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今日で、ブログを始めてからまる3年。今回で、とりあえずこのブログをいったん閉じようと思っています。ここ数日何を書こうかと思いながら、怒り、悲しみ、と思うことをつづり、最期はやっぱり感謝で終わろうかな、ということで、よろこび、そして感謝のタイトルとなりました。喜びの感情は、いろいろな動物にもあるのだと思いますが、感謝となると人独特の感情!なのかもしれませんね。怒って気分を害されることはあっても、感謝をして気持ちを害されることはあまりないと思います。(複雑な感情が入り乱れていると、たまに感謝を違う意味で取られることもあるかもしれませんが・・・)そして、ありがとうと言う言葉は、日頃言っていると自然に出てくるようになりますが、あまり言わない人が言おうと思うと、案外出にくい言葉であったりもしますね。神経生理学的?に言うと、言葉を発しようと思えば筋肉から動くわけですから、その筋肉が感謝したときに言う言葉と表情、気持ちを覚えていないと簡単には動いてくれません。バク転をすぐできるのか?と言う話とそんなに大差ないのですね。だから、言葉一つ、気持ち一つから日頃どういう思いで生きているか、というその人の全てがにじみ出てくるのだと思います。言葉で出たとしても、気持ちが伴っているか?というのは、人は本能的に察することができるので、気持ちを感じれる言葉を日頃から出している人間ほど、魅力的なのだということが言えるのです。ブログでは、言葉の音や人の表情が見えてこないので、言葉一つにどのくらいの力があるかというのは、表面上では分からないのかもしれません。でも、そんな言葉にでさえ、人は感じる力を持ち、魅力的な文章には惹きつけられます。そんなことを考えていると、人の持つ本来の魅力をもっともっと感じたいな、と思いますし、このブログの存在のありがたみを今更ながら感じているところです。書く場所を提供してくださった、楽天のスタッフの皆様、読んでくださった皆様、懇意にしてくださった方々には、本当に感謝!の気持ちでいっぱいです。また復活しようと思いますが、しばらくは、自分が書きたいことを少し整理してみたいと思っています。最期になりますが、読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
2007年02月18日
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昨日の日記で書いたのですが、怒るって感情はけっこう表に簡単に出てきたりします。だんだん出てくるときもあるし、突然の時もあります。「きれてないよー」というギャグ?がありますが、わかっていて怒っていないというときもあれば、怒っているのにそれに気がつかないときなんかもあって、無意識の感情みたいなところもありますね。それに比べると、悲しいとか泣くということって、頻度がだんだん減ってきたりとかしますね。悲しいなと感じることはけっこうあるかもしれませんが、泣くところまでくることって、大人になるとどうでしょう・・・ここ数年泣いてないとか、人によっては泣いた?いつかわからんなんてこともあったりするのかもしれません。とくに悲しくて泣くというのは、人前ではちょっとはずかしかったりもして・・・泣くは泣くでも、感動で泣く、の方はけっこうあったりしますか?私も、感動でなくということは、ごく最近ありました。あと、共感泣き?みたいなのもありますね。言葉で説明できるほど、感情って簡単でないのかもしれませんが・・・。悲しくて泣いた、というのは5年くらいないかもしれません。怒りの場合は怒りきれない時もあるのかもしれませんが、泣くの場合は、泣きはらすなんて言葉があるように、泣くとそのあとはなぜかすっきりしていたりします。より人らしい感情であるから、心が洗われるのかもしれません。いろんなものを見て感じて、人に出会って感動して、感情が豊かな人間でありたいなと思う、今日この頃です。
2007年02月17日
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皆さんが怒りたい時ってどんなときですか?誰かに文句を言われた?誰かに陰口叩かれた?誰かにけちをつけられた?誰かに不条理なことを言われた?誰かに嫌みを言われた?誰かに中傷された?そして、その怒りはどうやって出しますか?それともひっこめますか?ぐつぐつ煮込みますか?すぐだすなら・・・・・言い返す?同じ事をやり返す?ひっこめるなら・・・・上手く気分転換して、蒸発させてしまう?煮込むなら・・・・・どのくらい?どんなふうに?そしてその感情を出した後はどんな気分になります?すかっと爽快?まだ怒ってる?ちょっと後悔する?そして、そんな怒りを出すたびに?あれ?こんなこと前にもあったな?とか、また同じ事で怒ってる、とか自分の行動に気がついたりしますか?それとも、怒ったら怒りっぱなしとか・・・1つの感情で、いろんな進み方があるけれど、自分は本当はどうしたいのだろう?って思ったりすると、ちょっと恥ずかしくなったりすることが私はあります。それは、同じ怒り方をしている人を見て、自分と同じだと気がついたとき。自分ほど感情を出しているときに、自分を知らない人はいないな、って思います。
2007年02月16日
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楽天のブログを紹介してもらって初めて書いたのが、3年前の2月18日。最初は、どんなこと書いたらいいのだろう?と自分の思考能力の低さに驚きながら、それでも欠かすことなく毎日書いてきました。そしてあっという間に1年が過ぎ、そして2年が過ぎ、もう3年が目の前に迫ってきました。ここしばらく、昔書いた日記をずっと見ていたのですが、それなりにその時の自分の動向や状態がわかる感じがします。時にはなつかしく、そして時には恥ずかしくもあったりします。3年といえば、中学校や高校もちょうど3年間。最初の1年は、いろんなことが新しく、いろいろなことを教えてもらいながらあっという間に過ぎる1年。そして2年目は、後輩が入ってきて、教える反面上には先輩がいるというなんだか中途半端な境遇。何をするにも気が入らない2年。そして最後の3年は、全ての出来事が最後だから、いろんなことに熱中し、気合いが入る。そして、そんなイベントが終わる頃、受験という新たな入り口に入り、一皮むけて?新たな旅立ちを迎えます。自分の日記も3年、そろそろ卒業するときがやってきました。学校みたいにイベントはないけれど、毎日の日記が大切な財産であることには変わりはありません。これを整理して、もう一度自分の中で消化してみようかな、と思っています。
2007年02月15日
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今年もまた、この時期がやってきました。少し前からその関係の店舗の彩りが変わり、ふと見れば、大きい袋に山ほど買っている人なんかも見受けました。何人かで相談している姿や、同じものをたくさん買っている姿を見ていると、俗に言う○○チョコなんだなーなんて思いつつ最近は少しそのイベントへの意識が変わりつつある、という話なんかも聞いたりします。実際に、テレビで意識調査なんかをすると、半数以上が○○チョコに困惑していると解答していました。それでも職場によっては、しきたりに反対するものは冷たくされる現状があったり、不当な扱いを受けるような所もあるようです。チョコ1つで・・・大人げないなんて正直思います。私自身が、そういうところで働いていないので、その職場が抱える事情でやむを得ず・・・なんてことがあるのかもしれません。聞くところによると、ある職場では、○○チョコに使うお金を寄付に回したり、と意識の改革が行われているところもあると聞きます。そんな風にして寄付のお金が増えると、日本に対する諸外国の見方も変わったりするのかもしれません。まとまったお金は上納していますが、民間レベルでの寄付のレベルは、アメリカの比ではないですもんね。結局、コミュニケーションツールの1つとして扱われている気もします。まだまだ続きそうですが、みなさんは正直このイベント・・・正直ない方がいいなんて思ってたりして・・・
2007年02月14日
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もう2月も中旬にさしかかり、こどもたちもそれぞれお別れの時期を迎えているところです。卒業するこどもたちに思いを持っているこどもたちは、さぞこの別れがつらくそして悲しいものになるのでしょうか・・(逆の人もいると思いますが・・・)そしてこの時期は、ある意味型が外れて、ちょっと気分が高揚してしまう時期でもあります。新しいものが生まれるときは、かならずエネルギーが爆発するのと同じ事なのでしょうか。そしてその気分をまるで助長するかのように、春風が吹き、梅から桜が満開となり、温かくなり、そして歌やファッションなどなどの人間文化が、そこに彩りを添えていきます。春独特の気分ってありませんか?「ない」と言われると、はいそうですか、で終わってしまうのですが、普通だとエネルギーを冬の間に貯めているはずなので、何とも言えないがんばるぞ感?が噴出し始めるのがこの時期のはずなのです。(まだ少し早いかな?3月始め頃だと思いますが)正直人間には、四季の寒暖が狂ってしまっている現状があるので、そのお陰で万年変わらず、という平凡な状態に陥ってしまっている人がいるのは事実だと思います。これがあると夏を乗り切れるのですが、これがないと、夏にどうしてもエネルギーを出し切れず、出し切らず入らず、という不完全燃焼状態が起こってしまいます。ガスの不完全燃焼が、今問題になっているのを見ていて、なんだか人とかぶってるなーなんて思ってしまいました。新聞の広告で、床暖房なんて装置がでているのを見ると、年中冬ごもりをしている熊を連想してしまうのです・・・暑くてお寒いのがお好き、でいたいなと思っています。
2007年02月13日
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この番組、見た人多いでしょうか・・・世界初 人間関係力テストある意味では、自分がどのくらいなのか、という指標を持てる、というひともいるかもしれません。また、自分のいろんな場面での状態をみる良い機会だ、と言う人もいるかもしれません。私自身も見ようかな?なんて思いつつ他のことをしていて、結局最後の10分くらい見ていたのですが、いろんな職種の人達でどんな風になるのかを見て、ランキング形式で出していく感じになっていました。テレビに出ていたランキングでは、東大生、看護士、グラビアアイドル、教師、ホストなどが上位を占めていて、また個人的に上位になった人には、感想なんかも聞いていました。ところで、どんなことでもランキングをつけてしまう、ということには正直抵抗を感じてしまいます。実際、人間関係の適正はあって、職業別にある程度の傾向はあるのかもしれないけれど、それは専門性のあるところで良い方向で使ってもらって、一般的な人の前に出てくるものではないような気がします。人の良さを決めるものではない、ということなのだと思いますが、ある程度のものさしがあって、ある程度の人の方向性があって、客観性があるにしろなんだかの色つけがあるからこそ、こういう事が可能になるのだから、それを鵜呑みにしたばかりに、人の本当の可能性なんかがものさしで計られてしまう傾向がますます進みそうな気がします。人のタイプでは、こうやってハッキリする方がいいという人と、いろんな人がいていいじゃないかという人が半々いるようになっているのですが、こうして社会が論理思考中心になっていくと、こどもが生きにくくなるなーと感じています。
2007年02月12日
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昔からあっても外に出てきていなかっただけなのか?大企業の不祥事や、とくに食品や生活関連商品の人的不備が、新聞にどんどんでてきています。人の手を借りず、オートメーション化がされている昨今ですが、それでも人がしないとできないことがありますよね。ところが、人間の場合は、機械のようにはいきませんから、その日の感情や状態で微妙に変化してしまったりします。そんな小さいミスを各部署が隠していると、大きい企業であればあるほど、見つかったときには大事になっています。それは、人の嘘の上塗りをして、それが何十にも重なっていくから、まだ小さいときに見つからないのですね。人の心は、信用したといったところで、生命に関わることなどになってくると、命を優先しますし、ころころ動くから人は面白い存在なのだと思います。ただ、それをしていては、今の社会ではどうしようもないのです。今の社会が問題なのか?
