし「ご、ごめんなさい。いつもは人前では機嫌がいいんですよー。」となんとかイメージアップさせようと無理を承知で弁解。Ryuの「うぎゃーうぎゃー」と大声が響く中、わたしたちも大声で商談開始である。抱いてないとさらに泣くので、抱いたまんまメモも取れずに「後日、メールで送ってください。」と雇われる立場でありながら高飛車な態度を取る。マリオは「これがベビーベッドのデザインなんだけど。」と3Dで描かれたデザインを見せ、わたしは息を呑んだ。さすが有名デザイナーの新作、真っ白な未来的な形をしたベッドである。マリオ「まず1日目はこれにRyuが入って、何カットか写真を撮ります。その後、プレスに向けて写真会をしますので3時間、Ryuにここで寝てもらうことになります。2日目はオープニングパーテイで2時間、Ryuにこの中で寝てもらうことになります。」さらにマリオ「このデザインはモノトーンでまとめますので、Ryuにもお母さんにもこちらで用意する白い服を着ていただくことになります。」わたしはその小さなベッドに横たわるRyuを想像した。こんなシャープなデザインに熊五郎のような濃いーRyuと育児に疲れたよれよれの日本人のおばさん?それが世界的に有名なインテリア雑誌やファッション雑誌の一面を飾るのだ。に、似合わない。このベッド、北欧系の色素の薄い子供用って感じ。。。。。。。だんだん申し訳なくなってきた。わたし「あのですね、3時間もRyuは寝たまんまの状態でじっとしてないと思うんですよ?」何、わたしは否定的なことを言っているんだ?マリオ「心配要りません。わたしたちも赤ちゃんはじっとしてないものだとわかってますし、いつでも休憩を取ってくださっていいですよ。」わたし「3時間以上も、となるとお気に入りのおもちゃなんて持ち込んでもいいですかね?」マリオ「。。。アハハ、白か黒のおもちゃなら。」わたし「。。。。。」わたし「最近よだれがすごいんですけど、同じ服の着替えを何枚か用意してもらったほうがいいと思いますよ?」マリオ「え、よだれ?このベッド、プロトタイプで一台しかないんで汚されると困るなあ。」わたし「でも赤ちゃんなんで汚れてなんぼなんですけどねえ。。。」こんな会話が進んでいく中、わたしはわたしに心の中で「何、不利なことばかり言っているんだ?黙っていろっ!」と叫び続けていた。打ち合わせが終わったとたん、まるで攻撃を止めたかのように、やっとRyuが泣き止んだ。帰りはタクシーを呼んでもらって家に帰る。大雨の降る中、タクシーの中で考えてみた。打ち合わせの時、Ryuが泣き続けていたのは、働かされたくなかったからかなあ?名声に目がくらんでしまったけど、こんな仕事を勝手に決めて、すごい親のエゴだな。それに2日目の2時間はあやし続けてたらなんとか過ぎそうだけど、1日目の3時間以上は難しい。大人のわたしは大丈夫だけど、赤ちゃんのRyuにはちょっと酷じゃないか?そうだよ、この後日本に行かなきゃいけないんだから体調を崩されても困る。ダメ元で、ちょっと条件を軽くしてもらえないかお願いしてみよう。エトセトラエトセトラ。。。。この夜更け、わたしはマリオに長い長ーいお願いメールを書いた。2日後、マリオから電話があった。「すみません、Ryuの仕事の件なんですが、ぼくらのスタジオと平行して、会社サイドでも(2社が合併した会社)赤ちゃんを見つけていました。あちらさんのほうに発言力があるので、あちらの赤ちゃんを採用することになりそうなので、Ryuの話はなかったことにしてもらいたいんですが。。。」アハハハハ、やっぱりそうなっちゃったか。。。。。。ガックリ。そしてここ日本。外出するたびに通りすがりのひとから声をかけられ「かわいいー、ハーフみたいや(←お嬢母の厳命によりハーフであることを明かすことが禁じられているのである)。モデルやらせはったらどうですか?」と言われるのである。そう思うなら仕事下さい。←懲りない親。どれから食べようかナ。。。
2008.05.05
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お久しぶりです。前回日記を書き逃げして以来、ひさびさに開けてみたら、スパムコメントだらけでびっくりした。そのさまは、まるで手入れをしない荒れた畑に雑草が生えてきたようなものだ、とブログ3日坊主の方々はみんな同じ事を思っているはず。で、さっそく引っこ抜きましたがもう暖かくなってきたし、またどんどん生えてくるのだろうなあ。。最近、畑が遠くてなかなか手入れが出来ません。****先日ひさびさに「あなた、イタリア語が上手ねえ。」と言われた。Ryuの小児科の先生からである。しかし、正直この言葉で凹んだ。なぜなら海外生活が長ければ、ある程度しゃべれるようになって当然だからだ。わたしはとりあえず謙遜をよそおって言った。「そんなことないですよ。上手と言えばSさん(15年間、我がINAKAMACHIの隣町に在住で、娘さんが同じ小児科にかかりつけでもある前回の日記で書いたご近所さん。)の方がよっぽどお上手だし。」小児科の先生「あのひとはこちらに住んで長いから当たり前よ。」この言葉を聞いてさらに凹むわたし。確かにSさんほど長くはないが、もう10年ほど住んでいるのにわたしの語学力はまるで、1ヶ月前に日本からやってきた留学生並みに見られているのだなあ。。。ま、勉強しないわたしが悪いのだけど。勉強しない、といえば妊娠時期から家でひっきー生活を送るようになってどんどんイタリア語力が落ちていっている。Ryuを日本語に慣れさせるため、ずっと日本語でしゃべりかけているせいもあるけれど、イタリアのTV番組のコメデイなどは吉本新喜劇で育ったわたしにとっては、思いっきりレベルが低くて笑えないし、勤めていたときには身近に感じておもしろかった世間を風刺する番組「レ イエネ」や「ラ ストリッシャ」もなんだかガラス越しの別の世界のことみたいだ。なので、暇なときはどんどんネットで見れる日本語の番組ばかり見るようになって気がついたら、おっとにも日本語でしゃべりかけているときがある。おっともおっとで「ウンウン、ワカッタ。」とこれも流暢な日本語で返事をするものだからつい流してしまって、後から「はて、本当にわかったのだろうか?」と思い返すことが多いのだ。日本語といえば、日本語能力は現在、おっととRyuはいい勝負なんじゃないだろうか?Ryuは最近、彼の昼間の居場所はチャイルドシート兼ベビーカーの中なのだが、じっとしているのがイヤになるとすぐに暴れて抱っこを求めてくる。わたしは抱っこをしすぎてとうとう生まれて初めて腱鞘炎になってしまった。しかし授乳中は痛み止めのクリームさえ子供に影響がある、と禁止されハーブ水みたいなものを塗っているのだが全然効きはしない。右手首がしびれて、字を書いても左手で書いたみたいだし、歯磨きはまるで思い丸太でも持つように両手を使わないと磨けないし、たかが手首、されど手首。。なのである。そういったわけで、抱っこの時間を出来るだけ少なく、Ryuをご機嫌に保つにはベビーカーを引いて、ひたすら歩き続けるしかないのだ。話はそれるが、犬、というのは人間の3歳児並の知能を持っている、ということ。つまり今の時点で我が実家の愛犬ソフィーさん(仮名)は我が息子より賢い、というわけである。確かに、ソフィーさんは今ではすっかりよぼよぼのお婆ちゃん犬だが、わたしがまだ日本に住んでいて彼女がご幼少の頃、「お散歩に行こうか!」と小さな鈴のついた赤いリードを手にすると、言葉を理解したかのごとく飛び跳ねてキャンキャン笑いながら玄関に駆けていったものである。しかしその点では我が息子も負けてはいないのだ。わたしが「お散歩に行こうか!」と着替え始めると「うはははは~。」とどこで覚えたのかおっさんのような笑い声を立て、手足をバタバタさせて喜び全開モードにする。しかしそれで、重いベビーカーを2階から降ろし、やっと歩き始めて半分も来ると寝てしまうことが多いのだ。そういえばソフィーさんも最初ははりきって駆けて行くのだけど、持続力が極端になく、すぐに抱っこで家まで抱いて帰ってたな。。。わたしも運動会では短距離ランナーだった。マラソンは仮病を使って休むぐらいキライだった。やはり家族と言うものは似るのものなのである。*****話は戻して、もう3ヵ月半も前のことだといったい何語で話し合ったかも覚えていないが、ショッキングなことが発覚した。先日、実は4月末から1ヶ月ほど母子で日本に帰国するのでRyuのパスポートを作りにミラノの中心の日本領事館に行ってきた。今春の帰国に関しては昨年、我が両親がイタリアに来たときから決まっていた。だから帰国日から逆算して、Ryuが生まれてすぐに領事館にて日本戸籍の申請をし(これがスピード日本といえど時間がかかるのだ。)、やっと戸籍謄本が出来たので、それを持って領事館に出向いた、というわけである。現住所の市役所の出生届も、滞在許可証の申請も、保険証も、予防接種も、生まれてから着々と済ませたし、パスポートがとりあえず、最後の面倒な仕事だな。。窓口で申請用紙を渡され、丁寧に書き込んでいった。写真も1回目、おっとが抱いてカメラマンが撮ったものは気に入らなくて、わたしが写真館のオヤジに何度も撮りなおしをさせてやっとマシな一枚を選んだ。こうしてなんの落ち度もないはずだった。左 写真屋がはじめに撮った写真。マフィアの三下。 右 お母様が愛情こめて撮ったけど「ま、写真屋を信用するか。」と持ち込まなかった写真(怒) 全部が書き終わり、再び窓口で用紙を提出する。窓口のおばさんは真剣に間違いがないかどうか確認して行った。窓口のおばさん「あの、2重国籍保有者の欄にも書き込んでください。」わたし「あ、2重国籍が保有出来るのですか?日本は1国籍のみと思っていました。」窓口のおばさんは向こうでRyuをあやしているおっとを見て「イタリア人との結婚で生まれた子供の場合は22歳になるまでイタリアと日本の2重国籍が保有できますよ。イタリア国籍所得日は市役所に申請した時点で出生日と同じになります。」わたし「おっとはエクアドル人なんです。」窓口のおばさん「あら、エクアドルの場合はどうなのかしら?ではエクアドル大使館に出生届を出した日を書き込んでください。」そうか、出生届 = 国籍申請 なのだな。わたし「ねえ、おっと。あんたいつエクアドル大使館に出生届を出したか覚えてる?」おっと「え?そんなもの出してないよ。」OOOOOOOOOOOOOHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!???わたし「出して当たり前だろう!!」おっと「だってきみ、国籍は日本を絶対選ばせる、って言ってたじゃないか。」わたし「それはそうだけど、出生届は親の義務でしょ?!」わたしははるか3ヵ月半前の出来事に頭を逆行させる。「ちょ、ちょっと待って。あんた、確かRyuが生まれてすぐに知り合いの大使館のお姉さんに電話して聞いてみる、って言ってたよね?それからどうしたの?!」おっと「大使館に出向かないと何もできないよ。そんな時間なかったし。」(イタリア在住者を含めて説明するとエクアドル大使館というのは、日本領事館のようにいつ行ってもガラガラということは決してない。1ヶ月ほど前からアポを取り、アポ当日も大使館の外でまず列を作って待ち、大使館の中でも待合室でずいぶん待たされた後、やっと用事が出来るのである!!)時間がないって。。。。ヤギたちとへべれけになる時間はあっても、自分の息子のために大使館に出向く時間はないんかいっ!?わたしはクラクラしながら「。。。てっきりわたし、電話で出生を届けだしていたかと思い込んでいたよ。」いいや、わたしが悪い。そんなヤギだと百も承知で、Ryuの世話にかまけてすっかり管理不足になっていたのだ。窓口のおばさんは引きつり笑いをしながら「イタリアや日本では、生まれて3ヶ月以内に出生を届け出ないと国籍失効になるんですけどねえ。。エクアドルの場合はどうなのかしら?おほほほ。」とダブルパンチを食らわせる。わたし「もしエクアドル国籍が持てない場合はどうなっちゃうんですか?」窓口のおばさん「さあ。。たぶん、滞在許可証をお作りになるときに父方の国籍が欠けていると、問題が生じるかと思うんですけど?」NO,NONO,NONO,NONO,NONO,NONO,NOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!!!それは絶対ダメだ~~~~~~~~~~~っ!!!!!!!!!滞在許可証は生まれてすぐに申請したが、まだ呼び出しは来ていない。早めになんとかせねば!!!わたし「す、すみません。もう一度、用紙を返していただけますか?まだ出生届、出してませんけど取りあえず2重国籍エクアドル、って書いときます!」窓口のおばさん「ダメですよ。それは旦那さんと話し合って、エクアドル大使館にきちんとインフォメーションしてください。それから追加事項が必要ならしますので。」Noooooooooooooooo.............こうして日本のパスポートはたいした(?)問題もなく3日後に出来上がるそうである。家に帰るクルマの中でおっとはのんびりした声で「明日にでも大使館に電話してアポを取るよ。」という。わたし「でもでも、もう3ヶ月過ぎちゃったんだよ?出来なかったらどうするの、もしRyuが無事滞在許可証をもらえなかったら?」おっと「大丈夫だよ。大使館は日本じゃないんだよ、エクアドルなんだよ。」ハ。そうだった、そうだった。エクアドル大使館なら3ヶ月から半月過ぎたぐらいじゃ、全然余裕で大丈夫か?まったく。全てに抜かりがない、と思っていたのに大きな落とし穴があった。おっとは、誰かに会うたびに「Ryuが生まれて人生が変わったよ。」としみじみ言うのだが、いったいどこが変わったのだろう?
