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ずいぶん長いこと中断していましたが、これが「苦節!エクアドル新婚旅行記」の最終回です。今回はたいした写真はないけど写真付きで見たい方はこちらへ。10月6日いよいよイタリアに帰る日が来た。エクアドル滞在中、私の胃とおなかはボロボロ。何を食べても、飲んでも、水ですらわたしのジャパニーズイタリアンなナイーブなお腹は受け付けなかったのである。自分でもこわいぐらいにお腹はぺちゃんこ、サイズに合わせたオーダーメイドのまだ真新しい結婚指輪がブカブカになってしまい、落とすとこわいのでバッグの奥底に入れた。出発前日の夜もガラパゴス出発前日と同じだった。いや、もっとひどかった。義母は「行かないでー!!」と大声で泣くし、おっとは必死になだめて困り果てていた。わたしは、というと、もうヘロヘロで、何かを感じる感情まで失っていて、遠い目でこの光景をみつめていたのである。当日、空港に到着したとき、親族ほぼ全員で送りに来てくれた。 私の友人も仕事の合間をぬって来てくれて喜ばせた。おっともみんなも泣いてしまって収集がつかない。私だけが嘘泣きしようにも涙を出す体力も残ってなくて、困った顔で立ち尽くしていた図となった。 家族はさぞかし冷たい嫁と思っただろう。ここからグアヤキル、スペインのマドリッド経由でミラノへ。スーツケースは「南米は盗難が多い」というので空港でビニールテープでぐるぐる巻きにしてチェックインしたのだが、これが大きな間違いとなったのだ。16時間の飛行を終わり、翌日マドリッドに着陸した私たちは長蛇の列のコントロールも無事に通り抜けて、ミラノに到着。 すぐさま家に帰ってベッドに大の字で寝転がりたかった。 私たちの住むミラノ郊外行きのバスの発車時間がせまっていた。まだ、間に合う!! スーツケースが荷物口から吐き出されるのを待ってすぐさま小走りで出口に向かう。しかし。 出口には麻薬犬が何匹かいて、そのうちの1匹が私たちに向かってフンッと鼻を鳴らしたのである。 たちまち警官がやってきた。 ビニールテープでぐるぐる巻きのスーツケースを怪しそうに見て「開けてください。」 えーーーーーー?四苦八苦しながらビニールテープと格闘しながら開ける私たちを犬に一生懸命かがせている。何がいけなかったんだろう?出発前におっとの友達からウィリアムに、と託された黒いビニール袋の中身(めちゃくちゃ重かった)?それとも??やっとの思いで開けると警官は念入りに衣類の間、スーツケースのポケットを見ていく。そこで気が付いた。スーツケースのお腹のどまんなかにドリルで開けたような穴があって貫通しているではないか?!「やだ、何これ!!」黙っていればいいものの、つい声をあげてしまった。それを見て警官が「どこから来ました?」「。。。エクアドルからです。」どきどき。「ああ、それじゃ、この穴はたぶんあっちのコントロールで開けられたんですね。よくスーツケースの間に麻薬をいれて出国する奴がいますからね。」 ホッとした。結局何もみつからなかった。当たり前だ。でも、よかったような、よくなかったような。。。旅客への断りもなしに、スーツケースに穴を開けるなよ!!!!!怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒バスはとっくに出発した後で次は3時間後。私たちはしかたなく大廻りをして我が家へと帰っていったのである。ああ、疲れた、。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。つらい新婚旅行だった。
2005.02.03
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10月3日午前はRABIDA島へ。 不思議な島だ。茶色の山には白い枯れた樹木が覆っている。 ジョージは冬だから樹は枯れているんだ、と言うけれど楽に30度を越す暑さだ。 ここではウチワサボテンの藪を歩いた。小さなガラパゴスにだけ住むうずらが足元をすり抜けていく。。。。写真つきで見たほうがいいです。こちらへ。
2005.01.28
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きのうはおっとにこっそり予告なしに抜き打ちで新居を見て来てもらった。古い壁も全部取り払われていて、家はまったくの「箱」になっていたらしい。階下の家の工事も始まっていた。今週末にまた現場にて配線の位置などの話し合いバトル第2弾である。ちなみにおっとが現場のおっちゃんたちに「ちゃんとぼくたちのリクエストどおり、やってもらってるよね?」と聞くと、おっちゃんたち「心配するな!ちゃんと見取り図どおり進めてるよ!!」と見せてくれたのは、我々が見ることもなかった建築士が以前に描いた古い見取り図だった。。。。。。まだ工事、始まったばかりなんですけど??涙やっぱりこの先不安だ(大汗)。**************さて、今日の本題写真つき日記はこちら!