2007年02月11日
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今日は授業参観をしてきました。普通は学校の中に入れないのですが、特別に入れてもらっての参観です。それも、中学生の生活を体験するという小学校の体験入学の授業風景。もちろん教科は英語です。小学校で導入されていると言っても、やはり珍しいようでみんなわくわくした様子で、授業に臨んでいます。わくわくしているのか、みんな隣近所と話していて、とってもざわついた様子で授業が始まりました。良い意味で考えると、わいわいにぎやかな感じですが、周りの人はそれをどう見たでしょうか?伝言ゲームや、自己紹介などをしているときにも、常にざわざわ・・・初めは黙っていた外国人の先生も、次第に注意をするようになり、そしてそのお陰で授業が止まるようになってきました。後ろでは、保護者の方が見ていましたが、にこにこしています。これが普通だと思ったのでしょうか?あとで授業者の方に聞いてみると、小学校だとこんな感じで授業が進んでいるのでは?と半分批判じみた感じのコメントをいただきました。外国人の先生は、いいんじゃない、と言ってましたが、これを中止したら、今度は黙って何も言わなくなるから・・・と付け加えていました。授業一つでも、微妙なバランスで成り立っているものなのかな?と帰り際に考えてしまいました。
2007年02月10日
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全く人と話さない日ってあったりしますか?核家族化が進み、一人暮らしの人の為にこれだけワンルームが増えると、一日家にいてPCをしたりゲームをして過ごしているなんてこともあるのかもしれません。そんな状態だと、人と話すということから遠ざかってしまって、いつしか人と話すことがおっくうになってしまうのかもしれません。そんな感じで過ごしている人が、たまに人と話すとだんだん疲れてしまって、余計に人と話したくなくなるなんてことになると、それこそ悪循環です。話すにはやはり頭も使うし、エネルギーもたくさん使いますから、普段話していないと余計につかれちゃうというのもわかる気がします。話す人によっては、静かに話せる人もいれば、機関銃のごとく話す人もいますから、その相性によっては会話ではなく、ただ聞いているだけ、なんてこともあるのだと思います。キャッチボールのように会話をしたい人が、一方的に相手の言いたいことだけを聞いているというのは、ストレスがたまるのだろうと思います。そういう生活をしている人が、実際に相性の合わない人と話して、みるみる顔が曇っていくのを間近に見ながら、そんなことを思っていました。話すこともエネルギーの交流ですから、悪意のある話し方だと、気分を害するだろうし、疲れるのですね。
2007年02月09日
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1秒間に世界で牛が3頭、豚が7頭食べられています・・・といった感じで、私たちが知らないところで起こっていること、というのがテレビ番組で放送されていました。ちなみに鶏は、1秒で1100羽だとか。こんなこともつゆ知らずに、私たちは自分の嗜好の赴くままに、食事をしています。最近日本人の間でも、1つの食文化になっているハンバーガーは、1秒間に500個だそうです。数を聞いていると、一瞬そんなもんか?と思ってしまいますが、1秒間ですから、これを1分、1時間として1日まで数えていくと、その膨大さにびっくりしてしまいます。ちなみに今出てきた一番少ない数字である牛の数を1日で考えてみると、20数万頭になります。たった一日なのです。多さで驚くものもありますが、増えていくものがあれば減っていくものもあります。使っているわけですから、どこかで何かが減っているわけです。とくに大問題だと言われているのが、地球の温暖化にかかわる森林の伐採の問題。アフリカ大陸の横に、ほくろのようについているけれど、世界で4番目に大きいマダガスカル島では、島全体の森林が15パーセントにまで減ってしまっているそうです。まだまだ人に関わる!!!問題がたくさん出ていましたが、ここであまりに大きい問題であるけれど、1人1人において考えてみましょう。すると、大問題が薄まってしまうのです。そして、その結果が便利社会を生み、ますますその薄さを際だたせてしまうのです。1人くらい・・・なんて安易に考えてしまいがち。1人から始められることを、実践しようと思います。
2007年02月08日
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自分の中を基準にすると、自分が最高でなんの疑問もなく毎日を過ごせるのかもしれませんが、周りには違う人がいて、生まれてしばらくすると、限りなく続く人との出会いが始まります。そして、自分と人との違いがわかるようになってくると、ある時は自分の方が走るのが早い、と優越感に浸り、ある時は絵が下手な自分に落ち込んだりします。あの人みたいに温厚な性格だったらなーとか、前向きに生きれたらいいな、とか人と比べることである意味無限大に人の欲望?は拡がっていきます。自分という存在は、そうやって人と比べるということで認識できるのかもしれませんが、そこでその世界ばかり見てしまうと、別の世界を見失ってしまいます。とっても美しくなれていて、周りも美しいと認めているのに、なんだかまだ美しさが足りないともがいていたり、誰よりもトレーニングをしていて自信があるはずなのに、なぜだか不安だけが襲ってきたり、自分の努力が報われない苦しみを感じてしまう事って、過去に経験している人がいるかもしれません。積み重ねることはとても大切なのだけれども、そこで脳がちょっとした勘違いをすることがあります。人それぞれなのですけど、積み重ねすぎて、自分の中で整理できなくなっている場合があるのです。私もどちらかと言えばそのたぐいの人間で、大切だと思ってとってばかりいると、あとでそれが邪魔になって前に進めなくなるのですね。それは、ものでも心でも同じで、それに気がついてからちょっとだけ捨て上手になりました。かつての仕事の同僚は、面白いくらい捨てるのが上手くて、当時はその行動に疑問すら持っていたのですが、とても優秀な方でした。捨てると言う言い方よりは、整理するといったほうがいいでしょうか?身動きがとれなくなる前に気がついて、上手く整理できる自分でありたいなと思いました。
2007年02月07日
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阿部総理になってから、あっという間(そうではないのかもしれませんが)に教育についてメスが入り、教員の免許制や教育委員会のあり方などが見直されています。そして、こどもに直接関わる部分についても、改革?が実施されようとしています。その中に、体罰についての記述があります。詳しくはこちら文科省 体罰範囲を明示実際に、これを読んだ感想を現役の先生に聞いてみました。するとあきれた感じで、「これで何が変わったのかな?」と一言。文言は書いてあるけれど、実際学校で起こっていることと、開きがある感じがしました。こんなことくらいなら、今でもやっているよ!という感覚にもとれるし、これで何かが変わるの?という訴えにも聞こえました。実際、教室に携帯電話を持ってきていて、通話をしていると預かる、なんてことが記事に書かれていますが、この文章は私自身が読んで、おかしいと思いました。学校に携帯が必要なのでしょうか?緊急の場合ということだとしても、昔から学校で対応できていたはずです。仮に100歩譲って携帯を持っていいとしたとしましょう。こどもに使うな、というのは余計にストレスをためさせそうです。それで言うことを聞かないから立たせたら、体罰だ!となって場合によっては訴えられたりもするのだとか。それ以前に、こんな細かいことを国が決めているのも?????です。私たちが、いかに約束を守らない人間かを証明するかのようです。もっと違うところで、議論ができないものか?と思いました。
2007年02月06日
