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私 : 今月の佐伯教授の「異論のススメ」 は今、 マスコミを賑わしている アメフトの試合における日大の悪質な反則行為の話題から始めている 。
今日の午後のニュース では、 日大は今日の理事会で、内田正人前監督が大学で務めている常務理事の役職の辞任を承認したと報じている ね。
「異論のススメ」では、佐伯教授は、 改めて「スポーツ」とはなにかの原点にもどって展開している。
「スポーツ」とは、もともと「ディス・ポルト」という語源 をもっているようだが、これは船が停泊する港(ポルト)を否定する(ディス)ものであり、 停泊地から離れる、つまりはめをはずす、といった意味を含んでいるという説 があり、 実際、英語の「スポート」には「戯れ」や「気晴らし」や「ふざけ」といった意味 がある。
その第一義的な意義 は、 それが日常の窮屈な秩序や組織の規則から一時的に解放されて気晴らしを行う、という点にあり、日常のなかに無理やりに押し込まれた過剰なエネルギーの発露であること 。
A 氏 : 古代ギリシャの「オリンピック」 も、もともとは 神々へ捧げる祝祭の競技 であり、 「スポーツ」は、確かに「遊び(ルードゥス)」を起源 としているが、「 スポーツ」がもっている非日常的な「はめはずし」の行き過ぎを防ぐものは、その背後にある「聖なるもの」であり、そこに一定の「様式」や「規則」が生み出されてきた。
日本では、「道」という観念がその代替的役割を果たした のであろう。
「柔術」と「柔道」の違い だね。
そして、 神々を背後において行われる競技という「遊び」の精神 は、 ソクラテスやソフィストの言論競技の根底にもあり、そうだとすれば、それは言論を戦わせる民主政治 にも通じ、また、 もともと、聖なる場所にしつらえられた市場でモノのやりとりをする市場経済 にも通じる ものであり、 それらの根底には「遊び」の要素 がある。
私 :とすれば、 「スポーツ」にも、また政治上の言論戦にも、また経済競争にも、どこか余裕があり、楽しむ精神があり、偶発性があり、ルールがあり 、 その先には、何らかの「聖なるもの」へ向けた意識があった と 佐伯教授は指摘 する。
「スポーツ」の競争や競技は、むろん真剣勝負であるが、その真剣さは、生きるための日常の必死な生真面目さとは一線を画した、どこかに余裕をもった真剣勝負 であったという。
ところが、 オランダの歴史家であるヨハン・ホイジンガ は、 今日、「スポーツ」から「遊び」が失われている 、として、 ただただ勝つことや記録だけが自己目的化され、カネをかけた大規模な大会に組織され、機械的で合理的な訓練が優位となり、もっぱら職業的な活動となっている という。
これでは、本来の「高尚な気晴らし」は失われてしまい、勝つために合理的に訓練され組織された闘争本能の発露になっている 、という。
A 氏 : 政治も経済も、もともと「遊び」に淵源もつというホイジンガの発想 を借用すれば、 今日の民主政治も市場競争も、「スポーツ」と同様、あまりに合理化され、組織化され、過度に勝敗にこだわり、数字に動かされ、自由さも余裕も失ってしまった と 佐伯教授は指摘する。
確かに、 今日の国会論戦も、金融市場の投機も、どこかゲーム的で「過剰なエネルギーの発露」の感がないわけではないが、そこには、「遊び」のもつ余裕もなければ、逆に生きる上での必死の生真面目さもなく、ただ、「勝つこと」だけがすべてになってしまった という。
私 : 本来の「遊び」が失われてしまい、本当にはめがはずれてしまい、勝つためには反則でもしなければ、という意識があらゆる領域で社会を動かしている という。
「遊び」がもっていた余裕や自由さが社会からなくなりつつあり、まずは「スポーツ」こそ人間存在の根源にある「遊び」の精神を取り戻す時であろう と 佐伯 教授はいう。
ところで、 「働き方改革関連法案」が31日午後、衆院本会議で採決 されたが 、過労死するような「働き方」でなく、「スポーツ」同様、佐伯教授のいう 「遊び」の精神理念をもった「働き方改革」こそが問われている ね 。
ただ、 「スポーツ」 で マスコミであまり登場しない のは、 帝京大学ラグビー部が 9 連覇した裏 には、 軍国主義と正反対の指導をした監督がいる ことや、 箱根駅伝 4 連覇の青学大 の 監督の選手の自主性を重んじた指導 など、 ユニークな指導が逆に「勝利」を呼び寄せていることに注目すべきだ ね。
そうすれば、 現存する別の「スポーツ人生論」が生まれたかもしれない。