18禁? 0
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6日の午前2時半。 ええ加減に寝んと、起きて からがとんでもないことになるのに。 例の駒大苫小牧高関係の高校野球連盟 の取材が控えていて。 4、5日の二日間。 卓球の取材に行き、友人の送別会に一度出た。 私が志してる部分をまだ残している 小説の世界もそうだが、人に知られたり、 人気があったり、というのが貴重な世界 はやはりあって。 ボクシングは知らんけど、亀田は知ってる。 これだけで亀田は◎で。しかも、兄貴は着実に 実績も積んできてるから、人気に実力が見合う 部分さえある。これで、プロは十分。 で、何を書きたいか、というと。 卓球。 これも亀田と同じく、で。 卓球なんかどうでもええけど、福原愛ちゃんは 知ってる、って世間の人のほとんど じゃないんだろうか? 確かに、窪塚の主演した映画「ピンポン」なんか、 素晴らしい出来で、私は思わず公開された年の 邦画ベストワンにしてしまったけど、だからといって 卓球の人気には結びついてないわけで。 卓球=福原愛。 これが普通の人の頭の中だと思う。 で、高校野球なんかだと、同じような ことがあったら「スターは認めない」とか言い出して、 人気のあるなしに関係なく、措置は平等に なるのですが、愛ちゃんの卓球の場合は 違う。 競技団体も、愛ちゃん以外、気の毒なんだけど 他の選手に日本のマスコミが興味がないのを知っている。 だから。 二日間。 愛ちゃんは6試合戦ったけど、 すべて同じコート。 テレビカメラが添えつけてある 第5コートでしか試合をしなかった。 簡単に言うと、おそらくテレビに映って たのは愛ちゃんばかりじゃなかったんだろうか? 関西では放送がなかったので、関東の方 しか分からないところはあるのだけど。 記者会見も。 アジアカップ、と銘打たれているのに、 優勝者の共同インタビューはなく、 二日ともに会見が用意されたのは 福原愛だけだった。 もちろん、取材する気があれば、共同会見 なんか関係なしで聞きにいけばいいのだから、 目くじらを立てることではない。 ただ、すべての状況が《一人だけのための…》 って感じになっていて。 どうなんだろう。 福原愛は、この状況を幸せに 受け止めてるのか? そういう質問をするには、競技だけでなく、 日ごろからの付き合いがなければ難しい、 と私は思う。 それを気にもせずに聞ける神経。 それも、マスメディアにいる限り 悪いことではない。 でも、20年以上取材に携わって、 そういう微妙な質問を人前で行った ことは、私は一度もない。 デリカシーの問題、というよりも、単に 勇気がなかった。 《一人だけのための…》 やはり、人気商売で考えるとプラスの方が 多いはずだ。注目されることで、スポンサー となっている人、企業も見返りが期待出来る のだから。 しかし、当たり前だがそれは《一人だけ》 なのだ。卓球でいえば、福原愛以外には 許されないし、現状ではありえない。 いかに日本で一番であろうが、関係はない。 どうあがいても、その他大勢の一人にしか 過ぎないのだ。 で、ここで私は当たり前のことに気付く。 私たちの普段の生活でも、多かれ少なかれ、 この法則は当てはまっているはずなのだ。 特別な一人になっていない、その他大勢。 実はそれが、ほとんどすべての世に生きる 人で。 その中の一人としての存在を自覚する時。 あがくべきか、納得して受け入れるべきか? 私などが本当にとるべき道は、 そんなことを考える猶予など 取らず、自分が目指すものがあるなら 何も考えずに…、が出来ないから 私は凡人なのだ。(写真=遠巻きに福原愛の試合を見守るマスコミ関係者。 このテーブルの周りにしか取材者はまずいなかった)
