現在形の批評

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Oct 15, 2006
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #44(舞台)

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マレビトの会

9月30日 AI・HALL ソワレ

アウトダフェ


実験の系譜


舞台に接した時に我々が当惑させられるのは「分からない」時である。この「分からない」というのは曲者である。なぜならそこには様々なパターンがあって、言ってみれば上質な「分からない」とそうでない「分からない」があるからである。何を為し遂げようとしていたのかの基底部がない所で主体があちこち散見される舞台は、主体なき無葛藤さを結果的に観客に付与することになるばかりで、それこそ創り手による一種の暴力と言っても良い。そういった芝居の核が「分からない」舞台に接する時ほどフラストレーションの溜まるものはない。だが、中にはやりたい事、やり遂げなければならない事は明確にあものの、創り手側の中でその方法論について逡巡し、結果的にその萌芽のみしか提示し得ないでいる未分化状態な作品に時として出会う。その時、我々は同じく「分からない」という感想を抱きながらも作り手の意志に賛同し、どうにかして芽を理解し、育てることに参画したいと思うだろう。2つの「分からない」の間には舞台の外部を引き込み照射する核-「真理」とあえて言っても良い-の有無という点で千里の径庭がある。批評の存在意義とは、作り手との共同作業へ進んで参画する者の精神に宿る。言葉を費やして舞台に返礼したくなる、そんな「問題作」を手探りで追求している一つにマレビトの会は位置付けることができるだろう。


舞台は大きい。観客席、演技フィールドを舞台空間の中間地点に設えたのは、真ん中にポッカリと開いた大きなくり抜きを作るためだ。長方形に切り取られたその穴に見合う形の岩石が、すぐ上方から吊り下げられている。真っ暗な集積場だ。この作品は、集積場から採掘された残骸が示す追憶の歴史-「アウトダフェ=火あぶりの刑」からインスピレーションされるチェルノブイリや広島・長崎の原爆投下-が示す、モノローグとダイアローグの交叉の展開である。必然、主題は暗部としての歴史の事実に触れることなるが、それを俳優の台詞語りでどれだけ真実味を持つかを、真っ暗な空中楼閣の上で試みようとする。その一切が舞台をいかほどにも拡大させるのだ。


松田正隆自身述べるように、これら歴史の暗部に俳優・観客をいかに当事者性をもって立ち向かわせるかを、身体と言語を遊離させ別個のものにすることで屹立させようとする身体的実験を試みである。対話を基調とした「物語」という文脈が否応なしに要請する感情移入を排除し、感覚神経へのダイレクトな訴えがここでは目指されている。鈴木忠志の言う「語り」を「騙り」として喋る身体の模索と言いなおしてもよい。大きな物語の失効が我々に直面させたのは、個々の連帯や一家を中心とする共同幻想を積み上げた先に成立する、ピラミッド構造を有する一国の岩盤な有り様が国民全体の幸福とされた論理、その全体統合へと向かわせるある目的への邁進の失効であった。ただ残ったのは個性の重視と、個人主義と称した80年代の浮かれた気分だからこそ成立していた人間と社会のマイノリティーの立場を正当化する形骸化した思想だった。


90年代初頭、ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシ-ン』が日本で紹介されたのが刺激的だったのは、西堂行人が言うところの 「テクストの解体」 という新たな問題と可能性をもたらしたからであった。「言葉という残骸=断片」で構成されるモノローグは廃墟と化した地に佇む我々に見合う切実な何かを持って迫ってきたのである。とすれば、『アウトダフェ』はこの『ハムレットマシ-ン』によって開かれた地平の延長線上にある作品と言えるのではないか。先の大戦やチェルノブイリによって灰にされながらも決して消え去ることのない記憶の掘り出し作業を自身の身体で以って行うことの発見と自省。それは、登場人物が置かれた、採掘という労働の身体的痛みに表れる、憑かれるように苦役を続ける身体が象徴する。何処とも、誰とも知らない人間達の手で担われる歴史の暗部を探る行為は、彼岸の状況をあたかも自身のこととして舞台空間全体で共有するためという単なる内省で終始するものではない。舞台空間を貫いて我々の社会状況に重なる一瞬の交叉する点を歴史との相克の中から開示させ、同時代と未来を志向するために我々に等しく必要とされる行為なのだ。目の前の舞台から絶えずアクチュアルな状況へと目を向けさせるための苦役を積極的に引き受ける事に、演劇から放たれる当事者性が出来する。そのために、物語性の強い悲劇を描いて内容に感情移入させる、あるいは切り取られた日常風景の遠景に大状況のメタファーを仄めかすという類の手法でもいけなかった。演劇内部に収斂しない、外部へのモチベーションをいかに喚起させるか、ハイナー・ミュラーが開いた新たな演劇形式の実験は直截的である。


最後に印象に残ったシーンを挙げよう。一つは前半、登場人物達が終始台車に採掘した物を乗せて穴倉へと放り投げるだけの男に追い詰められていき、その果てに自分達の衣類を脱いで発掘作業員となるまでのシーン。もう一つは途中、タンゴのリズムに合わせて男女が踊るシーンである。どちらも言葉は発しない。身振り言語のみでその場の状況を体験する。こちらが動けば相手に何がしかの変化を与える。そしてその変化した相手の行動によって今度はこちらが変化させられる。一歩一歩段階を踏まえて積み上げていく丁寧な関係性があってこそ、無言の群集行動と採掘場という茫漠でありながら閉鎖的でもある場所で、演技の基本をしっかりと踏まえた俳優達によって支えられた求愛行動に見られる数少ない笑えるシーンが誕生したのである。





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Last updated  May 1, 2009 04:24:26 PM


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