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2018.01.15
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高田騒動と三春藩

 三春町史2巻91頁、秋田輝季の項に、次の記述がある。

 『万治元年(1658)七月、輝季は十歳にして四代将軍徳川家綱に初見をし、寛文二年(1662)の暮れに従五位下信濃守に叙任された。延宝四年(1676)、父盛季が大坂城中で倒れると上坂し、父の最後をみとった。輝季はそのまま大坂城に在番し、同年三月、大坂にて家督を許されている。公役中の特筆事項は、越後騒動にあたって、天和元年(1682)、その中心人物小栗美作の兄の本多不伯を三春城下に預り、翌二年に高田城在番を命じられて高田に出張した。』くどいようだが、ここに出てくる本多不伯は、高田騒動において切腹させられた小栗美作守の兄にあたる。しかしこの人物の三春での様子などについて、三春町史からはまったく見えて来ない。なお在番とは、江戸時代、大名が改易される際に、他の大名が幕府の命令で無主となった城地を守る役のことである。

 大名の改易が発令されると、幕府は該当する大名の居城と領知を接収するための要員を選定し、現地に派遣する必要があった。高田藩の場合は、改易後に新たな領主が入るまでの六年間は『在番時代』と呼ばれ、2名の大名が一年交代で高田城を守衛した。改易は領主と家臣、居城、領国などの解体を伴い、大名の無力化を意味する。このため一つ間違えば反乱の原因となるため、幕府側も周到な準備や配慮を行っている。これは改易を契機とする抗戦を予防するためであり、幕府は反乱の芽を摘み取るために細心の注意を払って改易を行った。改易処分が幕府から高田藩に伝わると、高田藩では厳重な警備体制が敷かれた。高田藩に領地の接する大名も、何かが起きては大変ということで、自衛的に藩境に軍勢を配置し、警戒態勢をとった。その一方で、幕府と高田藩の家老などの重臣との間でも打ち合わせをしている。ここの打ち合わせが上手くいかないと、高田藩松平家の家臣が篭城して武力衝突に発展する可能性があるのである。しかしいずれにせよ、武家の原則である「喧嘩両成敗」を最重要視したものであった。

 三春町史では詳細が不明なので、三春歴史民俗資料館に問い合わせてみた。すると藤井典子学芸員から、次のような返事があった。『高田騒動の件ですが、三春町史にはたいした記述は無いと思います。高田騒動の際の三春藩の動き(高田在番)に関する資料はまとまったものは無いと思います。東北大学附属図書館の秋田家史料に若干含まれていると思いますが、最近のものでは上越市史に詳しい記載がありますし、在番関係では相馬藩の史料(相馬藩世紀)にもやや詳しい記載があります』。そこで『相馬藩世紀』を相馬図書館からとりよせ、チェックしてみた。三春藩も関与したこの事件における高田城在番と、本多不伯を三春城下に預ったことについての記述は、ここにも全くなかった。その後も、三春歴史民俗資料館より提供を受けた白峰旬氏の論文、『天和元年の越後国高田純次受け取りについて』および『佐藤宏之氏による秋田家の高田在番に関する資料』などを参考にして、調べを進めてみた。

 そもそも高田騒動とは、何であったのか。一言で言えば、それは越後高田藩(新潟県上越市)二十六万石の後継ぎをめぐっての騒動のことである。お家騒動とは、江戸時代の大名家における内紛のことを指す。抗争の原因として最も多いのは、藩主の後継を巡る家臣間の対立であった。とかくどこのお家騒動でも、その内容はややこしい。いやそのややこしさこそが、お家騒動の原因となっていったのかも知れない。そのややこしい話をかいつまむと、次のようなものであった。

 延宝二年(1674)、高田藩主の松平光長の嫡子綱賢が男子なく死去した。そのため筆頭家老小栗美作は光長の異母弟市正(いちのかみ)の子、15歳の万徳丸を推して光長の承諾を得,将軍徳川家綱に拝謁して三河守綱国となった。これで事が済めば問題はなかったのであるが、市正の弟の永見大蔵(ながみおおくら)や家老荻田主馬らが、「美作がわが子の大六を光長の嗣子にしようとしたが見込みがないので,元服もしていない子供の万徳丸を立ててお家を乗っ取ろうとしている」と騒ぎ出したことから,その後も後継者の妥当性について意見が混乱した。そのため藩政を執っていた小栗美作は、永見大蔵と、彼と結んだ藩士と対立していた。

