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王の男 韓国映画史上だけでなく、世界の映画史に燦然と輝く作品。なぜ、アカデミー賞はこの映画を最優秀外国語映画賞にしなかったのだろう? 私は、この映画は、イ・ジュンギよりも脇を固める3人の役者が素晴らしいと思った。特に、男性陣の演技が光る。脚本から言って、この映画では、女優の存在感を示すのは多少無理があったよう…。チョン・ジヒョンクラスだったら、どう演じたのだろう? わずかな登場シーンでもむちゃくちゃ印象を残したかもしれない。 私は、この映画は人間の自由を高らかにうたった作品だと思っている。必見の名画。すごすぎる!
May 5, 2009
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デイジーチョン・ジヒョンをはじめて見たとき、日本人の感覚では、美人と思えなかった。 でも、この映画でチョン・ジヒョンをはじめて美しいと思った。それに、周囲を圧倒する彼女の演技力。特に声を失ってからの演技に注目。 彼女の名演技で、この映画は忘れない余韻を私たちに与えてくれる。彼女の演技が無かったら、ここまで静かな映画に酔うことはできなかったと思う。 現在のアジアNo.1 女優。。。日本の綾瀬はるなが彼女に続きそう。。。。 これがヒットしなかったなんて、信じられない。
May 4, 2009
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1960年代のフランス映画。大女優カトリーヌ・ドヌーブはこのとき、弱冠21才。彼女の出産後2ヶ月めにとられた作品です。歴史的な名画として、今も人々の心を打っている。現在、日本でリバイバル上映中。 歌で全てセリフが進行されるため、最初は戸惑う人が多い。でも、いつの間にか、引き込まれていき、最後は、深い余韻に包まれます。これは、忘れられない、ずっと残る名画だと思います。 もしよろしかったら、DVDを探してみてください。見て損はしません。。。シェルブールの雨傘
May 3, 2009
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抗うつ薬の有名な副作用は3つ 1.太る2.口の中が乾く=唾液が出ない3.便秘 これは、どれも困ったものばかりですが、一番困るのは、太ることです。口の中が乾いたら、常に水分補給をすればいいし、便秘には、下剤と言う方法もあるので…。 ところで、私が飲んでいた薬、パキシル。 これが、太る原因だと言うので、先生は、ジェイゾロフトという、新薬に変えてきました。でも、精神科の薬はすぐに変えることができません。理由を書くと長くなるから、そういうものだと思ってください。 なので、最初は、パキシル1日4錠を3錠に減らす。そして、ジェイゾロフトが1錠加わると言う感じ。 これを長い時間かけて、ジェイゾロフト4錠にもっていくわけです。 で、私は、パキシルが1錠になったところで、病院にいけなくなってしまいました。これは、精神の病気なので、良くあることです。そこで、夫が、精神化の処方箋どうりに薬を出していたのですが、やせない私を見て、もう、ジェイゾロフトに完全にシフトしていいと判断し、ジェイゾロフト4錠にずいぶん前から切り替えていたのです。 でも、薬って、保険と言うみんなのお金が使われているし、パキシルが残っているから、申し訳ないと思って、私はずっと1錠飲み続けていました。 でも、自分の健康の方が大切だ、と思いなおし、肝臓の薬を追加されないように、2~3日前からパキシルを飲むのを止めました。 効果は!? てきめんです! 昨日は日曜日で、クリスチャンの我が家は運動などすることができません。なので、心配していたのに、今日体重計に乗ったら、体重が1キロ減っているのです! え? 全然、運動していなかったよ? ずっとゴロゴロしていたのに? 私、本当に、喜んでいいのか、悪いのか、分からないです。倒れるほどの激しいトレーニングをしたこともあったし、低カロリー食を食べて、吐き気がしたこともありました。 それなのに、 薬が変わっただけで、やせるの? あら~。 いつか、この薬も私に副作用と言う牙をむき出しにするかもしれないけど、体は新しい薬に戸惑って、太るのを止めました。 もちろん、肝機能を正常に戻すために、まだまだ、トレーニングを続けるし、体重が元に戻っても、健康のためにずっとジムに通うけど…。。。。。。。私が払った涙ぐましい努力よりも薬を変えた方が簡単に体重を落とすのですね。 本当に薬って本来は毒なんですよね。毒をもって毒を制して、病気を抑える。実感しました。
May 2, 2009
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長いあいだ、お休みをしていました。 と言うより、ネット活動を別な場所に移していたと言うべきでしょうか? アメリカ人歴史家から、教えられた真実の日本の歴史。 それ以後、自分でも調べてみたら、日本が非常に善意ある人道国家であったのを知り、教科書に圧力をかけて、ゆがんだ歴史を記述している原因とか、さまざまな嘘の原因を探していました。 結局は、アメリカのプロバガンダや宣伝工作、敵を作ることによって、国内の失政を隠すことなど、さまざまな思惑が絡んでいることが分かりました。でも、嬉しいのは、ネット世代の誕生です。 彼らは、ネットを通して活動し、マスコミがミスリードしている事柄を暴き、ソースを明らかにすることで、新しい、事実のみを伝える真の報道を目指しています。これが、力ある2ちゃんねらーの登場で、出版、ブログでの情報発信など、目覚しい成果を挙げつつあります。 当然、旧来の日本が全部悪いのさ、 日本が、世界で一番ダメなのさ の勢力は、現在社会のトップにいると言えども、社会の一線を退く日が刻一刻と近づいているので、巻き返しに必死です。現在の状況は、 団塊の世代 VS それ以下のネット世代 ちなみに、団塊の世代は犯罪率が他の年代より高いらしいです。いい意味でも、悪い意味でも、元気な世代なのでしょうね。
Apr 11, 2009
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たとえば、韓国済州島出身の韓国評論家の金満哲はこう言っている。 同胞韓国人は嘘つきばかりである。私はそのことが恥かしく、情けない。 「韓国は独力で近代化を成し遂げた」って。馬鹿を云うな。韓国の近代化は 日本の莫大な資本と人材の投与によって成し遂げられたものである。 「韓国は日本の統治に抵抗をもって対抗した」だって。馬鹿馬鹿しい。 同胞韓国人はロバのように日本の統治を甘受したのが実態だ。 ごくごく一部の抵抗はあったが上から下までみんな日本にあこがれ、 日本人になろうとしたのだ。 「韓国が独立したのは韓国の手によるものだ」にいたっては呆れてものも 言えない。誰も日本からの独立など望んでいなかったのにアメリカに 強制的に独立させられたというのが真実だ。 「漢河の奇蹟」だって!笑わせる。日本から賠償金という名目で莫大な 経済援助と技術援助で成し遂げられたものだ。 これだけお膳立てしてもらえばどんな未開民族でも経済成長するだろうよ。 「日本文化の祖が韓国」とは恐れ入る。一体、併合前の朝鮮半島のどこに 「文化」なるものがあったのか。併合前、我々先祖は乞食同然の生活をして いたではないか。現在の韓国の姿、まさに他人により作られた砂の楼閣だ。 虚飾と偽善と歪曲とおごりに満ち満ちている、真似と依存と歪曲が全てである。 このような韓国の本質を知らず「韓国こそ世界一」などとほらを吹いて 自己満足している本国、在日の韓国人は正気の沙汰ではない。 これが恥でなくてなんであろうか。 後のマニラでこんなことがあった。 例によって韓国の代表が、延々と戦争当時の日本軍と日本民族と 現在の日本企業を罵倒する演説を打った。韓国代表の演説は 痛烈無残で聞くに堪えなかった。 そこで、インドネシアのアリ・ムルトポ准将は韓国の軍人に向かって 次のように日本を擁護した。 ★インドネシア アリ・ムルトポ准将 「日本はアジアの光である。 大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので アジア人の誇りである。 今、忽然として日本民族がこの地球上から消えたら韓国が一番困ると思う。 もし、日本がシンガポールの地点にあったら、インドネシア人の成功は 容易である。つまり、日本の近いところに位置していることは、幸運なのだ。 経済的支援を連続的に受けていると言ってもよいくらいだ。 インドネシアが日本に近ければ、今のような貧弱なインドネシアではない。 つまり、我々インドネシア人は『日本はなにもしてくれなくてもよい』と 考えている。日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで十分、 アジア・アフリカにつくしていると考えている。 だから、我々アジア人は外交面に弱い日本を支援したいと思っている」 インドネシア人の感情も考えずに日本を罵倒する韓国人に インドネシアの軍人が(日本人のいない場所で)怒ってくれたのである。 ありがたいことではないか
Jul 14, 2008
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金文輯数千年にわたる過去の朝鮮j、ことに李朝五百年史だけをとりあげてみても、完全独立の道などは一場の夢にすぎないことはわが朝鮮自身の常識である。いわんや、最近50年の世界史相を展望するとき、朝鮮が微弱なまま一度自立してみようというのは最初から問題にならないのである。基鎬(加耶大学客員教授)十九世紀から二十世紀初めの帝国主義、列強諸国の時代、暗愚の李朝両班階級は、その挑戦に直面、固唾を飲んだままで無為無策だった。その失策は、あらためて糾弾すべきであって、日本帝国主義の植民地へと転落したことについて、責任を他国のせいにすべきではない。大いに反省すべきなのにもかかわらず、今日にいたるまでいつまでも錯誤を放置、愚純の感情に委せているわけで、今日のような歴史の初段は、当然再発すること、火を見るより明らかである。高麗大学教授 金鉉球・鄭大均 「日本のイメージ」より抜粋わが国の中・高等学校教科書を見ると、百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に伝えられた話が出てきますが、その内容は日本古代史書である「日本書紀」を土台にしているもので、わが国の史書にはありません。(そもそも韓国に古代の文献はほとんどない)ところが、日本の学者が「日本書紀」を土台にして、古代日本が二百年余り朝鮮半島南部の伽耶(日本名任那)地域を支配したという「任那日本府説」を主張すると、韓国の学界ではそれは信じることができないと主張しています。これは明白な矛盾であり、こうした姿勢ゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く見るのではありませんか、という身の程を知らぬ質問をした。そしたらL教授は黙り込んで答えず、横に居られたC教授が「自信がないんだよ」とおっしゃった。「日本書紀」には日本が「任那日本府」という機構を置いて朝鮮半島南部を支配しつつ、三国文化を運んでいったようになっている。しかし、韓国の中・高等学校では三国文化が日本に伝播される国際関係に関しては何の説明もされず、ただ高句麗・新羅・百済の三国が日本に文化を伝えた事実だけを教えている。そこで学生達は日本を客観的に理解できずに、無条件、対日優越意識だけを助長する結果をもたらせた。外国に出かけたわが国の学生が「任那日本説」に接して戸惑うのも無理はない。
Jul 13, 2008
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■鄭春河=台湾人。血書嘆願を携えて志願し大東亜戦争に参戦。戦後の日台交流に多大な功績を残した。2005年逝去。「大東亜戦争聖戦論」より 私は生を日本に享けて僅か二十六年の日本人なれど、あくまで祖国を愛します。 特に自虐的罪悪感をもつ同胞に先づその反省を促したい。 願わくば、一時も早く目覚めて大義名分を明らかにし、民族の誇りにかけて速やかに戦前の日本人――真の日本国民に戻って下さい。
Jul 12, 2008
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統治時代の道知事 朴栄公平無私なる観察を下すときは、いくら日本の朝鮮統治に反対しても善政は善政に相違なく、如何に伊藤博文公を毛嫌いしても公の真意には感謝せざるを得ない、とはある評者の言であった。究意するに韓国を亡ぼしたのは日本でもなければ之を責めるにも当たらぬ。また当時の李完用始め自余の責任者でもなければ之を攻撃するの必要なし。朴泰赫日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。両班のように小作人(ソチクイン)である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、物わかりがよかった。だから、日本人の地主は人気があった。みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。日本人が所有していた農地は、独立後に、「敵産」(チョクサン)としてすべて没収された。しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。
Jul 11, 2008
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●日本の統監統治時代李氏韓国時代の拷問は酷かったが、1905年に日本の保護国となり、統監統治が始まると半島においても日本と同じようにすぐに拷問は廃止された。半島での拷問禁止は島村忠次郎(1907年、水原の京畿道地方裁判所の「法務補佐官」)が在職中に伊藤博文統監に申し入れて法令となった。1908年の法令改正によって拷問した取調官は3年以下の懲役と定められた。これにより、長年続いていた半島での残虐な拷問は廃止となった。●日韓併合(日本統治)時代併合前は「1坪に15~16人」詰め込んでいた監獄だったが、1910年の後半には「1坪当りの収監者数を5人以内」にし、1922年頃には「約2.9人」まで大改善された。これによって囚人はいつでも横になって寝る事が可能になった。階級による身分差別を撤廃し、両班による搾取・虐待から農民を救い、移住の自由を認めさせ、残酷な拷問や刑罰や一族の罪人連座法などを廃止し、女性再婚の自由を保障し、人権尊重などの法治国家の基礎をつくり、学校教育制度を導入し、読み書きを教え、ハングル文字を復活・普及させ、台湾では運動が起きても1~2%にしか許可しなかった改姓名だが、85%の半島人には創氏改名を許可し、鉄道網、道路網を整備し、港の開設工事をし、水力発電所を建設し、重化学工業を興し、緑化政策によって山野を甦らせ、不毛の地を開拓し、河川大事業で洪水を減少させ、水田を倍増させ、世界中から世界一不潔と言われた町々を清潔にし、近代医療制度を導入し、平均寿命を24歳から45歳にのばし、人口を2倍にし、内地(日本)への渡航規制を犯して来る密航者にも寛容に対処した。(1928年頃から日本では特高警察による共産主義者の取調べが過酷となったが、共産主義者は殺人テロ集団だったので致し方ない。)
Jul 10, 2008