2006年03月05日
4日の午前様になってしまった。 ちょっと、また更新をサボった形になって。 仕事。 昨日はスカイマークスタジアムで、プロ野球 のオープン戦を取材し、その足で卓球の福原愛選手 らの会見に出た。 ボクとしては。 駒大苫小牧高野球部関係の取材を 何かせないかんようになるんじゃないか、 と遠巻きに思っていたんですが。 6日の高野連の臨時の会議のカバー をするので良くなって。相撲の朝稽古にも 行かなくていいんだから、6日の取材は 早起き免除分だけ、助かったかな、と。 原稿は多そうだけど。 で、何で駒大苫小牧高校か、というと。 2月8日。 豊中ローズ球場の練習。朝一番に行って、 取材したおそらく関西ではただ一人の記者 だったと思うのですよ、私が。 大阪の豊中市で、駒大苫小牧高校の野球部は 一次キャンプをやってて。その取材に、私が 会社から指名された訳で。言われもせんかった、 豊中市役所への表敬訪問も朝9時に出向いて。 何が言いたいか、っていうとこの8日から 10日間、朝早くから夕方、陽が落ちる前まで、 土のグラウンドを使って彼らは必死に練習して いたはずで。 今年の雪。 北海道がどういう状況かは想像出来る。 外で、土の上で、ということで本当に、 一時を惜しんで練習したに違いない。 現に、8日の市役所訪問も、監督とキャプテン らユニホームを来た人間で来ていたのは 4人だけ。それ以外のメンバーはみんな、 先にグラウンドで練習を始めていたわけで。 それが、昨日。 すべて無になった。 言い過ぎか。 センバツに備えた分は無になった。 大阪に出向いていたのは30人ほどだった けど、走塁、連係を中心に一生懸命やった ことは、本番には生かされない。 全く、次元の違ったことのために。 いや、どこかで地つながりしてるんだとは 思う。つながってなければ、辞退になる はずはないんだから。 私から見ると、人のいいおじさんにしか見えないし、 話をしても印象の変わらなかった香田監督。 彼の指導にも、問題あり、と言われるんだろう、 とは思う。 でも、さて? 教師の暴力って、あんた、私の卒業した 白陵高校は、どうしたらええねん。いや、 今は教師暴力はないそうですが、少なくとも 私が在学中は、一日にどこかの教室で必ず 教師が生徒を殴っていたはずで。 そういう学校もほんの20年ぐらい前までは 存在してたわけで。 その当時、出場辞退、こんな理由でやってるんか いな、とも思ってしまう。 卒業式のあと、酒飲んで騒いだ? これだって。 卒業式のあと、パチンコで5千円負けた私の やったこととどれだけ差があるのか? あ、あったわ。 パチンコは18歳OK。お酒は×やった。 大きい差や。 では、高校の倶楽部の送別会で、やはり酒飲んだ 私らは?同じやないか、しょせん。似たようなこと はみんなやってるのに、注目度の違いによって、 受ける待遇、処罰が違う。 なんやろなあ、これ。 いや、特別今日は書きたいことがあったわけではない。 ただ、今回の一連の駒大苫小牧高の出来事が 特別なこと、とはどうしても思えなくて。 なあ。 正直になろうや。 みんなやってるやろ? 多かれ、少なかれ。 法に違反した部分(体罰、飲酒)も含め、 もしひとつでも厳格に処罰するというなら。 例外などあってはならなくなる。 もし、例外を許さないなら。 どれだけギスギスした環境で、自分が生きないと 生けなくなるか、分かってるか、あんたら。 何でもスルーで許せ、と言ってるんじゃない。 そうじゃないけど、何でも厳罰を下すな、とは 言ってる。 世間の目、というやつに対して私は抗議している。 ええ加減にせいや、と。 6日。 とりあえず、取材には行く。 そして、私は自分が思ってる通りの原稿はおそらく 書かないし、書けない。 それが世間なのだ。 それが仕事なのだ。 私はフリーランスではない。 だからここで。 ここで、一言いうぐらいしか 出来ることはない。(写真=豊中ローズ球場のある付近は、公園がゆったりと 作られていて。練習取材の合間に、青空を向いて撮った 一枚。私が写真を撮っている間も、駒大苫小牧高のナイン は練習に明け暮れていたはず)