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仕事場の責任者が、事前に打ち合わせをしたはずのことを、ある時打ち消して、そんなことは決まっていない、と言うことがありました。その場はあれ?そうだったっけ?と思いつつ最初からやり直しをしました。そんなことが少し前にあり、その後はそういった機会もなく、時は過ぎていきました。そして今日仕事場に行くと、いきなり呼ばれて以前と同じようなことをまた言われました。確認していたはずのことを、確認していないと怒っているのです。その場は、また?と思いつつ上手く過ごして、あまりにおかしいので、知っている別の人に聞いてみました、すると、私が覚えていたことが正しかったということがわかりました。そして、その時に思わず???となったことがあります。それは、その人も私と同じような事を何度もその人から経験している、というのです。そのたびにイライラするけれど、責任者だし上手くやらないと・・・と我慢されていたそうです。それから、その人が「これってひょっとしてアルツハイマーみたいな症状じゃないか?」と言いました。別々の人間が、同じ経験をしていても、頻度が少なかったら気がつかないけれど、全員の文を出していくと、ひょっとしたらかなりの頻度でそういうことが起こっているということになるのです。こればっかりは、周りにいる人間が気がつくことが大事なことです。今のところばりばり働いているので、そんなに会わないし、目立たないのかもしれないけれど、退職が1つの契機となってくる気もします。今更ですが、常にいろいろな可能性を持って、人の動きに気がつくことができると、今日のことを含めた様々な病気の早期発見につながるのかも?と思いました。そうすると知っておくことが、大事なことなので、早速いろいろと見てみることにしました。
2007年02月05日
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服のコーディネートが上手いと、見ていてもかっこいいなーって思いながら、その為に時間をかける気はしません。いろんな海外の景色を見ていて、きれいだなーとか、行ってみたいなーと思いながら、実際の行動にはいたりません。テレビでいろいろなグルメ番組が放送されていて、おいしそうだから行ってみたいな、と思いつつそのまま忘れてしまいます。ところが、あるところまでやってもらうと、きっと上に書いたことは全て実行しているような気がします。例えば、服のコーディネートだったら、それが上手い人が一回見に行こう!って誘ってくれたら、時間があればいくかもしれません。1つの条件ではないにしても、なにか複数の条件をクリアすれば、自分が思っていることが全てできるのかもしれないなって思います。心でもそれは同じ気がします。いろんな人がいて、それぞれ思っていることがあるけれど、そのままで会議をしていても、お互いの思惑が上手く噛み合わない。そして、結局本当は良い結果が出せたかもしれない会議であっても、没で終わってしまうのです。そこに、それぞれの思惑を、上手く引き出して、それを整理してから上手にみんなの思惑が入るようにまとめる人がいたら、会議は全く別の方向へ向かいます。最近は1つ1つの主張が強くなってきたので、このコーディネート力はとても人にとって必要なものであると思います。そう思いつつ、なかなかこれって難しいんです。まず自分のコーディネートができないとだめなんですよね。心のコーディネート・・・
2007年02月04日
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私自身の世間知らずで、日本に元々ある風習ってあまり知らないのが正直なところですが、節分だけはなぜか思いだし、毎年のようにやっています。1人でやるときは、どこかへ出かけていって???勝手に鬼は外~なんてやったりしたこともありました。(変な行動ですが)かつて学校に通っていた頃も、確か節分にはまめが給食についてきて、それをとっておいて昼休みに投げ合いをした思い出があります。勢い余って入ってきた先生に当たりそうになって、それが生徒指導の先生だったりして・・・なんてこともありました。今はどうなんでしょうか??ところで、鬼というとどんなものをイメージするでしょうか?何もなくて勝手なイメージだとたくさんのアイデアが出てきそうですが、2本の角に色つきの鬼パンツなんてことが、ふと出てしまいます。実体の映像はそうであっても、実際の鬼の性格なんてどうでしょう?まあ、普通は怖いとかでしょうか?いろいろな意図があって作られた鬼であると思うのですが、自由に発想するとこれもまたおもしろいのかもしれませんね。怖いと自分を守ろうとするので、自分が守るべきものを見つめる、という儀式であったりするのかもしれません。そうなると、人によって守りたいものが違いますね。また、季節を迎える儀式であったりもしたそうですし、大晦日にやっていた、なんて時代もあったそうなので、受け止め方によっていろいろな節目に使えるから節分なんて名前だったりして・・・ついでに、昔はまめではなく、ちまきだったそうですね・・・
2007年02月03日
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普段使っている言葉の中で、自分がなかなか言えない言葉ってあったりします。ここで書くのもなんか変ですが・・・「愛してる」「好きだよ」なんて言葉を、思っている人に言うのって、勇気がいるから特別なときにがんばって告白?するのですね。欧米のように(最近は日本でもどんどん言ってしまう人もいるみたいだけど)日常的に言葉で表現できるってすごいです。愛情表現ってでも、人からされると心にずしっとくるし、それだけで元気になれるから、行動もそうだけれど、一言が大事ですよね。同じように照れくさいけど、言えると気持ちのいい言葉ってけっこうありますよね。例えば、誰かになんかをしてもらったときとか、感謝の気持ちを伝えたいときに・・・「ありがとう」って言えることって気持ちがいいと思うし、それがどんな状態でも出てくることが理想的な感じがします。(感謝の気持ちを伝えたいのに、なかなかそれが言えない経験って、ありませんか?)もう一つ、これもなかなか言えない言葉かも・・・それは、「ごめんなさい」自分が悪くても、心の中で勝手に相手が悪いことにして、自分をどうしても正当化してしまう自分があるときがあります。そんなときも、ごめんなさいって言えたら、そんな面倒な作業なんかしなくても、自分の非を詫びることができます。自分のことを相手を交えて考えると、とってもややこしい話になるのですね。一言だけど、重みのある一言だったりしますね。
2007年02月02日
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柳沢大臣のこの発言に、様々なところから批判が噴出して、ようやく内閣内部や自民党においてもどう収めようか、と本腰を上げるのかな?どうかな?といった感じですね。先日の国会での、辻元議員の追求の生中継を見ていたのですが、その時はなんだかヤジなんかも出ていて、見ていて変な感じでした。発言は、その人の人間性そのものが出ますから、うっかりというのは、大臣においてはあってはならないと思うし、そういう人を批判をして追求をしなければ、国民性は変わらないのかもしれません。面白いことに、この発言をしたことで、閣僚を含む行政の一部(ほとんど?どっちだろう・・・)に、こんな考えがあるということがハッキリしたとも言えます。それはどういうことかというと・・・単なる数字で物事を判断しているということです。だから、機械だなんて発想が生まれてくるんですね。確かに統計を取るということは、いろんな傾向を知る上で大事なことだと思います。ところが、それを中心に物事を考えると、残念ながら今の行政の数値主義が見えてくるのです。そして、それによって予算がついてくるわけですから、人間に関わるソフトな問題に対しては、予算がつきにくいということにもなります。このことは、福祉施設で働いている方はよくご存知だと思います。素人が・・・と言われればそれまでですが、数値で出るところは予算がつけやすく、数値で出にくい所は予算がつけにくい、ということをものと人で考えれば、どちらが出やすくどちらが出にくいか分かると思います。そういう発想から始まる社会だと、人間はなかなか生きにくく感じて当然だと思います。
2007年02月01日
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今日は、日中の気温がかなり上がるらしいのですが、1月の終わりのこの寒い時にも、かすかな季節の移り変わりを感じるものがあります。自然のもので言うと梅。毎日忙しい仕事をしていたりしても、ふと木々に目をやると、そこにはゆっくりとした時間の移り変わりがあります。桜はとっても華やかで、季節を感じることができますが、どちらかというと私は梅の感じがスキです。寒い中でも、敏感に芽を出す時期を待っていて、派手ではなく地味だけれど洗練されている感じがします。そして、もう一つ私が季節を感じる場所があります。それは学校。春に行われる様々な儀式に飾られる、色とりどりのお花があるのですが、そのお花が学校の花壇などに見られるのがこの時期なのです。これは意識して見たりしているので、それを見ると、あー今年も出会いと別れの時期なんだな・・・と思います。この多感な時期の出会いや別れって、時を経てもいい思い出として残りますよね。それを彩るお花にも、きっと様々な思いが宿るのです。そんな営みがされているかたわらで、受験生は毎日遅くまでがんばっています。休日に学生服を見る度に、そんな学生たちの心情を共感し、思わずエールを送りたくなってしまいます。そんな風にして季節を感じれる時って、みなさんにとってはどんなときなのでしょう?どの季節感が印象に残っていますか?
