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Buona Pasuqua!!お久しぶりです。すっかりFB漬けになり、ブログ放置していました。。しかし、コミックエッセイを描く!宣言をしたので、これからこちらにも同じ内容ですが、なるべ~く更新していこうと思います。よろしくお願いします。実はわたし、今日がてっきりキリストの復活祭、パスクワと思い込んでました。明日だったんだ。中国の旧正月と同じで、毎年、日が違って、3月21日から4月25日までの間に行われる。古くはペルシャやギリシャからの由来で、「春の卵」(大きなチョコエッグ。中におもちゃなどが入っている。)を贈り合って、聖書の中で犠牲に捧げられたという、子羊肉の後にコロンバというハトの形のケーキを食べるらしい。。。のが、イタリア。雨だし、祭日だし(思い違いで)、何もすることがないと、おっとは家にある材料でエクアドルのパスクワ料理作りに専念。エクアドルはというと、パスクワの前の1週間にファネスカという10色豆、魚にかぼちゃ、ズッキーネ、コーンなどをミルクで煮たスープ、ボロという卵入りのマッシュポテトを食べる。肉は食べてはいけないそうだ。同じカトリックでずいぶん違う。明日だったら一緒に食べれたのに。ごめんね、本日留守のお兄ちゃん。ところで今朝、Ryuは朝ごはんを済ませてすぐTVをつけようとした。木曜からパスクワ休みに突入してからというものの、一日中TVを観ている。これではイカン!と思い、Ryuの耳元でそっと歌いだすわたし。「♪テレビばっかり観ていると、今にしっぽが生えてくる。それは大変大変だ~!しっぽが生えたらどうしましょ?」Ryu「しっぽなんか、生えてないもん!」わたし「まだね。。。でももうすぐ生えてきて、ねずみになるんだよ。」Ryu「うそだ!」わたし「うそじゃないもん。パパもTVを観すぎてねずみになったんだよ。」軽く言ったつもりが、Ryuには相当ブレークハートだったらしい。見る見る大粒の涙があふれてきて「いやだ~!ねずみになって、ほうきで外に掃き出されるの、こわいー!!パパー、パパどこ?ママが追い出したのっ!?」と絶望の只中、はいずるように早朝から外出中のパパを探してパニック状態である。その過剰反応にこっちがびっくりしてあたふたと「大丈夫、今朝ママが呪いを解いたからパパは人間に戻って出かけたよ。」Ryu「早くぼくの呪いも解いて!どうすればいいの!!??」「え?ド。。ドリル。そうそう。しまじろうのドリルすれば解けるかな?」それからRyuは慌ててドリルを広げ、一生懸命勉強したのであった。こんな方法がいつまで続くか??PS.昼過ぎごろ、おっとが帰宅。さっそくTVをつけた。(←おっとはRyu以上にTVっ子なのだ。)Ryu「OOOOHHHHHH,NOOOOOOOOOO!!!!!」おっとからTVのリモコンを引ったくりTVを消して、言語補習のセラピストから買わされた幼児用のカードゲームを急いで持ってきた。「パパ、これやりなさい!!」よっぽどねずみになるのがこわかったらしい。。。。PPPS.先ほど日本人補習校からのメールで「不合格通知」。試験がさんざんだったから、わかってはいたけど、わずかに期待していただけに。。。いやっ、結構期待していただけに、ショックから立ち直れず。
2013.03.31
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昨日はわたしの26歳の誕生日だった。実はRyuは春からミラノにある日本屋さんのリトミック教室に通っているのだが、なんと!そこの先生がわたしと同じ生年月日、しかも血液型まで一緒なことが判明したのだ。ここは、日本じゃなくてイタリアのミラノ。そんな狭い日本人社会で「なんてミラクル-!」と2人は思わず抱き合ってしまった。しかし、そこの先生はとてもとても優秀な学歴と経歴をお持ちの方で、同じ日に生まれながらもこうも違う人生に、落胆してしまったのである。これも何かの縁、ということで昨夜はお店が終わった後、先生のご自宅に招待され、呑んで呑んで飲み明かした。毎年この時期はバカンスで廻りに誰もいないので、一人ぼっちの何もしない誕生日だったので、涙がちょちょぎれるほど、うれしかった。(すみません、年齢は大嘘です) ******偶然といえば、今朝変な電話があった。おっとが出て「いくきーと、日本からみたいだよ。」というので、また我がお嬢母かと思いきや、まったく知らない若造の声で「CAN I SPEAK JAPANIESE?」とたどたどしく聞いてくる。わたしは「YES」と答えて慌てて「はい日本語OKですよ~。」と言った。若造「インターネットでお宅にホームステイを申し込んだ◎◎ですけど。」わたし「はあ?」若造「ずいぶん待ってもまったく返事がないので書いてあった電話番号に自分でかけています。」え~~~っと。。。。。?6~7年前にまだRyuも生まれてなかったころ一度、コックさんをホームステイさせたけど、それ以来、中古品売買のお知らせぐらいしか、ネットで載せてないんだけどな。わたし「電話番号間違えてますよ。」若造「でもミラノですよね?ジュラさんって方と何度もコンタクトしてステイの日取りが決まって、この電話番号もらったんですけど??」ジュラさん?誰かのハンドルネーム?それにしたって、聞いたことがない。それともわたしが実はアルツハイマーで、知らないうちにジュラさんというひとに仲介を頼んでた?イヤイヤ。。。わたし「ごめんなさい、まったく心当たりがありません。」若造はがっかりした様子で電話を切った。すぐにおっとに話したら「なんだかわからないけど、うちにホームステイさせればよかったのに。」その後、用事があったので車に乗り込み考えた。。。。まさか?わたしって、超とろい!!「おっと!これって、あの若造、どこかの仲介業者にだまされたんだよ!!」おっと「え?」わたし「だって、わざわざ日本から間違い電話で日本人がいる家庭に電話してくるっておかしいよ。偶然じゃありえない。きっと悪徳仲介業者にだまされて、お金だけ払わされてドロンされちゃったんだよ。その悪徳業者も、考えたくないけど、どこかわたしの知り合い筋からわたしの電話番号を手に入れたんだ。超むかつく!!」わたしはどろどろした気分で家に帰るとすぐ若造の言っていたサイトを見た。あっさりジュラさんファミリーは見つかった。日本人じゃなくイタリア人だった。プロフィールには「イタリア語、仏語、西語OK」と書いてある。日本語はない。連絡先を探したが、このサイト、ホストファミリーか、ゲストの登録をしないと何も出来ない。だがマップでジュラ家を探すと、なんと偶然にも我が家のすぐ近くである。。。あれ、やっぱりこれって、単なる電話のカケマチガイ??すんごい偶然だけども。ホストファミリー、ただ単にバカンス中なだけじゃ??これ以上考えるとストレスになりそうなので若造に同情するのも、悪徳業者案も、辞めた。おっと「ねえ、これも何かの偶然だよ。またうちに誰か下宿させようよ。」ちなみにおっとは転職してからまたもや、ものすごい経済危機に陥ってしまった。わたしも9月から真剣にパートを探さないと、と考えていたが、Ryuが病気で幼稚園を休んでしまったとき、誰もまわりに頼めるような親戚がいないのが引っかかっていたのだ。コックさんのときもいろいろあったけど、最終的にはすっかり家族のようになって結構楽しかった。(偶然いいひとだったからかもしれないが。)Ryuも赤ちゃんのときほど手もかからなくなってきたし、昼間は幼稚園に行っているし、いいアイデアかもしれない。あの若造が登録しているサイトにわたしも登録してみようかな?******そうそう一ヶ月前、やっとわたしとRyuの盗まれた外国人滞在許可証がクエストゥラで再発行された。盗まれたものは2年後に期限が切れてまた更新しなければならなかったのだが、今度のものはなんと、無期限!しかもRyuの古いものは父親の名前でエクアドル国籍と、母親の名前で日本国籍と2枚だったが、今回のは表と裏で、2つの国籍が書いてある。ってことは、おっとの更新時、もう何もしなくていいってこと?やったぁ~!おっと「ぼくのも盗まれたほうがよかった。。。」←盗まれた場合の書類は簡単だが、更新はものすご~~~くめんどう。今度のはもうかばんなどに携帯しないで、家のたんすの奥にしまいこんだ。ちなみにに携帯が原則であるが、誰もそんなバカなことをしていないことが判明したからである。汗
2011.08.12
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この間の週末はおっとの友人のエクアドル人の子供エリックの誕生日にバレーゼ湖のほとりの自然公園でのBBQに招待された。その日は家を出たとたん、小雨や大雨が交互に降りだして寒く、わたしは家に帰りたいと思ったが、とりあえず行ってみようということになった。しかも9時集合で、わざと1時間遅れて行ったというのに、一番乗りだった。汗だが友人に電話をすると決行するというので、雨の中を待つこと30分、やっと誕生日の子供、お母さんとおばあちゃんが来た。彼らの車からBBQの材料を何度もびちょびちょの芝生の中を往復して運ぶ。我がデリケートな息子は「ぬれる~、とける~(?)」と立ちすくんで大泣きである。やっと全部の荷物を運び終え、日よけのパラソルを傘替わりにさして、網に火をつける。やっと火がつき、肉を網の上に乗せ終わったところにパトカーが来て留まった。警官「君たち、公園内はBBQ禁止だよ。あちこちに立て札があるだろう。そこの君、外国人滞在許可証を見せたまえ。」と、唯一の大人の男であるおっとに詰め寄る。おっとたちの間に緊張が走る。ちょっと離れたところで子供たちに構っていたわたしはなぜか「やっぱり。。。」と思う。おっと「車の中だ、持ってません。」おばあちゃん「すみません、すみません。これ初犯なんです。見逃してください!」とすっかり取り乱してスペ語で警官にすがりつく。警官「君たちは正当滞在者かね?」お母さんはすっかり観念して許可証を取り出した。「はい。長期滞在許可証を持ってますよ。立て札、気がつかなかったんです。ここがダメならどこですればいいんですか?」警官「駐車場ならいいだろう。さあ、パトカーまで来て。」「あ~あ。」わたしはげんなりして子供たちの手を引いて駐車場に向かった。(←ちなみに怪しいアジア人は何も聞かれず、歩き始めても制止もされず。)雨のだだっぴろい、わたしたち2台の車しか停まっていないガラガラの青空駐車場。遥か果ての金網の向こうにロバと羊が見えたので、水たまりの中、子供たちにふれあいを一通りさせたところで後ろを振り返ると、隅でぽつんとBBQの煙が上がっていた。なんかすご~~~く、哀しい。わたしはそこへ戻り「どうだった?」と尋ねた。お母さん「妊婦だから今回だけは見逃してくれたわ。」と臨月のお腹をさすって、ケロッと答えながら、どんどん大量の肉を焼いていく。おっと「あそこでぼくの滞在許可証を見せてたら、絶対罰金ものだったよな。」。。。こ、こいつら、慣れている!一瞬、メキシコとアメリカの国境の熱い日差しの下にいるような錯覚を覚えた。気を取り直してわたし「ところで他の招待客はいつ来るんだろうねえ。もう11時なのに誰も来ないよ。これだけ肉焼いちゃってどうするの?」お母さん「さあ?とりあえず9時集合とは言ったけどね。」雨だから誰も来ないんじゃ。。。?という言葉を飲み込む。わたしの心配をよそに12時過ぎごろ、ぞくぞくと大勢のエリックの親戚、いとこたちがやってきた。BBQのまわりを車で囲み、車と車の間に「HAPPY BIRTHDAY」とカラフルに書かれた旗飾りや風船をひもで渡す。サルサを大ボリュームで流す。なんだか、絵本に出てくるサーカスの巡行団か、ジプシーの集団のようだ。一台のワゴン車内には自転車が山積みで、次々と出して、子供たちが歓声をあげながらまたがった。雨でもおかまいなしだ。Ryuもご自慢の赤い三輪車を持ってきたが、他の自転車にすっかり目を奪われて、それどころではない。ひとつ年上の子供の自転車にまたがらせてもらうと、三輪車はたちまち他の年下の子が乗っていってしまった。Ryuはよろよろと最初の2~3回は留まったり、転んだりしながらもすごくうれしそうである。5~6回目ごろにはすっかりスイスイこげるようになって、母びっくり、というか感動してしまった。成長したなあ。。。三輪車ではちょっとした上がり傾斜も「できない~。」とべそをかいていたのに。そうこうしているうちに全ての肉が焼け、皆に配られた。めいめい車の後ろやワゴン車の中に座ったりして食べ始めた。このころやっと雨が止み、駐車場にもぽつぽつ車が訪れ、皆が皆、興味深げに眺めながら通り過ぎる。わたしだけだろうか?非常に恥ずかしかった。。ので、どこも見ないで一心不乱に食べた。むせながら急いで食べ終わり、ママチャリを借りて、Ryuを前に乗せて公園内をサイクリングすることにした。その場にいてもスペ語ばかりだし、特に「南米人?中国人?」と異分子であるわたしに対する通行人の目も痛い。一周して戻ると、ケーキカットの時間である。エリックを囲んで子供たちの集合写真を撮り(写真嫌いのRyuのみ欠席)終わると、お母さんが不思議なものを出してきた。イタリアで大人気の子供番組「BEN10」のイラストを張った、けばけばしい箱。それを上から吊るすと、子供たちが順番にスイカ割りのように棒で順番に叩き始め、最後に一番大きい子が力任せに叩くと、箱が割れて中から駄菓子やおもちゃがバラバラ落ちてきた。子供たちはいっせいに駆け寄って腕いっぱいにGETした。初体験のRyuはなにがなんだかわからないうちに全部他の子に拾われてしまったので、大泣き、ちょっとづつ、分けてもらった。これはエクアドルの子供の誕生日の習慣らしい。そういえば、アメリカのアニメなんかでもこんなシーンがあったような気がする。やっとこの日初めての太陽、夕日が出てきたころ、わたしはビール片手にご機嫌になっていた。実はこの前夜は日本人仲間との飲み会があったのだが、同伴のおっとが絶対酔っ払うことがわかっていて、アルコールを手にせず、わたしが運転して帰った。今日はわたしが飲む番だ。免許証も家に置いてきた。なのに。。。。わたし以上に酔っ払ったおっとが帰り道、運転しながら居眠りを始めたので、慌てて運転を替わることになった。初の飲◎ならびに◎免許運転だった。(ごめんなさい、もう絶対しませ~~ん!)超こわかった。どこかで警察にコントロールされるかもしれない恐怖でアルコールも吹き飛んだ。自分で運転できるようになって便利になったけど、一緒にでかけるときはいつもわたしが貧乏くじだ。ずるい!それはともかく雨が降っていないバレーゼ湖公園は小さい子連れの散歩にちょうどいい。湖には白鳥や鴨、さまざまな水鳥がいて、餌がやれる。いたるところに滑り台やぶらんこ、アスレチックがあり、小さな汽車ポッポも走っている。我が家から(ミラノ市内からでも)クルマで約1時間の距離なので、晴れたらまた来たいと思ったのだった。今度はもちろん B B Q なしで。
2011.07.28
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あんまりスピリチュアルなことは信じてないのだが、自分の運気が悪いとき、というのは何かいつもまとめて悪いことが続くと思う。思い起こせば2005年に家を買った年は、家に関して全てのことがうまくいかず、その上、事故で骨折する、流産する、とめちゃくちゃだった。そんなときは余計な動きをしないほうがいい。なんでそんなことを書くかというと、この間、かばんを盗られてから、悪いこと続きだ。*****************この間、ショッピングセンターで大きな買い物をしたので20枚以上のスクラッチ式の福引券をもらった。全部ティッシュすら当たらず。。こするの大変だったのに! *****************やっとやっと、あれから数年、屋根の修理が始まったのだが、工事開始予定日が遅れて遅れて、あいにく我が両親の来伊の日と重なり、いつもなら我が家に泊まってもらうところを、その後、東欧旅行に旅立つ前までの数日近くのホテルを取った。なのに工事業者の野郎(←ちなみに仇敵ルイジとは別の業者)、家の周りに足場だけ組んで窓も普通に開けられない状態にだけしたまんま、来ないのだ。両親に高い代金払ってホテルに泊まらせた意味なし!!3週間ほどヨーロッパを旅した両親はもう帰国したが、ま だ こ な い 。。。。両親の滞在日最終日、我々は家族揃って、Madesimoというスイス国境の山に出かけることにした。Ryuはめったに会えないおじいちゃん、おばあちゃんとのお出かけがうれしくて、散歩に出かける子犬のように大興奮である。外に出る階段をいつもよりわたしの手をぐいぐい引いて走るように降りていく。ちょうどそのとき用事から帰ってきたおっとが階下に見えた。。というか、それまで見ていた階段から、おっとを見た。「パパー!!」そこをグッドタイミング(?)でRyuがわたしの手をぐいっと力強く引き。。。わたしは階段から転げ落ちて左足をくじいた。両親とのお出かけ、今日が最終日なんだよね?貴重な時間を救急病院でさくのもためらわれ、びっこを引き引き車に乗り込み、山までお供したが、やはり足は腫れあがって歩けなくなっていて、結局全員がハイキングが出来なくなってしまった。次の日の朝、両親を空港に送ったその足で病院に行き、包帯ぐるぐる巻きにされたが、骨折じゃなかったのが不幸中の幸いだった。*****************先週末はRyuが週1回通っている日本人主催のリトミック教室のステージだったので、昨年クリスマスに買ったばかりのデジカメを持って意気揚々と出かけた。リトミックステージだけではなく、いろいろな催しもあったので、小さな部屋の中は日本人や、その他の人々で超満員状態だ。ステージが始まったのでビデオモードにして少し廻していたら、すぐに「メモーリー空き容量なし」と表示が出たので、がっかりしてあきらめてそのときはカメラをしまい、次の日、家で観よう、とカメラを出したら、メモリーカードのところのふたがいつの間にかはずれていて、メモリーカードが入ってなかった。。。。あの混雑でどうなったのか、落としたらしい。ショック。*****************ショックといえば、一番のショックはこれだ。東北大地震の被災者に何か協力できれば、と苦肉の策でRyuの通う幼稚園と、近所の小学校の受付に日本の国旗を模した義援金BOXを置かせてもらった。目立つといえば、目立っていた。だが、先日小学校の学期末が近いある日、幼稚園の受付の人に呼び止められた。「これ、いつまで置いていても誰も寄付なんてしてくれないわよ。義援金を集めるんだったら現金じゃなしに、もっといい方法を考えなくちゃ。持って帰ってください。」「自己中主義のイタリアでやっぱり難しいかぁ。」と軽いショックを受けながら開けてみると8ユーロほど。募金の紙には「集めたお金は直接日本赤十字に送ります。」と書いたが、これでは手数料のほうが高くつきそうだ。「これじゃ、振込みする意味もないので、日本食材屋さんの義援金BOXに入れておきます。」「好きにして。」とぼとぼと義援金BOXを抱えてその足で小学校にも向かう。わたし「義援金BOX、どうですか?」受付「う~~~~ん、集まらないわねえ。」箱を開けた。たったの3セントしか入ってなかった。幼稚園より悪い。。。ってか、ないのもおんなじ!わたしは苦笑いをしながら「確かに。。。3セントって、誰も入れてくれなかったんですね。」受付「えっ、3セント?!昨日見たときは30ユーロぐらいは入ってたわよ?」え?ええ~、えええええええええええええええええええええ~~~~~~っ!!??受付「そりゃ、ほとんどの子が小銭しか入れてなかったけど、何人かはお札も入れてたし。あ~あ、きっと生徒か、公共の開放時間に受付にひとがいない隙を見て、やられたのよ。」OOOOOOOOOOOOHHHHHHHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!受付「あなたも、こんな簡単に開けられるBOXにしたのもまずかったわね。次回からはテープかなんかでぐるぐるにして、開けられないようにしないと。」そんな。。。こんな田舎町にそんなことをするひと、想像していなかったから(設置はかばん盗難以前)普通の箱にしてました。。。。次回?。。。。ふっ。 次回なんてやる気力がどーんと、ゼロマイナスになったわ。自分のセキュリティの甘さにショック自分のプロジェクトの失敗にショック住んでいる市の誰かの仕業だ、ということのショック(田舎町で治安はいいと、今まで信じていた)募金してくれた人の誠意が無駄になったショック被災地の人へ何も出来ない自分の無力さへショックはあああああああ、明日は晴れるかなあ?
2011.06.13
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先日奪われたかばんの中身は、財布と現金と、かばん本体を残してほぼ復元できた。特に日本のクレジットカードはあっというまに新しいのが届いたし、イタリアの保険証は無料で、免許証は保険つきの郵便料を16ユーロ払っただけで、2週間後ぐらいに届いた。携帯電話は買わなければならなかったが、被害届を元にナンバーはそのまま使用できることとなった。しかし面倒なのは外国人滞在許可証。実はミラノのクエストゥラに警官の知り合いがいるので、ここはコネ社会のイタリア、こっそり頼んでみたが、現在は滞在許可証はマイクロチップ入りカード式。昔のように各クエストゥラがぴらっぴらの紙切れを作るのではなく、すべてローマのコンピューターで管理しているので動きようがないと断られてしまった。いろいろなひとに聞けば、しばらく待てば、かばんが路上から発見されたり、親切な人が届けてくれる可能性がある、ということ。それに淡い期待を抱いて、1ヶ月待ってみたが、ちっとも何も起こらないので、先日しぶしぶ郵便局に、再発行申請をしにいった。無くなったのは、わたしのと、Ryuの2枚あるうちの(未成年者は父と母の2枚を所有しなければならない。めんど~)おっとの名前入りのもの。わたしの名前入りは去年の日本帰国で、うっかりパスポートに挟んだまんま家に置いていたおかげで助かった。申請書を書き進めているうちに、家族で申請したことがあるひとならわかると思うが、Ryuのがわたしの、ではなくておっとの名前入り、というところでひっかかった。わたしの被扶養者として申請用紙に書き込んでいいのか?迷いに迷って郵便局に行く前日にクエストゥラのフリーダイヤルに電話してみた。「いいと思いますよ、そういう場合は、クエストゥラへの召喚日に旦那さんも現在使われている滞在許可証を持参で一緒に行ってください。」よし、問題解決である。郵便局に申請したら、たった2週間後の召喚状を発行してもらって驚いた。今まではネットなどで、どんなにチェックしていても1年後ぐらいにやっとお呼びがかかる状態だったのに。こんなクエストゥラの進化ぶりを素直に喜んでいたら、「郵便局で発行される召喚日はあてにならなくて、出直しさせられるらしい。」という話をちらほら聞いて、凹み。。。とにかくその日に行ってみないと、出直しの日があったとしてもわからないので、「なんでぼくまで仕事を休んで行かなきゃいけないんだよ?」とぶつぶつ言うおっとを「フリーダイヤルでそう言われたんだから!」と尻を引っぱたいて、昨日、雨の中、ミラノの北のはずれにある殺伐とした牢獄のようなクエストゥラに行って来た。約束の30分以上前に行ったにもかかわらず、番号札をもらって待つこと一時間半、そのあいだ、Ryuはたくさん持参してきたお菓子やジュースを食べつくし何度も「おしっこ!」「うんち!」と振り回す。信じられないことにこのクエストゥラにはトイレがない!!警官に教えられた一番近いバールは入り口からは見えもしないぐらい遠い。しかたがないので向かいの公園にポリ袋とスコップを持っていって犬のように済ませた。子供でよかった。。汗やっとわたしの順番が来た。今回は盗難だったので、早かった。地元警察発行の被害届を見せる。写真は書類には4枚とあったが、各1枚のみ提出。指紋を両指全部機械にかける。そのとき他の子供たちと走り回っていたRyuを暴れる子豚のごとくつかまえて、警官に確認させる。1ヵ月後の受取日を指示した紙をもらう。終わり。やはり、1度来るだけではダメだったか。うわさの語学力テストもなかったが、受取日にあるんだろうか?召喚日は正しかったが、結局受取日と2回行かなくてはいけないのだ。わたし「あの。。。子供の分は父親の名前入りなんですが、父親の滞在許可証は提示しなくていいんですか?」警官「あ~、それなら父親がまた別の被害届を作って、別に申請してくれないと。」え? ええ? えええええええええええ~~~~~?????!!!!わたし「あのっ、おたくのフリーダイヤルで父親と滞在許可証のみでOKと言われたんですけど!?」警官はめんどくさそうに「とにかくそういうことだから。」やっぱりフリーダイヤルの「いいと思いますよ。」は信用してはいけなかった!わたしはなんだかバカバカしくなった。「。。こういうのもなんですけど、子供の分は別に作り直さなくても大丈夫ですよね?」警官「まぁね。お子さんが父親のみと外国に出ない限りは問題ないですよ。」(←我が家の場合、まずないシチュエーション)おっけ~。(←最近のRyuの口癖)わたしたちはクエストゥラを出た。おっと「じゃあ、ぼくは何のために仕事を休んで来たんだ!?」わたし「そういうことをわかるためにだよ。」しかしその後、小心者の夫婦はすぐに地元警察に新たな被害届を作りに行った。今は大丈夫でも、数年後の更新時に問題が起こるのがこわい。だが、地元警察にはあっさり断られてしまった。警官「同じ被害届を名前を変えて何度も作れませんよ。今の被害届があれば、大丈夫でしょ。なんとかならなかったら、そのときは一緒に考えましょう。」そうだな、そのときはそのときだ。子供のことだし、Ryuはイタリア生まれだし、たいした問題じゃない。。。。。。と思う。汗
2011.06.09
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この間の遠足と話が前後するのだが、5月になって暖かくなったので、Ryuの幼稚園のクラスの前には「晴れの日は、外で遊ばせますので上履きに履き替えさせないでください。」と張り紙が張り出された。先週末は久しぶりに雨が降ったが、5月はずっと晴れ続きだったので、毎日園庭で、どんどん日焼けしていくRyu。ああ、母は美白肌を保つために暑くても長袖を着て、帽子をかぶって必死なのに、息子の南米混血の肌があからさまに太陽光線を吸収し、早くもよその子に比べて真っ黒状態で、親子と判別するのが難しくなってきた。そうやって外遊びを始めたある晩。Ryuはパジャマを着て、おっとと一緒にベッドに入った。わたしは皿洗いをしていると、伊語でRyuが「あっちあっち!」と必死におっとに訴えているのが聞こえて子供部屋をのぞいた。「お母さん、あっち見て!」とわたしを真面目な顔で振り返り、雨戸のすでに閉まった窓を指す。「お母さん、あっちにいるよ。」と突然正座して、身体を前後に揺らし始めた。その異様な光景にびびるおっととわたし。「誰かいるの?」「悪い人。クルマで来るの!」身体をこわばらせて前後に揺れながら、目がうつろである!ひ~。。。「いたいの。」と右頬を指す。「どうしたの?」「悪い人につねられたの!」キャアアアああああおっと「お願い、今日寝るとき電気消さないで。。。」(←父がこわがってどうする?)この夜、父と母は全部の部屋の電気をつけっぱなしたまま、ぶるぶる震えながら寝たのであった。次の日。幼稚園の担当の先生、3人のうちのひとりに前の晩の話をした。「う~~ん、わたしはまだ子供たちを外で遊ばせたことないけど、前の日に遊ばせた先生に聞いてみますね。たぶん、園庭にいるときに『園庭から出たら外には悪い人やクルマがいるよ。』って注意したんじゃないかなあ?」なるほど!!それならつじつまが合う!なんだ、こわがって馬鹿みたいだった。わたしはホッとしてすぐにおっとに電話をして話した。おっとも「ああ、きっとそうだよ。びっくりした。」と、はずかしそうだった。午後になって、お迎えに行くと、前の日担当の先生がいたので、さっそく聞いた。「ああ、それね。昨日Ryuはひとりで園庭の隅に駆けていったんですよ。ほら、あそこに戦死者の慰霊碑があるでしょ?そこをひたすら指して『悪い黒いひとがいる!』って叫んでいたんですけど、誰もいなかったし。きっと黒猫でもみつけたんでしょう。」わたし「。。。その黒猫は、先生みたんですか?」「いいえ、見てませんけどね。」ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃ~~~~~~っ!!!!こわいよ~、こわいっ!!!あれから数週間経つが、Ryuは未だに夕暮れ時以降になると「あっちに悪い人がいる!」と窓やら、部屋の隅を指す。しかし、今は右頬を指すとき「きょうりゅうに噛まれた!」と言っている。どこまで本気なのか、何を見たのか。。。。。子供というのは、こわいのであった。
2011.05.16
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今朝、Ryuは我が田舎町から1時間半ほどバスで行ったところのサファリパークに幼稚園ぐるみで、遠足に出かけた。遠足はこれで2度目。一度目は近所の子供体験教室みたいなところだったから、今回はRyuの大好きな動物や、恐竜を見れて、今頃大興奮に違いない。驚いたのは3人ほど、クラスの子供たちが欠席したこと。そのうちのひとりのお母さんと数日前に話したとき「うちの子をそんな遠くにやれないわ。1日がかりの遠足なのよ?何かあったらどうするの!?」と言っていたのを思い出した。いろんな保護者が同じような心配をしていたので、驚いた。たかが1時間半の距離、おおげさ?いや、保護者精神失格?う~~~ん???今朝、送りに来れないRyuとクラスで一番仲良しのクラウディオのお母さんに「カメラ持って行くんでしょ?クラウディオも撮ってね。」と頼まれたので、まった~~~くそんな気はさらさらなかったのだけど、デジカメを持ってRyuとクラウディオを幼稚園に送っていった。どうも未だにイタリア人の間では「日本人=黒縁のめがねをかけてカメラを提げた」イメージがあるらしい。(確かにわたしは黒縁のめがねをかけている。めがね、替えた方がいいのかなあ?)何も遠足に付いていってカメラマンをするわけじゃなく、ただ園児たちが園門から出てバスに乗り込むわずかの間のことだ。なのに、園門では多数の保護者たちがカメラやビデオを構えて待っていたのに驚いた。(1回目の遠足もそうだったが、今回もう2回目なのに。)それからどうなったかというと。クラウディオ数枚、Ryu1枚(撮ろうと構えたところで、よそのお母さんに声をかけられたので、後姿でぶれている)、Ryuの公園友達で一歳年上のボリビア人ハーフのクリスティアンの写真10枚ほど、その他の子供たち、数枚。いやね、別にこんな写真、最初は撮るつもりもなかったからいいのだが、なんでRyu1枚(後姿でぶれている)になっちゃうわけ?!しかも他のお母さんたち、「カメラ忘れちゃったのよ!うちの子も撮って撮って!」とバスが出発するまで大フィーバーだったのに、バスが行ってしまったら、お礼はともかく「写真、ちょうだいね。」といいながらどこに送るかも言わずに帰ってしまった。さすがにちょっとむかついて、一番枚数を撮った(というか撮らされた)クリスティアンのお母さんには首根っこを捕まえて「この写真、どこに送ればいいの?」と聞いた。クリスティアン母「わたし、デジカメ知らないんだけど、現像しないの?」わたし「しないよ、メルアド教えてくれたら送るよ。」クリスティアン母「わたしコンピューター持ってないから。」わたし「。。。CDにコピーするから、カメラ屋さんで現像してもらって。」はぁぁぁぁぁ、ってことは他のお母さんも、こんな感じだろうな。後日、写真のことを聞かれない限り、無視することにした。そういえば「Ryuのお母さんはコンピューターに詳しいから!」とおだてられ、最近やたら、幼稚園の先生たちに童謡をネットからダウンロードすることとか、クラスの子供たちのネームを活字でカラフルにプリントアウトすることやら、頼まれる。やっぱり日本は技術大国だ。こんなに「コンピューター」のことを知っている日本人のわたしって、超最先端らしい!!うはははははははは。。。。。。。。。はぁぁぁぁぁ。
2011.05.12
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事件はうちの近所の、ど田舎洗車場。 平日の午前中で、他に洗っていたのは2人ほど。 イースター休みにドロドロになった車をローラーして、 ガラガラだったから、車の全てのドアを油断して全部開けて、掃除機をかけようとしていた矢先に後ろから青いゴルフが近づいてきた。 中には南米男3人。(たぶんペルー人。) 他にも駐車できるところがいっぱいあるのに、わざわざ我が車のそばに留まったことを、おかしいと気づくべきだった。 しかしかんかん照りで、日よけがあるスペースは4台分しかなかったので、変に納得して、それでもちょっと警戒して、運転席から車のキーだけははずしてポケットに入れ、後部座席に置いたかばんからも財布だけは抜いておこうと、動いた瞬間に、助手席に乗っていた男も降りてきて、かばんをわしづかみにして車に飛び乗り、猛スピードで逃げていった。 やられたっ!!!「泥棒~~~~~!!!!」 大声で叫んで追いつくはずもないのに、ダッシュしかけると、ちょうど洗車場に入ってきた女の子2人が見ていて「警察に電話よ!!」と携帯を貸してくれる。 わたし「どこに電話すればいい?」 哀しい日本人のサガで「警察=110番」しか思いつかない。 女の子「112番よ!」 電話をするとすぐに警察にデヌンチャ(被害届)を出しに行くように言われ、これもまたど田舎の警察(カラビニエリ)に行った。 え~っと、すぐにクレジットカードを止めて、それからそれから。。。。 心臓がどきどきしてめまいがする。 警察に着くと、ちょうど、同じように窃盗にあったらしいお兄さんが出て行くところだった。次には誰もいないのに、警官たちはノロノロと仕事をしてイライラ待たされること10分、やっと呼ばれた。 警官「かばんの中には何が入っていたのかね?」 わたし「現金(ちょうど幼稚園の給食費を収めるつもりでお金を出したばかりだった)とクレジットカードと、それからそれから。。。」 警官は落ち着いてかばんの中に入ってそうなものリストを見せてくれた。 わたし「そうです。携帯電話と、免許証、滞在許可証、保険証、あっ家の鍵!。。。。クレジットカードすぐ止めないと!」 ここで警官はカード会社電話番号リストを出してきて、電話を貸してくれ、すぐに止めることが出来た。 警官はわたしから事情聴取をして、被害届を作成する。 すべての書類のナンバーを聞かれたが、こういう事態のためにコピーは全部取ってあるけど、直接こちらに来てしまったから、全部家にある。 警官「大丈夫、なくても心配要らないよ。」 あっというまにわたしの身元や書類の番号をコンピュータで割り出し、仮免のようなものは作ってくれた。 「保険証は被害届のコピーを保険所に持って行ったらすぐ再発行の手続きをしてくれるよ。滞在許可証は、クエストウラ(入管)に行かないとダメだけど。」 警官の手馴れた手続きにやっとちょっと落ち着いてきて、だんだん腹が立ってきた。 こんな田舎でも手馴れるほど、被害があるのか~っ!? やがて、ちょうど昼休みになったおっとが血相を変えて飛んできた。(言ってなかったですが、無事再就職しました。) わたし「家の鍵、やっぱりすぐ変えないとダメですよね。。。あ~あ。」 おっと「ん~、こういう手口は現金や売れそうなものだけ盗って、かばんはすぐに捨てるから洗車場の近くにきっとかばんごと落ちてるよ。」(←なんで知ってる?) 警官もうんうん、とうなずく。 しょげきって、おっとと2人で警察を出た。おっとはわたしの携帯電話の番号を携帯会社に電話してブロック。(なので、リアルお友達の皆さん、新しい番号になるまでお待ちください。) わたし「ごめん。。。Ryuの来月分の給食費、全部持っていかれた。」 おっと「だからいつもかばんを座席に放置するな、って言っているだろ。信号で止まったときに窓やドアを開けて盗まれたりもするんだ。運転するときは財布だけでもダッシュボードに入れておけ。かばんよりも、車はすぐに盗めないから。」 わたし「。。。はい。」 おっと「とにかく無事でよかったよ。無理やり車から引きずり出されてなくてよかった。こんなときはすぐに犯人を追うんだ。(←出来ない出来ない)これからは学習しろ。」 ああ、学習なんてしたことのないおっとから、こんなことを言われるなんて。 しかし、犯人が南米人、というところが、おっとと同じ人種、というところが、なんかもやもやして怒りがくすぶる。たとえば、これがロミ(ジプシー)とかだったら、「あんちくしょう、やっぱり奴らは!!」とわめき散らしてちょっとは発散できるのに。 今回、被害に遭って、学習したこと: 1.目の前で被害に遭ったら、まずは犯人を捕まえましょう。警察は被害届を作成するだけで、泥棒は捕まえてくれません。) 2.警察に届ける前に家が近かったら、盗難に遭った書類のコピーを取りに帰りましょう。(警察で無駄に時間がかかります。) 3.イタリアでは田舎の誰もいないところでも油断大敵! しかし、いつも現金なんて小銭しか持ち歩かないのに、たまたま持っていた日に限ってと、年始に替えたばかりの新しい携帯、またまた長い道のりの滞在許可証申請をするかと思うと、か~っ、むかつく!!!!!
2011.04.28
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東北大地震の後、自分の日記があまりにもちっぽけなので、申し訳なくて書く気がしばらくしなかった。実はちっぽけな我がおっとは先週から無職男になった。い。。いきなりやんけっ!!確かにずいぶん前から今働いている運送会社を辞めて、あ~する、こうする、といろいろな考えをさんざん聞かされてきたが、ついこの間、モロッコ人の新しい従業員を雇ったばかりだし、まさかこんなに急に辞めると思わなかった。おっと「今の会社の支払いが90日遅れだから、あと3ヶ月は何もしなくても取りあえずは大丈夫だよ。ぼくが辞めても従業員たちは働き続けるから、その分の収入はあるし。」しかしそれも「取らぬ狸の皮算用」。おっとが辞表を提出した際に、従業員もこの会社から全員お払い箱になった。ど~するの、もう!おっと「従業員には前から、こんな日が近々来る、と言ってあったから驚いてはいないよ。うちみたいな小企業で従業員をたくさん抱えても人数分の税金にばっかり持っていかれてどんどん赤字になるから、小さなワゴン車を何台も持つより、収入の多い大型トラックに乗り換えて、ぼくひとりか、せいぜい従業員ひとりで運営することに決めたんだ。」そうなのか。先日ウイリアムにだまされて買わされた大型トラック維持の道を選んだか。確かに今持っているワゴン車を全部売れば、大型トラックの支払いが出来る。でも、大型免許、持っていないだろう?おっと「今から自動車学校に通うさ。同時に大型免許を持つ運転手を探して、いろいろな運送会社を廻って、大型トラック運輸の仕事を探して。。。。」今からかいっ!!同じ業種とはいえ、まったくゼロからの出発となってしまった。そういうわけで、最近毎日Ryuの幼稚園の送迎をしているおっとに、Ryuはうれしくてたまらないらしいが、わたしはご近所の好奇に満ちたまなざしが痛い。おっとが日中いない生活リズムがついていたのに、毎日出かけるとはいえ、こんな不規則な日々、それも期限がない状態で家にいられると、落ち着いて何も出来ず、正直うっとおしい。そういうわけで、一部のお友達には知らせていたのだけど、6月のエクアドル行き(弟の結婚式)もそれどころではなくなってしまって、未だ未定である。そういうわけで、前金だけ払っていたわたしのスポーツジムも残金支払いどころではなくなり、前金分だけ通っておしまいになった。そんなぁっ!すごいプレゼントに大感激していたのに、やっぱりいつものように、ぬか喜びだけで終わらされてしまった。。。ショック。
2011.03.24
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巻頭ですが、追加です。 大昔わたしたちの結婚式の写真を撮ってくれた古い友人の写真家、仁木さんがミサの様子をビデオアップしてくださいました。 http://www.youtube.com/watch?v=7WgNLQQ-KNQ&feature=channel_video_title ***今日、17時半からミラノの大聖堂ドウモで地震と津波の被害を受けて亡くなられた方々のために冥福を、また生き残された方々のために対応力の恵みを祈るためのミサがあったので、古いブログ友達、目目さんたちと一緒に行ってきた。いつも肝心なときに病気ばかりのRyuは今回も前日から下痢と嘔吐なので、おっとと一緒に家に置いてきた。(堂内はとても冷えていたので正解だった。)このミサのことはいろいろなところに記載されたり、友人からも回覧板が廻っていたので、大勢の日本人が来ることを見込み、30分早くドウモに着いたのだが、予想を反して日本人はとても少なく、わたしたちは導かれて、最前列に座ることとなった。しかし、わたしたちの後に次々、日本人が参列し、予定時刻17時半には大きなドウモはあふれんばかりの日本人とイタリア人、外国人、観光客の参列者で埋め尽くされ、少し遅れてきた目目さんの友人は、堂内に入ることも許されなかったらしい。祭壇には大きく「平安」とかかれた紙が張ってあった。日本語が堪能なルチアーノ神父が大司教Tettamanzi枢機卿のお言葉を日本語に、ミラノ総領事館長の言葉をイタリア語に、ほぼ同時通訳してくださり、心遣いが身にしみた。「ミラノ日本人の皆さん、この折こそ、日本は凄まじい試練に見舞われて心が打ちのめされていま す。それでも、第二次大戦後のように日 本は改めて立ち直る威力を震わすだろうことを確信しています。差し当たり、命を無くされた方々のために永遠の平安を祈り、生き残された方々のため に不屈の信念と不滅の力を願いましょう。」日本人参列者全員が、祭壇で香をそなえる奉香式があり、それが飴色の小さな石のようなものだったのだが、神社仏閣に供える線香みたいでそれを香炉に投げ込むと煙が立ち上り、言葉にならない思いが噴き出してきて、なんだか泣けてきた。わたしは無宗教だが、堂内全員の意思が一体になった素晴らしいミサだった。あの煙に込められた祈りが亡くなった方のところに届きますように。被災地が一日も早く復旧しますように。******少しずれるが、被災地外のひとが、あまり憂いすぎるのもよくないらしい。(実際はまりかけていた。)ここからは、某MIXI記事の抜粋。被災地にいない私たちに今、必要なこと東日本大震災の影響を受け、被災地でない首都圏やほかの地域でも、不安感が高まり、生活必需品が不足するなどの混乱が続いている。しかし、「少しでも被災地のために。被災地への支援を確実にしたい」という思いで、節電や自治体が行う救援物資の受け入れなどに個々で取り組んでいる人もたくさんいる。そこで、被災地にいない私たちが今、気をつけること&できることは何か、専門家に取材した。◆これから必要なのはメンタルケア 「今後はメンタルケアが重要になってくると思います」と話すのは、北里大学医学部衛生学公衆衛生学講師の和田耕治さん。地震の被害を受けなかった人でも心のバランスを崩すことがあるという。「被災地にいる人はもちろん、被災地から離れていても、被災した家族や知り合いがいる人などは特に『なぜ、自分だけ助かったのか』『こんなに普通に暮らしていて良いのか』と自分自身を責めたり、罪悪感を強く抱いたりして、心のバランスを崩していく人も多いのです。逆に、そういった悲しみの感情を感じられない自分にショックを受ける人もいます。いずれにしても、感じ方は人それぞれで当然。自分の今の気持ちを受け止めることが重要です。被災地から離れて暮らす人は、とにかく今ある日常生活をきちんと送ることを心がけましょう」。 自分の心が苦しくなってキャパを超えそうなときは、誰かに話す、日記を書くなどして、気持ちを外に吐き出し、メンタルバランスを崩さないよう過ごすことも大切。 また、テレビをつけっぱなしにするなど、メディアからの情報を取り込みすぎて心に負荷がかかる人もいるという。「メディアを見ないのも一つ。精神的な疲れから体調を崩す人もいます。被災地の状況に目を背けるという意味ではなく、メンタルのキャパシティを超えない範囲で情報を得るようにしては」とアドバイスする。というわけで、次回からは通常モードで復活するぞ!