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ある時の話ですが、あまりにも反日歴史捏造発言がひどかったので、私は怒りを感じました。恥ずかしながら、以下は私がある掲示板で韓国人に怒りをぶちまけた時の言葉です。 韓国は、精一杯、こちらが誠意を示しても、平気で裏切る国ですね。 強圧的な中国に支配されていた歴史を考えると、韓国の事大主義(=常に強い方につくこと)も同情して割り引いてあげていた。 だけど… 日本が財政破綻して(ミンピのせい)いる半島を、頼まれたからいやいやながらも対等国として合併してあげたのに、植民地にしたと難癖をつけてくる韓国。日本の国家予算の20%を毎年半島につぎ込んで、近代化してきたのに? ヤンバンの横暴を押さえ、奴隷を解放し、四民平等を実現した日本。それまでお米を食べられかった人々にお米が食べれるようにしてあげて、農業技術も向上させた。日に日に暮らしはよくなって人口は2倍になり、半島名だと、日本人と同じ扱いを台湾、満州で受けられないから、と日本名をつけるのも自由にしてあげた。 愚民化政策を推し進め、賎民文字とバカにしていたハングルさえ教えたがらなかった李朝韓国。日本はそれに対して学校教育を制定し国民に学問を与え、ハングルを普及させ、優秀な人材を育て上げた。彼らは日本軍でも、官庁でも日本人と同じように優秀でさえあれば昇進することが出来た。 彼らは誇りを持って私は日本人だと名乗った。 だけど、日本が戦争に負けたとたんに、日本の財産を強奪し、日本に帰る日本人を虐殺し、事大主義の悪しき伝統をもって日本への恩返しとした。また、日本国内にいた韓国人はGHQでさえ手こずるほどの大暴れをして飢えている日本人を苦しめた。 なのに、戦後決まった、国際的なルールを無視して突然竹島を韓国の領土と言い、日本政府が憲法第9条により、穏やかに、穏やかにことを進めるのを見て、付け上がる。植民地ではなかったのに、ほとんどこちらが持ち出しを続けて発展させた国なのに、虐待されたと言って世界中に嘘をつきまくる。 だから、あなたたちの国は進歩しない。いつも、困難から目をそらして、誰かに責任転嫁をし、言論統制や外国の出版物も入らないようにして「反日」に固執するから未来がない。信頼されない。 昨日、私は夢を見た。 韓国人が自分の国を批判するのを見て、真実を知って嘘をつく祖国がいやになったのだと思った。 私たちは、寛大だ。 だから、過ちを認めた人をすぐに許すし、彼らが困っているなら何とかして助けたいと思う。 だけど、昨日自国を恥じた人は、今日は反日に躍起になっている。 輸出すればするほど、赤字になる体質の国、韓国。経済規模が世界9位だかなんだか知らないが、それでも赤字しか生み出せない経済構造は、国としての存続の危うさを物語っている。sonyは韓国から手を引いた。sonyブランドで恩恵を受けていた現代はどうなるのだろう? 日本ブランドは世界に通用する。 それは、日本人が職人や技術者を尊び、大切にするから。あなたたちは、ブルーカラーといって軽蔑するが、日本は職人や技術者を財産と考える。 小さな町工場のおじさんが、世界のシェアの9割を占めるようなものすごい技術を持っている。彼らは誇らない。卑下しない。問題にぶち当たったとき、たゆまぬ工夫を続けて、問題を解決しようと努力する。 あなたたちは、問題が起こると反日と騒ぐ。 日本はバブルが崩壊しても騒がなかった。どこの国も非難しなかった。ただ、もくもくと問題を処理するために水面下で静かに足を動かしていた。 日本だけが世界中の中でいわゆる「植民地」に謝罪し、賠償した国だ。ヨーロッパは300年も資源を強奪した挙句、賠償も謝罪もしていない。 戦勝国アメリカは日本に多額の米国債を売りつける。これじゃ、まるで日本は植民地だ。 それでも、日本は世界に賠償し、米国債を買い、貧しい国々を援助した。 私の亡くなった義父は、「外国に行くと、中国人か? 韓国人か?」と聞かれ、日本人だと答えると、扱いが丁寧になったと言う。あなたたちが認めなくても、嘘をついても、世界は日本の行動を知っている。日本が約束を守ること。嘘をつかないことを知っている。 中国は思っているより国の内側は危うい。 世界を見ることが出来ない反日韓国はそれも分からない。だから、中国は約束を守り、陰謀をたくらまない日本に近寄ってくる。結局、手ごわい欧米より、人のよい日本のほうが利用しやすいという現実的な考えもあるだろう。 私は、あなたたちのために、日本政府にメールして韓国政府に反日をやめさせるように圧力をかけようと思った。みんなに、頼めば、政府も動いてくれるだろうと思った。基本的に日本は外国を批判しない。それが伝統だ。だけど、それを変えて欲しいと思った。 韓国のために。 韓国が反日を捨てたら、言論統制はなくなるに違いない。だって、日本の統治時代の情報を入れないための情報操作、言論操作だから。馬鹿げたナショナリズムを捨てたら、ハングルだけでなく、漢字も復活させられると思った。 漢字に音読みと訓読みを作るチームをつくれば、韓国人の読書率&語彙力、また抽象的な思考力が伸びると私は間違いなく断言できる! 日本の知の巨人、司馬遼太郎が、「知り合いの韓国人大学教授」は、難しいことを考えるときは日本語で考えると言う話を披露していた。ハングルでは抽象的な問題を考えにくいらしい。 日本で言うとひらがなしかない状態。これでは同音異義語の区別や難しい概念を考えるのは途方もなく難しい。本を読むのもひらがなだけではめんどくさすぎる。 これらのことを考えて、私は韓国人のためにがんばろうと思った。 だけど、ある人が言ったように、韓国人をパートナーにするには不安がありすぎる。過去の言動を見ているとそう思う、と。 そうだ! 日本に移民する人は韓国と中国以外の人がいい。できれば、アメリカの反日政策にNo! といってくれた人たちがいい。「日本はそんなことをしなかった」とかばってくれたパラオや南太平洋の人、日本に親近感を持ってくれるヨーロッパやアフリカの人たちがいい。 日本に暴力と犯罪を持ち込む韓国中国の人は来ないでください。私は反対ですと政治家に電話をしよう。政治家も治安が悪化することを心配して慎重論を唱えている。心理テストをして、情緒的に問題のある人、暴力的傾向のある人はすべて跳ねてもらいたい。 韓国人は、極端だ。すぐに怒る。家庭内暴力がひどい。顔が似ているだけに何も知らない日本の女が韓国DV男に捕まったらたいへんだ! 私には、夫がいる。ハンサムで高収入。忙しくてあまり家にいないのが玉にキズだけど、限りなく優しく私を女王様のように扱ってくれる大切な人。 でも、日本の女が口のうまい韓国男と結婚したらたいへんだ。不幸なことこの上ない。結婚して暴力を振るう男など、日本では犯罪だ! 口下手でもやさしい日本男と結婚させなければ。。。。 だから、日本に来ないでください。移民しに来ないでください。昨日と今日とで反日と反韓を使い分け、私の同情心をかきたて、あきれさせた韓国男。こんなに気分に波があるなんて、あなたたちは忠誠心や正しいことを守り抜けるかどうかが疑わしい。 すでに、1度日本を裏切った韓国人。いまも嘘をついて恩をあだで返し続ける韓国人。何度裏切ったら、気が済むのですか? あなたたちには誠実と信頼と言う言葉はないのですか? 私は悲しいです。韓国人のいい加減さが理解できません。日本ではその日によって言うことが違う人は相手にされません。ましてや、日本がもっともたいへんなときに、恩をあだで返し、その後復興した日本に「反日」をもってお金をせびり続けた過去があるのですから。 しかも、自分の国民を平気で棄民する国。日本にいる韓国人60万人は多くはやくざとなり、不正な圧力をかけて生活保護を受けたり、税金を免除されたり、払っていない年金を払えと要求したり、とても活躍しています。彼らを見ていると、韓国からの移民を受け入れない方がいいと私は思います。だけど、昨日は、ある韓国男にだまされた。日本に不法に入国滞在して日本政府から甘い汁を吸っている人とは違う真面目な人がいるのだと思った。 だけど、それは、私のかんちがいだったのだろうか? 韓国人の倫理観は私たちとは違いすぎる。 それが歴史の違いとなって表れている。歴史は人間の思考が具体化され、社会に反映されたものなのだから。
Jul 9, 2008
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スウェーデンのアーソン・グレブストの書いた「悲劇の朝鮮」から抜粋。 一人の盗賊が処刑される現場に立ち会った、グレブストの目撃録である。「四十代に見える男は、顎にぼうぼうと髭を生やしており、すっかりやせ細っている。目には既に諦めの光りがさしている。悪臭が漂い、痩せた身体を包むぼろ服は、それまでいた監獄が、いかに汚く不潔であるかを、もの悲しくも訴えていた・・・。」「棒の使い道は、チュリの刑罰(両足の間に長い棒を押し込んでねじる仕置き)を与えることにあった。囚人の足の内側に棒をはさんで、執行人達は、自分の体重を全て棒の片側にかけた。囚人が続けざまに吐き出す叫び声は、聞いていてもじつ凄絶なものだった。足の骨が砕け、潰れる音が聞こえると同時に、その痛さを表現する声も主人の壮絶な悲鳴も止まった。全身縛られた状態であるにも関わらず、上体を起こした死刑囚は、殆ど座った姿勢になった。」「顔には、死人のそれのように全く血の気が無く、唇は、かたく閉じられて一つの細い真っ青な線となっている。両の目は白目をむいており、額からは冷たい汗が雨のようにしたたり落ちた。首が力無く垂れた。身体がだらりと地面にのびた。死刑執行人が棒をはずし、乱暴な手つきで実際に完全に手足が折れたかどうか調べている間も、囚人は、何も感じない死んだ羊のごとくじっと倒れたままだった。」「気絶した囚人は、ややあって意識を取り戻した。力無く首を左右にゆすりながらうめき声を出し、その場に身を横たえている。執行人らは、囚人の腕の骨と肋骨を次々と折ってから、最後に絹紐を使って首を締めて殺し、その死体をどこへら引きずっていった。」李朝末期における、「ごくありふれた」処刑の有様である。この有様は、いかに当時の世界全体の状況が、満足な人権社会ではなかったにせよ、それでも当時の朝鮮の姿は、残忍極まりない様相であった。グレブストは、李朝末期の朝鮮を次のように評している。「こんな(朝鮮のような)状況が、まだ地球の片隅に残されていることは、人間存在そのものへの挑戦である。とりわけ、私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、異教徒の日本人が朝鮮を手中にすれば、真っ先にこのような拷問を廃止するだろうという点だ。」 グレブスト以外にも、カナダのフレデリック・アーサー・マッケンジーは、その著書「朝鮮の悲劇」の中で、平安北道の監獄を訪れたときの見聞録を書き記している。「その監房の中は、とても暗くて部屋に入ってから暫くは何も見えないほどであったが、地上に平らに縛り付けられている3人の男がそこにいた。部屋には、明かりもなく通風窓もなかった。ただ僅かに壁にあけられた小さな穴があるだけであった。彼らの背には、むち打ちで裂かれた恐ろしい傷跡があり、その手は、きつく縛られた縄のために、ところどころ骨が見えるほどに肉が裂けていた。そしてそれらの傷跡は全く膿みほうだいになっていた。手足の上部は腫れ上がり、むち跡と水膨れができていた。一人の男の目は塞がっていて視力を失っており、まぶたからは、たくさんの膿がたれでていた。たぶん、両目をむちでひっぱたかれたのであろう。」「男達は、終日動くこともなしに、こうして監禁されたままなのである。私は、彼らを日の当たる所に連れ出した。それは難しい作業であった。彼らのうちの一人は、四肢が萎えてしまって、すでに殆ど体を動かすことが出来なくなっていた。彼らは、みんな、飢え衰えて、何かを嘆願したり、抗議したりする気力をも失っていた。そこは、私のこれまでに見た限りでの、地獄への一歩手前であった。」書いていても、吐き気がするくらいの残忍非道ぶりである。このような人間存在の否定とも言えるような、残虐非道な社会が李朝末期だったのである。 日本による朝鮮併合後、このような残虐な刑罰などは無くなり、朝鮮の一般民衆は、日本によって初めて「人権」を手に入れたと言っても過言ではないだろう。李朝末期の姿を美化というより殆ど歪曲捏造し、この世の楽園のように思う韓国人も少なくない。それは、「日帝の蛮行」というでっち上げられた歴史を誇張するための手段であり、実際は、このように楽園どころか、「地獄の一歩手前」という有様だったのである。韓国人は今一度、冷静にそして客観的に、李朝時代を振り返る必要がある。
Jul 8, 2008
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江戸城を無血開城した、勝海舟。これによって戦争にならずに、日本の近代化が達せられることになりました。 この方は、若いころ熱血漢でもありました。さて、幕府に命じられて異国船に乗って、浜に下りたところ、2名のサムライが火縄銃で自分と外国の教官を狙っているのを見つけました。かっとなった勝海舟は、鞭を持って2人の侍に駆け寄りました。その剣幕に驚いた田舎の侍は、海舟に許しを請いました。 この時、勝海舟はどうしたでしょうか? アンケートの機能が働かないので 1.2人の火縄銃を取り上げ、石にぶつけて壊してしまった2.欲しかった西洋本を差し出され、許してあげた。3.勢いあまって、鞭で2人の頭を殴った4.無条件に許してあげた。 答えはどれでしょうか? 答えは 4番です。やはり、日本人は寛容であり、哀れみ深かったのです。もちろん海舟の人柄もあるでしょうが、何も事情を知らない田舎侍を哀れみ、「これがばれたら重罰を受ける、どうか誰にも話さないでほしい」と言う言葉を受け入れたのでした。
Jul 7, 2008
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坂上田村麻呂の頃の「蝦夷征伐」ア イヌ征伐と聞くと、どんなに恐ろしいことをしたんだろう? と震え上がります。しかし、司馬遼太郎という、日本が誇る碩学が 「狩猟民族を稲作文化に引き込むことだった」と単純明快に説明しています。 古代から、日本は負けた人に優しいという伝統があります。なので、征伐と言っても人を殺して民族を絶やすことではありませんでした。それは単に、稲作文化に組み込んでしまうことだったのです。実際、考古学的に集落を調べてみると、縄文人(=アイヌの直接の先祖)と弥生人が融合して行ったさまが分かるのだそうです。(これの出典は明らかではありませんが、私がネットで読んだ)もちろん、大和朝廷としては、縄文人に稲作を押し付けて、彼らから税金を取りたかったでしょう。しかし、殺して土地を奪うのではなく、融合する方を選んだと言うのが、日本人らしいと言えるのではないでしょうか? もちろん稲作文化に抵抗し、先祖伝来の狩猟生活を捨てなかった人たちもいました。彼らは、北と南に逃げました。北海道のアイヌと沖縄。この人たちは縄文人の直接の子孫と考えられているそうです。 結局、これまで言われている通り、日本人は弥生人と縄文人のミックスです。私たちは最初から、対立をするより融合を求めた人たちの子孫です。殺人を嫌った優しい人たちの子孫です。 この、日本人の生き物を殺すのは嫌いだとか、負けた人がかわいそうと言う感覚はいろいろなところで顔を出すようです。 例えば、日本は、動物の殺傷を嫌い、それに携わる人を軽蔑する傾向がありました。穢多、非人と呼ばれた人たちも、その正体は動物解体業者だったらしいです。漁師は海から魚を取るだけだけれど、動物は生きているものを殺すという感覚で見られたからでしょう。 百済が滅びた時、わざわざ人質に来ていた百済王子を国王に立てて、半島まで行ったのも、日本人の負けた人がかわいそうだという、価値観から来たと思われます。 大和朝廷が、白村江で負けたとき、各地で転戦している軍隊を集めるだけでなく、被害を受けた水軍の船を総動員して亡命希望の貴族平民を全員連れて行ったのも、考えたらすごいことです。何しろ、負けたときに、味方を集めるのは非常に難しいことです。それなのに、一般の亡命希望者を全て船に乗せて帰ったのです! これも、負けた人が無残に殺されるのを放っておけないという伝統が古代においてさえ、すでにあったことを感じさせます。 驚くべきことですが、「国として機能できないから日本と併合したい」と朝鮮のほうから申し出たとき、やはり日本人は弱いものに=負けたものに優しいと言う伝統を発揮しました。日本は、当時最貧国であった韓国に国家予算の20%を注ぎ込んで近代化したのです。 強きをくじき、弱いものを守れ! が日本の武士道だったのもこれらを考えると当然の流れだと思います。