2007年01月31日
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学校の先生と話をしていると、とにかく仕事が忙しいという言葉が必ず出てきます。こどもたちがいるときは、やることが決まっていると思うので、あとの時間で自分の持っている仕事をするということになるのですが、勤務時間からこどもたちのいる時間を引くと、なんと1時間もないのです。単純にこの時間だけで仕事が終わると言うことは考えにくいので、毎日残業をするのは必至ということですね。その時間で、それでは何をしているのか?ということなのですが、聞いているだけで授業の準備、割り当てられた学校の仕事、施設の整備など多岐にわたっています。それから、こどもに何かあったときには生徒指導もあり、部活動があるところは部活動が終わったら、その時間がすでに6時とか7時なのだそうです。こんな状況で、先生の心はどうなっていくのだろう?と単純に思います。専門職といえども人間ですから、当然いやだなと思えばからだその症状が出てくるわけです。こどもたちは、そのことを敏感に感じますから、そんな雰囲気が学校に蔓延し出すと、形として次第に出てくるのだろうと思います。ところが、先生たちが毎日接した努力に対して、こどもたちが成長したな、と周囲が感じるのは、こどもたちが悪いと周囲が感じることよりはるかに感じにくいことなのです。それを補正していたのが、親たちの先生への思いなのだと思います。何かあって先生のことを家で言ったとしても、それを親が援護したのです。いろんな思いが流れますが、それぞれが上手く流すことが、誰にとっても一番最適で、今はそれができていないので、どんづまりのどろどろ・・・かも。
2007年01月30日
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からだが目新しいものに巡り会ったのか?あるものを食べてからしばらくすると、からだがだんだんだるくなり、気持ち悪くなってきました。自分で気がついてはいたのですが、お腹が減っていたのでまあいいか、と気軽に食べていた揚げ物がおそらくその原因。その内元に戻るかな?と思いきやだんだん症状は悪化してきて、晩ご飯どころではなくなってきました。以前にもそんな経験があり、自分に合わないものか?食べ物自体が少し悪かったのか?その時も吐くということにはならないのですが、ずっとむかむかした状態が数日続いていました。それ以来その食べ物は食べられず、そして今回もおそらく食べられないだろうな・・・そんなことを思いながら、とにかく寝ようと思って寝たのはいいけれど、上を向いて寝るとなんだか気持ち悪いのが倍増。横向きで寝て様子を見ることにしました。その日は何度となく起きて、その都度その気持ち悪さと向かい合いながら、一夜を過ごしました。結局その状態は次の日も続き、まともにご飯も食べれませんでした。自分のからだが半断食を欲していたのかもしれません。頭よりからだが気がつくのが早いのではなくて、その逆だと理想的だな・・・と思いつつ、もう1日断食を続けようと思っています。
2007年01月29日
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3,4才の頃は、何を知るにも好奇心旺盛で、いろんなものを純粋に学ぼうとします。そして、小学生になり、なんだか勉強というものの壁にぶつかることが増えてきます。周りのプレッシャーを感じながら、それでも○○のためにこどもはがんばります。そして学ぶがいつしか学ばされる、勉強させられるという気持ちになり、勉強がいやになりしなくなります。中学生になると、それでも新鮮な気持ちで何かに期待はするものの、やはり勉強の壁にぶつかり、なんで勉強をしないと行けないのか?なんて毎日考えながら沸々とした日々を送ります。部活のようにやりがいのあるものを見つけると、それに打ち込んだりして生き甲斐を見つける人もいますが、最近はそんな人が果たしてどのくらいいるのでしょう・・・なのに・・・なぜだか15才になると、義務教育でもないのに高校に行くのです。勉強がいやでいやでしょうがないのに、高校受験をして高校にはいるのです。そして高い授業料を払って、登校しなくなり退学・・・・・だれが一番傷ついているのでしょう???そもそも、私たちがしている学習というのは、本当に意味のあることなのでしょうか?こんな疑問が出たこどもたちにとって、勉強をすることの意味はないのかもしれません。実際この社会に生きる限り、知識は必要だと思いますが、知識が乗る土台がなければその必要な知識すら身にならないのです。土台・・・いったいこれはなんなのでしょう?私は、土台とは愛とコミュニケーションだと思っています。
2007年01月28日
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人は生まれつき持っているものがあって、それぞれの役割をうまくこなすことで、社会全体が上手く回るようにかつてはできていたのだと思います。前に立って人を導く人、前に立つ人を補佐する人、文化を創る人、からだが強い人、コミュニケーションが上手い人、などなど段階や項目を挙げたらきりがありません・・・そして、上手くやっていくということが、それぞれの良さを知っていることで、上手に回っていたのかもしれません。かつて細々と暮らしていたほ乳類が、絶対的につよかった肉食は虫類より生き残ったのは、そう言う役目を引き継ぐことで、命を引き継いだのかもしれません。ところで、最近は思いやりのないこどもが多いなんて話が聞かれます。こどもが多いと言うことは、大人も多いのです。そして、強いと思ったらとことん弱いものを追い込んでいきます。これはその人が持っているスキではないかなと思うのですが・・・いろんな人にスキの幅があって、狭い人もいれば広い人もいる。そして、いろんな人がいるから、その都度人の輪ができます。広い人がいなければだんだんと殺伐とした世界になる。そして広い人を捜し求めます。そしてそこに一斉に流れ込みます。それがいじめをはじめとする現代の問題を起こしている一端のような気もします。スキ論でした。
2007年01月27日
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あんまり時間が合わなくて、見たいのに見れない番組。それが「オーラの泉」です。なぜその人がそう思い、感じているのだろうか、ということを、普通の人が見ることが出来ない所から見て、その事象を私たちに分かる言葉で説明してくれます。それは、科学で決して見ることの出来ない世界で、けれども人にその力がある、ということを示してくれる江原さんの存在は、とても心強くて、人の力の神秘に生きるエネルギーをもらっているようにも感じます。ところで、先日偶然とってあったビデオを見る機会が出来たので見ていると、そこで想像力についての話がされている部分がありました。そこで江原さんは「想像力のない人間になると、事件を起こしたり、ストーカーになったり、人のことを思いやれない行動をとることになる」とおっしゃっていました。先のことが見えないのだから、自分の思いがまるで全てのように錯覚してしまって、その思いに従って動くのは当然のことのようにも思えます。ところが、そこで想像力が働くと、これをしてしまうとどうなるのか?という様々な想像が働き、そのことによって行動を踏みとどめることが出来るというのです。では、想像力を働かせるには何が必要なのか?ということがでてきます。そこではっきり言えることは、体験、経験すること!なのです。その人が、そのことを想像できる体験や経験をどれだけしてきているか?ということにになるのです。そのことによって学習し整理されたものが、想像力を働かせることが出来る材料を多く持つことが出来るのです。テレビの中の疑似体験や、自分の中の勝手な想像とは全く違う、本物の体験です。勉強も経験の一つで、勉強をすればなんでもわかるのではなく、勉強という経験が、様々な他の経験と結びついて学習される中で、様々な物事を考える力がついてくるのです。家の中にずっといたら、そのことを得ることはできないのです。
2007年01月26日
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本日、いろんなメディアに教育再生会議の一次報告について記事が出ていました。ここしばらくの少子化でこどもが少なくなり、教育に関心が強い親が増えているのは事実だと思うのですが・・・なぜこんな風になってしまったのでしょう?学校、こども、地域、保護者のどこをとってみても、悪くなって良いと思っている人はいないはずで、何かの部分のずれが、社会の流れとともに入り組んで、こんなに複雑な問題を頻出してしまったのかもしれません。国がやろうとしていることに、みなさんで注目し、今は関係ない?と思っている人でも、将来支えてもらうであろうことは推定できるのです。是非話題にしてもらって、国に届く議論を展開していければ・・・と思っています。記事はこちら・・・ 安倍晋三首相は24日、首相官邸で開かれた教育再生会議(野依良治座長)の総会であいさつし「学校教育法など3法とも通常国会に改正案を提出する」と述べ、教育委員会制度を定めた地方教育行政法(地教行法)と教員免許の更新制を導入する教員免許法を合わせた教育3法の改正案を25日召集の通常国会に提出することを明言した。再生会議は24日、体罰の範囲を定めた法令・通知の今年度中の見直しなどを盛り込んだ第1次報告を決定、野依座長が首相に提出した。 第1次報告を受けて首相は総会後、記者団に「100点の案をまとめていただいた。これから法律にし、制度を改革し、現場で実行していく」と述べ、「国会で十分な議論をしたうえで成立を目指してもらいたい」と意欲を示した。 教育の目標や学校運営を定めた学校教育法の改正は、改正教育基本法に盛り込まれた「愛国心」表記をどう反映させるかが焦点。地教行法に関しては、教員人事権を都道府県教委から市町村教委に委譲させる案が浮上している。ただ、いずれも教育現場などに慎重論があり、取りまとめ難航が予想される。 第1次報告は「社会総がかりで教育再生を~公教育再生への第一歩」の題名で、(1)「ゆとり教育」の見直し(2)安心して学べる規律ある教室(3)教育委員会制度改革――など「七つの提言」と、早急な取り組みが必要な「四つの緊急対応」などで構成。緊急対応の中には、いじめなど反社会的行動をとる子どもへの「毅然(きぜん)たる対応」を取るため、教室外への退去などを禁じた体罰に関する法令・通知の今年度中の見直しも明記した。 また、教員免許の更新制を導入し、講習の修了認定を厳格に行うよう提唱。指導力が改善しない場合は地方公務員法などに基づく分限制度を活用し、教壇から排除する考えを盛り込んだ。授業時間の10%増やいじめる子への出席停止制度の活用も明記している。 再生会議は5月に第2次、12月に最終報告をまとめる。これとは別に、地教行法改正の焦点となる第三者機関による学校、教育委員会の外部評価導入について、2月下旬をめどに制度設計案を検討する。【渡辺創】 ■教育関連3法改正の主なポイント■・学校教育法=教育の目標への「愛国心」などの反映▽副校長や主幹ポストの新設・地方教育行政法=教育委員会への外部評価の導入▽人口5万人以下の市町村教委の統廃合▽教員人事権の市町村への委譲・教員免許法=更新制の導入▽厳格な修了認定の仕組み