2008.03.21
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先週末はおっとの幼馴染のウイリアムの娘、ジュリエッタの洗礼式があった。古い話を覚えておいでの方は、「え、なんで?」と思われるかもしれないがこんな展開も後からあったりして、今回彼女は娘を連れて2週間だけイタリアに帰って、いや訪問してきた。ジュリエッタは2006年12月生まれ。うちのRyuとちょうど1年違いである。招待状を届けに我が家に彼女が来て玄関からママの手に引かれてよちよちと近づいてきたときには「ああ、うちのRyuも1年後はこうなるのか。」となんだか感動した。招待状に貼ってある写真はまるで天使のようなフリルがいっぱいの真っ白のドレスを着ていて、それを「うわあ、きれいだねえ。」と褒めると、ママがうれしそうに「洗礼式にはこれを着せるから楽しみにしていて。」とウインクする。よかったことに母親に似て色白美人の彼女「お父さんはもしかして日本人?」と聞きたくなるぐらいなんだかアジア系の顔立ちだ。それにますます親近感を覚えて「洗礼式には是非よろこんで参加させてもらうよ。」と、心の底から返事をした。そして洗礼式の日。わたしは龍輝を授乳できるようなおでかけ着は1着しかないので早々からそれに着替え、Ryuのはさんざん迷った挙句、ウイリアムからもらった帽子と靴下、ウイリアムの姉からもらった上着、ウイリアムの弟からもらったズボン、となんだかちぐはぐなものを着せてすでにベビーカーの中に寝かせ、朝早くにに散髪しにいったおっとの帰りを待っていた。洗礼式は16時。場所は我が家からクルマで1時間はかかるマルペンサ空港近くの教会である。時計は14時を廻った。こんな日におっとはどこをほっつき歩いているんだろう?おっとの携帯に電話する。おっと「あ、今整備工場で用事が終わったところ。あと10分で家に着くから、すぐに出れるように待機しておいて。」髪を切りに整備工場に行くんかいっ!!??それはおっとが帰宅してから責めることにして、わたしはコートをはおって、靴を履いておっとを待った。しかし。わかってたよ。。。わかっていたけれども、おっとが帰宅したのは15時10分である!わたし「もう間に合わないよ!すぐに出るよ!!」おっと「ちょっと待ってよ。こんなTシャツジーンズ姿で出かけられないでしょ?スーツに着替えないと。。」ああもうっ!!!おっとがもたもた髪を洗い、ひげをそって服を着替えている間にそれまでおとなしくベビーカーの中で寝ていたRyuが泣き出した。ああああもうっっっっ!!!手荒くおむつを替えているとおっと「大丈夫だよ、この間のレオン(わたしの友達の息子)の洗礼式だって遅れていったけど、たくさん子供がいて1時間近くあったし、間に合ったじゃないか。ほらほらちゃんとオシリにクリーム塗ってあげて。」←おっとはまるで世間一般の口うるさい義母のようなのである!結局出発したのは15時40分。そこから同じく招待されていた近所に住むやもめのチェーザレを拾って。。。わたしはあきらめてクルマの座席に身を投げ出し、だんまりを決め込んだ。チェーザレは怒りはしないものの「こんだけ待たされるなら髪をもっとちゃんと編みこみしたのに。。」(←彼はレゲエ)とぶつぶつ言っている。教会のある街にきっかり1時間後に着くと、この日は街をあげてのカーニバルで、中心までクルマで入れない。さんざん空いてる駐車場を探し町外れにクルマを停め、小走りで中心にある教会に着いたときには、とっくに洗礼式は終わっていた。涙教会はすでに閉じられていたが、もう解散しようかとしているウイリアムたちの姿がまだ扉の前にあったのでホッとした。ウイリアム「よう遅かったじゃないか、いくきーと。お前もすっかり南米人化したなあ。」OOOOOOOOOOOOOHHHHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!ち。が。う~~~~~~~っ!!!!!ジュリエッタはすっぽりコートに包まれていて、まさかこんなに寒いのにそれを脱いでドレスを見せて、とも言えない。そういえば、わたしたちの結婚式のときもウイリアム一家はとっくに式が終わり、招待客も解散し、写真も撮り終わって、わたしたちも帰宅しようか、というときに現れたんだっけな。。。お互い様。。。ああ、こんなお互い様はイヤである。次の夕食会まではまだ時間があるのでウイリアム親子を除き、わたしたち全員はウイリアムのお母さんの家で待機することにした。ベビーカーを押して、ぞろぞろと他のひとたちの後について歩き始めると、おっとの姿が消えうせていた。全員で慌てて探すと揚げたてドーナツの屋台に並んでいる。ああああああああもうっっっっっっっっ!!!団体行動が大好きなくせにどうして団体で行動できないんだっ!!??絶対ツアー旅行なんて向いていないタイプである。なんとかおっとを屋台から引き離し、ウイリアムのお母さんの家に着くと待っていたようにRyuが泣き出した。寝室を借りておむつを替えたりおっぱいするが、泣き止まない。出かける時間になっても泣いているので、泣き止むまでウイリアムの妹がわたしたちと残り、わたしたちはこれにもずいぶん遅れて夕食会のあるレストランに出発することになった。レストランに着いたとたん、わたしたちは青ざめた。なぜならこのブラジルレストラン、壁には青い空、青い海が描かれ、カクテルサービスの屋台はやしの葉で彩られ、ウエートレスはハワイアンのような腰みののお姉ちゃんたちが忙しく動いていて楽しいのだが、大きな舞台が前にあり、マッチョなDJたちがガンガンにラテンミュージックを流していて、最後に着席したわたしたちにはその横の今日の主役ウイリアム親子たちの隣の席しか残っていなかった。あ。。。あかん。これはまた絶対泣き出す。ところが。心配の種、Ryuはぱっちり目を覚ましていたが、大騒音の中、頭上で輝く色とりどりのライトをニコニコしながら見つめている。いろいろなひとが「可愛いわねえ、抱っこさせて。」と来てもご機嫌で抱かれているのだ。ああ、取り越し苦労だったな。そういえば、わたしのお腹にいたときからガンガンラテンミュージックには慣れているか。。。。(あ、でもお正月はそうでもなかった。)それでも全面信用の出来ないわたしたちはごちそうが一通り出終わると、さっさと家に帰ることにした。レストランを出たとたんに大泣きのRyu。悪夢は家に着く直前まで続き、Ryuは口の周りを泡だらけにしてやっとおとなしくなった。わたしたちもクタクタ、おっとよりもデリケートなわたしは翌日から熱が出て、マスクしておっぱいしている現在である。こうして親子共々鍛えられていくのだね。ふう。
2008.02.13
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先日ある日本の友人が「これでRyuちゃんにおもちゃでも買ってあげてください。」とお祝い金を送ってくださった。「おもちゃ」。。。久しぶりにそんな単語を見てわたしの中に熱いものがこみ上げてきた。考えたら、イタリアに来てから、というもの留学生時代は少ない貯金からやりくりしなければならなかったし、結婚してからは働いても働いても高い税金や光熱費、食費の上、裁判まで続けているものだから、貧乏極まりなく、「おもちゃ」なんてなくても生きていけるものは、削除し続けてきたわけである。わたしはおもちゃが大好きだ。ビデオゲームとかは出来ないので興味が薄いが、懐かしのブリキのおもちゃとか、アンティ-クのテディベアとかも大好きだけど、特撮系の新しい仕様のついた武器なんかを見ると、もうついつい財布のひもがゆるんでしまっていた。立体のデザインは苦手だったからおもちゃ会社に就職はしなかったが、ファンシーグッズデザインで楽しんでいた。イタリアに来る前までは毎年、東京に住んでいたときはもちろん、実家に帰ってからも東京幕張で開かれる「おもちゃショー」に出かけて新しいおもちゃを見てドキドキしていた。これはきっと幼い頃、サンタさんにいくらゲームやおもちゃをお願いしても、クリスマスの朝に枕元に置かれていたのはぶ厚い百科事典とか、蛾やかまきりの昆虫標本とかだったから、その反動が強いに違いない。話を戻しておっとは小切手の額を見て「ああ、ちょうどよかった。これでRyuの新しい服が数着買えるね。今までのはあっという間に小さくなったし。」わたし「でも友達は『おもちゃ』って書いてきたんだよ。」おっと「お金なんだから、自由にRyuに必要なものを買えばいいじゃないか?」わたし「この子に必要なのはおもちゃだ!」それからは週末の買出しが強制的なものから楽しいものに変わった。今までは「このコーナーに近づいたら、自分がつらくなるだけだ。」とか、「いい年しておもちゃ見て舞い上がっていたらおっとにバカにされるな。」とか、「お金ないのに、こんな余分なもの、見るだけでも罪だな。」と後ろめたさを感じ、避けていたおもちゃ屋やスーパーのおもちゃコーナーに正々堂々とおっとを連れて見にいけるのだ!そういえばおっとは、こんなわたしの本当の姿を知らないと思う。わたしもわたしでいったいどれだけおっとの本当の姿を知っているだろうか?。。。とまた脱線してしまったが、こうしてわたしたちは、Ryuのおもちゃを探して何軒も店を廻った。わたしの中で「赤ちゃんのおもちゃといえば、お約束はメリーだろう。」というものがあったのだが、意外に売っていないものなのだ。まだ寝返りすら出来ない赤ちゃん用にねこの形をしたボタン次第でメロデイの変わるものとか、売っていてもなんだか可愛げがないというか、けばけばしいデザインとか。商品企画していたときには会社の方針や先輩の教えでベビー用品はニュートラルな色を使って丸みの帯びたデザインを鵜呑みに守っていたけれども、消費者側、というか買う両親の立場になってみると確かに原色や角のあるデザインは危険なスメルがして買う気になれない。ミラノの街中にでも行けば、いろいろあるのかもしれないが、こんな田舎町ではこんなものだ。やっと赤ちゃん用品の大型チェーン店、CHICCOでまあまあ満足のいくものを見つけた。パステルカラーの4つの妖精が優雅なクラシックミュージックや小川のせせらぎなどの音にあわせて廻る。さらに月齢が大きくなると、それらの音楽を赤ちゃんが自分でボタンを押して楽しめるようになっていて、さらにさらに月齢が大きくなると、4つの妖精のぬいぐるみと家の形をしたボタンの箱で積み木が出来るのだ。一台で3つのお得である。おっと「ちょっと大げさすぎない?もうちょっと考えようよ。こんな高いものを買って、Ryuが気に入らなかったらお金の無駄だよ?」以前の携帯電話で懲りたわたしは、ここでおっとの言葉はもう聞かなかった。めちゃくちゃ久しぶりに現金でこんなに大きなものを買ってしまったのであった。レジで並んでいるとき「これでいいよね、いいんだよね?」と何度も自分に言い聞かせた。家に帰るとわたしが箱を開ける前におっとがもう開けていて(実はおっともうれしかったらしい。)、組み立ててベビーベッドに取り付けると、思ったよりずいぶん大きくてちょっと後悔した。いろいろボタンを押して音楽を試していると、その真下で寝ているRyuはモロー反射(赤ちゃんが驚いたときにぱっと手を広げる反射行動)をしっぱなしである。おっと「やっぱり、失敗だったんじゃない?」確かに。さらに後悔した。次の朝。Ryuがいつものクマちゃんたちであやしても何をしても、いつまでもグズグズしているのでメリーのスイッチを入れてみた。すると前日とは打って変わって急に機嫌がよくなり、いつまでもメリーが廻るのを見つめている。数分してメリーが止まると「ア~。」と催促するので付っきりで止まるたびにスイッチを入れなければならないのが午前中いっぱい続いた。今日などはこれを利用してわたしは数分の間に朝食を済ませたり、歯を磨いたりしてなかなか楽なものである。買ってよかったな。2ヶ月のお誕生日おめでとう。この辺って、赤ちゃんおもちゃの王道?