2011.03.21
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今回の大地震で、何か協力できることはないかともんもんとしていましたところ、MIXIのイタリア在住者コミュニティで素晴らしいトピックが上がったので、コピペします。ご協力、そして、ひとりでも多くの人に広めてくださることをお願いします。イタリア赤十字の義援金活動イタリア在住の皆様 今回の地震で、おそらく身近なイタリアの多くの方々が励ましの言葉をかけてくれたのではないでしょうか? TVは目を背けたくなる映像を流している中で、そんな彼らの人間的な暖かさ、優しさには本当に救われました。 イタリアの赤十字が、日本の震災被害者に向けての義援金活動を始めました。 あらゆる携帯電話、固定電話から45500にSMSすることで、2ユーロが募金されます。 ↓詳細はこちら http://cri.it/flex/cm/pages/ServeBLOB.php/L/IT/IDPagina/6848 ↓あるいは、こちらのサイトから直接振込も可能です。 http://cri.it/flex/FixedPages/IT/Donazioni.php/L/IT 遠くにいても、少しでも力になれればと思います。*********************************** aiuti per il Giappone Ciao, come certamente ben sai i terremoti e lo tsunami che negli ultimi giorni hanno colpito il Giappone sono stati di una gravit? senza precedenti. Inoltre, a causa dei problemi alle centrali nucleari non si pu? nemmeno asserire che oramai il peggio sia passato. La situazione ? drammatica; in molti posti mancano acqua, energia, carburante, generi di prima necessit?. Allo stato attuale ? ancora impossibile stimare il numero di vittime, ma si ipotizza possano essere decine di migliaia. ? altres? impossibile quantificare i tempi e i costi necessari per la ricostruzione. Sicuramente ci vorranno molti anni, e stime assolutamente preliminari parlano di svariate centinaia di miliardi di euro. Sono possibili donazioni tramite sms al numero 45500 (2 euro, da ogni operatore) o attraverso la croce rossa e altre associazioni: http://cri.it/flex/cm/pages/ServeBLOB.php/L/IT/IDPagina/6848 https://www.paypal-donations.com/pp-charity/web.us/campaign.jsp?cid=-12 Ogni seppur piccolo contributo pu? aiutare un popolo in ginocchio, che in passato non ha mancato di farci sentire la sua vicinanza nei momenti di difficolt? (ad esempio in occasione del terremoto che nel 2009 ha colpito l’Aquila). Grazie e scusa per il disturbo; ti sar? anche grato se contribuirai a dar diffusione a questo messaggio!
2011.03.15
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スポーツジム通いを再開したら、なんだかめちゃくちゃ忙しい。働きながらジムに通っている人には申し訳ない贅沢な悩みだ。朝、Ryuを幼稚園に送り出した後にジムに3時間ほど行ったらもうお昼で、おっとが昼食に帰ってくるのと同時に家に駆け込み、一緒に昼食を食べ、その後、おっとのおつかいや雑用をしたら、もうRyuを幼稚園に迎えに行って1日が終わる。家もちっとも掃除も出来ないし、買い物も気がついたら簡単に出来るものしか買わないようになってしまった。ジムの契約書をプレゼントしてもらったときにおっとに「これからも家事に手を抜かない約束だぞ。」と言われたのに、あっさり今からその約束が崩れ去ろうとしている。ところで。これはわたしが歳をとって経験豊富(?)になったからか?生活がラテン系なのが原因なのか?まわりは今までに出会ったことのないような複雑な家族が増えている。先週末、おっとの友人に赤ちゃんが産まれたので、お祝いに訪問した。この友人は、おっとの幼なじみウイリアムの彼女アンドレアのお父さん。のっけから横道をはずれると、ウイリアムは自分の大型トラックの一台をおっとにだまし売って(?)、アメリカに住んでいるアンドレアの2人目の女の子(長女は4歳)の出産の立会いに旅立って行った。ウイリアムが2児の父なのに結婚しないのは、彼女アンドレアがグリーンカードを手に入れるために偽装結婚をしているので、結婚が出来ないからだ。先日、無事赤ちゃんが生まれたのだが、可哀想に心臓の血液を送るバルブと出すバルブが逆になっていた。2000人に一人ぐらいの確率でこんな子が生まれるそうだ。産まれてすぐから心臓を切開してバルブを繋ぎかえる8時間に及ぶ大手術をしてなんとか命を繋ぎ止めた。しかし、これからも心臓の問題は背負っていくことになるらしい。生まれてくるまでこの問題は発見されなかったので、ウイリアムもアンドレアも、ショックは大きい。話を元に戻して、アンドレアのお父さんはもうそんな孫が2人もいる40歳後半。アンドレアのお母さんは数年前、離別して新しいメキシコ人彼と、アンドレアと子供たちとアメリカ在住。わたしたちがお祝いに行った赤ちゃんはお父さんの新しい36歳の彼女(17歳(♂)の連れ子あり)との子供。この時点ですでにややこしいのだけど、お父さんはアンドレアの2人の兄たちと同居している。そのうち長男は最近彼女と同じ家で同居を始めた。そしてペットにトラ猫1匹、ピットブル1匹。家は日本でなんていうのか忘れてしまった。。。3部屋とダイニングキッチン。狭くはないけど全然広くなく、いつも家のどこかに誰かが徘徊している状態で、ここにお邪魔するのはいつもブルーだったが、赤ちゃんが産まれて余計に狭くなり、もうどうするの?という感じである。アンドレアの2人の兄は実質、この赤ちゃんの腹違いの兄弟になるわけだけど、アラサー2人のおっさん、どこまで実感しているのか不思議だ。お父さんも、孫よりも小さい自分の子供、どう捉えているんだろう??そういえば、幼稚園にも不思議な親子がいる。これも偶然なのか?お父さんイタリア人お母さんエクアドル人のハーフ、ミッシェルちゃん。お父さんはいくつかは不明だが、もう定年退職数年で、若くないパパ。2度目の結婚らしい。。。とわかったのは、このお父さんの息子の子供のロレンツォ(つまり孫)もミッシェルと同じクラスだから。お父さんの息子、ミッシェルが生まれたとき、どういう気持ちだったのかなあ??ん~、まったく余計なお世話だな。PS.ジムに通いだしてまだ間もないから、お腹は全然引っ込まないのに、腹筋がだんだん大嫌いな形に割れてきた。うぎゃ~っ!!!
2011.02.26
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そもそも、おっととの出会いは、というと、わたしが留学生時代、シェアしていたアパートを引っ越したときだ。わたしと入れ替わりに元わたしの部屋にサルデーニャ出身の女性チンチアが入居した。チンチアは一緒に住んでいたペルー人の男性と離婚して、引っ越してきたというわけだ。その引越しに数名の南米人の男の子が手伝いに来ていたのだが、この時点では誰の顔も覚えていなかった。チンチアは出て行くわたしにとてもフレンドリーに「ここで知り合ったのも何かの縁だから、今度一緒に遊園地にでも行かない?」と聞いてきたので、快諾した。遊園地の日。詳しいことは面倒なので省略。ここで、やっと引越しの日のメンバーをちゃんと見た。これは絶対チンチアの趣味なんだろうけど、みんな揃ってマッチョである!その中で特にマッチョだったおっとに、真文化系のわたしは正直、うげ~っと思った。聞けばエクアドルではジムのインストラクターのバイトをしていたらしい。筋肉ばっかり鍛えているような奴らなんて、い や だ !!。。。と心底思っていたのに、運命のいたずらとはおそろしいものである。***昨日はすごいバレンタインデーだった。朝、おっとが出勤後、ピンクの花柄の小さな紙袋がテーブルの上にあったので「おっとめ、また、どこかのおばちゃんのお客からなんぞもらってきたのか?(時々おっとは意味不明のブレスレットやら、携帯電話を「お客から。」といってもらってくる。怒)と、中を見るとわたしのデータが記したA4の紙2枚。読んで見ると、なんとおっとの通うスポーツジムの年間契約書ではないか!?びっくりした。年始にそのジムの「会員ご家族様15日間無料キャンペーン」のチケットをもらって、真面目に毎日通った。1年前にオープンしたばかりのジムは広くてきれいで、何がわたしをとりこにしたかというと、そこの地下にある種々さまざまなお風呂。ジャグジー、トルコ風呂(日本のHなスタイルではなく、湿度の高いサウナ)、乾式サウナ、アロマ入りのミストシャワー。明るく天井の高い風呂場でお湯につかっていると、貧乏なのに、とてもリッチな気分になった。毎日1時間ちょっと運動して、2時間ほど風呂に入っていた。我が家では面倒なので、ほとんどシャワーで済ますのだが、ここで風呂に入っていた15日間でガサガサだった肌はうるおいが戻って、髪もツルツルになった。やっぱり日本スタイルで湯船にゆっくりつかるって、いいんだなあ、としみじみ思ったのだ。だから15日間が終わって「あ~あ、残念だなあ。」としきりにぼやいていたのが良かったのか?おっとにいつも「その出っ腹なんとかしろよ。」といわれながらも「あんたみたいにジムに通ってないモンね~。」と嫌味と言い訳で逃れていたのがよかったのか?おっとはとにかく自分の肉体を鍛えるのが趣味なものだから、わたしのだれきった肉体が気になって仕方がなかったのだろう。しかしわたしは大いに混乱した。こんなすごいプレゼントをもらってしまってどうしたらいいんだろう?とりあえずチョコレートケーキを焼いてみた。でもでも、これじゃ釣り合いが取れない。来月はおっとの誕生日だ。おっとはその日にこれに見合う何かを期待しているのか?う~~~~ん、どうしたらいいんだ?いつも貧乏を強いられていて、たまにこんなすごいものをもらってしまうと、素直に喜べない自分が哀しい。。。PS.その後、昼休みで帰宅したおっとに大げさすぎるほど喜んでみたら、ここ数年来見たことのない、いい笑顔を浮かべたのだった。
2011.02.15
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昨日、日記を書き終わって改めて読み直してみると、めちゃくちゃそうで、実はおっとのおそろしい計画は、数年かけて着々と進められていることに気がついた。 何かというとおっとはすぐに弱音を吐く。 最初から悪い結果が目に見えて、忠告しているのに聞く耳持たず、やっぱりその通りになると、まるで世界の終わりのように嘆き悲しんで「こんなイタリアはもううんざりだ!エクアドルに逃げよう!!」と始まる。 わたし「エクアドルに行って何するの?」 おっと「何か店をするよ。」 わたし「そんな、何のビジョンもない生活が待っているエクアドルになんかついていかないよ。」 おっと「じゃあ、日本に逃げよう。実家に住んで、日丸ちゃん(仮名。我々の唯一の日本在住エク人友人)と同じ職場で働けばいい。」 わたし「お嬢母がそんなこと、許すと思ってる?第一、実家から日丸ちゃんの職場まで通勤は遠すぎるよ。(奈良-神戸)」 毎回そんな会話を繰り返すうちにやっとヒートダウンするおっとであった。 わたしがこんなちゃらんぽらんな男と今でも結婚生活が成立しているにはひとつ、大きな理由がある。 幼少の頃からお嬢母に束縛されまくっていたわたしは、両親や両親世代のひとと長い時間一緒にいるのが苦手だ。 そんなわけで大学卒業後、すぐに奈良から東京に逃げたが、お嬢母にはそんな距離はたいしたことがないようで、勝手に合鍵を作られて、何度も無断で来て、一度は夜遅くに急に家に侵入されたときには本当にびっくりした。(その日は彼氏がいなくて本当によかった。。) お嬢母に結婚がつぶされ、傷心旅行で独り、台湾のいとこを訪ねたときも追いかけてきたときには「本当にこのおんな~!」と思った。 イタリアまで逃げて、やっとこちらまで訪ねてくる回数が減ってほっとしている。 Ryuも産まれてだいぶ母娘の関係にも角が取れてきた。 その逆におっとはすごいマザコンである。 このようにどちらの親子関係も極端なので、どちらの親とも同居しなくてよく、めったに来れない日本とエクアドルの中間地点のイタリアはわたしにとって、とてもいい距離なので、親族関係のわずらわしさに悩まされることがなく、なんとか続いている、というわけだ。 そんなわたしをおっとは、よほどイタリアが好きで離れたくないと思っているらしい。 1年前のある日。 おっと「来年、ぼくのママは定年退職なんだよ。ぼくは仕事があるから、簡単に休めないし、家族ぐるみであっちに行くとなるとすごいお金がかかるから、お祝いに飛行機のチケットをプレゼントしてイタリアに来てもらうのはどうだろう?」 わたしはゲッと思ったが、年に2回も来るわたしの両親と違って、おっとのお母さんは8年前の新婚旅行以来、会った事がない。たまにはいいよね。 「いい考えだね。そのときにはちょっとは休んでいろいろ観光しようよ。」と賛同した。 翌日。 おっと「郵便局で扶養家族の滞在許可証の申請書、もらってきて。」 わたし「誰の?」 おっと「ママのに決まってるじゃないか。」 わたし「なんで旅行に滞在許可証なんかがいるんだよ?ビザだけでいいでしょ?」 おっと「現在エクアドルはビザを取るのがすごく難しくなっていて、時間もすごくかかるんだ。きっとこっちで扶養家族の滞在許可証を取ったほうが早いよ。」 確かに。。。以前エクアドルに行ったとき、どこかの役所を1周以上の長い長い列があって、何かと尋ねたら「外国に行くビザを取るための列だ。」と教えてもらった。 お義母さんにそんな大変な思いをさせるなら、ほとんどの行程が郵便とネットだけで済む、滞在許可証のほうがいいのか? なんだか納得がいかないまま申請書をもらってきた。 翌々日。 おっとはスカイプで嬉々とした声でお義母さんと話している。 「ママ、いつイタリアに来れるの?ママのために扶養家族の滞在許可証の申請書をもらってきたよ!滞在許可証がもらえたら、いつでもいつまでもうちに居てくれていいからね!!」 やっぱりそう来たか~~っ!!!! しかしお義母さんは冷静だった。「ありがたいけど、わたし、飛行機に乗ったことがないし、いきなりそんな長旅はこわいわ。ちょっとよく考えさせて。」 おっとはその後もしつこく食い下がったが、だんだんヒートダウンして、申請書の上にもいつのまにかほこりが積もった。 今年1月上旬。 エピファニアの日にイタリア人と結婚したおっとの友達マリソルの家に招待された。 マリソル「お正月までうちの母がエクアドルから来てたのよ。」 そこでまたヒートアップするおっと。「やっぱり?君のお母さんも扶養家族の滞在許可証で?そうだよねえ、それが一番だよねえ。」 マリソル「うちの母はイタリアが気に入って、今こっちに移住する準備をしているの。滞在許可証はあるからいつでも来れるし。」 うんうん、と興味深げにうなずくおっと。 ここで、わたしはもしや、と思った。 おっとはエクアドルに永久帰国したいのだけど、わたしがイタリアが大好きで、離れたくないから、そんなわたしのために自分の家族をこっちに呼び寄せようとしている? これって、わたしへの愛?(とても勘違いの) OOOOOOOOOOOOOOHHHHHHHHHHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!! この愛、弟のフルッシ申し込みで確信したのであった。 ありがとう、おっと。。。。。 はあ。。。。。。。。。。 PS.扶養家族の滞在許可証は一親等(伴侶または親か子供)にしか申請できません。(だから弟は別の方法)
2011.02.10
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お久しぶりです。ここ数日、暖かい日が続いてベランダのヒヤシンスが今にも開花しそう。最近はPCを開いてひたすらニュースやコミュを眺めるだけだったけど、なんかそれだけも寂しくなったので久々に日記を書いてみた。特にこのところ大きなニュースはないけれど、ここ数年を掘り起こしてみると、いろいろあった。例えば近所のブラジル人の友達エルトンは不景気で、働いていた会社が自宅待機になった。わたしだったらそこで悲嘆にくれそうだけど、そこはシングル、身軽だというか、ロンドンやスイスを旅行したあと、「ちょっと1ヶ月ほどブラジルに帰ってくるわ。」と言ってそのまま帰ってこなかった。。。なんでもあちらで大きな商社に就職が決まったらしい。わたし「ちょっと、イタリアの家のローンどうするの?」エルトン「もう興味ないね。きっと連帯保証人のマリエッタ(離婚した奥さん)がどうにかするさ。」そのマリエッタも新しいエクアドル人の彼とその間に出来た娘と数ヵ月後、まったくエルトンと話し合いを持つこともなくブラジルに永久引き上げした。い。。家は?おっと「じゃあ、ぼくが買って、誰かに貸して、続きのローンだけを払っていくよ。」わたし「あほ~!@!こんなややこしい状態の家に手を出すな!!」****去年、おっとの幼なじみのウイリアムがアメリカに住んでいる彼女と娘のところに永久移動を決めた。ウイリアム「やっぱり親子は一緒にいなくちゃ、家族とは言えねえ。」というわけで運送会社を経営している彼は去年の暮れから大型トラックを従業員の運転手ごと売りに出し、ワゴン車しか持っていないおっとに「やっぱり事業を拡大するなら大型を買わねえと。」と強く勧めた。おっともさんざん迷った挙句、ウイリアムのトラックの一台を従業員であるウイリアムのいとこごと買うことに決めた。トラックは去年12月に名義変更をし、1月からいとこがおっとの下で働くはずだったのだが。。。ウイリアム「やっぱりここまで定着させた会社を捨てて、アメリカで一からなんてやってられるか。」。。。というわけで、一ヶ月だけ彼女の次女の出産時期にあわせてアメリカに行くだけに変更した。。。。。。。。。。というわけで、ウイリアムのいとこは引き続き、ウイリアムの下で働くこととなり、運転手のいないおっとの大型トラックはローンだけ残して、遊んでいる。****先週、イタリアにおける不法滞在者に人数限定で滞在許可証を与える「フルッシ」という日があった。こともあろうにおっとはそれに現在エクアドル在住の今年高校卒業予定の弟の名前で申し込んだ。わたし「ちょっと、弟はイタリアで働きたがってるの?」おっと「いや、それは聞いてみないと。あいつは出来が悪いからぼくが雇ってやらないとエクアドルでは就職は難しいよ。」わたし「。。それって、彼がOKだとしてイタリアに来てどこに住むの?当然、うちでしょ?うちにそんなスペースないよ!!なんでわたしにもっと前に相談しないのよ?!」おっと「相談したら反対するに決まってるじゃないか。部屋はRyuと子供部屋を共有すればいいんだし。それにフルッシにまだ受かるかもわからないし、とりあえず手を打っただけだよ。」なんだと~!!反対するから勝手に決める、19歳の青年と3歳児を一緒の部屋に入れる、フルッシも無料じゃないのに肝心の弟の承諾もなく勝手に申し込む、もうむちゃくちゃやんけっ!!!!!***現在のわたしは。。というと、心の平安のため、こんな話はよそさまの噂話程度に聞くようにしている。まともにからむと崩壊しそうだ。なので、ちょっとジムに通ってみたり(無料お試し)、おっとのおつかいでミラノに出たついでに、ウインドーショッピングを楽しんだり(買えないので)、幼稚園のママ友も増えた。でも不思議だ。Ryuのクラスのペルー人ハーフのステファノとエクアドル人ハーフのミッシェルのママが親しくしてくれるのはわかるけど、よそのクラスの知らない南米人ママまで最近、フレンドリーだ。スペ語で挨拶されてもわたしは伊語しか話せないんだが。誰かに年長クラスにひとり中国人がいる、と聞いたがそこのママは見たこともないのにな。う~、やっぱり崩壊しそう。。。。。
2011.02.09
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「家族が4人になったよ!」とある朝、おっとが仕事先からはずむような声で電話をしてきた。わたし「え?」嫌な予感がした。おっとはRyuが生まれてすぐから「Ryuに妹がいないと可哀相だよ!」と主張していて、わたしはあんなに苦しんだ10ヶ月10日が終わったばかりでとてもそんな気になれなかったし、年齢的なことを考えても、そんなリスキーなことをもうしたくない。そういえば、妊娠がなかなか出来なかったころ、かなり真剣に2つのことを考えていた。そのひとつは孤児を養子にとること。まさかおっと、勝手に申請していて養子縁組が整ったとか?!いやいや。。。その考えはすぐに打ち消した。養子をとるには夫婦両方の試験が必要なのだ。おっとの独断では無理。あ、じゃあ2つ目に違いない!!わたし「絶対ダメだよ!」おっと「え?」わたし「言ったでしょ、Ryuの世話だけで手一杯で他になんにも出来ないのに、子犬なんていらないよ!」ずいぶん前の日記にも書いたのだが、おっとは子犬をすごく欲しがっていた。きっと、誰かにもらう算段を勝手につけたんだろう。それとも、仕事の途中で拾ったか?前回は結局、おっとの心の準備がまったく出来ていないことが発覚、お流れになったのだ。しかし先日、またその話を蒸し返してきたので、「世話するつもりもないくせに欲望のみで動くな!」と言ったところ、おっと「きみは1日中、家にいるんだから世話が出来るだろう!」な、なにを~っ!!好き好んで家にいるわけじゃない。Ryuがいるからしかたがないんだ!それにおっとは、最近ちくちくとわたしに「そろそろ仕事はじめてもらわないと、ぼくひとりで家族3人支えられないよ。」とこぼす。なのに10年以上も生きるであろう犬を、共働きの子持ち、近所に親や親戚がいるわけでもなく、誰がどうやって世話をするんだ?矛盾したことばかり言ってるんじゃない!おっと「違うよ、今朝家の中で見つけたんだ。」わたし「え?」おっと「キッチンで、ね。ず。み。」にやりとするのがわかった。わたし「えええええええ~!!」おっと「ここ2~3日、きみとRyuが寝室に入ったあと(最近、おっとはわたしたちより遅く寝て、まだわたしたちが寝ているうちに出て行くのだ。)、キッチンでなんだかガサゴソ音がしてたんだよ。で、今朝起きたときに、そっと流しの下の扉をを開けてみたら、生ごみのバケツの中にいたんだ。でもぼくを見てすぐ逃げちゃったけどね。」電話を切った後、わたしはRyuをソファの上に降ろし、家ではDVDを見るときにしかかけないめがねをかけて流しの下を開けた。そういえば、昔飼っていたハムスターのもののような小さな黒い米粒のようなフンがあちこちに落ちている~!!!毎日開けているのに、ど乱視、ちょっと近視のわたし、まったく気がつかなかった。このぼろ納屋に引っ越してきてすでに4年が経とうとしているが、これまで生ごみの中にねずみはおろか、ごきぶりもみたことはなかった。家の中でのうのうとしているのは、放置していればあちこちに巣を張るクモぐらいだ。そういえば3年ほど前、一度だけねずみが入ってきた。そのときは屋根に上り下りしてバタバタしていたときだったので、いかにも屋根裏にひっそり住んでいたねずみがびっくりして家の中に入ってきた感じだったし、あっというまに逃げていった。しかし、今回は違う。生ごみの中、ということが明らかに確信犯である!どうしよう。。。流しの下を掃除しながら考えた。3年前に見たあのねずみは茶色くて小さくて、ピーターラビットの絵本の中から抜け出してきたような可愛いねずみだった。あれを殺すなんてわたしには出来ない。しかしゲージの中で飼っているハムスターとは違って、この場合、放し飼いのようなものだから、決まったえさを食べるわけではない。そういえば今まであまりにも無防備に夜ご飯をフライパンにきっちりふたをしないまま次の日まで置いていたり、Ryuが残したおやつをテーブルの上に放置して出かけたりしていた。やっぱりわたしたちの食べ物を、特にRyuの食べ物をおすそ分けするわけにはいかない。可哀相だけど、退治しなきゃ!次の日。さっそくホームセンターで、とても極悪そうなねずみの絵のついたパッケージの殺鼠剤を買ってきた。箱を開けると、3年前カルラのお父さんにもらったものと同じ、水色の小さな毒薬がいっぱい入っていた。Ryuが絶対に届かないよう、いくつかをキッチンの下のパーツを開けて放り込み、しっかりそこが開かないように閉め、ひとつをすでに空になっている生ごみバケツの底にRyuが朝、食べ残したバナナと一緒に置いた。うげー、猛毒な臭いがする。。。こんなに毒々しい水色で、こんなに化学的な臭いがするのに、ねずみがひっかかるの?疑問を抱きながら、流しの下を閉め、昼食をとるためにRyuを椅子に座らせて、わたしもテーブルについてフォークを取った。。。かさかさ。ビニール袋がすれあうような音が流しの下からはっきり聞こえた。まさか。。。?もう。。。。引っかかっちゃったの!?どきどきしながら流しの下を開けると、3年前のねずみよりひとまわり大きいねずみが生ごみバケツの底から這い上がろうとぴょんぴょんジャンプをしているではないかっ!うわっ、本当に引っかかっちゃったーっ!!すごっ!!!み。。見なかったことにしよう。。。。と急いで扉を閉め、慌てて思い直して扉を開けると、まだばんざいしながらぴょんぴょんしていて、その姿はいかにも助けを求めているようなのだ。わたしは決意を固め、ビニール袋の口をぎゅっと結び、駆け足で玄関を開けて、ねずみをベランダに放り出した。逃げる。。?それとも毒を食べちゃったから、このままビニール袋の中で死ぬ?この先を知りたくなかった。思考をシャットダウンして黙々とRyuと昼食を済ませ、Ryuが昼寝に入ってからそっとベランダに出てビニール袋をほうきの柄でつついた。音はもうしなかった。おそるおそるビニール袋をつまみあげると、袋が小さくかじりとられていて、そこからねずみは逃げたようだった。はあ、よかった。。。生きていたんだ。もう、家の中にねずみはいないよね?念のために生ごみは外に出し、テーブルやキッチンの上の食べ物は、ポテトチップスすらも全て冷蔵庫に放り込んだ。次の日の朝。週末。一番早く起きたわたしは、普段はかけないめがねをかけて、Ryuがハイハイを始めてから毎朝恒例となった床掃除にかかった。同じねずみが帰ってきたのか?DVD「レミーの素敵なレストラン」のように家族が一緒に住んでいたのか?夜中のうちに食べ物を探した痕跡、それもとてもわかりやすい痕跡。。。昨日まではなかったところにフンが落ちている!!もちろん空になった生ごみバケツの周りにも新たに、である!!!ショックだった。せっかく「レミーの素敵なレストラン」のおかげで「ねずみだって素敵だ!」と思っていたのに、彼らはわたしの敵に廻ってしまった。哺乳類にこんなことはしたくなかったけど、月曜になったらネズミ捕りの罠を買いに行くしかないのかな。。。しかしこの心配も無用だった。新たにフンを発見したのはこの日だけだった。あちこちに置いた毒薬が効いたらしい。こんなに毒々しいのに、生ごみバケツのそばの一個は何箇所もかじられた跡があった。ここ数日、ほっとしていると同時に、動物を殺してしまったという、悪い後味に悩んでいる。おととい、去年のSさん宅のクリスマス会で知り合った、隣町に住むY子ちゃんに電話で「ねずみが出たんだよ!」と語ったところ、Y子ちゃん「家にねずみが出るって、アパートの公共スペースの管理がなっていないんじゃないの?」←とても真面目そうな性格そういえばY子ちゃん、まだ我が家に来たことないんだよね、こんなぼろ納屋、管理人なんていませ~ん。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。はぁ。
2009.03.07
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今年のバレンタインデーはひさびさに手作りチョコを作った。 というのも、14日にずっとシングルを貫きたくないのに貫き通している、ちょっとMrオクレ似の友人の50歳の誕生日のパーティに家族全員で招待されたからだ。 わたし「プレゼントはいらないって言われたけど、何か持っていきたいよね。」 おっと「バレンタインデーだからチョコでいいんじゃない?」 いいのかっ?! こんなジェラシーの固まりのラテン男からそんな言葉を聞くとは意外だった。わたしが年下キラー(自称)で年上には興味がまったくないのをよく知っている。 そこでスーパーでいろいろ物色してみたが、日にちが日にちなだけにチョコがめちゃくちゃ高いのだ。 愛に飢えたシングル男。。。そういうわけで板チョコと生クリームだけ買ってきて手作りチョコを作ることに相成ったわけである。 実はわたしはチョコというものが、母にさんざん「虫歯になる極悪菓子」と脅されて来たためか?小さい頃からあまり好きではなく、社会人になってからやっとお付き合い程度に食べるようになった。 なので板チョコを溶かしてボウルでネリネリしているときには、その甘ったるい匂いにムカムカしてきて何度も吐きそうになるのをこらえた。 そうして出来上がったチョコはまさに「命がけで作った愛のチョコ」なのである! これで彼は喜んでくれるだろうか? しかし、作りすぎた。 半分を彼のために真っ赤な麻の袋にバラの花を添えてラッピングし、 1/4をおっとのために小皿に取り分け、 残りの1/4を毎日通っているスーパー、「イル ジガンテ」のバールのお兄ちゃん、エルメスにプレゼントすることにした。 なぜならこの間も書いたが、彼は誰もいないときはいつもカプチーノをただにしてくれるからである。 ずっと何かの機会にお礼をしなければ、と思っていたのでいいチャンスだ。 14日土曜日は、おっとは午前中、散髪に行ってしまったので、エルメスのチョコを小袋に入れ、いつもと同じようにRyuをカートに乗せてイル ジガンテのバールに向かう。 バールは週末なだけにいつもより混んでいて、カウンターではエルメスと、同僚のロージィが忙しく働いていた。 遠くからカウンターの2人の姿を見るや、Ryuは「Vaaaaai!!(行け!!)」といつものように声を張り上げ、ロージィがそれに気がついて「ちゃお~!」とコーヒーを飲むお客越しに手を振る。 もう何も注文しなくてもエルメスがカプチーノを用意して「はい、シニョーラ。」とカウンターに置いてくれたので、わたしは大勢のお客の間をすり抜けて、カップを取った。 それからはRyuを囲んでカウンターの2人とお年寄りのおしゃべりがはじまった。 わたしは常に愛想笑いを保ち「いつチョコを渡そうかな?あんまりたくさんのお客さんがいるときは仕事の邪魔だし、恥ずかしいし。。」と思いながら、カプチーノを飲んでいるうちにお客がずいぶん減ってきて、一組のお年寄り夫婦とわたしたちだけになった。 渡すなら今だ! わたし「エルメス、バレンタインデー、おめでとう!」 エルメス「え。。これチョコ?」 わたし「うん、わたしが作ったの。バールの皆さんで食べて。」 エルメス「わ~、ありがとう!ちょっと待って、カウンターから出る!!」 。。。え? そこからまるで映画のシーンが変わるかのように雰囲気がガラッと変わった。 カウンター越しに1mとないロージィがみるみる100mぐらい離れたように感じた。 反対にエルメスが駆け寄ってくる姿は「ちゃらら~♪」とロマンチックなバックミュージックつきでスローモーションをみるようで、ハッと我に返ったら熱い抱擁をされていた。 エルメス「あ、ごめんなさい。今日はDVD、コピーしたのに、また家に忘れてきちゃったよ。」とささやくようにいう。 うぎぎ、そんなつもりじゃなかったのに! わたし(努めて普通のトーンで)「ああ、いいよ、全然急いでいないし。(←頼んでもいないのにRyuにアニメ映画をコピーしてくれると言ってくれたのだ。)」 バールが混んできた。 ロージィ「エルメス、休憩は終わりだよ!」 エルメス「わかった! じゃあね、カリッシマ。。」 よ、よかった。。この甘ったるい雰囲気から抜け出せた。 ちょっと待って。「カリッシマ(Dearの最上級)」?←「シニョーラ(奥さん)」から呼び名が変わってる! どうしよう。。カプチーノ代、今日も払えなかった。 お礼をしてこれからも気持ちよくバールに通うつもりだったのに、さらに行きにくくなってしまった。 このスーパー、うちから一番近いから行かないわけにいかないし、バールは入り口のそばで、Ryuは入場するたびにいつも「うきゃーっ!!(我を迎えたまえ!!)」と奇声をあげるから絶対気が付かれるんだよな。 仕方がない、ちょっとほとぼりが冷めるまで行かないでおこう。 と、今週1週間、他のスーパーを放浪していたのだが、だんだんわたしの体内のコーヒー成分が切れてきた。 カプチーノが飲みたいっ!! 悔しいが、わたし的にこの田舎町で一番おいしいのはスーパー「イル ジガンテ」のカプチーノなのだ。 ミルクとコーヒーの比率、ミルクの泡立ちぐあい、最後の一振りのカカオの分量、どれもこれもがわたし好みなのである。 しぶしぶ「イル ジガンテ」のバールに向かう。見えたのはロージィだけで、他にお客はなく、Ryuはまたまた喜びの奇声をあげ、わたしもホッとしてカウンターに向かった。 ところが。 ロージィはわたしを見るなり「あ、エルメスを呼んでくるわ。」とたちまち奥に引っ込み、替わってエルメスが出てきた。 ちょっちょっと。。 エルメス「はいDVD。ごめん、待たせちゃったね。」←待たせたのはわたしのほうである わたし「あ、どうもありがとう。DVD代払うね、おいくら?」 エルメス「いいんだよ、カリッシマ。それとこれから、カウンターがぼくだけのときには、カプチーノ代払わなくていいからね、財布はちゃんとかばんにしまっておいて。」と甘くウインクした。 わたし「。。。ありがとう。」 う~~~~ん、これからどうしたらいいんだろう? この男、エルメス推定年齢35~36歳。既婚子供2人。ちょっと「シンプソン」の漫画屋の主人似。 年下ってとこしか好みじゃないんだけど。。。違) それに日記もどうしたらいいんだろう? 毎回書くたびに簡潔にまとめられなくて長くなって、これ書き上げるのに2日もかかってしまった。 もっと短くしてなるべく毎日更新したいのだけど。。。。
2009.02.21
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現在Ryuは週2回、隣の市でボランティアのお母さんたちがやっている、無料の保育所に通っている。 ラテンの血が争えないのか?大勢で騒いでいることが好きな彼は、ここに通って、 まだハイハイしかできないのにお遊戯に参加したり、 家ではいやがって食べないバナナやりんごもよその子のお皿から奪ってまでバクバク食べたり、 貧乏な両親がとても買えない様な、大きなおもちゃで遊ぶのが楽しくてしかたがない。 そしていつも終わり際には家に帰りたくなくて大泣きするのである。 しかし、ここは母親同伴なので、まあ本当の保育園に通う「慣らし」みたいなものだ。 おととい、9月から始まる市立の保育園の申し込みに行った。 大勢が好きなRyuは家でわたしと2人きりよりもよほど保育園のほうが楽しいに決まっている。 だが、義務教育ではないので、私立の保育園ほどではないが月謝が高い! こうして9月をリミットに仕事を見つけざるおえなくなるように自分を追い込む目的もあった。 わが市はゆるくて、条件として、共働きでなくてもいいし、9月の段階で2歳に達していなくても、2007年12月生まれまでの子供はOKなのだが、近隣の市ではそうではなく、自治体によって違うらしい。 申込用紙は3枚。 1枚目はRyuの名前や住所などの基本データー。 2枚目は「カトリック教の授業を受けさせますか? はい いいえ」 3枚目はカトリック教の授業を受けさせない場合において、どんな授業を受けさせたいかの一覧があった。 Ryuは去年5月に初来日した際、春日大社でお宮参りをした。 わたしとしては「せっかく日本に行ったんだから着物を着せてお宮参りの写真を撮りたいな~。」ぐらいの軽い気持ちだったのだ。 が、神社の別殿にて神妙な笛太鼓の生演奏が奏でられる中、Ryuは立派な桐だか檜だかのベッドに寝かされて、神主さんが長々と祝詞をあげ、巫女さんが鈴がたくさんついた棒でシャンシャンとなでるのを見たときには「ああ、お宮参りって神道の洗礼式だったんだ。」としみじみ思った。 というわけで、Ryuは今のところ神道なのである。なので、何の迷いもなく「カトリック教の授業を受けさせない。」に印をつけた。 おっと「え~、カトリックの教えはやっぱり知っておかないと。。」 わたし「何言ってるの?あんたもカトリック教じゃない(エバンジェリック)くせに。」 しかしその夜中、考えた。 子供にカトリック教を受けさせたくない親ってどんな親? 日本人のほとんどが仏教徒のように、イタリア人の大半はカトリック教だ。 それ以外の宗教って、イスラム教、ヒンズー教、仏教、神道、儒教、ブードゥ教、真光教、オウム教、スパゲッティモンスター教、Etc... 当たり前だけど、みんな外国の宗教か、カルトじゃん? ってことは、Ryuのクラスメイトは外国人か、カルトな怪しい親を持つ子供。。。。 NNNNNNNN NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!! Ryuにはイタリアに住んでいる以上、やっぱり外国人よりも多くのイタリア人と交わって欲しいし、カルトな人々とはやはり関わりになりたくない。 わたしが小学生の頃、転校生がやってきて、自己紹介のときに「はじめまして!挨拶代わりに◎◎教の踊りを踊ります!!」と唄いながら踊りだしたときにはクラス全員で凍ってしまったことを今でも忘れられないのである。 よく考えたら、かく言うわたしも小学生のころはプロテスタントの日曜学校に通っていたが、今ではすっかり無宗教だ。 カトリック教の教えぐらいは、知っておいても無害だろう。 将来、どんな宗教を信じるかはRyuに任せよう。 そういったわけで次の日の朝、「カトリック教の授業を受けさせる。」に印をつけなおして提出した。 受付のおばさん「はい、じゃ受け取っておきますね。」 わたし「あの、受領証とかなにかあります?」 受付のおばさん「いいえ、以上ですよ。こちらから連絡しますから。」 わたし「あの。。いつごろ連絡があるのでしょう?」 受付のおばさん「あるときですよ。」 わたし「。。。。。。」 しまった、申込用紙のコピーぐらいとっておくんだった。 イタリアだってのに、基本的なミスだ。 連絡、あるだろうか。。。?
2009.02.14
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Ryuは離乳食を食べなくなって、というか、離乳食なんて食べていたっけ?というぐらいずいぶん早くから、大人と一緒のごはんを食べている。というか、Ryuが大人のものを食べたがるようになってから、わたしたちが毎回幼児食のような刺激のない、柔らかいものばかり食べるようになったのだが。ところが数ヶ月前までは、たいがいなんでも食べていたのが、最近になって、パンと白ごはん、デザート類しか食べなくなってしまった。これでは栄養が偏る!と苦肉の末、今夜のおかずの肉じゃがをごはんに混ぜ込んで小さなおにぎりにして出したところ、わざわざおにぎりをひとつひとつ崩し、肉やじゃがいもをていねいにつかんで、これまたていねいに下にぽいぽい捨て、一粒一粒、米だけを食べているのである。この光景には腹が立ったと同時に、感服してしまった。このきめこまやかさは、いったい誰に似たのだろう?Ryuはたいてい午後1時ごろに30分ほど昼寝をする。正直、近所の3週間早く産まれた赤ちゃん友達クラウディオみたいに毎日2~3時間ぐらい寝てくれたら、家事もできるし、ブログもまめに書けるのに、と思う。遅まきながらも1歳が過ぎて、やっとハイハイ、つたい歩きを始めた彼には家でじっとしているのがたまらないのだ。(せっかくのコーデイネートもよだれかけとスリッパでだいなしである。。)なので午前はイル ジガンテ、午後からはグローボ、というように毎日ふらふらとショッピングセンターを幽霊のようにあてもなく徘徊するのが日課となってしまった。午前のイル ジガンテなどはしょっちゅう通っているので、Ryuは大忙しだ。なぜなら、店員さん、警備員さん、買い物に来る近所のシニョーラたち、駐車場で小銭をせびっているジプシーのお姉さんとまで親しくなり、手を振り、笑顔で「あう~!」と話しかけなければならないのだから。おかげでわたしは時々ここのバールのカプチーノがただになるので、うれしい反面、行きたくなくても毎日通わなければならないような強迫観念にときどき駆られることがある。まるで仕事に行くときのようである。(お客なのに。。)しかしこの間、大雪で家に閉じ込められてしまった。Ryuは家にあるおもちゃにはすっかり飽きて、すぐにぐずりだしたので、ひさびさに宮崎駿の「魔女の宅急便」とディズニーの「ラタトゥユ(日本題『レミーの素敵なレストラン』)」のDVDをつけてみた。気がついたらRyuはひとりでぐずぐず言っていて、わたしだけ集中して観ていた。「魔女の宅急便」で主人公のキキの魔法が弱くなって焦るシーン。「わたしは魔女です、わたしから魔法を取ったらなんの取り得もなくなるんです!」ハッとした。わたしからデザインを取ったら何が残る?Ryuを妊娠したときから、いや、ミラノで8年間勤めてきた会社があやうくなりかけたときから、仕事が減って、会社にはただ「通っている」だけ状態になったときからデザインに対するパッションをすっかり失ってしまった。考えたら、あのときから取り得がなくなってしまっていたわけだ。森に住む彼女の画家の友人が「わたしもね、そんな時期があった。そんなときはじたばたするしかないよ。」。。。。。。。ああ、じたばたさえすることなく、いったい何年情熱を殺して、「生活する」だけを取って無駄に過ごしてしまったんだろう?しかし「ラタトゥユ(日本題『レミーの素敵なレストラン』)」の美食家エゴーの記事でじーんとした。「誰でもアーティストになれるものではない。しかし誰もがアーティストになれるのだ。」。。。。。。。ああ、そ~だよ。今からでも遅くない、努力しよう。わたしにとって、アニメは時々バイブルだ。こうして自前のちゃらんぽらんさに拍車をかけているのだろうか?それはともかく、ネット生活から離れているうちにネット上でのコミュニケーションがすごく変わってきたと思う。以前に比べて、情報の交換なども専門のサイトを探さなくても、質問を投げかければ誰かがとても正確に細かく答えてくれて便利になった。と同時に気軽にちゃらんぽらんなことを書くことが出来なくなった気がする。自分のコメントを読むひとがわたしと同じようにちゃらんぽらんなひとばかりではないのだ。なんだかネットが息苦しくなってきた。もちろんちゃらんぽらんがいいわけがないのだけど、以前はネット上で気軽に知らない人と知り合いになり、気軽にコメントを交わして親しくなり、そしてリアルで遭ったときにも、はじめての人でもすっかり昔からの友人のように会うことが出来たような気がするのだけど。それはブログを通じての出会いが多かったからだろうか?ブログはコミュニティなどと違って、個人的で一方的な情報の発信だから、それに同意してくれるひとばかりと交信していたためなのか?最近、書く時間がなくなったことでブログに対するパッションもネットサーフィンするパッションも失せてきたので、長年書き続けてきた楽天日記を閉じようかと何度も思った。(最後に書いた去年11月の日記でコメント67通中、58通がスパムだったし。汗)しかし、おっとが買ってきたり、もらってきたり、拾ってきた無駄なものは簡単に捨てられるけど、自分のものはなにかと捨てられない性分なので、次の更新がいつになるかはわからないけれど保存しておくことにした。****ただ、スパムがうざったいので楽天日記のコメント欄、BBS欄はクローズします。もうこんなにご無沙汰じゃ、読んでくれるお友達も少ないだろうし、わたしも返事ができないので。。。それでも日記でも読んでくれた方、ありがとう。そしてごめんなさい。わたしは元気です。Ryuもおっとも、エルトンもウイリアムも、その他おっとのヤギ友達たちも元気です。そのうちパッションが復活したらまたお会いしましょ~っ!!ではでは!!!!!