2007年01月25日
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教育再生会議にて、第一次案が発表されました。大まかに7つの事柄について挙げられていて、その中に規範意識についてというものがありました。とくに家族を思いやる心というのが挙げられていて、それは昔(大家族の頃の家族のあり方?)のあり方を再認識しようというものです。ちなみに私自身が核家族の中で育ってきたので、昔の家族のあり方ということについては、感覚自体がありません。ただ友人宅を訪れると、そこにはおじいちゃん、おばあちゃんがいて、その兄弟が一緒に住んでいるという多世帯だったことは覚えていて、なんだかうらやましいと感じていたのです。具体的に何か?と言われれば感覚のみなので言えないのですが、今でもその感覚ははっきり残っています。そして、その家族の家に遊びに行くと、私の知らない動き?みたいなのがあって、入れ替わりで家族が出てきて話をしてくれました。私の友人も、その動きの中に組み込まれていて、友人と遊ぶつもりが、その家と遊んでいた感じもしました。今だからこそ思うのですが、あれだけたくさんの人間がいると(たぶん10人はいた)、おそらくいろいろな所で家族の規範みたいなものがあって、自然に人を思いやるとか、気を遣うなどといったことがからだに染みついていったのだろうと思います。そう考えてみると、心を磨く、とかおそらく美しい心と言われている意味というのは、教えられて覚えるものでもなく、日常生活の中で自然と身につくものである方が好ましいのだと思います。そう考えていくと、今大事なことは家族のあり方について見つめていくということ?学校でそれを教えるなんてのは?????先生が大変だ・・・・・
2007年01月24日
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全国各地で高校入試が始まっていますね。福岡でも私立の専願の入試、つまりその高校だけに入りたい、という気合い満々受験生が、受験に臨んでいた1日でした。勉強がいやといいながら、毎日を消化試合のように過ごしてきたかもしれない3年生も、親との懇談会が終わり新年にもなれば、高校受験の文字に緊張し気合いも入ったかと思うのです。そして本日を迎えているはずなのですが、関係者から話を聞く当日の話は、あまりにもなさけなく思えて、これはいったい何が起こっているんだろう?と首をかしげざる終えません。こんな内容です。入試ともなれば、時間厳守で遅れれば受験は出来ません。受ける学校がどんな感じになっているか不安なら、下見をしてどのくらい時間がかかるかなどということは、普通調べていると思います。(みなさんならどうですか?)そこまではならなくても、インターネットの時代ですから、所在地と最寄りの駅、電車での所要時間などは下調べしておくのだろうと思います。また学校によっては、集合場所を指定して先生がついて行ったり、少なくとも事前に打ち合わせをして本人がいける段取りをつけているはずなのです。(学校に付き添いできるだけの先生がいない、小さい学校もあるのだと思います)ここまでしておけば、寝坊しない限りは学校に着き、余裕を持って試験に臨めると思いきや、事は起こるのです。あるこどもは、当日親が連れて行くことになったのはいいけれど、学校がこどもに説明した経路を通らず、親がタクシーで連れて行き、学校まで着きました。安心したのもつかの間、こどもが帰り道が分からないことに気がついたそうです。そこで学校に電話をし、学校はこどもに指導もしないのか?と散々怒鳴って、こどもはその剣幕に受験どころではなくなったそうです。慌てて学校の先生がそこまで出向き、説明をしわかってもらったとか・・・またあるこどもは、受験のはずなのになぜか手ぶら出来たそうです。受験票はかろうじて持っていたものの、あとは何も持たず・・・友達がいたので、筆記用具を貸したそうです。便利な世の中になったのはいいけれど、便利すぎるのがこんな事態をおこしているように思えて、なんだか教育なのか保育なのか、と先生も落胆するだろうと思いました。親に教育、子に保育ですか・・・
2007年01月23日
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この件に関する記述は沢山書かれすぎていて、もう遅いって感じかもしれませんね。会う人会う人この話題で、話の内容は批判が大半です。テレビのニュースや新聞の記事でも、信じて食べ続けてきた人の期待を裏切ったなどと、納豆さんがまるで悪者扱いの印象です。ところで少し前に、マスコミの報道に関しての日記を書きました。内容は、報道の仕方を考えないと、いじめや自殺のような内容は、一人歩きするものが多いということについてです。今回に関しても、ある意味同じ結果になったという感じです。これだけ影響があるということが分かっていながら、なぜ同じことの繰り返しが起こるのでしょうか・・・それも真実の歪曲ではなく、今回は完全に事実と異なる内容ということですから。それでも、見る側の問題もあると思います。事実を確認する作業をしていれば、ということです。今の世の中このことって大事だと思います。結局作る側も見る側も、していることに対する自己責任が曖昧であるということになるのでしょうか。起こったことに対する教訓を元に、自分が考えるべきことが見つかればいいと思っています。ただ納豆関係者の方々の気持ちを察すると、本当に腹立たしい思いでいっぱいです。
2007年01月22日
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数日前から、目や耳、手と心の関係を書いています。今日は足と心の関係で私が思っていることを書いてみようと思います。足の役目と言えば、からだをいろんなところに連れて行ってくれる役目を果たしています。何かをしようと思えば、その場に足を使って立ち、そして足を片方ずつ動かして前に進み、場合によっては早く動かして走ることによって、いろいろな場所に移動します。なんだかの問題で足が動かないなどの場合を除いては、みなさんそうして違う場所に移動しますね。心をそれに置き換えてみると、足を使うことで心も動くということになります。何か考え事をしていて、物事が進まないのでちょっと歩いてみよう、と思って歩いていると考えが出てきたといった感じですね。足を動かすことで、心を動かすというしくみが人間にあるとしたら、おもしろいですね。実際、気分転換に散歩をされていたり(もちろん健康増進のためと思っている人もいます)仕事の途中でマラソンをされている方がいたり、仕事の行き帰りにウォーキングをしている人もいます。いずれにせよ、思っていることの奥には前に進む、というキーワードがあるように思います。歩いている速度とか、構えとかを見ていても、その人の心の状態がでていたりするかもしれませんね。前傾姿勢で早足の人とか、ゆーっくり歩く人とか、人それぞれに歩くスタイルも違います。歩くのがいや・・・と言う人もいます。単純に疲れると言うのが理由の場合でも、そこには止まっていたい別の理由が隠されていたりします。こんな風に考えてみると、自分の行動に何かの気づきが見つかるかもしれませんね。
2007年01月21日
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目がない妖怪や手が何本もある妖怪なんかが、漫画や昔の逸話で残っていたりします。創造上のものですが、その妖怪を見ることで、人は何とも言えない違和感を感じます。実際に見えるものや聞こえるものだと、人はその相手に違和感を感じるのですが、見えないものとなると、どうなのでしょう?人間同士が会話をしていると、人によって話す形態ってけっこう変わってきます。例えば、淡々と話す人、噛みしめるように話す人、ゆっくりと話す人、手を交えて話す人、手足が動きながら話す人、物語のように話す人、動きを会話にする人。それから、話す口調もそこに付け加わります。いろんな話し方によって、その人の心の中が出てきたり、逆に話にごまかされていたり・・・初めての人と話すと、どんなことを考えているか分からなかったりしますが、(人のことが見える人は、話す前から分かってしまうらしいですが)よく知っている人間だと、こんな状態の時は怒っているときだ、とか話す状態で人の心理状態が読めてきたりします。また、知らない人同士であっても、何だか知らないけど自分と同じ感じの人間だな・・・と直感的に感じる時があります。目から見える情報、耳からはいる情報、そして話し方で感じる感覚など、いろいろな感覚で人は相手からその人間の情報を分析したり感じたりしています。どちらかが苦手だと、感覚が秀でていたり、分析が秀でていたりする人もいます。黙っているからわからないと思っていても、感覚が秀でている人は相手の人柄を一瞬で見抜いたり何かもするのだと思います。こんな風に交信の仕方は千差万別なので、自分の発信が正常だと思うと、あらぬ迷路にはまってしまいますね。周波数をどこに合わすかがポイントになりますね。