2005.01.27
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いい気になって写真をいっぱい載せてたら、あっというまに最高限度の100枚を超えてしまった(楽天はせこいな)。なんで、今日からは文章だけで。。。。(写真付きでご覧になりたい方は例のまだ未完成の旅行HP、ここをぽちっとな)9月25日この日は待ち遠しかった両親の帰国日。わたしはぶーぶー文句ばっかり言っている母のお供はいい加減、切れかけていたのである。(しかも我が母が「うちの娘はエクアドル人なんかと結婚させるためにイタリアに出したんじゃないわよ!」と声を大に日本語でぼやけば(でもニュアンスでわかるっていうの)、義母が「うちの息子は勝手に家を飛び出してイタリアに行ったと思ったら、ガイジン女と結婚して帰ってくるしっ!」でバチバチと火花を散らすシーンなんかもあったし。本当にあった恐い余談)朝、両親はホテルをチェックアウトしておっとの実家にはじめての挨拶に来る。わたしたちは家を慌てて大掃除、新しいお皿を買いに走ったり、同居犬オダちゃんをお風呂に入れたり、昼ごはんに近所のおいしいセビチェ屋に仕出しを注文したり、バタバタである。実は義父(彼は我が母VS義母戦争を知らないので友好的)のアイデアでわたしたちは昼食時にあることを考えていて、次男がそのために外に出かけた。昼の12時ちょっと前に我が両親がやってきた。日本人は時間に正確である。しかし、まだ次男は帰ってこない(セビチェも奴が持ってくる)。それを待つために私たちはおっとの小さい頃のアルバムなどを引っ張り出し、我が両親にみせて時間稼ぎ。いい加減、話題もつき、テーブルの上の空のテーブルセッティングをうらめしそうに見ながら母が「ねえ、もう早いけど空港に行きましょう。」と言ったとたん、外で騒々しい音楽が鳴った。そう、次男がマリアッチの楽隊を家まで連れてきたのである(セビチェも)。マリアッチとは中南米の楽隊でメキシカンハットをかぶってギターやトランペットで曲を演奏する。目をまんまるにして、固まる我が両親。母はびっくりしてぽかんとしたまま眉をしかめて演奏を聞き、父は楽しそうに体を揺らしはじめた。それをみて義父が父を招いて音楽にあわせて踊りだし、ふたりが踊り終わったところで演奏は終わり、マリアッチは退場して、すっかり今までの緊張が解けて場がなごんだのであった(ああ、最後の最後にだよ。。。)。 そこからやっと昼食会。 すっかり仲良くなった父同士はテキーラに似たエクアドルの強いお酒で乾杯。 妹が飲み方を教えるなど楽しい昼食会になって、やれやれ。。。。 しかし昼食後、別れを惜しむ暇もなくすぐさま皆で空港へ。 涙もろい義母は泣いている。 そして私に「なんで泣かないの?あんたの両親が帰っちゃうのよ?」と聞いた。 そんなことで、泣かないよっていうか、お義母さん、よく泣けるねえ?わたしはかえってうれしいんだけど(ぼそっ)。 そして両親が帰るとわたしは急に緊張の糸がほどけ、その夜、高熱を出したにもかかわらず、おっとの友達たちとのカラオケに行った先で具合が悪くなって、タクシーで帰り、すぐに寝込んだのだった。次の日 9月26日。うるさい我が両親も帰ったのでこの日はおっとは安心して朝から歯医者。 兄弟たちは学校、仕事へと出かけて行き、家の中は私と義父母の3人となった。義母が熱が下がった私に「鶏とオレガノのスープはどう?」と聞いてきたがていねいに断った。(ガイジンの病人食にはこりているわたし。)そのままベッドに戻りたかったが、義父母が何か言いたそうだったので、紅茶だけお願いしてテーブルを囲んだ。 そしてはじめて彼らは待っていました、とばかり顔を見合わせて、おっとの通訳なしでいろいろと聞いてきたのである。歳はいくつか、日本のどこから来て何をしてるか、など。???普通、結婚する前に息子はどんな嫁だか語ったり、両親は嫁にたいして質問攻めにしないんだろうか? おっと、わたしについて何も話してないのか?質問はイタリア語に似てるからだいたいわかるのだが、スペイン語で答えれない。英語で答えると、彼らはまったく英語がわからない(このときは緊張していて「わたしがスペイン語がわかるんだから、彼らにもイタリア語で答えればちょっとはわかる。」ということも考え付かなかったのである)。困ってしまった。まるではじめての語学留学でホストファミリーと会話してるみたいだな、と思いつつやっとイタリア語をスペイン語なまりで話すことでなんとか通じたのだ。義父は「1つわかるのに3時間かかるな。」と言いながらも会話がとりあえずは成立することにちょっとうれしそうである。そのうち、おっとが帰ってきたので、ガラパゴスに行くツアーを探すため、2人で中心街へと出た。その前におっとが「みせたいものがあるから。」というので歯医者へ。「これ、日本の雑誌でしょ?」と待合室にあった雑誌を取り上げてみせる。「週間新潮」 やや?なんでこんなところに? すっかり黄ばんで古そうだ。日付をみると、昭和52年。 いったいいつからここにあるの?