2009.02.07
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子供の教育に悪いから、味噌汁にパンを浸して食べるのはやめてほしい、と今更おっとに言っていいものなのか日々悩んでいるいくきーとです。お久しぶりです、お元気でしたでしょうか?前の日記から3ヶ月近くも経過。。。もう日記とも月記とも呼べませんが、まだ年記になっていないだけマシでしょうか??ただ今11月1日早朝5時近く。。。昨日の夜、Ryuに添い寝でうっかり爆睡してしまい、「33%オフ10月31日まで」のインターネットで注文できる写真カレンダーの締め切りに間に合わず、たった数時間差で15ユーロも値上がりして、悔しくてもう一度寝てることが出来なくなったので久しぶりに日記を書くことが出来ました。ああ、せっかくここ数日かけて作ったのに。。。ず~いぶん前から夏の豪華海外バカンスの日記を書かなければ、と思っているうちに月日が過ぎ、「せっかく途中まで書いたのに。。」と思いながらも書く時間がないまま、ミラノはすっかり冬に突入。そして書く気が失せ。。。という言い訳を並べ立ててもしょうがないですね。楽天には今更UPするのは恥ずかしいので、忘れた頃に(来年の夏までには!)こっそりこちらの旅サイトにUPしようかと計画中です。わたしは元気です。Ryuもおっとも元気です。Ryuはもうすぐ11ヶ月になります。なんとまだ伝い歩きはおろか、ハイハイもここ数ヶ月「あ、もうすぐしそう。。」状態で出来ないままです。。。それでも屋内では、座ったままボールを遠くに投げてわたしに「取って来い。」と命じたり、誰かに抱っこしてもらったら「そのまま歩いて窓の外の景色を見せろ。」など自分の足のかわりに上手にまわりの人を使いこなすことだけは覚えました。外では「まあ、なんて可愛い坊やなの!」と言われるのがうれしいらしく、笑顔を振りまき、すれ違う人々に手を振り、人々が気がつかなければ気がつくまで「あっ!あっ!あ~~っ!」と叫んで何か言ってもらうまでやめない愛嬌者です。そして5月の日本滞在の際、あれだけギャン泣きしてウン万円もする写真屋さんを手こずらせたのに、この間、6枚5ユーロ(700円ぐらい)の滞在許可証用の証明写真を撮ったところ、一回で「なんでこんなときだけいいお顔をするんだっ!?」というぐらいのショットを撮らせてくれたので、証明写真だけではもったいないから近況報告用にUPしておきます。(「ちびっこモデル大募集!」の宣伝に使えそうだ。)この間からずいぶん成長しましたね。↓おっとは相変わらずステファノ2に手こずってます。ステファノ2はこれだけのためだけに働いているとしか思えないぐらい、うちの郵便受けにはしょっちゅう罰金のお知らせが入っていて、毎日郵便受けをのぞくたびにヒヤヒヤします。最近は我が家の大黒柱、2人の従業員のボスになったになった責任感からか?おっと自身のネタはあまり提供してくれないのでホッとしています。わたしは。。。とうとうクルマの運転歴14日目を迎えました!自分が運転できる日が来るとは夢にも思わなかった。思い起こせばイタリアではじめて運転を試みたのは4年前。こんなことや、あんなことが懐かしい。というのも、あれだけわたしたちのために尽くしてくれたフォード マニュアル もんで男くんがわたしとRyuは最後のお別れも出来ないまま、とうとう逝ってしまい、かわりに我が家に豊田 オートマ びっつさんがいらして、わたしに手取り足取り運転を教えてくれたおかげなのです。どうしてものぐさな人種がほとんどのイタリアでクルマの90%がマニュアルなのか不思議で仕方がないのですが、オートマな彼女はわたしにやさしいです。。Ryuはわたしが横に座るといつも大騒ぎで一睡もしないのに、わたしの運転が安心なのか?いつも運転席に乗り込むたびに「はああ。。。」と大きなため息をつき、気絶するように寝てくれるので落ち着いて運転ができます。そういうわけで、ここず~~~~っと雨なのにもめげず、今日はイル ジガンテ、明日はエッセルンガ、と毎日スーパーマーケット散策を楽しんでおります。半年後ぐらいにはあのカオスのミラノ中心街までクルマで行けるようになるのが目標です。(目目さん、ちずさん、ありまりちゃん、ひろぽん、るみぶー、その他のお友だち~!待っててね!!!)しかし。主婦業、そろそろ精神的にも経済的にも疲れてきました。早く次の職を見つけないとなぁ。あ、Ryuの目が覚めてしまった。なんか中途半端ですが、また深夜に起きることがあればUPします、ではでは!!PS.タイトルの2ヶ月と3ヶ月、間違えてました。最近時間の感覚がなくなってきてます。。
2008.11.01
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先日、久しぶりに会ったイタリア人の友人アントネッラに「しばらく会わないうちに、日本人ぽくなったわね。」と言われた。わたし「ど~ゆ~こと?」アントネッラ「誤解しないでね、褒めてるのよ、褒めてるの!」褒めている?気になる。。。以前のわたしはいったい、ナニだったのだろう?ヤギだけではありませんように。。。***ところでおっとは、先日、最終日だった運送業者に義務付けられた講習から帰ってくると、赤い人となっていた。おっと「痛いよ、全身が痛い。氷ある!?」わたし「どうしたの?」おっと「講習会の近くに日焼けサロンが出来て、初日10分間の無料サービスをしていたから、ウイリアムと入ったんだ。そしたらこのざまなんだよ!」わたし「。。。。。あのさ、毎日車焼けしてるのに、日焼けする必要あるの?」おっとと一緒に来たウイリアム「タダだったしな。だいたいこいつは大げさなんだよ。おれはちょっとヒリヒリするけどこんなに文句を言わないぞ。」わたし(心の中の声)「それは君はもともと黒いからだと思うな~、ってか黒い人も日焼けサロンを利用するのか。。」それはともかく、おっとはいつも大げさなのである。わたしは捻挫しても痛みを我慢してどうすればいいかすぐに考えるが、おっとは肩こりだけでも「痛いよ、つらいよ。」とうるさいだけで、自分で肩の体操も何もしないのだ。このあとおっとは水シャワーを「熱い、痛い!」とわめきながら浴び、帰りに薬局で買ってきたベビーパウダーを水で練った白い泥のようなものを全身にどこかの原住民族のまじない師のように塗りたくった。「苦しい。。。熱い。。。。」と弱弱しくつぶやきながらベッドに上がり、中央で大の字で昼寝しているRyuを起こさないように身をちぢめてスミで寝ている姿は思わずブログにアップしたくなるぐらいおかしかったが、さすがに我が家の恥になるので我慢した。この後、数日わたしとRyuに被害が及ぶことになる。シーツだけでなくおっとが触れるものは全て白い泥まみれとなった。触れるものが金になるなら大歓迎だが、大迷惑である。わたしはおっとに近づかないようにしていたが、Ryuもたちまちまじない師に呪いをかけられた子供のように真っ白。この数日後にはおっとの皮がべろべろ剥けてきて、Ryuは髪の毛もほとんどないのにフケだらけになり、家の床中、おっとの皮まみれで踏むとにちゃっとして鳥肌が立った。さらに数日後にやっときれいに日焼けしたおっとが出来上がったのであった。日焼けサロンって行ったことがないけれど、行った人はお金を払って、こんな思いをして夏に向けて日焼けをするものなのか?イタリアにいてもやっぱり「美白」がいいわたしには、まったく理解できないことなのであった。****今年は9月に一週間の豪華海外バカンスに行くこととなったので、8月にはまったく予定を入れなかった。しかし、周りが次々海に、山に、と旅立っていくのを見送っているとなんだか切ない。そういえば、ここ近年お盆お決まりのジェノバのおっとのいとこルイスの家行きの話がまだ出てこない。あの家では客用ベッドはシングルひとつなので、毎年おっととぎゅうぎゅうに寝ていたが、今年はRyuもいるし、無理だ。ここはお誘いがかかる前に先手を取って、今年はいとこたちに我が家に来てもらおう。そうすれば、Ryuも環境に変化がないまま楽しめるし、娘のカティちゃんが好きな山にも行ける。。。。。。とおっとに相談した。おっと「それはいい考えだね。すぐにルイスに電話するよ。」となぜかウイリアムに電話をしてからルイスに電話をしている。スペイン語なのであまりわからなかったが、山の話となぜか海の話をしている。。?おっと「お盆は今年もルイスの家だ!」な。。。。。。。なんでそうなるねんっ!!!!!????????わたし「ちょっと!今年はRyuがいるから我が家に来てもらって山にしようって、言ったでしょ!?」おっと「ウイリアムがね、8月末にアメリカの奥さんと娘のところに行ってしまうのは知ってるよね。その前に一緒に海に行きたいっていうから、一緒にルイスの家に泊まることに決めた。」わたし「アメリカって言ったって、たかが半年で永久じゃないでしょ?それにルイスの家はシングルベッドひとつしか空きがないのにどうやって寝るのよっ!?」おっと「なんとかなるさ。快適さばっかり考えてたらどこにも行けないぞ。」わたし「今年はRyuがいることをお忘れなく。それでも行くってなら、わたしたちはここに残るよ!」おっと「自分の意見が通らないから行かないなんて、勝手すぎるよ!君がぼくの友達やいとこを嫌いなのは知っているから好きにすればいいさ。」わたし「意見が通らないって、わたしに前相談もなくいつも決めてるじゃないの!?あんたの友達やいとこが嫌いだったら、うちに招待しようだなんて言わないわよ。わたしはわたしのわからない言葉で勝手にいろいろ決めているあんたがおもしろくないのよっ!!」Ryuが顔を真っ赤にして泣き出した。それもそのはず、授乳中にこのケンカである。なんとかなだめて寝かしつけて、ケンカは中断の形となった。次の日、わたしはしみじみ前の日のケンカについて考えた。この日ばかりでない。このブログをはじめてからずっとのこと。わたしはこのおっと、エクアドル人と結婚して以来、実はずっと彼の文化を、食生活を、習慣を、国のレベルを、つまりアイデンティティーを否定し続けているのではないか、ということ。普通に家の中だけで彼の画像を見れば、仕事は頑張っているし、子育てにも協力的だし、家事も手伝ってくれるし、理想的なのだ。ところが一歩外に出て、そこにヤギの影が差すと変わる彼がどうしても受け入れられない。否定ばかりしているから、全てが苦しいし、楽しくないのだ。受け入れる努力はしてきたし、だいぶ慣れてきたところもある。しかし、どうしてもいろいろなことが未だに受け入れられないのだ。では、どうして結婚したのだろう?やけくそだった?恋は盲目だった??こんなに頭をぐるぐるさせて考えても、結局は毎年のようにジェノバに行って、今年はRyuと床にでも寝る形となるのだろうな。日本ならそれでもいいけど、イタリアでそれってかなり屈辱的。。嫌だな~。子育てだけで不毛な気分に陥っている?ちょっと愚痴日記。あんまり飲ませないで。。。
2008.08.09
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こんなほとんど日記と言うより、月記になってしまったブログにいつもコメントをいただいて恐縮しております。最近お返事ができないので申し訳ないのですが、やっぱり書いてもらえるとすごくうれしいです!***先週末、Ryuが夏風邪を引いてしまった。育児書には「生後6ヶ月を過ぎると母体からもらった抗体が切れて病気にかかりやすくなる。」とあったけど、まったくその通りだ。さて「ステファノ2」とは「ステファノの物語パート2」ではなく、「ステファノ 2(ドゥエ)」の話である。わたしには今とっさに思いつくだけでも5人、ステファノという知り合いがいる。そのうちのひとり、わたしがミラノに着いた時から知っているステファノに言わせると「クラウン」という意味らしい。てっきり道化師かと思って「変わった意味だねえ。」と言うと「冠という意味だ。」と怒られた。あとの2人のステファノは日本人友達の旦那さんたち。残りの2人のうちのひとりはうちの従業員第一号の元ピアニスト。そして最後のひとりがステファノ2(ドゥエ)。5月からうちで働き始めた従業員2号である。(やっぱり雇うならイタリア人?)従業員2人ともステファノなので、元ピアニストは「ステファノ1(ウノ)」、新入りは「ステファノ2(ドゥエ)」と呼ぶことにした。いくらからもうとしてもクールでなかなかからめないステファノ1に対して、ステファノ2はちょっと違うようだ。5月1日はわたしはまだ日本にいたのでスカイプでおっとと話していた。おっと「今日、ちょっと問題があってさ。」わたし「どうしたの?」おっと「新しく雇ったステファノなんだけど。。」わたし「新しく?え、ステファノ??新しくないじゃん。」おっと「先週、ステファノを雇うことに決めたんだ。そいつがね、初日に配達に行った、ある大きな邸宅でブザーを鳴らして門を自動で開けて貰ったら、門の中からいきなり2匹の番犬が飛び出してきて噛まれて、即救急車で運ばれたんだ。」わたし「新しい従業員がステファノ?そんなこと全然知らなかったよ!?ちょ、ちょっとまだ話が読めない。ステファノが犬に噛まれたの?どうして??彼、犬飼っているのに。」おっと「だから別のステファノだよ。同じ名前なんだ。そいつが犬に噛まれて1週間入院になった。」わたし「わ~、初日からついてないひとだね。入院費用とかはその犬の飼い主が負担してくれるの?」おっと「もちろんそうだし、社会保険も利くからね。」わたし「ああ、よかった。」おっと「ちっともよくないよ!1週間、彼が働かなかったらその分、収入がないわけだしぼくが困るよ。すぐにワゴン車はレンタルして、あいつの配達地区には別の人を手配して今日は大変だったよ。」まったくだ。雇用主って大変だなと、このときはまるで他人事のようにスカイプを切った。日本から帰ってきたある朝。Ryuをあやしているとおっとから電話があった。「今からステファノ2がそっちに行くからテーブルに置いてある書類を渡してくれる?」そうか、来るのか。もうひとりのステファノって、どんなひとだろう? おっさんかな?青年かな? かっこいいかな?やぼいかな?? 一日家で子育てだけに明け暮れている主婦の想像力は果てしなく膨らみ、いそいそと擦り切れたTシャツを着替えにかかった。しばらくして玄関のチャイムが鳴った。覗き窓越しに制服が見えたので、同じくよそゆきに着せ替えたRyuを片手に抱いて鍵を開ける。外にはたばこくさいヤンキーの兄ちゃんがせかせかした様子で横を向いて立っていた。ヤンキーの兄ちゃん「あの~、取りに来たんだけど。」わたし「え、ああ。ステファノね。書類はこれ。」と書類を片手で持ち上げようとしたが重かった。「ちょっと家の中に入って取りに来てくれる?」ヤンキーの兄ちゃんは無表情で家に入り、すれちがいざまにRyuをチラッと見て「ヘヘッ」と片頬をゆがめて笑い、さっと書類を取ると「さいなら。」とドアも閉めずに行ってしまった。なんだ、あいつは。。。?はじめて、しかも社長宅に来たのなら社長夫人とそのお子ちゃまに挨拶ぐらいして当たり前なんじゃないの?!その夜。わたし「ねえ、どこからあのステファノ見つけてきたの?あんなので大丈夫なの?わたしの顔も見なかったんだよ。」おっと「そうなの?Ryuのこと「可愛い坊っちゃんですね。」って言ってたよ?大丈夫、経験者だよ。若いから礼儀は知らないかもしれないけど、仕事は知ってるよ。」なんだか嫌な予感がしながらも、それ以上の追及はやめた。仕事を辞めて以来、わたしはおっとの仕事に口を出さないことに決めたのだ。だからおっとが困っても口を出さない。それから何週間か過ぎたある日。またおっとから電話があり「後10分でうちに着く。今夜はステファノ2がうちで夕食を食べるから。」と言ってきた。この日おっとは仕事の帰りにわたしの友人宅から新古品のソファをもらってくる予定があったので、ステファノ2が手伝ってくれているんだ、とすぐさま思った。なんだ、なかなかいいところがあるじゃないか。しばらくしておっととステファノが帰宅してソファを2階に運び入れはじめたので、わたしはそれにあわせてパスタを茹で始めた。2階からどかどかとステファノが「いや~、今日はさんざんな一日でしたよ。」と降りてくる。あいかわらずたばこ臭い男だ。そして今回は強烈な体臭がして、クラクラくる。ソファひとつがそんなに大変?わたしはちょっとムッとしながらテーブルにパスタを並べた。ステファノ2「奥さん、このラグーソース、おいしいですよ。」わたし「そりゃどうも。市販の瓶詰めソースです。」おっとがすかさず「彼はイタリア料理のシェフと同居していて口が肥えているんだ。」とフォローだか、非難だか、わからないコメントを出す。ステファノ2「今日は一日で救急車にパトカーで事情聴取で、いろいろあってクタクタ。あ、奥さんごちそうさま。お料理がお上手ですね。」わたし「事情聴取?人身事故でも起こしたの?」ステファノ2「え、奥さん。よくわかりましたね!」わたし「あははは。」おっと「笑い事じゃないよ、ホントだよ。」わたし「げっ!?」おっとはわたしに携帯のカメラで撮ったワゴン車を見せた。見事に後部がへしゃげていた。こ、この野郎。。。ステファノ2「相手のクルマのおばさん、携帯を見ながら駐車場で発進しかけてたぼくに突っ込んできたんですよ。彼女シートベルトをしていなかったから顔面血まみれになって救急車で運ばれたんです。」わたし「うわ~。。。でもよかった、ステファノは悪くないんだ。」おっと「それが、おばさんはステファノが悪いと言ってるんだ。今回はすぐに警察を呼んだし、どちらが悪いかわかるまで3ヶ月かな。」ステファノはこのあと、疲れきった顔で出て行った。可哀想なおっとはもっと疲れた顔で座り込んでしまった。ほんの3日前、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、もう4年は行っていない夏のバカンスに1週間行くことを決めて、旅行代金12ヶ月ローンで頭金を払い込んだばかりだ。たとえステファノ2が正しくて、ワゴン車の修理代が支払われるとしても、前回の我が家のモンデ男くん事件から考えると1年後ぐらい。しかしワゴン車はすぐに修理しないと仕事にならない。一応我が社には規則があって、従業員が事故を起こした場合、ワゴン車の修理代は従業員本人持ちなのだが、善悪がわかるまで今のところはおっとが自己負担しなければならない。わたしの収入はもうないというのに、わたしたちはこれから生活できるのだろうか?そして先週末。暑い日だった。それでも毎週お決まりの食料買出しに冷房のガンガン効いたスーパーに行かなければならないので、Ryuに少し厚着をさせて午前中でかけていたおっとの帰りを待った。おっとが帰ってきた。ステファノ2と一緒だ。「今からクルマの販売代理店に行かなきゃいけないんだ。帰り道にスーパーに行こう。」クルマ。。?そういえば我が家の長老モンデ男くん、1年前からエアコンも壊れて修理するより買い替え時なので、ずっとお買い得なクルマを探しているのだ。しかしいきなりだな。連れて行かれた販売代理店はただのポンコツ屋で、2つの環状線にはさまれ、日差しとスモッグとほこりで気を失いそうな場所だった。わたしは慌てて汗だくのRyuに着せていたものを脱がせて下着だけにした。ステファノ2は「ボス、これなんっすよ!」と、ほこりにまみれた95年製のクルマに駆け寄る。なんだ、ステファノ2のクルマか。「かっこいいでしょ~?これが諸経費込みでたったの2000ユーロ!運送業者するのにやっぱ、クルマのひとつも持たないとね。」プレハブ小屋の中から上半身裸のおっさんが出てきた。「今日はうちの社長が留守だからクルマは売れないよ。月曜に来てくれ。」ステファノ2「そんな!今日はうちのボス連れで来たんだ。現金一括払いにするって前もってあんたのとこの社長と話もついてる。」現金一括払い。。。ワゴン車の修理代も払わなきゃいけないかもしれないのに豪勢だな。おっと「来月の給料いらないからって、前借りしてきたよ。」そうなのか。尻の青いちんぴら野郎だな。一人ぐらしなのに生活費とかどうするの?わたしとRyuはコンクリートの壁のわずかな日陰にへばりついて見ていると、3人のちんぴらはそれから押し問答を繰り広げ、結局なんの収穫もないまますごすごと戻ってきた。おっと「。。。スーパーに行こうか。」スーパーに着くと、おっととステファノ2はベビーカーを押して真面目な顔でしゃべりながらあっという間にどこかの売り場に消え去ってしまった。わたしは野菜を選ぶ。寒い。。。ベビーカーに全部Ryuの上着は乗っているけれど、おっとはちゃんとRyuに着せてくれているだろうか?買い物が終わって、どこからともなくおっとたちが現れた。Ryuを見ると下着のままで鼻水をたらし、手足が冷たくなっていた。わたしは頭の中で激怒、しかしこんなヤギ野郎にRyuを任せてしまったわたしが一番悪い。Ryu...ごめんね。ひどく哀しくなった。あれから1週間。Ryuは2日ほどひどいせきとくしゃみと鼻水で苦しんでいたが(そんな中、無理にバーゲンに連れ出したおっとにさらに激怒)、今はただのハナタレ小僧にまで回復した。そして昨日はステファノ2の駐車違反切符が書留で届いた。(ちなみに切符も当然従業員持ち。)ちなみにステファノ1は2年ぐらいうちで働いているけど、まだ切符を切られたことないのにな。そんなステファノ2は南イタリアプーリア州出身の21歳。14人兄弟の2番目で、一番末っ子は17歳だそうである。そんなに短期間で次々と出産?長男の結婚式には2000人の親戚が参加したそうだ。さすが謎に包まれたプーリア州と、ステファノ2である。これからネタに欠くことがない予感はするが、他人事と笑っていられないのであった。とーちゃん、しっかりしておくれよ。
2008.07.12
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毎回おひさしぶりです。日本から帰ってきて早くも1ヶ月と1日が過ぎてしまいました。うちのRyu、6ヵ月半が過ぎました。離乳食はまずいのか、なかなか食べてくれず、寝返りも未だに打てませんが(というか出来るのだけど面倒くさくてやらない感じ)、ずっしりと重くスクスク育っております。最近「マンマ、マンマ」と連発するのですが、これは最初の言葉として数えて記録していいのか、ワケがわからず言っているそれとも赤ちゃん語なのか、悩むところです。しかし「後追い」っていうんですか?起きているときは5秒以上、やつから離れると泣き出すので何にも出来ません。一日一回1時間ほどのお昼寝時に家事を済ませるのが精一杯。だから、ボローニャのNaocciがまめにブログを更新してすごいな~、と感心していたらNarちゃんは「一人遊び」がお上手らしい。いいな、いいな~。うちのRyuの辞書に「一人遊び」という言葉は存在しません。*****4年ぶりの帰国で気がついたこと。最初の一週間、ろくに話せもしないイタリア語なのに、イタリア語から日本語に頭の中で訳してからしゃべっている自分がいた。例えば「わたしはこう思います。エクアドル人はヤギだと本当に。」などと変な文法でしゃべってしまったり。イタリアじゃ日本人と普通に話しているのになあ?イタリア語を混ぜないように、と思っていたからなんかいつも緊張してしゃべっていた。イタリア出発まで肌荒れに悩んでいたRyuのお肌が滞在2日目にしてつるつるに!!さすが軟水の効果である。イタリア人たちはこぞって「日本人って肌がきれいね、食べ物が違うからね。」と言うが食べ物よりも水が重要だということを実感したのであった。わたしも髪がぱさぱさで悩んでいたのが、イタリアに帰る数日前にはサラサラツルツルになってきたので、勢いで日本で流行り(?)の「ふわくちゃパーマ」なるものをあてたのだが、こっちに帰って来て一ヶ月。くちゃくちゃパーマで浮浪者のようになってしまった。 滞在中で使い捨てるつもりで擦り切れかけたソックスやパンツばかり持っていったところで気がついた。日本ではどこでも脱がなければならないのだ!幸にも不幸にも、パンツに関しては銭湯や温泉に行く機会はなかったのだが、ソックスに関しては実家、友人宅、医院、和風レストラン。慌てて新しいソックスとパンツを買いに走った。しかし靴を脱がない生活に慣れてしまうと、日本の生活は不便だ。外と室内で段差があるようなところだと大丈夫なのだが、最近バリアフリーのところが多くてつい、そのまんまあがりそうになる。それに実家、友人宅はともかく誰が何人履いたかわからないスリッパに履き替えることにすごく抵抗を覚えたのだ。 それとまあ予想はしていたが、どこにも行けなかった。それで家でTVばかり観ていたら関西だからか? 朝から晩までほとんど食べ物の番組ばっかり。。5週間もいながら一番遠いところで近所のマイミク、さくらちゃん夫婦にピッカピカの左ハンドルのアルファロメオ車で連れて行ってもらって大阪の友人宅。ドアツードアだったから、大阪らしい景色はチンチン電車の線路を車窓から見ただけ。電車は隣駅の自動車教習所まで一度乗ったっきり。Ryuを連れて近所ばかり散歩していて気がついたが、最近の日本の個人宅の庭はこぞってイングリッシュガーデンのようにきれいな花が咲き乱れ、柵のない家も多く、そうやって美しい庭を見せている家が多い。これをミラノでしたら。。。。?そういえば、ミラノのあるロータリーに市がバラを植えたところ、一晩で根こそぎ持っていかれてしまい、替わりに安いベコニアとかを植えるようになったニュースを見た。うちのような田舎町のロータリーもラベンダーが植わっているのだけれど、よく普通に摘みに来ているひとを見かける。柵のない家なんて、泥棒に「入ってきてください。」と言っているようなものだ。これから見ても「日本って平和なんだなあ。」としみじみ思った。さて、ともかくどこかに行きたいわたしは、ここ2~3年で出来た近所のイーオンにばかりRyuの散歩で通っていたら、しまいにRyuはイーオンの入り口に入るなり泣き出すようになってしまった。しかし、こんな奈良の田舎にまでいろいろな友人が、遠くは東京、城之崎のひとまで会いに来てくれてうれしかった。そして出会いの場はいつもイーオンの食堂街(実家に来てもらうと、母がわたしの友人の値踏みをするのがイヤなので。)。イーオンさま、本当にお世話になりました。あ、それから例外として、実家に日本在住86人中、関西在住4人という、希少なひとりのエクアドル人マルちゃん(偶然にもおっとと同名。)と奥さんのマイミクびーちゃんが来てくれたときには(初対面!)わたしの中のエクアドル人像がちょっと変わった。ところ変われば、性格も変わるのか??ヤギのお約束であろう、ビールを飲まなかったのでダースで買っておいたビールはその後、徐々に父の腹の中に納まることとなった。彼のその身のこなし、振る舞いは日本人以上に和を感じさせるおだやかなひとだったのだ(実際、お茶と着物の着付けが出来るらしい)。わたしの知っている日本人と結婚しているイタリア人も、ほとんどは同じような雰囲気を持っているけれど、彼は彼ら以上に日本人ぽかった。でも彼らの去年の結婚式のときのアルバムを山のように持ってきてひろげたときには、「やっぱりエクアドル人だ!」と思ったけど。。。笑写真で見たエクアドルのキトの郊外で挙げた結婚式が素晴らしくて、幸せそうで、新婚旅行のエクアドル旅行も、本当に楽しそうで、わたしたちの新婚旅行で「もう2度と行きたくない!」と思ったエクアドルに行きたい気持ちにさせてくれたのでつい、「次は一緒に行こうよ!あっちで落ち合おう!!」と叫んだら、なんだかうれしくなってしまって3人で鳥肌が立ってしまったのである。変わったのはエクアドル人像だけではない。イタリアに住む知っている限りのエクアドル人を言葉にするなら「なんでも食べてしまうアホなヤギ」か「ひと慣れしたたちの悪い野性のサル」なのだが、TVで人気のジェロさんや、その後、またまたさくらちゃん夫婦に連れて行ってもらった生駒山にある牧場つきのスリランカレストランのスリランカ人、大阪の友人宅で知り合ったガーナ人などを見ても、日本に住む外国人って、おだやかで普通だと思ったのである。ってか、以前はこんなに簡単に近所で在住外国人に遭遇することなんてなかった。それに今回の日本帰国ではこちらではRyuを預けるひとがいないから行けなかった医者にまとめて行くこと、RyuにBCG接種を受けさせること(ちなみにイタリアでもかかりつけの小児科のレシピを持ってASLに行けば有料で受けれるそうですよ、イタリア在住の小さい子持ちのお母さん方。)も目的だったので、市役所に保険証を作りに行ったら、たまたまアメリカから帰ってきたばかりという女性も保険証を作る列に並んでいて、日本もインターナショナルになったものだと思った。うちのおっとも、もし日本に移住したら、性格変わるだろうか?ちょっと真剣に日本移住を考えてもいいかもしれない。。そういえば滞在中にブラジル移民100周年にあわせてか?日本に移民を受け入れよう、とニュースで政府が推進しているのを見て疑問を感じた。確かにきつい仕事の職人職などが後継者不足だから外国人を受け入れよう、というのはわかる。イタリアも数年前、安い労働力としてどんどん移民を受け入れすぎて外国人が飽和状態になり、外国人犯罪が増えて今度の選挙では「移民を叩き出せ!」などと過激なスローガンを掲げる政党も出てきた。受け入れてしまうのは簡単だ。でも増えすぎたから「追い出せ。」はかなり勝手だと思う。そんな移民のひとりと結婚して自分自身もイタリア移民になっている自分が書くのもなんなのだが、せっかく日本は島国で、陸ルートで不法に外国人が入ってくることがないのだし、やはり移民に関しては今までどおり慎重に受け入れて欲しいものである。話は変わるが、Ryuがいることで日本にいた間も、こちらでも知らない人に気軽に声をかけられるようになったし、今まで気がつかなかったようなことにも目が行くようになった。近所では結婚して遠くに行ってしまった小学生時代の友人などが「1ヶ月前から実家に住むことになったのよ。」とイーオンで声をかけてきたり、逆にわたしから「もしかして、◎◎ちゃん?」と声をかけて旧知の仲が何十年ぶりに戻ったり。イタリアではRyuを見るとたいていのひとは手をひろげてニコニコしながら「まー、可愛い!」と近づいてきてRyuの足やら手を「コザチェ、コザチェ、?(何よ、何さ?)」などと言いながら握ってブンブン振ってくるのだが、日本では例えばイーオンのエレベーターから降りようとすると、すれ違いに乗ろうとした人が、Uターンしてはたっと戻ってきてじっとRyuの顔を凝視して「あ、可愛い。」とつぶやいて(にこりともせず)私の顔を「親子なのに親はブスね。」というような目でちらっと見てエレベーターに乗り込んだり、またもやエレベーターの中でじっとしていると隣に乗ってきた女性がRyuをじっと見ながらぼそっと「目。。。。大きいですよ、ね?」とこれもまたにこりともせず言って来たり、100均の店をうろうろしていたら「あの~、そのベビーカーおいくらぐらいでしたか?」と声をかけてきて「あら、可愛い坊やね。」と付け足しのように褒めてくれたり、ところ変われば、赤ちゃんとの接し方も変わるものだと思った。そうそう、帰りの飛行機では九州からの団体旅行のおばさまたち、Ryuをたんとたんと可愛いがってくれてありがとうございました。Ryuも上機嫌で頭がおかしくなったのかと思うぐらい笑い続けていましたね。反対に空港まで迎えに来たおっとが「ベントルナート(お帰り)!」と駆け寄ったとき、すっかり日本語漬けになったRyuがけげんそうな顔をしたのをお見せしたかったです。家に着いてドアを開けたら、雨だったので部屋いっぱいに洗濯物が干されていた。5週間前に出したクリーニングは到着した日の日付で受け取られていた。冷蔵庫で5週間前の人参にかびが生えていた。おっとはこの5週間、何していたんだ?トイレに座ったら、便座が冷たくて飛び上がりそうになった。日本のはいつも温かいし、便座シートがあるものなあ。まだ腱鞘炎が治らない。日本で通っていた鍼灸医院のマッサージが恋しい。気がついたのはこんなものかな?では次、またいつになるかわかりませんが書きに戻って来ます!写真左は日本の元会社の同僚たちからお祝いにもらったバギー。写真右は生まれたときに買っためちゃくしゃ重いイタリア製。★売れてます~!★代引き料無料♪リッチェル ベビーバギーファインアール-WL レッド(R)
2008.06.25
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またまたお久しぶりです。せっかくのコメントにお返事もせずに失礼しています、ごめんなさい。今日は子供の日ですね。うちのRyuの初節句。母と爺婆が祝い鯛を食べてお祝いしました。そう、4月20日からなんとか日本に滞在してます。しかし、もうわたしのことなんて記憶の彼方にいかれたお友達も多いはず。。。すでに日記ではなく月記いや、2ヶ月記?と化しております。この帰国の目的には今までひとりで昼間、育児をしていたから行けなかった歯科や、帰国1ヶ月前にごく普通の坂道でこけて捻挫した右足首のリハビリ、RyuのBCG接種など、医者通いがメインにあった。なので日本に着いた翌日から我がお嬢母にRyuを預けて、市役所に保険証を作りに行ったり、ペーパードライバーだってのに日本の免許の更新などに行っていたら、デリケートな母は4日目にして育児に疲れて熱を出して寝込んでしまった。こうして母は未だベッドの中なので、育児と家事でイタリアにいたときよりも忙しくなって、何も出来ないまま滞在日数の半分が過ぎ、とても焦りを感じている。******4月9日前回の日記を覚えておいでならば、結果からいうと日本のパスポートが、うまくいかなかったのだ。あの2日後ぐらいに日本領事館から「申し訳ございません、申請用紙に問題がありましてRyuさまのパスポートを発行することができません。」と電話があった。日本サイドにおいてはなんの落ち度もないと信じていたわたしはショックだった。「な、なにを書き間違えました?」やっぱり父親の国籍が欠けていることがダメだったのか?領事館「まことに申し訳ありません。申請用紙に傷があったらしくPCに取り込めないのです。もう一度書き直しに来て頂けますか?」こういう落とし穴があったのか。。。ちょっとわたしは意地悪になった。「そんな!ということはまたミラノまで往復しなければならないんですか?遠いし、子供もいるし何回も行きたくないんですけど?」領事館「いえ、今回は来て頂ければ1時間ほどで発行させていただきます。」なんだ。そんなことが出来るのなら最初からそうしてくれたら傷にもすぐに気がついてその場で書き直せたのに。。。というわけで4月9日早朝から、エクアドル大使館に出生届を出しに行ってから日本領事館に行くことになったのだ。これに反して困難を予想されたエクアドル大使館は、乳児&外国人妻連れが効いたらしく、大使館前の列も待合室の番号札もかっ飛ばし、優先的に入れてくれて、一番恐れていた「もう4ヶ月も経っちゃってますので出生届なんて受け付けませんよ。」という言葉を聞くこともなく、あっさり出生届は受理されたのである。そしてイタリアではRyuはおっとの苗字だけの「アンコロ(仮名)龍輝」なのだが、エクアドルではおっととわたしの苗字を連ねた「アンコロ 田舎野(仮名)龍輝」と無事登録された。そして頼みもしないのに親切?にも、わたしに言わせれば世界最強かと思われる日本のパスポートをもうすぐ所持するというのに、日本の値段の倍もするエクアドルのパスポートまで「すぐにお作りしますからー。」と作ってくれそうになって慌てて止めた。このスムーズさ、というかいい加減さ。。。さすがはヤギの排出国、エクアドルの大使館である。こうして我々は思ったよりもずいぶん早くエクアドル大使館を後にした。そして日本領事館で本当に1時間でパスポートを作ってもらい(←この辺が日本だなあ)、しかも「こちらに不備がありましたので値引きさせていただきますね。」と3ユーロも負けてもらってちょっとお得な気分になって出てきたのである。あ、ちなみに日本では「田舎野(仮名)龍輝」と登録されている。この日の用事はこれで終わらない。なんせめったに取れないおっとの休みをフルに生かしてめったに行けないミラノでの用事を全て済ませてしまわなければならない。この後、わたしたちはミラノのトルトーナ地区に住む昔からの友達、ひろぽんの家に行った。ひろぽんは7月出産予定。先日、性別が男の子だとわかったので、お土産にRyuの古着を大きな紙袋にギュウギュウに詰めて行った。実はこの日、ひろぽん宅でRyuの仕事の打ち合わせがあったのだ。ミラノで毎年開催される家具の見本市でのあるベビーベッドのモデルにならないか、とひろぽんと共通の友達から話があった。なんでもオランダの有名な家具デザイナーのベッドらしい。わたしは一も二もなくOKした。そんな有名どころのモデルといえばRyuの名を売るチャンスである。極貧家庭なのだからRyuにもやっぱりどんどんデカセギしてもらわなければ!!おっとは「これでRyuは将来のトップモデル間違いなしだな!(←親バカ)」とウキウキして、わたしたちを送っていくと仕事に戻っていった。しかし、いつもはよそのお宅では借りてきた猫のようにおとなしいRyu、そんな両親の期待が重かったのか、珍しくご機嫌斜めである。デザイン事務所のマリオ(仮名)が着いたとたんに火がついたように「うぎゃー!!」と泣き出した。わたし「ご、ごめんなさい。いつもは人前では機嫌がいいんですよー。」となんとかイメージアップさせようと無理を承知で弁解。Ryuの「うぎゃーうぎゃー」と大声が響く中、わたしたちも大声で商談開始である。抱いてないとさらに泣くので、抱いたまんまメモも取れずに「後日、メールで送ってください。」と雇われる立場でありながら高飛車な態度を取る。マリオは「これがベビーベッドのデザインなんだけど。」と3Dで描かれたデザインを見せ、わたしは息を呑んだ。さすが有名デザイナーの新作、真っ白な未来的な形をしたベッドである。マリオ「まず1日目はこれにRyuが入って、何カットか写真を撮ります。その後、プレスに向けて写真会をしますので3時間、Ryuにここで寝てもらうことになります。2日目はオープニングパーテイで2時間、Ryuにこの中で寝てもらうことになります。」さらにマリオ「このデザインはモノトーンでまとめますので、Ryuにもお母さんにもこちらで用意する白い服を着ていただくことになります。」わたしはその小さなベッドに横たわるRyuを想像した。こんなシャープなデザインに熊五郎のような濃いーRyuと育児に疲れたよれよれの日本人のおばさん?それが世界的に有名なインテリア雑誌やファッション雑誌の一面を飾るのだ。に、似合わない。このベッド、北欧系の色素の薄い子供用って感じ。。。。。。。だんだん申し訳なくなってきた。わたし「あのですね、3時間もRyuは寝たまんまの状態でじっとしてないと思うんですよ?」何、わたしは否定的なことを言っているんだ?マリオ「心配要りません。わたしたちも赤ちゃんはじっとしてないものだとわかってますし、いつでも休憩を取ってくださっていいですよ。」わたし「3時間以上も、となるとお気に入りのおもちゃなんて持ち込んでもいいですかね?」マリオ「。。。アハハ、白か黒のおもちゃなら。」わたし「。。。。。」わたし「最近よだれがすごいんですけど、同じ服の着替えを何枚か用意してもらったほうがいいと思いますよ?」マリオ「え、よだれ?このベッド、プロトタイプで一台しかないんで汚されると困るなあ。」わたし「でも赤ちゃんなんで汚れてなんぼなんですけどねえ。。。」こんな会話が進んでいく中、わたしはわたしに心の中で「何、不利なことばかり言っているんだ?黙っていろっ!」と叫び続けていた。打ち合わせが終わったとたん、まるで攻撃を止めたかのように、やっとRyuが泣き止んだ。帰りはタクシーを呼んでもらって家に帰る。大雨の降る中、タクシーの中で考えてみた。打ち合わせの時、Ryuが泣き続けていたのは、働かされたくなかったからかなあ?名声に目がくらんでしまったけど、こんな仕事を勝手に決めて、すごい親のエゴだな。それに2日目の2時間はあやし続けてたらなんとか過ぎそうだけど、1日目の3時間以上は難しい。大人のわたしは大丈夫だけど、赤ちゃんのRyuにはちょっと酷じゃないか?そうだよ、この後日本に行かなきゃいけないんだから体調を崩されても困る。ダメ元で、ちょっと条件を軽くしてもらえないかお願いしてみよう。エトセトラエトセトラ。。。。この夜更け、わたしはマリオに長い長ーいお願いメールを書いた。2日後、マリオから電話があった。「すみません、Ryuの仕事の件なんですが、ぼくらのスタジオと平行して、会社サイドでも(2社が合併した会社)赤ちゃんを見つけていました。あちらさんのほうに発言力があるので、あちらの赤ちゃんを採用することになりそうなので、Ryuの話はなかったことにしてもらいたいんですが。。。」アハハハハ、やっぱりそうなっちゃったか。。。。。。ガックリ。そしてここ日本。外出するたびに通りすがりのひとから声をかけられ「かわいいー、ハーフみたいや(←お嬢母の厳命によりハーフであることを明かすことが禁じられているのである)。モデルやらせはったらどうですか?」と言われるのである。そう思うなら仕事下さい。←懲りない親。どれから食べようかナ。。。
2008.05.05
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お久しぶりです。前回日記を書き逃げして以来、ひさびさに開けてみたら、スパムコメントだらけでびっくりした。そのさまは、まるで手入れをしない荒れた畑に雑草が生えてきたようなものだ、とブログ3日坊主の方々はみんな同じ事を思っているはず。で、さっそく引っこ抜きましたがもう暖かくなってきたし、またどんどん生えてくるのだろうなあ。。最近、畑が遠くてなかなか手入れが出来ません。****先日ひさびさに「あなた、イタリア語が上手ねえ。」と言われた。Ryuの小児科の先生からである。しかし、正直この言葉で凹んだ。なぜなら海外生活が長ければ、ある程度しゃべれるようになって当然だからだ。わたしはとりあえず謙遜をよそおって言った。「そんなことないですよ。上手と言えばSさん(15年間、我がINAKAMACHIの隣町に在住で、娘さんが同じ小児科にかかりつけでもある前回の日記で書いたご近所さん。)の方がよっぽどお上手だし。」小児科の先生「あのひとはこちらに住んで長いから当たり前よ。」この言葉を聞いてさらに凹むわたし。確かにSさんほど長くはないが、もう10年ほど住んでいるのにわたしの語学力はまるで、1ヶ月前に日本からやってきた留学生並みに見られているのだなあ。。。ま、勉強しないわたしが悪いのだけど。勉強しない、といえば妊娠時期から家でひっきー生活を送るようになってどんどんイタリア語力が落ちていっている。Ryuを日本語に慣れさせるため、ずっと日本語でしゃべりかけているせいもあるけれど、イタリアのTV番組のコメデイなどは吉本新喜劇で育ったわたしにとっては、思いっきりレベルが低くて笑えないし、勤めていたときには身近に感じておもしろかった世間を風刺する番組「レ イエネ」や「ラ ストリッシャ」もなんだかガラス越しの別の世界のことみたいだ。なので、暇なときはどんどんネットで見れる日本語の番組ばかり見るようになって気がついたら、おっとにも日本語でしゃべりかけているときがある。おっともおっとで「ウンウン、ワカッタ。」とこれも流暢な日本語で返事をするものだからつい流してしまって、後から「はて、本当にわかったのだろうか?」と思い返すことが多いのだ。日本語といえば、日本語能力は現在、おっととRyuはいい勝負なんじゃないだろうか?Ryuは最近、彼の昼間の居場所はチャイルドシート兼ベビーカーの中なのだが、じっとしているのがイヤになるとすぐに暴れて抱っこを求めてくる。わたしは抱っこをしすぎてとうとう生まれて初めて腱鞘炎になってしまった。しかし授乳中は痛み止めのクリームさえ子供に影響がある、と禁止されハーブ水みたいなものを塗っているのだが全然効きはしない。右手首がしびれて、字を書いても左手で書いたみたいだし、歯磨きはまるで思い丸太でも持つように両手を使わないと磨けないし、たかが手首、されど手首。。なのである。そういったわけで、抱っこの時間を出来るだけ少なく、Ryuをご機嫌に保つにはベビーカーを引いて、ひたすら歩き続けるしかないのだ。話はそれるが、犬、というのは人間の3歳児並の知能を持っている、ということ。つまり今の時点で我が実家の愛犬ソフィーさん(仮名)は我が息子より賢い、というわけである。確かに、ソフィーさんは今ではすっかりよぼよぼのお婆ちゃん犬だが、わたしがまだ日本に住んでいて彼女がご幼少の頃、「お散歩に行こうか!」と小さな鈴のついた赤いリードを手にすると、言葉を理解したかのごとく飛び跳ねてキャンキャン笑いながら玄関に駆けていったものである。しかしその点では我が息子も負けてはいないのだ。わたしが「お散歩に行こうか!」と着替え始めると「うはははは~。」とどこで覚えたのかおっさんのような笑い声を立て、手足をバタバタさせて喜び全開モードにする。しかしそれで、重いベビーカーを2階から降ろし、やっと歩き始めて半分も来ると寝てしまうことが多いのだ。そういえばソフィーさんも最初ははりきって駆けて行くのだけど、持続力が極端になく、すぐに抱っこで家まで抱いて帰ってたな。。。わたしも運動会では短距離ランナーだった。マラソンは仮病を使って休むぐらいキライだった。やはり家族と言うものは似るのものなのである。*****話は戻して、もう3ヵ月半も前のことだといったい何語で話し合ったかも覚えていないが、ショッキングなことが発覚した。先日、実は4月末から1ヶ月ほど母子で日本に帰国するのでRyuのパスポートを作りにミラノの中心の日本領事館に行ってきた。今春の帰国に関しては昨年、我が両親がイタリアに来たときから決まっていた。だから帰国日から逆算して、Ryuが生まれてすぐに領事館にて日本戸籍の申請をし(これがスピード日本といえど時間がかかるのだ。)、やっと戸籍謄本が出来たので、それを持って領事館に出向いた、というわけである。現住所の市役所の出生届も、滞在許可証の申請も、保険証も、予防接種も、生まれてから着々と済ませたし、パスポートがとりあえず、最後の面倒な仕事だな。。窓口で申請用紙を渡され、丁寧に書き込んでいった。写真も1回目、おっとが抱いてカメラマンが撮ったものは気に入らなくて、わたしが写真館のオヤジに何度も撮りなおしをさせてやっとマシな一枚を選んだ。こうしてなんの落ち度もないはずだった。左 写真屋がはじめに撮った写真。マフィアの三下。 右 お母様が愛情こめて撮ったけど「ま、写真屋を信用するか。」と持ち込まなかった写真(怒) 全部が書き終わり、再び窓口で用紙を提出する。窓口のおばさんは真剣に間違いがないかどうか確認して行った。窓口のおばさん「あの、2重国籍保有者の欄にも書き込んでください。」わたし「あ、2重国籍が保有出来るのですか?日本は1国籍のみと思っていました。」窓口のおばさんは向こうでRyuをあやしているおっとを見て「イタリア人との結婚で生まれた子供の場合は22歳になるまでイタリアと日本の2重国籍が保有できますよ。イタリア国籍所得日は市役所に申請した時点で出生日と同じになります。」わたし「おっとはエクアドル人なんです。」窓口のおばさん「あら、エクアドルの場合はどうなのかしら?ではエクアドル大使館に出生届を出した日を書き込んでください。」そうか、出生届 = 国籍申請 なのだな。わたし「ねえ、おっと。あんたいつエクアドル大使館に出生届を出したか覚えてる?」おっと「え?そんなもの出してないよ。」OOOOOOOOOOOOOHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!???わたし「出して当たり前だろう!!」おっと「だってきみ、国籍は日本を絶対選ばせる、って言ってたじゃないか。」わたし「それはそうだけど、出生届は親の義務でしょ?!」わたしははるか3ヵ月半前の出来事に頭を逆行させる。「ちょ、ちょっと待って。あんた、確かRyuが生まれてすぐに知り合いの大使館のお姉さんに電話して聞いてみる、って言ってたよね?それからどうしたの?!」おっと「大使館に出向かないと何もできないよ。そんな時間なかったし。」(イタリア在住者を含めて説明するとエクアドル大使館というのは、日本領事館のようにいつ行ってもガラガラということは決してない。1ヶ月ほど前からアポを取り、アポ当日も大使館の外でまず列を作って待ち、大使館の中でも待合室でずいぶん待たされた後、やっと用事が出来るのである!!)時間がないって。。。。ヤギたちとへべれけになる時間はあっても、自分の息子のために大使館に出向く時間はないんかいっ!?わたしはクラクラしながら「。。。てっきりわたし、電話で出生を届けだしていたかと思い込んでいたよ。」いいや、わたしが悪い。そんなヤギだと百も承知で、Ryuの世話にかまけてすっかり管理不足になっていたのだ。窓口のおばさんは引きつり笑いをしながら「イタリアや日本では、生まれて3ヶ月以内に出生を届け出ないと国籍失効になるんですけどねえ。。エクアドルの場合はどうなのかしら?おほほほ。」とダブルパンチを食らわせる。わたし「もしエクアドル国籍が持てない場合はどうなっちゃうんですか?」窓口のおばさん「さあ。。たぶん、滞在許可証をお作りになるときに父方の国籍が欠けていると、問題が生じるかと思うんですけど?」NO,NONO,NONO,NONO,NONO,NONO,NOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!!!それは絶対ダメだ~~~~~~~~~~~っ!!!!!!!!!滞在許可証は生まれてすぐに申請したが、まだ呼び出しは来ていない。早めになんとかせねば!!!わたし「す、すみません。もう一度、用紙を返していただけますか?まだ出生届、出してませんけど取りあえず2重国籍エクアドル、って書いときます!」窓口のおばさん「ダメですよ。それは旦那さんと話し合って、エクアドル大使館にきちんとインフォメーションしてください。それから追加事項が必要ならしますので。」Noooooooooooooooo.............こうして日本のパスポートはたいした(?)問題もなく3日後に出来上がるそうである。家に帰るクルマの中でおっとはのんびりした声で「明日にでも大使館に電話してアポを取るよ。」という。わたし「でもでも、もう3ヶ月過ぎちゃったんだよ?出来なかったらどうするの、もしRyuが無事滞在許可証をもらえなかったら?」おっと「大丈夫だよ。大使館は日本じゃないんだよ、エクアドルなんだよ。」ハ。そうだった、そうだった。エクアドル大使館なら3ヶ月から半月過ぎたぐらいじゃ、全然余裕で大丈夫か?まったく。全てに抜かりがない、と思っていたのに大きな落とし穴があった。おっとは、誰かに会うたびに「Ryuが生まれて人生が変わったよ。」としみじみ言うのだが、いったいどこが変わったのだろう?