 延宝七年(1679)正月、永見大蔵らは藩主光長に目通りをして同志890人の誓紙を差し出し、小栗美作の隠居を要求した。この要求に屈した光長は、小栗美作に隠居を命じた。やむなく美作は自主的に隠居を願い出て、子の大六に家督を譲った。それにも関わらず家臣たちの騒ぎが収まらず、事態の収拾ができなくなった光長は、大老の酒井忠清(さかいただきよ)に裁定を訴え出たことで、騒動が表面化することとなった。

 翌年の五月、4代将軍家綱が死去し、ただちに弟である綱吉が5代将軍に就任した。綱吉は、「左様せい様」と陰口されるほど家綱時代に下落した将軍権威の向上に努め、すでに堀田正俊を片腕に処分が確定していた高田藩の継承問題を自身で裁定し直し、積極的に政治に乗り出したのである。そのために高田藩裁定が十二月になって始まったのであるが詮議は難航、年を越した天和元年(1681)六月二十六日に以下の裁定を下された。すなわち、松平光長は家中取り締まり不行届きであるとして領地を没収改易とされて(滋賀県)彦根藩の江戸屋敷に預けとなったが、そののち、(愛媛県)松山藩へお預けの命が下り、ここでの蟄居処分となった。ちなみに綱吉は、元禄十四年(1701)には、赤穂藩主・浅野内匠頭の即日切腹と言う判断もしている。

 一方で、高田藩を継いだはずの松平綱国(万徳丸)も、(広島県)福山藩へ預けられ、しかも小栗美作とその子の大六は切腹、その親族と一派の者は流罪、大名家へお預け、追放などとなった。その上で首謀者の永見大蔵、荻田本繁は八丈島に、岡島壱岐、本多七左衛門は三宅島にそれぞれ島流しとなり、その他の者も大名家お預けとなった。この判決に対して永見大蔵派は、これは小栗美作が幕府大老へ贈賄したことによる片手落ちの判決であると憤り、両者の争いは更に激化していった。このような事態に絶望した高田藩士250名は自殺し、他の多くが他国へ流出したという。高田藩内は、混乱の極みに達していた。このような状況の中で、幕府側の行動は早かった。

 この高田藩改易にあたり、老中の大久保忠朝が総責任者とされ、同じく老中の稲葉正則 、堀田正俊の指示を受け、親族である(愛媛県)宇和島藩主 伊達宗利が事後処理の窓口とされた。なお宇和島藩は、伊達政宗の長庶子 伊達秀宗により立藩された藩である。天和元年(1681)六月二十八日、高田城受取の任命が富山藩主の前田正甫(まえだまさとし)に出された。正甫は受書を提出し、軍役人数4350人余りをもって富山を出発した。なおこの軍役高と扶持人数の関係は、在番大名の場合、一万石につき150人であったから、三春藩秋田輝季は役高三万五千石、525人となる。なおこの先、藩主名を併記すると内容が混乱するので、あえて藩名で統一する。

 高田藩領および高田城の接収には、富山藩といまの新潟県の村上藩と長岡藩が選ばれた。幕府からの上意伝達の上使としては、大和郡山藩(奈良県)と幕府奏者番が、また城受け取り目付として、幕府使番の2名と勘定奉行の1名更に大目付1名が派遣された。彼らは出発前から緊密に連絡を取り、動員する人数の確認や、各人員らの一斉出立により道中が混雑しないように時期をずらしつつ、高田城郊外のある地点に集結するなど細かな打ち合わせを行った。このように高田城受取りが通常の改易と違って厳重かつ大人数になったのは、高田藩の石高の大きさや松平光長の徳川親藩としての格式を考慮した結果とされる。

 各藩の役人たちは、天和元年七月二十四日までに高田郊外に集結、上使の松平直之の下で七月二十六日、高田城は接収された。支城の糸魚川城も、村松藩(新潟県五泉市)と目付の岩瀬氏勝により接収され、翌七月二十八日には破却されている。八月四日、高田での火事の際の消防活動は、在番の松本藩(長野県)と新発田藩(新潟県)に命じられた。八月十日、この在番二藩以外の藩は、江戸への帰途についた。前述の三春町史によれば、何月かは不明であるが、この年に、高田藩小栗美作の兄の本多不伯を三春城下に預けられている。三春藩が次の高田在番になることが、示唆されていたのであろうか・