2008.02.06
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ご無沙汰してます、こんにちは。月並みなセリフながら子育てに明け暮れ、あんなネタやこんなネタも時々発生するのだが、書こうとPCの前に座ると、まるで隠しカメラで監視していたかのようにRyuが泣き出す、という毎日である。イタリアはカーニバルの時期に入ったので、ここはやっぱりRyuには半分血が流れている日本人らしい仮装をしてもらいたいと思い、ピカチュウの着ぐるみを探したのだが、こんなに小さい子サイズは売っていなかったので、来年まで待つしかないようだ。Ryuは今まで表情もなく、泣き声もあまり人間っぽくなく、なにが一番人間離れしていたかというと、左右の目を別々の方向に動かすのがまるで寄生獣のようでこわかったのが、最近はやっと声に変化がついてきて、目の焦点も定まってきたようだ。*****この間、一ヶ月検診ならぬ一ヵ月半検診を済ませ(だっていったいどれぐらい間隔で検診に行かなければいけないかなんて知らなかったのだもの)、やっと初めてのお出かけと称しておっとと共に近所のスーパーに連れて行った。クルマで行った。徒歩でもたかだか10分のところなので家で出かける直前におむつを替えて、授乳をして、ベビーカーにRyuだけ入れて何も持たずに出かけたら、スーパーに着いて買い物を始めて10分も経たぬうちに大泣きである。通りすがりのおばさんに「おっぱいが欲しいのよ。」と言われ、なるほど、とクルマに戻り、おっぱい。泣き止んだので再びスーパーに戻るとまた大泣き。別の通りすがりのおばさんに「抱いてあげなさいよ。」と言われ、なるほど、とおっとが抱っこしてあやしていると少し泣き止んだのでベビーカーに寝かしたとたんに口からミルクの噴水である!そりゃそ~だ、出かける前にも飲ませたのだもの、飲ませすぎ、飲みすぎである。可哀想なRyuは噴水のおかげで顔中、服までもびちょびちょになり、気持ちの悪さでさらに大声で泣き始めたものだから、結局買い物どころにならず、カートをその場に置いて家に慌てて戻ったのであった。あんなでかい、おむつも哺乳瓶も着替えも何から何までパンパンに詰め込んだバッグを常時持つなんてかっこわるいな、と思っていたのだがそれどころではないと身にしみて感じた初お出かけ。ここで両親としての勉強。「どんな短いお出かけ時でもママバッグを忘れてはいけない。」しかしおとといの2回目のスーパーでは急いでいつもの3倍速で買い物をしたにもかかわらず、Ryuは始終ぐっすり眠っていたのでママバッグなどは、ただ邪魔なだけであった。*****ある週末。おっとの通っている歯医者さんが娘さんを連れてRyuを見に来た。彼らが来たときはちょうど、Ryuはオムツも替えて授乳も終わったにもかかわらず、グズグズしていてなかなか寝付かず、わたしは目目さんにいただいた「バウンサー」というゆりかごみたいなもので一生懸命あやしていたのだ。歯医者さんが「ああ、小さいね。」と覗き込んだらRyuはもう大泣きする寸前の顔で、見ているわたしはハラハラする。次に娘さんが「きゃ~、可愛い☆」と顔を近づけたとたん、Ryuは今までしたこともないような満面の笑顔になった。娘さん「可愛い、可愛すぎるわ!絶対これは将来いい男になるわよ~。」Ryu「。。。。。」ニコニコしている。娘さん「20年後にはわたしのお婿さんになってくれる?」Ryu「ウィ!」Ryuにとって初めての言葉ではないが、Ryuが初めてはっきりとした発音でしゃべった記念すべき言葉であった!それが母にでも父にでもなく、他人に対してで、しかも日本語でもスペイン語でもイタリア語でもなく、気取ったフランス語だなんて。。。この娘さん21歳。ブロンド、青い目の美人でお父さんの歯科医助手をしている。結婚相手としては申し分ないのだが、20年後となると娘さんは41歳、Ryuは20歳。むむむ。。。。。あまりに年の差がありすぎて、母としては複雑である。*****今朝は天気がよかったので初めてわたしひとりでRyuを連れてちょっと遠いところにある郵便局まで日本の友人宛に絵葉書を出しに行くことを決意した。絵葉書ぐらい、おっとに仕事の合間に出しに行ってもらえばいいのだが、Ryuを外出に少しでも慣れさせたかったのだ。しかし何が決意か、というと、ベビーカーがやたら重いのである!日本のベビーカーもそうなのだろうか?と思ったら↑みたいのばかりで同じようなタイプが見つからない。ベビーカーのカート部分8kg、ベッド部分5kg、Ryu約5kg、総重量18kgである。幸運なことに我が家はエレベーターはないものの、1階なのでいいのだが、まずカート部分を家の前の道路に降ろし、次にベッド部分を持っていって組み立て、最後にRyuを布団で繰るんで連れて降りて外に出るだけに3回も行ったりきたりしなければならないのだ。我が家の周りは田舎だからいいけれど、こんな作業をミラノの真ん中でやっていたら、Ryuを連れて降りている間にベビーカーは消え失せているだろう。まあともかくこの作業を無事に終え、わたしは冷たい外気を吸い込みながら歩き出してベッドの中のRyuを見た。せっかく機嫌よく起きているところを見計らって、他の事をなにもかも放り出して出てきた、というのにさんぽ。。。三歩ぐらい歩いたところで彼は眠ってしまった。怒後はどんなガタガタ道を歩こうがおかまいなくの熟睡ぶりなので、かなりガッカリしながら歩き続けて郵便局に近づいた。「いくきーと!」と言う声にはっと顔をあげるとすぐ横にワゴン車が停まり、いつもうちに郵便物を届けてくれるボリビア人のお兄ちゃんがニコニコと顔を出す。お兄ちゃん「散歩かい?」わたし「ううん、違う。」お兄ちゃん「今からお宅のゾーンに行くから送っていくよ。」わたし「いや、今から郵便局に行かなきゃいけないから待たせられないよ、ありがとう。」お兄ちゃん「そう?じゃあね!」別に友達じゃなく、ただの顔見知りの郵便屋さんだというのにずいぶんと親切なお兄ちゃんなのであった。こうやって、この町の町民をいつも送っていっているんだろうか?うんうんいいながらベビーカーを郵便局の中に押し上げ、長蛇の列に並ぶ。わたしの番まであと5人ほど、となったところで郵便局員とお客で喧嘩が始まった。その荒々しい声のやり取りにRyuがやっと目を覚まして泣き出す。怒声と泣き声、狭い田舎の郵便局の中はたちまちうんざりした雰囲気に包まれた。お客「わたしはもう保育園に子供を迎えに行かなきゃ行けないのよ!たった1通の書留を出すだけに30分も並んだのになんで窓口を閉めるのよ!?」郵便局員「コンピューターが壊れたから仕方がありませんって言ってるでしょ!それにもう閉局の時間です!!後ろに並んでる方々、もう並んでいても無駄ですから出て行って下さい!!」わたしたちは郵便局を出た。Ryuは郵便局を出たとたんに泣き止んで、また眠りに入った。目的はRyuを連れての外出、だったものの何しに来たのかわからない外出であった。ああこれならあの時、ボリビア人のお兄ちゃんに素直に送ってもらえばよかったか?こうしてわたしたちはただ単なる散歩をし、お利口なRyuは家に着いてようやく目を覚ましたのであった。。。。。とこんな毎日を過ごしています。ぼくたちもネタにされた?Ryuと右から反時計廻りでクマちゃん1、クマちゃん3、クマちゃん2。
2008.01.29
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12月5日(水)先日の小旅行ですっかり外出することにトラウマになったわたし。しかし、もうすぐパスポートの期限が切れるので、ある日、しかたなしにミラノ在住の日本人の友人に付き添いをお願いしてミラノの中心にある日本領事館に行くことにした。その日の午前中はMonzaの病院で検診があり「まだ産まれてなかったら2週間後に会いましょう。」なんて本来12月14日である出産予定日から出産が早まる予告のようなおそろしい宣言を受け、ますますトラウマ度をUPさせながらミラノ行きの電車に乗り込んだ(と言ってもたったの2駅)。しかしミラノに着くと「久しぶり~!」と迎えてくれた友人の笑顔に心が和み、トラウマ度DOWN。しかしそこからがついていなかった。領事館に行く前に昼食を食べたBARでわたしが目の前にいたにも関わらず、友人の財布も家の鍵も、携帯も、何もかも入ったバッグが盗られてしまい、パスポートどころではなくなってしまった。長年イタリアに住んでいて、そんな災難もよく聞いてはいたし、実際ぎりぎり危ない目にも何度か遭ったが、目の前でそんなあざやかな(?)手管の被害を見たのははじめてである。やっぱりイタリアは危ないのだ。ちなみに友人はバッグを座った椅子の背に置き、上からコートで隠して何度もチェックしていたのだが、逆に隠していたことがプロのスリには好都合だったようである。イタリア在住の皆さんも、旅行される予定の方も改めて気をつけて欲しいものだ。そこから数日が経ち、しかたがないのでおっとの仕事を無理やりずる休みさせてクルマで領事館へと行きなおす。領事館「3日後に出来上がりますので本人が必ず出頭して取りに来てください。」OOOOOOOOOHHHHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOO!!??今日中に出来ないのっ!?