Jul 6, 2008
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お話しするには、まず、昔の日本人について話さなければなりません。 ゴーローニンもしくはゴロブニンは、ロシア軍が樺太で日本人にひどい乱暴をしたことを、 1.国家的な敵対行為か、2.それとも1軍人の跳ね上がりかを調べるために捕まってしまいました。 その間、2年数ヶ月。彼は日本の牢獄にいる間に、日本の下層階級と接することになります。 その時の経験を、彼は後に、「日本幽囚記」と言う本にしています。そこに書かれている日本人は「非常に社交的で人が集まると話が尽きることがない」「彼らは支那人をたいへん嫌っている。日本人で詐欺的な人物を見ると「あいつは、本物の支那人だ」という。これは彼らの一番の悪口である」「彼らは議論になっても冷静になってけんかになるところを一度も見たことがない。これはわが国の上流階級にも見られない特質である」「彼らの牢食は人道的といわざるを得ない」 でした。 日本人はもともと社交的でした。武士たちは口が重いものの、当時、半神だと自負していた人種差別むんむんの白人たちとも対等にやりあいました。開国して間もない日本人はヨーロッパの上流階級とそれなりに外交ができていた稀有な時代だったと碩学の司馬遼太郎は言います。 人間関係も濃密でした。 だけど、日本は変わりました。 敗戦によって? いいえ。正確には日本の共産化をもくろむ反日日本人と、反日国家が手を組んでプロバガンダを流布したからです。 いじめっ子といじめられっ子では、いじめっ子の方が悪いことが明白ですが、精神に打撃を受け、障害を持つようになるのはいじめられっ子のほうです。 特ア3カ国は捏造歴史で、何も知らない私たちに、親や祖父母への不信感を植え付けました。それから、日本は親子の断絶など家庭が崩壊し、コミュニケーション能力が失われていったのです。 特亜3カ国は、責める側だから、気分がいいでしょう。 しかし、日本は、朝鮮半島の併合でさえ頼まれてしたことなのに、責められ続ています。そして、親と子の信頼関係を壊され、さまざまな社会問題を抱えるようになりました。 私は、たくさんの本を読みました。そして、昔の日本人と今の日本人が大きく変わったことを確信しました。東京裁判で、インド人判事が「嘘の歴史を信じ込まされて民族の自尊心と快活さを失わないように、私が書いた判決を良く学んで欲しい』といってくれたことを思い出します。 彼は、戦後の日本人がこうなることを見通していたのです。 私たちは先祖をもう一度敬わなければなりません。 私たちの先祖は勤勉で、正直で、平和的な人たちだった。 親族や友人を大切にし、暖かい人間関係を築いていました。 私は、もう一度日本を朗らかで社交的な国にしたいです。もちろん、日本人にも生まれつき社交的な人はいます。しかし、民族全体が朗らかであった昔の民族性を、暖かさを取り戻したいのです。 だから、私は捏造歴史と戦います。 子孫により良い国を受け継がせるためにです。
Jul 5, 2008
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私は、特定アジア3カ国(=中国、北朝鮮、韓国)に憤りを感じています。彼らは、戦後、日本の敗戦をいいことに、歴史を捏造し、ありもしない空想話で私たちにゆすりとたかりを続けているからです。彼らが私たちに及ぼした影響は経済的なものだけではありません。 父親や、祖父が蛮行を行ったと教えられたために、日本の伝統を否定し、彼らの価値観を否定した子どもたちが多かったからです。 そのため、私が子どものころは、親子の断絶が激しくなり会話が途切れ、家族が崩壊する問題が取り上げられました。それからずっと、日本では家族の関係がどんどん弱くなっている。もちろん、それにはたくさんの理由があるでしょう。しかし、事の発端は、敗戦による価値観の大逆転だったと思います。 私は、昔の日本人が持っていた明るさや社交性、自尊心を取り戻したいと思います。そのために、微力を尽くしたいと思います。
Jul 4, 2008
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私が生まれたのは日本統治時代の台湾です。平和で安定した社会でした。教育は行き届き、町は綺麗で、泥棒も少ない、とても暮らしやすい社会だったのです。 今時の若い人が、戦争は日本が悪かっただの、特攻隊は可哀想だったの、なぜあんなひどい戦争をしたのかなどと言うのは、浅はかだし、時代を知らない者のセリフです。当時を生きていた人々の気持ちを知らないから言えることです。 現在の六十五歳以上の台湾の人達は、日本語族と言われ、昔の日本時代の良さを今も懐かしんでいます。日本に植民地統治をされた私達が、どうして日本贔屓になり、日本語を常用する日本語族になるのか、戦後教育を受けた日本の若い人にとっては不思議かもしれません。 それは、日本時代の五十年と、終戦後の中国統治下の五十余年とを比べた結果なのです。言ってみれば、中国の悪い政治が、私達を日本贔屓にしているのです。 日本は、五十年かけて台湾の近代化を進めました。近代国家としてのインフラを整備し、人々を教育して、それまでの中国式のだらしない国民を、「公」という精神を持った、法治国家の国民へと変えていったのです。 今の日本人は台湾のことを知りません。台湾が昔日本だったことも、領台の五十年、偉大な明治の先人達が苦労して台湾を近代化したことも全て忘れています。私達のような元日本人が台湾にいるということも、皆知らないのです。教育が忘れさせているのです。 悲しいことです。台湾に日本を愛する人達がいるという事実をわきまえてほしいものです。 中国が来てから、台湾でも教育は反日の教育になっています。人口のたった一五パーセントでありながら、政治やメディアを牛耳ってきた蒋介石のグループが、意図的に日本時代を悪く宣伝しているのです。だから、私達が知っている日本時代のことも、事実が教えられていません。言っても聞いてくれないから、私達も言いません。 といっても、韓国、北朝鮮のような反日はありません。日本時代を懐かしむ親達の世代の影響で、日本に好意を持つ若者も少なくありません。だから、台湾はかろうじて今でも一番の親日国なのです。 台湾の若い人達は、日本の若い人達とよく手を握ってやっていくべきです。日本の若い人も捏造された嘘の歴史を学んではいけません。双方に、正しい歴史を知ってほしいと願っています。 同じ日本の統治を経験した国として、韓国と台湾はよく比較されます。韓国は台湾とは正反対の非常に反日の国になりました。私の目には、韓国は結局は、アメリカの戦略に乗せられているように見えます。台湾統治の方が、韓国統治より長かったせいだとよく言われますが、それよりも、一番の違いは、戦後の教育、そして国民性の違いでしょう。韓国人は、日本統治を「恨み」としていますから、総督府を取り壊すという極端なことをやりますが、台湾人にその感情はありません。私が勤めていた西松組にも、同僚に韓国人が三人ほどいましたけれど、当時からあまりいい感じではありませんでした。 戦後、日本人が帰国してしまっても台湾に残った私のような日本語族を「帰らざる日本人」と人は呼びます。 日本の教育を受けた私達の世代は、その日本精神によって、台湾をより良い国にしていく義務があると思って頑張っています。日本の若い人も、私の体験に耳を傾けて、昔の日本の素晴らしさにきちんと気付いて欲しいと思います。台湾と日本が、共に昔のような素晴らしい国になってくれるのが私の願いです。帰らざる日本人より
Jun 3, 2008
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今村均 1886-1968 陸軍大将 宮城県仙台市出身。陸大を首席で卒業。中国戦線で活躍し、太平洋戦争ではジャワ攻略を指揮、わずか9日間で10万のイギリス・オランダ軍を降伏させる。 ジャワでの今村の軍政は素晴らしいものだった。徹底して現地住民を保護し、略奪や強制労働を 一切許さない。スカルノらオランダに捕らわれた独立運動の指導者を解放し運動を援助。 さらに石油施設を復旧して石油価格を半額とするなど、治安回復と経済復興を進めた。 その頃日本国内では衣料品が不足し始め、政府はジャワの白木綿の大量輸入を打診。 しかし今村は「現地住民の生活を圧迫する。また埋葬にも使用されるため宗教心も傷つける」と拒否。 結局「日本型官僚組織」である陸軍部内では疎まれ解任、ニューブリテン島のラバウルに着任する。ラバウルでの今村の指揮もまた、特筆すべきものだった。 今村はラバウルもいずれ孤立し、補給が続かないことを予見。 自給自足を可能とするため島内に 大量の田畑をつくり、将軍自らも耕し汗を流した。 また米軍の空襲・上陸に対抗するため全島に堅固な地下要塞を建設。 そのあまりの堅固さにマッカーサー以下米軍司令部もニューブリテン攻略を あきらめ、飛び石作戦により孤立させる作戦を採った。 しかし今村の指示により 自給自足を可能としていたラバウルでは十分な食糧を備蓄しており、終戦まで日本軍が保持することができた。 終戦後の今村の行動も賞賛すべきものだった。 軍法会議にかけられた今村は オーストラリア軍の裁判では、不当な報復感情により死刑にされかけたが、現地住民の証言などにより禁固10年となる。さらにオランダ軍の裁判では無罪となる。 裁判中の今村のもとにインドネシア独立運動家が現れ、「あなたが死刑になったら独立運動軍が あなたを奪い返します」と告げたが、今村は「気持ちはありがたいが自分のために独立軍とオランダ軍が交戦するのは忍びない。もしそれで生き残っても恥である」と述べた。 東京・巣鴨で服役した今村だったが、かつての部下が劣悪な環境の南方の収容所で服役していることを知ると、自らマッカーサーに直訴してマヌス島収容所への入所を希望。 マッカーサーは後に「私は真の武士道に触れた」と語っている。 マヌス島では憎悪に燃えるオーストラリア兵による旧日本兵への虐待が行われていたが、今村がつくとかつての部下が感動したのはもちろん、オーストラリア兵までが今村の人柄に動かされ扱いが改善。さらに現地住民にも慕われた。 満期満了により帰国後も自宅に小さな謹慎小屋を建ててこもり、戦争の反省と回想録の執筆に没頭した。その印税収入はすべてかつての部下や遺族の援助に費やした。 1968年10月4日没、享年82歳。
Jun 2, 2008
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1938年3月、満州の関東軍ハルピン特務機関長・樋口季一郎陸軍少将(後に、中将)のところに、満州国とソ連との国境沿いにあるソ連領オトポール駅にナチス・ドイツの迫害を逃れるため2万人のユダヤ人が押し寄せているという情報が持ち込まれた。 亡命先に行くため、満州国の入国を求めているものの、満州国政府が入国を拒否。そのため、難民たちは行き場を失い、極寒の吹雪の中で野宿同然の状況にあり、食糧も尽き、飢えと寒さで凍死者も出ていた。 この惨状を知り、樋口は悩んだ。 当時、日本はドイツと友好関係にあったため、ユダヤ人難民の亡命を手助けした場合、ドイツの政策を間接的に批判することになったからである。しかし、樋口は決意し、部下の安江千江大佐らとともに、即日、食糧や衣類・燃料を配給し、加療を行った。そして満州国外務部の下村信貞と協議の上、難民の満州国入国を認め、通過ビザを発行した。さらに満鉄の松岡洋右総裁(後に外務大臣)にも連絡を取り、救援列車の出動を依頼した。 救われたユダヤ人難民たちは、やがて日本、上海、アメリカ他へと安住の地を求めて渡って行った。こうして「樋口ルート」は、ドイツとソ連戦勃発まで、ユダヤ人の自由への道となった。また、一部の難民たちは、開拓農民として、ハルピンに入植することになったが、樋口は土地と住居を斡旋するなど、最後まで面倒を見た。 予想した通り、ドイツからは強硬な抗議があった。 樋口は、満州国にある関東軍司令部に出頭を命ぜられた。樋口はその思いを東条英機参謀長(のちの首相)に訴えた。東条は彼の話を聞き、この一件を容認し、処罰はしなかった。 樋口は、1942年(昭和17年)8月、北部軍司令官として札幌に赴任。 北海道を攻撃してきたソ連軍を撃退し、北海道上陸を阻止した。そのため終戦後、ソ連は樋口を「戦犯」に指名し、連合軍総司令部に引渡しを要求してきた。 これを知った世界ユダヤ協会は、世界中のユダヤ人コミュニティーに呼びかけて、世界的規模で樋口救出運動を展開した。この動きを受け、アメリカ国防総省もソ連からの引き渡し要求を拒否。 樋口を擁護した。 第二次大戦後、ユダヤ民族の幸福に力をかした人々の恩を永久に讃えようと、全世界のユダヤ人が金貨や指輪を送って鋳造した「黄金の碑(ゴールデン・ブック)」には、モーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタインという傑出したユダヤ人に次ぎ4番目に樋口の名がある。 「偉大なる人道主義者 ゼネラル・ヒグチ」と刻印され、その功績が永く顕彰されることとなった。、樋口の次には彼の部下であった安江仙江大佐の名も刻まれている。
Jun 1, 2008
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私が、最近、日本と特定アジア3カ国について(=中国、南北朝鮮)本を読み始めたのは数ヶ月前からです。 私は、外国人から、日本人の自虐歴史の嘘を教えられてたいへん驚きました。 そうです。私は、ずっと反日日本人の作り出した旧日本軍の蛮行を信じていたからです。それが、嘘だと知ったとき、日本の先祖が悪い人たちではなかったことに喜びを感じました。それと同時に、これほどまでに、日本人が洗脳されていることに悲しみを感じました。 日本人は、本来、社交的な民族だったらしいです。 それは、ゴローニンの日本幽囚記にも書いてありますし、南蛮貿易が許されていた時代に、日本人が南蛮人と友だちになり、南アフリカに殖民して、インド人女性と結婚し、白人入植者の仲間になったことからも分かります。 それなのに、どうして、日本人はこんなにシャイになってしまったのでしょう? それは、繰り返される旧日本軍の残虐史観と、何でも自虐報道にすりかえる、反日日本人に牛耳られた新聞やマスコミによって日本人は孤立していると思わされ、すっかり自信を失ったからに他なりません。 しかし、現実は、 世界で最も良い影響を及ぼしている国として、日本は3年連続の1位を獲得しています。 これは、イギリスBBCが世界30数カ国を対象にして調査した結果出てきたもので、日本人の自画自賛ではありません。 こうしたことは、報道されることはなく、いつも日本が孤立、孤立とバカの一つ覚えのように繰り返されています。 一体、反日日本人たちは、どうして日本をけなすのでしょう? 日本という国をどこに売り渡すつもりなのでしょう? そうしたことを考えると、私は、ここでささやかながら日本礼賛を唱えるしかありません。 日本人は、善意のある民族だった、白人至上主義の人たちからでさえ、その高潔さを認められた唯一の異教徒であると…。 日本人の高潔さ、善良さがずっと続きますように! どうか、この伝統が長く続きますように!