2008.03.21
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先週土曜日。ちょっと前にモデナに引っ越していった期間限定友達さとちゃんが「仕事でミラノに行くので、そちらにRyuちゃんを見に行きます!」と連絡をくれたので楽しみにしていた。わたしは何時間も前から夜ご飯の支度をして、おっとはソファに寝転がってDVDを観ていて、彼らが着く30分前にわたしはとうとう切れておっとにモップをつかませ、ソファから転げ落とす。おっとがブツブツ言いながら掃除していると時間きっちりにさとちゃんと旦那さんが現れた。わたし「お疲れさま~、どうだった仕事は?」さとちゃん「実は今日は仕事はなくなったんです。」え、じゃあミラノまではるばるわたしたちにだけ会いに来たの?じ~~~~~んと来た。やっぱり元同じINAKAMACHI(わが町の仮名)の同胞、大好きな友達である。重いのに2kgもの日本土産のお米、ありがと~!!彼女たちはミニバスを購入して3月から日本人のお客さんをターゲットにしたツーリスト業をはじめることになった。モデナを中心にしているが、ミラノやフィレンツエ、ボローニャにも個人ツアーや、ビジネスにミニバスで廻ってくれる。ご興味のある方はこちら。ソッレバンテサービスこんなにいいひとたちだから、きっと気持ちのいいサービスをしてくれると思います!*****INAKAMACHIの同胞、といえばこちらに引っ越してきたとき、まさかこんな田舎に日本人なんて住んでいると思っていなかったのだ。確かにわが町はさとちゃんが引っ越してからは日本人はわたし一人きりのようだが、最近近隣の町に日本人が潜在していることがわかってきた。ひとりはまだ妊娠中に隣町の病院のマタニテイコースに参加しているとき、よそのクラスでときどき見ていたアジア人女性がいた。しかしまさか日本人だとは思わず、おっとも「中国人に決まってるじゃないか。」と断言し、「中国人にしたらずいぶんきっちりした身なりだな。まあ最近彼らもおしゃれだし。。」と気になりながらも最後まで声もかけずにコースは終わってしまった。もうひとりは最近Mixiでさとちゃんと同じように知り合った絵描きのミカチさん。彼女はもう5年も別の隣町に住んでいたというのに全然知り合う機会がなかった。それが日本のサイトを通じて知り合うなんて、縁とは不思議なものである。あまりの家の近さに感激して、こんな田舎町しゃれたカフェもないし、初めてのメールでもう我が家に誘ってしまった。彼女は駐在員妻なのだが、今まで会ったことのある数少ない駐在員妻の中では一番いいひとというか、それまで彼女のブログを読み込んだりとかもしていなかったのだけど、とても気さくなひとで、まるで昔からの知り合いのように気があってしまった。しかし彼女もさとちゃんと一緒で期間限定友達。3月中旬には日本に永久帰国だ。ああ、わたしって日本人のご近所さんに縁が薄いな~。。。ミカチさんは本当にいいひとで、さびしがり屋のわたしに近隣の町に住む日本人を数人紹介してくれることになった。ひとりは彼女よりももっとうちに近いところにイタリア人と結婚して15年も住んでいるイタリア歴ベテラン(?)の楽しい関西人のSさん。もうひとりはなんと、上記のマタニテイコースで声をかけそびれてしまったYさんだったのだ。やっぱり縁ってあるんだね、とこのとき思った。知り合わなければならないひとには知り合えるようになってるんだ。彼女はわたしの3週間前に女児を出産されていて共通点が多い。しかもミカチさんはなんと毎月第3木曜に開かれるというこの周辺の地域の日本人会に先週、連れて行ってくれた。引き上げ準備で忙しいはずなのに、こんなにかまってくれるのがすごくうれしい!そんなものまであるぐらい、日本人がいるんだ。。。。←(目からうろこ)場所はMonzaで唯一の日本食レストラン。30分前にSさんにクルマで迎えに来てもらってRyuを積み込んで出発する。いつもRyuの積み込み作業はおっとが全部やっているものだから、ベビーカーを後ろに積むときに人様のクルマにキズをつけそうでこわかった。日本食レストランに着くまでにSさんが本日の参加者のおおまかな情報を説明してくれる。今回は大御所様が3人も来られるそうで、ひとりはなんと40年ものイタリア在住者である。ド、ドキドキする。。わたしたちがレストランに入ると、もうその大御所様たちが3人+1人座っておられて、奥にミカチさんとYさんがチャイルドシートに乗せた娘ちゃんを横に置いて座っていた。緊張のあまりぼ~っと立っていると、前回来たときに仲良くなった中国人のウエイトレスがもうベビーカーを奥に設置してくれた。わたしはなんだかわからないまま椅子に座ると、大御所様のひとりに「ぼくちゃんの帽子が目までかぶってるわよ。」と注意されてハッと我に返った。そんなそわそわしている母の気分が伝染したのか、Ryuも落ち着きなくずっとグズグズしている。隣に座っている3週間違いの赤ちゃんはおとなしくて落ち着いているのに。。。めったに食べれない貴重な寿司を半分ほど急いでかきこみ、Ryuを抱っこしてあやしていると、隣の赤ちゃんはその間におとなしく哺乳瓶からカモミール茶を飲んでいる。カモミール茶。。うちのRyuはおっぱい以外、断固拒否!と絶対受け付けないのにな。断固拒否!といえば、おしゃぶりと靴下もつけてちょっと目をそらすともうはずしていて、まさに一瞬芸なのである。やがてSさんが来て「Ryuちゃんを抱っこしててあげるから食べ終わりなさいよ。」と言ってくれたのでありがたくRyuをあづけて寿司を味わうことが出来た。味噌汁を飲みながらSさんの腕に抱かれてご機嫌になったRyuとYさんの娘の違いを観察する。うちの子のほうが後から産まれたというのにひとまわりほど横にも縦にも大きい。大御所様たちは「Ryuちゃんって九州男児みたいね。」とおっしゃられた。なるほど、眉毛も濃くてつながってるし、全体的に「こってり」という雰囲気。Yさんの娘は色白ではんなり、という感じで例えるならお雛様のよう。さしずめうちの子は熊吾郎か、カールおじさんだ。Yさんと子供の成長ぶりに関していろいろしゃべった。彼女の方が乳児湿疹も、予防接種も、通らなければならない関門は全てうちより少し前に経験しているので、彼女の経験談がすごく役に立つ。その後、我が子から目を離して大御所様たちを観察した。ひとりが「この本、おもしろいのよ。」ともうひとりにイタリア語の心理学だかなんだかの本を渡している。そのひとはパラパラとページをめくって「あら本当。おもしろそう、読んでみるわ。」と言っていた。わたしはイタリア在住はまあ長い部に入るが恥ずかしながらかろうじて新聞を1日かけて読めるぐらいの程度だ。(しかも何パーセント理解してるんだか?)40年も住めば、わたしもパラパラとページをめくっただけでも内容が理解出来るようになるんだろうか?食事が済み、割にあっさり解散となった。まあこんなにそれぞれ年の差があれば「2次会、飲みに行きませんか?」も難しいか。貴重な体験だった。また参加したいと思う。そういえば昨日、隣の大きな町をベビーカーを押してウインドウショッピングをして散歩していると、同じくウインドウを覗いて歩いている日本人らしき女の子を見かけた。声でもかけようかな、と近づくとこちらも見ずに逃げるように行ってしまった。まあ、縁があるならまたどこかで会うだろう。
2008.02.25
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先週末はおっとの幼馴染のウイリアムの娘、ジュリエッタの洗礼式があった。古い話を覚えておいでの方は、「え、なんで?」と思われるかもしれないがこんな展開も後からあったりして、今回彼女は娘を連れて2週間だけイタリアに帰って、いや訪問してきた。ジュリエッタは2006年12月生まれ。うちのRyuとちょうど1年違いである。招待状を届けに我が家に彼女が来て玄関からママの手に引かれてよちよちと近づいてきたときには「ああ、うちのRyuも1年後はこうなるのか。」となんだか感動した。招待状に貼ってある写真はまるで天使のようなフリルがいっぱいの真っ白のドレスを着ていて、それを「うわあ、きれいだねえ。」と褒めると、ママがうれしそうに「洗礼式にはこれを着せるから楽しみにしていて。」とウインクする。よかったことに母親に似て色白美人の彼女「お父さんはもしかして日本人?」と聞きたくなるぐらいなんだかアジア系の顔立ちだ。それにますます親近感を覚えて「洗礼式には是非よろこんで参加させてもらうよ。」と、心の底から返事をした。そして洗礼式の日。わたしは龍輝を授乳できるようなおでかけ着は1着しかないので早々からそれに着替え、Ryuのはさんざん迷った挙句、ウイリアムからもらった帽子と靴下、ウイリアムの姉からもらった上着、ウイリアムの弟からもらったズボン、となんだかちぐはぐなものを着せてすでにベビーカーの中に寝かせ、朝早くにに散髪しにいったおっとの帰りを待っていた。洗礼式は16時。場所は我が家からクルマで1時間はかかるマルペンサ空港近くの教会である。時計は14時を廻った。こんな日におっとはどこをほっつき歩いているんだろう?おっとの携帯に電話する。おっと「あ、今整備工場で用事が終わったところ。あと10分で家に着くから、すぐに出れるように待機しておいて。」髪を切りに整備工場に行くんかいっ!!??それはおっとが帰宅してから責めることにして、わたしはコートをはおって、靴を履いておっとを待った。しかし。わかってたよ。。。わかっていたけれども、おっとが帰宅したのは15時10分である!わたし「もう間に合わないよ!すぐに出るよ!!」おっと「ちょっと待ってよ。こんなTシャツジーンズ姿で出かけられないでしょ?スーツに着替えないと。。」ああもうっ!!!おっとがもたもた髪を洗い、ひげをそって服を着替えている間にそれまでおとなしくベビーカーの中で寝ていたRyuが泣き出した。ああああもうっっっっ!!!手荒くおむつを替えているとおっと「大丈夫だよ、この間のレオン(わたしの友達の息子)の洗礼式だって遅れていったけど、たくさん子供がいて1時間近くあったし、間に合ったじゃないか。ほらほらちゃんとオシリにクリーム塗ってあげて。」←おっとはまるで世間一般の口うるさい義母のようなのである!結局出発したのは15時40分。そこから同じく招待されていた近所に住むやもめのチェーザレを拾って。。。わたしはあきらめてクルマの座席に身を投げ出し、だんまりを決め込んだ。チェーザレは怒りはしないものの「こんだけ待たされるなら髪をもっとちゃんと編みこみしたのに。。」(←彼はレゲエ)とぶつぶつ言っている。教会のある街にきっかり1時間後に着くと、この日は街をあげてのカーニバルで、中心までクルマで入れない。さんざん空いてる駐車場を探し町外れにクルマを停め、小走りで中心にある教会に着いたときには、とっくに洗礼式は終わっていた。涙教会はすでに閉じられていたが、もう解散しようかとしているウイリアムたちの姿がまだ扉の前にあったのでホッとした。ウイリアム「よう遅かったじゃないか、いくきーと。お前もすっかり南米人化したなあ。」OOOOOOOOOOOOOHHHHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!ち。が。う~~~~~~~っ!!!!!ジュリエッタはすっぽりコートに包まれていて、まさかこんなに寒いのにそれを脱いでドレスを見せて、とも言えない。そういえば、わたしたちの結婚式のときもウイリアム一家はとっくに式が終わり、招待客も解散し、写真も撮り終わって、わたしたちも帰宅しようか、というときに現れたんだっけな。。。お互い様。。。ああ、こんなお互い様はイヤである。次の夕食会まではまだ時間があるのでウイリアム親子を除き、わたしたち全員はウイリアムのお母さんの家で待機することにした。ベビーカーを押して、ぞろぞろと他のひとたちの後について歩き始めると、おっとの姿が消えうせていた。全員で慌てて探すと揚げたてドーナツの屋台に並んでいる。ああああああああもうっっっっっっっっ!!!団体行動が大好きなくせにどうして団体で行動できないんだっ!!??絶対ツアー旅行なんて向いていないタイプである。なんとかおっとを屋台から引き離し、ウイリアムのお母さんの家に着くと待っていたようにRyuが泣き出した。寝室を借りておむつを替えたりおっぱいするが、泣き止まない。出かける時間になっても泣いているので、泣き止むまでウイリアムの妹がわたしたちと残り、わたしたちはこれにもずいぶん遅れて夕食会のあるレストランに出発することになった。レストランに着いたとたん、わたしたちは青ざめた。なぜならこのブラジルレストラン、壁には青い空、青い海が描かれ、カクテルサービスの屋台はやしの葉で彩られ、ウエートレスはハワイアンのような腰みののお姉ちゃんたちが忙しく動いていて楽しいのだが、大きな舞台が前にあり、マッチョなDJたちがガンガンにラテンミュージックを流していて、最後に着席したわたしたちにはその横の今日の主役ウイリアム親子たちの隣の席しか残っていなかった。あ。。。あかん。これはまた絶対泣き出す。ところが。心配の種、Ryuはぱっちり目を覚ましていたが、大騒音の中、頭上で輝く色とりどりのライトをニコニコしながら見つめている。いろいろなひとが「可愛いわねえ、抱っこさせて。」と来てもご機嫌で抱かれているのだ。ああ、取り越し苦労だったな。そういえば、わたしのお腹にいたときからガンガンラテンミュージックには慣れているか。。。。(あ、でもお正月はそうでもなかった。)それでも全面信用の出来ないわたしたちはごちそうが一通り出終わると、さっさと家に帰ることにした。レストランを出たとたんに大泣きのRyu。悪夢は家に着く直前まで続き、Ryuは口の周りを泡だらけにしてやっとおとなしくなった。わたしたちもクタクタ、おっとよりもデリケートなわたしは翌日から熱が出て、マスクしておっぱいしている現在である。こうして親子共々鍛えられていくのだね。ふう。
2008.02.13
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先日ある日本の友人が「これでRyuちゃんにおもちゃでも買ってあげてください。」とお祝い金を送ってくださった。「おもちゃ」。。。久しぶりにそんな単語を見てわたしの中に熱いものがこみ上げてきた。考えたら、イタリアに来てから、というもの留学生時代は少ない貯金からやりくりしなければならなかったし、結婚してからは働いても働いても高い税金や光熱費、食費の上、裁判まで続けているものだから、貧乏極まりなく、「おもちゃ」なんてなくても生きていけるものは、削除し続けてきたわけである。わたしはおもちゃが大好きだ。ビデオゲームとかは出来ないので興味が薄いが、懐かしのブリキのおもちゃとか、アンティ-クのテディベアとかも大好きだけど、特撮系の新しい仕様のついた武器なんかを見ると、もうついつい財布のひもがゆるんでしまっていた。立体のデザインは苦手だったからおもちゃ会社に就職はしなかったが、ファンシーグッズデザインで楽しんでいた。イタリアに来る前までは毎年、東京に住んでいたときはもちろん、実家に帰ってからも東京幕張で開かれる「おもちゃショー」に出かけて新しいおもちゃを見てドキドキしていた。これはきっと幼い頃、サンタさんにいくらゲームやおもちゃをお願いしても、クリスマスの朝に枕元に置かれていたのはぶ厚い百科事典とか、蛾やかまきりの昆虫標本とかだったから、その反動が強いに違いない。話を戻しておっとは小切手の額を見て「ああ、ちょうどよかった。これでRyuの新しい服が数着買えるね。今までのはあっという間に小さくなったし。」わたし「でも友達は『おもちゃ』って書いてきたんだよ。」おっと「お金なんだから、自由にRyuに必要なものを買えばいいじゃないか?」わたし「この子に必要なのはおもちゃだ!」それからは週末の買出しが強制的なものから楽しいものに変わった。今までは「このコーナーに近づいたら、自分がつらくなるだけだ。」とか、「いい年しておもちゃ見て舞い上がっていたらおっとにバカにされるな。」とか、「お金ないのに、こんな余分なもの、見るだけでも罪だな。」と後ろめたさを感じ、避けていたおもちゃ屋やスーパーのおもちゃコーナーに正々堂々とおっとを連れて見にいけるのだ!そういえばおっとは、こんなわたしの本当の姿を知らないと思う。わたしもわたしでいったいどれだけおっとの本当の姿を知っているだろうか?。。。とまた脱線してしまったが、こうしてわたしたちは、Ryuのおもちゃを探して何軒も店を廻った。わたしの中で「赤ちゃんのおもちゃといえば、お約束はメリーだろう。」というものがあったのだが、意外に売っていないものなのだ。まだ寝返りすら出来ない赤ちゃん用にねこの形をしたボタン次第でメロデイの変わるものとか、売っていてもなんだか可愛げがないというか、けばけばしいデザインとか。商品企画していたときには会社の方針や先輩の教えでベビー用品はニュートラルな色を使って丸みの帯びたデザインを鵜呑みに守っていたけれども、消費者側、というか買う両親の立場になってみると確かに原色や角のあるデザインは危険なスメルがして買う気になれない。ミラノの街中にでも行けば、いろいろあるのかもしれないが、こんな田舎町ではこんなものだ。やっと赤ちゃん用品の大型チェーン店、CHICCOでまあまあ満足のいくものを見つけた。パステルカラーの4つの妖精が優雅なクラシックミュージックや小川のせせらぎなどの音にあわせて廻る。さらに月齢が大きくなると、それらの音楽を赤ちゃんが自分でボタンを押して楽しめるようになっていて、さらにさらに月齢が大きくなると、4つの妖精のぬいぐるみと家の形をしたボタンの箱で積み木が出来るのだ。一台で3つのお得である。おっと「ちょっと大げさすぎない?もうちょっと考えようよ。こんな高いものを買って、Ryuが気に入らなかったらお金の無駄だよ?」以前の携帯電話で懲りたわたしは、ここでおっとの言葉はもう聞かなかった。めちゃくちゃ久しぶりに現金でこんなに大きなものを買ってしまったのであった。レジで並んでいるとき「これでいいよね、いいんだよね?」と何度も自分に言い聞かせた。家に帰るとわたしが箱を開ける前におっとがもう開けていて(実はおっともうれしかったらしい。)、組み立ててベビーベッドに取り付けると、思ったよりずいぶん大きくてちょっと後悔した。いろいろボタンを押して音楽を試していると、その真下で寝ているRyuはモロー反射(赤ちゃんが驚いたときにぱっと手を広げる反射行動)をしっぱなしである。おっと「やっぱり、失敗だったんじゃない?」確かに。さらに後悔した。次の朝。Ryuがいつものクマちゃんたちであやしても何をしても、いつまでもグズグズしているのでメリーのスイッチを入れてみた。すると前日とは打って変わって急に機嫌がよくなり、いつまでもメリーが廻るのを見つめている。数分してメリーが止まると「ア~。」と催促するので付っきりで止まるたびにスイッチを入れなければならないのが午前中いっぱい続いた。今日などはこれを利用してわたしは数分の間に朝食を済ませたり、歯を磨いたりしてなかなか楽なものである。買ってよかったな。2ヶ月のお誕生日おめでとう。この辺って、赤ちゃんおもちゃの王道?
2008.02.06
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ご無沙汰してます、こんにちは。月並みなセリフながら子育てに明け暮れ、あんなネタやこんなネタも時々発生するのだが、書こうとPCの前に座ると、まるで隠しカメラで監視していたかのようにRyuが泣き出す、という毎日である。イタリアはカーニバルの時期に入ったので、ここはやっぱりRyuには半分血が流れている日本人らしい仮装をしてもらいたいと思い、ピカチュウの着ぐるみを探したのだが、こんなに小さい子サイズは売っていなかったので、来年まで待つしかないようだ。Ryuは今まで表情もなく、泣き声もあまり人間っぽくなく、なにが一番人間離れしていたかというと、左右の目を別々の方向に動かすのがまるで寄生獣のようでこわかったのが、最近はやっと声に変化がついてきて、目の焦点も定まってきたようだ。*****この間、一ヶ月検診ならぬ一ヵ月半検診を済ませ(だっていったいどれぐらい間隔で検診に行かなければいけないかなんて知らなかったのだもの)、やっと初めてのお出かけと称しておっとと共に近所のスーパーに連れて行った。クルマで行った。徒歩でもたかだか10分のところなので家で出かける直前におむつを替えて、授乳をして、ベビーカーにRyuだけ入れて何も持たずに出かけたら、スーパーに着いて買い物を始めて10分も経たぬうちに大泣きである。通りすがりのおばさんに「おっぱいが欲しいのよ。」と言われ、なるほど、とクルマに戻り、おっぱい。泣き止んだので再びスーパーに戻るとまた大泣き。別の通りすがりのおばさんに「抱いてあげなさいよ。」と言われ、なるほど、とおっとが抱っこしてあやしていると少し泣き止んだのでベビーカーに寝かしたとたんに口からミルクの噴水である!そりゃそ~だ、出かける前にも飲ませたのだもの、飲ませすぎ、飲みすぎである。可哀想なRyuは噴水のおかげで顔中、服までもびちょびちょになり、気持ちの悪さでさらに大声で泣き始めたものだから、結局買い物どころにならず、カートをその場に置いて家に慌てて戻ったのであった。あんなでかい、おむつも哺乳瓶も着替えも何から何までパンパンに詰め込んだバッグを常時持つなんてかっこわるいな、と思っていたのだがそれどころではないと身にしみて感じた初お出かけ。ここで両親としての勉強。「どんな短いお出かけ時でもママバッグを忘れてはいけない。」しかしおとといの2回目のスーパーでは急いでいつもの3倍速で買い物をしたにもかかわらず、Ryuは始終ぐっすり眠っていたのでママバッグなどは、ただ邪魔なだけであった。*****ある週末。おっとの通っている歯医者さんが娘さんを連れてRyuを見に来た。彼らが来たときはちょうど、Ryuはオムツも替えて授乳も終わったにもかかわらず、グズグズしていてなかなか寝付かず、わたしは目目さんにいただいた「バウンサー」というゆりかごみたいなもので一生懸命あやしていたのだ。歯医者さんが「ああ、小さいね。」と覗き込んだらRyuはもう大泣きする寸前の顔で、見ているわたしはハラハラする。次に娘さんが「きゃ~、可愛い☆」と顔を近づけたとたん、Ryuは今までしたこともないような満面の笑顔になった。娘さん「可愛い、可愛すぎるわ!絶対これは将来いい男になるわよ~。」Ryu「。。。。。」ニコニコしている。娘さん「20年後にはわたしのお婿さんになってくれる?」Ryu「ウィ!」Ryuにとって初めての言葉ではないが、Ryuが初めてはっきりとした発音でしゃべった記念すべき言葉であった!それが母にでも父にでもなく、他人に対してで、しかも日本語でもスペイン語でもイタリア語でもなく、気取ったフランス語だなんて。。。この娘さん21歳。ブロンド、青い目の美人でお父さんの歯科医助手をしている。結婚相手としては申し分ないのだが、20年後となると娘さんは41歳、Ryuは20歳。むむむ。。。。。あまりに年の差がありすぎて、母としては複雑である。*****今朝は天気がよかったので初めてわたしひとりでRyuを連れてちょっと遠いところにある郵便局まで日本の友人宛に絵葉書を出しに行くことを決意した。絵葉書ぐらい、おっとに仕事の合間に出しに行ってもらえばいいのだが、Ryuを外出に少しでも慣れさせたかったのだ。しかし何が決意か、というと、ベビーカーがやたら重いのである!日本のベビーカーもそうなのだろうか?と思ったら↑みたいのばかりで同じようなタイプが見つからない。ベビーカーのカート部分8kg、ベッド部分5kg、Ryu約5kg、総重量18kgである。幸運なことに我が家はエレベーターはないものの、1階なのでいいのだが、まずカート部分を家の前の道路に降ろし、次にベッド部分を持っていって組み立て、最後にRyuを布団で繰るんで連れて降りて外に出るだけに3回も行ったりきたりしなければならないのだ。我が家の周りは田舎だからいいけれど、こんな作業をミラノの真ん中でやっていたら、Ryuを連れて降りている間にベビーカーは消え失せているだろう。まあともかくこの作業を無事に終え、わたしは冷たい外気を吸い込みながら歩き出してベッドの中のRyuを見た。せっかく機嫌よく起きているところを見計らって、他の事をなにもかも放り出して出てきた、というのにさんぽ。。。三歩ぐらい歩いたところで彼は眠ってしまった。怒後はどんなガタガタ道を歩こうがおかまいなくの熟睡ぶりなので、かなりガッカリしながら歩き続けて郵便局に近づいた。「いくきーと!」と言う声にはっと顔をあげるとすぐ横にワゴン車が停まり、いつもうちに郵便物を届けてくれるボリビア人のお兄ちゃんがニコニコと顔を出す。お兄ちゃん「散歩かい?」わたし「ううん、違う。」お兄ちゃん「今からお宅のゾーンに行くから送っていくよ。」わたし「いや、今から郵便局に行かなきゃいけないから待たせられないよ、ありがとう。」お兄ちゃん「そう?じゃあね!」別に友達じゃなく、ただの顔見知りの郵便屋さんだというのにずいぶんと親切なお兄ちゃんなのであった。こうやって、この町の町民をいつも送っていっているんだろうか?うんうんいいながらベビーカーを郵便局の中に押し上げ、長蛇の列に並ぶ。わたしの番まであと5人ほど、となったところで郵便局員とお客で喧嘩が始まった。その荒々しい声のやり取りにRyuがやっと目を覚まして泣き出す。怒声と泣き声、狭い田舎の郵便局の中はたちまちうんざりした雰囲気に包まれた。お客「わたしはもう保育園に子供を迎えに行かなきゃ行けないのよ!たった1通の書留を出すだけに30分も並んだのになんで窓口を閉めるのよ!?」郵便局員「コンピューターが壊れたから仕方がありませんって言ってるでしょ!それにもう閉局の時間です!!後ろに並んでる方々、もう並んでいても無駄ですから出て行って下さい!!」わたしたちは郵便局を出た。Ryuは郵便局を出たとたんに泣き止んで、また眠りに入った。目的はRyuを連れての外出、だったものの何しに来たのかわからない外出であった。ああこれならあの時、ボリビア人のお兄ちゃんに素直に送ってもらえばよかったか?こうしてわたしたちはただ単なる散歩をし、お利口なRyuは家に着いてようやく目を覚ましたのであった。。。。。とこんな毎日を過ごしています。ぼくたちもネタにされた?Ryuと右から反時計廻りでクマちゃん1、クマちゃん3、クマちゃん2。
2008.01.29
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あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。うちのニューフェイスが生まれた際にはお祝いコメントをどうもありがとうございました。うちの子は「龍輝」と書いて「りゅうき」と読みます。某「仮面ライダー龍騎」と漢字は違いますが読み方は一緒です。(実は最初は龍騎にするはずだったのが、この仮面ライダーの存在を知って一文字変えた。)「たつはる」とか「たつき」とのお問い合わせが何人かのお友達から来ていたのですが、逆にそ~ゆ~読み方もあるんだなあ、と勉強になりました。Ryu(おっとがこれがストリートファイターのようでかっこいいというので、最近こう呼んでます。。)はイタリアで生まれたってのに、イタリア国籍が取れないことを知った。昔は取れていたそうだが最近は移民2世が激増したため法律が変わったそうだ。それで我々は迷いもなく滞在許可証の申請欄には「国籍 日本」と書き込んだ。おっともこれには一も二もなく賛成だった。エクアドル国籍は悪いがイタリア-外国間を移動するのに害はあっても一利なしなのである。そんなこんなで、年末までかかった竜輝の出生届やら滞在許可証やらなんやらがやっと終わり。。。*************クリスマスや年越しは毎年だいたいわたしの仲のいい友人たちで集まっておいしいものを食べて楽しくしゃべって過ごしていたのだが、今回はRyuがまだ生後1ヶ月にも満たないため、涙を呑んで断った。こんな小さい子を大勢集まるところに連れて行って病気になるのもこわいし、こんな小さい子を連れて行って泣いたり、おむつや授乳でせっかくのパーティに水を差すのも悪いという理由からだった。親になるっていろいろ我慢しなきゃいけないんだなあ。。。と、つらい思いをしながら断り続けていたのに、いたのに。。。。おっとの野郎、前日の夜になってエクアドル人15人も狭い我が家に誘いやがった!!!!わたし「あんた、何考えてるのよ!? わたしがつらい思いをして友達のパーテイを断ってたのに意味がないじゃないっ!」おっと「今年のクリスマスは何にもしなかったじゃないか?それに毎年、君の友達とばっかり年越しをしてるんだから、たまには僕の友達とでもいいだろ?」わたし「今までわたしの友達ばっかりだったのは、わたし達が日本人だからちゃんと前もってオーガナイズして早めに予定を決めていたからでしょ!?今回はRyuがいるから予定をわざと入れなかったんだよ!!!」おっと「心配するな、君はRyuの世話だけしてればいい。パーテイの準備はぼくとエルトン(←なんで?)でするから。。」わたし「そ~ゆ~問題じゃない!あんたは自分の楽しむことしか考えてないのよっ!!」おっとはまるで聞こえない振りをした。これは5月に我がお嬢母と共に来伊した父から受け継いだ悪い癖となったのだ。大晦日の夜。わたしの怒りなどおかまいなしで、ヤギたちは珍しく約束の時間あたりにぞろぞろと集まってきた。いつものヤギばかりではなく、爺ちゃん婆ちゃん、いとこ、奥さん、幼い孫娘2人、狭い家の中はたちまち特有のすごい騒ぎと大ボリュームで流れるサルサの音で大騒音となった。これに今までほとんどの時間を母子2人で静かに過ごしていたRyuが落ち着いていられるはずがない。驚いて、泣いて、泣いて、驚いて、泣いて、泣いて、驚いて、泣いて、泣いて、驚いて、泣いて、泣いて、彼らが夜中の3時に引き上げるまで声を枯らして泣いて、落ち着かせるためにおっぱいに吸わせてたら、もう乳も出なくなり、乳首がふやけてちぎれるぐらいに吸い付かれて、こっちも痛くて泣きそうになった。わたしにパーテイなど楽しむどころか、食べ物も飲み物さえも、口に入れる余裕を与えず泣き続けるRyu。おっともしょっちゅう様子を見に来て、オロオロとあやしたり、ミルクを哺乳瓶で与えたりするのだが、いっこうに泣き止まない。おっと「。。。ごめん、可哀相に。もう二度とこんな思いをさせないよ、Ryu。」そんなこと、前もって簡単に予測できただろうがっ!!!!!!一応、寝室に閉じこもって篭城していたのだが、おかまいなしに孫娘たちは入ってきて、靴のままベッドに乗っかり、Ryuの頭や手を撫でまくり、それでRyuがさらに声を張り上げて泣くものだから「わたしのチッチョベッロ(チャッキーのような抱き人形)のほうがいいもんっ!」と言う。しかし、この娘たちの母親はさすがに経験者で、彼女が抱くと一瞬泣き止むのだが(それがなんだか悔しい。)、それで安心してベッドに降ろすとまたすぐに暴れだすのだ。とうとう真打のお婆ちゃんが登場。おばあちゃんは責めるような目でわたしを見て「この子はいつもこんなに泣くのかい?」わたしは怒りをこらえながらつくり笑顔で「いえ。。今日までこんなにたくさんのひとを見たことないから驚いて泣いているだけだと思います。」おばあちゃんはフンフンとうなずき、おもむろにキッチンの冷蔵庫を開け、卵をひとつ取り出した。何をするのか?と見ていると、Ryuを抱き上げ、オムツ替え台に乗せ、真剣な目で卵で全身を撫で始めるではないか!?わたし「あの~、何をしているんですか?」おばあちゃんが答えるかわりにそばにいた母親が答えた。「シッ、静かに。ああやってね、Ryuちゃんに溜まった悪い気を卵に吸わせてるの。悪い気がなくなれば、Ryuちゃんも泣き止むわ。」OOOOOOOOOHHHHHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!!!!!!!!!!!!そ~ゆ~もん?やがて全身を撫で終わり、おばあちゃんは母親に命じて卵を割ってグラスの中にそそがせた。電気の下でグラスを透かして見る。おばあちゃん「おかしいねえ。。悪い気を吸ったから卵は黒くなっているはずなんだけど、きれいな色だよ。」。。。。。。。。。。。。。。。。。。当たり前じゃいっ!!!!!!!!!ふっもうもう。。。。どうでもいいや。元旦の昼。わたしは起き出して呆然とクラッカーの紙ふぶきとビールのしみでベトベトになった床をニチャニチャと歩いて洗面所に行き、顔を洗った。歯を磨きながら、泣き疲れてぐったりとわたしたちのベッドの上で寝ているRyuを見て、そばで爆睡してるおっとを絞め殺したい衝動にかられた。こんなことなら無理してでも落ち着いたよそのお宅のパーテイに行くべきだった。あれからというもの、未だRyuは落ち着かない様子で、1時間ごとに泣くのでフラフラな毎日を過ごしている。ああ、すごい今年の幕開けだった。生まれて一ヶ月もしないうちにヤギの洗礼を受けるなんて。。今回は失礼をしてしまいましたが、年越しパーテイに誘ってくれたお友達、次回も誘ってください。次回は喜んで絶対に参加しますからっ!生後12日目にしてダンスするRyu。
2008.01.04
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12月5日(水)先日の小旅行ですっかり外出することにトラウマになったわたし。しかし、もうすぐパスポートの期限が切れるので、ある日、しかたなしにミラノ在住の日本人の友人に付き添いをお願いしてミラノの中心にある日本領事館に行くことにした。その日の午前中はMonzaの病院で検診があり「まだ産まれてなかったら2週間後に会いましょう。」なんて本来12月14日である出産予定日から出産が早まる予告のようなおそろしい宣言を受け、ますますトラウマ度をUPさせながらミラノ行きの電車に乗り込んだ(と言ってもたったの2駅)。しかしミラノに着くと「久しぶり~!」と迎えてくれた友人の笑顔に心が和み、トラウマ度DOWN。しかしそこからがついていなかった。領事館に行く前に昼食を食べたBARでわたしが目の前にいたにも関わらず、友人の財布も家の鍵も、携帯も、何もかも入ったバッグが盗られてしまい、パスポートどころではなくなってしまった。長年イタリアに住んでいて、そんな災難もよく聞いてはいたし、実際ぎりぎり危ない目にも何度か遭ったが、目の前でそんなあざやかな(?)手管の被害を見たのははじめてである。やっぱりイタリアは危ないのだ。ちなみに友人はバッグを座った椅子の背に置き、上からコートで隠して何度もチェックしていたのだが、逆に隠していたことがプロのスリには好都合だったようである。イタリア在住の皆さんも、旅行される予定の方も改めて気をつけて欲しいものだ。そこから数日が経ち、しかたがないのでおっとの仕事を無理やりずる休みさせてクルマで領事館へと行きなおす。領事館「3日後に出来上がりますので本人が必ず出頭して取りに来てください。」OOOOOOOOOHHHHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOO!!??今日中に出来ないのっ!?こわごわ、またまた、同じ友人に付き添いをお願いして取りに行った。どんどん予定日が近づくことでいい加減、「もうどうでもいいや。」とやけくそになっていたわたし。とにかく無事にパスポートをゲットし、友人と楽しく昼食、ウインドーショッピングをして帰宅したのだった。*****12月6日(木)リアル友達に宛てたメールを編集。お友達のみなさん、お元気ですか?我が家には一足先にサンタクロースがプレゼントを運んできてくれました!!本日正午、予定日より8日早めで、我が家待望の息子、龍輝が2800gで誕生しました。実は最初は名前は「ミケランジェロ」のはずだったのですが、おっとがだんだん「みーちゃん」から「ミケ」と呼ぶようになり、「ミッキー」そして「Il mio topolino、topino!(ぼくのねずみちゃん!)」と呼び始めたので、猫はともかくねずみはイヤだった、という理由で日本の名前に決めました。しかし「龍輝」もアニメにはない名前、と思ってつけたのに某特撮ヒーローに漢字は違うけど、居ましたね。。。名づけとは、本当に難しいものです。前日までなんの兆候もなく、友人とミラノに行ったりしていたのですが(今考えると無謀だったなあ。。)、6日の深夜2時から少しづつ陣痛が始まり、それが5分おき間隔になる朝まで待って病院へ。 しかし病院では「あなたの陣痛はまだまだ弱いし、病室は満員だから2~3時間公園にでも散歩に行くか、家に帰るかしてもっと陣痛が強くなるのを待ってもう一度来て。」と言われました。あほうっ!我慢が限界だからここに来とるんだっ!そんな悠長なこと出来るかいっ!!! でも、自分ではもう立って歩くことも出来ないほどの痛みで「待てません!隅の椅子にでもいいから座って病院で待たせて下さい!」とねばったところ、しぶしぶ「じゃあ、分娩室に入ってもらうけど、誰か出産する人が出てきたら出て行ってね。」といきなり分娩室へ。 分娩室はこの寒空に窓全開、冷蔵庫のように冷えていて、ベッドに寝かせてもらうこともなく立たされたまま放置されて、陣痛とダブルパンチで分娩台に寄りかかり、ガタガタ震えていると、助産婦さんが登場。 助産婦さんは吸い込まれそうな大きな蒼い瞳の落ち着いた声の持ち主で、「どうしてそんなに震えているの?出産がこわいの?」と聞きました。「い、いえ、とても寒いんです。。」と控えめに訴えるわたし。助産婦さん「あなた、緊張でコチコチよ、可哀想に。お風呂に入ってリラックスしましょう。」と部屋の真ん中のラブホテルのような大きな浴槽にお湯を入れて、わたしを浸からせました。 助産婦さん「どお、湯加減は?」わたしは江戸っ子ではないのですが、熱い風呂党なのです。「ぬ、ぬるすぎて寒いです。もう少し熱くできませんか?」助産婦さん「だめよ、これ以上は。赤ちゃんがゆでだこになっちゃう。」。。。そういうことなら湯加減なんて聞かないで欲しい。そこから助産婦さんがコーラスの発声練習のように「あああ~ああ。言いなさい。」とわたしに指示。ああ、これってインドでヨガの修行をしたというマタニテイコースのインストラクターのおばちゃんから習ったのと同じだ。彼女はコースで「あああ~ああ。。。キエ~~ッ!!」と目をむいて叫んでいて、(大丈夫なのか、このひと?)と思っていたのですが。。。そこから2時間半。まさに最後のいきみは「あああ~ああ。。。キエ~~ッ!!」と叫ばなければならず、インストラクターのおばちゃんに頭のどこかで感服したのであります。産まれ立ての龍輝は助産婦さんによってあっという間にへその緒が切られ、シーツにくるまれておっとの腕の中にパス。おっとがウルウルするのもつかの間、あっという間に新生児室に運ばれていったのでありました。そう、つまりわたしは希望したわけでもなかったのですが、水中分娩となったのです。その後、すぐ出てくるはずの胎盤が出てこず、これは最初に希望していた骨髄麻酔による無痛分娩で摘出。これはあまりうれしくなかったです。しかしあのとき、公園に散歩も、家にも帰らなくて本当によかったとしみじみ思いました。そしてわたしは病室へ。この病院の方針でここから3日間、24時間母子同室、しかも相部屋で過ごしたおかげで学ぶものはたくさんあったものの、我が子が泣き止めば、別の子が泣き、の中で一晩たりとも熟睡することが出来ず、心身へロヘロで退院となったのでありました。突然ですがNaocciじゃないけど、びっくりしたこと~。一般の面会時間に産まれ立ての赤ちゃんがいるってのに、相部屋のひとの親戚がどやどや詰めかけるのもビックリしたけど、風邪引いたおっさんが鼻をかみかみ、赤ちゃんを覗き込んでるのにはビックリした、というか神経を疑ったよ。っつ~か、風邪菌を部屋に持ってくるな!今は家に帰って、小さな赤ちゃん相手に病院と同じ、24時間体制で大格闘しています。 出産がつい8日前のことなのに、遠い過去のことのようです。8日たった現在、産まれたては小猿のような姿だった龍輝もだんだんと人間の男の子らしくなってきて、まるでサルから人への進化の過程を見ているようでおもしろいです。日本と違ってたった3日で病院を追い出され、自宅に帰り、毎日オタオタと(特におっとが)育児に明け暮れていましたが、先日は「お七夜」だったので、ようやく写真を撮りました。リアルいくきーとをご存知のみなさんも、そうじゃないひとも、どちらに似ているか、ご想像におまかせします。それではご報告まで。あらあらかしこ。
