現在形の批評

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Aug 11, 2007
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #68(舞台)

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地点

8月5日 びわ湖ホール 大ホール舞台上舞台 マチネ


「硬質な身体」を源泉とするオルタナティブ


びわ湖ホール 大ホール舞台上舞台という空間選択のユニークさ以上にまず私が驚いたのは、想像以上に広かったことにある。客席を設置してもまだ数十メートルの余裕がある広さと高さを併せ持った空間に、さすがオペラを主に上演する大ホールだと実感させらながらも疑問だったのは、なぜこうも広い場所を必要としなければならなかったかであった。なぜなら、チェーホフ四大戯曲連続上演に取組んでいる三浦基と地点が前作『ワーニャ伯父さん』を掛けたのは、60人も入れば満員の京都のアトリエ劇研で且つ、砂地にピアノを置いた空間に点在する俳優がほとんど動くことなく訥々と台詞を吐く様を観客が凝視するという、ミニマルな関係性を体験していたため、その延長線上でこの舞台も予想していたからである。


しかし、それは杞憂とまではいかなくとも納得させるだけの説得力があった。舞台ツラから奥へと演技フィールドとなるイントレ上に敷かれた板が走り、客席はそのまた先に組まれている。つまり、大ホールに常設されている客席に背を向ける格好で演技は進行され、それに正対するように客席があるということになる。舞台幕は開襟されおり、「正規」の客席には大きな白幕が張り付いている。このような空間設定に至った経緯について三浦基は、トレープレフの脳内劇場が引き起こす回想劇/証言劇として『かもめ』を再構築するアイデアに広がりをもたせるためとポストパフォーマンストークで語っていた。私の持った印象はそうではなく、ト書きにある湖のほとりの仮説舞台を見事抽象空間として出来させているように捉えた。「正規」の客席へと落ち込むような桟橋の先端はまるで深い湖へと落ち込む波止場を想像させもする。


白幕に投影されたカウンターレコードがゼロへ向かってどんどん遡ってゆく。果たしてこれは何かの終わりへのカウントダウンを意味するのか、はたまたやがて訪れる整然と並ぶ丸の羅列は激闘の末に遅延される野球延長の如き再始動であるのか、考えあぐねながら待つことから舞台は始まる。そしてゼロになった途端に銃声。と同時にイントレの下に大量に敷き詰められたパイプ椅子の中を騒々しく駆けて来たトレープレフの語り。ここからが地点の俳優たちによるいつもの「強度ある」身体が披瀝されてゆく。


地点の独特な発語術である台詞を音節ごとに区切り、日常とは異なるポイントにアクセントを置いて強調される台詞は、小空間の中でこそ身体の微細な動きと共に連動するため有効性を持つと考えていた。事実、『ワーニャ伯父さん』で興味深かった身体の有り様とは、チェーホフの美文体の台詞をテンションを落とすことなく一息でどれだけ長く喋ることができるかといった負荷を掛けられた俳優の実験を媒介にすることで、台詞の意味を異化しつつ俳優自身の口ぶりや疲れといったリアルタイムな変容に顕現する生な個性-例えば小林洋平のつく疲れきったため息のおかしさ-の方であった。


リズムや強弱によって喋ること自体に見るべき身体のドラマを湧出させんとする、基本的な俳優の身体的位相は変わることはないものの、空間の広大さによってまた別の視点をそこに照射させることになる。空間が拡大するにつれ、佇む俳優は求心性を誘発せんとする肉体であることから離れ、ただぽつんと佇む「ヒト」へと様相を変える。我々は遠くの俳優から微細な動きを捉えることを断念する代わりに、空間へと勢いよく放たれ出される弾砲のような、強烈な生命力に溢れる響きを孕んだ台詞を耳にする。それはまさにすべからく俳優の身体とは別の、チェーホフの劇人物が切実に抱える逼迫した状況からの離脱、懊悩を「音色」に乗せて観客へと届けるのである。


