現在形の批評

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Nov 7, 2007
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #72(舞台)

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デス電所

11月4日 精華小劇場 マチネ


目まぐるしい狂騒のドライブからの隔たり


「自立」というワードは、この劇団にあってはこれまで縁遠いキーワードではなかっただろうか。客いじりを交えたギャグが後退し、代わって物語が前傾にせり出した今作が私が興味深かったのは、自立する人物の現れにある。一旦見られなくなった、山村涼子演じるヒロイックな少女性を再び核に据える物語だが、以前のように個人の陰惨な記憶遡及の時間旅行のみに収斂してゆくのではなく、それを反転攻勢、目的意識へとプラスの方向へ働かせることで人物を成長させるドラマツルギーが駆動していた。


内/外の隔たりを意識させる9つの扉のみの白い舞台空間。だが、扉は明確に内/外を区別するわけでなく場合によって可変し、あくまでもイメージ機能以上の役割を持つことはない。ネット上の書き込みが登場人物達によって口々に発せられるシーンに顕著なように、この概念は自室に引きこもりながら外部との接触を可能とさせる虚像としての内/外であり、発信者と受信者の時々のパワーバランスが浸透膜のように変動する意味での可変さの視覚化なのである。この舞台空間はネット環境という限定枠に留まっているかぎり外敵からの身の保身が確約される無垢な安全地帯の謂いであろう。引きこもりからの脱出。自立とはこのテーマにかかわってくる。


外の世界に出れないリイチ(丸山英彦)はだが、子供の頃買ってもらった、自分の意志を的確に伝達してくれる人形ロボット(山村涼子)を駆使することで外部とのコミュニケーションを維持している。典型的な引きこもりのダメ人間として位置付けられているが、実はリイチこそがロボットで、自閉したニアの情報をそっくりインストールし、盾となって擬似人間を演じているのだ。あらかじめプログラムされた領域外のことができないPCとは裏返せば、生身の対人関係のような、「分かり合う」という高次のそれへ昇華するためにわざわざ予測不能の人間性を忖度し情緒交流や駆け引きに思い悩みむことのない幸福な存在である。機械の便利さを、それを使用して享受する人間ではなく、機械側から描く視点はこの舞台のキモである。加えて、丸山と山村の運命共同体を独特ないじましさで以って演じおり、終始舞台を牽引する秀逸な関係を展開していた。


役割を交換し一心同体となった二人の関係を正常化することが物語の最も劇的な要素となっている。それは頭で考え、身体で感じ、フレキシブルに応対する困難さを抱えたまるごとの人間性を肯定し復活させることであった。反政府組織で活動する恋人(豊田真吾)との関係が駄目となった過去の出来事がトラウマとなり、煩瑣な対人関係を峻拒した女が、再度同様のシチュエーションに陥ってしまう。機械的に処理しようとするものの、プログラム外の不意の行動を相手が取るにあたり、混乱を来たす。人間として振舞っていたリイチがニアの盾であることをやめ、極めて人間的な説諭をニアに与えたことで、卑屈で打算的な思考プログラムに突き動かされていた卑屈な殻を解き破り、いたわりにも似た感情を自らの内から引き出す場面が先のそれに当たる。


これまでのように、堕ちてゆく人間を慰撫するだけの居直りの姿勢を付きぬけ、自らの環境世界の変革へ挑む登場人物の登場は、私が以前から望んでいたメロドラマへ方向性の萌芽が伺える。だからラスト、扉が開け放たれ、明らかな外的要因である摂氏零度の猛吹雪が吹雪く中、すっくと佇むニアの説得力が出たのだ。


笑いに関してだが、陰惨さを哄笑の渦でとことんなまでに笑いのめす作風ならばまだしも、前回公演のようにオタクちっくなギャグをさんざん展開しながら、伏線としても利用しつつ強引に物語性を押し込んで情緒的に見せる構成は、ギャグとドラマのどちらに重きを置いているのかが分かりにくい上に、オタク的ギャグの枠内で小さく収まってしまう不満があった。今作の笑いの減退は、そういた意味ではドラマ性を重視した所に成熟さの一旦が窺える。また、笑いと共に劇中歌も大幅に減ったが、これは七月のリーディング公演後のアフタートークで、扇田昭彦から音楽劇か物語劇どちらを主軸にするのかとの問いの答えなのかもしれない。


ただ、反政府組織のメンバー達が失踪中の仲間を捜索するくだりは、日替わりゲストを交えて半ばアドリブで進行していく意図的な遊びの場面として作られている。リーダーとして絶大な信頼を寄せていた弟の失踪を契機に、その後釜に座った兄が弟のように振舞うという事情は、主題との連動を感じさせるものの、最後あっさり連絡が入って解決をみるという処理の安易さに、先の不満に準じるものがあり、彼らの役割をもっと意味付ける必要があると思った。もう一つ付け加えるならば、街は戦争状態であるという外枠が設定されており、この反政府組織や、ニアとリイチを安全なシェルターへ非難させようとする男はそういった文脈から登場してくる。違和感なく観進めることは可能なものの、こういった外部の人物の自由な出入りがネット環境という自閉空間の内/外にいかなる作用を働きかけるのかをもっと明確にすれば別の見方も浮かび上がってくるのではと考える。


またとないロングラン公演に、今作のような歌と笑いを減少させ、ストレートすぎる物語展開をぶつけた所に、この劇団の以前とは違った意思を汲み取る。混沌へと誘う狂騒感のドライブを求める以前からの観客からすれば物足りない作品となったかもしれないが、過剰な笑いとショーアップで誤魔化すことから離れ、物語性を追求することは、今居る地平からの自立のための一つの方策であり、私はそういう真摯な模索に共感する。 勿論、これで劇団の方向性が定まったと言う訳ではないだろう。自らの持ち味の遊戯性を含めた土台となる集団理念を模索する態度に、新たな変節を見る私が居るだけだ。





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Last updated  Nov 7, 2007 04:52:12 PM


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