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☆ものがたり☆市電に乗って
社会人になってからも、苦しくなる度に何度もここを訪ねた
面倒見の良い大家さん夫婦は、いつも来訪の理由を聞かず大歓迎してくれ、数時間近況や昔話などをして暇乞いをするのが常であったが、奥さんが20年前、親父さんは5年ほど前に帰らぬ人となってしまった
ここに来るのは、親父さんのお葬式以来である
付近は昔も今も人通りの少ない下町の風情で、2軒東の自転車屋は看板は上がっているが明かりはついていない
下宿の裏側はいつのまにやらワンルームマンションが建ってしまっていた
向かいの煙草屋のおかみさんや、風呂屋の前歯の抜けた気のいいおばちゃんは、とうにこの世にいないであろう
元の下宿には立ち寄らず、周囲をぶらぶら回った後、下宿の真ん前にある叡山電車茶山駅
に戻ってきた
今も昔も無人駅
今から出町柳行きに乗れば、終電までには家に帰れそうだ
しかし、帰宅しても今までと違うのは、今日からは一人きりになってしまったという現実である
「あなた、今度就職の良介がどこを志望してるか知ってはる?」
「いや、どこや?」
「じゃ、咲子がドラムメジャーのコスチュームを誰かに隠されて、一晩かかりで私と二人でこしらえたことは?」
「いや、知らん」
「私が精密検査で胸に腫瘍が見つかったことは?」
「えっ?そんな大事なこと、なんで今まで黙ってたんや!」
「言おうとしたわよ、何回も!毎日毎日あなたが帰ってくるのを待って、今日は言おうか言うまいか、毎日言いあぐねて、さあ言おうとすると、いっつもあなた、私の話なんて聞きたくないって言うように、すぐにお酒飲んで、寝てしもたやないの」
「俺は俺で、潰れかけの会社の」
「もういい!口開いたら会社会社会社会社!」
「そんなこと言うたかて」
「結婚するとき言うたよね。仕事には代わりはあるけど、お前には代わりはいいひん。大事にするって」
「百合子…」
「私、住むところは見つけて来たんよ。良介はもう社会人になるから、咲子と二人で暮らします。これに判ついて私のところに送って」
「お前、腫瘍って言うてたけど、どないすんのや?治療やら何やら」
「心配いらん。ガン保険には入ってるから。それにこれ以上あなたと暮らす方が、ガンに障ると思うから…」
「何ぃっ…」
「……」
「…。…分かった」
妻の百合子との今朝の会話が、もうずいぶん昔のことのように思い出された。
とにかく、明日から俺は仕事もない、家族もない男になってしもうたんや。孝介はホームに入ってきた一両だけのワンマン電車に乗った。
電車に乗ると、ワンマンだったはずなのに、中には車掌が乗っていた
車掌は孝介が京都に来た頃のような、紺の詰め襟の制服に、切符の鞄を方から斜めにつるしていた
そうだ。この電車と言えば当時はマイクさえついていなくて、車掌が肉声でアナウンスしていたものだ。
発車間際に若い男が乗ってきた。
暑苦しそうな長髪に薄汚い黄色のTシャツに破れかけたGパン、すり減ったサンダル
似てる!いや、似ていると言うよりあれは本物じゃないか?
本物の30年前の俺じゃないか?
孝介は男を凝視した。
と、その瞬間孝介は彼の身体に入っていった。
ドアが閉まった
外を見ると、なんと下宿の大家さん夫婦がにこにこしながら電車の方を向いて立っていた
孝介は窓をあげ、身を乗り出して手を振った。
「小父さん、小母さん!」
孝介は、知らずに大声を出していた
夫婦は、やさしく微笑み、おばちゃんは昔のように、
「お兄ちゃん、がんばりよし!」
と言った。
「次はぁ~、元田中ぁ~。元田中ぁ~っ」
線路は大きく右にカーブした後、東大路と交差する「元田中」駅に着いた
孝介は何かに引かれるようにふらりと電車を降りた
懐かしい界隈である
駅の脇に「松の木」という学生向きの食堂や、大通りには「あら・カルト」という喫茶店
そして、孝介は横断歩道を渡り始めた
昔はここを市電が走っていた
夏なんかは、陽炎の立つ中を路面電車が車体を左右に揺すりながら走っていたのを思い出す
京都の市電は、昭和53年9月30日に廃止になった
最終電車に乗りに行ったことを、よく覚えている
と、孝介は真っ暗な道路中央付近で立ち止まった
あれは…
孝介は、もう一度目をこすって見た
そこには、今はあるはずもない路面電車の停留所「叡電前電停」があった
東大路には車は1台も走ってこない
そこに遠くから、ゴォーッという懐かしい音が聞こえてきた
市電はマスクの左右の額からヘッドライトが光っている
孝介は、前のドアから市電に乗った
乗車してすぐ、料金箱に100円玉を入れる。すると返却口からおつりの10円が出てくる。
孝介は、車両中央に男が座っているのを認めた。
お父さん?お父さん!
