たけぞうのばか日記(仮)

たけぞうのばか日記(仮)

メシを食うということ

■メシを食うということ

 最近、自分でメシをつくって食うということのタイセツさを実感している。
いや、なにもたいそうな料理を作らなくてもいいのである。
実際作ってないし、作れないし。

 極端な話、タダ単にメシを炊く。
んで目玉焼きを作って皿に盛りつける。
これだけでもいいのである。

 今まで、メシの基本はコンビニの弁当か、居酒屋で飲むかだった。
もちろん、そのときはそんな食生活になーんの疑問も抱かなかった。
しかし、自分で食事を用意するようになって、手間はかかるが、食った後にすごく精神的に満たされていることに気がついた。
と同時に、今までの食生活はあまりよろしくないことだったんだなあと思うようになった。

 なぜか。
結局、居酒屋のつまみやコンビニの弁当は「エサ」にしかすぎないからだ。
顔も知らない赤の他人(それならまだいい。もしかしたら人間ではなく、機械が作ったものかもしれない)が、顔も知らない不特定多数の人間に向けて作ったモノ。
そこに愛はない。

 ランキングすると、
愛する人に作ってもらった料理>自分で作った料理>弁当屋のおばちゃんに作ってもらった弁当>居酒屋の料理>コンビニの弁当>なか卯>吉野屋>松屋
といったカンジになるだろうか。

 吉野屋といえば、もうず~っと前から思っていたのだが、吉野屋とか松屋で牛丼とかを食ってる俺たちってエサをもらってる家畜そっくりじゃないだろうか。
U字型のカウンターに並んで、同じようなモノを同じようにしてただ黙々と食っている光景(もちろん俺も含めて)を眺めて、俺たち、養鶏場のニワトリか養豚場のブタみてえだなと、ふと思ったことがある。

 そこには「食う」というより、「食わされている」という表現がぴったりの、なーんも考えていない家畜のようなソンザイがあるのみ。

 そう思ってしまってから、そーゆー系の店にはあまり足が向かなくなった。
(念のため付記しておくが、俺は決して吉野屋が嫌いなわけではない。昔はほんとによくお世話になった。3日に1回は3時か4時ころに行ってたかな。あのときは、ほんとに東京は便利なところだと実感したものだ)

 しかし、他人に作ってもらわなくても、自分が好きなモノを自分の好きなように作って、盛りつけて食うだけで、食い終わったあと、なにやら妙な満足感があるのである。自然と手を合わせてひとりで「ごちそうさま」なんて言ってる自分がいるのである。単なる自己満足なんだろうけど。

 もっともこんなことができるのも、ぷ~だからこそだが。以前のように仕事をしてたらとてもじゃないけどできないだろう。

 ま、でもこれもいつまで続くことやら。
つか、お日様の登場とともに床に入るヤツがいうことじゃねっか。
(2003.10)

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