萌園の闘病日記 いくつもの難病を抱え奮闘中

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第2章 潰瘍性大腸炎



大腸の粘膜(最も内側の層)にびらんや潰瘍ができる大腸の炎症性疾患です。
特徴的な症状としては、下血を伴うまたは伴わない下痢とよく起こる腹痛です。
病変は直腸から連続的に、そして上行性(口側)に広がる性質があり、
最大で直腸から結腸全体に拡がります。
この病気は病変の拡がりや経過などにより下記のように分類されます。

1)病変の拡がりによる分類:全大腸炎、左側大腸炎、直腸炎

2)病期の分類:活動期、緩解期

3)重症度による分類:軽症、中等症、重症、激症

4)臨床経過による分類:再燃緩解型、慢性持続型、急性激症型、初回発作型


潰瘍性大腸炎


症状

●発病初期は便がだんだんゆるくなる。
●便は出血を伴い(下血、血便)、痙攣性の腹痛と頻回の排便をもよおす。
●下痢は徐々にあるいは全く突然に始まることもある。
●症状が重くなると、発熱、体重減少、貧血などの全身への症状が起こる。
●腸管以外の合併症として皮膚病変、眼病変や関節の痛み、子供では成長障害が起こることもある。

検査法

●消化管造影
注腸バリウム造影により、大腸の鉛管状変化(ヒダがみられなくなる)、
偽ポリポーシス(粘膜が脱落し、残った部分がポリープのように見える)が特徴的とされる。
●大腸内視鏡
腸管粘膜のびまん性炎症、白苔の付着などをみとめる。
●組織病理学的所見
顕微鏡的には、あたかも大腸粘膜の上皮を標的とした自己免疫疾患のような形態をとる。
活動期には、粘膜上皮細胞の間に好中球が浸潤して上皮を破壊し、特に粘液を分泌する杯細胞の減少が目立つ。
上皮がくぼんだ部分=陰窩(いんか)の中に溜まって微小な膿瘍を形成しやすい。
粘膜固有層には形質細胞などが密集した、強い慢性炎症の像をとる。通常は粘膜に限局し、
固有筋層に炎症が及ぶことは比較的稀である。


治療法

内科的

投薬
●5-アミノサリチル酸(5-ASA)製剤  サラゾスルファピリジン(サラゾピリン) メサラジン(ペンタサ)
●副腎皮質ステロイド剤  プレドニンゾロ(プレドニン)
●免疫抑制剤  アザチオプリン(イムラン) 6-MP(ロイケリン) シクロスポリン(サンディミュン)

薬物療法以外
●血球成分除去療法  血液中から異常に活性化した白血球を取り除く治療法
LCAP(白血球除去療法:セルソーバ)、GCAP(顆粒球除去療法:アダカラム)

外科的
下記のようなケースでは手術の対象となることがある。

(1)大量出血がみられる場合
(2)中毒性巨大結腸症(大腸が腫れ上がり、毒素が全身に回ってしまう)
(3)穿孔(大腸が破れる)
(4)癌化またはその疑い
(5)内科的治療に反応しない重症例
(6)副作用のためステロイドなどの薬剤を使用できない場合

手術は大腸の全摘が基本となる。
以前は人工肛門を設置する手術が行われていましたが、現在では肛門を温存する手術が主流。
この手術は大腸を取り除いた後、小腸で便を貯める袋を作って肛門につなぐ方法で、
この手術方法で患者さんのQOLは飛躍的に向上されている。


潰瘍性大腸炎との闘い

1982年7月 発病
高校卒業後、就職した私は、非常に忙しい毎日を送っていた。
就職した職場で、前任の人が退職していなかったため
仕事の引継ぎが出来ず、自分の仕事を調べながらこなしていたためだ。
朝、7時前に家を出て始発のバスに乗り、夜は最終のバスに乗って
20時頃家につくと言う生活をしていた。
休日出勤もし、休みもほとんどなかった。
また上司にいじめられ、(今で言うパワーハラスメント)精神的にも参る日々が続いた。
そんな生活を半年続けていて、7月頃から下痢が続くようになった。
激しい下痢、腹痛、ついには下血をするようになった。
この症状が潰瘍性大腸炎の発病だった。

