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私
: サラリーマン
になって、 工場の生産管理を担当
するようになったね。
もちろん、 英語とは無縁の仕事
だね。
そうして、 10年
くらいたったとき、 会社がアメリカの大手企業と技術提携
して、合弁会社を作り、 工場敷地内に別建屋を作り1ライン
を作った。
当時は、 日本はアメリカから学ぶ時代
だね。
最初は、アメリカから部品が来て、これを組んで、アメリカに送り返す。
A氏 : ノックダウン 生産 だね。
私
:俺がこの合弁に出向のような形で配属されたのは、英語の力でなく、生産管理の腕を買われたからだね。
アメリカとの合弁ということで、英語を知っておかなければと、 会社は残業で駐留軍の若い米人兵士を呼んで、英会話の勉強を週2回位
することになった。
最初、 ペーパーテスト
があり、 上位のAクラス
と 下位のBクラス
に分かれた。
俺は Aクラス
だが、 ほとんどのメンバーは設計技術者
だったね。
ところが、 設計は多忙
で、夜遅くまで仕事をしている。
残業時間で余裕があるのは管理部門の俺だけになった。
講習は、実際には アメリカ人講師と俺の2人だけになった。
A氏 :理想的な 家庭教師スタイル ではないの?
私
:Aクラスの基本は フリートーキング
だということだが、何を英語でしゃべっていいかわからない。
相手も日本語ができないから沈黙。
しゃべることがないと、 今日、日中の仕事のことを英語でしゃべれと言われた。
ところがこれが難しい。
結局、沈黙が多いレッスンとなったね。
会社は欠席が多いので、 英語の勉強は3ヶ月くらいでやめたね。
俺の英会話能力は、全く上達せずに終わったね。
A 氏:合弁会社にいた効果はなかったのかね。
私
:ところが、変なことから、英会話をすることになった。
それは、 アメリカの会社の本社がシカゴ
にあり、これと毎日、 テレックス
でやり取りをするんだね。
常駐のアメリカ人は工場にはいない。
そのため、会社が、 役員待遇である商社の海外経験のあるベテランを採用
していた。
もちろん、 英語はペラペラ
だね。
この人が、最初、シカゴに送るテレックス英語を書いていた。
しかし、この人は工場経験がないから、シカゴの問い合わせに対する返事が遅かったり、正確でなかったりした。
A氏 : 英語がペラペラでも中身がないと意味がない好例 だね。
私
:それに不在のときが多かった。
そこで、 工場全体を把握している俺が、自然に返事を書くようになった。
書くのは高校英語で充分
だからね。
会社は、そこまで俺が、英語ができるとは思っていなかったようだね。
俺は、誰の指導も受けす、 自己流
でテレックスの英文を書いたね。
シカゴ側は、 正確な返事がすぐに来るので好評
だったね。
A氏 :当時は、 メール でなく、 テレックス だったんだね。
私
:俺が英語の原稿を書き、タイピストが パンチしたテープ
を作る。
これを夕方、 テレックスでシカゴに伝送
する。
シカゴと時差が半日
くらいあるから、 シカゴでは朝、こちらの返事
を見ることになる。
そして、返事や問い合わせを夕方送ってくる。
こちらには 早朝到着
する。
俺は、誰よりも早く、工場に来て、テレックスを読む。
それから、皆と協議したり、情報を集めたりして、 午前中に返事や質問の英語を書く
。
英語の電報は 単語数
でカネをとられるが、 テレックスは語数で料金
をとられる。
だから、平 易な英語で簡潔さが要求される。
自然に英語が 会話調
になるね。
A氏
:しかし、テレックスのやりとりだけでは、 会話練習
にならないね。
私:
その通りだね。
ところが、 俺たち世代
は、 アメリカに負けたというトラウマ
があるから、 仇討ちのつもりで相手の返事がおかしいと徹底的に追求
する。
そういう厳しいテレックスのやり取りを見て、 シカゴ側が不安
になり、 アメリカ人一人を3ヶ月くらいの常駐者として派遣
することになった。
彼が、日本に来て、毎日、 英会話をせざるようになったね
。
この結末は明日の話題にしよう。