≪2015年12月3日の記事≫
血液のがん「多発性骨髄腫」になった東京都の音楽教師、テノール歌手のYAさん(44)は、2009年8月、国立がん研究センター中央病院(東京都)に入院した。まず、抗がん剤とステロイドを使う治療を11月まで受けた。
抗がん剤の副作用による激しい便秘と腹痛が何よりもつらかった。また、ステロイドを使うたびに、時間をおいて40度前後の高熱が出た。
翌10年1月、大量の抗がん剤と造血幹細胞移植を組み合わせる治療を受けた。吐き気で気を失うほどの副作用が出た。7月に再度、同じ治療をした。
これらの治療で、がん細胞がつくる異常なたんぱく質が、尿中に出る量が半分以下に減る「部分寛解」になった。
休職し、故郷の福島県いわき市で療養していた11年3月11日、東日本大震災が起きた。
震度6弱。実家で車を洗っていた。電信柱がぐにゃぐにゃと曲がって見えた。直前に海沿いに住む友だちを訪ねようか、迷ったが、洗車を選んだ。海岸線近くにいたら津波に遭ったかもしれない。
「もう元のいわきには、戻らないんだ」。建物は直っても、町に活気を与えていた海産物や農作物が原発事故の影響で売れなくなった。それがショックだった。
震災から約2カ月半後の5月末。民間のクリニックに保存していた精子を使った体外受精が1回目で成功し、長男のM君(4)が生まれた。妻のMさん(35)は「奇跡の子です」という
YAさんはがんになった時から「残りの人生、好きなことをやって生きていこう」と決めていた。がんからも震災からもとりあえず生き延びた自分が、何かできることはないか。そう考えたとき、浮かんだのが「歌」だった。
震災の前、いわき市内のイタリアン・レストランに行ったとき、同級生が店のピアノを弾き、YAさんが歌った。それまであまり人前で歌ったことはなかったが、「意外に歌えるんだ」と思った。あのレストランでチャリティーリサイタルを開こう――。
12年8月の初公演。人づてに開催の知らせが伝わり、身内や地元の友人ら40人が集まった。
>YAさんはがんになった時から「残りの人生、好きなことをやって生きていこう」と決めていた。
私は2回がんになっていますが、1回目は57歳のとき、初期の腎盂癌で、摘出手術して完治とみなしていい状態になったので、特に生き方が変わるということはありませんでした。
2回目は59歳のとき。その2年前にリストラで一旦定年扱い退職をして、別の会社に再就職して1年と少しで、後腹膜悪性腫瘍に罹りました。完治は困難で、抗がん剤での延命治療でした。このときは、たとえ働くことができるようになったとしても、会社に戻らず、YAさん同様、「残りの人生、好きなことをやって生きていこう」と思うようになりました。
その後、粒子線治療に出会って、その治療を受け、健康な状態で生きながらえる可能性が大きくなりましたが、「残りの人生、好きなことをやって生きていこう」と思う気持ちは変わらないまま、今のところは「サンデー毎日」の生活をしています。
皆さん、健康なのにブラブラしていたら、嫌になってくるといいますが、何故か私は充実した毎日です。人種が違うのでしょうね。
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