こわごわ、またまた、同じ友人に付き添いをお願いして取りに行った。どんどん予定日が近づくことでいい加減、「もうどうでもいいや。」とやけくそになっていたわたし。とにかく無事にパスポートをゲットし、友人と楽しく昼食、ウインドーショッピングをして帰宅したのだった。*****12月6日(木)リアル友達に宛てたメールを編集。お友達のみなさん、お元気ですか?我が家には一足先にサンタクロースがプレゼントを運んできてくれました!!本日正午、予定日より8日早めで、我が家待望の息子、龍輝が2800gで誕生しました。実は最初は名前は「ミケランジェロ」のはずだったのですが、おっとがだんだん「みーちゃん」から「ミケ」と呼ぶようになり、「ミッキー」そして「Il mio topolino、topino!(ぼくのねずみちゃん!)」と呼び始めたので、猫はともかくねずみはイヤだった、という理由で日本の名前に決めました。しかし「龍輝」もアニメにはない名前、と思ってつけたのに某特撮ヒーローに漢字は違うけど、居ましたね。。。名づけとは、本当に難しいものです。前日までなんの兆候もなく、友人とミラノに行ったりしていたのですが(今考えると無謀だったなあ。。)、6日の深夜2時から少しづつ陣痛が始まり、それが5分おき間隔になる朝まで待って病院へ。 しかし病院では「あなたの陣痛はまだまだ弱いし、病室は満員だから2~3時間公園にでも散歩に行くか、家に帰るかしてもっと陣痛が強くなるのを待ってもう一度来て。」と言われました。あほうっ!我慢が限界だからここに来とるんだっ!そんな悠長なこと出来るかいっ!!! でも、自分ではもう立って歩くことも出来ないほどの痛みで「待てません!隅の椅子にでもいいから座って病院で待たせて下さい!」とねばったところ、しぶしぶ「じゃあ、分娩室に入ってもらうけど、誰か出産する人が出てきたら出て行ってね。」といきなり分娩室へ。 分娩室はこの寒空に窓全開、冷蔵庫のように冷えていて、ベッドに寝かせてもらうこともなく立たされたまま放置されて、陣痛とダブルパンチで分娩台に寄りかかり、ガタガタ震えていると、助産婦さんが登場。 助産婦さんは吸い込まれそうな大きな蒼い瞳の落ち着いた声の持ち主で、「どうしてそんなに震えているの?出産がこわいの?」と聞きました。「い、いえ、とても寒いんです。。」と控えめに訴えるわたし。助産婦さん「あなた、緊張でコチコチよ、可哀想に。お風呂に入ってリラックスしましょう。」と部屋の真ん中のラブホテルのような大きな浴槽にお湯を入れて、わたしを浸からせました。 助産婦さん「どお、湯加減は?」わたしは江戸っ子ではないのですが、熱い風呂党なのです。「ぬ、ぬるすぎて寒いです。もう少し熱くできませんか?」助産婦さん「だめよ、これ以上は。赤ちゃんがゆでだこになっちゃう。」。。。そういうことなら湯加減なんて聞かないで欲しい。そこから助産婦さんがコーラスの発声練習のように「あああ~ああ。言いなさい。」とわたしに指示。ああ、これってインドでヨガの修行をしたというマタニテイコースのインストラクターのおばちゃんから習ったのと同じだ。彼女はコースで「あああ~ああ。。。キエ~~ッ!!」と目をむいて叫んでいて、(大丈夫なのか、このひと?)と思っていたのですが。。。そこから2時間半。まさに最後のいきみは「あああ~ああ。。。キエ~~ッ!!」と叫ばなければならず、インストラクターのおばちゃんに頭のどこかで感服したのであります。産まれ立ての龍輝は助産婦さんによってあっという間にへその緒が切られ、シーツにくるまれておっとの腕の中にパス。おっとがウルウルするのもつかの間、あっという間に新生児室に運ばれていったのでありました。そう、つまりわたしは希望したわけでもなかったのですが、水中分娩となったのです。その後、すぐ出てくるはずの胎盤が出てこず、これは最初に希望していた骨髄麻酔による無痛分娩で摘出。これはあまりうれしくなかったです。しかしあのとき、公園に散歩も、家にも帰らなくて本当によかったとしみじみ思いました。そしてわたしは病室へ。この病院の方針でここから3日間、24時間母子同室、しかも相部屋で過ごしたおかげで学ぶものはたくさんあったものの、我が子が泣き止めば、別の子が泣き、の中で一晩たりとも熟睡することが出来ず、心身へロヘロで退院となったのでありました。突然ですがNaocciじゃないけど、びっくりしたこと~。一般の面会時間に産まれ立ての赤ちゃんがいるってのに、相部屋のひとの親戚がどやどや詰めかけるのもビックリしたけど、風邪引いたおっさんが鼻をかみかみ、赤ちゃんを覗き込んでるのにはビックリした、というか神経を疑ったよ。っつ~か、風邪菌を部屋に持ってくるな!今は家に帰って、小さな赤ちゃん相手に病院と同じ、24時間体制で大格闘しています。 出産がつい8日前のことなのに、遠い過去のことのようです。8日たった現在、産まれたては小猿のような姿だった龍輝もだんだんと人間の男の子らしくなってきて、まるでサルから人への進化の過程を見ているようでおもしろいです。日本と違ってたった3日で病院を追い出され、自宅に帰り、毎日オタオタと(特におっとが)育児に明け暮れていましたが、先日は「お七夜」だったので、ようやく写真を撮りました。リアルいくきーとをご存知のみなさんも、そうじゃないひとも、どちらに似ているか、ご想像におまかせします。それではご報告まで。あらあらかしこ。
2007.12.14
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イタリアではもう2年ぐらい、アオスタの小さな村で起きた殺人事件について裁判が長引いている。事件が起きたのは山の中の一軒家。いつもの朝のように旦那と長男を門のところまで送り出した後に、母親が家に入ると3歳の次男がベッドの上で血まみれになって息絶えていた、というもの。客観的に見れば、こんな野中の一軒家に明るいうちから殺人鬼が入り込み、ほんの2~3分の間でこの惨劇が行われるとは思われず、犯人は当然母親、ということになったのだが、この母親は頑として「わたしは殺していない!」とこの長い歳月、裁判だけでなく、TV番組などにどんどん出演して言い続け、いまやすっかり有名人である。しかしTVからの感染、というものは恐ろしいもので、この事件からイタリア各地で次々と母親による乳幼児の殺人が行われた。(追伸:前記したポルトガルのイギリス人幼女失踪事件では勘違いしていたようなので、削除させていただきました。)まだ妊娠していなかったころ、これらのニュースを見ていたときには「無責任に子供を生むから、簡単に育てる責任の重さを放棄するんだ!」と思っていたが、現在の感想はちょっと違う。わたしは妊娠10ヶ月の7ヶ月目に入り、やっと「後半戦」の入り口まで来たが、まだ後3ヶ月近くもこの状態だと思うとげんなりする。初期の頃はつわりと出血に悩まされ、やっと安定期に入ったものの、お腹は重いし腰痛はひどいし、子宮が大きくなって、他の臓器を圧迫しているので、1日として妊娠前のようにすっきりした気分になれないのである。最近は胎動もよく感じるし、産科検診のエコーのモニターでもどんどん成長する子供の影が見れるので頑張ろう、と思うのだが、実際に手にとって見ないことにはなかなか実感が出来ないものだ。こんなことを10ヶ月も我慢して、出産は経験がないけれど経験者母たちが言う「この世のものと思えないほどの痛み」に耐えてやっと手にした「一大造形品」をこんなに簡単に壊してしまうその作者の無謀さが信じられないのだ。***話は変わって9月に入り、ようやく我が田舎町も正常運転を取り戻してきた。そのおかげでやっと地域に根ざした(?)マタニティ活動が出来るようになった。まずは大型ベビー服専門店で行われた無料講演。ある程度ためにはなったが、製品の宣伝部分が多くてちょっとうんざりしてしまった。次は検診に通っているMonzaの病院での「無痛分娩説明会」。「無痛分娩」とは脊髄麻酔によって痛みを感じさせず出産するという画期的な分娩法である。日本ではまだまだ少ないこの分娩法のメリットとして出産で体力を消耗しないので産後の回復が早い、というところに目をつけた。なぜなら、先日わたしと母は大喧嘩をして母が出産の手伝いにイタリアに来てくれる、という申し出を断ったからである。勇気のいる事だった。前回5月に母が我が家に来たときからその話はあったのだが、わたしはお茶を濁していた。なぜなら、母といるだけでこんなに息が詰まるというのに、出産で自分をかまうことで精一杯なときに、母にまで構っていられないだろう。最近、先輩母たちから経験談を聞けば、ストレスで母乳が出なくなることもあるらしい。先日の電話で母が「そろそろ飛行機のチケットを予約しないとね。」といい始めたときに、このことを遠まわしにやんわり伝えた。敏感な母はたちまち気分を害して、さんざんわたしとおっと、生まれてくる孫の将来を呪う言葉を吐きつくして電話を一方的に叩き切ったのである。おっとに断ったことをいうと「なんてことをしたんだ! ぼくは12月は仕事が忙しいからお義母さんに任せられる、と思って安心してたんだよ?君は贅沢すぎるよ、僕のママなんて出産に立会いに行きたくても来れないって嘆いているのに!」おっとの気持ちはわかるが、わたしにも親子の事情があるのだ。母の協力を断ったのはわたしの責任。「いいよ、あんたは何の心配もしなくても。わたしひとりで産んで育てるから。」と涙を溜めて言い切った。そういった事情で、積極的に参加した「無痛分娩説明会」。しかし、2時間半にも及ぶ、長い説明会で「他の病院では妊婦の希望で出来るところもあるようですが、我が病院ではお産に異常があったとき、または長引きすぎて、母子の命に影響を及ぼすときにしか、用いません。」。説明にあたった医師のこの一言でまだ説明会途中にもかかわらず、会場には失望のどよめきが起こり、大半の夫婦がぞろぞろと席を立っていってしまった。わたしもがっかりだった。希望で申し込みできないなら、なんでこんなに長ったらしい説明会をするんだ?そして、すでに7月に申し込んでいた近所の病院のマタニティクラス。本当は前記のMonzaの病院と迷ったのだが、これぐらいは近所でいいか、きっと田舎だから空いてるだろうし。と軽い気持ちでこっちを選択。魔の8月を挟んだため、1ヶ月ずらして先週土曜日に初開講である。10分遅れで説明会場に着いて驚いた。こ~んな田舎の病院なのに、すごい人だかりなのだ。たくさん並べられた椅子はすでに満席でたくさんのお腹の大きな妊婦たちがつらそうに会場の後ろで立っている。私たちの後からも次から次へと夫婦が会場に入ってくる。