(そういえば今年は平成何年だっけ?) 誰が持ってきたの??謎は解明されないまま、そこから中心街へ行き、さっそく旅行代理店を廻った。国内なのにどこの代理店も海外旅行並みのお値段にびっくり。お金も時間もない私たちは学生向けのツアー会社で3泊4日の一番安いツアーを選んだ。正確な値段は忘れたけどエクアドル人価格と外国人価格があってなんと120ドルも差がある。おっと「僕たちは夫婦なんだけどどうにかならないかなあ?」と窓口のお姉さんに聞くと「結婚の証明書を提示してくださればいいですよ。」というではないか!?しかしそんなもの、エクアドルにまで持ってきていない。お姉さん「市役所にいけば、お急ぎなら1日で式が挙げられて、証明書も発行してくれますよ。」と教えてくれた。 ああ、エクアドルでも、もういちど結婚式?!一瞬にして世界はバラ色になった。これで、イタリアの結婚式に来れなかった義父母にも結婚式がみせられて一石二鳥ではないか!さっそく市役所に電話して問い合わせる。「出来ますよ、日本領事館指定の書類を持ってきてください。」そして日本領事館。「えーとですねえ、あれとこれと、あの書類を日本にいるご家族にでも揃えてもらって。。。」うぐ。これではまさにイタリアの挙式の前の地獄の書類揃え公式と一緒である。全部揃えるまで、どれだけの血を吐くような時間と苦労を要したことか。(でも、今考えてみたら日本のは早かったんだよねぇ。でも、そんな短い時間も待ってられなかった。) やはり、そう簡単に結婚式とは挙げられないということ。私たちはあきらめてしぶしぶ120ドル余計に払ったのだった。
2005.01.26
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9月24日(水曜日)この日はキトからクルマで南下3時間のところにきれいな温泉保養地があると聞いたのでそこに行こう、と決めていた。だが、おっとの友人に1ヶ月前にあった火山の噴火の灰のためにそこは未だきれいになっていない、と聞かされ、慌ててどこに行くか、という話になった。(結局、きれいだったらしいが) 我が父が「山はみたし、後は海と密林のバナナがみたい。」と言ったので、予定を変更、同じくクルマで3時間だが海沿いの村、サントドミンゴに決定。 サントドミンゴとは赤いおかっぱ髪のインディオの部族のいる村らしい。 キトからクルマで山を降りること1時間、常に薄ら寒かったキトやオタバロが嘘のようにだんだん蒸し暑くなっていく。 高度が変わったせいで耳の奥がキーンとおかしい。 あくびをしたりガムを噛んで解消しているうちにどんどん父の希望通りの密林、バナナの楽園へと景色は変わっていった。我が父「日本の山みたいだなあ。」そ、そう?お父さん?こんなところ、日本にもある??ブタをつるして売ってるし、岩壁にこんな彫刻まであるよ?そんな?景色を満喫しているうちにサントドミンゴに着いた。でも、そこは予想していたインディオの部族村ではなく、小さいのにキトの10倍は騒々しい汚い臭い、治安の悪そうな街だったのである。がっかりして給油だけしてすぐに退散する。あてもなく、車を走らせているうちにおっとが「「昔の暮らしを見せる村」って看板があるけど行ってみる?」というのでこのまま空振りで帰るのもなんだし行くことにした。大通りを曲がるともうそこはバナナ林が広がるのどかな村。 村の入り口でたむろっていたおっちゃんたちに「どこでも好きな家に行きな、見物させてもらえるから。」と聞いたのでさっそく1件「占い有り」と書かれた家におじゃますることにした。まるで日本の昔の田舎の家のよう。おっちゃんたち、ああは言ったけど、ほんとに家を見せてもらえるの?こわごわ、庭に入っていくと、わらぶきやねの粗末なつくりの小屋の前で2人のおっさんがたばこをスパスパ吸いながらビールを飲んでいた。見学を申し込む。「ちょっと待って。」とそのうちのひとりがフラフラと焦点の定まらない目で小屋の中に消えた。だ、大丈夫かよ~?待つこと数分、やがておっさんは民族衣装に着替え、頭に紙で作ったとしか思えないチャチな赤いかつらをかぶって小さな息子と一緒に出てきたのである。彼はまず「私はサンフランシスコの医学大学を卒業し、博士号を持っています。」と自慢話からはじめた。(なんで博士号持ってる人が、今頃飲んだくれてるんだ?!) 「どんどん写真を撮ってくださいね、いろいろ家をみせますから。」と絶対家の中はみせないが鶏や犬が遊ぶ庭をみせ、放置してあった木琴のような楽器をぽんぽんとかなでる。すっかり観光客慣れしているようだ。そして庭の隅にはほったて小屋があった。おじさん「ここは古代からの占いのための部屋です。私はこの占いの研究のために一生を捧げるつもりでやっております。どうですか、占ってみますか?」と聞く。どうみても、このおっさん、お酒臭いし、うさん臭いんだよね。。。?わたしが「NO!(日本人だけど言えるぞ)」という前に、「YES!!」と言ってしまった義母。「占い」に目がないらしい。あ~あ。小屋に入ると更に布で1段上がった台が囲むように仕切られ、そこに神棚?