2006年03月03日
17日になろうという時刻です。 10月22日から休職に入って、 1ヶ月半以上休んでの復帰。 今日は会社に顔出して挨拶してお終い、 のつもりやったんやけど。 妙にせわしかった。 昨夜のプロ野球・オリックスの仰木前監督の 死去と関係があったのも確かで。 昨日の仰木監督の死去のニュース、 テレビで10時半ぐらいに流れた、というのに 知らなくて。自分のところの会社のオリックス 担当の記者からの連絡で知って。 それも「わが社は(死去が)確認出来てない んです」という連絡で。午後11時、回っと った。 咄嗟に何人かの旧知の元近鉄選手(吉井君、山崎君、 清川君ら)に連絡取ってみたけど、誰も出てくれん。 別の方法で確認できたのが、11時半ぐらい。 山崎慎太郎君がコールバックしてくれたのが、それから 15分後ぐらいやった。 外に出る用意もして、とりあえずコメントが拾えた 何人かの原稿を本社に草稿して待機。「もう、新しい 動きはないです。会見も終わりました」と、オリックス 担当の記者から連絡を受けたのが、午前2時少し 前でした。 ふう、で。 いや、仰木さんには僕も大きくお世話になった一人 でしたから。1987年のオフに初めて近鉄の監督 に就任されることになった時には、最初に書かせて いただいた2社の内の一つ(偶然の同着やった。 6月の休刊日発行狙い撃ちが2紙もあった、って いうのもすごいけど。オフ違うからね)に、私も なれましたし。 それ以後も。 いろいろと。 プロ野球の監督さんの家に実際に上がらせてもらった ことがあるのは、この仰木さんと、阪急、オリックス 、日本ハムの監督をされた上田利治さんの二人だけです。 門前払いを食らい続けた人は、あと数名いますが、ここ には記さず、で。 前にもブログで書いたことがある気もするのですが、 仰木さんの一番の思い出は、有名になってからのこと でなく、近鉄の監督就任発表前日のことで。 この日。 夜。初めて仰木さんは当時、お住まいになられてた 新大阪のマンションの部屋に僕を上げてくれて。いや、 僕が一番乗りだったのですが、その後訪れた数人の 記者も全部部屋に入れはって。 で、お酒も少し出たように覚えてますが、 長いコーチとしての下積み時代を支えた 奥さんと二人で僕ら若い(当時僕で26歳) 記者をもてなしてくれて。50歳を超えて やっと掴んだチャンスだったんですから、 仰木さんにとっては。 その時に、言われたことで鮮明に覚えているのは 「あんたら、ワシの任期どのくらいや思う? いつまで監督出来ると思う?」 と仰木さんが不安な心の内を明かすように、聞いて 来たことで。 残念なことに、どう答えたのか、覚えてなくて。 おそらく、近鉄はその年、最下位に終わってました から「最低でもチームを立て直す3年ぐらいじゃ ないですか」と今考えると失礼な答えを返したに 違いなく。 ずっとあと。 95年。あの震災のあった年の2月、オリックスの 宮古島キャンプ。この時の初日。選手宿舎となって いるホテルのラウンジのカウンターで、仰木さんに この時(87年)の真意を聞こうと思って、聞いた ことがあります。 「そんなことワシ、言うたかな?覚えとらんわ」と 豪快に笑い飛ばされたことも覚えていて。89年の 「10・19」や翌年のリーグ優勝(巨人に3連勝 のあと4連敗したのも記憶に鮮明です)、それに 野茂投手を育てた実績などで、すでに名監督の地位 を築かれていた時。 あの時で、僕がぎりぎり33歳。