May 31, 2008
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スウェーデンのアーソン・グレブストの書いた「悲劇の朝鮮」から抜粋。 一人の盗賊が処刑される現場に立ち会った、グレブストの目撃録である。「四十代に見える男は、顎にぼうぼうと髭を生やしており、すっかりやせ細っている。目には既に諦めの光りがさしている。悪臭が漂い、痩せた身体を包むぼろ服は、それまでいた監獄が、いかに汚く不潔であるかを、もの悲しくも訴えていた・・・。」「棒の使い道は、チュリの刑罰(両足の間に長い棒を押し込んでねじる仕置き)を与えることにあった。囚人の足の内側に棒をはさんで、執行人達は、自分の体重を全て棒の片側にかけた。囚人が続けざまに吐き出す叫び声は、聞いていてもじつ凄絶なものだった。足の骨が砕け、潰れる音が聞こえると同時に、その痛さを表現する声も主人の壮絶な悲鳴も止まった。全身縛られた状態であるにも関わらず、上体を起こした死刑囚は、殆ど座った姿勢になった。」「顔には、死人のそれのように全く血の気が無く、唇は、かたく閉じられて一つの細い真っ青な線となっている。両の目は白目をむいており、額からは冷たい汗が雨のようにしたたり落ちた。首が力無く垂れた。身体がだらりと地面にのびた。死刑執行人が棒をはずし、乱暴な手つきで実際に完全に手足が折れたかどうか調べている間も、囚人は、何も感じない死んだ羊のごとくじっと倒れたままだった。」「気絶した囚人は、ややあって意識を取り戻した。力無く首を左右にゆすりながらうめき声を出し、その場に身を横たえている。執行人らは、囚人の腕の骨と肋骨を次々と折ってから、最後に絹紐を使って首を締めて殺し、その死体をどこへら引きずっていった。」 李朝末期における、「ごくありふれた」処刑の有様である。この有様は、いかに当時の世界全体の状況が、満足な人権社会ではなかったにせよ、それでも当時の朝鮮の姿は、残忍極まりない様相であった。グレブストは、李朝末期の朝鮮を次のように評している。「こんな(朝鮮のような)状況が、まだ地球の片隅に残されていることは、人間存在そのものへの挑戦である。とりわけ、私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、異教徒の日本人が朝鮮を手中にすれば、真っ先にこのような拷問を廃止するだろうという点だ。」日本人が残虐を嫌う民族であることはすでにこの時代の人々に知られていたようです。 グレブスト以外にも、カナダのフレデリック・アーサー・マッケンジーは、その著書「朝鮮の悲劇」の中で、平安北道の監獄を訪れたときの見聞録を書き記している。「その監房の中は、とても暗くて部屋に入ってから暫くは何も見えないほどであったが、地上に平らに縛り付けられている3人の男がそこにいた。部屋には、明かりもなく通風窓もなかった。ただ僅かに壁にあけられた小さな穴があるだけであった。彼らの背には、むち打ちで裂かれた恐ろしい傷跡があり、その手は、きつく縛られた縄のために、ところどころ骨が見えるほどに肉が裂けていた。そしてそれらの傷跡は全く膿みほうだいになっていた。手足の上部は腫れ上がり、むち跡と水膨れができていた。一人の男の目は塞がっていて視力を失っており、まぶたからは、たくさんの膿がたれでていた。たぶん、両目をむちでひっぱたかれたのであろう。」「男達は、終日動くこともなしに、こうして監禁されたままなのである。私は、彼らを日の当たる所に連れ出した。それは難しい作業であった。彼らのうちの一人は、四肢が萎えてしまって、すでに殆ど体を動かすことが出来なくなっていた。彼らは、みんな、飢え衰えて、何かを嘆願したり、抗議したりする気力をも失っていた。そこは、私のこれまでに見た限りでの、地獄への一歩手前であった。」書いていても、吐き気がするくらいの残忍非道ぶりである。このような人間存在の否定とも言えるような、残虐非道な社会が李朝末期だったのである。 日本による朝鮮併合後、このような残虐な刑罰などは無くなり、朝鮮の一般民衆は、日本によって初めて「人権」を手に入れたと言っても過言ではないだろう。李朝末期の姿を美化というより殆ど歪曲捏造し、この世の楽園のように思う韓国人も少なくない。それは、「日帝の蛮行」というでっち上げられた歴史を誇張するための手段であり、実際は、このように楽園どころか、「地獄の一歩手前」という有様だったのである。韓国人は今一度、冷静にそして客観的に、李朝時代を振り返る必要がある。
May 30, 2008
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嫌韓に類することを書くと、ものすごい攻撃を受けるらしいので、ここで引用します。ベトナム人に残虐戦犯行為する韓国人『猛虎六号作戦』そのとき私たちは完全に頭に血が昇って狂ったようになっていました。村ではベトコンを探し出すのが難しくて、私たちは見せしめのために村長の娘を木に吊るして腹を切ったんです。それでも、村長は何も言わなかったので、二番目の娘も同じようにして殺したんです。そして、三番目の娘を吊るしたら、とうとう村長が口を開きました。こうやってベトコンを全部探し出して、村長も含めてそこにいた人たちを皆殺しにしました。 こんなことは数えきれないくらいありました。 私たちは人間ではなかったんです……」 日本人に残虐戦犯行為する韓国人「高麗史」によれば、元寇の発端は高麗の忠烈王が元の世祖(フビライ・忽必烈)にしきりに働きかけ、執拗に日本への遠征を勧めた。その結果、1274年、高麗は自ら、日本を侵略するために、戦費全額を高麗が負担、軍船900隻建造し、2万人の高麗軍によって、日本の対島・壱岐に上陸し残虐な殺戮を行った。1274年10月5日、対馬に上陸した敵兵は、住民は男はことごとく殺され、女は生きたまま手に穴を空けられ、数珠のように繋がれ、捕虜として船に吊るされた。 秀吉以前の話です。日本人にはこういう残虐な発想はなかったように思います。同じアジア人としてとても残念です。
May 29, 2008
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毎日新聞のコラムにこんなパラオの話が載ったことがある。 遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。 「あそこでみんな死んでいったんだ……」 沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。 太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。老人は村の若者達と共にその作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。 やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。 仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。それを聞くなり隊長は激高し叫んだという 「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」 日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。 船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。 しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。 そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。 その瞬間、彼は悟ったという。 あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと……。 「パラオの統治者である日本軍」としては、パラオ諸島の小さな島・ペリリュー島の民間人を“圧倒的不利な戦局”に巻き込んではならないと配慮したのだ。そして船舶も乏しい中、空襲を避けて夜間に船を出し、住民の全員をパラオ本島に避難させたのである。 そして日本軍はパラオを死守するために文字通り死を覚悟して戦った。 日本は圧倒的に不利だった。アメリカに制海権・制空権を掌握されている上に、兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍という歴然たる戦力差。しかしそれでもアメリカの上陸作戦史上最高の損害比率を出させるほどに抵抗し、全く補給もなく73日間も守り通し、玉砕したのだ。 最期に『サクラ・サクラ』という電文だけを残して。 その戦いの甲斐あって最大激戦地・ペリリュー島での民間人死傷者はゼロだった。 戦争後に島に戻った島民たちは、放置されていた夥しい数の日本兵の亡骸を泣きながら埋葬した。後にペリリュー島のオキヤマ・トヨミとショージ・シゲオが“ペリリュー島の玉砕戦”を、日本の国花・桜に託して作った『ペ島の桜を讃える歌』は、今でも彼らに愛唱されているという。 後にペリリュー神社は青年神職南洋群島慰霊巡拝団やイサオ・シゲオ尊長ら島民の手により「すべて日本から運搬した材料を使って」再建された。 この神社の前には戦中は敵だったアメリカ太平洋艦隊司令官 チェスター・W・ミニッツの言葉でこんなことが書かれている。 「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。この島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶う、その心根を。」 http://3.csx.jp/peachy/data/korea/korea3.html ここのHPから抜粋させていただきました。あまりにも美しい話だったので…。
May 28, 2008
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★オーストラリア人に残虐戦犯行為する韓国人■ケニス・ハリスンの著書「あっぱれ日本兵」から抜粋※日本軍の捕虜となったオーストラリア兵の証言を抜粋その日の最後に、韓国人に会わされた。韓国人は(日本人と比べて)大型で、顔は平たく、知性で劣り、日本人が与えた屈辱を我々に転嫁した。どんなに試みても、彼らと本当の人間関係を作る事は出来なかった。体罰では、日本兵よりも彼ら(韓国人)を遥かに恐れた。世界人に残虐戦犯行為する韓国人■占領地域全体で・・・PARIS MATCH記者、A・スムラーの著書「日本は誤解されている」から抜粋※フランスの雑誌「PARIS MATCH」日本人戦犯の責任を軽減するつもりはないが、占領地域で最も嫌われたのは、日本国籍を持っていた韓国人だった。※殆どが民間人です。(軍属・入植者)■後日談最近、元オーストラリア兵の捕虜と、その監視をしていた韓国人が面会したそうです。韓国人は「我々は日本に強制されて捕虜の管理をしていた。同じ日本の被害者だ!」と言いながら、元オーストラリア兵に握手を求めたそうです。しかし・・・。オーストラリア人は「あの残虐行為は個人の問題だ!」と言って握手を拒絶したそうです・・・。
May 27, 2008
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豊臣秀吉の朝鮮出兵に関し、韓国の教科書は大体次のようなことを教えている。「秀吉の侵略に対して、朝鮮では軍隊だけでなく全国各地の農民や僧侶達までも立ち上がり、国民一丸となって日本軍を撃破した。」 この記述は正しいのだろうか? 実は、朝鮮側の資料でもある「宣祖実録」には次のように書かれている。 「人心怨叛し、倭と同心」「斬る所の首級半ば皆朝鮮の民」 朝鮮の民衆は既に王や大臣を見限り、日本軍に加担する者が続出した。また、明の朝鮮支援軍が駆けつけてみると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であった。と書かれているのだ。 実際、王が首都漢陽から逃げ延びるとき二人の王子は民衆によって捕らえられて日本軍に引き渡されている。漢陽死守を願う民衆を見捨てて、王や大臣たちがとっと逃げだしたのだから、朝鮮民衆も彼らのために命を投げ出して日本軍と戦う気が起きるわけがない。また、景福宮などの焼失は、大部分の韓国の観光案内板によれば、秀吉の朝鮮出兵によるものと書かれているが、それは虚偽である。李恒福の「白沙集」によれば、秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっていた。それは、民衆が兵乱と聞けばすぐに蜂起して、宮廷を襲い略奪したからだ。ことに奴婢は、秀吉軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った。とある。以上の出典は全て韓国側の資料である。自分たちに都合の悪い資料であるからと恐らく韓国では無視されているとは思うが、これが歴史の真実だ。どんなに偽りの歴史を喧伝しても、いつかはそれが暴かれる日が来ることを韓国人は知らなければならない。
May 26, 2008
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ある台湾女性のブログより あらされると困るので、URLは乗せません。 中国人に残虐戦犯行為する韓国人朝鮮日報中国語版掲示板より 韓国にいたときはよく知らなかったが、最近「天涯」誌上で次のような文を読んだ。あらゆる善良な中国人は、南京大虐殺の中に韓国人の影があることや、ベトナム戦争で米軍の先遣部隊として韓国軍が焼き払い、殺し、奪うなどありとあらゆる事をしたのを知っている。もし歴史に機会があれば、韓国は第2次大戦中の日本よりいっそう恐ろしくなる!これが韓国なのだ!日本が東北三省を占領したとき(満州国)、人間は四等級に分けられた。1等はもちろん日本人だった。2等は満州人だった。これはわかりやすい。満州人は中国を統治したし、溥儀は皇帝だ。3等は韓国人、4等は漢人だった。 当時、最も漢人をいじめたのは意外にも韓国人だった!そのころ、下っ端の警察官はすべて韓国人で、中国人に与えた残酷さは日本人を上回っていた!あの時はみんなが亡国奴だったが、韓国人が私たちより数日早く亡国奴になったおかげなのか?中国は韓国人のことをこう呼んだ。高麗棒子!★イギリス人に残虐戦犯行為する韓国人■映画「The Bridge on the River Kwai」アカデミー賞を受賞。日本では「戦場に架ける橋」の名で上映されました。この中で、日本軍が捕虜のイギリス人をリンチする話が出てきます。実は、この収容所でイギリス人をリンチした人間は殆ど「韓国人」でした。しかも「民間人」でした。戦後148名が罪に問われました。★フィリピンに残虐戦犯行為する韓国人■日本の登山趣味を持つ医師の述懐から抜粋。登山では仲間の信頼関係が大切だ。韓国、フィリピン、日本の3人で風雨の中、登頂する寸前の事だった。休憩のときAN(安)が韓国人である事を知らないフィリピン人が言った。「日本の占領下で最も残虐だったのは韓国人だった。赤子を投げて銃剣で差したのも彼らだった。皆がそう信じている。」一気に遭難しそうになったパーティを必死で支えながら、私は山下将軍の亡霊を見たような心境だった。その後も各地でこのような話を聞いた。 愛国者であったAN(安)の気持ちが心配だった。 当時、韓国は存在しない国でした。朝鮮半島の人たちは日本人だったのです! そして、日本人だった人たちの汚名を私たちは着せられているのです。 どうして、こんな風になっちゃたんでしょうね?
