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2007.08.06
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カテゴリ: その他
「ローエングリン……」
「どうかエルザ。安心して欲しい」

拍手喝采が鳴りやまぬ。
という経験を私は味わったことがない。
これはつまる所、私に才能がない。
ということとは同意ではない。
要するに私の才能を活かせるだけの場所に
私が未だ辿り着けてはおらぬのだということだ。
適材適所ならぬ適材不適所である。
こんな弱小劇団などに未練はないし、
また早々油を売っている時間も正直ない。
だがそれでもこんな場所にしがみついている理由はと言えば、
私には私を押し上げるだけの知名度が明らかに不足していた。
つまりどんなに素晴らしい才能を有していようが、
どんなに磨かれ煌びやかな光を放つ宝石であろうが、
それを本当に解せる領域の権威に認識して貰えなければ、
それは路傍の石ころと何ら大差ない。
いや曲がり形にも気付いて貰えた路傍の石の方が
数段存在としてはまだ上に位置するのかもしれない。

少なくとも現段階では、私は拾い主を箱の中で待ち侘びる
犬畜生と肩を並べているのではないだろうか。
もちろん私自身現状に甘んじているつもりはないし、
ただ箱庭で道行く人に媚びるだけの人生を送ってもいない。
それなりに私という原石を売り込んできたつもりではある。
がやはりこれまでの経歴と実績が物を言うこの業界。
私の肩身は狭いと言う他表現がなかった。

だからこんな薄汚れた劇場で日に三回も
数十人のために動き回らねばならない。
どうせ演技のえの字も知らないような連中のために。
しかしそんなどうでもいいような演劇であるはずが、
どういうわけか客の入りは悪くなかった。
いや満席が出たという時点で過去最高だとも言える。
けれど悲しいかな、その理由は劇団外にある。
今期やっている演劇の題目は「ローエングリン」
天才作曲家ワーグナーの創作した戯曲の一つである。
そう。つまりこの客入りはワーグナー効果なのだ。
少し変わったワーグナーの世界。
あなたも覗いてみませんか。
それがこの演劇のキャッチコピーだった。
それに釣られた人間が少なからずいたのだろう。
まあリピーターはいないと思える。
演じる人間からして脚本に違和感を覚えるのだから。
かと言って、それに口出ししようものならば、
「じゃあおまえが作ればいいじゃないか」
そうやって激昂を露わにする。
そんな男がこの劇団ではペンを取っているのだ。
演劇家には激情型が多いというが、
脚本家のように緻密で繊細な作業を主とする役職の人間まで
激情に身を任せる必要はないような気がする。
どちらかというと冷静沈着で常に客観視できるような、
そんな人間こそが世の裏の裏まで描き切ることができる。
そう思ってしまうのだ。
まあ個人的に彼のように掌を返したように
急に馴れ馴れしくなる厭らしい人種が嫌いなだけ。
そう言ってしまうのが一番単純明快だとは思うのだが。

お疲れ様。今日もそこそこ客が入ってたね。
そう頭の中の文字盤を叩かれたような気がして、
狐に包まれたような顔で左右をきょろきょろ見回した。
「どうかした」
その当事者はどうやら私の右にも左にもおらず、
ずっと私の正面に佇んでいたらしい。
「ううん、ちょっと考え事」
嘘ではないし、本当でもないな。
私は取り繕うように相手の目を見て、
それから少しばかり笑みを浮かべてみせる。
「ならいいけど。最近ちょっとぼーっとしてるなって。
 そう思っていたから、練習疲れかなって」
「ううん、そういうわけじゃないの。
 ただちょっと。そうちょっと気になることがあって」
「気になること」
しまった。と思った。
決して気になることなどなく、
ただ体良く話を収めてしまおうと思っただけだったのだが、
それがはっきりと裏目に出てしまったようだ。
こうなったら相手はその「気掛かり」を話すまで、
追求を止めはしないだろう。
もし無理矢理話を終わらせようとすれば、
自分を信頼してくれていないと失望するかもしれないし、
もしかすると何か下手な理由を勘ぐって怒り出すかもしれない。
面倒なことになったなと思った。
なぜなら彼は私が同棲している相手。
文字通り彼だったからだ。

兎に角彼の気を損ねないためにも、
そしてこの会話を円満に終わらせるためにも、
私は何か一つ小気味の良い嘘を吐かねばならなくなった。
はたと考えてしまう。
今ここだけで後でぶり返さないような内容が好ましい。
もしくはぶり返したとしても、他人に迷惑のかからないものなら、
それはそれでも構わないだろう。
しかし彼の目がそんじょそこいらの気掛かりでは、
今日は納得しないことを物語っていた。
それ程までに私は考え込むことが多くなったのだろうか。
まあそろそろ大成したいというようなことを、
そのまま本音として語ってしまってもいいが、
前にもそんなことを言ったとき、
「オレを捨てるつもりなのか」と
しつこく何度も詮索されたことがあって以来、
私の中でその話は禁忌中の禁忌になっている。
別に今の生活を急に変えるつもりはないものの、
この男のこの妄執じみた部分には時々参ってしまう。
かといって今のところこの男ほど私の横を歩かせて
様になるような釣り合いの取れた知り合いもいないのだから、
仕方ないと言えば仕方なかった。
良い女というのは、一緒に歩く人間ですら
苦労を背負い込まねばならないのかと溜息を吐くものなのだ。
「ううん、別に。ただ今回の脚本にちょっとね」
私は咄嗟に思いついた言葉を口にした。
我ながら上手いことを思いついたものだ。
これならば面と向かって本人に言うことはないだろうし、
また気心知れた人間以外にこんなことを言ったりもしないだろう。
下手をしたら自分の立場すら危うくなるかねない内容だ。
二人の仲だから可能な会話。
彼もきっとそう思うに違いないだろう。
「ああ。それか。
 フオンは学があるからな」
『符音』。私の名前だ。
小さい頃はその音から「不吉な女」などと
悪口を叩かれたりもしたものだが、
私が年を経て女としての美しさを身に付けていくにつれて、
次第にそんなことを陰口にする者もいなくなった。
私はその時晴れて私は名前に勝ったのだと思った。
にしてもやはり初対面の人には聞き返されることもある。
珍しいお名前ですねと堂々と言う人間もいる。
そういう人間に限って、興味があるのは私の名前などではなく、
私の身体だったりするのだが、正直どうでもいい。





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最終更新日  2007.08.08 16:02:37
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