みたいなものがあって占いに使う道具や変な偶像が所狭しと並べられていた。おじさんは機関車トーマスのようにスパスパとたばこをふかすのをやめない。相変わらずたばこを口にくわえながら、義母を座らせ、背中をバナナの葉でなではじめ、あやしい呪文を唱えながら何かを祈りだした。それから「すみません、やっぱり気が散るのであなたがたは出て行ってください。」と言われてしかたなくわたしたちは義母を残し、外に出て小さな息子と写真を撮ったりしているうちに占いが終わって2人が出てきた。 義母に聞くと「うーん、当たってるような、当たってないような占いよ。」 やっぱりね。 おじさんは「本日はまことにありがとうございました。これでツアーは終わりです。おひとり家の見学料40ドル、それから写真1シャッターにつき20ドルいただきます。」 えええ!?なんだ、この法外な値段は?!それに 1シャッター、どうやって払うんだよ(爆笑)!?見学料40ドルって、あんたユニバーサルスタジオの1日パスと同じ値段じゃん!?決しておっさん、ユニバーサルスタジオよりおもしろくなかったぞ!義母はすかさず「あんた、さっき私から法外な占い料をとったばかりじゃない!」と叫んだ。2人きりになったのはそのためか。おっとも「ばかばかしい、払えるもんか!」と母子2人して詰め寄った。 おじさんはすぐ弱気になって「うちもこれだけで食べてるし、息子を学校に入れるのに金がいるんだよ。」と泣き落とし。大のおとなに泣かれるとねえ。。。しかたなく全員で40ドル払ってこの家を後にしたのだった。(今考えるとこれでも高すぎ!!)サントドミンゴの帰り道は別のルートをたどって帰った。キトに近いスカイラインはきちんと整備されていて色とりどりの花が咲き乱れている。 前日のおっとの友人から「ミンドのバタフライファームはいいぞ。」と聞かされていたので、まだ日も高いし、そこへ行くことにした。インディジョーンズにでも出てきそうな荒野の村を抜け、4駆でもなければ行けそうもない密林に入り込んでいく。とうとう泥でクルマが動かなくなったときに外に出て歩いた。 どこに、そんな「魅惑のバタフライファーム」があるんだよ。。。どこまで行ってもジャングルである。背丈より高いやぶの中をザクザク歩く。母はヒールが泥でグチョグチョになるわ、蒸し暑いわ、見たこともない虫はいっぱいいるわで、カンカンである。(っていうか未開の地に行くのにヒールもないと思うのだが。)そんな母をなだめながら、不安になって10分ほど突き進むと大きな木の看板に「バタフライファーム」と英語で書かれてある浮いたようにすばらしい庭をみつけた。日本の庭園造りに似て、自然の地形を生かした小川やあずまやがあり、いい感じである。ワクワクして入るとドイツ人のような品のいい女性が出てきた。「何か御用ですか?」蝶は見当たらない。どこかに囲ってるのかな?彼女が言うには蝶は放し飼いなのだが、活動時間は朝で、今は全部眠っているという。確かによくあたりを見渡すと2,3匹ひらひらと舞っている。あんなサントドミンゴに行ったなら朝からこちらにくればよかったなあ。。(今となってはこれも強烈な思い出となったが。)悔やみつつキトの郊外のパニシージョの丘へと向かったのだった。パニシージョとはパンの形に似ているところからつけられたらしい。しかし、運が悪いことに着いたとたんにひどい夕立。これだからエクアドルの気候って落ち着かなくてイヤになっちゃう。1日のうちに晴れ、曇り、雨、雷、そして冬のような朝の冷え込み、夏のような昼間の暑さ、全てがあって落ち着かない。(おっとの落ち着きがないのはそのためか?)ここは頂上のでかいマリア像だけみて、雨が収まるのを待って 「ミタデルモンド」という有名な赤道記念碑へ移動した。「エクアドル」とはスペイン語で「赤道」である。だから、当然赤道があって、赤道記念碑前には白い線が引かれていてそこが赤道だということを指していた。その上をふざけながら、なぞり歩いて記念館に入る。中にはエクアドルのインディオの歴史と人種が展示されていていた。めんどくさいんで説明はしないけど、やっとエクアドルにこれだけさまざまな人種がいる理由がわかったような気がする。晴れてきたのでキトの旧市街に行く。おっとはイタリアに来る前より治安があまりにもよくなってきれいになったのをみて驚いていた。それもそのはず、その後、入った蝋人形歴史博物館で聞くと2004年にミスユニバースがキトで開催されることが決まり、そのために急遽、整備されたとか(空港も拡大工事中だったし)。この時点でいいかげん、いろんなところを廻りすぎてヘトヘト。それもあるが、街しか出歩かない母が密林で「もう耐えられないわ!!」という文句を100回以上は叫ぶのを聞くのにもヘロヘロになった。更にこのあとは。。。。(まだ続くかよ、って?) この夜は待ちに待った私のミラノの学生時代のエクアドル人の旧友との食事会だったのである!(おっとと付き合うまで彼女がエク人だってことも忘れていたぐらいエク人離れした娘なんだけど。。。)彼女と、彼女が連れてきた友達はいちどヨーロッパにも旅行に来てうちにも泊まったのでおっととも顔見知り。(ライフスタイルもエク人じゃないでしょ?)私たち2人とこの友人たち、そしてその彼氏彼女たちとアメリカ系のファミレスで夕食に行った。フライドポテトやハンバーグの大きさはアメリカサイズ、並みじゃない。そして油でギトギト。う~、食べるのが苦しい。。。。 そのあと、どうなったかと言うと: わたしはおっとの実家に帰るなりトイレに駆け込み、夜中じゅう、腹痛に苦しんだのだった。正露丸よ、ありがとう。