May 25, 2008
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李登輝が登場するまで、台湾も反日歴史捏造していたそうです。ところが、家庭では父母が「本当はね…」と日本に肯定的な発言をしていたので、まったくの反日にならなかったとか。今は、日本の統治の成果を教えることに熱心だそうです。 彼が言うには、世界では第2次世界大戦の日本軍の行動を侵略と取っていないそうです。そして、南京大虐殺も中国の歴史カードの一つでしたが、あまりにも執拗な中国の攻撃に、第3者であるアメリカ人が「それは捏造だ!」と主張し、少なくとも歴史学会では相手にされなくなった”史実”だそうです。つまり、ファンタジーです。また、写真の偽造もばれているらしいです。 嘘って必ず、どこかでほころびを見せるものですね。 さて、反日教育を受けた王文雄氏の長年の歴史研究の結論は 「日本は何も悪いことをしていない。もし、どうしても日本の間違ったことを指摘しろというなら、第2次世界大戦に負けたことだ」 と言っています。彼は中国や韓国の嘘を許すな! でないと余計に付け上がるといいます。 日本は誠実な統治者だったし、善意ある隣人であった。アジアをここまで経済発展させたのは日本の人道主義的な行動による、と言い切っています。その証拠に、欧米から植民地にされたアフリカの現在に至る貧困のありさまと、日本の植民地にされたアジアの発展を上げています。 とりあえず、中国で日本の占領地区に逃げてきた人が多かったのは、自国の政府よりも、日本軍占領地区のほうが安全で大切にされたからだそうです。つまり、中国人民を殺したのは日本軍ではなく、中国兵だったということらしいです。 その日本を常に悪役にしなければならないのは韓国と同じ事情によります。ロシアや米国を敵に回したら、日本と違って生命線を絶ってきますから、国が滅びるという現実的な計算によるものだそうです。
May 24, 2008
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日本駐さつ(=漢字変換で出ない)日記 日本ちゅうさつ日記 1856年 「日本の国民にその器用さと勤勉さを行使することを許しさえすれば、日本はやがて偉大な、強力な国家となるであろう」
May 23, 2008
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「日本幽囚記」 ロシア軍人ゴローニンは1811年に部下とともに国後島において、不法入国で捕まりました。その後、2年3ヶ月函館で幽閉されました。その経験をつづったものが日本幽囚記です。 当時の日本の様子を詳しく知る貴重な文献だったらしく、ゴローニンは 「日本人は天下を通じてもっとも教育の進んだ国である。」 と紹介しています。ゴローニンは囚人と言う立場から日本を見ていたにもかかわらず、日本に対して好意的にかつ鋭く観察をしていました。勤勉で高潔な日本人の性格を評して 「将来必ず大発展をする国民だ」 と、当時ヨーロッパのどこの国も思いもしなかった極東の蛮国を高く評価しました。実際、 手記の中でも 日本人は誰でも読み書きできて当たり前なので 一緒に捕虜となったロシアの水夫達が字が書けない事を知って驚く場面がありますが そんな日本人にゴローニンも驚いたのでした。
May 22, 2008
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旧日本軍では将校が指揮棒代わりの軍刀を持っていました。 ちなみに、 日本刀は世界で最も完成された刀剣といわれています。炭素の混じり具合が絶妙で、「そり」や「粘り」があって、思っているよりずっと重い。この日本刀を完成させるには、うろ覚えですが、2週間かかったと思います。(現代でも日本刀を作っている人がいて、TVで紹介されていました) 値段では一本100万から200万円。普通の人が買えるものではありません。 しかし、世界で最も優秀な刀剣とされる日本刀も、実際の戦闘では3人切るくらいが関の山で、あとはのこぎりのように引かなければならなかったそうです。つまり、使い物にならなかった。 なぜでしょう? それは、人間を切ると刀に脂肪がつくし、刃こぼれしたからです。刃こぼれすると、専門の職人に磨いでもらわねばなりませんが、日本刀は包丁と違って、高温の炉を使わねばならなかったと記憶しています。(武器と道具の違いですね) というわけで、専門の職人がいない戦地で軍刀による100人切りが可能であったかどうかは、考えてみるまでもありません。 何度も反日日本人や反日勢力によって繰り返されるこの話題ですが、実際に接近戦があったことが証明されているわけではなく、むしろ接近戦はなかったとされています。ですから、反日勢力が証拠としてあげてくる、現在の毎日新聞に載っていた100人切りの記事は、日本人はこんなに強いんだよ、勝っているんだよ、というプロバガンダだったのです。 当時は、ずっと負けているのに、国民の戦意喪失を恐れて言論統制が行われ、連戦連勝! と嘘ばかり新聞は書いていました。つまり、100人切りも戦意高揚のための嘘の記事です。 でも、この記事のせいで、名前が載った2人の将校は戦犯として処刑されてしまいました。本当にお気の毒です。 反日日本人の正体は、戦後間もないころから日本を共産化しようとした人たちです。 彼らはヒューマニストの仮面をかぶって、いかに旧日本が残酷だったかを強調して、政府に対する不信感を国民に植え付けようとしました。これは反日国家韓国と協力することで、大成功を収めました。 ところが、 この見解は多くの支持を得たものの、日本に革命はおきず、共産化しませんでした。 なぜでしょう? それは、ロシア革命やフランス革命に関する本と読むと分かります。 国民を巻き込んで革命を起こすエネルギーを持つには、国民の長年にわたる怒りの蓄積が必要です。フランス革命、ロシア革命前夜の民衆の貧しさは、日本の想像を絶するものがあります。ところが、日本はそれらの国々と違って、あまり貧富の差がなかったことと、戦争でたくさんの命を失い、これ以上の混乱を望まなかったこと、もともと温和な民族であったことから目立った行動がおきませんでした。 もちろん、60年代の日米安保闘争、70年代の東大を初めとする学園紛争があったにはあったのですが、一般には浸透しませんでした。 それをなんとかインテリが変えようとしたのですが、生活に困るわけでもないし、迫害されているわけでもない一般人たちは平凡な日常を良しとしたのです。 とりあえず、世界の学会ではこれらの問題は解決済みです。詳しく知りたければ、以下のHPを読んでみてください。 http://www.geocities.com/TheTropics/Paradise/8783/index.htmlhttp://www.geocities.com/TheTropics/Paradise/8783/video.html
May 21, 2008
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こんな話があります。 彼は、1996年1月1日にワシントン州の郊外ベセスダの海軍病院で亡くなっているのですが、その葬儀に参列した石田捨雄元海上幕僚長の話によると、バーク氏の遺体の胸には、その勲一等旭日大綬章だけが付けられていたそうです。もちろん、棺外側には受賞した勲章がずらりと並べられていたのですが、胸に付けられていたのは日本の勲章だけ…。石田海上幕僚長が副官にそのことについて尋ねると、日本の勲章を胸につけるのはバーク氏の遺言だということでした。 生前のバーク氏に対して海上自衛隊はその功績を忘れないために、海上幕僚長(海軍大将)が訪米するたびに表敬訪問し、それに加えて歴代の防衛駐在官が誕生日になると自宅に必ず花を届けたというのですから、日本の海軍関係者がいかにバーク氏に対し、感謝していたかがわかります。 晩年のバーク氏は、米海軍よりも海上自衛隊の方が自分を大事にしてくれると大変喜んでいたというのです。 しかし、このバーク氏は、かつては大変な日本人嫌いであり、太平洋戦争では、第23駆逐艦群司令として出陣し、次のように日本海軍に大きなダメージを与えました。--------------------------------------- 巡洋艦 1隻撃沈 駆逐艦(川内、初風、大波、巻波、夕霧など) 9隻撃沈 潜水艦 1隻撃沈 飛行機 30機撃墜--------------------------------------- バーク氏がなぜこれほどまでに日本に対して敵愾心を持ったかですが、おそらく日本軍が真珠湾攻撃で戦艦「アリゾナ」を沈めたのが原因ではないかと思います。バーク氏は海軍兵学校を出たあと、最初に乗り込んだ軍艦が戦艦「アリゾナ」でしたから。 そのバーク氏が日本にやってきたのは、朝鮮戦争勃発後の1950年9月のことです。そのときのバーク氏の階級は少将――ときの米海軍作戦部長フォレスト・シャーマン大将直々の要請で、日本にやってきたのです。 彼は日本に向かう飛行機の中での気持を自伝の草稿の中で次のように書いています。--------------------------------------- 東京に飛ぶ飛行機の機内で、私は突然司令部が東京にあることの意味に思い至った。おそらく日本人とかなりの程度やりとりせねばならないだろう。戦争中の経験から、日本人はまったく好きではなかった。できる限り彼らと接するのを避けよう、(接するにしても)礼儀正しく、冷たく、なるべく距離を置こうと決意した。 ――阿川尚之著『海の友情/米国海軍と海上自衛隊』より。中公新書--------------------------------------- バーク氏の東京での宿舎は帝国ホテルだったのですが、そこでバーク氏が日本人を見直す小さな事件が起こります。バーク氏に用意された部屋は小さく、ベットと椅子と鏡台があるだけの陰気な部屋だったそうです。 そこで、バーク氏はホテルの地下の花屋で花を買って、コップに入れて鏡台の上に飾り、残りの花はそのままにしておいたのです。ところが、その次の日、花は花瓶にきれいに飾られていたのです。それから、毎日部屋に少しずつではあるが、花が飾られるようになり、バーク氏は随分となぐさめられたといいます。 バーク氏は、花を飾ってくれる心遣いに対してフロントに謝意を述べると、フロントはそのようなことはしていないというのです。結局その部屋を担当するメイドさんの心遣いであることがわかったのです。彼女は太平洋戦争で夫を亡くした未亡人でしたが担当の部屋の外国人が、花を求めていることがわかったので、乏しい給料の中から少しずつ花を買い、毎日部屋を飾ってくれたとわかったのです。 バーク氏はホテルを通じていくらか金を包もうとしたのですが、本人は固辞して受け取ってくれませんでした。このことからバーク氏は、金で感謝するのは日本の礼儀に反することを知り、親切には親切で返すしかないことを学んだといっています。 後にバーク氏は、この小さな出来事によって、自分の日本人嫌いが正当なものか、考えるようになったといっています。実際にこの帝国ホテルの小事件を境に、バーク氏はかつて自分が日本人に対して立てていた方針――できる限り彼らと接するのを避け、接するにしても礼儀正しく、冷たく、なるべく距離をを置く――を撤回し、積極的に日本人と付き合うようになったといいます。 バーク氏は、日本という国をもっと知りたいと思い、当時極東空軍司令部(明治生命館)にいた同期のエディー・ピアス大佐に相談します。そして、ピアス大佐から紹介されたのが、野村吉三郎元海軍大将なのです。こうして戦争に負けた国の老海軍大将と、戦争に勝った国の前途ある海軍少将との交流がはじまったのです。
May 20, 2008
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日本人が儒教国家だと誤解している人がいますが、日本は儒教国家ではありません。 儒教の祖とされるのは孔子だと思いますが、孔子がどんな人物か御存知ですか? 彼は、人肉を食べ、権力を握ったときは反対派をおよそ8万4千人粛清しました。もちろん、口は達者で、弟子たちをたくさん集めて人倫を説きましたが、自分が悪人だからか、性悪説に立った思想です。そして、労働をいやしみ、民はバカなほうがいいと説きました。 その結果、どうなったでしょうか? 君主は働くことを嫌がり、ヤンバンはご飯さえ自分で食べようとしませんでした。上がそうであれば、下の人たちもそうなります。彼らは、天下国家の理想論をぶち上げるだけで満足し、愚民には知識を与えようとしない。もちろん、それでは国は発達しませんが、彼らは自分たちがよければそれでいい。自分が食べられたらそれでいいのです=物がなくなったら、民から搾り取ればいいのです。 民もそれでは困りますから、なんとか嘘をついて、それから逃げようとします。上のものに賄賂を渡して、他のところから利益を得ようとします。当然、正直者がそんをする社会です。 中国の家庭教育は今でも「人に騙されるな!」だそうです。 ちょっとお使いに行くのでさえ、「騙されるんじゃないよ!」と注意する。日本が、嘘は泥棒の始まりと教えるのとはまったく正反対です。日本はすでに唐の時代で中国を見限りました。これ以上何も学ぶことはないと判断したのです。そして独自の文化を築き上げました。中国の属国であった韓国は、日本文化の起源は韓国だと妄想していますが、本家を唐のころに見限っているのに、それはありえないことです。 韓国の人たちは、中国を大国と思い、いずれ日本を追い越して世界No.2か、もしくはNo.1さになると思うでしょう? でも、私はそうならないと思います。なぜなら、中国は今でも儒教国家だからです。 中国の経済成長率は年8%くらいと発表されています。しかし、この統計は本当なのでしょうか? 中国人が嘘つきであることを考えると????と言う人は多いです。 中国は法治国家ではなく、人治国家であることは良く知られています。すなわち、その時々のつごうでころころ変わる。まだ、日本や米国の管理下にあった韓国のほうがその点は、優れていると思います。 この中国のご都合主義は、西洋各国の不信を招き、多くの損害を与えました。中には中国から撤退する企業も出始めています。ところが、いきなり西洋型の資本主義を取り入れた中国は、経済を知りません。なので、外資が入らないと経済が成り立たないのです。 どうして? 世界一の外貨準備高があるのに? 不思議ですね? でも、上層部が不法蓄財しているのは有名な話です。誰だったか、3000億円蓄財し、息子をアメリカに留学させて、その資金の運用に当たらせている人がいるそうです。何しろ、「良心があるものは孤立する」という教えのある国です。どんなに失業者が町にあふれていようと、農村の人たちが貧しかろうと自分たちの利益が優先されるようです。 水の中に落ちた犬はたたけ! だったでしょうか? 韓国にあることわざは、本家中国から来たもののようです。また、やわらかい土は掘れ! 固い土は掘るな! と言う意味のことわざもあるようですね。 さて、中国や韓国自身も、これほど反日カードがうまく行くとは驚きだったでしょうが、このことわざが本当であるのが証明されました。 隣に、嘘つきは泥棒の始まりと教えている日本がいたからです。 日本人は、大声で日本が悪い! と唱えられると、 「そうなのか!?」 と信じてしまうお人よし。何しろ、江戸時代まで家に鍵をかけることも知らなかった民族です。イザベラ・バードをはじめとする外国人は「日本にいて一度も危険を感じたことはない」と驚嘆しています。 しかし、嘘つきは泥棒の始まりと信じる国家をじっと眺めてきた外国人は、日本人がやすやすと騙されるのを見てどうにも理解できないでいるようです。いくら日帝36年の功績を説明しても受け入れようとしない日本人を見て、滞日40年の台湾人歴史家黄文雄氏はこう結論しました。 「日本人は生まれつきのマゾヒストである」 こう考えないと日本と言う国が理解できないらしいのです。 それくらい、日本は反日や日帝36年を持ち出されると、謝罪を繰り返し、お金を出し続けてきました。すなわち、やわらかい土はほれ! だったのです。 しかし、さすがは儒教国家。 どんなに謝ってもお金を出してもまだまだ謝罪が足りないし、お金が足りないといい、国民には日本からたくさんの謝罪とお金を受け取っているなんて知らせません。彼らは平気で教育などの内政干渉をしてくるし、彼らに対する批判を許しません。 さて、そうやって62年がたちました。 そろそろ、隣のおばかさん&カモも首を傾げ始めています。 「いつまで謝罪すればいいんだ? どれだけお金を出したら満足するんだ?」 このおばかさんはやがてインターネットが世界一安いと言う環境を手に入れました。日本人は節約が好きなので、安くなるまでは手を出さなかった人がたちも、一気にネットとつながり始めました。今の日本のインターネット普及率は世界でも最も多いと言えます。 すると、 だんだん、反日国家と手を結んだ反日日本人が、マスコミに圧力をかけているのが見えてきたのです。今まで圧力団体に負けていた良心的知識人が、声を上げ始め、戦前を知るインテリが「子孫のために本当のことを伝えたい」とネットで発言するようになってきたからです。 私自身も、アメリカ人歴史家とブログでリンクしていたので、彼から、「日本は何も悪いことをしていない。日本は本当に善意の国だった」と教えられて、仰天したのです。それから、私は読書ブログをいったん休止して、歴史本を読み始めました。 中国と韓国も日本のこうした変化に気づき始めているようです。 しかし、まだまだ反日勢力の強さは健在です。それに安心しているのは韓国で、さすがに中国はやばいかな? と思い始めているようです。 中国は、もともと他国を侵略するのが歴史だったため、チベットに侵略して世界中から反感を買いました。西洋は日本のようにやわらかい土ではありません。固い土です。なので、それまで取ってきたさまざまな政策によって世界から孤立し始めてきた中国は、日本にすりよろうとしています。日本の経済力と技術力があれば、なんとかなると思っているのでしょう。 しかし、中国の厳しい農民差別、都市部との経済格差、また、地域間の反目と高い失業率、高くなった賃金と外資の撤退などで、反日という自分たちへの不満の捌け口が必要です。また、中国経済がバブルであることが少しずつ明らかになり、それがいつはじけるか分からない。まさに、危機的な状況です。 それなのに、日本で高まる反中意識。なんとか、反日から舵を切りたいけれどどうすればいいのか? 中国は困っています。 正直に言います。 儒教国家は繁栄することが出来ない。繁栄するために必要な社会的な秩序が存在していないからです。日本が絶対であるとは言いません。誰もそんなことを信じている人はいません。だけど、日本には秩序があります。たくさん悪いところがありますが、秩序はそれを正そうと言う自浄作用として働きます。 日本は確かに儒教も学びました。 しかし、儒教国家ではありません。長いあいだ世界が残虐を極めた刑罰を行っていたときにも、日本には長いあいだ死刑がありませんでした。犯罪も少なかったのだろうと思いますが、為政者が残酷を嫌ったためでもあります。
