現在形の批評

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Mar 6, 2008
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #78(舞台)

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演劇計画2007

3月2日 京都芸術センター 講堂 マチネ

It is written there


共通認識の下で為される心優しいゲーム


演劇の自明性が問われている。


演劇の可能性を見据えた思考実験を幅広い領域でしかも先鋭化する要請が、昨今の舞台芸術あるいはトータルパフォーマンスへの包摂の流れであろう。複雑怪奇に張り巡らされた網目から絶え間なく流れる情報の恣意的な利用は、あらゆる物事を暴露しまた平準化された形で我々の扱い易いようストック・管理を可能にさせる。だが、情報の使い手として居丈高に振舞っている我が身もまた、網が通り情報に吹き晒されているが為、返す刀で同じく打ち付けられ疲弊している。問題は送受信がフレキシブルに互換し情報だけが漂流することで、傷痕に気付かない様周到に仕組まれている点にある。一体誰がどこで権勢を揮っているのか。たとえ明確な主を想起したところで、それも大小の違いこそあれ、また疲弊するものの一つでしかないという見立ても可能だ。こういう状況下、一つ所で楼閣を築き護衛し続ることの有効性があるとは思えない。演劇の自明性が瓦解する時、それは社会の動きと決して分かつことができないのだ。


観客全員に100頁あまりのスケッチブックのような冊子が配布される。我々は、1ページ事に書かれた単語や文章に沿ってパフォーマーがすることを観て、指示される毎にページを繰ることで舞台が成り立つ。なるほど、テクストと舞台が同時に進行する形式の作品はめずらしい。戯曲文学を手に携えてこの種の作品を作ることはおそらくできないだろう。舞台芸術とりわけ舞踊・ダンスの抽象化されたパフォーマーの動きは観る者の理解を阻むことがあが、テキストが介在することで、これから何をするのかが了解されそしてどう処理をしているのかが逐一検討することが可能になる。テクストに書かれたいくつもの言葉を観客に選ばせ、それを無理やり一続きの動きへ即興的に生み出していく、あるいはテクストの途中には蛍光テープを張った頁があり、劇場の証明が落ちれば「STAR」の文字が浮かび上がるといった、言語と身体表現を連動させる趣向が多々盛り込まれたこの舞台は、まるでパフォーマンス入門のような分かり易く心優しい配慮が盛り込まれている。


率直に、私は全体を見通してそれ以上の発展がないように思われた。「It is written there」、「そこに書いてある」というタイトルが示すように、全てはテキストに全権が委ねられている。とりもなおさずそれは構成・振付・演出の山下残の手の内からは逃れられないということである。すべてが書き記されたテクストをどう舞台作品として屹立させるか、その生成プロセスにこの舞台の肝があるのだが、頁を繰ることを強要された私はひたすら機械作業をしているような居心地の悪さを感じた。そして、テクストと舞台間を往復する内、多様であるはずの表現に始まりと終わりを設定し、正誤確認をしているかのようなルーチンワークを強いられたのである。テクストの言葉という記号を表現する身体が生み出したものがまた記号でしかないのならば、空間全体が山下の操作によってあらゆるものが無批判に記号に寄与せざるを得ない。つまり、舞台上に一種の言語ゲームのような空気に包まれていたのである。ここには強固な共通ルールが存在している。ゲームの参加者はその中で執り行われるものが受容できるか否かを判断すればいい。ツボに入らなければ、頁をめくる内に気に入った動きに出会うだろうというわけだ。このルールにさえ従っていれば無責任におもしろいかつまらないか寸断していればそれで事足りる。しかし、私は舞台鑑賞のため通りの良いルールがあり、そこで遊戯している間に模糊されてしまう権力者の存在を感じ取ってしまう。我々が本当に見据えなければならないのは、その制度を支配する存在と対峙することの飽くなき欲求心の維持でなければならないし、その表現は作業仮説として個々の切り口の結果の提示である。一方向へ意識を誘導させる権力を開示する場ではない。


舞台はラスト近くで変質する。女性パフォーマーが頁番号を次々言い進めるだけで、棒立ち状態を維持したまま何もしない。めくる度に、「斧をふるう」「地面をける」「燃え盛る炎」「空から爆弾 そして再び地面をける」「力強い後進」「再び空から爆弾」「逃げろ逃げろ逃げろーーー」「でっかい巨人」etc、一行ずつ鉛筆書きで書きなぐられ一部には書き直しの跡がある走り書きの文字が増えてゆく。その言葉郡が極点に達し日記のような日常の出来事が記された数頁を繰る間、パフォーマーは舞台上を走り回り、激しく床を踏み鳴らし続けるのだ。私はこの一連の場面に、この舞台が醸成する演劇的な一点を垣間見た。テクスとパフォーマーとの往還のみに記号が互換され、再現されるに留まっていたそれまでの過程とは異なり、身体と言葉が別様のものとして扱われていたからである。舞台上にはパフォーマーから頁を繰る言葉だけが存在している。同時に、テクスト上に累積する言葉もまた存在する。この2様に分かれた言語は棒状に突っ立った身体に抑圧的なそれとして掛かってゆく思いがしたからである。あるいは、押し黙った身体が発する声なきヘルプの言葉なのかもしれない。いずれにしても、この時の身体は言葉と真摯に向き合った極めて政治的にさえ捉えられるものであり、その抑圧からの解放が床の踏み鳴らしへと繋がっていると見受けられた。あたかも網目状に広がる言語ルートが身体を通過し蝕んでゆく現代社会の射影のように。書き付けられた言葉そのものの意味と走り書きされた文体の激しさを、走り回って床を踏み鳴らす行為で物語る。舞台を斜めに照射する照明を使い、影の大小で巨人から赤ちゃんまでを表す視覚的な見せ方も巧みだ。言語を表象再現して完結する身体ではなく、一つに還元できないほどにさまざまな言語を背負い自身で饒舌に生み出す身体がここにはあった。


99頁からカウントが減ってゆくテクストの冒頭4ページは白紙である。この白紙部分は、司会者役になったパフォーマーが観劇上の注意を織り交ぜる等、前口上として客を沸かすために使用されるが、先述した創造性のあるシーンを経た後のラスト2頁の白紙はそのまま観客自身が生み出す言葉で埋めるためのものなのか。


パフォーマンス入門のような舞台だと形容した理由もここにある。舞台芸術の観劇方法を知らない観客が、種々の趣向を凝らした内容を通過し最後の「END」を繰った後には、立派に何事かを語るまでになるよう導かんがために練られているからだ。これは心優しさに溢れている。だが裏を返せばそのように観客を教育・啓蒙してしまうということである。興味深く観たシーンも、テクストに書かれた政治的な言葉を踏まえた先入観がそうさせた因子として作用したのかもしれない。全体的に展開の薄さを感じ取ったのは、強固なテクストからの意味生成、それを構成した山下残の影から逃れられない舞台構造が結局いささかも瓦解することがなかった点にある。それは、網目状の情報の渦という現実を電極分解し、隠された権力者の姿を暴き出すことには成功している。とは言え、それをどう捉え、どう舞台芸術として昇華させようとしているのかという次の段階の手前で立ち止まり、斬り込まんがために取った長い助走が最後まで続いたといった印象が拭えなかった。演劇は決して生易しいものではないだろう。自明裡となった演劇に疑義を差し挟み、先鋭化させる実験の試みの下に舞台芸術という広い視野が持ち出された役割は、大衆迎合的な理解できる/できない地点に安住することの危険性から隔絶していかなければならない。





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Last updated  Apr 30, 2009 11:20:32 PM


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