現在形の批評

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Jun 14, 2007
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #64(舞台)

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演劇ユニット 昼ノ月

6月10日 人間座スタジオ ソワレ


貧困さを武器に強さへと変奏せよ


人間座スタジオは、モデルハウスの玄関に射す光が醸し出す清潔さと同様の印象を受ける。だが、下駄箱からほんの二、三メートルほど進めば、やはり「いつも」体感するあの小劇場空間が口を開いている。劇場名から連想する古びた小屋ではなく、日常生活を営む家に付着する平穏さと演劇小屋の醜悪さが程よいバランスを保持しながら隣合っている。大通りを挟んでそう遠くない場所にあるアトリエ劇研を含め、住宅街にひっそりと佇んで溶け込んでいるかのような劇場立地は京都特有のものである。そういった場所で、鈴江俊郎が新たに始動させた演劇ユニット・昼ノ月の舞台は上演された。


舞台空間に入って驚かされたのは、狭さではなく空間造形にある。コの字型の客席は、アクティングエリアを見下ろすように上方に設定されている。縦に細長くなった空間によって狭さがさらに強調されるが、私の座った最下層部は、足を宙にぶらぶらと浮かせることができるため、不思議な心地良さを感じることができる。劇場立地に見合うようにほどよく密閉さと自由が両棲する外枠は、この舞台のユニークさを際立たせる。さらに、見下ろして覗き込む感覚は、アクティングエリアへのことさらな注視を促す。。

ブルー照明の美しさが華を添えていることも忘れてはならない。少ない手持ちを逆手に取ることの錯覚が限界効用を高めてゆくという貧乏芝居の極致に拘泥する鈴江俊郎らしい工夫であろう。だが、劇内部へと分け入ってみれば、さして目新しいものは発見できずにすっきりとまとまりすぎている感は否めない。


天井から垂れた数本のワイヤーが空間を左右二分割している拘置所。そこで繰り広げられる夫婦の会話劇である。窃盗を繰り返してこれで四度目の拘置というしがなく情けない失態を繰り返す男と、そんな夫に見切りをつけ嫌気をさしつつも、それでも足繁く面会に訪れ続けざるを得ない妻の一種奇妙な関係性を描く。それは、タイトルでもある「顔を見ないと忘れる」という妻から発せられる台詞が端的にこの舞台の肝を示すものとなっている。


ねじれた関係ながらも互いに求め合ってしまうことの支柱が、妻の優位性による所が大きいのが最大の問題点だろう。それがために所詮ダメ男とダメ女とのやり取りにしか私には映らない。夫が取るに足らない窃盗を繰り返して拘留されてしまうそもそもの始まりとは、親からも友達からも無関心な扱いを受けてきた子供時代、万引き行為によって関心を引き付けてきた経験が根底にあることが吐露される。だが、この行為に救いがないのは、万引きを誰にも見つからずに成功することは、自分に向けられる目が無関心であるという立場をいささかも変えることはなく、喜びは孤独さを一層増すことはあれ、他者との交流を取り結べない。残された道はわざと見つかって叱られ、いじめを受ることと引き換えに後退した関係を得ることであった。つねに孤独の円環をなすことを知りながら。


このいじましいバックボーンを根拠にするしか他者との関係の取り方を知らない男、それを結局のところ許してしまう妻の態度は以前から、そして今後も無限ループよろしく続いてゆくことが容易に想像できる。つかこうへいの描き出したマゾヒズムの隷属関係というものでもなく、両者の関係は動かしがたく固定し完成されたものとして容認しており、「顔を見ないと忘れる」という文句はとりあえずの納得する着地点として常に使用されているものである。立場が複雑に入れ替わるシーソーゲームがつかの世界だとすれば、この作品の登場人物とは、互いの立場を保障するためだけに相手を必要とする、安定し釣り合った天秤状態を維持し続ける。内容もさることながら、そもそもワイヤーロープを境に登場人物の位置が変わることなく固定されている点に演劇的変化が乏しいことに、単調さから抜け出すことができない要因の一つがあろう。


そういった中では俳優の演技力がことさら重要になってくるのは言いうまでもないが、二口大学と押谷裕子の演技はことさらは言葉を相手に届かせることよりも自らのいじましさを熱のこもった台詞回しで語り続けることに終始し続けたために、モノローグ的で自己完結的な戯曲構造に引っ張られたままであった。なによりも演劇の本質である、身体による空間の変容が、先に指摘したワイヤーロープによる左右二分割によってあらかじめ封じられているために、言葉は一直線に放たれる他なくなった。演技合戦という生身の身体のぶつかり合う過程から浮かび上がる、現在進行形でしか感じ取れない襞というものを互いに掬い取ろうとする共同作業があればこの舞台の手触りはもっと違ったものになったはずだ。ただ一箇所、両者が一度だけ手が触れるシーンがある。唯一血の通った交流を私はそこに見たが、それは夫の回想シーンであり、妻は夫の会社の同僚に見立てられている所がポイントとなって印象的なものとなっていた。


このシーンのような個人の倒錯したいじましい「ねじれ」を、時折挿入される日本の刑務所の面会制度の不合理さとはっきり対比させて闘争劇に仕上げるべきでなかったか。小さくなっても、したたかに抵抗し続けるというささやかな批評精神すらなければ、国家制度に屈した負け惜しみを繰り広げることにしかならないからだ。鈴江のこれまでの作風からして、そのことも念頭にあったとは忖度するが……。


すり鉢状の見下ろす客席で行われることが、アクティングエリアを四角柱のようにくっきりと浮かび上がらせるという空間造形を最大限活用し、地の底から果てしなく劇場の天を突き破るほどの昇華力があった時、平穏と醜悪の隣り合った小劇場の本質へと辿り着くことができる。制度に馴致されて小さな関係を維持し続ける拘置人と妻を高みから見下ろすという単純な対比に私は何の面白みも感じないし発展を見出せない。





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Last updated  Aug 19, 2009 09:26:45 PM


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