なるほど、これこそまさに台詞をいかに伝達するかに重きを置いた文学偏重主義にも思える。しかし、この「音色」を実現させたのは紛れもなく俳優自身なのである。空間の拡大によって生じた余白を埋めるのは、自動機械のように喋る楽器へと変質させる身体のみが支えとなったもう一つの「近代演劇」なのだ。


決して台詞の意味と行間を読み取り、再現するのではない。追い立てるように、ともすれば半歩先取りしてしまおうとするかのように台詞に憑いた俳優は、流れるままにまかせて速射砲のように喋り続けることで意味へ回収されることから振り切ってしまうのだ。『ワーニャ伯父さん』と『かもめ』の違いとして、俳優の「たった今」の肉体性を現前させるか、劇世界という文学性を「図らずも」立ち上がらせてしまうかという、同じ方法によって<身体>か<言葉>への重心を移動させることで異なる結果を生み出そうとしたのである。それは、双方の因子への格闘(批評)の目差しがその通低路の開示を可能としている分水嶺となっていることは言うまでもない。「硬質な身体」とは、言葉を中心とする近代批判へと自覚的に立ち向かうことへの意志が表れたものなのだ。


再び空間へと立ち返ってみよう。かつてないほどに幾人かの登場人物達は長い桟橋を常に前後ゆっくりと行き来して動きがあるのだが、これも単に審美眼的に空間を埋めることに奉仕するための措置が施されているように思う。それこそ「近代」への目差しが効いている箇所だと私は受け取った。登場人物の内、アルカージナ、ソーリン、トリゴーリンの服装が前後で色が異なっていることが気になっていた。すなわち前が白、後ろが黒である。人間の内に秘めた善悪を可視的に表現した服装ではないかと思ったものの、全員がその服装でない所からこの考えは些か早計だと却下。そこで、この服装の人物が主に舞台ツラへと突き進むことにポイントを置いた時、地点が取組む「近代」への目差しが出来する。すなわち、湖といった広大な深度を持つイメージをチェーホフ、あるいは「近代」というイメージへとパラフレーズしたならば、彼らはその部分へ向かって演技をしている(事実、台詞を後ろ向きで喋ることも多々あった)と見なすことができるからだ。桟橋の先端に佇み、深い深淵に落ち込みそうになっているさまは、絶対的作者へ立ち向かう一個の人間の姿を見ないわけには行かない。タイムレコードの投影されたスクリーンもその文脈で捉えなおすことも可能である。


『ワーニャ伯父さん』では、上空のステンドグラスに投影された地球儀が回転することで、世界の中の人間の視点が表現されていたが、今作では物理的な空間の広がりによるイメージの強大さが据えられることになった。否が応にもクローズアップされるチェーホフ世界との格闘へ投企したのは「硬質な身体」だけではない。観客自身も目の位置を直線的に引き伸ばせばぶつかる作者=近代を意識することになるだろう。スクリーンへ向かって放つ台詞はまさに深淵の谷へと吸収されるが如く決して明瞭に聞こえた訳ではない。「近代」へ対する身体実験も完全でないこともまた示された格好になった訳だが、地点が壮大な格闘を視野に据えた集団であり、その意志を持っていることを私はこの舞台で感得した。


一つ印象深いシーンがある。トレープレフの言い放つ台詞「幕を降ろせ」を地団太を踏みながら言い放つ場面。いくら叫ぼうが一端開いた幕は閉じ様もない。暴走機関車のようにただただ突き進むのみ。トレープレフが自殺を諮ったのかどうかすらこの舞台では曖昧で、トランプを投げやりに中空に放り上げる他の人物からもそのことに一切言及しようとする気配は感じられない。中心を欠いたチェーホフ世界にあって、どうにも動かし難い現実を突くこの台詞にチェーホフの明瞭な視野と、それでも抗おうとする人間の姿がもっとも集約した形であらわれているように私には思えてならない。





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Last updated  Aug 12, 2007 12:50:39 AM


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