2007.12.14
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タイトルをつくづく実感したのはおっとが従業員を増やす計画を立て始めたことから始まる。最近ブログをさぼっているおかげで書いてはいなかったが、去年おっとが雇った従業員第一号ステファノを覚えている方はいるだろうか?少し翳りのある元ピアニストで、そんなアーティスト肌の男がこんなガテン系の運送業に就職して、きっと楽しいネタを提供してくれるに違いない、とわたしは彼と接点を増やすがごとく最初のうちはホームパーティに誘ってみたり、いろいろと試みたのだがドライな彼にことごとく振られ続け、ついにわたしは諦めた。雇い主であるおっとともワゴン車の不具合があるときと給料日にしか接触しないつれなさなのだが、彼は意外に真面目に続いているのである。それで気をよくしたおっと、下請け先に欠員が出たこともあって(あのブラジル人エルトン)この夏、もうひとり従業員を増やすことにした。おっと「従業員第二号はコスティカ(あのわたしの我慢の出来ない国出身の男)を雇ってあげたいんだけどなあ、やっぱり無理かなあ。」わたし「無理だよ、無理。彼と同郷のチプリアンにだって言われたでしょ?うちは零細企業なんだからちゃんと労働許可証を持ってる人を雇ってよ。」この会話からほんの数日でおっとは新しい従業員を見つけてきた。「従業員第二号はエクアドル人だよ。」げ。わたしの我慢の出来ない国も信用できないが、エクアドル人なんて、身近にサンプルがいるだけに余計に信用する気になれない。しかしエクアドル人にはやっぱりエクアドル人のほうがお互い理解しやすくていいのか??数日後、おっとはこの新しい従業員を昼休みに家に連れてきた。エクターという。意外に普通の真面目そうな若者だった。さっそくコミュニケーションを取る振りをして就職の動機とか、やる気度などを面接するわたし。ハキハキと答える口調があのもごもごとしゃべるコスティカと違って、爽快である。彼は別の運送会社に3年働いているのだが(ということは経験者)、歩合給なので毎月の収入が安定せず、妻も娘もいるので固定給のうちのシステムがいいと判断したらしい。きちんと労働許可証も持っているし、彼の3歳の娘が成人するまではイタリアに居るつもり、というから、よほどのことがない限り、ど短期で辞めてしまうこともないだろう。そして何が気に入ったかって、おっとがビールを勧めても「ぼく、酒は飲めないんです。」と断ったところである!つまりわたしがおっとにいつもハラハラしている最大の心配事、ヤギ的なあほな飲酒運転をして免許を取り上げられることがないってことだ!!おっとよ、今回は見る目があったじゃないか?わたしは少し安心し、エクターは次の週からおっとの元で働き始め、おっとはエクターに自分の使っていたワゴン車を譲り、自分は新しいワゴン車を買う資金繰りをしながらレンタカーで働き始め、うまく廻り始めたかな?という感じだった。しかし。そこに今から2ヶ月ほど前、ミラノ県庁からの一通の手紙が届いたのである。内容はだいたいこうだった。「雇用主マルちゃん様へ。 コスティカの労働許可証を与える手続きをしますので◎月◎日◎時、提出された書類のコピーと身分証明書、Etcとコステイカの住所の証明書を持って2人で来てください。」それはそれこそ1年近く前、おっとがコスティカを真剣に雇おうとして書類を整え提出し、あとはコスティカ側が揃えなければならない住所の証明書を揃えるだけ、という段階で、やつが理解していなかったからなのか?ただ面倒だったからなのか?「マルちゃんにわたし雇うこと、ムリ。」とそれを放棄してしまって、闇労働先を探して行方をくらましたのである。おっと「どうしよう?こんなに急に3人目なんて雇えないよ。」わたし「今更こんなものが来ても、もう従業員はエクターに決まっちゃったんだし、放っときなよ。」おっと「でもね、お金に不自由なくイタリアに来た君にはわからないかもしれないけど、貧困から抜け出すために不法移民してきたガイジンにとっては、これって人生が懸かった黄金のチャンスなんだよ?正規移民になればもう警察にびくびくしながら働かなくてもいいし、これで祖国に帰りたいときにも帰れる。だからなんとかして雇ってあげないと!」わたし「気持ちはわかるけど、我が家のピンチも考えてよ?わたしは仕事辞めて収入がないし、あんたは自分のワゴン車の融資が降りるかどうかもわからないし、無理してうちが乳飲み子を連れて逆に路頭に迷う、なんてことにもなるんだよっ!?」おっと「大丈夫だよ、そりゃ最初は苦しいだろうけどコスティカを雇って軌道に乗ってきたらすぐに元が取れるって!」ふうううう。。。なんというか?わたしは街を徘徊している不法移民をどうこういうつもりはないけれど、イタリアはもうイタリア人の人口を超えているんじゃないか?というほどよその国からの移民大国である。わたしの我慢の出来ない国民などは数年前EUに加盟したおかげで急激に増え、ほとんど毎日といっていいぐらいTVニュースの犯罪欄に名を連ねているのだ。今の段階の正規移民だけでもあふれかえって毎度滞在許可証の更新には苦労している、というのになんで我が家がわざわざ手を貸してこの国出身者を救わなければならないんだ?おっとはあらゆるところに電話をかけて行方をくらましたコスティカを探し出した。奴はとある倉庫で、もちろん闇労働者として働いていたのだった。しかし、わたしがこの立場だったら飛び上がって喜びそうなニュースに対する彼の反応は、わたしをまたイライラさせる。「今は仕事があるし、ダメョ。シゴト休むワケ行かないから、県庁に行きたいならマルちゃんだけで行くとイイ。」お人よしのおっと「だから、これは2人で行かないと意味がないんだ。君の雇い主の連絡先を教えてくれたらぼくがこの日は休めるようにお願いするから。君は住所の証明書を大家さんに頼んで、市役所で作成してもらって期日までに持ってきて。」コスティカ「そんな時間ナイヨ。」どこまでもお人よしのおっと「市役所は土曜も開いてるんだから仕事を休まなくても行けるよ。」コスティカお~ま~え~!!立場がわかっとるのかっ!?←絶対わかってないこの会話から数日。コスティカからちっとも連絡がないのでまたおっとが彼に電話をする。コスティカ「ダメね。大家はワタシ住んでること証明したくない。」ああ~、やっぱり。ミラノには不法ガイジン相手に法外な値段で家を貸す大家が多い。しかも一件の小さなアパートに10人ぐらい詰め込んで家賃を搾り取っているのだ。コスティカも例外にもれずにその一人であるらしい。どこまでもどこまでもお人よしのおっと「ん~。。じゃ、こうしよう。君はうちに住んでるってことで証明書を書いてあげるよ。だから今度の土曜に一緒にうちの市の役所に行こう。」わたし「なんだってっ?ちょ、ちょっとそれって、やりすぎじゃないのっ!!??」おっと「大丈夫だよ。コックさんのときだって、『我が家に長期滞在のお客さん』ってことで証明書を出して別に何も起こらなかったじゃないか。今回もそうすればいい。」エクアドル人と日本人の夫婦ってだけでかなり不自然なのに、そこにまた別の国からの客?おっと「市役所がコントロールに来た時、君がいかにもここにコスティカが住んでいるように答えてくれたらいいんだ。」うう~、嫌だ。本当のことを洗いざらいぶちまけてやりたいっ!←百害あって一利なしこうしてコスティカは土曜日、無事に住所の証明書を取得しおっととともに県庁に手続きに行ったのだ。おっとって、本当につくづくお人よしだなあ、と感心した一件だった。そこからおっとは慌ててコスティカ用の中古のワゴン車を探しに行ったり、彼のための仕事の空きを探したり、土日も返上してバタバタ動いていたのだが、あるときから動きがぱったり止まり、いつまでたってもコスティカがうちで働く様子もない。わたし「あのさ、コスティカもう働き始めたの?」一瞬間があっておっと「それがね。。。」と言いにくそうに続ける。「これで労働許可証が取れるのは時間の問題だから、取れたら倉庫のオーナーが正規雇用してくれることになったんだって。だからうちで働くことを断ってきた。」わたし「はあっ!?」おっとは慌てて「あ、でもでもこれでよかったじゃないか?どうせうちじゃ、3人目をこんなに急に雇うこと無理があったんだし。。。」可哀そうなおっと。。。コスティカのためにここまで動いて、結局裏切られた、というか、別の雇用主においしいところだけ持っていかれたわけだ。おっとが哀れでこれ以上追求するのを辞めたのだが、わたしはますますあの国出身者が大嫌いになってしまったのは、いうまでもない。しかし、タイトルのようなことはまだここでは終わらない。実は2人目の従業員エクターは今までエクアドルの国際免許で働いていたのが発覚した。わたし「え、国際免許って期限は1年しかないんじゃなかったっけ?それが3年、ってどういうこと?」おっと「あっちはお金さえ積めばなんとかなるんだよ。でもさすがに3年超えるともう無理があって、先日イタリアの運転免許試験を受けたから、今は結果が出るまで仮免で働いているんだ。」わたし「ふ~ん無事受かるといいね。」そんな話をしていたらエクターから電話があった。「。。。すみません、落ちました。」わたしとおっと「げ!?」おっと「困ったなあ、免許がないとうちで働き続けられないよ?」エクター「イタリア語の筆記試験だったから難しくって。。。あ、でも後1ヵ月後にスペイン語で試験があるのでさっそくそれに申し込みました!」おっと「でもその1ヶ月、免許なしでどうするの?」エクター「まだ仮免の期限が切れてないので大丈夫です。スペイン語での試験には必ず受かります!」そして先週。おっとが複雑な表情で夜遅くに帰宅した。「エクター、また落ちちゃったよ。。。」わたし「え~っ!試験2回目で、しかも今回はスペイン語だったのに落ちるなんて勉強してたの?!」おっと「ぼくのときは外国人は口答試験だったから簡単だったけど、今はイタリア人も外国人も関係なく同じ試験なんだって。ちなみにネットで過去問ができるから、ぼくも試しにやってみたけどエクターの5倍は間違えた。ハハハハ。」ハハハハ、じゃないよ。おっと「残念だけど、エクターには自己退職してもらうことにした。免許もないのにしてもらう仕事がないからね。でも困ったことはぼくのワゴン車の融資の都合がついたから、もうすぐにでも納車ができる状態なんだ。そうなると、ワゴン車が一台だぶってしまうし、早いことエクターの代わりの運転手を見つけないと。。。」ハハハハハ、なんとも悲惨な状況だ。わたし「。。。今度は絶対イタリア人を見つけな、そんな余計な問題に悩まないように。」おっと「そうなんだけどね、難しいよなあ。。。。はあああああああ。」わたしが仕事を探しているときは「どうしてガイジンってだけで雇ってくれないの?」という場面にたくさん出くわしたが、今は雇用者側に立って、その気持ちが痛いほどわかるようになってしまった。わたしよりも社長のおっとのほうが身にしみてわかったはずなのに、おととい「ひとり見つけた!面接してくる。」と会いに行った相手はわたしの我慢の出来ない国民のところであった。。。。。。。前途多難な我が社である。出産予定日まで あと14日。
2007.11.30
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11月3日というより11月2日深夜。ここから先はお食事中の方は読まないでください。レストランから上機嫌でホテルに帰ったわたしたち。このままシャワーを浴びてぐっすり眠ろうかと思ったのだが、おっとたちは実はレストラン待ちの間にコーヒーを飲んだバールで2本も酒を買い込んでいた。(イタリアに深夜営業のスーパーなどはない。しかしちょっと割高だがバールのカウンターで深夜でも酒が買えるのだ。)彼らはこれから酒盛りをするらしい。妊婦のわたしは当然パスである。なのでおっとは鼻歌を歌いながらジョバンニたちの部屋に消えていったのであった。はああああああ。。。。。。やっとこれで、やっとこれでやっとこれでゆっくりトイレに行くことが出来る!ジョバンニたちがイタリアに来てからと言うものの、家でも外でもせわしがなくて、すっかり便になってしまった。まあ、毎回旅行となると環境も行動時間帯も食べ物もずいぶん変わるからいつもこれで悩んでいるのだが、イタリアは特に外のトイレはどこも汚いのだ!ど~して使用後流さないの?というのはたまに日本でもあったが、ど~して便座までびしょびしょなの?とかど~して便器に便座がないの?とかど~して便座にヒールのかかとの跡がついてるの? というのが結構当たり前なのである。こちらの女性はどんな姿勢で用を足すのだろうか?もちろんこんな便座に座る気になんかなれず、あまりに汚いと我慢してしまうか、中腰でさっさと済ませてしまう。しかしこのホテルの部屋のトイレは現在わたし専用。ピカピカに磨かれた便器のふたには「消毒済み」と書かれた紙たすきが巻かれていて、わたしは気持ちよくそれを取り、やれやれと腰を下ろした。10分経過。出ない。30分経過。出そうで出ない。1時間経過。いきみすぎたためか、なんか肛門のあたりが変だ。おそるおそる触ってみると(←汚い話でスミマセン)、腸がちょっと出てる?OOOOOOOOOOOOHHHHHHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!??????わたしは焦ってパニックに陥った。え~と、え~と、そうだ水をがぶ飲みすれば中身が出て腸が戻るかも?!2L入りのミネラルウォーターを手に取り自棄飲みする。しばらくすると次第にもよおしてきた。だが残念ながらそれは大ではなく小のほうである。しかし。今度はいくら頑張っても小も出なくなってしまった。大は出なくてもまだ我慢できるが、小が出ないのは地獄である。破裂しそうな膀胱を抱えながら、部屋とトイレを行ったりきたりしていると、おっとがベロベロに酔って帰ってきて、トイレのドアを開けぱなしで用を足し始めた。(人様には見せられない醜態である!)その勢いのいい音がまた尿意を誘うのだが、出ないのだ!!おっとは服のままベッドの上に寝転がるとすぐに大いびきをたてて眠り込んでしまった。くっそ~、妻がこんなに苦しんでいるのに。わたしは次第に弱っていき、もうトイレに立つ力もなくなって、脂汗をかきながらベッドの上で気持ちよさそうに眠るおっとを睨んで「う~んう~ん」とうなるしか出来なくなってしまったのである。朝5時ごろ。おっとは酔いが醒めたらしく、起き上がってパジャマに着替え始めたので、ついにわたしは「おっと、おっと。。。」と弱弱しくおっとを呼んだ。おっと「ど~したの?」わたし「調子が悪い。病院に行きたい。」おっと「ま、まさか、陣痛?!」←ここで完全に目が覚めたようである。わたしは「違うの。。」と恥ずかしながら状況を説明する。おっとはやや冷めた目になり「え~、大げさじゃないの?そんなことで病院なんて。ミラノに帰ってからかかりつけ医に行こうよ。」わたし「きっとこの状態でミラノまで帰れないと思う。」おっとはこの後、腕を組んでわたしの状態を見て考え込んでいた。「でもさ、こんな初めての町で病院なんて知らないし、かといって救急車も大げさだよねェ。。」そうやって悩んでいる間に7時になり、ベロニカが「朝ごはん食べに行きましょうよ。」と部屋の扉をノックした。ベロニカ「あれ、いくきーとどうしたの?」おっと「昨夜から調子が悪くなったんだよ。で、病院に行くかどうか迷っているんだ。」ベロニカ「何言ってるの!すぐに救急車を呼ぶのよっ!!」ここからは早かった。ベロニカがフロントで救急車の手配をし「後10分で来るから。」というので、力を振り絞って起きてパジャマを脱いで、おっとはバタバタと荷造りをした。救急隊員がどやどやと担架を持って部屋に入ってくる。脈拍を測りながら「どうなさいました!?陣痛ですか?破水ですか!?」わたし「。。。。い、いえ。」知らない人にまで状況を説明するのが恥ずかしい。しかし彼らはさすがにプロで顔色ひとつ変えずにうんうんと聞いてくれる。おっと「やっぱり、救急車なんて大げさですよ。。ネ?」救急隊員「いえ、奥さん脈が普通よりだいぶ低くなっています。それだけ具合が悪いということですよ。」そうなのか、と私自身も思ったが、おっとはそれを聞いてショックを受けたようだった。この日、長いイタリア生活でわたしははじめて救急車に乗った。日本では一度体験したが、イタリアの救急車は運転荒い!振動が激しい!!膀胱にがんがん響く。身をよじりたいが、痛くてそれもかなわず。。。。と思っているうちにある病院の救急棟に担ぎ込まれたのであった。さっそく待機していた救急医師数人が駆けつけてくる。「どうしました?陣痛ですか?破水ですか?出血ですかっ!?」わたし「。。。。い、いえ。」何度も状況を説明するのが恥ずかしい。しかし説明が終わるとプロな彼らはポーカーフェイスで「ちょっとお待ちください。」と書類を作成しにいった。わたしはようやく少し落ち着いて廻りを見渡した。わたしの隣には50歳半ばぐらいのおばさんがいびきをかいて寝ていた。。。と思ったら、急にかっと白目をむき、「あああああ~」と全身を痙攣させはじめたのでびっくりする。看護婦のひとりが慌てて飛んできて「ちょっと~、この女性の担当は!?」とおばさんのベッドを押して走っていった。ああ、やっぱり大げさだったかなあ?と後悔していると、わたしのベッドは診察室に運ばれた。ベッドの上から女医に状況を説明する。女医はふんふんとうなずいて、「じゃあ一気に人工的に大小出しちゃいましょう。」と言って、研修医らしい若い男性を呼び、「浣腸と、チューブと。。」と手配しているのが非常に恥ずかしい。女医「ところで、あなた日本人みたいな名前ね。」わたし「??そりゃ日本人ですから。」研修医が「恥ずかしいセット一式」を運んでくると、今度は別の看護婦が現れる。この看護婦、まるでわたしを恐喝するかのように顔前でゆっくりと区切りながら大声で「よく聞いて!今からわたしはあなたにこのチューブを刺すからね、わかる?これよ、これ!!」というのでびっくりしてしまって「わかりますけど、だからわたしは何をしたらいいんでしょう?」とおそるおそる尋ねてみた。看護婦は急にきょとんとした顔になって「あら、この娘イタリア語がわかるわ。」女医「その娘日本人で、ミラノから来たのよ。」わたし「???」ここから先はあえて説明しない。とにかく寄ってたかって人工的にお腹の中の大掃除をしてもらったのである。この後、妊婦ということで産婦人科の診察を受けに外来病棟まで運ばれた。そこで今までの「???」の謎が解けた。そう、この病院は中国で、なぜかイタリア人医師が働いているのである!もとい、患者の95パーセントは中国人なのだ!!特に産婦人科病棟の待合室では中国人夫婦がごったがえしていて、イタリア人看護婦が「男性はここから立ち入り禁止と言ってるでしょう、もうっ!!」と声をからして旦那さんたちを外に追い出していた。診察を受ける前に「モニトラッジョ(日本語がわからない)」というものを受けたのだが、ここでも中国人妊婦がひとり、書類を作成されていて母親が付き添っていた。娘はまったくイタリア語がわからず、母親がたどたどと説明しているのだが、どうやら保険証どころか滞在許可証も持っていない「闇移民」のようである。きっと、こんな中国人ばかりだから「日本人であること」と「言葉が通じること」が驚かれたのだろうなあ。でも昨夜の散策ではまったく中国人なんて見なかったのに。やっと診察の番が来た。胎児は異常なし。医師「これからミラノに帰っていいけど、ゆっくり運転してもらって、まめに休憩をとってトイレに行くんだよ。」わたし「。。わかりました。」←まだ恥ずかしい。医師「あ、それから君たち東洋人の主食の白飯はお腹の中の水分を吸収して膨張するから、出産まで食べないように。」わたし「ええ~っ!!??」これはショックだった。ほぼ毎日、おかずとご飯を食べている我が家は明日から何を食べたらいいんだっ!?診察室を救急棟の看護婦に付き添われて出ると大勢の中国人の男性軍に混じってひとり南米おっとが心配そうに待っていた。わたしが「みーちゃんは大丈夫だったよ。」というと、おっとは顔を真っ赤にして半泣きになって「ごめん、ごめん。」と謝っていた。こうして、午前中の予定だったフィレンツエ観光は完全に潰れ、わたしたちはそのままミラノに帰ることにした。最初の30分はおっとが珍しくミュージックも流さず、ソロソロと運転していたのだが、早朝からの緊張で疲れていたらしく次はジョバンニに運転が替わる。この時点でわたしの療養タイムは終了した。ジョバンニはラテンミュージックをいつものおっとの倍のボリュームでガンガンにかけ、高速道路上で手拍子をとり、アクセルとブレーキを器用に踏み変えながらクルマを踊るように前後させて運転するのである!!おっとの運転中にはぐったりと眠りかけていたわたしも、おっともベロニカも「うるさ~~~~いっ!!!!」と耳をふさぎ、全身をぴりぴりさせて下手な事故を起こさせないようにするのが必死だった。まったくこの野郎、2年前にも思ったが、もう2度とうちに来るなっっっっっっっ!!こうしてわたしの出産前最後の旅行は幕を閉じた。妊娠後期に旅行なんて、我が家の場合は少々無理があったようだ。あ、現在は平和な日常が戻って、病院に行ったことがウソの様に快腸です。おわり
2007.11.09
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11月2日 ルイスとミリーは早朝から仕事に出かけた。日曜しか休みのない彼らにはこの連休は関係ないのだ。この夜、狭いカテイちゃんのシングルベッドで抱き合って寝ていたおっととジョバンニが昨夜から寝ることもままならなかったようで「いくきーと、支度して!出かけるよ!!」と起こしに来る。この日はピサに移動し、そのままフィレンツェに入る予定だ。モナコなんて予定に入れたら、4日間の連休中に帰宅できないと判断、わたしは軽くジョバンニの希望を無視したのだった。天気は快晴、高速道路は空いていて意外に早くピサに着く。ピサの街は一通、駐禁の場所が多くて毎回行くたびに違反切符を切られる。そこで超観光地のドウモ広場から少し離れた大きな駐車場を見つけてクルマを停め、シャトルバスでドウモ広場へ。ドウモ広場は相変わらず大勢の観光客でごったがえしている。ジョバンニははじめて見るピサの斜塔に感激し、50枚近く同じところで写真を撮り、満足そうだ。ジョバンニとおっと「みんなで斜塔に登ろう!」←どっちが妊婦だか?わたしとベロニカ「げ~、絶対イヤ!!」←何度も言うがわたしはもうすぐ臨月!しかし斜塔への入り口は長蛇の列だったので、彼らは簡単にあきらめてくれた。もう昼ごはん時だったので、またもや激まず激高ピザを近くのピッツエリアで食べ、フィレンツエに向かってGO!ああ、今日はいい感じ。最初はどうなるかと思ったけどやっぱり旅行っていいなあ。ジョバンニ「なあ、今夜のホテルはフィレンツエなんだろ?」わたし「ううん、フィレンツエの街中はこの連休で高かったからプラートっていう隣町にとったよ。」ジョバンニ「フィレンツエに行く前にチェックインしたいな。今朝は起きてすぐ出かけたからシャワーを浴びたいんだ。」わたしとおっと「絶対ダメ!!!」なぜなら、2年前の日記を読んでくださった方ならわかると思うが、前回のローマもこいつのシャワーで時間がつぶれたおかげでろくに観光ができなかったのだ!!ベロニカ「今日は陽のあるうちにフィレンツエを見たいわ。だからシャワーは夜にチェックインしてからゆっくりしたらいいじゃない?」OHHHHH,ベロニカ、やっぱりあんたは見かけだけでなく中身もまともな気がしてきたよ。。。しかし。ここからわたしは判断を間違えた。「フィレンツエは今日の午後と明日の午前中に時間があるからどう廻る?わたしとしては、今日は陽のあるうちにミケランジェロ広場というちょっとはずれの丘からフィレンツエの町並みを見て、ポンテベッキオに行くの。そして明朝にアカデミア美術館にジョバンニが見たい、ダビデ像を見に行ってドウモとか軽く観光してミラノに帰るのがお勧めなんだけど?」この時点でこんな選択式の聞き方をせずにわたしの思うままに行けばよかったのだ。ジョバンニ「全部今日中に見れないのか?明日はミラノでベロニカが友達に会う約束があるから早く帰りたいんだ。」わたし「それは無理だよ。今日はパノラマかダビデ像のどちらかだ。」ベロニカ「じゃあ、パノラマ!」ジョバンニ「何言ってるんだ、ダビデ像だ!丘なんてちょっと行って見て来るだけだろ?」ここでクルマを運転していたジョバンニはフィレンツエの中心街に向かって突っ込んで行った。行った事のある方や、在住の方はおわかりかと思うが、ここは国鉄駅ぐらいまでしか一般車は入れず、そのため、そこに行き着くまでがいつもひどい渋滞なのだ。しか~し!!このやろう、そう言っているにもかかわらず、標識が全部イタリア語で読めないのをいいことにどんどん駅から先の路地に突っ込んで行くではないか!?おっと「きゃ~やめてっ!!後から罰金が来るよ~~~~!!!!!」←この時点ですでに遅いと思う。絶対どこかで隠しカメラに撮られている。やっと路地を抜け、空いている駐車場を探してグルグル中心街の廻りを何周もするのだが、どこも満車である。わたし「これじゃあ今日、美術館が開いてる時間に行くのは無理だよ。やっぱり陽が落ちないうちにミケランジェロ広場に行こうよ。」ジョバンニ「うるせ~、ここまで来たのにもう戻れるかよ!」プチン。私の中で何かが切れた。わたしはもう何度もフィレンツエに来てるから何も見れなくてもどうってことないんだ。彼らのために言ってるのに!!ここからわたしはだんまりを決め込んだのである。並びに並んである駐車場にクルマを停めることが出来たときには、あたりはすでに真っ暗だった。ああ、いつものパターン。ジョバンニ「もう時間がねえ!おう、いくきーと、美術館はどう行くんだっ!?」わたし「。。。。。」ジョバンニ「子供みたいにすねてるんじゃないよっ!今日見れなかったらお前のせいだぞ!!」なんでやねんっ!?わたしは「おまわりさんに聞けば?」と巡回パトロールをしていたおまわりさんを指す。おっとが慌てて道を聞きに行き、3人は走り出した。ジョバンニ「いくきーと、もたもたするんじゃないよ!走って!!」おっとが戻ってきてわたしの手を引き、走り出そうとする。「ちょっとちょっと、わたしは走れません!それにどうせ並んで待つことになるんだから彼らに先に走らせときゃいいんだよっ。」と、放置プレイを決め込んだのだが、結局彼らは簡単な道でも迷ってしまい、わたしのペースでのろのろと美術館前まで連れて行くことになったのだった。並んでやっと中に入れたのは閉館30分前。さほど大きな美術館ではないのでゆっくり鑑賞しているとジョバンニがせっつくので、さらに怒ったわたしは別行動を取ることにした。ほ~、やれやれ。この後、どこに夕ご飯を食べに行こうかな?そういやずっと前、ポンテベッキオの近くで食べたフィレンツエ風Tボーンステーキが絶品だった。ちょっと歩くけど、ポンテベッキオも見れて一石二鳥。あそこに連れて行くか。。。そんなことを考えながら、出口で扉をもう閉めかけている係員に「もうすぐ出産?おめでとう!」とにこやかに送り出され、外に出ると3人がそばのお土産物屋のウインドウに張り付いて待っていた。ジョバンニ「遅いぞ、いくきーと。さあ、ホテルに行こう!」わたし「ええ!夕ご飯は!?わたし、そんな知らない町で探しておいしくないレストランに当たるより、フィレンツエでおいしいところを知ってるからそこに行きたいよ!」ジョバンニ「わかったわかった。じゃあ、そこに行こう。」わたしたちはポンテベッキオに向かって歩き始めた。ドウモを超えたぐらい(美術館から300mぐらい)で「まだかよ、レストランは?」とジョバンニがせっついてくる。わたし「まだあと5分ぐらい歩かないと。」ジョバンニ「駐車場と同じ方向なのか?」わたし「反対側だよ。」ジョバンニ「おれは早くチェックインしてシャワーを浴びたいんだ。そんな遠いレストランなんて行ってられるか!駐車場に戻るぞ!!」わたし「く~~~~。。。。。。。。」1日ぐらいシャワー浴びなくても死んだりせんだろうが!!わたしたちはクルマを飛ばしてホテルに向かった。ギリギリでちゃんと写真も見ずに値段だけ見て決めたホテル(1部屋1泊64ユーロ)なので、ちっとも期待をしていなかったのだがこれが当たりだったのだ!Hotel DatiniViale Marconi80,Prato 59100Tel.057-4562348高速道路の出口からすぐのところにあって、ガラス張りのフロントには気持ちのよさそうなソファが並んでいて、くつろげるようになっている。ダブルルーム2部屋を取ったのだが、広いひとつのダブルルームにダブルベッドが2つ。大きくてお湯のたっぷり出るお風呂は清潔で、イタリアのホテルに珍しくコスメテイックが充実している。わたしたちは「うわ~。。」と息を呑んだ。ジョバンニ「こんなんだったら、一部屋だけでよかったのにな。」せこいなジョバンニ。そういうわたしも、こうなってるとは知らなかったのだけど。ジョバンニはさっそくシャワーを浴びて落ち着いた。わたしたちはその間、フロントでこの街のお勧めレストランを聞いた。フロントのお兄さんはとても親身に地図をくれただけでなく、クルマでの行きかたや、その辺のお勧めの見所を教えてくれた。お兄さんのお勧めのレストランは高い石壁に囲まれた広場にあった。小さいレストランだったが扉には2000年から毎年連続のガンベロロッソ(イタリアレストラン協会でおいしいと認定された店にのみ与えられるもの)や、その他のステッカーが並んでいる。これは確実においしいに違いない!と意気揚々と中に入ると、こんなに小さな町なのにお客でごったがえしていた。店長「予約がないなら、1時間は待ってもらわないとなぁ。」おっと「あ、じゃあいいです。」と外に出る。ジョバンニ「もうあそこの中華でいいじゃねえか?」と斜め前の中華レストランを指す。わたし「え~、わたしはピサもフィレンツエも何回も来てるのに付き合ってきたんだよ?せめておいしいものを食べるぐらいのご褒美ちょうだいよ!!」とおっとにうるうる目で訴える。おっと「でも1時間も君、外で待てるの?お腹は大丈夫?」ここまでさんざん振り回しておいて、いまさらそんな心配もないだろうっ!「プラートの地図をもらったし、観光してたら1時間なんてすぐに経つよ。」わたしたちは1時間後に予約して、さっそく中心街の観光に出かけた。金曜の夜はあちこちの雰囲気のいいパブで、たくさんのひとが飲んでいる。暗いながらもライトアップされた古い教会や建物がとてもロマンチックで「ああ、トスカーナの田舎町だなあ。」と感じさせられるのだ。こうしてブラブラしてバールで温かいカモミールなどを飲んでいるとあっという間に1時間が経って、わたしたちは暖かいレストランに入ることが出来たのだった。まず前菜に土地のハムやサラミの盛り合わせ、プリモピアットにトスカーナ風スープを頼む。期待にたがわずめちゃくちゃおいしい。そしてセコンドにトスカーナ風もつ煮込みと、かのフィレンツエ風Tボーンステーキ。ジョバンニ「ステーキはウエルダンで。」店長「何言ってるんだ。これはレアで食べるのが当たり前だ。文句を言わずにまずは味見してみろ。どうしてもダメだったらもう一度焼きなおしてやる。」と運ばれてきたステーキ。ジョバンニとベロニカは嫌そうな顔をしておそるおそる小さな一口を食べてみる。それからはパッと顔が晴れて「うまいぞ!!」とレアでぱくぱく食べだした。いいなあ。。。わたしの口の中はよだれでいっぱいだった。なぜなら今は医者から「生肉禁止令」が出ていて食べれないのだ。おっと「一口ぐらい、どうってことないよ。食べなよ。」となるべく表面の火の通ったところを切り分けてくれる。おそるおそる食べた。。。。。。うんま~~~~~いっ!!!! ああ、全食できないのが恨めしい。全てを4人分ではなく2人前づつ頼んだのだが、あまりの量の多さにデザートまでたどりつけずギブアップ。メニューもなく、値段もどこにも書かれていないので、会計がこわかったのだが、実際レシートが来て気が抜けた。ピサでまずいピッツエリアで払った一人分より安かった。ちなみにレストランはプラートの町の中心。フィレンツエから電車でも行けると思う。OSTERIA CIBBEP.za Mercatale49 PratoTel.0574-607509終わりよければ全てよし。明日は軽くフィレンツエを観光してやっとミラノに帰れる。全員で充実した気分でホテルに戻ったのだったのだが。。。つづく
2007.11.08