2007年01月20日
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報道は真実を正確に報じるということについて、私たちは信じたいことであるし、実際に取材あたっている人の姿を見て、すごいと思ったこともある。テレビなどの報道スクープの映像を見ていても、いかに報道に携わる人が一生懸命であるかが読みとれます。ところが一方では、取材の行き過ぎによっていろいろな人が大変な思いをしている、という事実がある。これは、人が関わるが故にそうなることなのであると思う。人が関わることであると、真実に思いが加わり、それを読みとる人々が様々な憶測を巡らせる。具体的に言うと、いじめや自殺の問題についての最近の報道の仕方だ。報道が悪いと言っているのではなく、こういう内容を報道していくと、ことがデリケートな問題とされることで、ちょっとしたニュアンスや書き方が思いもよらぬ方向へ進む結果となる。そして、ことの善悪で判断すると、余計にややこしい話になる。問題を大きくすると、さらにおかしな飛び火が生まれる。どうすればいいのかと言われると、わからないのだけれど・・・報道を見る側の問題だろうか?どちらにしろ、まくしたてるような報道はしないで欲しいと切に願う。
2007年01月19日
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耳から入ってくる癒しと言えば、言葉を含めた音楽だなーって昨日の日記に書いていました。そして、それは人のエネルギーを川の流れのように流れていて、ある時は慰めてくれたり、ある時は元気をくれたり、時には悲しみを誘ったりします。ホーミーなどを聞いていると、歌詞はなく流れているだけのその音に魅せられてしまいます。じゃあ、耳ではなくて目で同じ感覚を誘うものって言えば?と質問するとみなさんならなんと答えますか?絵画です、と言う人もいれば景色という人もいますね。ある人の写真だなんて言う人もいて、これも千差万別です。同じように心を潤したり、楽しんだり感心したり、時には悲しむための景色なんてのもあっていいですね。それらを見ることによって、なんだかわからないけれど心が明るくなった、とか気分がスッキリしたというように、からだのエネルギーのバランスが取れてしまいます。これも、からだの中で、まるで川の流れのように心のつまりを流してくれている一つの感覚です。以前経験したのですが、真っ暗な部屋に偶然入ったことがありました。かなりの人は、良い気分はしないと思うのですが、その時の私の気持ちはなぜだか心が落ち着いたのです。しばらくその部屋にいて、見えるはずのないものを空想したり、聞こえるはずのない音が聞こえている感じがしたり、一見幻を体感するかのごとく自分で楽しんでいました。実際に見えていないものを見ることが出来るのも、人の不思議なところですよね。こう考えると、人の感覚がいかに大切で、生活に不可欠なものであるかが再認識できます。
2007年01月18日
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以前の日記でも少し触れたことがあるのですが、今日は音のことについて少し書いておこうと思います。みなさんがいろんな時期に聴いていた音楽や好きな音楽って、どんなのだったか覚えていますか?そして、それをどんなときに聞いていたとか、聞いた後ってどんな気持ちになったかとかも覚えていたら、同時に思い出してみてください。音からどういう恩恵を被っていたか、ということが自分なりに解釈できたりするのです。例えば、自分を例に取ってみましょう。私の場合は、なぜか歌謡曲を聴く、というよりは海外のしかも黒人音楽を聴くのが大好きでした。もちろん歌詞などわかるはずもなく、聴く理由というのは、リズムとか声がきれいというそれだけの理由でした。当時はマイケルジャクソン、ライオネルリッチー、などというスーパースターが全盛期の時で、自然と聴く歌もそうなってきたのでした。そして、それを聴きながら勉強をしていると、知らぬ間に音楽は耳に入らなくなり、勉強に集中できたのです。同じかも?なんて思う人もいれば、全く違う人もいると思います。音楽を聴くのは、歌詞が好きだから、となれば、歌詞に意識が集中しますよね。そして、そうやって音楽を聴いていると、不思議と心が和んだりリラックスしたりして、心が落ち着いたり集中力が増したりします。心もころころ変わりますが、そんな気持ちの移り変わりに同調するように、音楽を取り入れている方がおられるでしょうか?それは川の流れを一定にするブレーカーのように動いているいたりするものです。音楽が無くなれば、大変なことになっちゃうでしょうね・・・・・
2007年01月17日
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最近自分の時間の感覚が、世間とずれてきているのが顕著になってしまい、ちょっと仕切り直しをしないといけないと思っています。仕切り直しといっても、世間が短期間で変わるなんてことは考えにくく、また自分が時間の感覚がない世界に行くことも、今の段階では無理なので、上手く付き合えるように、リセットするということでしょうか・・大昔なら、朝になると起きて、自分の本能の赴くままに時間を自由に使っていたのだと思います。それが集団になり、少しづつ時間に合わせて動くことが始まり、時計ができるとその時間に従って社会の動きが流れるようになりました。私自身、時間で動くことに助けられている反面、時間が決められているということにストレスを感じつつ最近は生活していました。一般的には、昨年の電車の事故で、時間に対する人の要求が、日本の場合とくに顕著であるということが、内外に知られることとなりました。個人的には、ある部分で一分が要求されるようになると、なんだか感覚として人間が機械化してしまう気がします。脳が、そのことに慣れてしまうと、とても狭い使い方しかできない感じがするのです。考え方に影響すると、~は~でなければならないなんて思考が増え、感情に影響すると、ある感情が爆発すると、とんでもないことになったりとか、グレーな感じがなくなるという感覚でしょうか・・・みなさんは、時間とどういうお付き合いをしているのでしょう・・・
2007年01月16日
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昨日は結婚式に参加して、久しぶりに友人とも再会し、幸せ気分をシェアさせてもらいました。心は気持ちよく、よい気分で家路についたのですが、日頃と違うことをたまにすると、なんだかからだは疲れてしまったのではないかと予想し、知り合いのお店2件に立ち寄り、自分のからだをケアしてもらいました。からだを触ってもらっていると、自分が予想していない感触や痛みが出ているのが分かります。知っているようで、やっぱり自分のことが一番分からないんだ?と思いつつしっかりケアしてもらいました。地元にあればいいのだけれど、と後ろ髪をひかれながら、その後新幹線に乗り、帰途につきました。乗ってから、改めて自分のことは、一番自分が分かっていないのだな、とからだの感触を再確認しました。心に比べると、からだは比較的いろんな症状を表に出してくれますが、からだすらわかっていないのなら、ストレスのたまり方はすごいのだろうということが予測できます。そんなことを考えてみると、日常の慣れが、だんだんとそれが普通になり、シグナルを忘れてしまって突然ぎっくり腰なんてこともあるのでしょうね。同じように、心の方も日常的なケアという意味では、心療内科などに行ってみて、自分の状態を見つめることが大事ですね。こころとからだ、そして自分ですね。3つが一緒になって健康体と言えそうです。
2007年01月15日
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早く結婚したい・・・と言いながらずっと結婚をしなくて、仕事ばかりだった私の友人が、本日結婚式を挙げました。学生の頃には、一番早く結婚するだろうなんて言われていたのですが、その気満々だった彼にご縁が回ってくるまでに、今日までという長い月日が過ぎていました。彼の仕事は不規則で、朝は少し遅めなのですが、仕事終了は日を越えた1時は普通だったそうです。出会うたびに、ひょっとしたらずっと一人かも・・・なんて冗談で話していたのが印象的です。そして、今日の結婚式。一時は結婚式貧乏になるくらいたくさんの結婚式に出ていた私が、今日の結婚式に出て、今まで感じた事の無いすがすがしいというか、微笑ましい気持ちになりました。だからといって今までの結婚式が決して悪いわけでもなく、感動しなかったわけでもなく、その都度幸せな気持ちを貰っていた感じがしたわけです。ところが、2人を見た瞬間に、なんとも言えない気持ちになりました。それは、式の中で出てきた運命の人という言葉と、彼が何時も言っていた冗談とが重なり、そしてそのことを、式の中の一場面で話している彼の顔が、とても幸せそうに写ったときに、そう感じたのです。そして、その言葉に追い討ちをかけるように、新郎のお父さんがその話しを聞きながら涙を流されました。息子の一生懸命な姿を長い間見守っていたお父さんにとっては、言葉の一つ一つがずっしりと重いものだったのだと思います。彼の一生懸命さが引き寄せた運命であるとするなら、私がこんな気持ちになったのは当然で、おそらく式場の誰もが感じた素晴しい結婚式でした。末永くお幸せに!
