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私 : 一般に、 マルクス主義の唯物史観 では、 社会構成体の歴史は、生産力と生産関係という経済的土台の変化に規定 され、 最終的に、社会主義にいたる というような見方だ。
だが、 この考えは、二〇世紀の末にほとんど消滅。
では、 柄谷行人 氏は、 なぜ、今、マルクスを読む必要があるのか というと、 資本主義経済という現実を見るのに、マルクスの「資本論」が不可欠 だからだという。
その理由 は、 柄谷行人氏が影響を受けた 東大教授・宇野弘蔵氏の影響を受けたこと にあり、 宇野氏は、唯物史観も社会主義もイデオロギーであるが「資本論」は科学である 、という。
簡単にいうと、 宇野氏は学生に、君たちは将来何をやっても構わないが、資本主義 経済が決して避けることのできない欠陥をもつことだけは承知しておけ 、という。
それは、 産業資本が「労働力商品」という、必要だからといっても増やすこともできず、不必要だからといって減らすこともできない、特異な商品に依拠しているということ。
A 氏 : マルクスの経済学 というと、 労働価値説、すなわち、各商品に「労働時間」が価値として内在するという考えだと説明されている が、それは、 アダム・スミスら国民経済学(古典派経済学)の考えにすぎない。
剰余労働の搾取という考え さえ、 リカード派社会主義者の見解 であり、 マルクスがそれらを受け継いでいることは確かである が、 「資本論」は何よりも、その副題にあるように「国民経済学批判」だ という。
そのことは、 マルクスが生産に対して交換を重視したことに示され 、 交換は共同体と共同体の間で生じ 、それは、 見知らぬ不気味な相手に交換を強いる「力」なしにはありえない。
マルクスは商品の価値を、物に付着した物神、つまり、一種の霊的な力だと考えた。
貨幣や資本はそれが発展したものであり、その意味で、資本主義経済は宗教的な世界 で、 宗教を小バカにしているような人たちが、この物神を心から信じているのだ という。
私 : 柄谷 氏は、 最初に唯物史観・社会主義はイデオロギーだが「資本論」は科学だ、という宇野弘蔵氏の考えを述べ、基本的にそう考えていた のだが、 二〇世紀の末に、考えが変わった という。
「資本論」は商品の交換から出発して、全体系に及ぶ。
柄谷 氏は、 それと同様に、 別のタイプの交換から出発して、共同体、国家、宗教、社会主義などを科学的に把握することができると考えるようになり 、 柄谷 氏は それを 「世界史の構造」などの著書 で示した。
柄谷 氏は、 とはいえ、 それは結局、マルクスが開示したことを受け継ぐものである という。
その意味で、 マルクスは健在 だね。