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あああ~、前回の日記から気がついたら3週間近く経ってるよ! 先日の薪ストーブの件、皆さんからいただいたコメントをまとめて、さも薪ストーブを所持した友人からの忠告のようにおっとに言ってみた。おっともおっとでいろいろなひとからいろいろ忠告を受けたようで「なるほど~。。」と聞いて確かちょっと前にお願いしていた知り合いに調べてもらうこともうやむやにしたようである。(てか、おっとの約束に確実なものなんてあまりないのだが。)そんなことよりも、おっとの興味はすでに別のところに行ってしまってここ数日は薪ストーブの「ま」の字のひとつも出ない。先々週またもやボイラーが壊れて、先週修理屋に来てもらったにもかかわらずだ。そのことは別の機会に書くとして。イタリアは11月1日から4日まで飛び石連休だった。この期間、あの忘れもしないおっとの母方のいとこ、ジョバンニが来春結婚予定のスペイン人の婚約者とまたもやイタリアに遊びに来た。おっと「でね、ぼくがジェノバのルイスに会いに行こう、って提案したら彼らはジェノバまで行くならモナコ(フランス)とフィレンツェに寄りたいって。近いんでしょう?ジェノバから。」わたし「。。。あのさ、もうすぐわたしは臨月の妊婦だってこと覚えてる?確かにミラノからに比べたら遠くはないけど、そんなハードな旅はごめんだよ。」おっと「大げさだなあ、クルマで行くんだから歩くところなんてないでしょ。」わたし「産婦人科の先生には『行ってもいいけど、滞在型のリラックスな旅をしなさい。』って言われたんだよね。でもそんなの前回のジョバンニたちとのローマ旅行を考えたらどうしたって無理だし。旅行には行きたいけど、わたしやっぱり家で留守番してる。」おっと「そんな!君が来ないとぼく、モナコとフィレンツェの行きかたなんてわからないよ。ねえ、一緒に行こうよ!」結局わたしは考え抜いたあげく、しぶしぶ一緒に行くことに同意した。だって世間が4連休の間、家でいつものように独りでぽつねんと居るのはおもしろくない。ってか、もっとわたしの体調に合わせてソフトな旅を考えてくれないんだろうか?と恨めしくなる。「でも今回は奴らに振り回されての無理は絶対しないからね!」10月31日ハロウィンの夜彼らが我が家にやってきた。まずジョバンニが「いくきーと、久しぶりだなっ!」とドカドカと玄関に入ってきて、続いて「お邪魔しま~す。」と婚約者がちょっとためらいがちに入ってくる。ジョバンニの婚約者は彼にもったいないぐらいの、きれいな緑の目の柔らかそうなウェービーヘアの持ち主の可愛い感じの娘だった。「ベロニカです、よろしくね!」とわたしをギュッと抱きしめる。フローラルのシャンプーのいい匂いがした。うう~ん、なんだかとっても普通に見えるけどだまされないぞ。ジョバンニの家族の第一印象もそうだったのが、実は大ドン伝返しだったのだ!でもでも彼女、スペイン人だからやっぱり普通に見える普通なのか?そして続いてなぜか?ウイリアムが入ってきた。わたし「なんであんたがいるんだよ?」ウイリアム「マルちゃんにこの後のクラブでのハロウィンパーティに誘われたんだよ。お前も来るんだろ?」わたしは時計を見た。もうすぐ夜中の12時だった。行くか、馬鹿たれ~~~~~っ!わたし妊婦なんですけど?明日の朝は奴らのリクエストに応えるために早朝出発なんですけど??ああ、なんだかのっけから馬鹿馬鹿しくなってきた。「ごめん、わたし明日に備えてもう寝るよ。みなさんも明日が早いことをお忘れなく。」と寝室に入った。かなり嫌味をたっぷりこめて言ったつもりだったのだが、ヤギにはそよ風にも感じなかったらしい。彼らははしゃぎながら出て行き、次の日の朝5時にガヤガヤと帰宅したのであった。11月1日当初の予定では8時におきて9時半ごろジェノバに向けて出発する予定だった。というのは、昨夜ジョバンニたちが来るまで、おっとは最近ネット上で見つけた元カノとのチャットにいつものように夢中になっていて、何度せっついても肝心のジェノバのルイスに行くことを連絡していなかったため、わたしが彼らと連絡を取って、昼ごはんにお邪魔する、という手はずをつけたからだ。しかし8時になんて、当然誰も起きやしない。一人で起きて、そろそろと洗面所に向かうと、リビングのソファの上でウイリアムが大いびきをかいて寝ていた。なんでウイリアムがうちで寝ているんだ?ちょっと嫌な予感がした。顔を洗って洗面所から出てくるとウイリアムが眠そうな目をこすりながらソファからのそりと起き上がる。わたし「おはよう、よく眠れた?」ウイリアム「狭いソファの上でよく眠れるわけがないだろう?おまけに2階ではおふたりさん、頑張ってたのが丸聞こえだったし。」わたし「。。。。。。」あいかわらず可愛げのない奴だ。わたしはこの後、ウイリアムとわたしのために朝食を用意して、わざと大ボリュームでTVをつけ、大声でしゃべっていたのだが、残り3人はちっとも起きてこない。仕方がないのでおっとを叩き起こし、シャワーを浴びさせていると、やっとジョバンニたちがのそのそと起きてきた。ここから彼らもシャワーを浴び、おっとは荷造りをはじめやっとみんなの準備が整ったのは10時半。わたし「あ、そういえばホテル予約してないんじゃないのっ!?」ネットで安めのホテルを即効探し出して全データーを書き込んで予約が終了したのは11時。わたし「予定より出発がかなり遅れたからルイスに予告して。」とおっとにルイスの奥さんミリーに電話をさせる。おっとは「今から家を出るからあと2時間で着くよ。」といい、ミリーは「わかったわ、気をつけて来てね。」と電話を切る。やれやれ、やっと出発できる。。と荷物をクルマのトランクに詰め、みんなで座席に乗り込むとウイリアムも乗り込んでくるではないか?わたし「え。。。あんたのクルマは?」ウイリアム「昨日マルちゃんがうちまで迎えに来たんだから、乗ってきてねえよ。」ってことは、ただでさえ遅れているのにウイリアムをマルペンサ空港のそばの奴の家まで送っていかなければならないってこと?OOOOOOOOOOOOOOOHHHHHHHHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!ウイリアム「心配するな、うちからジェノバまで2時間ぐらいだ。」わたし「。。。あんたのうちまでここから1時間だろっ!?」おっとめ~、そのときそのときの楽しみだけを考えて、ホテルの予約といい、ジェノバのルイスのことといい、こいつを前夜に誘ったらどうなるかとか、ちっとも考えてやしない!!!結局ウイリアムを彼の家まで送り、知らない道を不安になりながらすっ飛ばしてジェノバのルイスの家に着いたのは昼の3時半を廻っていた。怒ミリー「いらっしゃい~、お腹ぺこぺこで待ちくたびれていたのよ。」とさっそくご自慢のエクアドル料理を大盛りで振舞ってくれた。しかし、食べきることが苦しかった。なぜならジョバンニが「腹が減ったよ、ジェノバまでなんて持たないよ!」とサービスエリアで昼食を取りたがり、同様にお腹がペコペコだったわたしたちはそれに付き合ってしまったので、すでにお腹がいっぱいだったのだ。わたしたちはそれでも無理して食べたのだが、ジャイアンジョバンニはほとんど残していた。ああ、まったく失礼なやつだ。ジョバンニ「ジェノバ観光に行こう!」ここで失敗したくないわたし。なぜならこの夏、エルトンと来たときわたしはコロンブスの生家などがあるジェノバの旧市街に彼を連れて行って「ぼくはこんな都会じゃなくて海が見たかったのに。。」と後から愚痴られたのだ。ジョバンニ「海なんかより旧市街に行きたいな!」よかった、ルイスにそのことを言うと「え~、海辺の散歩道を歩こうや。」と渋る。そりゃあ、彼らには仕事場もあり、すっかり飽きてしまった旧市街だから行きたくないのはわかるけど。。わたし「みなさんで好きにして。」←なげやり2台のクルマでさっそく出かけた。先頭に立ったルイスのクルマはやはり海への道を行く。やっぱりね。一方、そのことを言うと我がクルマの中でジョバンニは「旧市街に行きたいのに!!」と叫んで暴れる。しかし結局何を思ったのかルイスはUターンをして旧市街のパーキングにクルマを停めたのだった。「もう真っ暗だから海に行ってもつまらない、と思ってな。」そう、もう真っ暗。2年前と一緒だ。ローマもベネチアもミラノでさえ、着いたら真っ暗だった。しかし真っ暗でもライトアップされた石畳の旧市街は雰囲気があって、ジョバンニも彼女もうれしそうである。久々に再開するいとこ同士の話もはずみ、ベロニカも本当にいい娘のようで、コミュニケーションがうまく出来ないながらもミリーに通訳してもらって楽しく夜の繁華街を楽しんだ。しかしジョバンニは2年前と同じセリフを吐く。「真っ暗だからビデオカム廻してもまわりが写らないよ!」結局2年前と同じ。「いくきーと、ここで彼女と写して!」「ダメ、ここが真っ暗だから撮りなおして!!」わたしのデジカメなんですけど?そしてわたしは妊婦でこんなしゃがみこんで下からなめるように写すのが困難なんですけど!?おっと「あぶなっかしいな、ぼくが写すよ。」ジョバンニ「お前はヘタだからダメだ!」こ~~~~~~ろ~~~~~~~~す~~~~~~~~~~~~~!!!!!急な坂道の続くジェノバの旧市街はわたしには相当きつかった。もうダメだ!とギブアップ宣言をしようかと言葉を準備していると「ジェノバのピザが食べたいな。」とジョバンニが安っぽいピッツェリアを指差したのでホッとしたのである。このあと、我々はちっともジェノバではない普通のピザを食べ(ジョバンニは「まずい。」とほとんど残し。)、ルイスの家で雑魚寝となった。ああ、旅の初日からこれでわたしの身体は持つだろうか?つづく
2007.11.07
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お久しぶりです。最近ご無沙汰しましてすみません。イタリアならでは8月の何も動かない間に焦って、秋からのいろいろなマタニティ関係のクラスだとか、セミナーだとか申し込んだおかげで最近毎日出ずっぱり。ある日は午前にMonzaの病院のマタニティセミナーを受けたら午後からは近所の病院のマタニティビクス、夜からはおっと同行の夫婦セミナーと、いい加減疲れてきた。義務教育の学校じゃないのだから、さぼればいいものを真面目日本人はそんなことが出来ないのであった。****さて先日もちょっとふれた家の裁判。あの大雨のときにはっぱをかけたのも関係してか?ようやく弁護士事務所からひさびさのお呼びがあった。用件はこれ以上、裁判を続けるか否か、ということである。なぜならはじめてすぐ、わたしは足を骨折して入院、それからはおっとが主体になっていたものだからわたしは具体的に関与が出来ていなかった。今回わかったのはこの裁判、とっくに勝訴しているのだ!!←早く言えよ、おっと!当たり前だ、被害状況からしていくら裁判所のペリートが不動産屋に裏金を掴まされて裁判を延ばしたり、報告書に細工したところで、あからさまにこちらの勝ちであることはわかっていたことなのだ。しかし。勝訴の段階で不動産屋がすぐに不服を訴えたらしい。なぜなら、我々の建築士が屋根を修理するとして提出した費用が高額すぎる、というのである。そこでおっとは念のため、他の業者に屋根の修理代の見積もりを出したらしいが、だいたい我々の建築士がはじきだしたものと同額であった。つまり常識的な額。だが不動産屋が「仕方がねえな、払ってやるからとっとと閉廷しやがれ。」な勢いで提示してきた額は我々が提出した額のたったの1/3であった。裁判所までが奴らの悪行を公式に認めているというのに、あきれて開いた口がふさがらない。我々の弁護士と、あちらの弁護士がまるで八百屋の店先のように「もっと払えよ。」「いや、もっと負けろ。」と問答しているうちに、再判決定期限1ヶ月前を切ったわけだ。この2年、闘ってきて雨が降るたびにヒヤヒヤするのも、床に滴った雨水を掃除しながら「こうなったのも誰のおかげだ?この野郎!!」と歯軋りするのも精神的に疲れてきた。おまけに弁護士からお呼びがあったりメールがあるたびに、素人には想像も付かなかった奴らの更なる悪行が暴露され、そのたびに電気ショックを受けたような心臓衝撃が走るのだ。おっと「もうすぐ子供も産まれるし、出来ることなら産まれる前までに屋根の修理を終えたいからもう終わりにしよう。」わたし「うん。。それは賛成だけど、でも奴らの提示してきたたったあれだけの額じゃ今までかかった弁護士もろもろの費用は別として、閉廷の際にかかる費用の捻出だけでも赤字だから少なすぎるよ。」おっと「ぼくらの弁護士が言うには、半分ぐらいまでなら奴らに出させられるみたいなんだ。だから過去の赤字はもう仕方がないとして、材料はうちらで揃えてマルコ(我が家の向かいに住む工事業者)に工事代だけ払って修理してもらおうよ。」確かに。裁判所の決定を不服としてまで絶対に払わない姿勢をみせるこの極悪不動産屋。これ以上続けたところで、さらに膨大な費用がかかるし、ヘタしたらこちらが言われもない揚げ足を挙げられて敗訴に追い込まれるリスクもある。わたしとおっとの意見は決まった。わたしたちは弁護士がいう提示額の半分の額を条件に閉廷することに決めたのであった。弁護士「そうですか。。。現在の屋根の状態を考慮すると、裁判を続けるには時間がかかりますし、その決定が懸命かもしれません。」ああ、やっとこの戦いも幕を閉じようとしている。。。長かった。裁判なんてそうそうするもんじゃない。しかし、我々の場合は仕方がなかった選択だった。あのまま不動産屋と裁判もはさまず示談していれば、「修理費用半分ずつ折半にしましょう。」(←なんでやねん!?)と彼らの出してきた現在の我々の提示額1/10以下のさらに半分の額で丸め込まれるところだったのだ。そんな小額でどこをどう修理できるというのだろう?今までの応急処置でかかった費用だけでもその額をゆうに超えている。結果だけ見れば我々は精神的にも金銭的にもボロボロになって得はおろか、損しかしていないのだが、こんな奴らに正義の鉄拳を下し、奴らの財布の口を無理やりこじ開けさせれるだけでも収穫はあった。しかしその後の弁護士の言葉でわたしたちは感慨から現実に引き戻された。「先日、アルベルト ルイジ(懐かしの我が家のずさん工事犯野郎!である。)が供述の中で『オプションとしてかかった料金がまだ支払われていない。』と言っていたそうです。心当たりはありますか?」それまで黙っていたわたしは「ルイジ」という言葉で簡単に爆発した。「オプションで屋根の工事を奴にさせてしまったのが、裁判になるきっかけのようなものだったんですよ!?これはすでに家の契約時に不動産屋にローンの中に組み込んで払っています!!」弁護士「ということは領収書は契約時の小切手の明細でわかりますね。確認しておきます。」。。。ということはまだ不動産屋からルイジの野郎に支払いが完全に済まされていないということか?もしそうならいい気味だ。こうしてわたしたちはミラノの中心にある弁護士事務所を後にし、久しぶりに我が田舎町には存在しない日本食レストランで寿司を味わったのだった。そのときに出た話題。おっと「屋根ももうすぐ修理できるし今年こそ薪ストーブを買わなくちゃ!」わたし「え。。。屋根の修理も、閉廷にかかる費用もいったいどれぐらいになるかわからないし、出産っていろいろ物入りみたいだし、乳幼児がいる家に薪ストーブって危険じゃない?もうちょっと先に延ばそうよ。」おっと「何言ってるんだよ?買うなら今だ。取り付けの工事だって大変だろうし、乳児がいるのに今年の冬も例年みたいにボイラーが壊れて数日間暖房が入れられなくなるのが、何よりも心配なんだよ。」わたし「それはわかるけど、暖炉用の配管工事もルイジがやったって事実をお忘れなく。わたしは奴の工事なんて絶対信用してないからね。」おっと「大丈夫だよ、さすがに家全体がずさんってことはないだろう?」甘いな。。。入居当時のことを忘れたのかおっとよ。電気はコンセントを差し込んでもつながらず、そのため冷蔵庫はあるのに数日使えず、洗濯機を廻せば、壁の水道の蛇口の根元から水が噴水のように吹き出しただろうが!そんな目に見えるところでそうなのだから、壁の内側に隠された配管なんて、ちゃんと通ってるかどうかなんてわかりやしない。おっと「とにかく配管はしてあるんだ。今度薪ストーブを見に行こう。」と、ある週末に我々は2年前にも訪れたおっとの仕事の顧客先の薪ストーブ屋のドアを押したのだった。「今年こそ薪ストーブを買う決心がついた?」と店主はにこやかにわたしたちを迎えた。おっと「うん、もうわかってると思うけど、2年前に決めていたリスのマークのストーブが欲しいんだ。」店主「ああ、Morsoのストーブね。(下の写真みたいなの。)暖炉・薪ストーブを楽しむ(vol.2)で、家に煙突とかは付いてる?それによって工事費用とか期間がずいぶん変わってくるからね。」おっと「煙突の配管工事は入居前に済ませてあるよ。」わたし「ただ、ちゃんと機能するかどうかが問題なんだけど。」と苦笑いをする。するどい店主、それで顔色が少し変わった。「そういえば裁判どうなったの?ぼくもね、今あるお客さんの裁判のアドバイザーとして証言しにいったりしているところなんだけど。」と、ポケットアルバムを持ってきた。アルバムは火事で焼けただれた家の一部をあらゆる角度から撮った写真で一杯だった。わたしたちは息を呑む。「これはね、ベルガモの新築の家が薪ストーブによって火事になったときの写真なんだ。煙突の配管には耐熱性の管が必要なんだけど、工事業者が安い管を使い、しかも建築法で「管のまわりの直径10cm以上は木材から遠ざけなければいけない。」と決められているのに家の柱に使った木と、天井に使った木に密着させて取り付けていたものだから、使っているうちにじわじわ木が木炭状に燃えて火事となってひろがったんだよ。」思わずこの工事業者はルイジではないか?という不安が頭を横切った。店主は焼け残った管の拡大写真を見せる。「これがその問題の管なんだけど、お宅のはこれかい?」わたしとおっと「ああ、まさにこれ!!」店主は続ける。「これだけじゃないんだよ。前冬ベルガモだけで30件以上の薪ストーブによる火事があったんだ。その全てが使用者の不注意なんかではなく、工事業者のずさん工事のためだったんだ。」30件。。。といえばルイジが一冬に働けるだけの数だろうか?とまた考えるわたし。店主は「本当はこういう丈夫な管を使わなければならないんだ。」とピカピカでいかにも分厚そうな金属製の管のカタログを見せた。「しかしあの写真のと同様の管を使っていたとなると、壁にはたぶん問題ないとは思うけど周りに木があるかどうか確かめなくちゃ、うちもそんな危険な家にストーブは売れないよ。どうする?うちから専門業者を派遣する方法もあるけど、知り合いでそういうひとがいるならそのひとにまず見てもらったほうがいいよ。」つまりは、またさらにお金がかかるということか。おっと「心あたりがあるんで、まず見てもらってから返事するよ。」わたしたちはがっかりして店を出た。家の問題はこんなにも後を引くものなのか?薪ストーブひとつも安心して買えやしない。ルイジみたいな奴が建築業界でのさばっているイタリア、許していいのか??はぁ。。。。。。
2007.10.15
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おっとの幼馴染ウイリアムがUSAで行方不明になった話を覚えておられる方はいらっしゃるだろうか?彼はせっかくイタリアくんだりからUSAまで彼女の出産に合わせて行ったというのに、一方的に彼女のお母さんから「娘はアメリカ人と結婚しました。」と別れを告げられて、彼女にも、産まれた娘にも遭えずにショックで行方不明になったのだ。日記にはUPしなかったけど、その当時はまるでドラマのようで、心配というより次に何が起こるかかなり期待しながら様子を見ていたクールなわたしだったのだが、3ヵ月後ぐらいにエクアドルの実家に戻った、という彼からおっとに連絡があって、ありきたりな展開にちょっとがっかりしながらもホッとしたのだった。そして、その電話の2週間後ぐらいには何事もなかったかのようにイタリアに帰ってきたウイリアム。話を聞けば、彼女とヨリを戻したという。ど~ゆ~こっちゃ?ウイリアムが言うには偽装結婚はあくまでも偽装結婚であるという。ではなぜ彼女がせっかくはるばる行ったウイリアムに遭わなかったかというと、留守の間、彼女の兄弟のひとりが、ウイリアムが他の女の子といちゃいちゃしながらミラノの街を歩いているのを目撃してさっそく彼女にちくったかららしいのだ。(彼女の父親と兄弟はミラノに住んでいる。)確かにここの兄弟は「種馬野郎」なので、ありうることなのだが、彼女はこの裏切りを怒って、遭わなかった、というのである。エクアドルに帰った彼はその間、必死で言い訳をしてなんとか彼女とヨリを戻すことが出来たので安心してのイタリア帰国となったのだ。な~んだ、つまらない展開。ウイリアム「だから、やっぱり俺はアメリカに行って家族3人で暮らすよ。」はいはい。やっとイタリアの家族親族友達一同と離れる決意が着いたか。そうとなれば、別に彼に思い入れなどないわたしはあくまでもドライだ。ヤギ的飲んだくれ会のお誘いなど断り続け、おっとはひとりでせっせと参加しに行き、「そういえば彼に半年以上遭ってないな?」、というころにウイリアムから先日2人揃っての夕食会に招待された。「お別れ会」だという。そうか、いよいよ。。。。この会ぐらいは参加しておくか、と出かける準備をし、夜おっとが帰宅するのを待った。帰ってきたおっと「今日はシンプソンのお別れ会だから。」へ?シンプソンとはアメリカアニメの「ザ。シンプソン」のホーマー似のわたしは数回しか会ったことがないウイリアムのいとこだ。聞けば、たった1ヶ月のエクアドルへの里帰りである。わたしは黙って上着を脱いでクローゼットにしまった。「ひとりで行ってきなよ。」おっと「え~、一緒に行こうよ。」わたし「嫌だよ。たったの1ヶ月の里帰りでしょ?だってウイリアムのうちに行ったらあんたいっつもベロベロに酔いつぶれて朝までソファの上で寝ることになるじゃない?普段ならともかくわたしは妊婦なんだからそんな一夜の過ごし方はごめんだね。」おっと「。。。わかった、なるべく早く帰ってくる。」わたし「信じてないけど、携帯電話だけはいつも身につけて置いて。なんかあったとき連絡できないのは嫌だから。」おっとは出て行き、わたしはひとりで夕食を済ませ、シャワーを浴びてベッドに入った。なかなか寝付けなくて本を読んでいると本当におっとが夜中2時というとても早い時間に帰宅したのでビックリ!わたし「は。。。はやい。どうしたの、いったい?」おっと「ミーちゃんのために早く帰ってくる、って言ったろ?」そういえば最近、おっとはヤギ的飲み会への皆勤賞なのは相変わらずだが、朝帰りが極端に減った気がする。父親になるってのは、こうにもおっとを変わらせるものらしい。わたしはまったく興味がなかったが「どうだった、お別れ会?」ととりあえず会話のネタを提供。おっと「シンプソン、明日永久帰国だって。もうイタリアにうんざりしたからって。。いいなあ。あとウイリアムの1ヶ月遅れの誕生会も一緒にしたから夕食会は盛大だったよ。」。。。出かける前と話が違うやんけ。おっと「でね、でね、ウイリアムは夏休み、USAの彼女のところ経由エクアドルに帰ってたんだって。えっと、それからぼく決めたよ。老後はエクアドルに帰るんだ!!」はあ?なんでいきなりそういう展開になるんだっ!?おっとは彼らにもらってきた数冊のエクアドルの不動産屋のパンフレットを広げる。「シンプソンの家族は向こうに家を買うためにこっちに出稼ぎに来てたんだけど、購入資金も溜まったし、買う家もめぼしをつけたらしいよ。見て、この値段!ぼくらもあっちに家を買おうよ!!」わたしは夜中に突拍子もない話に頭をクラクラさせながらパンフレットを見た。どのページを繰ってもきれいなアメリカンスタイルの新築マンションでおしゃれな家族が幸福そうに団欒している写真が満載である。値段予想はだいたいしていたのだが、実際見て驚いた。首都キトの中心の広い新築マンションがミラノの車庫がひとつしか買えるか買えないぐらいの値段で買える。超高層マンションのオフィスワンフロアは我が家の2/3の値段、郊外の庭付き一戸建ての豪邸も我が家の半分もしない。安いっ!!おっと「今のうちに買っておこうよ。で、帰りたくなったらいつでも帰れるように。。。」わたし「ちょ、ちょっと待ってよ!買うって言っても通販で服を買うのと訳が違うのよ?こんな遠くからどうやって家が買えるの?第一ローンはどうするの?安いと言っても今の我が家のローンだけで精一杯なのよ?」おっと「ローンは借家にして家賃で払っていくさ。管理はママに頼めばいい。だから来年君が日本に里帰りするのにあわせて、ぼくはエクアドルに行って家を買ってくるよ!」わたしはとうとう爆発した。お腹のミーちゃんもビックリしたのか、内側からお腹を激しく叩いて蹴りまくってわたしは立っていることが出来なくなって、ソファの上でうずくまりながらもわめき続けた。そんな大きな買い物をわずか1ヶ月ほどの休暇のうちにしようなんて、慎重さがなさすぎる。おっとのそんな軽いノリに この家だって疑問を持ちながらも買って、後からこんなに多々の問題を抱えて苦しんでいるというのに!しかも家が安いのは向こうの平均収入が安い、つまり経済成長していない国だからだ。わたしは老後そんな国に移住するなんてまっぴらごめんだ。これはすでに数十万回常日頃、おっとに言ってあることだ。それに今から何十年も先の老後用の家を買ったって、そのときには新築マンションも中古以下のレベルのマンションになっている。そんな古い家に住みたくない。そしてそして、来年乳児を抱えて日本帰国予定なのだが、この目的だっておっとに数十万回常日頃、説明しているのにちっとも理解してない!!来年の帰国は両親から受けた命令なのだ。それというのもわたしたちがイタリアに家を買い、子供まで出来たことで我が両親は娘がイタリアに永住すると判断したらしい。母「お父さんが先に死んだら、わたくしこの家を売って完全介護つきマンションを購入しますから、我が家にあるあなたのものは全部イタリアに持って行ってちょうだい。」父「そうそう、邪魔なんだよ。でもあなたのものを勝手に移動するとお母さんが口から火を吹いて怒るから、家の中を改装したくても何も出来ないんだ。来年、荷物をまとめに帰ってきなさい。」ああ、わたしっていまや日本に帰っても居場所がないんだな。。しかし乳児を抱えてそんな引越しまがいのことできるだろうか?もうちょっと数年先に延ばしてもいい気もするのだが、我が父はときどき家族の承諾なしでいきなり暴走するのでそれがこわい。わたしが2年ほど東京で一人暮らしをしていたとき、2泊3日で母が友人たちと旅行に出かけた。そのとき父は、きっとずいぶん前から密かに計画していたであろう小さな我が家の倉庫の中のものを、庭にプレハブの物置小屋を作って洗いざらい移動させ、倉庫にじゅうたんを敷き、家具を入れてあっという間に自分の書斎にしてしまった。母に承諾なんて絶対得られないと踏んだからの行動だとは理解できる。旅行から帰ってきた母が仰天したのも言うまでもないが、わたしが帰省したときに大学のときの卒業制作や作品のキャンバスがむしりとるように木枠からはずされ、ぐちゃぐちゃにまるめられて父の登山道具の下敷きになってプレハブ小屋の中で土埃をかぶっているのを見たとき、呆然として涙がつーっと頬を伝わった記憶がある。去年も父が海外から永久帰国してわたしの部屋を仕事場にした、とわかったときも、あのときと同じく父が母の留守中に突然始めたことだった。出かける前から怪しんでいた母が予定より早めに帰宅して発見し、わたしに連絡を取った、という次第である。もうわたしは実家に住んでないし、しぶしぶ許可はしたがやはりあのときのトラウマがあって「わたしのものを移動するときは慎重にお願いします。」とは言ったけど、すでにいろいろ移動させてしまった後のようだったし、飾り棚に飾ってあった一時的に凝っていたペンギンコレクション、ぬいぐるみとかはまだしも割れ物やブリキのおもちゃはきっと無事には済んでいないだろうな。。。と考えるだけで気が重くなる。父にとってはただのガラクタでも、わたしにはひとつひとつに思い入れのあるものばかりなのだ。必要最低限のものはイタリアに持ってきて、処分できる限りのものは処分してきたはずなのだが、処分したくなくても実家において置きたいものはいっぱいある。古い洋服やバッグやアクセサリーはもっと絞って処分できるし、古い画材も使うかどうかは別にしてイタリアは高いから持ってきてもいいだろう。としても、例えば日本で自分が商品化したもののサンプルとかそのまま捨てたくも使いたくもないし、子供の頃からの大量のアルバム類もそのまま置いておきたいし、生まれた年のお祝いにもらった10段(だったっけ?)飾りのひな人形なんてデカすぎて持ってくる気も起こらないし、収納場所もない、しかし処分は呪いがかかりそうでこわい(実際いわくつき日本人形なのである!)。どちらかというとわたしは畳の上で死にたかった。しかし自分で選んだ国際結婚。こうして来年にはわたしにはイタリアに永住する選択しか残されなくなるので、それなりに日々、覚悟を決めるように努めているのだ。だというのに老後、住んだこともない、住みたくもないエクアドルに行く?おっと「ぼくももうイタリアはうんざりだ。今すぐにでも帰りたいんだよ。」その気持ちはわかる。わたしだって、こんなに住みにくいイタリアなんてうんざりだ。でもおっとという存在があるから仕方がないし、なんとか快適な生活を作るためにメンタリティを変えようと努力しているんだ。だから、だから。。。。。それってあまりにも自分勝手で不公平じゃないかっ!?おっと「落ち着いて。じゃあ、こうしよう。君のお母さんと同じように君が先に死んだらぼくとミーちゃんとでエクアドルに住むために今から家を買うってことで。」。。。。。。。。。。わたしはあんたの先に死ぬ予定かい?そんなにわたしがうっとおしい?たぶんおっとも我が父のように、わたしの承諾が得られないなら独断でエクアドルに家を買ってしまいそうな勢いだ。わたしは自分を我が母に重ねた。小さい頃から彼女のようになるのが嫌で、あんなに反面教師として見て来たはずなのに。気がついたら似ている自分に激しく嫌悪した。
2007.10.01
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前回の日記のぼろ勝ちサッカー試合動画 ジャパンVSエクアドル をご覧になりたい方はここ。http://www.youtube.com/watch?v=HYd4Nc6DZ4g
2007.10.01
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おととい夜中、またもや大雨が降った。いつもは爆睡状態で起きないおっとが珍しく「雨だ!」と珍しく深い眠りに入っていたわたしを叩き起こし、ひとりで2階に様子を見に上がっていった。(ひとりで行くなら起こすな!)しばらくしてベッドに入りなおすおっと。「どうだった?」と聞くと「うん、大丈夫。もう姿見が置いてある一箇所からしか水が入ってきてないよ。」「え!今までそんなところから水なんて漏れなかったじゃない?」おっとは眠そうに「他の箇所を修理してるときにそこの古い瓦を踏みつけて割ったんだな、きっと。今度友達が来たら、修理はそこだけでいいや。」とすぐに大いびきを立てて眠ってしまった。踏んだだけで壊れる瓦?そんなのだったら「象が踏んでも壊れない筆箱」のほうがマシじゃないか!あれのCMは確か、インド人のようなひとを乗っけた本物の象がそうっと筆箱の上に足を置いて「壊れない~。」と言っていたような気がする。しかしここから明け方までわたしはずっと小学生の頃、友達の持っていた赤い「象が踏んでも壊れない筆箱」の上に机の上から飛び降りて壊してしまって泣かせてしまったことを思い出し、悔いていたのであった。****本題に入ろう。先日、ジェノバのいとこのルイスが挑戦状を送ってきた。ルイスはちょくちょく家族を置いて、独りでジェノバの酔っ払いヤギたちとミラノにまで夜遊びに来る。ずっと前、この連中と一緒におっとが所属している日本人フットサルチーム「ミラノカルチェットチーム」の試合に参加して楽しかったらしい。「エクアドル対日本の国際親善サッカー試合をしようじゃないか。場所はミラノとジェノバの中間の社長の別荘裏のサッカー場、ということで。」地図を見るまでもなく、この位置はちっとも中間じゃなくてかなりジェノバ寄りだ。こんな遠くまでみんな行く、と言ってくれるだろうか?とおそるおそる監督のありまりちゃんに電話してみる。ありまり監督「え~、すっごく楽しそう!!いいよ、みんなに聞いてみる。」試合予定日まで2週間ほど時間があったのだが、やはりそんな遠くになかなかメンバーが集まらない。かき集めて結局4日前に決まったこちら側のメンバーは日本人9人、イタリア人3人、南米人4人の計16人。。。。なんかちっとも日本人チームじゃないな~。しょうがないか。2日前。イタリア人2人を皮切りに、ブラジル人2人がドタキャン。相手のエクアドル人チームも、最初は「試合の後はBBQを用意するから和気あいあい。」とおいしいことを言っておきながら「誰も調理したがらねえからパンとハムだけ買ってくるし、パニーノだな。」と変更してくる。予想はしていたが、本当にいい加減なラテンヤギたちである。↑のイタリア人2人はサッカー場までのメンバーのクルマの足でもあったのだ。2台もなくなれば、みんなどうやって目的地まで行くんだ!?最悪うちのワゴン車も出動させるか。。と思っていたのだが、さらに数名ドタキャンが出たことと、風邪で欠席を表明していた日本人のMさんが「そういうことなら足になります。」と申し出てくれて、なんとか解決。日本人の義理堅さをありがたく思ったのだった。当日朝。目覚まし時計でわたしは目が覚めて顔を洗っていたら家の電話が鳴った。エルトンからだった。「マルちゃんは?」わたし「まだ寝てる。」エルトン「代わってよ。」おっと「う~ん、後でかけなおすって言って。。」わたし「ダメだよ、そろそろあんたも起きないと。」寝ぼけまなこで起き出し電話を代わるおっと。エルトン「おい、起きろ!目覚まし時計代わりに電話してやったんだ。日本人は時間に正確なんだから、遅れは許されないんだぞ!!」この怒声でしぶしぶ起きたおっと。寝ぼけてテーブルの上のガラスのコップを落として割って、掃除していたら結局少し遅れてエルトン宅に着いた。エルトン「なんだよ~、起こしてやったのにこの時間かよ。」彼はずいぶん張り切っていた。まだ寝ぼけてぐにゃぐにゃのおっとと運転を替わり、疾走するエルトン。集合場所に3分前に着いたのであった。しかし見渡しても日本人らしき姿がどこにも見えない。場所を間違えたかと監督に電話すると「ごめ~ん、まだみんな着いてないの。遅れるわ。」思わず吹き出してしまってエルトンに事情を話すと「イタリアに来る日本人ってのは、日本の時間感覚で生きていけないからこっちの生活を選んだんだな。」と皮肉たっぷりに笑ったのだった。ごもっともな発言である。この後30分遅れで出発したものの、高速道路を抜け、ぶどう畑の中ののどかな田舎道をひた走り、なんとか時間通りに到着。エクアドル人チームはすでに全員ナショナルカラーの黄色のユニフォームに着替えて待っていた。我々チームも全員サムライブルーのユニフォームに着替えて出てくる。。と思っていたらブラジルのユニフォームあり、黒いユニフォームありであまり統一感がない。監督「あれ~?連絡不行き届きかなあ?」そんな姿だけ見ればエクアドル人のほうはマッチョで浅黒いひとも多くてなんだか強そうだ。そういえばルイスの家には数々のトロフィーが並んでいた。毎土曜日練習に精を出しているみたいだし、あなどれないかも。。試合が始まった。監督ありまりとわたしは、試合そっちのけでパニーノ作りに精を出すエク人側の奥さん方に気を取られて少し遅れて入場。こういうシーンで男女が交わってゲームを楽しまないところ、まだまだ南米は男性主義である。「今、何点?」と聞くと「日本チーム1点。」と返事が返ってきた。まだ試合が始まって10分も経っていない。すごいじゃないかっ!!わたしは幽霊部員なので、監督にメンバー全員の名前を書き出してもらって覚えがてらに誰が何点入れたか採点していく。同時にタイムキーパーもしなければならないので、集中力がいる仕事だ。そうやってよく観察していたせいかサッカー音痴ではあるが、かなり試合が見えてきた。日本人チームはかなり苦戦していた。何に苦戦していたか表現に困ったのだが、高校生のKヘイくんが言葉にしてくれた。「エク人チーム、一生懸命頑張ってるので、いかにシュートをしないであげられるか悩んでしまうのです。」ああ、青年期特有の優しさか?そうなのであった。見た目、あれほど強そうなエクアドルチーム、めちゃくちゃ弱すぎ!!ってか、日本人チームが強すぎ?日本人が決めるシュートはほぼ100パーセントゴール、おかげでエク人のくせに日本人側キーパーを勤めるおっとは試合中に「暑い。」とユニフォームを脱ぎ、下着姿で時には芝生に寝転がり、鼻くそもほじっているようで暇そうである。前半戦45分は 日本 7-0 エクアドル の圧勝。おっと「ぼく後半からはエクアドル側のキーパーやるよ。」←よほど暇だったと見える。こうもり男め!というわけで、後半戦はじゃんけんに負けた日本人数人で10分交替でキーパーをすることとなった。そんなにちょろちょろ交替するので、うっかり油断してエクアドルに1点入れられてしまったが、おっとが敵に廻ったことでなぜか闘志を燃やしたエルトン、数人のメンバーがおっとの守るゴールを攻め立て後半戦45分 日本 10-1 エクアドル、トータル 日本 17-1 エクアドルの大圧勝で終わった!!試合が終わってシャワーを浴びて、両チーム一緒にテーブルを囲んで和気あいあいと昼食会、と表面上はなったのだが、ぼろ負けエクアドルチーム、まったく面白くなさそうにパニーノをほおばっている。そして食べ終わると大半のメンバーがとっととジェノバに帰ってしまった。それに比べて上機嫌の日本チーム「勝者へのごほうびは?」と無邪気に聞く。そうなのだ、ルイスが優勝トロフィーを用意しているはず。。。。ルイスはぶすっと「。。。持ってこなかった。」OOOOOOOOOOOHHHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!??なんだ、そりゃ~っ!?持ってこなかったのはすでにトロフィーに前もって「優勝者エクアドルチーム」と刻印してしまったからだろうか?とふと思う。なんせ、この試合の不調の言い訳「昨夜、前祝いにメンバー全員で朝まで飲みに出かけたから。」と奥さんのミリーが言ってたし。この後なんだかちょっとしらけてしまって、どうせならこの田舎の村を少し散策してから帰りたかったのだが、試合疲れもあってみんなしてミラノに直帰してしまった。わたしはプレーヤーじゃないけど、誇り高い気持ちでいっぱいだった。強いんだな~、「ミラノカルチェットチーム」!!
