率直に、私は全体を見通してそれ以上の発展がないように思われた。「It is written there」、「そこに書いてある」というタイトルが示すように、全てはテキストに全権が委ねられている。とりもなおさずそれは構成・振付・演出の山下残の手の内からは逃れられないということである。すべてが書き記されたテクストをどう舞台作品として屹立させるか、その生成プロセスにこの舞台の肝があるのだが、頁を繰ることを強要された私はひたすら機械作業をしているような居心地の悪さを感じた。そして、テクストと舞台間を往復する内、多様であるはずの表現に始まりと終わりを設定し、正誤確認をしているかのようなルーチンワークを強いられたのである。テクストの言葉という記号を表現する身体が生み出したものがまた記号でしかないのならば、空間全体が山下の操作によってあらゆるものが無批判に記号に寄与せざるを得ない。つまり、舞台上に一種の言語ゲームのような空気に包まれていたのである。ここには強固な共通ルールが存在している。ゲームの参加者はその中で執り行われるものが受容できるか否かを判断すればいい。ツボに入らなければ、頁をめくる内に気に入った動きに出会うだろうというわけだ。このルールにさえ従っていれば無責任におもしろいかつまらないか寸断していればそれで事足りる。しかし、私は舞台鑑賞のため通りの良いルールがあり、そこで遊戯している間に模糊されてしまう権力者の存在を感じ取ってしまう。我々が本当に見据えなければならないのは、その制度を支配する存在と対峙することの飽くなき欲求心の維持でなければならないし、その表現は作業仮説として個々の切り口の結果の提示である。一方向へ意識を誘導させる権力を開示する場ではない。