わたしは「冗談じゃないよ、これ確か2時間だよね、2時間も立ってられないよ。」とうろうろ前の方に出て行くと一番前の隅っこにちょうど1つ席が空いていたのでわたしが座り、おっとが壁際に立った。(こういう場合は映画館と同じく前に行くに限る。)おっとの場合は仕方がないが、これだけたくさんの妊婦が立っている、というのに、どっかり座り込んだ旦那陣がいっこうに席を譲る気配がない。わたしがところどころに空いている席を見つけて「ここ空いてますよ~。」と後ろに向かって叫び続けていると、やっと助産婦のような人が入ってきて「紳士の諸君、後ろのレディたちに席を譲ってもらえますか?」とマイクでひとこと。それで2/3の旦那陣は立ち上がったが、まったく身動きもしない残りの1/3に呆れてしまった。30分遅れでマタニティクラスが始まる。というより、初日だったのでこれだけたくさんの妊婦を分けるためのクラス分けとこれから出産まであるコースでする内容の話をして助産婦が退場、それと交代でひとりの医師が入ってきた。医師は最前列のわたしのほうを向いて「どうしてこの病院のマタニティクラスを選んだのかね?」と聞くのでどぎまぎしていると、隣の妊婦が「ここはいいって聞くし、家の近所だから。」と答える。ああ同じような理由の人がいてホッとした、と思っていると「我々の病院の特徴をご存知ですか?」とさらに医師が聞いてくるのだ。すると会場のあちこちから「水中分娩です。」と答えが返ってきてびっくりした。そうか、ここはそんなものがあるからこんなにたくさんの妊婦が遠くからも来ているんだ、と納得した。その後は「普通分娩」と「水中分娩」の違いを医師が説明していった。まったくそういう分娩法を頭に入れてなかったが、そういうのもいいかもしれない。ああ、そんなことも考えなきゃいけない時期に来たんだなあ。先日はこの日記ではお馴染み&お久しぶりの目目さん夫婦が現在6歳になる目目娘ちゃんが使っていたベビーカーや、チャイルドシート、登山用のキャリーなどたくさんのベビーグッズをくれた。彼らの出産体験談をまるで昨日のことのように話し、特に旦那さんの出産後の世話の話はリアルでおっとは食い入るように聞き入っていた。あまりの大変さに「やっぱりお義母さんに来てもらえば?」というのだが、どうしても嫌だし、もう後には引けないのだよ。目目さんが「大丈夫、わたしが手伝いに行くやん。」とさらっと言ってくれたので涙がちょちょ切れそうになった。そういえば、前回ジェノバに行ったときにおっとがいとこのルイスにこの話をしていたら、娘のカティちゃんが目をキラキラさせて「じゃ、わたしが手伝いに行く!見て、わたしこんなに上手に赤ちゃんの世話が出来るのよ!」とぬいぐるみにタオルをおむつ状に巻いて見せたときには「うう~ん、ありがとう。」と苦笑いをするしかなかったが、この目目さんの申し出はまったくありがたかったのだ。
2007.09.10
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豊臣秀吉がまた木下藤吉郎であったころ・・・ 金目教を探るため飛騨の国から仮面の忍者を呼んだ ・・・その人の名は・・・・・・赤影さんと共にわたしは甲賀幻妖斉の巣窟を探していたのだ。しかし不覚にもわたしは奴の手下の下忍につかまり、大岩に縛られた。そこに現れ助けてくれたのは青影さんだったが、あの少年忍者ではなく超イケ面忍者であった!デレデレしながら縄を解いてもらい、2人で南大阪にあるどんづる峰を下っていくと、甲賀幻妖斉の息子という、岸辺シローの罠が待ち構えていた。さあ、どうするっ!?・・・・・・ととてもいいところで携帯が鳴った。おっと「もしもし?信じられない、まだ寝てるの!?」その言葉に壁の時計を見やるともう朝の9時半。そういえば、今朝おっとが「行ってきま~す!」といつものようにわたしのお腹をなでなでして仕事に出かけて行ったような気がする。。?ああ、せっかくいいところだったのに。。。と電話を切った後にまた寝を試みたが、もう眠気は覚めてしまってしかたがないので起き出した。嫌いだけど、産婦人科医に薦められているので仕方なくヨーグルトを食べながら、お友達のKatiaさんが送ってくれた数冊の本の一冊をぺらぺらとめくる。一冊の本には「1989年発行」と書かれてあった。ああ、そうか。昨日、この年数を見たから、わたしのタイムスリップ機能にスイッチが入ったんだ。。と夢の内容に納得して一人でにやけた。あの頃って特撮やSF映画にはまってたんだよな。このようにわたしはすっかり自堕落になってしまった。まだ7月中はこの田舎町でも30分から1時間間隔でバスも出ていたので、時々ひとりで近所のスーパーや市場に出かけて暇もつぶしていた。しかし8月になってからはバスは1日3本ほどになって、これでは「ちょっとおでかけ。」も出来やしない。安定期に入ったとはいえ、やっぱり長時間出歩くのはしんどい。近所は田舎なのでウィンドウショッピングするような店などもないし、家に引きこもったままだ。おっとも最近はやはりわたしに気を遣っているらしく、わたしを怒り悩ませるような大事件は起こさないのでうれしいやら、「これじゃネタがないやん!」という気持ちやらで複雑である。当然、ネタがないので日記もUPのしようがない。。。。あ、そういえば。昨日、たまたま玄関のそばに居たとき、インターフォンが鳴ったので、反射的にのぞき窓からのぞいた。するとひとりの見知らぬ南米人がインターフォンを鳴らしてから15秒と経っていないのに、すでに外の階段を下りて帰ろうとしていた。わたしは「居るよ、待って~!!」と叫んで慌てて扉を開けて駆け出し、その男を引き止めた。きっとこれが見知らぬイタリア人ならとっさにこの行動は取らなかったと思う。なぜなら、過去の苦い経験上、イタリア人の場合は100%の確率で怪しい宗教勧誘か、押し売りなのだ。しかしこれが南米人の場合は違う。南米人だからおっとの友達、という可能性、ガイジンの宗教勧誘や押し売りなどはまだ一度も遭遇したことがないから、きっと何か用事があって来た、という可能性の2つである。案の定、彼は郵便配達人だった。ニコニコと「あなた、いくきーとさん?この住所探すの、苦労したよ。」と小包を差し出す。我が家は1階の住人と番地が一緒なので、なかなか見つけてもらえないのか、普段は共働きでいつも留守にしているからなのか(しかし何度か家に居たときにも不在届けが入っていた。怒)、実は今まで郵便小包を手渡しで受け取ったことがなく、なんだか妙に感動してしまった。目をうるうるさせながら心をこめて「ありがとう。」というと、若い日に焼けた彼は照れて「いや~。。。えっとぉ、君はなにじん?」と聞くので「日本人だよ。あんたは南米人でしょ?エクアドル?ペルー?」彼はびっくりしたように「へえ、ボリビア人だよ。わかるんだ~。」「うちのおっとがエクアドル人だからね。」「へえ~。」彼は感心したように帰っていった。小包は前記したようにお友達のKatiaさんからで妊娠育児の雑誌を重いのに3冊も送ってくれたのだった。ありがとう。今朝は今朝で、例のヨーグルトをテーブルについて嫌々食べているとき「いくきーと!!」とそのテーブルが見える玄関脇の開け放たれた小窓から昨日のボリビア人の配達人が顔を出したので、びっくりしてヨーグルトを吹き出しそうになった。ボリビア人「今日も小包だよ~。」ホントかよ!?半信半疑で玄関を開けると本当に小包を持って彼が立っていた。「また小包?」「うん、今度は日本からだよ。」受け取ると彼はニコニコしながら「サヨナーラ。」と階段を駆け下りていった。わたしは南米人じゃないのに、ずいぶん親近感を抱かれてしまったものである。やっぱりヤギに囲まれた生活が長いと、特有のヤギ臭でもするようになったのだろうか?小包は我がお嬢母からだった。先日こちらに来たときに「あちらに帰ったら、何かのついででいいので、どこかの神社仏閣で「安産守り」を買ってきてください。」とお願いしておいたのだ。母「あらっ、安産といえば宝塚の◎◎神社よね。」←母はなんでも自分の芦屋の実家のそばに行きたがる。わたし「いや、そんな遠いところじゃなくてもいいですよ。奈良だったら天皇家ご用達の(←こういう母のセレブ心を刺激するようなセリフは必需である)帯解寺とかあるでしょう。」そういうことで母はわたしの思惑どおり、帯解寺に行き安産守りと、そのほかにもお札2枚と、仏像の朱印が押されたピンクの腹巻を送ってくれた。戌の日まで待って腹巻を試してみようと思ったが、今日のミラノはどんよりしていて肌寒いので今日からつけてみることにした。腰はちょっと楽になるけどきつい。。。。。それだけ。ああ、たいしたネタがないなあ。
2007.08.02
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昨日の日記に書いた野菜は「COSTE」。一見チンゲン菜風だけど、もっと大きくて固い。ほうれん草のように茹でて食べてもいいらしい。しかしわたしは昨夜これをカレーに入れた。こうすればあまり味がわからないだろう。そのほか冷蔵庫整理のつもりでセロリ、人参、冷凍庫に少しずつ残ってた冷凍サトイモ、冷凍ほうれん草、シーフードミックス、ミートボール、母が作り置きしていった牛肉の佃煮などを大なべにぶち込んで炒めていたら、見るからに残飯を全部なべでかき混ぜているみたいで気持ちが悪くなってきたので慌ててカレールーを放り込んで色がわからなくした。そんなメイキングを見ていないおっとは「うわ~、今日のカレーは具がたっぷりでおいしいなあ!」と2杯もおかわりしている。わたしは、というとこの闇なべならぬ、闇カレーの中身を知っているだけに半分も食べることができず、残してしまったのであった。*******ウイルスの話で前後してしまったが、先週わたしは産婦人科の定期検診に行った。羊水検査から約5日目だ。羊水検査は痛かった。まずは診察台に上がる前に何人もの違う医師に「本当にこの検査をするんだね?後悔はしないね。」と念を押されて、(すでに決めてここに来てるのに、決心をゆるがさないでほしいな、というか、ここまで念を押す裏になにか深い意味があるんだろうか?)とこわくなって痛かった。それから医師は「普通の採血検査みたいなものですからちくっと刺して、すぐに終わりますよ~。」と言った。確かに言った。医師は、診察台の上で恐怖でコチコチになって横たわっているわたしのお腹にエコーを見ながら注射針を刺したのだが、この痛さを例えると、大げさかもしれないが腹に刀を刺しながらもこわくなって切腹しそこねた侍のような感じ?なんせ、細い針といえども、お腹の皮を全部つらぬいて、さらに胎盤を貫いて羊水を採取するのだ。