孝介が24歳の時に死んだ父である
腹が立つ位、誠実だった父。
仕事一筋で若くして死んでしまった父である。
親父ってこんなに小柄だったのか?
30年前の姿の若い孝介は父と並んで座った
「孝介、就職決まったんやってな」
「うん」
「一旦決めた以上、ケツを割るな」
「はい」
…次は百万遍、百万遍、昭和堂印刷前です
危険ですから窓から手や顔を出さないように願います
「俺が海軍にいた時は、逆らっては殴られ、間違えては殴られ、それはえらい時代やった。一人が誤れば何百人乗せた船が沈んでしまうからな。当たり前や。会社も同じや、お前がつまらん失敗したら会社が潰れる」
「そうやから、お父さんは僕が小さい頃から、あんまり遊んでくれへんだん?」
「いや、それだけやない。仕事を子育てやその他諸々の事からの逃げ道にしてたんかも分からん。お母さんには悪いことをした。男は、ほんまは弱いもんかも知れん」
意外だった。父は完全無欠な人間だと今の今まで思っていた。仕事をすることで父が家庭から逃げていた?母は知っていたのだろうか?
…次は東一条、東一条。京都大学、左京区役所前です
ドアが開いた途端、国防服姿の若者がなだれ込んできた
若者たちは乗り込むやいなや、窓を開け、身体を乗り出して知人を探している様子である
「守る銃後に 憂いなし
大和魂 ゆるぎなし
国のかために 人の和に
大盤石の この備え
いざ行け つわもの 日本男児!」
ちぎれんばかりに打ち振られる日の丸の小旗
万歳三唱!
「お父さん」
「これから学徒出陣する兵士の見送りや」
万歳!万歳!万歳!の嵐
そのうち、一人の若者が父の前に立った
「気をつけぇぇっ!」
誰かが号令をかけた
ザッ、という足音とともに、若者たちが父に正対した
父は、いつの間にか海軍の白い制服を着ている
「小尉殿に、敬礼!」
父は、孝介が今まで聞いたことのない口調で話し始めた
「諸君、お役目ご苦労である」
「我々学徒は、栄えある出陣の栄誉に浴し、感慨無量であります。かくなる上は、決して生きて帰ろうとは思いません。御国のために最後の一兵まで生命を投げ出す覚悟であります」
黙って聞いていた父の両眼から見る見る涙があふれ出た
と、同時に
「この阿呆っ、ど阿呆がっ!」
と言うなり、学生の頬を張った
「ええか!よう聞けっ!我々軍人は、いざとなったら、御国のために生命を投げ出す覚悟は必要やっ。そやけどな、最後の一兵になろうとも、自分の生命を粗末にしてはならん!貴様達を今まで育ててくださったご両親の気持ちを考えてみい!それに、すっかり荒廃してしまったこの日本の現状を考えろ!これを復興するのにこそ、貴様達の若い力が必要である。日本という国で、一体何が起きたのか、後世に正しく伝えていくために、貴様達が生きて帰ることが絶対に必要なのや。そして、将来この国は、発展を遂げ、世界に尊敬される国になる。そのために貴様達が絶対に必要や。もう一度言う。生命を粗末にすなっ。分かったか!」
「はいっ!」
「お父さん!」
「いや、すまんすまん。思い出してしもうてな」
父は、いつの間にか背広姿に戻っていた
「俺が海軍時代、学業成績の悪い者から前線に出された。俺は、はっきり言うて死ぬのが嫌やった。そやから死ぬほど勉強した。そして同期の600人は次々戦場に出て行き、そろそろ自分の出番が回ってくるという頃に、終戦になった。みんな優秀な奴やった。それにいい奴ばっかりやった。そやのに、死んでしもた。小ずるく、勉強していた自分が生き残り、一生懸命訓練して、御国のためにと戦った人間が死んだ。本当に、取り返しのつかんことをしてしもうたんや」
いつの間にか、学徒の集団もいなくなり、市電の中は、孝介と父と運転士の3人に戻った
…次は祇園、祇園。円山公園前です