まだ、両耳も聞こえたし、 徹夜しても大丈夫の身体やった。要は若かった。 だから、聞けた。 今なら、絶対ようせん。 仰木さんの死去された日の翌日。 大阪市役所でオリックスの中村新監督と小泉社長 らの取材をしながら、何一言も自分から聞こうと しない私、というのにも気がついて。 26歳と44歳が同じ、って のも悲しいけど、経験のかなりの部分がプラス になってるなら、なんか聞けるわな。 いや、どうだろう? 誰が聞いても一緒のことなんて、誰かに 聞いてもらえばええやん。 それより、個人的に一対一で、どれだけ 話せるか、で。野球の経験のほとんどない 僕は現実には、親しい野球人とも本当の ところで話をしてもらってなかった気が 最近はして。 まあ、そんなこんなで一日目が終わりました。 あした(17日)は天皇杯のサッカーで、 ガンバ大阪の取材。変わり身、というか、 出来事は待ってくれんというか。 感傷とか、感慨、とかに耽るのは、ほんまの 作家先生に任せとかな。私は、やはり今は ブン屋でしかあらへん。それも企業内の。 どこにつながるか、って考えるより、なんか して食べていかないかんからね。労働、って 国民の何大義務の一つだったよねえ、確か。 (下)宮古島で95年に撮ってもらった仰木監督 と私、女性記者の3ショットを出そうと思ったけど、 部屋のどこに埋没してるのか分からんので出せません。 あの女性記者も、スポーツ紙辞められたよなあ。 昔のままで変わらず、なんてものはまずない。特に 生き物に関する出来事においては。仕方ないので、 地元・神戸新聞の12月16日付け夕刊でも、遠巻きに撮って 貼っておきます。これぐらいなら許してもらえる んじゃないかな、と。ピンぼけやし。
2005年12月16日
8日の午前8時です。 今日もゆっくり過ごせます。 簡単に言うと、夏休みなく働いた私にとっては 楽にさせてもらってる週間です。 9月29日から10月3日にかけて。 タイトルに帰ると、スポーツ関係の取材と いうことになりますが、世間的に一番大きかった のは阪神の優勝、ってことになるんでしょうね。 現実に、現場=甲子園球場にいながら。 ここまで休載してたとはいえ、触れていない ことで分かってもらいたいのですが、 阪神への関心は僕は高くありません。 でも、ことあるごとに阪神は付いて回っていて。 社会人、というカテゴリーで考えれば、ですが。 1984年11月。マスコミの入社テストしか 受けず、それも当時あった協定の10月1日解禁と いうのをしっかり守った僕は文章はともかく、 普通の英語や時事問題などの勉強不足のおかげで 新卒採用テストでは大苦戦でした。 ともかく。 面接は通るんだけど、記述テストだとダメ、って やつで。 というか、今考えたら恐ろしいほど受けた社も 少なかった。Y社だけ地方採用も受けましたが、 それを同じ会社と考えると全部で5社しか受けてない。 それも全部、全国紙か大手の出版社。 怖いもの知らずってやつですね。 で、最後に残ったスポーツ専門紙で唯一受けた D紙が採用内定をくれて。 今だから言えるけど、このD紙が“タイガース新聞” (野村克也氏がヤクルト監督時代に目の前で言って いたのを10回以上は聞いてるので、僕の造語ではない) として通っていたスポーツ紙なんて全く知らなくて。 記述テストに合格して、初めて面接、って日に やっと初めてこの新聞を自分のお金で買ったんだよなあ。 で、なぜかその日のトップは「巨人・水野投手」の 深夜のお遊びの話で。ぜんぜん、阪神じゃなかった。 その紙面の話を面接でしてんだから、考えたら 冷や汗ものってやつで。 そんな昔話はどうでもよく。 で、入社した1985年。御巣鷹山もあったけど、PL学園の KKによるとんでもない甲子園もあったけど、やはり 21年ぶりの阪神の優勝がこのスポーツ紙的には トップで。 