2005.01.25
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9月23日(火曜日)この日は我が両親、義母、おっととわたしでレンタカーを走らせ、キト近郊のインディオの部族の村オタバロへ行った。行く途中、エクアドルの最高峰コトパクシが見える。日本の富士山にちょっと似てるかも?雪をかぶったきれいな休火山である。山好きの父は何度も「あ~、おっとくん。ちょっとクルマを停めてくれ。」と何度も車を停めさせて写真を撮りまくった(おっとはこの日から完全に我が父のアッシーとなったのだ)。そして途中の湖のコテージ(おしゃれだったわ、名前忘れたけど。)でお茶をしたあと村へ。村に近づくにつれて、川が見えた。見れば、たくさんの背が低く浅黒いオタバロ族の女性がほとんど半ヌードの状態で足で衣類を踏みながら洗濯をしている。まるでタイムスリップしたようである。(写真はさすがに失礼なんでやめた)村に着いた。村は整備されている普通の「町」だったので、さっきの光景と比較して「??」になるわたし。。。たくさんのひとが今でも当たり前に民族衣装をつけて暮らしている。しかし、ここに来る前にガイドブックでみた村はお土産物屋で埋め尽くされていたのに、生鮮(?)市場があったためか、野菜や肉の異臭におえっぷ。市場は混んでいてオタバロのおばさんが野菜や動物までも背負って歩いているのにすれ違う。道にただござをひいただけの「店」先にブタの頭がどかんと置いてあったりしてすごすぎ。我が母を見ると、顔をそむけ、ハンカチを鼻にあてている。う~ん、わかる。日本でも「市場なんてに行ったこと、ないんざますの!」な母だしな。。。おっとのお母さんも付いてきたのだが、彼女は車からも降りなかった。(っていうか、わかってるんだったら、そんなところに連れて行かないでよ。)そうやってかなり予想(広場にトーテムかなんかあって、輪をつくって踊ったりしているイメージ)を裏切られて車に戻り、しばらく行くとやっとガイドブックどおりの広場に出ることができたのでここまで来た甲斐があった。そこはカラフルな手作りの服や置物でいっぱいである。こんな人形とか模様付ひょうたんとかピカチュウマラカスとか。独特の画風の小さな絵や十字架を売っている屋台をみつけた。何個か購入。売り子の少年は「お父さんの手描き」だという。とてもアーテイステイックなこの画風、こんな露天で売るのはもったいないな。。。でもエクアドルで芸術家はなかなか育たないか。(なんて思ってたらキトのお土産物屋にも同じような画風のものがいっぱいあって、オタバロ族の画法だって言われたんだけどね。)そのあと山間のコタカチ村へ行った。小さな村なのに皮の店がひしめき、しかも最新流行の型の服やかばんが安い。全部、プラダとかグッチの型のコピーっぽいけど、イタリアみたいに「PRABA」とか「GICCI」とか入ってないからいいよ。いろいろみたあげく、小豆色の皮のジャケットを購入。たった70ドルなり。安かった!我が父も感じのいいジャケットを見つけていたんだけど母に「安すぎて気持ち悪いわっ!!」と訳のわからないことを言われて結局買えなかったのである。 昼食は村のアメリカンカントリー風の可愛いレストランに行った(故郷ではプレイボーイであったというおっと(自称)。こんなむずかしい義母のためにいろいろと出発前にレストランをセレクトしていたようである。)しかし、そんなおっとの努力を打ち砕く行為をしてしまったわたし。だって、メニューの中に「クイのから揚げ」なんて見つけてしまった日には。。。。。(古いお友達の皆様、しつこくてゴメン。だってインパクトが強すぎて。。。)やっぱり挑戦するしかないでしょ!?ふふふ、ネットなんかで見て興味しんしんだったのだよ。しかし、臆病者のわたしはひとりで頼めなくて義母さまにお願いしたのである。クイとはまさに日本でペットとして飼われているモルモットの一種。というか、そのもの。 この国ではクイを重宝していて古代はクイを自分の体の悪い部分に押し当てて病気を吸い取ってもらったりと呪術療法にも使われたらしい。(きのうたまたまTVでエクアドルのドキュメンタリーをやっていて、今でも山岳地帯では普通にやってることが発覚!病気を吸い取った後のクイは、かわいそうにその陰の気のために死んじゃうんだよ~。)そして待つこと10分ほど。。。運ばれてきたのはクイの開きのからあげ。 「ひっ!!!!。。。」気絶寸前で固まってしまう我が母(予測済み)。 