2007年01月14日
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こどもの不登校や、いじめなど様々な問題が新聞で報道されています。そんな中で、今年4月から学校の中で特別支援教育というものが始められます。今まで特殊学級という呼び方で言われていたものの対象の中に、最近特に知られるようになったADHDやLDなどといった、支援が必要とされるこどもも含め、特別なカリキュラムを作成し対応していこうというものです。学校現場にいらっしゃる先生方なら、授業や学級活動をしているときに、対応できないこどもや伝えたい内容が正確に伝わらないこどもがいるのに気がついていらっしゃるのかもしれません。そんな場合にでも、今まではそれを普通学級の中で全てひとくくりにしてやっている現状でした。ところが、いろんな指示に対応できないこどもや、授業の内容についていけなくて、他のこどもたちから、いじめの対象となっている現実もあったのかもしれません。また、不登校になるケースもあったかもしれないという見方もなされています。今回の法律の改正は、そんなことを含めたそのこどもに適する教育を施す、という意味合いで制定されている背景があります。おそらくそのことに関しても、長所短所がでてくるのであろうと思いますが、こども本人にとって見れば、直面する現実が厳しいものであれば、そのことに早く気がついて適切な助言をしていくという1つの場ができることになります。ますます先生方の力量が試されることとなりますが、少しばかりの期待を持ちつつ現状を見守っていきたいなと思っています。ちなみに、ADHDやLDなどというのは、個性という見方をしている諸外国の感覚にはほど遠い現状があるのは事実かもしれません。
2007年01月13日
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自分たちが見なければいけないもの、見る必要があるものに関しては、私たちは関心を持って見つめます。仕事に関してとか趣味とか・・・それから、見ていてたまたま気に入ったものや、関心のあるものが見つかったときも、そこに意識が集中します。逆に、見ているはずなのに全然関心がなかったり、見つめる必要がないものに関しては、意識が集中するはずもなく、したがって記憶されることもほとんど無いでしょう。そのようにして、私たちは目を使って自分に必要であるものを見分けながら、有効に視覚を使っています。そう考えてみると、自分が見ているものから、自分が必要としているものの無意識な部分も読み取れるのかもしれません。例えば、中学生のカップルが歩いていて、いいなーなんて見ているとか、警察官が車を止めて事情聴取をしている場面とか・・・私たちは日頃見る必要がないことでも、目には必ず入っていて、それをなんだかの形で処理しているはず。そして、そのことを軽く流しているので、実際には意識の中には入ってきていないのです。自分が見ているものから、みなさんは何を感じているのでしょう・・・
2007年01月12日
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目に見える病気は、これが感染症でこれが原因だから・・・などと対処法が明示されます。それによっていろんな商品が売られ、それぞれの目で購入して対処法を考えますね。目に見えないものでも存在しているものであれば、人はそれに対処しようとするものです。それでは、目に見えなくて、実態としてとらえにくい感情のようなものはどうなのでしょうか?例えば、はっきり大声で怒鳴っているような情景では、誰でも怒っているんだなって思いますね。(それでも気がつかない人もいるのでしょうか?)人に暴力をふるうような行為でも、怒っているんだということがハッキリと分かります。そんな時は、むしろ止めに入ったり、そこから逃避しようとしたりしますし、自分にその怒りが向けられているときは、対決!なんてことになったりもします。次に、怒りたいけど怒れなくて、むっとしたような状態はどうでしょうか?これは、その人との面識にもよると思いますが、知らない人だと気がつかないこともあるし、人によって感じ方が様々でしょう。こんな場合にも、知らない間に病気のように、その状態が人に移ることを体感したことがある人は多いのではないでしょうか?ムッとした表情を見て、ムッとするとか・・・怒りの感情を代表して出してみたのは、人の感情も病気と同じようにうつるなら、どんな感情が一番移りやすいのかな?と考えたときに、怒りだろ!と思ったからです。いや?恐怖かな?みなさんは知らずのうちに、どんな感情を移されることが多いですか?
2007年01月11日
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なんて発言をする人がいます。面白いことに、その方はもともとその管理の担当の方なのですが、経験したからこそ思うのでしょうか・・・なるほどと思ったことが・・・バランス取れた給食を出していて、こどもが学ぼうという気になるのか?骨一つない魚を食べて、魚に骨があるということすら知らないこどもがいたり・・・?時間になれば出てくるのに、食べることにありがたみを感じるのか?などなどのことを、お話ししてくれました。ところが、そのようなことを元に戻そうとするなら、現在ならクレイムの嵐になって、その対応で結局元に戻るだろうね、と結んでいました。情報がたくさん入り、ある意味に豊かになった社会で多様化は避けられません。そしてそれは保護者についても同じであると思います。何か一つを変えると、それについて賛成反対と意見が多様に分かれてしまって、そのうちに何を議論していたかさえわからないような、水かけ論となるのでしょう。みなさんこどものため、と思っているはずなのですけど・・・ところで食べることのありがたみや、食物への感謝などの気持ちはどこで育てるのでしょう?これは保護者の役割だと思います。そして、そのことがわかるこどもであれば、給食であってもなんであっても、食べるということに意味を感じて、食育などをするまでもないのかもしれません。ますますの飽食時代。サービスに負けない味覚を作りたいものです。
2007年01月10日
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人は人に影響されて生きています。そう思っていなくても、そのことは小さい頃から親の真似をする、という経験によって裏付けされています。だから、俺は俺、私は私と思っていたところで、無意識に人を見て、自分の中で上手に消化しながら、場合によっては真似をして自分のものにしていくのです。ある時、そのことにふと気がつくと、自分がいやになったりもします。自分らしくありたいと思っている自分が、人の真似をしていることに気がつくわけですから、自己嫌悪に陥ります。それでも、知らず知らずのうちに人は真似をします。そうやっていろいろな人を見て、それぞれにアドバイスをもらうかのごとく一回りの一生を過ごすわけです。自分から人を見たときに、この人は自己主張がないとか、この人は協調性がないとかを思った経験は人それぞれにあると思います。自分の人生経験で判断すると、この人は~だったらいいのに、とかこの人は~が足りないなんて思って、ついつい人に意見をすることがあります。受け入れることもあれば、受け入れないときもあり、それはその人との人間関係であったり、自分の中との相談であったりします。そんなことを繰り返しながら、私はこれでいいんだ、と思うことは一生無いままに過ごすことになるかもしれません。それでも成長をするために必要だと感じた人は、そうやって歩き続けるのです。歩くことを止めると、完了するのですが、それ以上は入ってこなくなります。さて、どこまで歩き続けようか・・・
2007年01月09日
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タッチフォーヘルスという健康法の体験会を、熊本で開催してきました。実際のコースを終了された、福岡の方も体験会にすると言って下さったので、その方の車に便乗させて頂きました。祭日のせいか?九州自動車道は、車でいっぱい。本当に朝早くからこんなに沢山の車と人が、様々な動きを展開しているんだな?とこどものような無邪気に関心をしていました。途中のパーキングで、いきなり団子に魅せられ、手が出そうになりましたが、これからのことを考え踏みとどまりました。ちなみにタッチフォーヘルスにタッチフォーヘルスについては日本タッチフォーヘルス協会のHPをご覧ください。こちらでも説明しています。タッチフォーヘルスにって何だろう?15名ほどの参加者の前で、いつもながら緊張半分わくわく半分で、体験会をスタートしました。みなさんモチベーションの高い方ばかりで、これからの進み方を考えると、いつしか緊張感はなくなり、逆に楽しさとおもしろさの中で、とても気持ちよく会を進めることが出来ました。また、それぞれの方が、ご自分の持っていらっしゃる問題点を既に整理されていて、予定以上の内容となり、付録満載の体験会になったと思います。そして、逆に自分がここに所属して勉強する立場であったら、とてもいいだろうなという環境が整っていて、そのような環境を作っていらっしゃる主催者の方のすばらしさに感動しました。おそらく、またここにいるだろうなと感じさせてくれる場所でした。招いて下さった皆様に感謝の1日でした。
2007年01月08日
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何度もこの場でご紹介している、タッチフォーヘルスという健康法の体験会を、明日熊本で行う予定です。福岡県内はありましたが、県外まで出て行って体験会をするというのは初めて。なんだかわくわく半分、うきうき半分です。まあ、観光旅行ではないので、しっかり伝えることはお伝えして、タッチフォーヘルスに興味を持ってもらえたらいいなと思っています。タッチフォーヘルスに関しては・・・タッチフォーヘルスについては日本タッチフォーヘルス協会のHPをご覧ください。こちらでも説明しています。タッチフォーヘルスにって何だろう?そして、こんな時いつも思うことというのは、自分が初めてタッチフォーヘルスに出会ったときのことです。名前も知らない、どんなものかも知らないという予備知識が一切無かった私は、とりあえず本屋に行き、そして決して安くないタッチフォーヘルスの健康法の本を購入しました。そして、ずっと読んでみたのです。さっぱりわからない。そこで、時間は止まってしまいました。次に走り出したのは、実際に体験会に行ってみないとわからないと、大阪まで行く決意をしたとき。この時は、すでにコース受講も決めていました。出ては消え、消えては出てきたタッチフォーヘルスというものが、ある時肩をたたかれるように、行って受けたらいいじゃんという気持ちになったのです。やってみれば、やっぱり違うんですね。体験することの大切さをここで感じるのです。知識を入れても、本で読んでも実際に体験しないとだめなものはだめなんですね。人は心で感じ、からだで感じ、そしてそれを調和させることが真の体験なんですね。