 三春歴史民俗資料館より教示された相馬藩世紀、および同館より提供された『佐藤宏之氏による秋田家の高田在番に関する資料』によれば、天和二年(1682)一月十九日 中村藩(相馬市)は高田城在番を命じられた。そこで二月十四日、中村藩は相番となる三春藩に使者を送り、二十二日には三春藩の使者が中村藩へ赴いた。また中村藩は家中の者に、江戸から越後までと高田から江戸までへの道中検分、更には佐野街道を経て中村までの道中検分を申しつけている。中村藩は四月三日に江戸に入り、参勤のお礼を済ませた。二十三日には老中 戸田忠政へ、相番の三春藩と同道で高田へ出立の日限を伺い、その出発日は中村藩が五月十日、三春藩が翌十一日と決定されるとともに、両藩は高田城在番の起請文を提出した。

 四月九日の朝、三春藩は中村藩の目付と面会をし、高田の様子を確認のための伝言及び書面を受け取った。それによると、中村藩が担当する番所は、関町口、土橋、上田銀山、越中との出入口である市振関所であり、三春藩のそれは荒川口、陀羅尼口、馬出、材木蔵、塩木蔵、蝋點蔵、山屋敷、下越後街道の出入口である鉢崎関所とされた。また信州との出入口である関川関所は、15日交代で、中村藩、三春藩の相番と定められた。五月二日、中村藩家臣が江戸より高田へ向けて出発した。ところがその八日、中村藩主の相馬昌胤は病気のため江戸出発を延期したのである。

 五月十日、高田での扶持給付に関する事柄についての書状一通が、三春藩より中村藩へ遣わされたという記述がある。これは三春藩が受け取って、中村藩へ渡したということなのであろうか。翌日、中村藩の相馬昌胤は病をおし、一日遅れで江戸を出発した。そして五月十七日、相馬昌胤が高田に到着したその翌日、後を追うかのように、三春藩の秋田輝季が高田に到着した。その昼過ぎに相馬昌胤が秋田輝季を訪問、先任の松本藩と新発田藩との在番交代が決められた。

 五月十九日  相馬昌胤と秋田輝季が同道して高田城へ入り、本丸と二の丸を受け取った。その二十一日には三春藩の人数が行列をもって大手より入り、三の丸の交代が済んだ。この三の丸の引き渡しが済んだのち、本丸・二の丸が中村藩に引き渡された。在番の交代についても、任命と同様、老中奉書により命じられていた。

 貞享元年(1684)正月二十八日、高田城にいた中村藩主相馬昌胤および三春藩主秋田輝季宛に、老中奉書が届いた。この在番は一年交代であるため、翌貞享二年には後任大名ヘの引き継ぎがはじまることになっていた。そこには、中村藩に代わって棚倉藩(福島県)が、また三春藩に代わって亀田藩(秋田県由利本荘市)が申し付けられたことが記されていた。これにより棚倉藩は中村藩へ、また亀田藩からは三春藩へ飛脚が派遣されている。そして二月二十七日には、家老1人と他に3〜4人、その他に双方が受け取る城外・遠所の番所、在番中の逗留場所が記された『覚書』が、中村藩・三春藩からそれぞれに出された。それによると、棚倉藩は対面所、亀田藩は安藤次左衞門屋敷へ逗留するように申付けられ、また同日、中村藩から棚倉藩へ詳細な『覚』が出され、三春藩からも同様な『覚』が亀田藩へ渡された。その『覚』は、詳細なものであった。煩雑さを顧みずに記すと、次のようなものであった。