しかもエコーの画像の中では注射針に興味を示した胎児がそちらに手をのばして触ろうとするので、医師はそれを避けるためにグリグリと注射針を回転させるのがまた痛いし、へたしたら胎児を傷つけられそうで痛い。ほんの7~8分のことだったが、ものすごく長く感じられた。しかも35mlもの羊水が、抜かれている最中にどんどん力が抜けていくのが感じられる。顔を食べられたアンパンマンの脱力加減というのは、こういうものなのだろうか?とふっと思う。そういうわけで、終わるともうヘトヘトだった。涙目で立ち上がり、すぐ外の待合室で椅子に座って次の診察の予約表を看護婦が作成してくれるのを待っていたのだが、椅子に座っていることもしんどくなってきてダラーと伸びていたら、検査室から医師がそれを見つけて、慌てて診察台に寝かせてくれた。医師「旦那さんかお母さん、誰か付き添いのひとは?」わたし「いません。タクシーで帰ろうと思って。。。」医師「これじゃ一人で帰るのは無理だよ。旦那さんに来てもらえないの?」そこでわたしは仕方なくおっとを呼び、仕事の都合がつかなかったおっとは2時間後ぐらいに病院に来た。そのときにはわたしはすでに診察台から追い出されてまた椅子の上で伸びていたのだ。そこから2日間、わたしは「羊水検査は流産の危険性があるから。」と再びベッドの上のひととなったのだが、実際、この刺し傷が後を引く痛さでぐったりしていた。そういったことがあってから、今まで何をやるにも文句を言いながらやっていたおっとが、あまり文句を言わなくなったような気がする。だから定期検診ぐらいは来なくてもいいものの、おっとは珍しく自ら仕事を半日休んで同行してきた。よっぽど5日前の羊水検査のことが身にしみたらしい。予約時間に40分も遅れて女医がやってきた。ここの病院は、最初にお世話になった産婦人科医(このひとは定年退職後、いろいろな病院を嘱託で廻っている)が「そろそろひとつの病院に決めたほうがいいから。」と紹介してくれた病院で、この女医がわたしの担当となったのだ。腕は悪くなさそうなのだが、イタリア人にありがちで毎回言うことが変わるし、絶対遅刻してくる。大きな公立病院だからタダだし、信用していた医師に薦められた病院だし、あまり贅沢は言えないのだが、やはり最初の医師がいいな。診察室に現れた彼女は上機嫌でわたしたちに「いいこと教えてあげるわ。先日の羊水検査の最終結果はまだなんだけど、臨時結果が出てね、あなたたちの子供は「正常な男児」だとわかったわよ!」と簡単な検査結果の用紙を見せてくれた。おっと「ああ、本当ですか!?ありがとう、神様!!」と小さく叫ぶ。ヤレヤレ。。。そうか、問題があったときのために早急な処置が出来るように、それだけは早く結果を出してくれるんだな、きっと。わたしは力が抜けて黙り込んだ。女医はわたしにもおっとと同じようなリアクションをして欲しかったらしく、ちょっと物足りなそうに椅子に座った。そしてお決まりのエコーをやる気なさげにして、再びデスクに戻って「この夏はどうするの?どこの海に行くの?」と聞いてきた。わたし「それ、聞きたかったんです。現在まで自宅安静、ということだったのでどこにも行かないでなるべく動かないようにしていたのですが、もう外出していいんですか?どれぐらいの範囲まで??」女医は「もう出血もないみたいだし、おだやかなバカンスを過ごすならいいわ。イタリア国内の近場なら、念のためにカルテ持参でどこの海に行ってもいいけど、それが日本やモルディブだったら何かあってもカルテを理解してもらえないし、ダメかも。」とケラケラ笑う。ああ、なんでイタリア人は「夏休み=海」なんだろう?とりあえずその言葉からわたしたちは、おだやかに行動すればイタリア国内の近場、どこに行ってもOK!と受け取った。病院を出た後、さっそくわたしたちは近所のスーパーに直行した。もちろん、あんなに渇望していたサラダセットと、おっとに注文するには難しそうでやめておいた化粧品もろもろを買うつもりである。3ヶ月ぶりのスーパーは当たり前だが、冷房が効いていて涼しかった。今まで家の中と病院の中をちょっとしか歩いていないわたしは、こんなに色とりどりの商品の渦の中を長距離歩くことに感動を噛み締めていた。おっとは別の意味で感動していた。「これからひとりぼっちじゃないし、自分で考えて買い物しなくていいからうれしい!!」とさっそくゲームコーナーに走っていった。怒とりあえず簡単に買い物を済ませて、2人はすっかり満足して家に着く。おっと「ねえねえ、子供が正常ってわかったんだから、もうちゃんと名前を決めていいでしょ?」←先日も書いたが、おっとは最近子供のことをでたらめな名前で呼び始めているのである。わたし「そうだね。どんな名前がいいの?」おっと「マルちゃんJr.。」わたし「え~、そんなの絶対やだよ!」息子に自分の名前と同じ名前をつけて「ジュニア」と言わせているヤギが結構多い。でもわたしとしては、それは父親のエゴむき出しだし、大きくなっても父親を抜かせないような感が伺えてイヤだ。しかも同じ名前だからわたしも子供を呼んだり、何かに書き込んだりするのにきっとややこしくなることが予想できる。おっと「じゃあ、ホセとかエクターとかピエトロとか。。。」わたし「。。。全部あんたの酔っ払い仲間の名前じゃないか。」それに偏見だが、南米系の名前は将来酔っ払いヤギか、ウエスタン映画に出てきそうなヒスパニック系悪役になりそうで、なんとなく気が進まない。おっと「じゃあ、日本人の名前にしよう。君は決めているの?」わたし「う~ん、ひとつ考えてはいたんだけどね。この間姓名判断で調べたら、とてつもなく悪い名前だったからやめた。」おっと「せーめーはんだん?」わたし「日本では名前によって運がよくなるとも悪くなるとも言われてるんだよ。」おっと「じゃあ、ぼくが決める。えっとね、「カブトコウジ」か「ツルギテツヤ」。わたし「。。。苗字も一緒に考えるのやめてくれない?そういう場合は「甲児」か「鉄也」だけでいいんだ。」おっと「じゃ、コウジ。」やっぱり嫌だ。私の中では「コウジ」はドリフターズの「仲本工事」だし、「テツヤ」だって「武田鉄矢」だ。っつ~か、アニメの主人公や俳優の名前をつけるのはやっぱり抵抗があるぞ!!!!!(ちなみにおっとの名前はアメリカ俳優にちなんで名づけられた。)結局あいだを取って(?)イタリア的な名前に決めた。2人の友達にも知り合いにもいないような名前に決めるのは大変だった。なにせイタリア人は普通、聖人の名前から取っているので同じ名前が多いし、数が限られてくるのだ。(結局この名前もアメリカンヒーローの中にいたけど。)おっとはちなみに名前を決めてからは、わたしのお腹に向かって「ミーちゃん、ミーちゃん。」と呼びかけるようになった。わたしはそう呼ばれると、せっかくこれから自分の子供という認識を持って接しようと思っていたのに、なぜかお腹の中に子猫でも育てているような気分になってしまうのである。これでみなさんはいろいろ名前を想像されるかと思われるが、その名前ぐらいは生まれてくるときのためのお楽しみに取っておくことにしよう。
2007.07.24
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両親が帰国してから3日目。あれほど毎日のように吐いていたつわりも、この短期間で「ちょっとムカムカするけど。。。」ぐらいになり、出血もその少し前からない。ずっとベッドの上にいると、腰が痛くなってたまに起き上がるのも激痛になってきたので、努めて椅子に座ってPCをしたり、短時間づつ立ち歩いて簡単な家事をするようにしている。ここ数日でお腹も急に出始めて胎動らしきものも感じられるようになった。(というか、今までそんなことに気づく余裕がなかったのかも?)先日の医師の指示で、今まで続けていた流産予防薬の一部を止めたり、時期もイタリアでいう18週目(日本は10ヶ月10日で出産するというけれど、イタリアでは9ヶ月で出産という計算なのだ。)という、安定期に入りつつあることもあって、一概には何がよかったのか言えないが、やはり両親アレルギーだったのだろうか?*****明日は待ちに待った羊水検査だ。妊娠が発覚してからというもの、ずっとこの検査がこわかった。羊水検査というのは、胎盤の中の羊水を注射で摂取し、胎児がダウン症などの障害児として生まれてくるか調べる検査なのだ。そんなおそろしい検査、もっと早くにやりたかったのだが、胎児がある程度発育し、胎盤内に羊水が充分量満たされていないとできない検査なので今日まで待たされたわけである。ちなみに30歳の妊婦からダウン症児が産まれる確率は1/700、わたしの年齢で見るといきなり1/80である。OOOOOOOHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!!!!!高齢になればなるほどその確率は高い。イタリアでは普通、この検査にかかる費用は800~1200ユーロ(132000円~198000円)といわれているのだが、35歳以上の妊婦は高リスクなので無料である。そりゃあ、もちろんやるに越したことはないのだが、実はこの検査、注射針を胎盤に刺すことによって流産のリスクが伴うので2度も流産経験のあり、高齢なわたしは、2週間ほど前に夫婦揃ってこの検査をする意志があるかどうかの相談に呼ばれた。診察室に呼ばれると、いつもと違う女医さんがいて、まず羊水検査の必要性、どうやって検査をするか、検査結果の見方、などを説明してくれる。ダウン症は遺伝でもなんでもなく、どうしたら発症するのか解明されていない。医師いわく「神様のいたずら」なんだそうである。正常な男女は染色体が46だそうだが、ダウン症になると47になるのでそれで判別するらしい。女医「この検査、やりますか?」わたしとおっと「もちろんやります。」女医「結果は検査の3週間後に出ます。もしこの結果が正常じゃない場合の処置はおふたりでもう決めておられますか?」わたし「わたしは決めてますが、おっとからまだそのことは聞いていません。」とおっとを見た。おっとはつらそうにうつむいて唇をかみしめたまま、返事をしなかった。私の考えはこうだ。もし生まれてくる子供がダウン症でも育てていく覚悟があるなら、こんな検査ははじめから受けない。わたしは高齢だし、きっと子供のほうがわたしより長く生きるだろう。親や親戚など誰も頼る人のないイタリアで一生赤ん坊のままの自立できない子供を生むことは親の責任として社会への責任として許されないことだ。わたしの同僚のお嫁さんのお姉さんに重度のダウン症で、わたしよりも2つ年上のひとがいる。お嫁さんは同僚と結婚するまでお母さんと小さな文房具店を営みながら、一緒にずっとこのお姉さんにつきっきりで世話をしていた。