祇園電停は、東大路四条、八坂神社前の通称祇園交差点南詰
電車道はここから上り道になる
夜に外から見ると、架線とパンタグラフの間から青い火花をバチバチいわせながら、上っていく市電は最高に格好良かったことを記憶している
「孝ちゃん!」
名前を呼ばれて振り向くと、孝介がアルバイトしている飲食店の閉店直前の午前3時ごろ滑り込むようにやってくる、常連さんだった
「孝ちゃ~ん!会いたかったぁ」
「朱美さん」
朱美さんは、いきなり孝介に抱きついてきた
朱美さんは、祇園の売れっ子ホステスで、酒はそんなに強くないのに飲むもんだから、孝介の店に来る頃はつぶれる寸前だった
孝介にとっては、トイレで背中をさすらされたり、いす並べてベッドを作って介抱したり、手の掛かる、それでいて憎めないお得意さんだった。
「そう、こちらお父さんなん?まあ、挨拶遅れてしもうて…初めまして、朱美と申しますぅ。孝ちゃん…やなかった。なんやったかいな…そうそう、高野さんには、いっつもお世話になってますのんえぇ。ほんまに。え?私は孝ちゃんのお世話してへんのかて?いややわあ、そんなん、決まってますやん。このごろは、上手にならはりましたんえぇ。なぁ孝ちゃん?」
「うそやで、みなうそ!」
…この電車は、6号系統東大路通りから七条通り、塩小路高倉から京都駅前へ参ります
次は、東山七条、東山区役所前です。東福寺、九条車庫方面はお乗り換えです。
東山七条では、結婚式場から抜け出したような新郎新婦が乗ってきた
新郎は、結婚したての孝介。満面の笑顔。新婦はもちろん百合子である。
腕を組んだ二人は、父の前に立った
「お父さん!」
「孝介」
「お父さん、初めまして。百合子と申します」
そういいながら、百合子は父に花束を差し出した
「孝介の父です。どうか、孝介をよろしく頼みます」
「はい」
「孝介、お前はこれから、どんな結婚生活を送りたいんや?」
「何よりも、家族を大事にしたい。そしてしっかり子供を育てて、百合子を幸せにしてやりたい」
「百合子さんはどうですか?」
「孝介さんと手と手を取り合って、困ったときはお互いに相談しながら、明るい家庭を作りたいと思うてます」
「孝介、ええ嫁さん貰うたな。けど、人間は忘れる動物や。今日の決意、嫁さん子供を何より大事にしたいという気持ちも、やがては薄れ、気付いたときには、自分が苦労してこいつらを養ってやっているのにっていう、思い上がった気持ちになる。忘れへんようにするには、そやなあ…。いつでも、口に出していうことやな。『お前等を愛している』ってな。俺は一度も言うたことなかったから、後悔しとる。これから先、どんなことがあっても、父はお前達を思っている。忘れへんようにしてくれ」
父は、百合子の手を取り孝介の手に重ねた。
横目で見ると百合子は恥ずかしそうに頬を染めて笑っていた。
「百合子、ごめんなあ。ほんまにすまんかった。ほんまはお前達こそ一番大事やのに、いつの間にかほったらかしにしてしもうた。僕らもう一回、やり直せへんかな?」
「孝ちゃん…」
目を開けると、孝介は病院のベッドの上にいた
そして、左手の上には、父親が重ねたように百合子の手が重なっていた
「やり直そ、一から。孝ちゃん」
「百合子、どうしてここへ?」
「社員の桂さんから連絡があったのよ。あなたが、倒産を苦にして元田中で車道に飛び出して車にはねられたって。このアホッ」
「すまん、で離婚は?」
「失業して死にかけた亭主放り出す程、まだ鬼にはなれへんわ。がんばろ。もう一回」
「うん、ありがとう、百合子。愛してるよ」
「アホちゃう?頭打ったんか?」
百合子はそういいながら、強く孝介の手を握った。
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