2007.09.19
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イタリアではもう2年ぐらい、アオスタの小さな村で起きた殺人事件について裁判が長引いている。事件が起きたのは山の中の一軒家。いつもの朝のように旦那と長男を門のところまで送り出した後に、母親が家に入ると3歳の次男がベッドの上で血まみれになって息絶えていた、というもの。客観的に見れば、こんな野中の一軒家に明るいうちから殺人鬼が入り込み、ほんの2~3分の間でこの惨劇が行われるとは思われず、犯人は当然母親、ということになったのだが、この母親は頑として「わたしは殺していない!」とこの長い歳月、裁判だけでなく、TV番組などにどんどん出演して言い続け、いまやすっかり有名人である。しかしTVからの感染、というものは恐ろしいもので、この事件からイタリア各地で次々と母親による乳幼児の殺人が行われた。(追伸:前記したポルトガルのイギリス人幼女失踪事件では勘違いしていたようなので、削除させていただきました。)まだ妊娠していなかったころ、これらのニュースを見ていたときには「無責任に子供を生むから、簡単に育てる責任の重さを放棄するんだ!」と思っていたが、現在の感想はちょっと違う。わたしは妊娠10ヶ月の7ヶ月目に入り、やっと「後半戦」の入り口まで来たが、まだ後3ヶ月近くもこの状態だと思うとげんなりする。初期の頃はつわりと出血に悩まされ、やっと安定期に入ったものの、お腹は重いし腰痛はひどいし、子宮が大きくなって、他の臓器を圧迫しているので、1日として妊娠前のようにすっきりした気分になれないのである。最近は胎動もよく感じるし、産科検診のエコーのモニターでもどんどん成長する子供の影が見れるので頑張ろう、と思うのだが、実際に手にとって見ないことにはなかなか実感が出来ないものだ。こんなことを10ヶ月も我慢して、出産は経験がないけれど経験者母たちが言う「この世のものと思えないほどの痛み」に耐えてやっと手にした「一大造形品」をこんなに簡単に壊してしまうその作者の無謀さが信じられないのだ。***話は変わって9月に入り、ようやく我が田舎町も正常運転を取り戻してきた。そのおかげでやっと地域に根ざした(?)マタニティ活動が出来るようになった。まずは大型ベビー服専門店で行われた無料講演。ある程度ためにはなったが、製品の宣伝部分が多くてちょっとうんざりしてしまった。次は検診に通っているMonzaの病院での「無痛分娩説明会」。「無痛分娩」とは脊髄麻酔によって痛みを感じさせず出産するという画期的な分娩法である。日本ではまだまだ少ないこの分娩法のメリットとして出産で体力を消耗しないので産後の回復が早い、というところに目をつけた。なぜなら、先日わたしと母は大喧嘩をして母が出産の手伝いにイタリアに来てくれる、という申し出を断ったからである。勇気のいる事だった。前回5月に母が我が家に来たときからその話はあったのだが、わたしはお茶を濁していた。なぜなら、母といるだけでこんなに息が詰まるというのに、出産で自分をかまうことで精一杯なときに、母にまで構っていられないだろう。最近、先輩母たちから経験談を聞けば、ストレスで母乳が出なくなることもあるらしい。先日の電話で母が「そろそろ飛行機のチケットを予約しないとね。」といい始めたときに、このことを遠まわしにやんわり伝えた。敏感な母はたちまち気分を害して、さんざんわたしとおっと、生まれてくる孫の将来を呪う言葉を吐きつくして電話を一方的に叩き切ったのである。おっとに断ったことをいうと「なんてことをしたんだ! ぼくは12月は仕事が忙しいからお義母さんに任せられる、と思って安心してたんだよ?君は贅沢すぎるよ、僕のママなんて出産に立会いに行きたくても来れないって嘆いているのに!」おっとの気持ちはわかるが、わたしにも親子の事情があるのだ。母の協力を断ったのはわたしの責任。「いいよ、あんたは何の心配もしなくても。わたしひとりで産んで育てるから。」と涙を溜めて言い切った。そういった事情で、積極的に参加した「無痛分娩説明会」。しかし、2時間半にも及ぶ、長い説明会で「他の病院では妊婦の希望で出来るところもあるようですが、我が病院ではお産に異常があったとき、または長引きすぎて、母子の命に影響を及ぼすときにしか、用いません。」。説明にあたった医師のこの一言でまだ説明会途中にもかかわらず、会場には失望のどよめきが起こり、大半の夫婦がぞろぞろと席を立っていってしまった。わたしもがっかりだった。希望で申し込みできないなら、なんでこんなに長ったらしい説明会をするんだ?そして、すでに7月に申し込んでいた近所の病院のマタニティクラス。本当は前記のMonzaの病院と迷ったのだが、これぐらいは近所でいいか、きっと田舎だから空いてるだろうし。と軽い気持ちでこっちを選択。魔の8月を挟んだため、1ヶ月ずらして先週土曜日に初開講である。10分遅れで説明会場に着いて驚いた。こ~んな田舎の病院なのに、すごい人だかりなのだ。たくさん並べられた椅子はすでに満席でたくさんのお腹の大きな妊婦たちがつらそうに会場の後ろで立っている。私たちの後からも次から次へと夫婦が会場に入ってくる。わたしは「冗談じゃないよ、これ確か2時間だよね、2時間も立ってられないよ。」とうろうろ前の方に出て行くと一番前の隅っこにちょうど1つ席が空いていたのでわたしが座り、おっとが壁際に立った。(こういう場合は映画館と同じく前に行くに限る。)おっとの場合は仕方がないが、これだけたくさんの妊婦が立っている、というのに、どっかり座り込んだ旦那陣がいっこうに席を譲る気配がない。わたしがところどころに空いている席を見つけて「ここ空いてますよ~。」と後ろに向かって叫び続けていると、やっと助産婦のような人が入ってきて「紳士の諸君、後ろのレディたちに席を譲ってもらえますか?」とマイクでひとこと。それで2/3の旦那陣は立ち上がったが、まったく身動きもしない残りの1/3に呆れてしまった。30分遅れでマタニティクラスが始まる。というより、初日だったのでこれだけたくさんの妊婦を分けるためのクラス分けとこれから出産まであるコースでする内容の話をして助産婦が退場、それと交代でひとりの医師が入ってきた。医師は最前列のわたしのほうを向いて「どうしてこの病院のマタニティクラスを選んだのかね?」と聞くのでどぎまぎしていると、隣の妊婦が「ここはいいって聞くし、家の近所だから。」と答える。ああ同じような理由の人がいてホッとした、と思っていると「我々の病院の特徴をご存知ですか?」とさらに医師が聞いてくるのだ。すると会場のあちこちから「水中分娩です。」と答えが返ってきてびっくりした。そうか、ここはそんなものがあるからこんなにたくさんの妊婦が遠くからも来ているんだ、と納得した。その後は「普通分娩」と「水中分娩」の違いを医師が説明していった。まったくそういう分娩法を頭に入れてなかったが、そういうのもいいかもしれない。ああ、そんなことも考えなきゃいけない時期に来たんだなあ。先日はこの日記ではお馴染み&お久しぶりの目目さん夫婦が現在6歳になる目目娘ちゃんが使っていたベビーカーや、チャイルドシート、登山用のキャリーなどたくさんのベビーグッズをくれた。彼らの出産体験談をまるで昨日のことのように話し、特に旦那さんの出産後の世話の話はリアルでおっとは食い入るように聞き入っていた。あまりの大変さに「やっぱりお義母さんに来てもらえば?」というのだが、どうしても嫌だし、もう後には引けないのだよ。目目さんが「大丈夫、わたしが手伝いに行くやん。」とさらっと言ってくれたので涙がちょちょ切れそうになった。そういえば、前回ジェノバに行ったときにおっとがいとこのルイスにこの話をしていたら、娘のカティちゃんが目をキラキラさせて「じゃ、わたしが手伝いに行く!見て、わたしこんなに上手に赤ちゃんの世話が出来るのよ!」とぬいぐるみにタオルをおむつ状に巻いて見せたときには「うう~ん、ありがとう。」と苦笑いをするしかなかったが、この目目さんの申し出はまったくありがたかったのだ。
2007.09.10
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10日ほど前、北イタリアには大嵐が吹き荒れた。そのおかげで、涼しかったミラノはますます涼しくなった。この日、特にベルガモでは街路樹が倒れて、クルマがぺちゃんこになったり、建設中や古い家の屋根が吹っ飛んで、市民が避難する騒ぎになった。ちなみに我が家はベルガモ寄り、ぎりぎりミラノ県だ。この日、わたしはいつものように家に居て、おっとは大雨の中、会社に行ったのはいいがあまりの風雨で外に配達には行けなかったらしい。夜半からの雷と風と雨の音、急激に下がった気温で朝、なかなか布団の中から出れずにぐずぐずしてようやく起き出した。(絶対、2階は雨漏り確実だな。)朝食を終えてため息をつきながらモップを持って階段を上がる。今までにおっとの友人の業者にちょっと瓦を修理してもらったので、どんなにひどくてもあちこちに垂れるしずくの下にプラスティックのアイスクリームの容器などを置いていたらなんとか防げたのであるが、今回そこで見た光景は、なんと「屋内プール状態」!!フローリングの床からはまるで泉が湧き出るかのごとく全体がびしょびしょ、ベッドの上にも無数のしみが広がっている。OOOOOOOOOOOOOOHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!わたしは慌てて滑らないように用心しいしい、階段を引き返し、モップの他に大きなバケツとタオル数枚、ドライヤーを持って上がり、床をモップで何度も拭い、ベッドのマットレスを完全に乾くまでドライヤーを当て続けた。しかし、嵐が収まらなければ拭いた先からしずくがどんどん落ちてくる。わたしが不毛な拭き作業を夢中で繰り返していると、なんとか嵐は午前中で収まったのでやっと我に返る。見れば、必死で拭いた床もすでに水分がフローリングの中まで浸透していて、あちこちの板が浮いてきているのを発見して怒りを覚えた。空を見ると、また雨が降り出しそうだったので生乾きの床とベッドの上にビニールシートをかぶせて下に降りた。おっとに電話をかける。「今回は今まで以上の被害だよ!裁判結果はいったいどうなってるの!?弁護士も弁護士代だけ取っておいて1年近く音沙汰がないじゃない!!電話して確認してよ!!」おっと「わかった、わかった。すぐに電話するから。」午後からもまた嵐が吹き荒れた。今度は屋根のといが大量の雨を受け入れきれずにこともあろうかきっちり閉めているはずの窓の隙間から1階に雨が流れ込んできたのだ!慌てて雨戸を閉めるために窓を開けると、バシャーッと全身シャワー状態で一瞬にして頭からびしょびしょになる。雨戸を閉めるとやっと雨が入ってこなくなったが、昼間から真っ暗な家の中、電気の明かりで床掃除をすることに寂寥感を覚えずにはいられなかった。新しいお友達はご存知じゃない方も多いとは思うが、我が家は建築当初から欠陥工事をされたおかげで2年前から裁判となり、半年前、全ての調査と供述が済んで、あとは裁判所の返事待ち状態なのである。調査の段階でもかなり相手の悪徳ぶりは露見されたというのに、未だ結果が出ていないのがはがゆくてたまらない。(ご興味がおアリの方はHOME右横のカテゴリーの「家探し、購入から入居まで」を読んでね。)夕方、おっとが帰宅。「階下の家のベランダに張り出してる日よけテント見た?骨が折れて倒れてたよ。」わたし「見た見た。で、弁護士は?」おっと「うん。。。前回と同じ。まだ結果は出ないって。でね、君ニュース見た?ベルガモじゃあちこちの家の屋根が吹き飛んでるんだよ?だから今回はまったくの天災。。」わたし「何いうんだよ!?うちはミラノ(一応)だよ!?ベルガモの屋根が吹き飛んだ家はみんな建設中や古い家じゃない?うちは古い家と言っても改築の際に、全部新しくなってるはずなんだよっ!!」おっと「でもね、弁護士は『お気持ちはわかりますが、家を触らないように。』だって。」←というのもおっとがあまりのひどさに応急処置をしていいかどうか、訊ねたからである。わたし「そういうから待って半年じゃない!?どんどん家が傷んできているのにこのまま放置しておけないよ!!」おっと「じゃ、やっぱり部分修理する?」わたし「当たり前じゃない。このままじゃ、大雨のたびに家もわたしたちの精神も参っちゃうよ。」というわけで、おっとの友人の業者親子がおととい修理にやってきたのだった。以前も、あからさまに穴が開いて空が見えていた屋根の一部を友達のよしみで部分修理してくれたエクアドル人たちである。あの部分が一番ひどかったので、そこが修理されてからというもの、安眠度が上がったのは言うまでもない。土曜日におっとはエルトンに手伝ってもらって新しい瓦を150枚買った。枚数が多いので、1枚の値段は安いとはいえ、これだけ買うと半端じゃないし、後悔と、勝手に部分修理をして、後でどうなるかわからないことに恐れを覚える。彼らはおっとと共に屋根に上がり、作業を始めた。話はそれるが、我が長屋の一番奥のずっと空き家になっていた家は反対端に住むご近所さんのカルラのお姉さんの所有物なのだが、やっとこの間から住むために改築工事にかかっている。(だから一日家にいるわたしは騒音がたまらないのだ!)あちらは本格的に足場を組んでその足場の周りにもネットを張って事故を防ぐ備えが万全だというのに、こちらはサルのように隣の家の天窓から上がらせてもらって命綱もなにもつけない作業。業者の2人はともかく、煙突にしがみつきながら手伝っているおっとを下から見るとハラハラするのだ。コンコンガンガンと続いていた音が収まると、やっと彼らが埃だらけになって、五体満足で昼食に降りてきたのでホッとする。わたし「どう、進行具合は?」おっと「被害が一番ひどかった部分、古いねずみの巣があってね。断熱材に瓦と天井の間に詰め込んでいたウレタンをかじって寄せ集めてたものだから、余計に水が入りやすくなってたんだ。」わたし「ゲ~!そういえば去年ぐらいまで夜中にカリカリうるさかったもんね。で?」業者1「瓦が終わったよ。」わたし「え、もう終わったの?ご苦労さま。」おっと「そうじゃなくて、瓦が足りないんだ。」わたし「ええ~、何枚?!」業者2「120枚ほどかなあ?」OOOOOOOOOHHHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOOOOOO......全然足りないやん!!この日は日曜日でイタリア中、どこの店も閉まっている。しかたなしに中庭を隔てて斜め向かいに住む、カルラのお姉さんの家を工事している業者のマルコに瓦を売ってもらえないか頼みに行った。マルコ「いいよ、現場から好きなだけ持って行ってよ。」しかし見比べると瓦の種類が違う。これでは使えない。おっと「じゃあ、こうしよう。この瓦をとりあえず、被害がひどかったところにちょっとだけ使って、足りない分は次回ってことで。」と、サルたちは再び屋根に上がっていったのであった。途中、かぽーんという音がして、おっとがバタバタ降りてくるのが見える。わたし「どうしたの?」おっと「バケツを道路に落としちゃって。。。」あんたらこわいよ!幸いそのとき誰も通ってなかったので、被害者はいなかった。夕方になって3人が降りてきた。そして、急いで2階へとあがっていく。今度はなんなんだ!?おっと「やっぱりダメだ。来週もう一度見直さないと。。」業者1「作業が終わって試しに上からバケツで水を流したんだ。でもまだ屋内に水が入るよ。」あああああああ。。。。。。。。。屋根の修理って大変なのね。どうりでルイジが嫌がったはずだよ。まだまだ先の見えない闘いだった。
2007.09.04
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前回の「エクアドルに行く?07」は書いている最中に「もう毎年、毎年、同じことばっかりやってるわたし!!」とすっかり嫌気がさして中断してしまった。なんか最近持久力がない。毎日自宅にとじこもりながらも、たまにはネタらしいこともあるのだが、ぐ~たら生活に慣れてしまい、PCに向かう気力すら失せてきた。しかしこれではいけない。時にはキーボードも打たなければ。。前回残りの2日間は、はじめての妊婦旅3日目がきつくて、おっとといとこたちはまたプールか山を企画していたようだが「パス。わたしはひとりで家で寝てるからみんなで行ってきて。」と投げてしまった。すると、急に意気消沈したミリーとカティちゃんも「く~きが家にいるんだったらわたしたちもすることがあるし、残る。」と言い出し、結局は男たちだけで中古車センターめぐりでほぼ1日費やしたようである。夕方に一番最初に飽きたエルトンがひとりで帰ってきたので、元気を少し取り戻したわたしは彼を誘ってジェノバの旧市街を観光をした。湾を一周する観光船に乗ったり、教会を見たり。。わたしは念願叶って大満足だったが、野生児エルトンは都会はあまりお気にめさなかったようである。4日目は本当は予定にはなかった日。おっとの「中古車センターめぐり」の情熱だけで押し切られてしまって残った。なぜおっとがこんなに「中古車センターめぐり」に執着するかというと、我が家のもんで男くん、御歳12歳でありながらもエンジンの状態もすこぶるいいし、2年前の追突事故のへこみ以外は傷ひとつなく、クルマ&キッチン磨きオタクのおっとのおかげでいつも新車のようにピカピカだったのだが、お盆休暇ぎりぎり前に少しエアコンの調子が悪くなったのが始まりだった。といっても、フィルターの掃除ぐらいで済む程度。なので、このジェノバ旅に間に合わせるために、おっとの友達という修理工場(非常に怪しい!)に持っていったまではよかったが、その日をはさんで完璧に壊れやがった~っ!!しかもおっとはそのとき気がつかなかったのだが、フロントガラスに小さなひびまで入れられていた。わたし「やり直してもらいなよ!」おっと「無理にお願いしたし、ずいぶん安くしてもらったからそんなこと言えないよ。」く~。。。。エアコンはともかく、このフロントガラスの小さなひびは2日ほどであっという間にひろがり、助手席を斜めに切るようなはっきりしたものとなった。わたし「エアコンはいいから、せめてフロントガラスを弁償してもらうように言ってよ!」おっとは面倒くさそうに「もうあいつ、休暇に行っちゃったし、念のために他の修理屋に聞いたら500ユーロだっていうし、そんなんならクルマを買い換えよう。」わたし「ど~して、そういう発想になるのよ!だいたいうちのどこにそんなお金があるんだよ!?」おっと「もんで男くんは大きいし燃費が悪いから毎月維持費が大変なんだよ?それを小さな。。そうそう君が欲しがってたオートマ車にしたら、ローンと燃費合わせてもきっと今までとトントンだろうし、もう文句を言わないで運転させてあげるよ。」ふ。。普通、子供が出来たのをきっかけに小さな車から大きな車に替えないか、逆やで?しかし確かにもんで男くんはわたしにはでかすぎてこわい。それでびびり運転練習をしていたらおっとに「君は運転に向かない!絶対に運転するな!!」と宣言されたのだ。確かにわたしのようないつまでたっても初心者が始めるには中古の小さなオートマが向いてるかも。。そういったいきさつでおっとはここのところずっと中古車を捜し求めているのだが、なにもジェノバまで行って探さなくてもいいだろう?!こちとら下着の替えもつき、ルイス家族たちもこの日から巨大アウトレット村で有名なSerravalleの近くにある社長の別荘に泊りがけで行く予定だったので、わたしはおっとの首根っこを引っ張り、早々に引き上げたのだった。はあ。。毎夏恒例のジェノバ参りの義理がやっと終わった。やれやれと溜まった洗濯物を洗濯機に放り込み、マイミクのさとみーなさんに連絡を取る。さとみーなさんは比較的近所に住んでいて、2歳と6歳の男の子がいる。彼女に以前から「赤ちゃん用品をそろそろ処分したいと思ってるの。よかったら見に来て。」と言われていたので、願ったり叶ったりで、おっともまだ休暇中のこの機を狙って、お宅にお邪魔させていただくことにした。前回お会いしたときよりも大きくなった男の子たちを見て、おっとは未来でも見ているのか遠い目をし、わたしは出張ばかりでなかなか遭えないという幻の旦那さんを生で見れて有頂天になる。またもや彼女の京の料亭仕込のおいしい昼食をごちそうになり、立派なベビーベッドとシーツやらベビーバスやらを譲り受けて家に帰宅した。この日のために、わたしが足の骨折以来、使ってきた寝室兼小部屋の家具をベッドだけ残して全部本当の寝室に移動させたのだが、実際家具をどけた空間にベビーベッドを組み立てて置いてみると、なんだか妙な感じだ。まだ子供もいないのに、実感が湧かない。その夜、なかなか寝付けなくて月明かりに浮かぶベビーベッドのシルエットをずっと見続けていた。その日から火がついたわたしたちはIKEAでタンスを購入、そこからなぜかせっせと家の大掃除にまでなってしまった。そこまではよかった。。おっとと「次の週末には小部屋の壁をブルーかグリーンに塗ろうよ!」と大改造計画を立てているとき、おっとの携帯が鳴る。ジェノバのルイスからだった。「うちの社長が次の週末、別荘でBBQをするからお前たちも是非来いとさ。」OOOOOOHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!???なんで毎年ジェノバ参りは一度で終わらないんだ?わたし「ペンキ塗りはどうなるの?それにBBQに誘ってもらったって、今わたし肉がダメなの知ってるでしょ?!」おっと「ペンキ塗りなんていつでも出来るじゃないか。肉が食べれないなら魚を買っていこう。ぼくが君のために焼いてあげるよ。」と、もうエルトンに連絡を廻している。わたし「今度は日帰りだからね!もうしんどいから泊まりたくない!!」おっと「社長さん夫婦の別荘はこの間の同僚の山荘と違って広いから泊まっていきなさい、って言われてるんだぞ?」わたし「嫌だといったら嫌なの!泊まらないために何も持っていかないから。」かなり意固地になったわたしなのであった。次の週末。おっとは張り切って目覚まし時計を早朝に合わせたにもかかわらず、寝坊。わたしとエルトンでイライラしながら待って予定の1時間遅れで出発。高速道路に入り、ガソリンスタンドに入ると、真っ黒に日焼けした家族連れやカップルでごったがえしている。あ~あ、みんなリグリア海の休暇から帰ってきてるんだよな。わたしたちだけ逆行してる。。まあ、そのおかげで逆行高速道路はガラガラ、Serravalleの近くにある社長の別荘には1時間半もかからず到着したのであった。ルイスの勤め先の社長は羽振りがいいらしく、あちこちに別荘やらクルーザーやらお持ちだ。この別荘、わたしはあまり期待していなかった。海の近くでも山の近くでもないこんな中途半端な位置の丘陵地帯で、同じような田舎に住むわたしには魅力があまりない。しかし小さなまるでハイジの村のような村に入っていったときにはさすがに期待が高まってきた。その別荘は村の真ん中に建てられた教会のすぐそばにあった。小さな家が建て込んでいる中にいきなりな豪邸である!貴族の館のような広大で花の咲き乱れた庭、後ろに見える低い山々がトスカーナ地方の絵葉書みたいだ。社長婦人「昔、この辺には温泉が湧いていたからこの建物は保養所だったの。それがその後、ホテルになって、レジデンスになったのよ。」実はこの別荘はもう何年も使っていないので1年ほど前に「好きに使っていいよ。放置していても家が傷むだけだから。」とルイスに鍵を渡してくれたらしい。←そんな信頼関係、我が社では絶対無理だ!!実際ルイスがはじめて行ったときにはベランダは草がぼうぼうで荒れ果てていたのだが、それを掃除してすっかり今ではルイス家族の別荘のようになっている。社長夫婦はたまに来て、ルイスたちと一緒に過ごす程度だという。もったいな~、というか、太っ腹。大きなベランダ、たくさんの広い部屋。リビングのガラス棚にはコペンハーゲンやスワロフスキの年代もののコレクションがぎっしりと並べられ、その優雅さに圧倒される。ああ、こんな家、ミラノで買ったらいくらするだろう?と貧乏人の独り言。なんだ、こんなに素敵な別荘なら泊まってもよかったよ。←現金なわたし社長婦人はさっそくこの日のために買ったばかりのBBQセットの箱の組み立てをおっととエルトンに命じ、わたしとミリー、社長婦人とで使い心地のいいキッチンで材料を切りにかかった。ベランダではカティちゃんが社長の黒いラブラドール犬と笑いたわむれている。大きな白いパラソルの下に長いテーブルを置き、冷えたワイン、焼きたてのパン、オリーブetcを並べて、煙が届きもしない広いベランダの端でBBQ奉行エルトンが肉や野菜を焼いては運びはじめた。おっとがわたしのために焼いた黒鯛は絶品だった。やはり炭焼きの魚は味が違う。このような環境下に置かれると、食事の間に交わすおしゃべりも酔っ払いヤギたちのそれではなく、とてもとてもまともになるので喜ばしいことである。デザートが済んでコーヒーを飲み干す頃にはパラソルの下でもかなり暑くなってきた。女性軍は家の中に入り、「SHANGAI」という竹串を色分けしたものを使ったゲームに夢中になり、男性軍はこのくそ暑いのに犬を連れて散歩にでかけた。ああ、なんてリラックス。これこそわたしの求めていた休暇の形というものだよ。こういうBBQならいつでもOK!男性軍が「今日はこの村でコンサートがあるみたいだよ!」と帰ってきたときには、わたしは大きなベッドの上で昼寝をしていて、ミリーと社長婦人がもう夕食の支度をしていた。わたしは慌てた。「今日中にミラノに帰るつもりなので、わたしたちの夕食はいらないですよ!」社長婦人「え、泊まっていかないの、どうして?まあ、夕食を食べてコンサートを見てから帰ってもいいんじゃない?」コンサートは確かに魅力があった。わたしたちは社長婦人のお言葉に従うことにした。陽が沈むと、社長のレジデンスのすぐそば、教会の前でコンサートが始まる。ベランダで社長婦人お手製のパスタ アラ ジェノベーゼを食べながらにしてコンサートが聴けてしまうのだ。なんて贅沢。夜の10時を廻り、そろそろミラノに帰ろうか、というところであることが発覚した。この小さな小さな村の教会前のコンサート、道路を封鎖して椅子を並べているのでレジデンス内の駐車場に入っているもんで男くんは出れない!すなわち帰れない!!わたし「そ。。そんな。。。」社長婦人「てっきりあなたたちが泊まるものだと思い込んでたから(確実におっとの連絡不足)、クルマのことに気がつかなかったわ。仕方がないわね、これはもう泊まりなさい。」無茶だ。日帰りを決め込んで、洗面道具も何も持ってきてない。エルトンも「明日、友達をうちに昼食に招待したんだよ。やっぱり今日中に帰らないと。。」とぼやいている。そう、何がなんでも帰らなければ!!ここから別荘滞在が急に苦痛になった。コンサートが終わったのは夜の11時過ぎ、道路封鎖が解かれたのは深夜の12時過ぎ。わたしたちは眠たい目をこすりつつ、ミラノに向かって出発したところでエルトンの携帯にメッセージが入った。エルトン「昼食に招待していた友達が明日、来れなくなったって!Uターンする?」わたし「なにがなんでもミラノに帰る!!」自分がなんでここまで意固地になるのか自分でも理解できなかったわたし。。
2007.08.29
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誕生日祝いのコメントを下さったお友達、どうもありがとうございます!これから1年精進しますので(いったい何を?)引き続きよろしく云々でございま~す!!*****次の日、わたしはウキウキしていた。なぜならルイスファミリーはこの日、同僚の山の別荘に勤め先の社長夫婦と共に昼食の招待を受けていた。わたしたちがジェノバに来る1週間ほど前にミリーが言いにくそうに「悪いけど、マルちゃんたちは一緒に行けないの。」と電話をしてきたとき、わたしはほがらかな声で「ノープロブレム!」と叫んだのだ。なぜならこの日一日はルイスファミリーがジェノバに住んでいる限り、到底出来ることがないであろう、とあきらめていた念願のジェノバ観光や、もう今年からはリグリア海に来ても決していけることがないだろうと絶望していた海水浴が出来るではないか!ひとつ欲をいえば来年からはもう2人旅が出来ることがないので、エルトンがお邪魔虫、といえばそうなのだが彼はヤギ的な男ではないのでまあいいか。というわけで、もう1週間も前からわたしはどこに行けば楽しいだろう、とガイドブックを眺めていたのだ。ところがその日の朝。ミリー「昨夜、同僚に連絡を取ったらね、あなたたちも是非連れてきて!って言われたのよ!!」OOOOOOOOOOOOOHHHHHHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!??????「ど、どうして?そんな急に悪いよ。社長さんもいることだし、わたしまだちょっとつわりがあるから、食べれないものいっぱいあるし。。。」となんとか断る理由を探すわたし。ミリー「大丈夫よ。いくきーとが今日は海に行くって話をこの同僚にしたらね、あ、彼女にも2歳の男の子がいるんだけど、彼女ったら急に怒り出して『妊婦が海になんて行ったらダメ!海は妊娠したい女性に力を貸すけど、逆に妊娠している女性からは赤ちゃんの魂を波と共にさらっていくのよ。だから山に来させなさい!!』だって。」わたし「。。。。。。」ミリーの同僚って。。。なんだかとてもスピリチュアルな女性のようである。理由が理由だけに、断ると呪いでも降りかかりそうな気がしてきて、仕方なくOKしたのであった。これを聞いて喜んだのは野山が好きなエルトンである。わたしがブツクサぼやきながら、バッグの中身を詰め替えている横で「いくきーと、上着持ってきた?山に行くなんて思わなかったからヤッケを持ってきてないよ。」わたし「リグリアの山なんて全部低いから、上着なんていらないよ。わたしは財布とサングラスだけ持っていく。」とノースリーブのワンピからTシャツとGパンに着替えたのは今考えると正解であった。実際、山とはルイスたちなりの言い方で、行くのは去年も行ったような暑い丘陵地帯に行くものだと思い込んでいた。そのうち社長夫婦が立派なトヨタのクルマで迎えに来たのでルイス夫婦がそれに同行し、わたしたちのポンコツもんで男はそれに続いて高速道路に入った。クルマはどんどん南下し、チンクエテッレの方まで走っていく。チンクエテッレもジェノバと同じリグリアだが、距離的に見るとミラノまでと変わりなく、遠い。(このままもしかして、トスカーナ地方まで行っちゃうの?)と不安に思い始めた頃、やっと社長たちは高速を降りて山へと向かった。そこからさらにくねくねと丘陵地帯を抜けると目の前に小さい可愛い村が現れて、社長がそこでクルマを停めたので、ほとんどクルマ酔いしかけていたわたしはホッとする。社長婦人「まだお昼には早いからちょっとここを観光しましょ。」って、まだ目的地じゃないんかいっ!最近、目的地まで爆走型の旅行に慣れてしまっていたわたしはこう、自分で突っ込んでしまってからハッと恥ずかしくなる。村の名は「Varese Ligure」と言って直線で5分も歩いたら村の端から端まで行ける様な小さな村だ。しかし、結構メジャーらしく大勢の観光客でにぎわっていた。写真はいろいろなサイトから抜粋そこで写真を撮ったり同僚へのお土産を買った後、やっと山の別荘へ!Varese Ligureと同じゾーン内らしかったがずっとくねくね山道を上がり、ほとんど山の頂上にあがる。頂上には薄い霧が立ち込めていて、寒い。森林の中を抜けていくとリスが飛び出してきたりする。近くまで行くと道沿いに熊が3頭のっそりと現れてびっくりした。と思ったら、同僚家族だった。さっそく招かれて庭から入ると、ガレージの横で同僚のお父さんが作りつけの石釜でBBQをしていた。(←彼らはイタ人だが、南米人の好きなものをよく理解している。)実は最近赤身肉がダメなわたしは、肉の焼ける臭いにウェッとなる。ああ、これもあって来たくなかったのに。別荘は2階建ての木造で、いかにも山荘だ。人数が多いのでガレージを片付けて長テーブルを置いたところに全員が着席した。前菜が何皿も出てきた後、大なべで茹でたパスタにたっぷりラグーソースをかけたものを同僚がガハハハ笑いながらお皿についできたときは「ああ、イタリアのおっかさん。」と思い、次にお父さんが汗だくになって焼いていた肉が大盛り2山運ばれてくると、男共があっという間に豪快に平らげていくのを目を丸くしてみたり、ミリーと同僚はよほど気が合っているようで楽しそうに笑っているのを見ているだけで、結構楽しい。前記したが、ここには2歳半の男の子がいて、熊のようなお母さんによく似てでかい。昨日の3歳半の男の子よりも縦にも横にもでかく、しかも恐竜のようなやんちゃぶりと怪力で金太郎のようである!食べている最中、ときどきわたしたちにボールをぶつけてきたりするのだが、結構痛い。ガレージなのでセメント運び用の荷車なども置いてあったりするのだが、目を離していると、そんな重いものまで平気で引っ張っていく。あまりの通常の幼児とかけ離れたこの行動にわたしは食べるのも忘れて(というより食べられるものがあまりなかった)、見入ってしまうのだ。それでも結構食べた。前菜の自家製のアンチョビの塩漬けは絶品でなんどもおかわりしたし、自家製ワインも今は本当は飲んではいけないのだが、つい我慢しきれずちょびちょびなめてしまったし、自家製野菜(洗ってそのまんまをボウルに盛っているだけ。)は、わたし一人で平らげてしまったようなものだし、お腹がいっぱいになった。食事が済むと、父の年代である同僚の両親と同僚、社長夫婦はガレージに残り、いつまでもワインを片手に大きな声で話している。わたしたちは庭に出て、まずは金太郎とサッカー。幼児だと思って手加減していると、あちらは怪力で、でもコントロールがきかないのであらぬ方向に思いっきりボールを蹴飛ばすので取りに行くのが大変である。そうやって目を離すと拾った木の実をむしゃむしゃ食べていたり、まさに野生児そのものだ。しかし寒い。ノースリーブのワンピなんて着てこなくてよかったよ。寒さに震えながら、わたしたちは2階部分に繋がる庭に出て行くと2匹の大きな犬が駆け寄ってきたのでちょっとこわかった。一匹は番犬種のロットバイヤー、もう一匹は猟犬のセッターだ。小さな牧場のような囲いの中に放し飼いになっていた。同僚が「そうそう、これを見て。」と出してきたのは愛らしいウリ坊の剥製である!「うちの犬が森の中からくわえてきたの。最初は生きてたんだけど、すぐに死んじゃって、だから記念に剥製にした。」う~ん。。。。欧州人って、やっぱり狩猟民族だ。わたしは犬は好きだけど、愛玩犬が好き、と修正しなければならない。犬の囲いを背に女ばかりで座り、当然のごとく、出産などの話になる。同僚はつわりもなく安産で次の日から動けたというが、ミリーはずいぶん難産で、出産後2週間は起き上がれなかった、というし、人それぞれ。それに伴って、ミリーがイタリアに来た訳なども聞いた。なんでもルイスは彼女が妊娠中はお姫様扱いだったのが、出産したとたん、育児も家事も手伝わず、寝たきりだったミリーを置いて毎晩遊びに出かけていたらしい。彼女は彼の愛情に疑問を持ち、愛を試すために生まれたばかりのカティちゃんをルイスに押し付け、単身でまずはドイツに来たそうだ。しかし、ドイツ人の気風が肌に合わずにイタリアへ。そこでやっとルイスが追いかけて来たらしい。。。。なるほどね。ルイスとおっとは血縁だし、うちも思いっきりありうるなあ、そういうシチュエーション。そうなった場合はわたしは日本に帰るか。あ、でも息子は連れて。クシュンっと寒さでくしゃみが出た。同僚「ちょっと寒くなってきたね。家に入ろう。家の中を見せるわ、いくきーとは疲れただろうからベッドで休んでいいわよ。」この言葉に救いを感じ、わたしたちは2階に行った。2階は総パイン材でこじんまりとしていて、心地いいリビングにはアンティークの薪ストーブもついている。同僚「白雪姫の小人の家みたいでしょ?」うんうん。同僚と息子の寝室のドアを開ける。フリルのついたベッドカバーは、我が家には甘ったるいけどこの山荘にはマッチしている。同僚「ねえ、この部屋ミルクのいい臭いがしない?」わたしとミリーはくんくんと臭いをかいだ。するのはほのかな木の匂いだけである。「え~、わからないなあ。」同僚「わたしね、まだおっぱいが出るの。だからこの部屋にはママ特有のいい匂いがするのよ。わからないならちょっとかいでみて。」と彼女がいきなりちょっとよれよれなTシャツの首のところをぐいっと開いてわたしたちに迫ってきたのでびっくりした。まずはミリーがかいだ。「う~ん、そう言われてみればするかな?」と困った顔をしている。そしてわたし。おそるおそるかいでみると、汗のにじんだ彼女の体からはミルクの匂い、というよりわきがの臭いがぷ~んとして、ウェッとなり、わたしはさりげなくベッドに尻餅をついた。「ちょっとするね、そういえば。ねえ、もう休んでいいかな?」この言葉を吐き出すのが精一杯だった。同僚「どうぞどうぞ。ゆっくり休んでね。」同僚がドアを閉めるのを見計らって、わたしは悶絶しながらベッドに倒れこんだ。どうやら夕方おっとが起こしに来るまで気を失っていたようだ。
2007.08.22
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「ご無沙汰してごめんなさ~い、ペコポンにロングバケーションに出かけていたものですから。ホホ。」なんて、この先書けるときが来るだろうか?*****2週間前、たった4日だけエクアドルジェノバに行ってきた。昨年、あの小悪魔のミッシェルちゃん(当時5歳)はエクアドルに永久帰国したので、きっとちょっとはおだやかな滞在になるだろう。さらにジェノバに残った兄家族の娘、カティちゃん(11歳)も今年はサルデーニャ島のお友達の海の家に行っている、というおっとの情報である。ああ、今年は今までと違うアダルトなバカンスなのだ。今まで行きたくても行けなかった、ジェノバの夜のスポットなんかにも連れて行ってもらえるだろうか?と密かな期待で胸がふくらむ。先々週の金曜日の夜、おっとの仕事が終わって夕食を済ませて我々はゆっくり出かけた。いつもは出かける前に子供たちへのお土産にあれこれ頭を悩ませていたのだが、今回は簡単。ビール1ダース。ヤギにはこれで充分。それとさらにノンアルコールビールを1ダース。なぜならこれはエルトン用。今回は彼も同行の旅。おっとがはとこの迷惑も考えずに誘ったのだがお行儀のよい彼なら大丈夫だろう。ミラノからジェノバはクルマで2時間。現在無職のエルトンがおっとの代わりに運転した。乗りなれたおっとの運転と違って、浮いているような運転で助手席のわたしはちょっとこわかったのだが、目的地まで爆走型のおっとと違って、まめに休憩を入れてくれたので快適にはとこの家に着いたのが夜中の12時を廻ったばかりのころだった。ドアを開けるとルイスと妻ミリーが迎えてくれた。ミリー「疲れたでしょ。もう遅いし寝ましょ。マルちゃんとエルトンは子供部屋で寝て、いくきーとはわたしたちと同室で寝てね。」げ。まさかエルトンを初対面の彼らと一緒には寝かせられないし、嫌だったが、仕方がない。洗面所でパジャマに着替え、彼らの寝室に行くと、もう電気が消されていたのだが、暗闇に何かがうごめく気配がした。ルイス夫婦はまだダイニングでおっとたちと喋っている。変だな。。?ダイニングの彼らに挨拶をして寝室に戻るともう何の気配もなかった。わたしは彼らが用意してくれた簡易ベッドに入ったのだが、すぐにルイスの大いびきで目が覚めた。その後、いびきの騒音と部屋を漂う彼の体臭の臭さでほとんど眠れないまま朝を迎えたのだった。顔を洗って、ダイニングに行くと「く~き、おはよう!」とずいぶん大人になったカティちゃんが挨拶してくるではないか?!わたし「え?あんた、サルデーニャ島に行ってるんじゃなかったの?」カティちゃんは「もう1週間も前に帰ってきたよ。」と真っ黒に日焼けした顔から白い歯を見せて笑う。そうか、昨夜のあの気配は彼女だったのか。おっとの野郎、またガセネタを吹き込んで、わたしを失望させたな。。仕方がない。カティちゃんはおとなしいからいいか。わたしたちは朝食を済ませ、すぐに海とは反対側の山奥にある「BOLLOBLU」というプールランドに出かけることとなった。なぜなら彼らは風光明媚なリビエラ海岸沿いに住みながら海が嫌いなのである。去年まではミッシェルちゃん家族がいたから、今日はここの海岸、明日はあの浜辺、とリグリア海を満喫できたのだが、今年からは「穏やかさ」と引き換えにそのお楽しみは絶たれてしまったようである。準備のために寝室に戻ると、子豚が一匹、わたしのベッドに座っているではないか!?げげっ!?よく見ると去年のあの忌まわしいカミッラ姉妹の妹であった!よ~く聞くと「く~き、久しぶり。」と言っているようだ。こいつ、いったいどこから湧いてきたのだろう?唖然としているとカティちゃんがニコニコと「昨日、彼女も一緒にプールに行きたいって、泊まったんだよ。気がつかなかった?」という。気がついていたら、わたしは夜逃げしていたと思う。急にプールが苦痛に感じられた。黙々と水着の用意をし、ルイスのクルマとおっとのクルマの2台で途中、ルイスの友達家族を拾ってプールに向けてGO!カティちゃんと子豚は当然のごとく我々のクルマに乗り込んだ。去年まではこの子豚たちのお守りは当たり前のようにわたしに廻ってきたのだが、今年はエルトンが後部席に彼女たちと一緒に座ってお守りをしてくれたので助かったのだった。プールに着くと、さすがに海のそばなのでミラノのアクアネバとはずいぶん違ってガラガラである。こんな時期に海に行くより正解かもしれない。入り口で子豚が水着とバスタオル以外、何も持ってこなかったことが発覚。ミリー「この子、マルちゃんたちの子供ってことでお金払って。ここはファミリーなら割引になるのよ。」わたしたちはまったくわたしたちに似ても似つかない子豚を連れて安くない入場料を払った。割引になるのはいいけど、なんでわたしたちが子豚の分も払わなくてはならないんだ?大いに不満を抱きながら、入場、きれいに刈り込まれた芝生の上にビーチタオルを敷き、わたしは疲れたのでそのまま寝転がり、みんなと子供たちはあっという間にプールに駆け出していった。1時間近く経ってわたしもそろそろ泳ぐか、とプールの浅いところに足をつけると気がついたカティちゃんが近寄ってきた。「く~き、わたし水中メガネ、持ってこなかったの。それ使う?」とわたしのを見やる。わたし「うん、わたしコンタクトだからこれなしに泳げないよ。あ、でもマルちゃんのがバッグの中に入ってるからそれを使っていいよ。」彼女は芝生に向かって駆け出し、おっとの水中メガネを取ってきた。するとそれを見ていた子豚「ねえ、わたしも持ってきてないの。それ貸して!」とわたしのを指差す。たった今、使うから貸せないと言ったばかりだろうが!!わたしは苦笑いをして水中メガネをつけ、水に入っていった。今年初めてのプール。山の中だし、まだ午前中だから水が冷たい。お腹のミーちゃんが初体験でショック死しないだろうか?とひやひやしながら、お腹を水につけ、覚悟を決めて泳ぎだした。子供たちを見ると、水中メガネはいつのまにか、子豚の手の中にあった。どうせカティちゃんから奪ったならちゃんと装着しろよ、とちょっとムカつく。冷たい水も慣れてしまうと案外悪くない。最近お腹の重みで腰痛がひどいのだが、水の中でおそるおそる平泳ぎをしてみると身体が軽くなって気持ちがいい。そこでプールの一番深いところで泳ぎを楽しんだのだった。しかしそれもほんの数往復で断念。ここのところの運動不足とお腹の重みですぐに疲れてしまう。普段なら2kmぐらい大丈夫なのに。。とちょっとがっかりしながら、岸にあがると、ルイスの友達の奥さんが座って浅いところでぱちゃぱちゃ泳ぐ息子と旦那さんを見ていた。わたし「息子さん、おいくつ?」と彼女の隣に座る。彼女は「3歳半。目が離せなくて。」と笑った。うちのミーちゃんもこんな風になるときが来るんだろうな。彼女はイタリアで出産した、というので聞きたかったガイジン同士の夫婦の子供の出生後の必要な書類の手続きの方法を聞いたり(わたしの周りはみんなイタ人X日本人夫婦ばかりなのだ。)、今後どうするのかなど雑談を交わしていると、急に彼女の顔が険しくなった。わたし「どうしたの?」彼女「今、通った男が「エクアドル臭せ~!」ってこっちを見ながら言ったのよ!むかつく!!」わたし「。。。それって、すごい。」妙に歓心してしまった。なぜなら、わたしたち2人のうち一人はどう見たってアジア人(←わたし)。エクアドル人をおっとに持つわたしですら、エク人とペルー人とコロンビア人の見分けなどつかないのはおろか、臭いの違いなどまったくわからないのに、一度素通りしただけでわかるなんて、麻薬犬のような嗅覚を持った男である!彼女「イタリア人の何が嫌って、いわれもない人種差別を大人も子供も平気でするところよ。」わたし「一度、外国に暮らしたイタ人はそうでもないんだけどね。。そういう奴らは地元から一歩も出たことのない、田舎者って見下しとけばいいんだよ。」そうやっているうちにハッと気がつくと、左太ももだけが日に焼けて真っ赤になり、水ぶくれのようなじんましんが出てきている。うわ~!!わたしはまるでかちかち山の狸のように慌てて水に飛び込んだ。しばらく泳いでいると太ももの熱が冷めてじんましんが引っ込んだのでヤレヤレと芝生の木陰に寝転がった。遠くのおっととカティちゃんたちはスライダーを何回も楽しみ、ダンスタイムでラテン音楽がガンガンかかる中、若いむちむちの女子インストラクターの動きに合わせて水中運動をしている。その後、波の起こるプールタイムが済んで音楽が止み、静かになったと思ったらカティちゃんが子豚と一緒に罰が悪そうな顔をして芝生に戻ってきて、後ろから男たちもぞろぞろ戻ってきた。子豚「く~き。。あのね、わたし波でおぼれそうになったの。」わたし「はあ。」子豚「。。でね、必死で浮き輪につかまっているうちに気がついたら水中メガネ、失くしてた。」わたし「げ。」カティちゃん「わたし、関係ないも~ん。」←いざとなれば薄情な子である。子豚は声を大にして「でもね、でもね、仕方がなかったの!あのときメガネを離して浮き輪につかまらなかったらわたし、おぼれ死んでたわっ!!」わたしは面倒くさくなり「マルちゃ~ん、あんたの水中メガネ、この子が失くしたって。一緒に監視員のところに行って聞いてきて。」とおっとを呼びつけゴロリと横になった。こんな展開になることはなんとなく予想がついていた。あ~よかった、わたしのまで貸さなくて。(←薄情な妻)おっとと子豚たちはプールに戻っていったが、見つからずにとぼとぼと帰ってきた。あまりに子豚がしょげているのでちょっと可哀想になり、ちょうどお昼で奥さんたちと準備していた生ハムサンドイッチを「ほら、あんたの分。」と差し出す。子豚「いらない。わたし、生ハム大嫌いなの。」言い放って、そばにあったポテチをばりばり食べ始めた。あ、そう。もうわたしは彼女を完全無視することに決めエルトンに押し付け、そういうわたしも売店に別の具のサンドイッチを買いにいったのであった。それからわたしはもう泳がず、芝生の木陰で持ってきた本を読みながらプールを観察していた。男共はずっと先ほどの若いインストラクターのお姉さんの周りを囲み、楽しそうに踊り、カティちゃんと子豚は芝生のそばを通るたびにいつも違うアイスを口にくわえている。夕方になって、全員が戻ってきた。カティちゃんと子豚はまたもやアイスを食べ終わりかけていた。わたし「ねえミリー、あのこたち、いったい何本アイスを食べたの?」ミリーが「さあ。。。2~3本じゃないかしら?」とけろっと答えるので、目が点になる。子豚を家まで送り、我々とルイスの友達も一緒に食事をしようということになった。わたしはクルマでの往復にすっかり疲れてしまった。ミリーが「いくきーとは夕ご飯の支度が終わって呼ぶまで寝てて。」と言うお言葉に甘えて子供部屋で寝て、おっとに揺り起こされてダイニングに行くとサプライズが待っていた。なんとあのいつもは気のきかないおっとが、わたしに大きなバースデーケーキを用意してくれていたのである!←信じられない!!上にはチョコレートで「Tanti Auguri Ykukito」と書かれてあった。Ykukitoじゃなくて、Ikukitoなんだけど。。。まあ、いいや。スペ語、イタ語、ポル語、英語で「ハッピーバースデー」を長々とみんなで唄いきり、わたしはローソクの火を吹き消した。日本もイタリアも夏休み真っ只中のわたしの誕生日をこんなに大勢に祝ってもらうのは、子供の頃以来久しぶりで、ちょっと涙が出た。
