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ringo3119

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2010.05.22
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《クリスチャンになろう Day 19》




バプテスマ って なあに ?(バージョンUP加筆版)


バプテスマってどうしても受けなくちゃいけないの? 」「 もう心で信じて救われているんだから、受けなくてもいいと思うんですけど 」という風な意見をお持ちの方がよくいます。

聖書は、クリスチャンが救われたことの象徴として、その救いの恵みを忘れずに覚え続けるために二つの礼典を行うよう命じています。一つはバプテスマ式で、もう一つは主の晩餐式です。

私たち教会では、イエス・キリストを救い主と信じて受け入れた方々のためにバプテスマ式を執り行います。一般に“ 洗礼(せんれい) ”という呼び方で知られていますが、「バプテスマ」はそのギリシャ語で、本来は「 浸す(ひたす) 」という意味があり「浸礼(しんれい)」とも呼ばれます。イエス・キリストを信じた人が 全身を水に浸す儀式を「バプテスマ式」 といいます。



バプテスマって何だろう? 」と思っていらっしゃる方のために、それがなぜ大切で必要なことなのか、ご一緒に Q&A方式 で見ていきましょう。




新約聖書が教える、水によるバプテスマ



Q. なぜ、バプテスマを受けるの?


 聖書によれば、信仰を持った人がバプテスマを受ける理由は三つあります。



理由1 イエス・キリストの模範に倣うため

クリスチャンとは、「 キリストに従う者 」という意味ですから、私たちクリスチャンは (1)主イエスの模範にならって 、主イエスが受けたと同じようにバプテスマを受けます。

イエス・キリストは、自らバプテスマのヨハネから、ヨルダン川の水に入ってバプテスマを受けました。

「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマ洗礼を受けられた。」(マルコ福音書1・9)

主イエスは救い主ですので、救われるためにバプテスマを受けたのではありません。主イエスは神の御子であり、人の姿をとった完全な神様ですから、救われる必要がないのです。また、バプテスマがあなたを救うのでもありません。救われるのは信仰によってのみであり、バプテスマは「従順の証」なのです。

主イエスの生涯を一言で言い表すなら「従順」です。主イエスは十字架の死に至るまで、その父なる神様の御心とご計画に最後 まで従順に従い通しました。主が自らバプテスマを受けることで、従順の歩みは始まったのです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも 十字架の死に至るまで従順 でした。(フィリピ2:6-8)

バプテスマのヨハネより、ヨルダン川で主イエスが自らバプテスマを受けたことは、まさに 従順の象徴 であり、 あなたが その足跡に続くようにと、模範を残された」 (1ペトロ2:21) のです。

つまり、「神様、あなたが示す道を歩みます。導いてください」と決心しクリスチャンとなったあなたの神様への従順の歩み は、そのバプテスマ式を通しても現されるのです。そのイエス・キリストという完全な模範に倣うことなくしては、本当の意味での「キリストに従う者」になる ことはできません。



理由2 イエス・キリストのご命令だから

バプテスマをうけることは (2)イエス・キリストのご命令だから です。イエスを人生の主として従うとき、私たちはそのご命令に従って、バプテスマを受けなければなりません。

「 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマ洗礼を授け(なさい)、」(マタイ福音書28・19)

このご命令は、主イエスが復活して天に昇っていく直前に弟子たちに最後に命じられた、まさに「 遺言 」とも呼べる大切な命令です。

主イエスが私たちに「これを守り行いなさい」と 命令 されたことが二つあります。一つは「主の晩餐式(The Lord's Supper)」、そしてもう一つが「バプテスマ式(Baptism)」です。分かりやすく言えば、 あなたの「信仰の規範である聖書」に従うということは、聖書が証しする「主イエスのご命令」に従うということ です。 



理由3 あなたの信仰を見える形で表すため


バプテスマは、 (3)あなたがクリスチャンであることの見える証 です。

「また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、バプテスマ洗礼を受けた。」(使徒18・8)

イエスを救い主として信じて心に受け入れることは、あなたの内側で起こった霊的な出来事ですが、 バプテスマはそれを見える形で公に証すること です。これらの理由から、キリストを信じ、告白したクリスチャンは皆、バプテスマを受けます。

人前で、水に浸かるのは恥ずかしい 」と、躊躇される方がいらっしゃいます。確かに、大勢の人々が見守る前で水にジャブン!と入るのは、非日常的な出来事であり、気が引けてしまう気持ちもよく分かります。しかし、 バプテスマ式はあなたが心でイエスを救い主と信じていながらも、乗り越えることができていない様々なハードルを乗り越える決断を後押ししてくれるはずです。 恥じることは決してありません。なぜなら、既にキリストはあなたの罪と恥を一切引き受けて、十字架で身代わりで死んでくださったからです。過去の罪にまみれた古い自分に決別し、復活したキリストと共に新しい命に生きるためには、「清水の舞台から飛び降りる」ような思い切った、信仰による決断が必要なのです。見えない神が見える姿で現れ、ことばが肉となって現れたのがイエス・キリストです。おぼろげなものを見える形ではっきりと表すことで、あなたの見えない信仰は見える肉となり、御言葉があなたの人生に現実となるのです。


バプテスマを受けることはまさに、 「わたしは福音を 恥としない 。」(ローマ1:16) という信仰をを表明することです。もちろん、様々な事情や理由でクリスチャンになったことやバプテスマを受けたことを、特定の人に伝えたくても伝えられないという方もいらっしゃるでしょうから、神様からの知恵を祈り求める必要があります。しかし、公に表明することを恥ずかしく思いそのように振舞えば、すなわち「 キリストを信じることは恥ずかしい 」「 キリストは恥ずかしい存在だ 」というメッセージを周囲の人に与えてしまう可能性も十分にあるのです。もう一度言います、キリストはあなたの恥を受けて身代わりで命を捧げてくださいました。ですから、あなたはもう恥じる必要がないのです。むしろ、「このイエス・キリストについて皆に知って欲しい」という喜びが湧き上がってくるはずなのです。

主イエスはこのように言っています。 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、 人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う 。」(マタイ10:32-33)

クリスチャンになるということは「 主イエスよ、あなたの愛を心より感謝します。わたしも生涯を通して、あなたを愛し続けます 」と願い、そのように生きることです。あなたはどのようにして、主イエスへの愛を証明できるのでしょうか。バプテスマは、主イエスの大切な命令の一つです。その救い主の言葉を守り行うことで、あなたは自らがクリスチャンであることを証明できるのです。


イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(ヨハネ14:23)



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DAY21「バプテスマ(洗礼)ってなあに?2」へつづく







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Last updated  2010.05.24 09:23:34


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