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私 : 40年前に「八甲田山」という映画 を見たが、 高倉健が主演 だったね。
これは、 1902年1月23日 、 日露戦争 に備えた 耐寒訓練 などを目的に、 旧陸軍青森第5連隊(青森隊)が八甲田越えの雪中行軍に出発 し、 1泊2日の予定 だったが、 記録的寒波と暴風雪にあい 、 参加した210人のうち199人が死亡するという壮烈な事件 を 映画化 したものだね。
A 氏 :ところが、 別ルートで八甲田越えした弘前第31連隊(弘前隊)は成功している んだね。
弘前隊 は遭難した青森隊が出発した 3日前に弘前市 を発ち 、 十和田湖を経由する反時計回りのコース をとり、 区間ごとに地元住民に道案内させた。
八甲田連峰の横断には、ふもとの十和田市 から20~30代の猟師ら7人が同行 し、 11泊12日全224キロの行軍を一人の死者も出さずに完遂させた 。
私 :しかし、 旧陸軍 により 青森隊の悲劇が美談のように語られ 、 事件の2年後に生還者の後藤房之助伍長の銅像が建てられたのとは対照的 に、 弘前隊を率いた福島泰蔵大尉(1866~1905)の報告書は直後の部内報に掲載されず、封印 された。
旧陸軍 が、 青森隊の失敗と比べられるのを恐れたため とみられ、 地元の案内人 については、 福島大尉が「絶対に口外するな」と口止めし、地元でも知られることはなかった 。
A 氏 :その後、 案内人7人のうち1人が知人に話した経験談が地元紙に掲載 されたことをきっかけに知られるようになり、 1931年、地元青年団 が7人を「七勇士」とたたえる石碑を建立 し、 小学校が7人の顔を彫ったトーテムポール を建てたり、 活躍を伝える版画を作ったりするなどの活動 があったが、 地元だけの取り組みだった という。
私: この 弘前隊を道案内した7人の地元の村人・「七勇士」の活躍 を語り継ぐため、 2年ほど前に地元の研究家らが「八甲田山 雪中行軍を語り継ぐ会」を発足させ 、これにより、 7人への共感が広がりつつある という 。
昨年12月には十和田市 が譲り受けた7人の石碑を修繕 。
今後、 小学校などでの「七人の勇者」の読み聞かせ を通じ「 地元の誇りを子どもたちに伝え、広げていきたい 」という。
A 氏 : 弘前隊に参加した間山仁助伍長の孫 で、 事件を研究する元喜 氏は「 青森隊は初日から暴風雪に遭った。映画は指揮の乱れを中心に描かれたが、冬の八甲田に対する情報が少なかったことが最大の要因だ 」と 分析 しているという。
私 :今でも、 陸上自衛隊の演習 があるが 、事件があった1月23日周辺が演習日に選ばれることはほぼなく 、それは 翌24日 は地元で「 山の神の日 」と呼ばれ、 猟師 が山に入ることを慎むほど、荒天が多いとされるためだ。
青森隊 は、 まさにその「山の神の日」にやられた わけだね。
弘前隊 は、運良く、その 3日前 に出発しているし、 八甲田山の雪をよく知るふもとの猟師 ら 7人の案内 で、行進したのも 成功の一因 だろうね。