 『三春藩から亀田藩が受け取る城内外の番所とその人数は、追手門に物頭3人・札改歩行士2人・足軽25人・小頭2人・長柄者10人、それに鉄砲20挺・弓10張・長柄10本、作事門には給人3人・足軽10人、千人夫小屋には足軽4人、源松院屋敷には足軽4人、南門には物頭3人・長柄者10人・札改歩行士2人・足軽15人・小頭2人・長柄者10人、喰違門には給人2人・足軽5人・中間2人、塩硝蔵には物頭3人・足軽10人・小頭1人・長柄者5人、それに鉄砲10挺・弓5張・長柄10本、鍾馗門には足軽4人・中間2人、城米蔵には給人3人・足軽10人、小頭1人、長柄者5人、狐口門には歩行士2人・足軽4人・、中間2人、それと鉄砲2挺、材木蔵には足軽4人、蝋點蔵には足軽2人、出丸塩木蔵には足軽2人・中間2人、それと長柄2本、荒川口には足軽4人・中間2人、陀羅尼口には足軽4人・中間2人、山屋敷には給人2人・歩行士2人・足軽6人・中間4人・それに鑓3本と鉄砲2挺、鉢崎には歩行士2人・足軽2人、関川には給人4人・足軽8人・長柄者7人と鉄砲5挺と鑓5本、廻場には物頭3人・歩行士4人・足軽長柄16人、馬出木戸口には足軽4人であった。そして亀田藩は、六百人扶持であった。

 五月十七日には亀田藩が、十八日には棚倉藩が高田へ到着し、十九日、高田城本丸において、在番交代の老中奉書が中村藩と三春藩に渡された。二十一日、三の丸は三春藩と亀田藩の間で、本丸は中村藩と棚倉藩の間で引き継がれた。これにより、三春藩と中村藩が高田を後にした。その二十七日、中村藩は江戸へ到着、すぐ老中へ報告をし。閏五月五日には将軍綱吉に対して参府の御礼を済ませた。そして六月二十三日、国元の中村へ赴く暇を将軍綱吉より与えられ、六月二十五日には 相馬中村へ出発した。資料が乏しいため三春藩の行動が見えてこないが、おそらく同じような動きをしていたと思われる。

 ところで高田騒動の中心人物、小栗美作と大六は切腹、対立していた荻田主馬らは八丈島へ流罪となった。高田藩主の松平光長は家中の監督不行き届きで改易、松山藩お預かりという厳しい処分が決まったが後に罪を許され、復位復官して合力米三万俵の俸禄が与えられた。しかし世継の綱国とは不和となり、病弱を理由に廃嫡した。しかし小栗派旧臣らによる御家再興運動の結果、越前松平家一門の松平直矩(なおのり)の子宣富(のぶとみ)を光長の養子とした。元禄十年(1697)、光長は隠居したが、翌年に宣富は津山藩(岡山県津山市)十万石に封じられ、減封・加増などの浮沈があったが、津山藩主松平家として幕末まで存続した。

 いずれにしても参考にした文書は、高田藩史や相馬藩世紀、『白峰旬氏の論文、天和元年の越後国高田純次受け取りについて』、それに『佐藤宏之氏による秋田家の高田在番に関する資料』にすぎない。しかしそこから確認できたのは高田騒動の詳細であり相馬藩の内情であった。三春藩の記述は、全く少ないのである。ただ三春藩もこれらの資料により、相馬藩とほぼ同じ行動をとっていたと考えられる。しかし残念ながら、高田騒動についての三春藩の動静が、三春に残されていない。

 三春藩が預かっていたことで気になっていた本多不伯の動静であるが、三春歴史民俗資料館の調査により、天和元年(1681)七月に三春に着き、元禄十年(1697)六月十六日死去ということが分かった。幕府の検使御徒目付の田辺九兵衛と都築半兵衛により、紫雲寺へ葬られたのであるが、この間、約十六年、三春にいたことになる。いずれにしても、三春藩が高田騒動に関して相当の役を担ったことは、間違いのない事実である。なお三春歴史民俗資料館の平田禎文氏は、次の書籍を参考にされたという。

  2007 史学論叢書第37号〜天和元年の越後高田城受け取り
       について 別府大学
  2009 近世大名の権力編成と家意識 佐藤宏之 吉川弘文館

 ただ不思議なことは、新津図書館で調べた次の書籍に、高田騒動の城代時代の詳細が載っていないことである。
  2008 シリーズ藩物語 高田藩  村山和夫   現代書館
  2004 上越市史 通史4 近世2 上越市史編纂委員会
                         東京法令出版
  1914 高田市史         高田市教育会  秀英舎
  2015 藩史大辞典3巻 木村礎 藤野保 村上直  雄山閣



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最終更新日  2018.01.16 09:43:52
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