2007.08.21
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豊臣秀吉がまた木下藤吉郎であったころ・・・ 金目教を探るため飛騨の国から仮面の忍者を呼んだ ・・・その人の名は・・・・・・赤影さんと共にわたしは甲賀幻妖斉の巣窟を探していたのだ。しかし不覚にもわたしは奴の手下の下忍につかまり、大岩に縛られた。そこに現れ助けてくれたのは青影さんだったが、あの少年忍者ではなく超イケ面忍者であった!デレデレしながら縄を解いてもらい、2人で南大阪にあるどんづる峰を下っていくと、甲賀幻妖斉の息子という、岸辺シローの罠が待ち構えていた。さあ、どうするっ!?・・・・・・ととてもいいところで携帯が鳴った。おっと「もしもし?信じられない、まだ寝てるの!?」その言葉に壁の時計を見やるともう朝の9時半。そういえば、今朝おっとが「行ってきま~す!」といつものようにわたしのお腹をなでなでして仕事に出かけて行ったような気がする。。?ああ、せっかくいいところだったのに。。。と電話を切った後にまた寝を試みたが、もう眠気は覚めてしまってしかたがないので起き出した。嫌いだけど、産婦人科医に薦められているので仕方なくヨーグルトを食べながら、お友達のKatiaさんが送ってくれた数冊の本の一冊をぺらぺらとめくる。一冊の本には「1989年発行」と書かれてあった。ああ、そうか。昨日、この年数を見たから、わたしのタイムスリップ機能にスイッチが入ったんだ。。と夢の内容に納得して一人でにやけた。あの頃って特撮やSF映画にはまってたんだよな。このようにわたしはすっかり自堕落になってしまった。まだ7月中はこの田舎町でも30分から1時間間隔でバスも出ていたので、時々ひとりで近所のスーパーや市場に出かけて暇もつぶしていた。しかし8月になってからはバスは1日3本ほどになって、これでは「ちょっとおでかけ。」も出来やしない。安定期に入ったとはいえ、やっぱり長時間出歩くのはしんどい。近所は田舎なのでウィンドウショッピングするような店などもないし、家に引きこもったままだ。おっとも最近はやはりわたしに気を遣っているらしく、わたしを怒り悩ませるような大事件は起こさないのでうれしいやら、「これじゃネタがないやん!」という気持ちやらで複雑である。当然、ネタがないので日記もUPのしようがない。。。。あ、そういえば。昨日、たまたま玄関のそばに居たとき、インターフォンが鳴ったので、反射的にのぞき窓からのぞいた。するとひとりの見知らぬ南米人がインターフォンを鳴らしてから15秒と経っていないのに、すでに外の階段を下りて帰ろうとしていた。わたしは「居るよ、待って~!!」と叫んで慌てて扉を開けて駆け出し、その男を引き止めた。きっとこれが見知らぬイタリア人ならとっさにこの行動は取らなかったと思う。なぜなら、過去の苦い経験上、イタリア人の場合は100%の確率で怪しい宗教勧誘か、押し売りなのだ。しかしこれが南米人の場合は違う。南米人だからおっとの友達、という可能性、ガイジンの宗教勧誘や押し売りなどはまだ一度も遭遇したことがないから、きっと何か用事があって来た、という可能性の2つである。案の定、彼は郵便配達人だった。ニコニコと「あなた、いくきーとさん?この住所探すの、苦労したよ。」と小包を差し出す。我が家は1階の住人と番地が一緒なので、なかなか見つけてもらえないのか、普段は共働きでいつも留守にしているからなのか(しかし何度か家に居たときにも不在届けが入っていた。怒)、実は今まで郵便小包を手渡しで受け取ったことがなく、なんだか妙に感動してしまった。目をうるうるさせながら心をこめて「ありがとう。」というと、若い日に焼けた彼は照れて「いや~。。。えっとぉ、君はなにじん?」と聞くので「日本人だよ。あんたは南米人でしょ?エクアドル?ペルー?」彼はびっくりしたように「へえ、ボリビア人だよ。わかるんだ~。」「うちのおっとがエクアドル人だからね。」「へえ~。」彼は感心したように帰っていった。小包は前記したようにお友達のKatiaさんからで妊娠育児の雑誌を重いのに3冊も送ってくれたのだった。ありがとう。今朝は今朝で、例のヨーグルトをテーブルについて嫌々食べているとき「いくきーと!!」とそのテーブルが見える玄関脇の開け放たれた小窓から昨日のボリビア人の配達人が顔を出したので、びっくりしてヨーグルトを吹き出しそうになった。ボリビア人「今日も小包だよ~。」ホントかよ!?半信半疑で玄関を開けると本当に小包を持って彼が立っていた。「また小包?」「うん、今度は日本からだよ。」受け取ると彼はニコニコしながら「サヨナーラ。」と階段を駆け下りていった。わたしは南米人じゃないのに、ずいぶん親近感を抱かれてしまったものである。やっぱりヤギに囲まれた生活が長いと、特有のヤギ臭でもするようになったのだろうか?小包は我がお嬢母からだった。先日こちらに来たときに「あちらに帰ったら、何かのついででいいので、どこかの神社仏閣で「安産守り」を買ってきてください。」とお願いしておいたのだ。母「あらっ、安産といえば宝塚の◎◎神社よね。」←母はなんでも自分の芦屋の実家のそばに行きたがる。わたし「いや、そんな遠いところじゃなくてもいいですよ。奈良だったら天皇家ご用達の(←こういう母のセレブ心を刺激するようなセリフは必需である)帯解寺とかあるでしょう。」そういうことで母はわたしの思惑どおり、帯解寺に行き安産守りと、そのほかにもお札2枚と、仏像の朱印が押されたピンクの腹巻を送ってくれた。戌の日まで待って腹巻を試してみようと思ったが、今日のミラノはどんよりしていて肌寒いので今日からつけてみることにした。腰はちょっと楽になるけどきつい。。。。。それだけ。ああ、たいしたネタがないなあ。
2007.08.02
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昨日の日記に書いた野菜は「COSTE」。一見チンゲン菜風だけど、もっと大きくて固い。ほうれん草のように茹でて食べてもいいらしい。しかしわたしは昨夜これをカレーに入れた。こうすればあまり味がわからないだろう。そのほか冷蔵庫整理のつもりでセロリ、人参、冷凍庫に少しずつ残ってた冷凍サトイモ、冷凍ほうれん草、シーフードミックス、ミートボール、母が作り置きしていった牛肉の佃煮などを大なべにぶち込んで炒めていたら、見るからに残飯を全部なべでかき混ぜているみたいで気持ちが悪くなってきたので慌ててカレールーを放り込んで色がわからなくした。そんなメイキングを見ていないおっとは「うわ~、今日のカレーは具がたっぷりでおいしいなあ!」と2杯もおかわりしている。わたしは、というとこの闇なべならぬ、闇カレーの中身を知っているだけに半分も食べることができず、残してしまったのであった。*******ウイルスの話で前後してしまったが、先週わたしは産婦人科の定期検診に行った。羊水検査から約5日目だ。羊水検査は痛かった。まずは診察台に上がる前に何人もの違う医師に「本当にこの検査をするんだね?後悔はしないね。」と念を押されて、(すでに決めてここに来てるのに、決心をゆるがさないでほしいな、というか、ここまで念を押す裏になにか深い意味があるんだろうか?)とこわくなって痛かった。それから医師は「普通の採血検査みたいなものですからちくっと刺して、すぐに終わりますよ~。」と言った。確かに言った。医師は、診察台の上で恐怖でコチコチになって横たわっているわたしのお腹にエコーを見ながら注射針を刺したのだが、この痛さを例えると、大げさかもしれないが腹に刀を刺しながらもこわくなって切腹しそこねた侍のような感じ?なんせ、細い針といえども、お腹の皮を全部つらぬいて、さらに胎盤を貫いて羊水を採取するのだ。しかもエコーの画像の中では注射針に興味を示した胎児がそちらに手をのばして触ろうとするので、医師はそれを避けるためにグリグリと注射針を回転させるのがまた痛いし、へたしたら胎児を傷つけられそうで痛い。ほんの7~8分のことだったが、ものすごく長く感じられた。しかも35mlもの羊水が、抜かれている最中にどんどん力が抜けていくのが感じられる。顔を食べられたアンパンマンの脱力加減というのは、こういうものなのだろうか?とふっと思う。そういうわけで、終わるともうヘトヘトだった。涙目で立ち上がり、すぐ外の待合室で椅子に座って次の診察の予約表を看護婦が作成してくれるのを待っていたのだが、椅子に座っていることもしんどくなってきてダラーと伸びていたら、検査室から医師がそれを見つけて、慌てて診察台に寝かせてくれた。医師「旦那さんかお母さん、誰か付き添いのひとは?」わたし「いません。タクシーで帰ろうと思って。。。」医師「これじゃ一人で帰るのは無理だよ。旦那さんに来てもらえないの?」そこでわたしは仕方なくおっとを呼び、仕事の都合がつかなかったおっとは2時間後ぐらいに病院に来た。そのときにはわたしはすでに診察台から追い出されてまた椅子の上で伸びていたのだ。そこから2日間、わたしは「羊水検査は流産の危険性があるから。」と再びベッドの上のひととなったのだが、実際、この刺し傷が後を引く痛さでぐったりしていた。そういったことがあってから、今まで何をやるにも文句を言いながらやっていたおっとが、あまり文句を言わなくなったような気がする。だから定期検診ぐらいは来なくてもいいものの、おっとは珍しく自ら仕事を半日休んで同行してきた。よっぽど5日前の羊水検査のことが身にしみたらしい。予約時間に40分も遅れて女医がやってきた。ここの病院は、最初にお世話になった産婦人科医(このひとは定年退職後、いろいろな病院を嘱託で廻っている)が「そろそろひとつの病院に決めたほうがいいから。」と紹介してくれた病院で、この女医がわたしの担当となったのだ。腕は悪くなさそうなのだが、イタリア人にありがちで毎回言うことが変わるし、絶対遅刻してくる。大きな公立病院だからタダだし、信用していた医師に薦められた病院だし、あまり贅沢は言えないのだが、やはり最初の医師がいいな。診察室に現れた彼女は上機嫌でわたしたちに「いいこと教えてあげるわ。先日の羊水検査の最終結果はまだなんだけど、臨時結果が出てね、あなたたちの子供は「正常な男児」だとわかったわよ!」と簡単な検査結果の用紙を見せてくれた。おっと「ああ、本当ですか!?ありがとう、神様!!」と小さく叫ぶ。ヤレヤレ。。。そうか、問題があったときのために早急な処置が出来るように、それだけは早く結果を出してくれるんだな、きっと。わたしは力が抜けて黙り込んだ。女医はわたしにもおっとと同じようなリアクションをして欲しかったらしく、ちょっと物足りなそうに椅子に座った。そしてお決まりのエコーをやる気なさげにして、再びデスクに戻って「この夏はどうするの?どこの海に行くの?」と聞いてきた。わたし「それ、聞きたかったんです。現在まで自宅安静、ということだったのでどこにも行かないでなるべく動かないようにしていたのですが、もう外出していいんですか?どれぐらいの範囲まで??」女医は「もう出血もないみたいだし、おだやかなバカンスを過ごすならいいわ。イタリア国内の近場なら、念のためにカルテ持参でどこの海に行ってもいいけど、それが日本やモルディブだったら何かあってもカルテを理解してもらえないし、ダメかも。」とケラケラ笑う。ああ、なんでイタリア人は「夏休み=海」なんだろう?とりあえずその言葉からわたしたちは、おだやかに行動すればイタリア国内の近場、どこに行ってもOK!と受け取った。病院を出た後、さっそくわたしたちは近所のスーパーに直行した。もちろん、あんなに渇望していたサラダセットと、おっとに注文するには難しそうでやめておいた化粧品もろもろを買うつもりである。3ヶ月ぶりのスーパーは当たり前だが、冷房が効いていて涼しかった。今まで家の中と病院の中をちょっとしか歩いていないわたしは、こんなに色とりどりの商品の渦の中を長距離歩くことに感動を噛み締めていた。おっとは別の意味で感動していた。「これからひとりぼっちじゃないし、自分で考えて買い物しなくていいからうれしい!!」とさっそくゲームコーナーに走っていった。怒とりあえず簡単に買い物を済ませて、2人はすっかり満足して家に着く。おっと「ねえねえ、子供が正常ってわかったんだから、もうちゃんと名前を決めていいでしょ?」←先日も書いたが、おっとは最近子供のことをでたらめな名前で呼び始めているのである。わたし「そうだね。どんな名前がいいの?」おっと「マルちゃんJr.。」わたし「え~、そんなの絶対やだよ!」息子に自分の名前と同じ名前をつけて「ジュニア」と言わせているヤギが結構多い。でもわたしとしては、それは父親のエゴむき出しだし、大きくなっても父親を抜かせないような感が伺えてイヤだ。しかも同じ名前だからわたしも子供を呼んだり、何かに書き込んだりするのにきっとややこしくなることが予想できる。おっと「じゃあ、ホセとかエクターとかピエトロとか。。。」わたし「。。。全部あんたの酔っ払い仲間の名前じゃないか。」それに偏見だが、南米系の名前は将来酔っ払いヤギか、ウエスタン映画に出てきそうなヒスパニック系悪役になりそうで、なんとなく気が進まない。おっと「じゃあ、日本人の名前にしよう。君は決めているの?」わたし「う~ん、ひとつ考えてはいたんだけどね。この間姓名判断で調べたら、とてつもなく悪い名前だったからやめた。」おっと「せーめーはんだん?」わたし「日本では名前によって運がよくなるとも悪くなるとも言われてるんだよ。」おっと「じゃあ、ぼくが決める。えっとね、「カブトコウジ」か「ツルギテツヤ」。わたし「。。。苗字も一緒に考えるのやめてくれない?そういう場合は「甲児」か「鉄也」だけでいいんだ。」おっと「じゃ、コウジ。」やっぱり嫌だ。私の中では「コウジ」はドリフターズの「仲本工事」だし、「テツヤ」だって「武田鉄矢」だ。っつ~か、アニメの主人公や俳優の名前をつけるのはやっぱり抵抗があるぞ!!!!!(ちなみにおっとの名前はアメリカ俳優にちなんで名づけられた。)結局あいだを取って(?)イタリア的な名前に決めた。2人の友達にも知り合いにもいないような名前に決めるのは大変だった。なにせイタリア人は普通、聖人の名前から取っているので同じ名前が多いし、数が限られてくるのだ。(結局この名前もアメリカンヒーローの中にいたけど。)おっとはちなみに名前を決めてからは、わたしのお腹に向かって「ミーちゃん、ミーちゃん。」と呼びかけるようになった。わたしはそう呼ばれると、せっかくこれから自分の子供という認識を持って接しようと思っていたのに、なぜかお腹の中に子猫でも育てているような気分になってしまうのである。これでみなさんはいろいろ名前を想像されるかと思われるが、その名前ぐらいは生まれてくるときのためのお楽しみに取っておくことにしよう。
2007.07.24
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WIN VISTAに替えてからというもの、PCは不調続きである。だいたい、旧バージョンよりよくなるのが新バージョンのはずだが、我が家の場合は違う。先週、わたしはイタリア語の料理のサイトを検索していた。というのも、わたしが外に出られないのでおっとが毎週末一週間分の食料を買いだめしてくるのだが、細かい買い物メモを渡しても、その1/3は違うものを買ってくる。ひとに頼んでいるのだし、そこを突いてあれこれいう資格もないのはわかっているので、多少我慢をしているのだが、なぜこのおっとはいつも「サラダセット(すでに洗って切ってあるサラダ用の野菜セット)」と書いても、わたしが今まであえて買わなかった日本では見かけない珍しい野菜ばかり買ってくるのだろう?この夏はイタリア全土、過去128年の観測歴の中で一番暑い夏だそうだ。なんでもアフリカから熱風が流れて来ているそうである。ミラノも連日35~37度の灼熱地獄と熱帯夜が続き、食べる気もしなければ作る気もしない。おかげでつわりはずいぶん軽くなったというのに、体重も軽いままである。そんなときに簡単サラダセットを。。。といつも夢に見るのだが、おっとの買ってくる根菜系にまるで蝋で作ったような分厚い葉っぱがついた野菜では、サラダにしても噛み切れなさそうだし、茹でてもなんとなく苦そうだ。それで、その野菜の単語をググッて、調理法をあれやこれやと眺めるのだが大概はそれをざくざく切ってグラタンのようにチーズをどっさりかけてオーブンで焼く、と書いてある。そういえば2年前の冬にボイラーが壊れて、オーブンで暖を取ろうと試みたな。。。。(何人のお友達がこれを覚えているだろうか?)それを考えるとこのくそ暑いのにオーブンなんてやっぱり使えない。さらに検索していると、あるレシピの写真だか動画が見れなくて、「ActiveX(たぶんこの名称)をインストールしますか?」というウインドウが立ち上がった。WIN VISTAに替えてから手持ちのそういったソフトがすべて消失したので、まいど面倒ながらそんなウインドウが立ち上がるたびにダウンロードしなければならない。「ActiveX」も見覚えのあるソフトだったので警戒することもなく「はい」をマウスでクリックした。そのとたん。あらゆるウインドウが立ち上がり、決して「ActiveX」ではない訳のわからないソフトが次々勝手にインストールされて、デスクトップにさまざまなアイコンが出来ていく。OOOOOOOOOOOOHHHHHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!やられた!!!!!完全にウイルスにやられたようだ。過去、ウイルスにやられたのは数年前、まだWIN98日本語バージョンを使っていたとき。日本語のわからないおっとが何にでも「はい」をクリックして取り込んだ。そのときはあちこち手をつくして日本人のPC技師を探して、取り除いてもらったのだ。頭を混乱させながら「そうだ、根源のこの訳のわからないソフトをアンインストールしなければ!」とコントロールパネルを開こうとするのだが、すっかりいかれてしまったPCはコントロールパネルすら開かせてくれない。そして買ったときからインストールされてあるノートン先生は「問題なし。」の青信号を出している。。?PC本体からと思われる警告ウインドウが立ち上がり「このスパイウェアを取り除くにはこのサイトからこのソフトをダウンロードしてください。」と出てくるのだが、それすらおそろしくて信用がならないので触われない。すっかりお手上げになってしまった。そこで買った店のカスタマーズサービスに電話をする。電話口にはたどたどしいイタリア語の男性が出て、あれこれ指図してくれるのだが、どこをどういじってもどうにもならない。10分ほど話して「うちじゃわかりません。」と終わった。このサービス、有料なのだ。しかも彼の下手なイタリア語に、どこの出身かときけば、彼はスペイン人でこのカスタマーズサービスはスペインに直通電話だという。なんだ、それならネイティブのおっとに電話してもらえばよかった。いやっ、そ~ゆ~ことじゃなくて、なんでわざわざ国際電話料金まで払って、そういう問題窓口に電話しているのに「うちじゃわかりません。」なのだ!?プロがダメだとなると。。。詳しい友達に直接PCを持ち込んで聞くしかないな。と考えた。一番頼りになる友達はウンブリア在住だし、そのほかのミラノの友達はすでにバカンスに出かけていたり、あまり親しくないから頼みにくかったり。。その夜帰宅したおっとにこの事実はおそろしくて言えなかった。なぜなら前回ウイルスに感染したときにはわたしが「Hサイトばっかりみてるから、そんなものを取り込むんだ!!もうPCに触るな~!!」とおっとをさんざんなじったのできっとそのしっぺ返しが来るに違いない。幸運にもおっとはその日はPCに触らなかった。翌日。もう一度PCを立ち上げ、実は昨日のことがただの悪夢で、今日は正常に戻っている、という状態を望んだのだったが、結果は同じだった。仕方がないのでしぶしぶ仕事中のおっとに電話した。意外におっとの反応はあっさりしたものだった。「あ、そうなの?じゃ、ちょっとその辺の知り合いを当たってみるよ。」その日の夜、帰宅したおっとは「プロに頼むことにしたから。」とPCをバッグに詰め込んだ。PC音痴のおっとがプロの知り合い?おっと「いつも配達に行くところにプロの事務所があるんだ。1時間25ユーロで診てくれるって。いいだろ?」なるほど。運送業っていろんな職業と幅広く知り合えるんだな。次の日、おっとはPCを持って事務所に行き、2日後の先週土曜日には受け取りに行った。かかった費用は1時間ちょっとの30ユーロだった。しかし。どういうことだろう?このことについて、言及もなじることもしないおっとがこわい??
2007.07.23
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両親が帰国してから3日目。あれほど毎日のように吐いていたつわりも、この短期間で「ちょっとムカムカするけど。。。」ぐらいになり、出血もその少し前からない。ずっとベッドの上にいると、腰が痛くなってたまに起き上がるのも激痛になってきたので、努めて椅子に座ってPCをしたり、短時間づつ立ち歩いて簡単な家事をするようにしている。ここ数日でお腹も急に出始めて胎動らしきものも感じられるようになった。(というか、今までそんなことに気づく余裕がなかったのかも?)先日の医師の指示で、今まで続けていた流産予防薬の一部を止めたり、時期もイタリアでいう18週目(日本は10ヶ月10日で出産するというけれど、イタリアでは9ヶ月で出産という計算なのだ。)という、安定期に入りつつあることもあって、一概には何がよかったのか言えないが、やはり両親アレルギーだったのだろうか?*****明日は待ちに待った羊水検査だ。妊娠が発覚してからというもの、ずっとこの検査がこわかった。羊水検査というのは、胎盤の中の羊水を注射で摂取し、胎児がダウン症などの障害児として生まれてくるか調べる検査なのだ。そんなおそろしい検査、もっと早くにやりたかったのだが、胎児がある程度発育し、胎盤内に羊水が充分量満たされていないとできない検査なので今日まで待たされたわけである。ちなみに30歳の妊婦からダウン症児が産まれる確率は1/700、わたしの年齢で見るといきなり1/80である。OOOOOOOHHHHHHHHHH,NOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!!!!!高齢になればなるほどその確率は高い。イタリアでは普通、この検査にかかる費用は800~1200ユーロ(132000円~198000円)といわれているのだが、35歳以上の妊婦は高リスクなので無料である。そりゃあ、もちろんやるに越したことはないのだが、実はこの検査、注射針を胎盤に刺すことによって流産のリスクが伴うので2度も流産経験のあり、高齢なわたしは、2週間ほど前に夫婦揃ってこの検査をする意志があるかどうかの相談に呼ばれた。診察室に呼ばれると、いつもと違う女医さんがいて、まず羊水検査の必要性、どうやって検査をするか、検査結果の見方、などを説明してくれる。ダウン症は遺伝でもなんでもなく、どうしたら発症するのか解明されていない。医師いわく「神様のいたずら」なんだそうである。正常な男女は染色体が46だそうだが、ダウン症になると47になるのでそれで判別するらしい。女医「この検査、やりますか?」わたしとおっと「もちろんやります。」女医「結果は検査の3週間後に出ます。もしこの結果が正常じゃない場合の処置はおふたりでもう決めておられますか?」わたし「わたしは決めてますが、おっとからまだそのことは聞いていません。」とおっとを見た。おっとはつらそうにうつむいて唇をかみしめたまま、返事をしなかった。私の考えはこうだ。もし生まれてくる子供がダウン症でも育てていく覚悟があるなら、こんな検査ははじめから受けない。わたしは高齢だし、きっと子供のほうがわたしより長く生きるだろう。親や親戚など誰も頼る人のないイタリアで一生赤ん坊のままの自立できない子供を生むことは親の責任として社会への責任として許されないことだ。わたしの同僚のお嫁さんのお姉さんに重度のダウン症で、わたしよりも2つ年上のひとがいる。お嫁さんは同僚と結婚するまでお母さんと小さな文房具店を営みながら、一緒にずっとこのお姉さんにつきっきりで世話をしていた。しかし、そのお母さんが先日亡くなり、お嫁さんにも赤ちゃんができて、世話が続けられなくなり、この可哀そうなお姉さんは離婚したお父さんの元に引き取られたのだが、タクシーの運転手をしているお父さんにはとうてい世話は無理で、現在は叔母さんの家に預けられているそうである。近くでこんな光景を目の当たりにしていると、やっぱりこんな子を産んじゃいけないと思う。子供が小さいうち、まだわたしたちが高齢といえども若いうちはいいが、周りだけじゃなく、その子まで不幸になってしまう。しかしこの決意も毎回エコーで胎児が成長していく過程を見るたび、最近は胎動を感じるたび、かなり揺れ動いてはいる。もしそんな子だったらどうしよう。。。ここまで育っているのに。なので、わたしは羊水検査の結果が出るまでなるべく情をかけないべく、おっとのようにお腹に向かって話しかけもしないし、おっとが最近でたらめにつけているさまざまな名前も呼ばない。名前を決めてしまったら最後、このお腹の中の「小さな人間の形をした生物」はたちまち「我が子」と変化し、感情に流されて肝心なところで誤った選択をしてしまいそうだからだ。女医はしばらく無言のおっとの答えを待っていたが「まあ、まだ検査まで2週間ありますから、それまでおふたりでよくお考えになって。」といい、「今日このあと、Ecografia di Genetica(ちょっと特殊なエコー?)をやっていただきます。それで外見的な異常を調べます。奇形児の場合、手の指が5本でなかったり、鼻が異常に低すぎたりするのでわかります。ダウン症も首の後ろにこぶができていたり、首が異常に太かったりするので、これだけでも判断がつくことができます。このエコーで外見的に異常がない場合はダウン症児が産まれる確率が1/80から1/360、つまり1/4に下がります。」その言葉を聞いて、わたしたちは硬直した。そのままいつもと違う薄暗いEcografia di Genetica専用の部屋へと移動した。中には数人の医師がいて、超音波の機械は、いつも診察で使っているものと何かが違う。わたしは診察台に仰向けに寝て、お腹に青いジェルを塗りたくられてエコーがはじまった。いつもと違うのはモニターがもっと精密で写りがよく、「はい、ここが心臓、ここが胃。。。」などと内臓まで拡大で見られることだ。別のモニターでも同じものが写し出され、別の医師が記録を採っていく。医師「性別を知りたいですか?」わたしとおっと「もちろん知りたいです!!」医師「両足正常。。足の指もちゃんとついてます。。ああ、これはたぶん男の子ですね。」うわ~。。。しかしあまり驚かなかった。おっとは最初から「男の子が欲しい!」と言っていたが、それに感染されたわけでなくわたしの中でもなんとなく男だ、という気がしていたので「やっぱり当たった!」ぐらいにしか思わなかったのである。医師「身体は正常です。頭部は。。。ううん、動いてくれ~!」モニターをみると、胎児の頭部が写っていたが、さっきまでは大暴れしてなかなか写真に撮らせてくれなかったこの子、動いて欲しいときにまったく動かなくなってしまった。医師は痛いぐらいわたしのお腹をぐりぐりしたり、ゆさゆさ揺らすのだが指をくわえたような姿勢のまま、一向に動かない。医師「相当なはねっかえりですね、この子は。ちょっと一休みして様子を見ましょう。その辺のバールでパニーノでも食べて戻ってきてください。」わたしたちは中途半端な気持ちのまま言われたとおりバールに向かって昼食をとった。首の太さでダウン症かわかるというのに、肝心なことがまだわからない。おっとはしかしうれしそうだった。「男の子かぁ、ま、ぼくは女の子でも良かったんだけどね~。」←うそつけ慌てて病院に戻ると、ちょうど看護婦がわたしたちの姿を見つけて「じゃ、また始めましょうか。」と再び診察台に上がった。しかし同じだった。やはりこの頑固者は微動だにせず。。。医師「お母さん、セキをしてみてください。」わたしが無理やりゲホゲホするとモニターの中のお腹は大きく揺れ動き、胎児はびっくりしたらしく横を向いたところで医師がすかさず首の寸法を測る。医師が「異常なし。。。」とつぶやいたので、わたしたちは全身から気が抜けた。数人の医師が寄ってたかってエコー写真を現像し、カルテを書き「じゃ、2週間後に。」と終わった。これでダウン症児が産まれる確率が1/80から1/360に減ってかなり安心したわけだが、まだ30歳の妊婦の倍だし、心配はつきない。しかし、これもこの胎児の生存競争の序曲に過ぎない。週数も重ね、出血も最近はないので流産のリスクからは遠くなってきているが、ダウン症のリスク、それをクリアしたとしても、早産のリスク。。。考え出したらきりがない。もう、この胎児の運の強さと生命力を信じるしかないのである。わかっているのだけど。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。ああ、明日かぁ。。。。。
2007.07.12
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ちょっと前にブラジルに帰省していたエルトンが帰ってきた。彼が旅立つ前に我が家にお別れを言うついでに彼の家の鍵を預けに来たときは、汚い話だが、わたしは猛烈に気持ちが悪くて洗面所から離れられない状態だった。そのときだけはかろうじて寝室にヨロヨロと駆け込んでドアをぴったり閉め、床にうずくまってグッタリと、彼が用事が済んで出て行くのを息をひそめて待っていたのである。ドアの外からはおっとが「いくきーとは今気持ちが悪いみたいで。」と言ってるのが聞こえ、エルトンが「可哀相に、じゃあもう行くよ。。。」と応対しているのでヤレヤレ、と思っていると、その瞬間ドアが開いて、わたしは朦朧とした意識の中「え!?」と顔も上げれないまま驚いた。おっと「ほらっ、ごらんの通りの状態でね。」と、パジャマ姿もヨレヨレな床に這いつくばっているわたしを見世物にしているではないか!?わたし「うぐ。。エルトン、こんな状態でゴメン。」←しどろもどろエルトンもおっとの突飛な行動とわたしのみじめな姿にしどろもどろに「あ。ああ、ごめん。」と慌ててドアを閉めなおしてそそくさと出て行った。この時わたしはまったくデリカシーのないおっとに哀しくなったのだった。そのちょっと前に彼が我が家に来たときは、両親が家に居たのだが、わたしはベッドの上で起きていたので、エルトンは寝室に入りドアをきっちり閉めた。「もうすぐブラジルに帰るから、って理由でやっとあの4人の居候に出て行ってもらったよ。ああ、長くて苦しかった!」とさっそく報告。しかし、うれしいながらも彼らが出て行く前に、エルトンをさんざんののしって「あんたなんかに神の加護はないわよ!!」と言われたことや(彼は敬虔な信者なので相当ショックだったようである。)、買って1年もしなかった上等なベッドマットが子供たちのオネショだらけになって、捨てる羽目になったことなど、早口で愚痴って出て行ったのである。どうせ、親切にしたところでこういう結末になることは目に見えていたのだから、そんな恩知らずなやつ達はトットと冷酷に追い出してやればよかったんだ。エルトンはブラジルにはご両親の結婚45周年のパーティに参加する名目で3週間ほど滞在したのだが、しっかりものの彼はその間、バカンスらしいこともせずいろいろと忙しかったようである。わたしはつい最近知ったのだが、エルトンは実は日系3世ならぬ、イタリア系3世だったのだ。ブラジルという国は本当にいろいろな国の移民を引き受けているんだなあ、と感心した。そこで今回の帰国にイタリアに帰化するための書類の作成、という目的が主だったらしい。わたし「。。。でもカナダに移住するのになんでイタリア籍が必要なの?」エルトン「そのためのイタリア籍だよ。向こうに行ったら、ヨーロッパ籍のほうが何かと都合がいいからね。それに今の家を誰かに貸す、となるときっとイタリアには戻ってこなければならないときもあるだろうから、そのとき簡単に入国できるようにするためさ。」わたし「ふう~ん。。」エルトン「それに、カナダに住んでみて住みにくそうならこっちに帰ってこれるしね。」わたし「ブラジルじゃなしに?」エルトン「ブラジルはだんだん経済的にマシにはなってきているけど、今回の帰国で国民性が肌に合わない、と感じたからもう帰らない。」わたし「え~、自分の母国なのに、何がダメなの?わたしは日本が大好きだけどなあ。」エルトン「暑い国だから人々が怠惰だ。だから絶対先進国入りはできないし、発展途上国のままだ。帰国してみてしみじみ感じたけど、あんなに毎日ソーセージと肉と豆ばっかり食べてビールばっかり飲んでいたら、早死にするよ。」うう~ん、エクアドルもそんな感じだから的は得てる気はするけど、自国民が言う発言じゃないな。とにかくそういうことで、エルトンは帰国翌日にはさっそく市役所に行って帰化の手続きもし、カナダ移住計画が着々と進んでいるようであった。(わたしたちは、といえばおっとは気軽に「そのうち追いかける。」と言っていたが、子供もできてしまったらそれどころじゃなくなるのは目に見えている。それに、2人してそんな右も左もわからぬ言葉も違う外国で一から始めるぐらいなら、日本に移住したほうがわたしの負担は大きくなるけどまだマシってもんだ。)わたしは、仲のいいご近所さんが遠いところに引っ越すのが寂しい以上に心細い。なぜなら、ヤギなおっとは、いくら説得しても週末の酔いどれ朝帰りはやめることがなく、夜中にそうやって酔って正体不明の時には携帯に連絡しても応えない。そんなときにわたしひとりならともかく、もうひとりの命を抱えている状態で何かあったりしたら。。。とハラハラしてしまう。そこで夜遊びもしない、お酒も飲まない、夜中でも電話したらすぐに来てくれるご近所の真面目なエルトンが、わたしの心の拠り所だったのだ。実際彼もそこのところよく理解してくれていて「マルちゃんがいないときに何かあったら、ぼくにすぐに連絡するんだよ。」と言ってくれるのでおっとよりも心強いってのが、ちょっと情けないがうれしい。彼がいなくなったらどうしよう。。。せめてせめて、12月の出産時期ぐらいまでは居て欲しいな、などと都合のいいことを思っていると昨日もまた我が家に仕事帰りのおっとと共にやってきた。我が両親は2日も前からミラノ中央駅前のホテルに滞在し、今朝帰国したので、ここのところうちに来るときはいつも緊張していたエルトンもリラックスしてみえた。それはおっとは制服姿で現れたのに、同じ会社で働くエルトンが私服姿だから余計にそう見える、ということに気がついた。わたしは冗談で「エルトン、制服が変わったの?」と聞くと、彼は笑って「うん、部署が替わったからね。」と応える。わたし「え!事務職にでも移動したの?」←ホンキエルトン「ううん、無職部。」わたし「ゲ~~~???うそでしょ?!あ、転職先を見つけたんだ?」エルトン「ううん、次の職はまだ見つけてない。」わたし「ゲゲ。ゆ、勇気あるなあ。。」エルトン「もう、我慢が限界だったからね。」そうなのだ、おっととエルトンが働く運送会社は、わたしも一度社会見学をしたことがあるが、なんせガテン系なので、大将になるほどガラが悪くてこわい。他の働く人々も「このひとたちはスラングしか知らないんじゃないか?」と思うほど汚い言葉でしゃべりまくる。おかげさまで簡単に環境になじむおっとはどんどんガラが悪くなっている現状である。ところがエルトンはとことん育ちがいいらしく、このスラングを頑として嫌っているし、同僚たちと一緒に仕事の後、夜遊びもしないし、たまに休日の昼間のお酒の席でも飲まないので、いつもしらふで真面目なことばかり言っているようなので、どんどん仲間たちとは距離ができ、上司にはかなりいじめられていたらしい。おっとは仕事上、腹の立つことがあっても上手に乗り越えられるようなのだが、エルトンの場合は不器用なので真正面からぶつかって大喧嘩になるのもしばしばだったみたいだ。ずいぶん前からこのことは聞いていたから、彼がこの仕事を辞めることに関してはそんなに驚くことではなかったけれど、カナダ移住を目の前にしてどういうつもりだろう?エルトン「ぼくは頭がおかしくなったんだよ。」まったくだ。我が家ならまだこの会社の下請けだし、おっとがもし突然辞めたところでステファノの稼ぎと別の小口の仕事で繋いだら1ヶ月ぐらいやりすごせるだろうが、彼はここの従業員である。辞めてしまったらそれでお終いだ。彼は、この間のブラジル帰省のときはちょっとお金が足りなくて、うちに借りに来たぐらいだ。これからのカナダ移住を目の前にして家の中もリフォームするって言ってたし、カナダへの旅費、それから当面の生活費の貯蓄、諸々を考えるとこの先短いのに、今仕事を辞めるべきじゃないと思うのだが。。。エルトン、他人のことながらとても気になるのである。
2007.07.10
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お久しぶりです。体調がまだ完全でないのもありますが、ずっと自宅療養なんでネタがない。。。で、今日は愚痴。(苦笑)5月のはじめから今まで「自宅安静」をきっちり守り、半日以上ベッドの上でダラダラ過ごしてた。そして、先日6月終わりの検診でも、またもや「病気証明書」を1ヶ月もいただいて3ヶ月目の「自宅安静」突入である。会社に通っているときはそんな生活に憧れていたけれど、実際そうなるとつらいものがある。去年足を骨折して3ヶ月近く「自宅療養」だったときは、意外に楽しかった。回復に向かって足が少しずつ動く喜び、生まれて初めての経験であった「専業主婦生活」を、足の筋肉強化のために室内自転車をこぎながらTVを観たり、だいぶ動くようになった足をヒョコヒョコ引きづりながら、洗濯をしたり、料理をしたり、掃除をしたりして満喫していたのである。ところが今回は違う。未だに終わらないつわりも重なって、起きていること自体が苦痛である。掃除はおっと、洗濯機はスイッチは入れられるけど、干すのはおっと、料理も食べ物の臭いをかぐだけでダウンなので、火を通すような料理は全部おっとがしているが、申し訳ないことに大半が食べられない。買い物もおっと、各種支払いに郵便局に行くのもおっと、わたしの病院が遠いので診察も仕事中におっとが送迎してくれる、毎日外に働きに行くのもおっと。妊婦を抱える日本の旦那さんたちもこんなことをしているのだろうか?せめて夕方おっとが帰宅したときには玄関の鍵を開けて「おかえり。」と笑顔で迎えたいのに、一日のうちで一番調子が悪いのが夜なので、毎日ベッドの上から弱弱しく「おかえり。」というわたしを見ておっとは「本当に虚弱な女だなあ。」と哀れみと呆れた感情をミックスした苦笑いをするのである。*****みなさんご存知だとは思うが、わたしの妊娠が発覚し、妊娠休暇に突入したとたんに我がお嬢母が來伊した。しかも今回は父とパピヨン犬ソフィーさん(仮名)も同行である。もともとの目的は彼らの「ヨーロッパドライブ旅行&ついでに1週間ほどわたしたち夫婦と一緒に家族海外旅行」だったのだが、わたしの状態を見て家族旅行がダメになったため、失望が激しかったようである。彼らは日本でまったく旅のスケジュールを決めずに来て、こちら在住のわたしに全ての旅程を考えることを任せたかったらしい。しかしそんなものは「寝耳に水」である!彼らが来た当時はまだネットも繋がっていなくて、わたしが彼らの希望を聞いたり、旅行地を決めたり、旅行代理店に電話したりFAXを送ったりしている間にどんどん日が過ぎ、結局彼らは2週間も我が家で何もせずいることになったのであった。何が大変だったかというと、小型犬とはいえ犬を泊めてくれる、母が希望するような5つ星や4つ星のホテルなんて存在しないのだ!!それに対して父は「長旅なんだから2つとか3つ星でいいよ。」というので母との間で揉め事となりわたしは間に立ってオロオロするばかりであった。なかなか決まらない旅行に父は業を煮やし「もう、日本に電話して旅行代理店を当たる!」といって日本まで豪快に長電話するわ、FAXを送るわで、つめの垢に火をともすような節約生活を続けていたわたしはかなり神経的に参っていたのかもしれない。そんな中で大出血を起こした。原因は胎盤が子宮から一部はがれたことだった。医師は「流産のリスクがこれでまた上がったから絶対安静。」と言った。この事件から我が両親はびっくりしてしまっておとなしくなり、慌てて予定には入れていなかった以前彼らが住んでいた南スペインの保養地に旅立っていった。それから彼らがスペインに滞在していた2週間は出血もつわりも収まってのんきに過ごしていたのだが、次の予定地であるフランスに向かうため、我が家に彼らが5日間、帰ってきた2日目に大出血した。彼らが出て行くとそれは収まり、また帰ってくると今度は今までになかったような大大出血が3日間続き、4日目、これはもうダメだと入院の準備までして救急病院に駆け込んだのだが、病院に着いたら皮肉にももう血は止まっていて、迷惑そうに家に帰された。それは彼らがドイツを旅行するため家を出て行った日だった。この時医者には「あなた、ずっと自宅療養中でしょ、ちゃんと安静にしているの?」といわれ「はい」と答えると「安静ってのは、精神的にも安静に、ってことよ?ストレスを溜めないように。」と注意を受けた。おっと「これって両親アレルギーじゃないの?ぼくには考えられないことだけど、本当に君って両親のことが嫌いなんだね。」わたしもこの出血はストレス&両親アレルギーだとは確信した。しかし、両親のことが嫌い?というとちょっと違う。ただ苦手なのだ。母はご存知の方はご存知のように、女王様のような性格で、彼女の前ではわたしは言葉使いにもハラハラして、下僕な気分になってしまうし、父といえば、わたしが幼い時からずっと海外を飛び回ってほとんど日本にも我が家にもいなかったので、我が父ながらどんなひとなのかよくわからず、対処に戸惑ってしまうのである。なので今回こんなに長く家族が揃って同じ時間を過ごすことは、覚えている限り初めてで、どうしていいのかわからなくなるし、彼らが家にいるだけで息が詰まり、緊張してしまうのだ。おっと「お義父母さんたち、このドイツから帰ってきたらもうまた2週間家にいるんでしょ?どこかに行ってもらえるように言ったほうがいいんじゃないの?」まったくそうだと思った。彼らがドイツから戻ってきた。また大騒ぎして今度はパピヨン犬ソフィーさん(仮名)の再入国手続きをわたしを介してほぼ済ませたと同時に、わたしは出血、父はアルプス登山にひとりで旅立って行った。ベッドの中からパピヨン犬ソフィーさん(仮名)と一緒に家に残った母を見れば、私を気遣って家事を全部やってくれるのはありがたいのだが、それ以外はTVを観るでもなく本を読むでもなく、で一日パピヨン犬ソフィーさん(仮名)をひざに乗せてじっとしている。そうなると悪い気がして最初はベッドの中からおしゃべりの相手になっていたのだが、さすがに何日も女王様のお相手は疲れてきた。父がアルプスから帰ってくる日の朝。わたし「お父さんも今日帰ってくることですし、帰国まであと1週間もあるのだから、どこかにまた日帰りででも旅行されたらどうですか?そうしていただいたらわたしも一日ゆっくり寝れますし。」別に悪意なく、旅のお勧め&ひとりで居たいことを遠まわしに言ったのだが、母の癇にダイレクトに障ったようである。母「なんですって!?あなた今だってずっと寝てばかりいるじゃないの?そんなにあなたには自分の両親が邪魔なわけ!?」わたし「そうじゃなくて、こんなに好天が続いているのに、ずっと家で何もしないでいるのはもったいないし、わたしもずっと家に引きこもられても気を使いますし。」母「自分の両親に気を使う?ありえないわ(←ありえるのだ!)、やっぱりあなたはわたしたちがうっとおしいのよ。こんなか弱い老人によくもそんなひどいことが言えるわね!家事も何もかも全部やってあげてるのに!」わたし「家事をやってくれていることには感謝しますよ。でも、日帰りぐらいだったらソフィーさんの面倒は見ますし、犬なしのもっと自由な旅を味わえばいいと思って。。」母「そうやってマルちゃんに焚き付けられたわけ?だからあんな男との結婚は反対だったのよ!」なんだとう?この展開は!?実母とはいえ、この言葉にわたしもついに切れて大喧嘩に発展したのであった。やがて父がアルプスひとり登山を満喫したらしく、ニコニコと帰ってきた。母「あなた、すぐにスーツケースの支度をして!今からホテルに泊まりますわよ。」父「。。はあ?」この後、父を挟んで小競り合い。結局は父が「バカバカしい。」と最後まで我が家にいることに決めたのだが、この夜中、彼らはさんざん揉めたようで、次の日父が嫌々ミラノ中央駅付近の犬の泊まれるホテルをインターネットで予約した。父はこの後、母がシャワーを浴びている間に私のところに来て「お母さんがあんな性格だから疲れるのもわかるが、もうすぐ帰国なんだからもうちょっと我慢して黙っていて欲しかったよ。」とぽつりと言った。わたしはひどい罪悪感に襲われてうなだれるしかなかった。やはり、そんなに悪いことをしただろうか?おっと「本当にバッカだなあ。あのお義母さんに、そういう言い方はよくないよ。君は一言多いんだよ。」←さらにうなだれるわたし。というわけで彼らは日本帰国日までまだ4日もあるというのに明日家を出て行く。今日も母はよほどわたしの顔が見たくないらしく、朝早くから珍しく父とどこかに出かけてしまった。わたしは、といえば喧嘩をした夜から出血はなかったものの、ひどいつわりで何も食べられずぐったりしてしまったのだが、今日はケロッと収まった。ああ、アレルギー。しかし話は戻してなんとも後味の悪い話だ。母は家にいる間、長男の嫁であるのに女の子ひとりしか産めなかったことで祖父母に嫁いびりをされた話を昨日の話のように、ずっとわたしに語り続けていたのである。今回のこの実娘がしたひどい仕打ちもきっと死ぬまで誰かに語り続けるだろう。ああ、こんな風に思ってしまうわたしって、なんて親不孝。。。。やはり悪いが、やはり申し訳ないが、やはりすごい悪人になった気がするのだが、やはりこんなことを日記に書くべきじゃないとは思うのだが、やはりやはり早く帰国して欲しい。あああああああああ。
2007.07.06
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