その前で義母は「私、頭が一番好きなのよね。」と上品に歯までついている頭からナイフでザクザク。 ナイス、お義母さん!(後からわかったことなのだが、わざとやったらしい。義母VS我が母! 双方、遠い国でよかったよ。。。汗)そして私にももも肉を切り分けてくれる。小さなつめと肉球がそのままの足をつかむ。肉球のぷにぷににふれて鳥肌が立つ。そっと口に運ぶ。少しだけかじった肉は鶏かブタのようなあっさりした味だった。悪くはなかったがこれ以上、肉球をつかみ続けることが出来ず、それよりも私の前で悪魔をみるように睨み付ける母の視線に耐えられず、肉を離した。 この後、「血の湖」と呼ばれる哀しい逸話の残るきれいな湖(どうってことのない湖だった)をみてホテルに帰る。 両親の部屋でシャワーを浴びた後、はじめておっとの家に帰宅。実はこのままホテルに滞在したかった。だっていつでもふかふかのきれいにベッドメイクされたベッド、素晴らしい朝食、熱いお湯の出るお風呂。。。これに全部おさらばしなければならないのだ。それにはっきり言って義父母の家なんて気を使いそうだしなー。 それにこの大家族、決して広くない家のどこに泊まれるのか?と心配していたら、義父母が部屋を私たちに譲ってくれて彼らは各兄弟たちの部屋に寝に行ったのだった。 おっとは「エクアドルではこういう歓迎の仕方はあたりまえだよ。」といったけど、申し訳なかったな。あと、洗面所に入ってとき、「エクアドルでは当たり前」なしょぼい水シャワーを目のあたりにしてホテルで熱いシャワーを浴びてきたことをつくづく正解、と思ったわたし。いやしかし。。。。こんな感じで出発前日に来たいとこ家族もうちに泊めなきゃいけなかったんだろうか??いやいや、やっぱりダメ。****************昨日、例の旅行HPに「世界一標高が高いのはボリビアのラパスです。」と書き込みがあり、調べたらそうでした(爆)。失礼しました。だって。。。おっとがそう言ってたんだもん(鵜呑みにするな、ってか?)
2005.01.21
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9月21日(日曜日)朝早く家の近くのホテルに泊まった両親を迎えに行き(うちは狭いからねえ(涙))、一路空港へ。イベリア航空ミラノ発スペインのマドリッド乗換え、エクアドルのキト行き。乗り換えでは私たち親子はスムーズに日本のパスポートの表紙をみせるだけでコントロールを通り抜けられた。これはみなさんも当たり前だと思う。が、おっとは皆さんの予想通り、呼び止められ、100の詰問を受け、ようやく開放される。母は一言。「宿命ね、あなたもそうなるのよ。」あ~、嫌な感じだったな。わたしが最初に受けた差別視。しかも肉親からである。だけど、わたしは輝く日本のパスポートのおかげで結婚しようが今でも関係なく楽チンパスよ、お母さん。時差のおかげで同日夕方キト着。はじめての南米、はじめてのエクアドルである!うちの父は着陸前になって南米大陸が見えてくると「おっとくん、席を替わってくれたまえ。」と偉そうにおっとの座っていた窓際の席と替わってもらって子供のように張り付いて下を見ていた。わたしにだったらわがまま放題のおっとも、さすがに義父には頭が上がらず、席を替わったはいいものの、隙間から一生懸命下を見ていたのがおかしかった。空港に着く。前に広がる山々には雲が垂れ下がっていて手を伸ばせば届きそうなのにびっくり。それもそのはず、エクアドルの首都キトは世界一標高の高い首都。山のうえにあるのだ。標高2800m。イタリアなら夏でもスキーの出来る高さだが思ったほど寒くはない。おっとの家族がお義父さんのトラックの荷台に乗り込み迎えに来てくれた。はじめてのおっとの家族との対面!ハグ、涙の嵐のはずが。。。。空港前にはクルマが停められないと、注意されるお義父さん(ちゃんと駐車場に停めて来てよ~)。で、感動するまもなく慌しく家族は家にそのまま帰って行き、気が抜けたまま、わたしたちは両親に同行、新市街にあるシェラトンホテルに一緒に泊まったのである。何がうれしかったって、イタリアのぼろ借家にはない久しぶりの浴槽にお湯をはったお風呂がうれしかった!(これが後からエクアドルでは数少ないお風呂だとわかるのだが。。。)1泊81ドルなり。インターネット予約だと安いなあ。次の日(9月22日(月曜日))。この日はおっとは朝からさっそく歯医者へ行ってしまった。彼は短い滞在期間でやらなければならないことが山のようにある。ミリタリーの免除の証明書、不在選挙の罰金払い。Etc。そんなことは旅立ちの前に一言も言ってなかったおっと。言っててくれたら旅程ものばしたのに。。ブツブツ。わたしは両親とゆっくりバイキング式の朝食をとって、歯医者から帰ってきたおっとと2人で中心街にレンタカーを借りに行った。4ドアの普通車1週間850ドル。ちっとも綺麗なクルマじゃない。物価が安いと思い込んでいたのであまりの高さにびっくり。夕立、渋滞、ひどいスモッグ、カオスだ。まるで20年前の少し住んでいた台北の街を彷彿させる。