1982年8月
自分の身体の異常が心配だったので、夏休みを利用して職場から近い静岡赤十字病院の消化器を訪れる。
症状を聞いて、すぐに検査をするようにいわれ、大腸検査(消化管造影)の予約を取る。
検査の結果、「潰瘍性大腸炎ではないか」と診断され、その権威であるA先生を紹介される。
当時A先生は消化器外科の医長だった。
A先生に検査の結果をみてもらい、即「潰瘍性大腸炎」と診断される。
極度の貧血と栄養障害があったので、入院するように言われる。

1982年9月
静岡赤十字病院消化器科に入院する。
大腸検査(消化管造影、大腸内視鏡、組織を採取)を繰り返し
小腸検査(消化管造影)も行われた。
入院当初は小腸も炎症を起こし、潰瘍が見られたことから
クローン病 も疑われた。
最終的には「潰瘍性大腸炎」と診断されたのだが。
一通りの検査を終えて、主治医から家族へ説明があったとき、母は
「おかあさん、娘さんは大変な病気になってしまいましたよ」と言われたそうだ。

高カロリーの点滴、低残渣の食事(脂肪をなるべく押さえ、繊維が少ない食品を使った食事)を食べていた。
乳製品も禁止され、食事に出てくるものは、じゃが芋、白はんぺん、にんじん、フルーツジュースが主だった。

治療薬はペンタサ、プレドニンだった。
このときからプレドニンを飲み始めたのだが、以来27年間プレドニンを飲み続けているわけである。

重度の貧血のため、輸血と鉄剤の点滴を繰り返していた。

この入院中に気縦隔撮影を行い、胸腺腫が見つかる。

1982年12月
慶応大学医学部付属病院に転院。
静岡赤十字病院ではなかなか症状が改善しなかったため
さらに大きい病院に入院するように言われ、紹介されたのがこの病院だった。
検査、治療は同じだったが、薬の種類、量が以上に増えた事は覚えている。

1983年1月
慶応大学医学部付属病院 退院
症状が軽減したため、退院を許可される。

1993年まで静岡赤十字病院消化器科に入退院を繰り返す。

1986年6月入院中に再度、気縦隔撮影の検査を受ける。
このとき行った局所麻酔によるショックからクリーゼを起こし呼吸停止、心停止になる。
幸い検査中で主治医がそばにいて、適切な処置がすぐに受けられ蘇生を施してもらい、命が助かる。
心停止している間、私は夢を見ていると思っていたのだがお花畑に行っていた。
つまり三途の川の前まで行ってしまったのである。
川の向こう岸にはすでに亡くなっていた母の弟が立っていて驚いた事を覚えている。
その叔父が「こっちに来るな!!」と叫んでいたからだ。
川を渡ろうとした時、遠くからA先生が私の名前を呼ぶ声が聞こえ
戻らなくては…と返事をしたところ、体がふわりと浮かび一瞬暗くなったと思ったら
夢から覚めていた(と私は思った)
意識を取り戻した私にA先生は「もう大丈夫だよ」と優しく笑いかけた事を覚えている。
あとから看護師が「心臓がおかしくなっちゃったんだって」とだけ説明してくれた。

今は、説明をきちんとしなければ訴えられることもある時代なので信じられないと思うが
当時はそれで済んでしまい、本人も納得してしまったのだ。

1994年
藤枝市立総合病院消化器科に転院
静岡赤十字病院の主治医が脳梗塞で倒れたため、転院を余儀なくさせられる。
消化器科のK先生とは長い付き合いになっている。

転院した後も、入退院は繰り返していた。

2,3年前からようやく症状が落ち着き寛解期に入っている。
潰瘍は残っているものの、非活動的の潰瘍だと説明されている。
でも時々大きなストレスがかかったり、極度の疲労になると下痢と下血を繰り返すこともある。
今はペンタサも飲むのを止め、整腸剤で経過を見ている。


潰瘍性大腸炎が、重症筋無力症の合併症第1号である。
この病気を発病して、特定疾患の難病を2つ抱えることになった。











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