May 19, 2008
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毎日新聞のコラムにこんなパラオの話が載ったことがある。 遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。 「あそこでみんな死んでいったんだ……」 沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。 太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。 老人は村の若者達と共にその作業に参加した。 日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。 やがて戦況は日本に不利となり、 いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。 仲間達と話し合った彼は代表数人と共に 日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。 それを聞くなり隊長は激高し叫んだという 「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」 日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。 裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。 船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。 村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。 しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。 そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。 先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。 その瞬間、彼は悟ったという。 あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと……。 「パラオの統治者である日本軍」としては、パラオ諸島の小さな島・ペリリュー島の 民間人を“圧倒的不利な戦局”に巻き込んではならないと配慮したのだ。 そして船舶も乏しい中、空襲を避けて夜間に船を出し、住民の全員をパラオ本島に 避難させたのである。 そして日本軍はパラオを死守するために文字通り死を覚悟して戦った。 日本は圧倒的に不利だった。アメリカに制海権・制空権を掌握されている上に、 兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍という 歴然たる戦力差。しかしそれでもアメリカの上陸作戦史上最高の損害比率を 出させるほどに抵抗し、全く補給もなく73日間も守り通し、玉砕したのだ。 最期に『サクラ・サクラ』という電文だけを残して。 その戦いの甲斐あって最大激戦地・ペリリュー島での民間人死傷者はゼロだった。 戦争後に島に戻った島民たちは、放置されていた夥しい数の日本兵の 亡骸を泣きながら埋葬した。後にペリリュー島のオキヤマ・トヨミと ショージ・シゲオが“ペリリュー島の玉砕戦”を、日本の国花・桜に託して 作った『ペ島の桜を讃える歌』は、今でも彼らに愛唱されているという。 後にペリリュー神社は青年神職南洋群島慰霊巡拝団やイサオ・シゲオ尊長ら 島民の手により「すべて日本から運搬した材料を使って」再建された。 この神社の前には戦中は敵だったアメリカ太平洋艦隊司令官 チェスター・W・ミニッツの言葉でこんなことが書かれている。 「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。 あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。 此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶う、その心根を。」 このHPから抜粋させていただきました
May 18, 2008
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南国・パラオ共和国も台湾などと同様に親日傾向が強く、 今も「日本人と一緒に戦った」ではなく「日本人として戦った」と言うのだという。 こうして見てわかる通り『日本が統治した国々』から嫌われることなどないのだ。 唯一、中華思想とウリナラマンセーに毒された韓国を除いて。 (この点に不自然を感じないのも韓国人だけである) 日本は第一次世界大戦後、国際連盟からパラオの委任統治を求められたため たくさんの移民を送り、産業、教育、文化の発展に大きな功績を残した。だが、 第二次世界大戦後にこの地域を占領したアメリカが日本文化の影響を徹底的に 破壊した。学校の校庭にあった二宮金次郎像も引きずり降ろされ、毎朝村人が 集まって日本海軍岡田中将から「この美しいパラオを一日も早く自分たちの 手で治めるようにせよと」と訓示を受けた思い出の場所『南洋神社』も壊された。 パラオ人は大いに悲しみ、子供に日本神道にちなんだイシドウロウ(石灯籠) という名前をつける人もいたほどである。そしてアメリカ統治下でも勤勉の 精神を教えてくれた日本人を心の中で敬い、日本統治時代が最もよかったと 懐かしみ、後に南洋神社を再建させている。 そのような国であるため、パラオは自ら「日本に併合して欲しい」と申し出た という話も聞く。これは余談になるが、ハワイも独立した王国だった時代に、 日本の皇室にハワイの王女を嫁がせようとしたことがある。 1881年、ハワイのカラカウア王は当時から正式に国交のあった日本に自ら訪れ、 日本はアジアの盟主となって欧米の侵略からハワイを含む弱い立場の国を 守ってくれるよう明治天皇に申し入れた。しかし天皇陛下は当時のアメリカとの 国力差を考え、摩擦を慮ってそれを丁重にお断りした経緯がある。 韓国のように「希望通りの強国(日本)に併合されること」などどんなに願っても簡単には 叶わないことだというのに、希望通りに併合してもらった韓国だけが今になって 喚き散らしているのはおかしなことだ。 伊藤博文も朝鮮の併合には反対していたように、日本にとってのメリットも少ない。 当時の経済学者が朝鮮半島を調査したところ、借金だらけな上に 10世紀レベル(約1000年遅れ)の後進国だったので、 政府首脳部は腰を抜かしたという。 「そんな国家を併合して、どうするのだ?」と。 しかし日本はその怠慢で不潔で金にルーズな朝鮮を 「内戦でボロボロのアフガニスタンですら先進国にできるくらいの莫大な資金」 を投じて清潔で豊かな近代国家に作り直した。 韓国はその幸運により飛躍的な発展を遂げることができたのだが、それに対し 全く恩義や感謝を感じていない。それどころか何とか恩を歴史から消して 飛躍的な成長という「奇跡」を自分の手柄にしようと躍起になっている。 これは宗主国が日本でなく欧米の国だったら怒り狂うような不遜な態度である。 欧米の圧政に苦しんだ植民地ですら「宗主国の統治が近代化に寄与したこと」は 当然の『事実』として認めているのだから。 一方パラオは恩義を忘れていなかった。 パラオは1994年にアメリカから独立した時、日本の国旗である日章旗を モデルにした月章旗を作り、自国の国旗にした。日本の日の丸が太陽を 模しているのに対し、パラオはほぼ同じデザインの色違い(青地に黄丸)で 太平洋に浮かぶ月を象った。ただ、パラオの国旗の月は日本の太陽と違い、 中心から微妙にズレている。これは謙虚にも「同じでは日本に失礼だから」と、 わざと中心をはずしたのだという。 ※「旗がなびいた際に満月が中央に見えるようにデザインした」との説もある。 パラオは日本の国旗を元に自国の国旗を作り、しかも日本の心も忘れない。 現地民に愛された日本統治と、受け継がれる礼儀正しい民族性が現われている。 ちなみにパラオの国定教科書では全462ページのうち36ページが 日本統治時代にあてられ、章には「日の丸の旗のもとに」というタイトルが つけられている。どの統治国にも日本は教育に厳しかったが、それらの教えも ルールも単純な賛美や糾弾ではなく客観的に事実が教えられている。
May 18, 2008
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たとえば、韓国済州島出身の韓国評論家の金満哲はこう言っている。 同胞韓国人は嘘つきばかりである。私はそのことが恥かしく、情けない。 「韓国は独力で近代化を成し遂げた」って。馬鹿を云うな。韓国の近代化は 日本の莫大な資本と人材の投与によって成し遂げられたものである。 「韓国は日本の統治に抵抗をもって対抗した」だって。馬鹿馬鹿しい。 同胞韓国人はロバのように日本の統治を甘受したのが実態だ。 ごくごく一部の抵抗はあったが上から下までみんな日本にあこがれ、 日本人になろうとしたのだ。 「韓国が独立したのは韓国の手によるものだ」にいたっては呆れてものも 言えない。誰も日本からの独立など望んでいなかったのにアメリカに 強制的に独立させられたというのが真実だ。 「漢河の奇蹟」だって!笑わせる。日本から賠償金という名目で莫大な 経済援助と技術援助で成し遂げられたものだ。 これだけお膳立てしてもらえばどんな未開民族でも経済成長するだろうよ。 「日本文化の祖が韓国」とは恐れ入る。一体、併合前の朝鮮半島のどこに 「文化」なるものがあったのか。併合前、我々先祖は乞食同然の生活をして いたではないか。現在の韓国の姿、まさに他人により作られた砂の楼閣だ。 虚飾と偽善と歪曲とおごりに満ち満ちている、真似と依存と歪曲が全てである。 このような韓国の本質を知らず「韓国こそ世界一」などとほらを吹いて 自己満足している本国、在日の韓国人は正気の沙汰ではない。 これが恥でなくてなんであろうか。 後のマニラでこんなことがあった。 例によって韓国の代表が、延々と戦争当時の日本軍と日本民族と 現在の日本企業を罵倒する演説を打った。韓国代表の演説は 痛烈無残で聞くに堪えなかった。 そこで、インドネシアのアリ・ムルトポ准将は韓国の軍人に向かって 次のように日本を擁護した。 ★インドネシア アリ・ムルトポ准将 「日本はアジアの光である。 大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので アジア人の誇りである。 今、忽然として日本民族がこの地球上から消えたら韓国が一番困ると思う。 もし、日本がシンガポールの地点にあったら、インドネシア人の成功は 容易である。つまり、日本の近いところに位置していることは、幸運なのだ。 経済的支援を連続的に受けていると言ってもよいくらいだ。 インドネシアが日本に近ければ、今のような貧弱なインドネシアではない。 つまり、我々インドネシア人は『日本はなにもしてくれなくてもよい』と 考えている。日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで十分、 アジア・アフリカにつくしていると考えている。 だから、我々アジア人は外交面に弱い日本を支援したいと思っている」 インドネシア人の感情も考えずに日本を罵倒する韓国人に インドネシアの軍人が(日本人のいない場所で)怒ってくれたのである。 ありがたいことではないか。 http://3.csx.jp/peachy/data/korea/korea3.html から引用しました。
May 17, 2008
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グラバイ・デサイ(インド、インド弁護士会会長・法学博士) このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。 インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。 インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。(1946年、デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市F機関長に対する挨拶) ジャワハルラル・ネルー(インド、独立後の初代インド首相) チャンドラ・ボーズが日本と協力してつくったインド国民軍《INA》の裁判で、弁護士として法廷に立ち「これら立派な若者達の主たる動機は、インド解放への愛情であった・・・・彼らの日本との協力は、インド解放を促進するための手段であった。余はチャンドラ・ボーズ氏の独立への情熱を疑わない」と述べた。(貝塚茂樹編『民族解放の星』講談社、253~4頁) アリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士) 日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。(中略) (日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。(「魂を失った日本」未央社、57~65ページ) ブン・トモ(インドネシア、元情報・宣伝相) 我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。日本が敗北したとき、”これからの独立は自力で遂行しなければならない。独力でやれば五十年はかかる”と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。 ガザリー・シャフェー(マレーシア、元外相、アセアン創設によりハマーシェルド賞受賞) 日本の某代議士の「過ぐる大戦において、わが国は貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」という挨拶に対して、「どうしてそういう挨拶をなさるのですか。あの大戦で日本はよくやったではないですか。マレー人と同じ小さな躰の日本人が、大きなイギリス人を追い払ったではありませんか。その結果、マレーシアは独立できたのです。大東亜戦争なくしては、マレーシア人もシンガポールも、その他の東南アジア諸国の独立も考えられないんですよ」 さらに続けて、玉井顕治、名越二荒之助、中島慎三郎の三氏に対していわく。 「私は威張る人も、ぺこぺこする人も嫌いです。日本はもっと大きくアジアに眼を開いてください。現在、日本は南方の発展途上国に対する援助額はダントツです。押しも押されぬアジアの経済大国ではありませんか。『ルック・イースト』『日本に学べ』という呼びかけは、シンガポールやマレーシアだけではありません。口に出しては言わないけれど、アジアの国々のこれは本音なんですよ。かって反日感情の強かった国々にも、次第に親日感情が起こりつつあります。そうしたなかにあって、日本は欧米にばかり目を向けず、アジアに対して責任を持つ国になって欲しいのです。日本はかつてアジアに対して責任を感じ、そのために、戦争であれだけの犠牲を払ったのです。この尊い戦争の遺産を否定することは、バックミラーばかり見ているようなものです。自動車は前を見て運転しなければ、進路を間違えますよ」(昭和六十三年七月十九日、於赤坂プリンスホテル) 朴 鉄柱(韓国 平成二年一月逝去・六十八歳 、韓日文化研究所 昭和四十二年十月)「ソウルから日本を眺めていると、日本が”心”という字に見える。北海道、本州、四国、九州と、心という字に並んでいるではないか。日本は万世一系の御皇室を頂き、歴史に断絶がない。それに対して韓国は、断絶につぐ断絶の歴史で涙なくしてみることはできない。」「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。”事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。」「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。」 引用・参考文献 『「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編、展転社
May 17, 2008