台北に20年前にいたころも「まるで日本の20年前みたい。」と思っていたから40年ほど日本より遅れていることになる。考えたらすごすぎ。しかし、新市街には外資系の超高層ビルが立ち並ぶ。そのすきまを埋めるようにバラックがひしめいているのがなんとも妙。そこにはとうぜん住んでいるひとたちがいる。各交差点に貧しい子供が立っていて、お手玉や楽器引きなど、つたない芸をして小銭をもらっているのが痛々しい。そうと思うと、ボロをまとったインディオのおばあさんの横をスーツをまとったビジネスマンがさっそうと早足で追い抜いていく。そして中心街のアマゾン通りはまるで青山のようなおしゃれさがあり、気の利いた喫茶店、レストランや店がさりげなく立ち並んでいる。(夜に楽しむ店が多いけど)需要があるから供給があるんだよね。。。??このアンバランス、政治がやっぱり悪いんだなあ。いろいろな衝撃を受けたあと、夜はスイスホテルの近くにあるおっとのとっておきの素敵な石造りの郷土料理のレストランに行った。このレストランは中心から少しはずれているのだが、しゃれていてさりげない。この辺はアメリカ人居住区だそうだ。なるほど、納得。話は戻って、レストランにて全家族、初のゆっくりご対面。おっとはすでに歯医者に行く前に実家に寄ったらしく、ものすごい感動のシーンはない。ちょっとがっかり。みんなしてむっつりしていてカチコチである。しかし、するどい眼光で長男の嫁をつぶさに観察しているのが、痛いぐらい伝わってくる。日本人だったら、ここで愛想笑いでペコペコしながら「どーも、どーも、はじめまして!」なのにな。。。やせて色の浅黒いお父さんと色の白いふとった優しそうなお母さん、お母さんそっくりの妹、後ろから見れば見分けがつかないほど夫に似ている弟、そしてまだ小学生のわんぱくそうな末っ子の弟(おっとの幼少時代の写真と同じ顔)だった。この家族、女性は太っていて、男性がやせていて、中間がないのがおもしろい。お父さん以外はみんな色白である。そういえば、誰かがエクアドル人の55パーセントはヨーロッパ系って言ってたっけ?でも、インディアンっぽい顔なんだよね。混血なんだなあ、やっぱり。(プロフィールのおっとの顔参照)お互い言葉が通じないので彼らの言葉をおっとがわたしにイタリア語に訳し、わたしが両親のために日本語に訳す。そしてわたしが両親の言葉日本語でおっとに。。。。って、違うやん!!すっかりこんがらがったわたしたちだった。とにかく全員めちゃくちゃ緊張していて、その雰囲気にも飲まれて必要以上に疲れたわたし。。。。やがて。わたしは薄暗い店内でプリモピアットを口に運びかけた姿勢のまま寝込んでしまい、変なかたちでお開きとなったのだった。(今でも母が、「あの時、わたしはセコンドピアットも食べたかったのよ!」と恨みがましく言うが。。。)***************今回載せた写真はここから引用しました。営利目的じゃないからいいよね?http://www.worldcityphotos.org/Ecuador/
2005.01.19
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はじめにおことわり:このたび2003年の「苦節!エクアドル新婚旅行記」を何日かかけて日記にまとめることにしました。なんで、こんなことをするかというと、実はずーっと前から開設したままほっぱらかしにしていた旅行HP(まだ、未完成なのでアドレスは内緒。まあ、これと同じです)がありまして、それの作成と、楽天の古い記事のリニューアルも兼ねて、ということで。すでにこのコンテンツを読んでくださった方には内容が重複するところもありますが、ご了承ください。(読んでる方は少ないと都合のいい予想をしつつ。。。)***************2003年9月19日(金曜日) 私たちはミラノ近郊の街の市役所でささやかな式を挙げた。イタリアでは金曜日に結婚式を挙げる夫婦は貧乏になるという。しかし、わたしたちはガイジンだし関係ナイナイ。(おかげで貧乏真っ只中だけど。。。) 市役所と言っても元貴族の田舎の屋敷を再利用したもので、天井にはフレスコ画が描かれた素朴な可愛い建物である。私たちはそれでじゅうぶん満足、平日だというのにたくさんの同僚がかけつけてくれて、参列した招待客もニコニコ、皆で祝福してくれた。日本からも両親と何人かの友人が来てくれた。しかしおっと側の招待客は、というとほぼ全員で結婚式の開始より1時間半も遅れて到着。式には当然参列できず、写真にも写っていない(汗。このときに未来を予感すべきだった。。。)。日本人とエクアドル人という地球の裏側同士の外国人が、ほぼ中間に位置するイタリアで結婚することになろうとは、運命とは不思議なものだ。10年前には夢にも思わなかったことである。(そういえば、イタリア行きの決意に至ったあの忌まわしい阪神大震災から10年経ったのだ。)おかげで結婚式まではイタリアとエクアドルの2重の素晴らしい役所の働きのおかげで、血を吐くようなイライラ、脱力、ストレス、絶望を味わう羽目になった。