《クリスチャンになろう Day 20》
見えないものが 見える 象徴(シンボル)
Q.バプテスマを受けないと救われないの?
聖書は 「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマ10・10)
と教えています。私たちはキリストに対する 信仰によって救われるので、バプテスマ(行い)では救われません
。
事実、あなたがたは、恵みにより、 信仰によって救われました
。このことは、自らの力によるのではなく、神の 賜物です。 行いによるのではありません
。それは、だれも誇ることがないためなのです。(エフェソ2:8-9)
つまり、バプテスマを受けるから救われるのではなく、救われた結果としてバプテスマを受けるのです。さらに具体的に言えば、 救われたという事実を公に現すためにバプテスマを受ける
のです。
ある方に「 あなたはクリスチャンですか?
」と尋ねたところ、「 いいえ、私はまだクリスチャンではありません。だって、まだバプテスマを受けていませんから
」と答えられました。さらに、「で は、あなたはイエス・キリストを救い主と信じていますか?
」と聞くと、「 はい、もちろん信じています
」と輝く笑顔でその方は答えたのです。不思議に思った私は、「イ エス様を救い主と信じているなら、あなたは既にクリスチャンですよ
」と、ローマ信徒への手紙10章10節の聖書箇所を開いて彼に見せてあげました。 救いは信仰によって与えられるものであって、バプテスマによってではない
ことを教えてあげると、その方は「 ええ!?そうなんですか?
」と驚き、満面の笑顔で喜んだのです。
しかし、反対に「 信仰によって救われたのだから、バプテスマは受ける必要はないのではないか
」と思う人々にもこれまで出会ってきました。しかし、聖書はそのようには教えていません。
バプテスマ式は、「 信じた人の内側で起こった出来事が、見える形で表側に現されるシンボル(象徴)
」です。
ある人は、バプテスマを 結婚指輪
に例えます。結婚式で神と人々の前で夫婦の誓いを交わしたカップルは、その献身の誓いを表明する証として、指輪を交換します。指輪をしている人がみんな自動的に夫婦なわけではありません。つまり指輪が結婚の誓いを交わしたことを公にするシンボル(象徴)であるように、バプテスマ式もそのシンボル(象徴)として行われます。
ですから、指輪をはずしたとしても、夫婦であることにはなんら変わりはありません。とても悲しいことですが、ごくまれに、結婚している事実を隠して、あたかも独身であることをアピールするために結婚指輪をはずす人がいますが、「 公に表明できない、しない」ことのやましさ
の背後で、その誓いは真実さと清さを完全に失ってしまうのです。
また、ある人は、バプテスマ式を 結婚披露
パーティーにも例えます。婚姻届が役所に受理されて晴れて社会的にも法律的にも認められた正式な夫婦となるのですが、それでも披露パーティーをあえて執り行うのは、「 人生の新しい出発の喜びを大切な家族や友人と一緒に分かち合いたい、お祝いして欲しい
」という願いがあるからです。
まさにこのような、「 喜びは大切な人と分かち合いたい!
」という熱い思いは、バプテスマ式にも通じるものがあります。イエス・キリストと友なる新しい人生の出発 の喜びを公に表明することは、クリスチャンになれば自然に与えられる思いなのです。
そのような意味で、信じて救われた喜びがあなたの心に溢れ、「私の人生に起こったこの素晴らしい 出来事をぜひ皆に伝えたい!」という気持ちを、神様や教会の兄弟姉妹の前で公(おおやけ)に分かち合う場がバプテスマ式であると言えるでしょう。