しかし、そのお母さんが先日亡くなり、お嫁さんにも赤ちゃんができて、世話が続けられなくなり、この可哀そうなお姉さんは離婚したお父さんの元に引き取られたのだが、タクシーの運転手をしているお父さんにはとうてい世話は無理で、現在は叔母さんの家に預けられているそうである。近くでこんな光景を目の当たりにしていると、やっぱりこんな子を産んじゃいけないと思う。子供が小さいうち、まだわたしたちが高齢といえども若いうちはいいが、周りだけじゃなく、その子まで不幸になってしまう。しかしこの決意も毎回エコーで胎児が成長していく過程を見るたび、最近は胎動を感じるたび、かなり揺れ動いてはいる。もしそんな子だったらどうしよう。。。ここまで育っているのに。なので、わたしは羊水検査の結果が出るまでなるべく情をかけないべく、おっとのようにお腹に向かって話しかけもしないし、おっとが最近でたらめにつけているさまざまな名前も呼ばない。名前を決めてしまったら最後、このお腹の中の「小さな人間の形をした生物」はたちまち「我が子」と変化し、感情に流されて肝心なところで誤った選択をしてしまいそうだからだ。女医はしばらく無言のおっとの答えを待っていたが「まあ、まだ検査まで2週間ありますから、それまでおふたりでよくお考えになって。」といい、「今日このあと、Ecografia di Genetica(ちょっと特殊なエコー?)をやっていただきます。それで外見的な異常を調べます。奇形児の場合、手の指が5本でなかったり、鼻が異常に低すぎたりするのでわかります。ダウン症も首の後ろにこぶができていたり、首が異常に太かったりするので、これだけでも判断がつくことができます。このエコーで外見的に異常がない場合はダウン症児が産まれる確率が1/80から1/360、つまり1/4に下がります。」その言葉を聞いて、わたしたちは硬直した。そのままいつもと違う薄暗いEcografia di Genetica専用の部屋へと移動した。中には数人の医師がいて、超音波の機械は、いつも診察で使っているものと何かが違う。わたしは診察台に仰向けに寝て、お腹に青いジェルを塗りたくられてエコーがはじまった。いつもと違うのはモニターがもっと精密で写りがよく、「はい、ここが心臓、ここが胃。。。」などと内臓まで拡大で見られることだ。別のモニターでも同じものが写し出され、別の医師が記録を採っていく。医師「性別を知りたいですか?」わたしとおっと「もちろん知りたいです!!」医師「両足正常。。足の指もちゃんとついてます。。ああ、これはたぶん男の子ですね。」うわ~。。。しかしあまり驚かなかった。おっとは最初から「男の子が欲しい!」と言っていたが、それに感染されたわけでなくわたしの中でもなんとなく男だ、という気がしていたので「やっぱり当たった!」ぐらいにしか思わなかったのである。医師「身体は正常です。頭部は。。。ううん、動いてくれ~!」モニターをみると、胎児の頭部が写っていたが、さっきまでは大暴れしてなかなか写真に撮らせてくれなかったこの子、動いて欲しいときにまったく動かなくなってしまった。医師は痛いぐらいわたしのお腹をぐりぐりしたり、ゆさゆさ揺らすのだが指をくわえたような姿勢のまま、一向に動かない。医師「相当なはねっかえりですね、この子は。ちょっと一休みして様子を見ましょう。その辺のバールでパニーノでも食べて戻ってきてください。」わたしたちは中途半端な気持ちのまま言われたとおりバールに向かって昼食をとった。首の太さでダウン症かわかるというのに、肝心なことがまだわからない。おっとはしかしうれしそうだった。「男の子かぁ、ま、ぼくは女の子でも良かったんだけどね~。」←うそつけ慌てて病院に戻ると、ちょうど看護婦がわたしたちの姿を見つけて「じゃ、また始めましょうか。」と再び診察台に上がった。しかし同じだった。やはりこの頑固者は微動だにせず。。。医師「お母さん、セキをしてみてください。」わたしが無理やりゲホゲホするとモニターの中のお腹は大きく揺れ動き、胎児はびっくりしたらしく横を向いたところで医師がすかさず首の寸法を測る。医師が「異常なし。。。」とつぶやいたので、わたしたちは全身から気が抜けた。数人の医師が寄ってたかってエコー写真を現像し、カルテを書き「じゃ、2週間後に。」と終わった。これでダウン症児が産まれる確率が1/80から1/360に減ってかなり安心したわけだが、まだ30歳の妊婦の倍だし、心配はつきない。しかし、これもこの胎児の生存競争の序曲に過ぎない。週数も重ね、出血も最近はないので流産のリスクからは遠くなってきているが、ダウン症のリスク、それをクリアしたとしても、早産のリスク。。。考え出したらきりがない。もう、この胎児の運の強さと生命力を信じるしかないのである。わかっているのだけど。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。ああ、明日かぁ。。。。。
2007.07.12
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お久しぶりです。体調がまだ完全でないのもありますが、ずっと自宅療養なんでネタがない。。。で、今日は愚痴。(苦笑)5月のはじめから今まで「自宅安静」をきっちり守り、半日以上ベッドの上でダラダラ過ごしてた。そして、先日6月終わりの検診でも、またもや「病気証明書」を1ヶ月もいただいて3ヶ月目の「自宅安静」突入である。会社に通っているときはそんな生活に憧れていたけれど、実際そうなるとつらいものがある。去年足を骨折して3ヶ月近く「自宅療養」だったときは、意外に楽しかった。回復に向かって足が少しずつ動く喜び、生まれて初めての経験であった「専業主婦生活」を、足の筋肉強化のために室内自転車をこぎながらTVを観たり、だいぶ動くようになった足をヒョコヒョコ引きづりながら、洗濯をしたり、料理をしたり、掃除をしたりして満喫していたのである。ところが今回は違う。未だに終わらないつわりも重なって、起きていること自体が苦痛である。掃除はおっと、洗濯機はスイッチは入れられるけど、干すのはおっと、料理も食べ物の臭いをかぐだけでダウンなので、火を通すような料理は全部おっとがしているが、申し訳ないことに大半が食べられない。買い物もおっと、各種支払いに郵便局に行くのもおっと、わたしの病院が遠いので診察も仕事中におっとが送迎してくれる、毎日外に働きに行くのもおっと。妊婦を抱える日本の旦那さんたちもこんなことをしているのだろうか?せめて夕方おっとが帰宅したときには玄関の鍵を開けて「おかえり。」と笑顔で迎えたいのに、一日のうちで一番調子が悪いのが夜なので、毎日ベッドの上から弱弱しく「おかえり。」というわたしを見ておっとは「本当に虚弱な女だなあ。」と哀れみと呆れた感情をミックスした苦笑いをするのである。*****みなさんご存知だとは思うが、わたしの妊娠が発覚し、妊娠休暇に突入したとたんに我がお嬢母が來伊した。しかも今回は父とパピヨン犬ソフィーさん(仮名)も同行である。もともとの目的は彼らの「ヨーロッパドライブ旅行&ついでに1週間ほどわたしたち夫婦と一緒に家族海外旅行」だったのだが、わたしの状態を見て家族旅行がダメになったため、失望が激しかったようである。彼らは日本でまったく旅のスケジュールを決めずに来て、こちら在住のわたしに全ての旅程を考えることを任せたかったらしい。しかしそんなものは「寝耳に水」である!彼らが来た当時はまだネットも繋がっていなくて、わたしが彼らの希望を聞いたり、旅行地を決めたり、旅行代理店に電話したりFAXを送ったりしている間にどんどん日が過ぎ、結局彼らは2週間も我が家で何もせずいることになったのであった。何が大変だったかというと、小型犬とはいえ犬を泊めてくれる、母が希望するような5つ星や4つ星のホテルなんて存在しないのだ!!それに対して父は「長旅なんだから2つとか3つ星でいいよ。」というので母との間で揉め事となりわたしは間に立ってオロオロするばかりであった。なかなか決まらない旅行に父は業を煮やし「もう、日本に電話して旅行代理店を当たる!」といって日本まで豪快に長電話するわ、FAXを送るわで、つめの垢に火をともすような節約生活を続けていたわたしはかなり神経的に参っていたのかもしれない。そんな中で大出血を起こした。原因は胎盤が子宮から一部はがれたことだった。医師は「流産のリスクがこれでまた上がったから絶対安静。」と言った。この事件から我が両親はびっくりしてしまっておとなしくなり、慌てて予定には入れていなかった以前彼らが住んでいた南スペインの保養地に旅立っていった。それから彼らがスペインに滞在していた2週間は出血もつわりも収まってのんきに過ごしていたのだが、次の予定地であるフランスに向かうため、我が家に彼らが5日間、帰ってきた2日目に大出血した。彼らが出て行くとそれは収まり、また帰ってくると今度は今までになかったような大大出血が3日間続き、4日目、これはもうダメだと入院の準備までして救急病院に駆け込んだのだが、病院に着いたら皮肉にももう血は止まっていて、迷惑そうに家に帰された。それは彼らがドイツを旅行するため家を出て行った日だった。この時医者には「あなた、ずっと自宅療養中でしょ、ちゃんと安静にしているの?」といわれ「はい」と答えると「安静ってのは、精神的にも安静に、ってことよ?ストレスを溜めないように。」と注意を受けた。おっと「これって両親アレルギーじゃないの?ぼくには考えられないことだけど、本当に君って両親のことが嫌いなんだね。」わたしもこの出血はストレス&両親アレルギーだとは確信した。しかし、両親のことが嫌い?というとちょっと違う。ただ苦手なのだ。母はご存知の方はご存知のように、女王様のような性格で、彼女の前ではわたしは言葉使いにもハラハラして、下僕な気分になってしまうし、父といえば、わたしが幼い時からずっと海外を飛び回ってほとんど日本にも我が家にもいなかったので、我が父ながらどんなひとなのかよくわからず、対処に戸惑ってしまうのである。なので今回こんなに長く家族が揃って同じ時間を過ごすことは、覚えている限り初めてで、どうしていいのかわからなくなるし、彼らが家にいるだけで息が詰まり、緊張してしまうのだ。おっと「お義父母さんたち、このドイツから帰ってきたらもうまた2週間家にいるんでしょ?どこかに行ってもらえるように言ったほうがいいんじゃないの?」まったくそうだと思った。彼らがドイツから戻ってきた。また大騒ぎして今度はパピヨン犬ソフィーさん(仮名)の再入国手続きをわたしを介してほぼ済ませたと同時に、わたしは出血、父はアルプス登山にひとりで旅立って行った。