何に時間がかかったって、おっとの戸籍謄本。わたしが母に電話をして戸籍謄本を頼み、イタリアに郵送されてきた時間全部を入れて10日間。おっともお母さんに電話して戸籍謄本を頼む。しかしおっとにここである事実が発覚することになる。。。おっとはわたしとの結婚式の数ヶ月前にエクアドルにて2人の子持ちの女性と結婚していたことになっていたのである!だが、ちょっと待って。3年エクアドルに帰ってないおとこがどうやって、数ヶ月前に結婚できるねん??!!いや、わたしには内緒でずっと前から恋仲だった女性と戸籍上の結婚だけでも、としてしまったのかもしれない。それか、2人の子供の認知を迫られ、しぶしぶ??ああ、今までつきあっていてちっとも気が付かなかったまぬけなわたし。。。じゃあ、わたしとなんで結婚するの?2重結婚じゃん??そんなことを考えたのはわたしだけではなく、戸籍謄本をおっとの替わりにエクアドルの役所まで取りに行き、誰よりも早くその事実を知ったお義母さんもである。お義母さんがこのことを誰にも相談できず、悩みに悩み抜いた長い無駄な時間、意を決しておっとに告白、そこからおっとがお義母さんとわたしにアタフタと誤解?を解いた時間、こいつも結構かかった(涙)。未だに真相は神のみぞ知るのだが、とにかくここからエクアドルの役所で戸籍を修正に3ヶ月、やっと送られてきた修正だらけの戸籍謄本をミラノのエクアドル大使館に持って行って怪しまれながらも翻訳してもらった1ヶ月。そこから、イタリアで揃えなきゃいけない書類を揃えて。。。。。思い出したくないぐらいすごい時間がかかったのである。しかし。「喉元過ぎれば熱さも忘れる。」とはこのことで、幸せの頂点だった。そして夜は近くの小さな田舎風レストランで皆で食べて唄って踊って、それは楽しかったが、身体は正直なもの、私たちの今まで貯めていた緊張と疲労の糸は切れかかっていたようだ。次の日(9月20日(土曜日))。 この日は一大行事も終わったというのに慌しかった。というのは次の日はもう、エクアドルに向けて新婚旅行に出発なのだ!しかも、うちの両親付き、おっとの家族の待つ実家往き。そう、私たちの新婚旅行に私の両親も同行することになってしまったのだ。イタリアの挙式に来れなかったあちらの両親に会いに。(そんなことしなくていいのに。。。)新婚旅行は蜜月と書いてハネムーンのはずでは?はじめての夫の祖国への新婚旅行。 きっとアマゾン、ガラパゴス。サバイバルな密林のメロメロの蜜月と思いきや、こんなに辛い状況の旅行となってしまったのである。まわりは「こんな機会でもないと遠く離れた国のお互いの両親が顔をあわせることなんてないんだから我慢、がまん。」と言っていたがわがまま娘のわたしはぜ~ったい嫌だったのである!!しかし、哀しいかな、強引な我が両親のお膳立てですっかりこの旅行は整えられてしまった。(切符やホテルの手配は全部わたしがやらされたけど。。ブツブツ)で、午前中は2人で結婚証明書をつくりに市役所に行った。しかし、その後彼はなんと2週間の新婚旅行の挨拶も兼ねて仕事に行ってしまったのである。おっと、出発前日にそんなことに時間を費やすなよ!!しかし私はそんなことを叫ぶ気力もなく、グテグテになりながら結婚式の衣装をクリーニングに出し、今まで結婚式のために我慢して伸ばしていた髪を切りに行って、家にやっとの思いで帰り、次の日からの荷造りをはじめた。あ~、さっさと済ませて早く寝たい。。。荷造りをする手は疲れのために思うように進まない。しばらくすると電話が鳴った。ジェノバの夫のいとこからだった。「今、もう高速道路に乗ったところ。1時間ほどでそっちに行くからねえ!」???今、なんておっしゃいました?今からこの我が家に???なんだと~~~~~~~~~~っ!!!!!!!私はかっと頭に血が上ってしまった。そう、彼らはいつもこうなのだ!!いつも予告なしにしかも大勢で押しかけてくる!!!!よりにもよって長期旅行の前日、結婚式直後。そしてきっかり1時間後彼らはドドッとやってきた(こんなときだけ時間に正確)。ちっともうれしくない顔で彼らを迎える。目をまわしながらビールをつぎ、苦しげに世間話もしてみる。それからはやることはやっちまおうと考え、狭い家の中で彼らのこどもたちが泣きわめき、走り回るのを無視しながら、荷物を詰めていた。そしてもう、切れて「出て行け~~っ!!」と叫びそうになる5秒前におっとが帰ってきたのである。 金曜日、仕事で結婚式に参加できなかった彼らは私たちをびっくりさせるつもりで来たらしい。が、私には史上最大の悪い冗談だった。しかもうちに泊まるつもりだった彼ら(すごっ)は私のあまりにも不機嫌な態度をみて、すごすごと夜遅く帰っていった。今、思えばはるばる来てくれたのにひどい仕打ちをしてしまったなあ。。。が,この時はそんなことを考える余裕もないぐらい疲れていたのだった。
2005.01.17
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