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注)どうしてもソースが見つけられませんでしたが、アメリカの学者が絶対に何か出てくると信じて10万ページを調べたけれども証拠はなかった、引き続き調べると言っています。 悪魔の飽食は共産党の機関紙赤旗に掲載されていたそうですが、捏造がばれて廃刊になっていると言う情報もあります。要するに、共産党のプロバガンダだった可能性があるということですね。 以下報道された文章らしいです旧日本軍「細菌戦研究」 米、10万ページ機密文書を公開 ≪10万ページ、石井中将の尋問記録も≫ 米国立公文書館(メリーランド州)は、旧日本軍が当時の満州(現中国東北部)で行った細菌戦研究などに関する米情報機関の対日機密文書10万ページ分を公開した。文書目録によれば、石井四郎軍医中将を含む731部隊(関東軍防疫給水部)関係者の個別尋問記録が、今回の公開分に含まれている。また、細菌戦研究の成果を米軍に引き渡したとされる石井中将が、米側に提出する文書を1947年(昭和22年)6月ごろ執筆していたことを裏付ける最高機密文書も今回明らかになった。(ワシントン 山本秀也)■戦争犯罪を立証 今月12日に公開された機密文書は、ナチス・ドイツと日本の「戦争犯罪」を調査するため、クリントン政権当時の99年に米政府の関係機関で構成された記録作業部会(IWG)が、米中央情報局(CIA)や前身の戦略情報局(OSS)、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)などの情報文書を分析し、機密解除分をまとめて公開した。 IWGの座長を務めるアレン・ウェインステイン氏は、「新たな資料は学者らが日本の戦時行動を理解する上で光を当てる」と意義を強調するが、作業は「日本の戦争犯罪」を立証する視点で行われた。日本語資料の翻訳と分析には中国系の専門家も加わっている。 細菌戦などに関する米側の情報文書は、これまでも研究者が個別に開示請求してきたものの、一度にこれだけ大量に公開された例は少ない。 情報の一部は34年(昭和9年)にまでさかのぼるが、終戦の45年(同20年)前後4年分が大半を占めている。 文書内容の大半は731部隊など細菌戦研究に関する内容だ。公開文書の概要によれば、37年12月の南京事件に関する文書が一部含まれる。IWGでは「慰安婦問題」を裏付ける文書も探したが、「目的を達せず、引き続き新たな文書の解析を図る」と述べるなど、調査では証拠が見つからなかったことは認めている。■日本の使用警戒 細菌戦の研究競争が大戦下で進む中、米側は日本の細菌兵器使用を終戦まで警戒していたほか、奉天(現瀋陽)の収容施設で、連合軍の捕虜に細菌実験が行われた形跡がないかを戦後調べたことが判明した。同じく米本土に対しても、日本からの風船爆弾が細菌戦に使われないか、米海軍研究所が回収した現物を大戦末期に調べ、「細菌の散布装置がついていないことから、当面は細菌戦を想定していない」と結論づけた文書も公開された。 細菌戦に関する米国の日本に対する関心は、44年ごろから終戦までは、細菌兵器の開発状況と731部隊の活動実態の解明に重点が置かれ、終戦から47年ごろまでは、同部隊関係者への尋問による研究成果の獲得へと、重点が移っている。 米側が最も強い関心を抱いたのは、731部隊を指揮した石井中将だった。45年12月の情報報告には、千葉県の郷里で中将が死亡したことを装った偽の葬式が行われたことも記されているが、翌46年から47年には中将に関する報告や繰り返し行われた尋問の調書が残されている。■保身引き換えに 石井中将は自らと部下の保身と引き換えに、細菌戦研究の成果を米側に引き渡したとされてきたが、47年6月20日付の米軍最高機密文書は、こうした説に沿う内容を含んでいる。 「細菌兵器計画の主要人物である石井中将は、問題全体にかかわる協約を現在執筆中だ。文書には細菌兵器の戦略、戦術的な使用に関する彼の着想が含まれる。石井中将の約20年にわたる細菌兵器研究の骨格が示される見通しであり、7月15日には完成する」 同じ文書には、「日本南部の山中」に隠されていた「細菌に侵された200人以上から採取された病理学上の標本スライド約8000枚」が、47年8月末までに米側に提供されることも付記されていた。 米側では日本からの情報収集を急ぐ一方、冷戦でライバル関係となる旧ソ連に細菌戦に関する情報が渡ることを強く警戒していた。ハバロフスク裁判のため、旧ソ連が請求してきた細菌戦関連の証拠引き渡しを渋る一方、約30人の731部隊関係者が「モスクワ近郊で細菌兵器の研究プロジェクトに従事している」とする48年4月の情報報告も今回明らかにされた。http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=ttalk&nid=1063037&st=title&sw=%E6%A9%9F%E5%AF%86%E6%96%87%E6%9B%B8&end_range=1063037
May 17, 2008
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ラダビノード・パール=極東国際軍事裁判のインド代表判事。1952年(昭和27年)11月、広島高裁での歓迎レセプションにおける発言 わたしは1928年から45年までの18年間(東京裁判の審議期間)の歴史を2年8カ月かかって調べた。各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中にはおそらく日本人の知らなかった問題もある。それをわたくしは判決文の中に綴った。 このわたくしの歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。 そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。 満州事変から大東亜戦争勃発にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・退廃に流されてゆくのを、私は見過ごして平然たるわけにはゆかない。彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えられねばならない。
May 16, 2008
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■ククリット・プラモード=タイ国元首相。現地紙「サイアム・ラット紙」1955年6月 「12月8日」。 日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。 十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。 元タイ駐屯軍司令官であった中村明人陸軍中将が、タイ王国に国賓待遇で招待された時に掲載された。
May 16, 2008
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バジル・ホール・チェンバレン=イギリス人。1873年(明治6年)~1905年(明治38年)、日本で教師として活躍。「日本事物誌1」より 日本人の間に長く住み、日本語に親しむことによって、この論文の後半において簡単に述べた最近の戦争や、その他の変化の間における国民のあらゆる階級の態度を見ることができたが、これらの外国人すべてに深い印象を与えた事実が一つある。それは、日本人の国民性格の根本的な逞しさと健康的なことである。極東の諸国民は――少なくともこの国民は――ヨーロッパ人と比較して知的に劣っているという考えは、間違っていることが立証された。同様にまた、異教徒の諸国民は――少なくともこの国民は――キリスト教徒と比較して道徳的に劣っているという考えは、誤りであることが証明された。 過去半世紀間、この国のいろいろな出来事を充分に知ってきたものは誰でも、ヨーロッパの総てのキリスト教国の中に、日本ほど前非を認めるのが早く、あらゆる文明の技術において教えやすく、外交においては日本ほど率直で穏健であり、戦争に際してはこれほど騎士道的で人道的な国があろうとは、とうてい主張できないのである。もし少しでも「黄禍」があるとするならば、ヨーロッパ自身の良き性質にもまさるさらに高度の良き性質を、その新しい競争相手が所有しているからにほかならない。このように驚くべき成果が生じたのは、日本人が苦境に立たされていることを自覚し、断乎として事態を改善しようと決意し、全国民が二代にわたって熱心に働いてきたからにほかならない。(引用者注:「黄禍」=19世紀半ばから20世紀前半にかけて、アメリカ・ドイツ・カナダ・オーストラリアなど白人国家において、アジア人を蔑視し差別する「黄禍論」が現れた)
May 15, 2008
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■イザベラ・バード=イギリス人。当時の女性としては珍しい旅行家で、1878年(明治11年)以降、日本各地を旅した。「日本奥地紀行」より ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、ここでは私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。 群集にとり囲まれても、失礼なことをされることはない。馬子は、私が雨に濡れたり、びっくり驚くことのないように絶えず気をつかい、革帯や結んでいない品物が旅の終わるまで無事であるように、細心の注意を払う。(中略)私は日本の子どもたちがとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親たちが、子どもを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本には見られない。 私は、子どもたちが自分たちだけで面白く遊べるように、うまく仕込まれているのに感心する。家庭教育の一つは、いろいろな遊戯の規則を覚えることである。規則は絶対であり、疑問が出たときには、口論して遊戯を中止するのではなく、年長の子の命令で問題を解決する。子どもたちは自分たちだけで遊び、いつも大人の手を借りるようなことはない。
May 14, 2008
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■エドワード・シルベスタ・モース=アメリカ人。明治10年代に計3回日本に滞在。東京大学で生物学を講じた。大森貝塚を発見。「日本その日その日1」より 外国人は日本に数カ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於いて道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持っているらしいことである。 衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正さ、他人の感情についての思いやり・・・・これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。 こう感じるのが私一人でない証拠として、我国社交界の最上級に属する人の言葉をかりよう。我々は数ヶ日の間ある田舎の宿屋に泊まっていた。下女の一人が、我々のやった間違いを丁寧に譲り合ったのを見て、この米国人は「これ等の人々の態度と典雅とは、我国最良の社交界の人々にくらべて、よしんば優れてはいないにしても、決して劣りはしない」というのであった。
May 13, 2008
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アリス・ベーコン=アメリカ人。1881年(明治14年)来日。華族女学校(後の学習院女学校)の英語教師として活躍。「明治日本の女たち」より 平民階級を語る上で忘れてならないのは、その多くを占める職人である。 日本が芸術や造形、色彩の美しさを大切にする心がいまだにある国として欧米で知られているのは、彼等の功績である。 職人はこつこつと忍耐強く仕事をしながら、芸術家のような技術と創造力で、個性豊かな品々を作り上げる。買い手がつくから、賃金がもらえるから、という理由で、見本を真似して同じ形のものや納得できないものを作ることはけっしてない。日本人は、貧しい人が使う安物でさえも、上品で美しく仕上げてしまう。一方、アメリカの工場で労働者によって作り出されるあらゆる装飾は、例外なくうんざりするほど下品である。(中略)もちろん、日本の高価な芸術品は職人の才能と丁寧な仕事をよく体現している。しかし、私が感心したのはそのような高級品ではなく、どこにでもある、安い日用品であった。貴族から人夫にいたるまで、誰もが自然のなかにも、人が作り出したものにも美を見出し、大切にしている。
May 12, 2008
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■アルジャーノン・バートラム・フリーマン・ミットフォード=イギリス人。1866年(慶応2年)~1870年(明治2年)、英国公使館の書記官として日本に滞在。その後2度来日。「ミットフォード日本日記」より 1906年(明治39年)にガーター勲章使節団の主席随員として33年ぶりに3度目の来日をした際の記録 錨を下ろすと同時に、駐日英国大使サー・マクドナルドが、殿下の日本滞在中、その接待の役を務める何人かの著名な日本の政府高官と一緒に乗船してきた。その中でもとくに著名な人物は黒木大将と東郷(平八郎)提督であったが、彼らの偉業は世界中に鳴り響いていたのである。 我々が彼らと初めて会見した時、少なからず興奮していたことは想像できると思われる。 東郷提督は静かな口数の少ない人で、どちらかといえば物憂げな表情をしていたが、きげんの良い時には極めて優しい微笑を浮かべることがあった。彼の表情は優しく穏やかで、話しかけられていない時は、時折、瞑想に耽っているらしく、ほとんどいつもじっと地面を見つめて、頭を少し右へかしげていた。 これと反対に黒木大将は、日焼けしたがっしりした体格で、まるでオリンピック競技の選手のように鍛錬された、典型的な軍人タイプであった。彼はいつも陽気で、愛想がよくどっしりとしていて、物事の良い面を見ようとする人物であった。 この二人ほど一目見た時、対照的な人物はないだろう。しかし、二人には共通した特色があった。 彼らの謙遜と自制心は、まさに人々の心をとらえるものがあった。彼らが話すのを聞いて、本当に彼らが日本の歴史の上ばかりでなく、世界の歴史に残るような立派な役割を果たした人物だとは信じられないだろう。 両者ともに、誇らしげな様子は全く見られなかった。ここに私がとくに強調しておきたいのは、私の日本滞在中にいろいろな種類の多くの日本人と話をしたが、さきの日露戦争の輝かしい勝利を自慢するかのような発言を、一度も耳にしなかったことである。 戦争に導かれた状況と戦争そのものおよびその結果について、全く自慢をせずに落ち着いて冷静に話をするのが、新しい日本の人々の目立った特徴であり、それは全世界の人々の模範となるものであった。このような謙譲の精神をもって、かかる偉大な勝利が受け入れられたことはいまだにその例を見ない。
May 11, 2008
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■ハーバート・G・ポンティング=イギリス人。1910年(明治43年)にスコット大佐の第二次南極探検隊に加わり記録写真を撮った写真家。1901年(明治34年)~1902年(明治35年)来日。日露戦争にも従軍。「英国人写真家の見た明治日本」より プラットホームに立っていると、そこにロシア軍の捕虜を満載した列車が到着した。乗っていた捕虜の全員が戦争から開放された喜びで、大声で叫んだり歌を歌ったりしていた。・・・反対の方向から別の列車が入って来た。それは日本の兵士を満載した列車で、兵士達は前線に行く喜びで同じように歌を歌っていた。 ロシア兵と日本兵はお互いの姿を見るや否や、どの窓からも五、六人が頭を突き出して、皆で歓呼の声を上げた。ロシア兵も日本兵と同じように懸命に万歳を叫んだ。列車が止まると日本兵は列車から飛び出して、不運?な捕虜のところへ駆け寄り、煙草や持っていたあらゆる食物を惜しみなく分かち与えた。一方ロシア兵は親切な敵兵の手を固く握り締め、その頬にキスしようとする者さえいた。私が今日まで目撃した中でも、最も人間味溢れた感動的な場面であった。(中略)松山で、ロシア兵(捕虜)たちは優しい日本の看護婦に限りない賞賛を捧げた。寝たきりの患者が可愛らしい守護天使の動作の一つ一つを目で追うその様子は、明瞭で単純な事実を物語っていた。 何人かの勇士が病床を離れるまでに、彼を倒した弾丸よりもずっと深く、恋の矢が彼の胸に突き刺さっていたのである。ロシア兵が先頃の戦争で経験したように、過去のすべての歴史において、敵と戦った兵士がこれほど親切で寛大な敵に巡り合ったことは一度もなかったであろう。それと同時に、どこの国の婦人でも、日本の婦人ほど気高く優しい役割を演じたことはなかったのではあるまいか。
May 10, 2008
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孫文=中国人。1895年に日本へ亡命、以後、世界中を巡る。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。1924年(大正13年、最後の来日)、神戸高等女学校において神戸商業会議所外5団体に行った「大アジア主義」と題された講演より 日露戦争の開始されました年、私は丁度欧州に居りましたが、或る日東郷大将が露国の海軍を敗った、露西亜が新に欧州より浦塩に派遣した艦隊は、日本海に於て全滅されたと言うことを聞きました。此の報道が欧州に伝わるや全欧州の人民は恰も父母を失った如くに悲み憂えたのであります。 英国は日本と同盟国でありましたが、此の消息を知った英国の大多数は何れも肩を顰め、日本が斯くの如き大勝利を博したことは決して白人種の幸福を意味するものではないと思ったのであります。これは正に英語でBlood is thicker than water〈血は水より濃い〉と言う観念であります。 暫くして私は船でアジアに帰ることになり、スエズ運河を通ります時に、沢山の土人が、共の土人はアラビヤ人であったようですが、私が黄色人種でありますのを見て、非常に喜び勇んだ様子で私に〈お前は日本人か〉と問いかけました。私は〈そうではない。私は中国人だ。何かあったのか、どうしてそんなに喜んで居るのか〉と問いましたところ、彼等の答えは〈俺達は今度非常に喜ばしいニュースを得た。何でも日本はロシアが新に欧州より派遣した海軍を全滅させたと言うことを聞いた。この話は本当か。俺達はこの運河の両側に居て、ロシアの負傷兵が船毎に欧州に送還されて行くのを見た。これは必定ロシアが大敗した一風景だと思う。以前我々東洋の有色民族は何れも西洋民族の圧追を受けて苦痛を嘗めて居て、全く浮かぶ瀬がないと諦めて居たが、今度日本がロシアに打ち勝った。俺達はそれを東洋民族が西洋民族を打敗ったと見做すのだ。日本人が勝った。俺達はその勝利を俺達自身の勝利と同様に見るのだ。これこそこおどりして喜ぶべきことだ。だから俺達はこんなに喜んで居る、こんなに喜んで居るのだ〉と言うことでありました。(引用者注:「大アジア主義」=19世紀後半に活発となった欧米諸国のアジア進出に対抗する方策として展開された日本とアジアの関係や、アジアの在り方についての思想ないし運動の総称)
May 9, 2008
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■C・P・ツュンベリー=スウェーデン人。医師・植物学者。ケンペル、シーボルトと並んで「出島の三学者」と謳われた。1775年(安永4年)来日。「江戸参府随行記」より 地球上の民族のなかで、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。・・・その国民性の随所にみられる堅実さ、国民のたゆまざる熱意、そして百を超すその他の事柄に関し、我々は驚嘆せざるを得ない。政府は独裁的でもなく、また情実に傾かないこと、・・・飢餓と飢饉はほとんど知られておらず、あってもごく稀であること、等々、これらすべては信じがたいほどであり、多くの人々にとっては理解にさえ苦しむほどであるが、これはまさしく事実であり、最大の注目をひくに値する。(中略)日本人の親切なことと善良なる気質については、私は色々な例について驚きをもって見ることがしばしばあった。それは日本で商取引をしているヨーロッパ人の汚いやり方やその欺瞞に対して、思いつく限りの侮り、憎悪そして警戒心を抱くのが当然と思われる現在でさえも変わらない。国民は大変に寛容でしかも善良である。(中略)正義は外国人に対しても侵すべからざるものとされている。いったん契約が結ばれれば、ヨーロッパ人自身がその原因を作らない限り、取り消されたり、一字といえども変更されたりすることはない。