ベッドの中からパピヨン犬ソフィーさん(仮名)と一緒に家に残った母を見れば、私を気遣って家事を全部やってくれるのはありがたいのだが、それ以外はTVを観るでもなく本を読むでもなく、で一日パピヨン犬ソフィーさん(仮名)をひざに乗せてじっとしている。そうなると悪い気がして最初はベッドの中からおしゃべりの相手になっていたのだが、さすがに何日も女王様のお相手は疲れてきた。父がアルプスから帰ってくる日の朝。わたし「お父さんも今日帰ってくることですし、帰国まであと1週間もあるのだから、どこかにまた日帰りででも旅行されたらどうですか?そうしていただいたらわたしも一日ゆっくり寝れますし。」別に悪意なく、旅のお勧め&ひとりで居たいことを遠まわしに言ったのだが、母の癇にダイレクトに障ったようである。母「なんですって!?あなた今だってずっと寝てばかりいるじゃないの?そんなにあなたには自分の両親が邪魔なわけ!?」わたし「そうじゃなくて、こんなに好天が続いているのに、ずっと家で何もしないでいるのはもったいないし、わたしもずっと家に引きこもられても気を使いますし。」母「自分の両親に気を使う?ありえないわ(←ありえるのだ!)、やっぱりあなたはわたしたちがうっとおしいのよ。こんなか弱い老人によくもそんなひどいことが言えるわね!家事も何もかも全部やってあげてるのに!」わたし「家事をやってくれていることには感謝しますよ。でも、日帰りぐらいだったらソフィーさんの面倒は見ますし、犬なしのもっと自由な旅を味わえばいいと思って。。」母「そうやってマルちゃんに焚き付けられたわけ?だからあんな男との結婚は反対だったのよ!」なんだとう?この展開は!?実母とはいえ、この言葉にわたしもついに切れて大喧嘩に発展したのであった。やがて父がアルプスひとり登山を満喫したらしく、ニコニコと帰ってきた。母「あなた、すぐにスーツケースの支度をして!今からホテルに泊まりますわよ。」父「。。はあ?」この後、父を挟んで小競り合い。結局は父が「バカバカしい。」と最後まで我が家にいることに決めたのだが、この夜中、彼らはさんざん揉めたようで、次の日父が嫌々ミラノ中央駅付近の犬の泊まれるホテルをインターネットで予約した。父はこの後、母がシャワーを浴びている間に私のところに来て「お母さんがあんな性格だから疲れるのもわかるが、もうすぐ帰国なんだからもうちょっと我慢して黙っていて欲しかったよ。」とぽつりと言った。わたしはひどい罪悪感に襲われてうなだれるしかなかった。やはり、そんなに悪いことをしただろうか?おっと「本当にバッカだなあ。あのお義母さんに、そういう言い方はよくないよ。君は一言多いんだよ。」←さらにうなだれるわたし。というわけで彼らは日本帰国日までまだ4日もあるというのに明日家を出て行く。今日も母はよほどわたしの顔が見たくないらしく、朝早くから珍しく父とどこかに出かけてしまった。わたしは、といえば喧嘩をした夜から出血はなかったものの、ひどいつわりで何も食べられずぐったりしてしまったのだが、今日はケロッと収まった。ああ、アレルギー。しかし話は戻してなんとも後味の悪い話だ。母は家にいる間、長男の嫁であるのに女の子ひとりしか産めなかったことで祖父母に嫁いびりをされた話を昨日の話のように、ずっとわたしに語り続けていたのである。今回のこの実娘がしたひどい仕打ちもきっと死ぬまで誰かに語り続けるだろう。ああ、こんな風に思ってしまうわたしって、なんて親不孝。。。。やはり悪いが、やはり申し訳ないが、やはりすごい悪人になった気がするのだが、やはりこんなことを日記に書くべきじゃないとは思うのだが、やはりやはり早く帰国して欲しい。あああああああああ。
2007.07.06
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5月始め。長いイタリアのGWともいえる休暇の間、わたしは転職については考えていた。2回目の面接で「フルタイムで働きたい。」と希望を出しながらも、実際中国から帰ってきた社長との面接で「うちはフルタイムはいらないから。」とあっさり断られるシチュエーションも想定しつつ、そういう場合の対処法に悩んだり、そしてわたし自身の中でも転職しても、フルタイムで働き続けることに迷いがあった。というのは、うんざりしてずいぶんさぼっていた不妊治療を再開始したからである。以前は「子供なんて天からの授かりものだし、なるようにしかならないんだ。」と不妊治療にも身が入らず、おっとに無理強いされている感もあって、イヤイヤ行っていた。が、さすがに高齢出産の限界点ともいわれる40歳を超えると最後の逆転チャンスに賭けたくなって見たくなったのである。サボっている間、自分なりにいろいろと調べていたのだが、わたしのように「妊娠しにくく、たとえ妊娠しても流産を繰り返す」やっかいな体質では、本当に子供が欲しいのなら仕事を辞めてそれだけに専念したほうがいい、という結論に達した。しかし!我が家の経済状態では絶対に「専業主婦」など無理な話である。現在より収入が大幅に減るのは痛いが、あちらの希望通り「在宅労働」にすればよいのではないか?ある日、その考えをおっとに話したところ、リアルな我が家の経済状態を数字でつきつけられ、大喧嘩に発展した。結果、わたしが「お金なんて、後からついてくるもんだ!子供はこれが最後のチャンスなんだよ!!」とごり押しする形でしぶしぶおっとの了解を取ったのだった。長期休暇が終わり、イタリアは正常機能始めた。何度か新しい会社に電話するが、社長はまだ戻ってきていない。中途半端な気持ちのまま、ある日わたしは最初の不妊治療の診察でリストにあげられた超音波検査に出かけた。超音波医師「奥さん、これは不妊治療の一環で来られたんですね?」わたし「はい。」超音波医師「もう、妊娠されてますが。。?」わたし「え?」超音波医師「8週目ですよ、おめでとう。心拍音もほら。」超音波医師がわたしにモニターを向けると、確かに黒い影があった。ドクンドクンと心臓の音がしてわたしはすっかりパニクッてしまった。わたし「あのっ、今までの妊娠で心拍音なんて聞いたことがない!どうしましょう、ついこの間は朝までへべれけに飲んで踊ったんですけど!? 昨日は冷たい牛乳を飲みすぎて今朝からおなか壊してるんですけどっ!?それにそれに。。生理が来ないからって薬を飲み続けてるんですけどっ!!??」超音波医師「奥さん落ち着いて。今までやってしまったことはどうしようもないですから、これらの行為を今日から全てやめればいいんです。特に薬はすぐに中断してください。」わたしは藁にもすがる気持ちで「この前に2回も流産しているんです。うちの近所の産婦人科医をいろいろ当たったんですけど、どうも納得が行かなくて。。この妊娠は絶対最後まで持って行きたいんです。誰かいいお医者さんを知りませんか?」とポロポロ涙を流しながら、超音波医師に泣きついたのであった。超音波医師「じゃ。。わたしのところに来ますか?一応流産経験妊婦専門です。」「え?」わたしは超音波医師をまじまじ見た。背が高い初老の医師で、能面のように表情のない男である。実のところいままで産婦人科医と超音波医、というものは別物だと思い込んでいたのだが、考えてみれば産婦人科医が超音波を撮ることもあるのだ。この医者を信じてついていけばいいのだろうか?ま、納得がいかなければ換えたらいいか。わたしは「よろしくお願いします。」と頭を下げた。超音波医師「では、あさってこの住所の病院に来てください。今日のカルテを持ってきて。」わたしが超音波室を出るともう待合室には誰もいなかった。病院の入り口付近でさっそくおっとに携帯で妊娠報告をしていると超音波医師が出てきた。わたしはその日の最後の患者だったらしい。わたしたちは肩を並べて歩くこととなった。医師は歩きながら親切に、相変わらずの無表情であるが、これからの生活の注意事項を説明してくれた。勤務時間外にもつきあってくれるなんて、いいお医者さんだ、信用してもいいかも。。。わたしはすっかり安心して過去の流産履歴やそのときの気持ちなどを心を開いて語った。医師「そうか。。では明日からもう君は少なくとも1ヶ月は仕事に行ってはいけないよ。家で安静にしているように。」わたし「えええええええ!!??」。。。。。。。。。といったわけでわたしはすでに1ヶ月以上、家での安静どころではなく、ずっと寝たきりなのである。(医師いわく、出産まで仕事復帰は不可能だそうである。)というのも、まるでパブロフの犬のような反応で、起きている時間が長ければ出血、診察や検査で外出しようものなら大出血を起こしてその後、救急病院に駆け込む「薄い刃の上を綱渡りしているようなハラハラドキドキ妊婦」になってしまったのだ。くしくも電話会社を替えたおかげで数日前まで2ヶ月近く、ずっとインターネットも繋がらなかったので、あきらめて寝ていることができた。新しい会社も連絡を取ったところでこの状態ではどうしようもないのであきらめた。(やっと開通したインターネットで久しぶりにメールを見ればずいぶん前に一通だけ「レンラクマツ。」のメールが入っていたが。涙)お嬢母はやってきたが、わたしの状態に遠慮して単独にヨーロッパを廻っている。この状態もすべて「妊娠に専念しろ。」というお告げなような気がしておとなしくしている日々である。ただいま日本の計算方法だと4ヶ月目。まだ羊水検査もしていないし、流産以外の心配も山積みで、無事出産まで持ち越してくれればいいのだが。******といったわけで。。。。。今日はずっと待っていたインターネットが繋がったので、うれしくなって張り切って日記を書いてしまったが、やっぱり書き終えてみると、かなりしんどい。(腕の筋肉が落ちたか??)安定するまでしばらく休みたいと思います。皆さんの日記は時々のぞきに行きますね。ではではチャオチャオ~!!!追記:日記を開いたら、こんなにたくさんのお祝い応援コメントが入っていて感激しました。みなさん、どうもありがとうございます!特に出産経験のおありのみなさんのコメントからは、やっぱり誰でも妊娠って簡単なものではないんだ、とちょっと独りでいぢけ気味だったのが、ずいぶん励まされました。ポジティブシンキングで乗り越えようと思います。楽天やMixiのお友達のところにはおいおい、お礼に伺おうと思いますが、それ以外のお友達のみなさんには、「追記」の形で失礼ながらこの場でお礼を言います。ありがとうございます。繰り返すようですが、無事出産まで持っていけるよう頑張りますね!!
2007.06.11
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