2007年01月07日
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自分にとって、今一番価値のあるものは何ですか?と聞かれたときに、みなさんなら何というのでしょうか?先日、小さなこどもと、お年玉のことについてのお話をしていました。(おそらく3,4才だと思いますが)今年もお年玉もらうんだ、そして~買って・・・なんて話をしていました。お金の価値がもうわかるのかな?と思って、千円と50円を見せてどっちが欲しい?って聞くと、50円を取って、これ車のタイヤみたいやね・・・おもしろいね、と一言。お金は1つの価値の尺度としては役に立つけれど、そんなことを知らないこどもにとっては、見方が全く変わってしまうんですね。同じように、私たちはお金を媒介に仕事などすることで生活していますが、知らないだけで実は別の価値が存在するのかもしれません。人の姿を見ながら、どこかでは、なんでお金ばかり見ているんだろうな・・・もっと面白い世界があるのになんて、思っているものが存在しているかもしれません。多数派が思っている価値がお金であって、もし多数が愛を価値にシフトしたなら、お金は愛が単位になるのでしょうか?ボランティアがお金のような価値になれば、世の中はどんな風に変わるのでしょうか?全ての価値は、ひょっとしたら自分の中だけで動いているのかも知れませんね
2007年01月06日
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最近は、いろんな官公庁の不祥事が報道され、福岡はとくにいじめ問題、飲酒運転問題について服務規律の徹底がなされているところでした。そして、そのことの対応に関して世間の目で見ていると、なんでこんなに遅いのだ?と感じている人も多いはずです。おそらく、関係各所は細かく細分化されていて、なかなか民間のような素早い対応ができないのでしょう。それでも、私の知る限りでは、その対応と研修はかなり徹底されていたように思うのです。ところが、今日の西日本新聞朝刊に、昨年度の公立教員選抜試験の問題が漏洩している?という記事が載っていました。しかも1面中央です。福岡は、その背景はよくわかりませんが、臨時に任用する講師についても、全国で初めての選抜を行っていて、それが昨年末に行われたばかりのことでした。新聞の内容によると、教員になるための専門学校で、今回問題となった実際の試験問題に告知している内容のプリントが出回っていて、それは実際に出すことにならなかった検討問題もあったことから、どうやら内部から漏れたのではないか?と言われているそうだ。そうなると、これだけ対応研修を徹底していた福岡市の職員が、またまた・・・ということになってしまう。いったいどうしたもんだろう・・・
2007年01月05日
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年が明けてから、毎日年賀状が届いています。毎年出して頂く人、出した後返事を頂く人、出していなくてこちらが慌てて出す人など、何かとこう言うときに、ある意味の気持ちのすれ違いが起こってしまったりするのは常ですね。お互い悪気があるわけでもなく、様々な事情で出せないなど都合があったりもして、その方の状況を察することができる時でもあります。そして、それに加えて年賀状の内容も千差万別で、印刷だけで終わっている人、印刷だけであるけれど、その印刷に心がこもっている人、余裕がないんだなと思う人、はっきり心ない年賀状だな・・と残念に思う人、いろいろです。そして全然会っていないとか、仕事仲間でよく会っている、なんかも関係したりするのでしょう。毎年見ていると、それぞれに、その年賀状の内容に反映したその方の心の状態が出ていたりするものです。ちなみに私の年賀状は、前年度の日記には書いてあるのですが、少々手抜き感が残る内容となってしまいました。理由は明白、時間と余裕がなかったからです。こだわっている、自分の手書きで近況を知らせる、ということだけは同じにしたのですが、印刷の内容が・・・人それぞれ、どこかでこんなことを思いながら、書いているのだなって思います。届いた年賀状を見ながら、連絡を取ったりしてみようかな、って思っています。
2007年01月04日
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本当は元旦に行きたかった初詣ですが、昨年末から今年にかけて家族全員が体調を崩す始末。ようやくこの3日になって、近くでいいから行こうということになりました。実はこの神社、けっこう前から気になっていて、一度行ってみたかった神社だったのです。通るのはいつも夜だったので、全貌がわからなかったのですが、今回行ってみてとても好感を持つことが出来ました。車で行ったのですが、丁寧に駐車案内までして頂いて、そして階段を上るとすぐ全貌がわかるようになっていました。おそらくいつもはこうなっていないだろうと思われる敷地内ですが、地域の方々や、神社の方々の手をつくした感じがとても温かく感じられ、寒さを忘れその新鮮な感覚に浸ることが出来ました。手を合わせたときに、一瞬何を言おうかな?と迷ったのですが、結局感謝の気持ちを手にこめることにしました。生きていて感謝、空気を吸わせてもらって感謝、まあこうあげていったら感謝の限りがありません。逆に、なにかを望もうと思えば、これもまたきりがありません。そこにいてそう思ったのは、きっとこの神社のお陰かもしれません。帰る石段の1つ1つが、とても心地よく自分のからだに響きました。
2007年01月03日
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今日は、良い意味でも悪い意味でも、自分の良い人生経験となる人と出会いました。その人は、自分がやっていることや思っていることが、誰よりも一番と思っているらしく、言動や行動にその節々を出していました。その全く悪気のない動きに少々呆れながらも、起こる理由もなく黙って聞いていました。(そこに私はどうしてもいなければならなかったので・・・やむ終えず)すると、何を思ったのか私が話していることにも、~じゃだめなんじゃないですか?などと言い出したので、どうしたものか?としばし考え込むもなんだかいらいらしてきたので、いったん席を外すことにしました。しばらくして戻ってみると、あいかわらずの話っぷりで別の人に話をしています。よくは知らない人なのですが、年の頃は24,5で何かの社長さんかもうすぐそうなるかという人らしいです。話し方こそまだ丁寧でしたが、その言葉にはアグレッシブな音符がしっかりとついていました。私もその場で怒れば良かったものの、皆さんの場を崩すのも大人げなく、またそんな元気もなく、終わってから「あの人いつもなんな感じです」と、聞いたときには言葉も出ませんでした。きっとその人なりの溝にはまるんだろうな、と思いつつ会場を後にしました。
2007年01月02日
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あけましておめでとうございます。もう1日にが過ぎようとしています。元旦なので、ゆっくり家で過ごしていたら、あっという間に日が暮れてしまいました。時間をとってみても、今日のように短いな、と思える時間もあれば長いなーと感じる時間もあります。全ては自分の中で起こっていることですね。そんな風に考えてみると、起こっていること全ては、自分次第でどうにでも変わることなんだな、って思います。悪いことをして良いことだった、なんてのは極端でおかしな話ですが、自分の日頃生活している場で起こったことを、しっかりと見つめられる自分でいれたら、もう少し安らかで気持ちの良い毎日が過ごせそうだな、と思いつつ年を越しました。そんなことで今年は、自分の有り様を認める一年にしようと思っています。昨年度から少しまた自分の方向が変わってきて、大海原に進む方向を見ている自分がいました。今年は本格的に大海原で動く自分になるのだと感じていますが、自分の腕を信じる自分であれば、沈没することはないと思われます。ちょうど今年の2月で、このブログをスタートして3年になります。ここで一旦ストップをして、新たにスタートをしたいな、と考えております。皆様今年も一年よろしくお願いいたします。
2007年01月01日
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この場を借りて、2006年度 楽天ブログ365日を全て書ききった、みずのみマスターさんに皆記賞を授与したいと思います。 賞 皆記賞 みずのみマスター 様 あなたはこの一年間自分で思ったことを、日記として1日も欠かさずに ブログに記し続けました。内容はともかくとして、その書いた実績は賞 に値することなので、表彰します。 2007年 1月1日 みずのみマスター 毎日欠かさずすることって、意識しなくてしていることもありますが、やろうと思ってすると結構難しいこともあるものです。毎日~しよう、と意識した瞬間にむずかしくなることもありますね。ところで、2006年の目標でまたできなかったことがあります。それは、水泳150キロ。年度初めは絶対出来ると思ってするのですが、いろいろな事情で遠のいてしまうと、なかなか復活できません。今年は、10月にとうとう皮膚が入ることを許さなくなり、断念してしまいました。そこで、日記の皆記賞を目指しました。なんか変なこだわりですが、自己満足のようです。来年度水泳150キロは再チャレンジです。同じフレーズでなんかあった気がしますが、企画倒れにならないようがんばります。
2006年12月31日
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