May 8, 2008
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結局、小川ジョージさんが仰ったとおりでした。 彼の発言、「日本は本気で大東亜共栄圏を考えていたんだよ」 は本当でした。 当時、欧米列強の植民地になっていたアジア諸国には何の力もありませんでした。タイは名目だけの独立国で綱渡り状態。まともな独立国は日本だけ…という状況下では、正直、他のアジア諸国を当てには出来ないと思っていたそうです。ぢぢさまの仰るとおり、「勝てば官軍、負ければ賊よ」 なので、今となっては「本気の大東亜共栄圏」も侵略の建前と言うことになるのでしょうか。 でも、例え、賊軍であっても、暴力的な風潮が旧軍内にあったとしても(=新兵を殴るなど)、日本は真面目に西洋列強のアジア支配から抜け出したかった。なので、敗戦後、復員することなく、現地国の独立のために協力した人も少なくありませんでした。彼らは独立軍を訓練し、規律や戦術を教えたのです。彼らの中には、単に教えただけでなく、独立軍とともに戦った人もいたようです。このことに感謝してくださる方はもう、お亡くなりになったかもしれませんが、テレビでのインタビューでインドネシアの方が感謝しているのを見たことがあります。 大東亜共栄圏は作れませんでしたが、少しはアジアの独立に協力できたことは光栄の至りです。また、この場を借りて、パラオの方々にお礼を申し上げたいと思います。 自分たちの土地が戦場になったにもかかわらず、 戦後、アメリカによる反日政策に対し「いや! そんなことはなかった!」と言って負けた日本を擁護し、反日政策を退けてくださいました。 後に、パラオでは、日本の鹿島建設の半額で韓国が落札し、作った橋が壊れてしまったことがありました。死者まで出たと言うのに、謝罪も補償もしてくれない韓国。そこで日本が無償で約30億をかけて橋を作りました。 パラオの人は喜んで、日本とパラオの友好の橋と名前をつけてくださいました。あまり反韓色を強くしたくないと思って紹介をためらっていましたが、その橋の写真がこのHPの中ほどにあります。 少しでも、パラオの人に恩返しが出来てよかったな…と思います。恩返しをしてくれた日本政府に感謝します。本当に、嬉しいです。日本政府にも、パラオにも感謝申し上げます。 また、日本が米の不作に悩んだときがありましたよね? そのとき、世界中の国が日本に米を売りたがり、米の値段が上がりました。(=日本が買うんだから高く吹っかけてきたと言うか…。商売ですから、需給と供給の関係ですw) そのとき、飢餓に苦しむ国は、日本がお米を買うので私たちはお米が買えないと訴え、世界的な問題になり日本は非難されました。私はそれを知るアメリカ人から、個人的に日本はひどい! と言われました。 でも、気にすることはありません。 お金を払ってくれない国より、必ずお金を払ってくれる国に、誰もがお米を売りたいのは心情です。それに、日本は飢餓に苦しむ国々がお米が買えないというのを聞いて、無償でお米を買ってそれらの国々に援助したのです。なので、彼らは来年も日本の米が不作でありますように! と願ったそうです。世界のメディアはわざとこの後日談を報道しませんでした。 白人より、有色人種のほうが情け深いのは我慢ならないことだからでしょう。このようなことはたくさんあります。 いわゆる植民地支配をしていた国は、植民地を発展させることより、彼らから搾取することに力を注ぎました。彼ら欧米列国はこのことに対する謝罪も、賠償も行っていません。 ところが日本は、”植民地”に苦しい国家予算から身銭を切って資本投下し、”植民地”を発展させました。そしてなお、謝罪と莫大な賠償を果たしたのです。 それに加えて、膨大な米国債を買わされた上での日本の繁栄(買った米国債は返還されません!)。(=日本は国内に資本投下できない=国民生活や日本の国土が美しく整わない) 先人たちはなんと偉大だったのでしょう!? また、日本に課せられたこれほどの重荷を、神さまが助けてくださったことに私は感謝の気持ちを覚えます。いかに日本人が勤勉と言えども、これだけの経済支出ができたのは、見えざる神の手が働いたとしか思えません。 そういえば、ジョージ・ソロスがアジアの通貨危機を仕掛けたとき、タイは大混乱に陥りました。「正直、どうしていいか分からなかったんです」 インタビューでタイの通貨当局者が語っていました。「でも、いつの間にかよくなったんです」 私は、ここにも神様の見えざる手が働いたと思います。私たちがまじめである限り、善意ある国である限り、私たちはけして見捨てられるわけではありません。真実はどこかで顔を出し始めます。 インターネットの登場もその一つでしょう。 この自虐歴史の嘘シリーズを読んでくださった、皆様に感謝を申し上げます。どうか、これを読んで心に感じることがありましたら、自虐歴史を信じないでください。また、自分に出来る何かをしてください。大河も水の一滴から始まります。 私がしたことについてお話しすると… 政治家が真実のことを語ったとき、「反日ジャーナリズム」に攻撃されるのを見て、「謝らないでください。逆に、その機会を捉えて記者会見をし、1次資料を持って反論してください」と2つの政党にお願いメールをしました。それだけでなく、市の図書館に嫌韓流のシリーズと関連本を寄贈するつもりです また、仲のよい美容室にも置いてもらえるかどうか尋ねててみるつもりです。そうすれば少しでも多くの人の目に触れるかも知れません。 アフィリエイトに参加していませんので、御安心くださいませ。 少しずつ、小さなことから大きな事が始まると私は信じます。どうか自分の国を愛してください。自分たちの伝統に誇りを持ってください。また、先祖の善意を子孫に伝えることによって、私たちの後に続く日本人に善意を持つことの大切さを教えてください。 模範は、説教の100倍も効果があります。 そうでなければ、なぜ、日本がこんなに長く平和たりえたでしょうか? 穏やかな国民性でありえたでしょうか? 全ての日本人の先祖と、彼らの伝統に心から感謝し、よいところはずっとそれを守り、悪いところは進んで改めることによって、祖国に対する愛と忠誠に代えたいと思います。長いコンテンツにお付き合いいただき、ありがとうございました。 人間は、昨日より今日、今日より明日、さらによい人間になれるように作られていると私は堅く信じています。
May 7, 2008
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恥ずかしいのですが、どうしても分からないのがアフリカ系作家です。彼らの作品を読んで、どうしても彼らの気持ちが理解できない。どうしても、どうしても、????なのです。 彼らがなぜ、自分たちの歴史や文化に劣等感を持つのか、また、彼らの誇りがどのように発揚されるのか、私には分かりません。 同じ有色人種なのだから、分かるはずだと思っても分からない。グギ・ワ・ジオンゴともう一人、忘れたけど男性作家、そして、カリズ・ベヤーラ。同じ女性だから、もっと分かりやすいだろうと思ったけれども、やっぱり分からない。 彼女たちの行動や、感情や、ギャップ…。 西洋の学問をしたからって自分の肌の色が変わるわけではない、って当たり前なのでは??? なぜ、そこに自分の肌の色がかかわってくるのか、理解できない。 アフリカの後進性は、絶望するほど、大きいのでしょうか? 自分が黒人であることを否定したいほど、大きいのでしょうか? 勉強しても、ヨーロッパに行っても自分は白人ではないって当たり前なのでは???? こんな葛藤は、日本人にあるのでしょうか? 一生懸命勉強しても、自分は日本人だ! なんて、ありえないので理解に苦しみます。 祖国を、祖国の人間を自分と同じと見なしたくないほどの同属蔑視に駆られる気持ちが私には分かりません。明治の急激な社会の変転に見舞われた明治の人たちも同じ気持ちを感じたのでしょうか? 無学な私は、そうした葛藤について読んだことがありません。 本当に人を理解するのは難しいです。とっても、とっても難しい。それだからこそ、理解したいと強く願うのですが…。
May 6, 2008
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名残惜しくも、生きた歴史の証人、卓越した知識人であったと思われる「ぢぢ」さまはネットから消えてしまわれました。 多分、話すだけのことは話した。後は、自分たちで考えて行動しなさい。というお気持ちだったのでしょう。ここにある発言がぢぢさまとしては最後の投稿となります。19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/10/21(土) 00:54 >>16 さてさて、徴兵された者以外は、士官学校卒だと信じておるのか。 どこから説明すればよいのぢゃ。 そもそも、士官はすべて士官学校卒だとでも思っておるのかの。 志願兵制度についても知らんのかの。 困ったのう。 半島から軍に入るには、一つには士官学校を目指すことぢゃが、これ は今でいえば甲子園に出場して東大野球部をめざすのと同じくらい大 変なことでの、鮮人の士官学校出はおったぢゃろうが、数は多くはな いぞ。 また、大学や専門学校などから志願した者は、幹部候補生を経て、士 官となる途があったが、軍隊の中では幹候と士官学校出では大きな違 いがあったのぢゃ。 多くは、兵卒として志願したのぢゃが、これとても大変な難関での、 競争は激しかったのぢゃ。まして、航空兵などともなれば、すぐにも 下士官になれるエリートコースであったからの。 そうでない、一般の兵卒は捕虜収容所などに配置されての、正直なと ころ、前線の戦闘部隊では鮮人の兵士は多くはなかったのぢゃ。 22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/10/21(土) 01:34 >>20 >テ事は下働きですか 輜重兵を下働きというのは、ちと言い過ぎぢゃと思うがの。 たしかに、戦闘部隊の歩兵、砲兵などからは「輜重兵が兵隊ならば、蝶々 トンボも鳥のうち」などと揶揄されてはおったが。 (輜重=しちょう) 兵站というのは、軍にとって大切な任務ではあるのぢゃ。 旧軍では、兵站を担当する部隊、兵士を輜重と呼んでの、捕虜収容所の運 営も輜重部隊の管轄ぢゃて。 そうそう、そもそも洪思翊中将はその輜重部隊の親玉ぢゃったで、戦犯に 指定されてしまったのぢゃ。これはある意味でとばっちりぢゃの。 ぢゃがの、鮮人兵士の多くが輜重部隊に配属されたには、訳があっての、 単に差別されていたというようなことではないのぢゃよ。 また、大きな声ではいえんが、旧軍の古兵や下士官、人によっては士官も 含めて、すぐにビンタを飛ばす暴力的な風潮があっての、もちろん個人差 はあるが、立派な帝国軍人たろうとする半島出身者は余計にその風潮が強 い傾向があったことも否定できんのぢゃ。 BC級戦犯に指定された兵や下士官は、監督責任ではなく、暴力行為や虐 待の実行行為を特定されて裁かれておるのぢゃよ。 25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/10/21(土) 02:22 >>24 >訳とはなんでしょう。 お若い方には、旧軍の仕組みについての知識は無いものと考えたほうが よいぢゃろうの。 日本軍の戦闘部隊の根幹をなすのは、歩兵連隊、砲兵連隊なのぢゃ。新 兵が入営して、内務班で生活を共にし、訓練を受け、連隊旗のもとに命 令があれば全滅するまで戦うという、生死を共にする集団が形成された のぢゃよ。 それが良いか悪いかなどというのは、戦後の価値判断での、戦前・戦中 は連隊の名誉のために命を懸ける兵士というのは当たり前の存在であっ たのぢゃ。 そしてな、連隊というのは地域ごとに編成され、大阪8連隊、京都9連 隊というように、都市の名をかぶせて同郷の出身兵士によって構成され ておっての、旧軍はこの原則を最後までくずそうとはせなんだ。 つまり、連隊は郷土の名誉も担っているという形で、それぞれその精強 さを競うようになっていたのぢゃ。この連隊を単位として旅団、師団な どが編成されておった。 出身地の異なる少数の半島出身兵士には、航空兵などの特殊兵科を除け ば、編入する先の連隊がなかったのぢゃ。このために、輜重部隊といっ た後方部隊や補助部隊への配属が多くなったのぢゃよ。 83 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/11/01(水) 21:08 >>78 はての、なにが知りたいのぢゃな。 何度もいうとるが、わしはただの老いぼれぢゃよ。軍から見れば 一介の地方人ぢゃて、帝国陸海軍の内情など、当時ならば誰もが 常識として知っておったような、とおりいっべんのことしか知ら んのぢゃ。 ま、当時は誰もが知っておったことでも、戦後になってからは、 あれもこれもなかったことになっておる話は、たしかにあるでの、 そんな話でもすればよいのかの。 ただの、最初に言うておくが、大日本帝国はとことこんまで負け たのじゃよ。これだけは忘れてはならぬぞ。 「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということわざを知らんかの。 しょせん、戦争に正義などありはせんよ。いまさら、あれは正義 の戦いであったなどと主張しても、それは負け犬の遠吠えという ものぢゃ。 さて、たしか、昭和18年も終わり頃に東京で大東亜会議という のが開かれたと記憶しておるの。 チャンドラ・ボースのインド独立亡命政府も参加しておったな。 ほかには、南京政府の汪兆銘や満州国の代表、フィリピンやタイ それからビルマの代表も参加しておったかの。 日本軍に投降したインド独立派の兵士は、ボースに指導されて、 インド国民軍というのを作って戦闘に参加したはづぢゃ。 84 名前: つづきぢゃ 投稿日: 2000/11/01(水) 21:10 しかしの、お若い方には理解しにくいかもしれんが、戦前に亜細 亜の独立国といえば、日本のほかにはあまり実のある独立国はな かったのぢゃよ。 タイが戦前からの独立国であったが、列強の力関係の中で綱渡り のように名目的な独立を保っていたにすぎんでの。 支那とて、租界やらなにやらで半植民地状態であったのぢゃ。 それに、支那の国民党軍はそれなりの戦力を持っておったが、日 本と協調して南京政府をつくった汪兆銘は、結局、国民党軍の協 力を取り付ける事ができなんだでの。 ぢゃから、日本人は前の大戦、当時は大東亜戦争と呼んでおった が、これが、追い詰められて起こした戦争とはいえ、白人支配の 世の中を変える戦争であるとは、認識しておったが、亜細亜の同 盟軍といっても、傾きかけた戦局に影響のあるような戦力を持っ た独立国があったわけではないぢゃ。 みな、亜細亜の諸民族の連帯だのという建て前や精神面はともか く、実際の戦力として、あてにしてはおらなんだよ。 それとな、台湾の熟蛮の兵士ぢゃが、これは同盟軍などではなく、 帝国陸軍、日本軍の兵士ぢゃよ。 たしか、台北と台南に現地人の歩兵連隊があったはづぢゃ。 (熟蛮=じゅくばん=台湾総督府の施政方針に順応した原住民のこと) もともとは、通常の歩兵連隊とは別枠の治安維持用の連隊で、台 湾歩兵と呼ばれておったが、先の大戦では南方に出征したぢゃろ。 85 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/11/01(水) 21:11 >>79 残念ぢゃが、それについては知らんの。 そのお方のことも知らんが、そもそも航空兵を志願するような半 島出身者であれば、日本風の氏名を名乗っておったことぢゃろう し、当時の日本風の氏名は通称ではなく本名ぢゃでな、区別はつ かんよ。 話題になったのは、戦後も親日派が糾弾されるような時代になっ てから親族(親御さんやご兄弟ではなかったの)に遺品を引き渡 す段になって、韓国政府が介入して拒否した例があるくらいぢゃ の。 両親が存命であれば、戦時中か戦後まもなくにそっと引き取った であろうから、表に出ることもなかったろうて。 80 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/01(水) 20:22 私のおじさんは高射砲兵になるといって帝国陸軍に志願したそうですが、 内実は特攻隊員にまわされると言ったことが噂され、父によって逃がされ たそうです。 当時そのように戦争に帝国臣民として協力するのはしょうがないと思いますが、 いまだに朝鮮、韓国人を見てチョンとか言っているのを聞くと、なんだか 差別って消えていないのねと思います、まぁいいけど、慣れっこですから。 86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/11/01(水) 21:13 >>80 まったくもって、けしからんことぢゃの。 ぢぢが謝って気の済むことであれば、幾重にも謝ろう。 まことに、あいすまぬことぢゃ。 93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/11/01(水) 22:05 >>90 ふぉ、ふぉ、ふぉ。 まことに礼儀正しいお人ぢゃの。 ぢゃが、そんなに堅苦しくなることもあるまいて。 >あの当時南方の島々まで、戦線を広げるメリットがなにかあったのでしょうか。 はて、ABCD包囲陣というのをご存知ないか。 日本が戦争にまで追い詰められたのは、石油の禁輸によるのぢゃ。 石油が欲しかったのぢゃよ。 それと、ゴムやポーキサイトの戦略物資を押さえたのぢゃ。 当時、日本本土や台湾、朝鮮、南洋諸島、日本が勢力圏としていた 満州や支那では石油が採れなかったのぢゃ。 満州で石油が発見されたのは、戦後もずいぶんと経ってからのこと ぢゃでの。 >私の義父は、海軍でしたが乗る軍艦もなくなり陸戦隊に配属され、ニュウギニア なんとなんと、大変な目におうたことぢゃろうて。 いやいや、ご苦労様なことぢゃ。しかし、生きて復員されたのであれば 不幸中の幸いということぢゃの。 以上、長々とありがとうございました。 詳しく対話の様子をごらんになりたい方は大日本史をご覧ください。ぢぢさまの証言を裏付ける資料も集められているようです。
May 6, 2008
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