入社して10日目ぐらい。甲子園球場での阪神ー巨人3連戦で、 コメント拾いなど仕事の真似事させられて。 うるさくて、記者席で何も聞こえないのも あの時初体験。 挙句。 伝説のバックスクリーン3連発が出た時、眠気でこっくり してて、現場デスクに頭をはたかれたのも覚えていて。 だって、午後8時や9時に仕事なんて考えもしてなかった。 大学時代の私は寝てる時間帯ですよ。 まじめだからじゃなく、やることがなかったからだけど。 絶対、話が長くなるのでやめよう。 1985年の優勝の時、阪神球団がスポーツ紙記者に 配ったタイガースバスタオル、私は昨年まで使って ました。阪神ファンってわけでなく、単純に使い心地 が良かったんだなあ、これが。 こんなんだから在阪スポーツ紙の記者の花形コース とされる阪神担当のキャップとかいう案を聞いた時 “やめよう”と漠然と考えた記憶が。ちょうど、今の 会社からの誘いもちらほらと風の便りで聞こえてきてて。 こんな僕でも一度だけ、阪神担当はやっていて。 1994年。4位で終わったんじゃないかなあ。 オリックスの監督就任の決まった中村さんの時代。 病気になりました。 耳は聞こえなくなるし。 ただ今回、中村さんの監督就任で言われていた 「調整能力に優れている」という言葉。 阪神の久万前オーナーに、何度も聞かされていて。 夜討ち朝駆けをきちんと僕がまだやってた時代。 夏場に入ってすぐからだから、球宴より前だったよなあ。 そんな時から、監督問題の取材。 中村さんの能力で、オーナーが「買ってる」と 何度も力説されてた調整能力。 采配や選手起用でなく、そんなところを 一番評価しないといけないところに 阪神、って球団のややこしさを感じて ゲンナリしたのも覚えてます。 どうでもいい、と言いながら阪神の話は 核心に触れないまでも出来ます。スポーツ紙の 時の同僚は、阪神の球団社長が飛び降り自殺を された件で、「もうこれはスポーツじゃない」と ショックを感じたりして、その後離職。 まあ、税理士として今は成功してるみたい だから、これは良かったんだろうなあ。 それにしても。 阪神の胴上げも、よく目の前で見てるよなあ。 2年前も広島担当として甲子園に来てたし。 とりとめもない話になりそう。 あかんわ。 阪神の思い出なんか、一日のブログで書けますかいな。 良くも悪くも、で。 球団内のゴタゴタが十八番だったこの球団が、 球団外のゴタゴタに巻き込まれてるのは、もう、 因果応報というか。 もう。 (下)2005年優勝当日に記者席で配られた大入り袋。 この種のものとしては異例の5百円玉が入ってました。 そういえば、思い出したが今月のどこかで出る はずの不肖・宮嶋の雑誌系の写真集のゲラ見せてもら った時に、85年の優勝の際の道頓堀のダイブの写真が あった記憶が。 全然、どこで何してんのか知らんもん同志やったけど、 妙に接点があることはあって。たぶん、同じ現場にも いたこと一度ぐらいはあるんやと思う。確かめたこと ないけど。
2005年10月08日
20日の午前7時です。 寝る前に更新しようと思ったのですが、出来ず。 まあ、いいか、って感じですね。 19日。 仕事場で見たものが久しぶりに面白かった。 本来、僕は企業内記者(フリーの人の過酷さ はない)でスポーツの担当ですから、仕事で 面白い、というと見たスポーツのことで。 神戸はスカイマークスタジアムで行われた プロ野球・オリックス-楽天の最終戦。 よく考えたら、因縁の一戦で。 昨年のプロ野球再編の時に、すったもんだ した二球団ですから。 で、19日の試合。 かかっていたもの。 オリックスはプレーオフ進出のためにトーナメント のような試合を続けてる日々。先発投手は好投してようが してよまいが、5回前後で降板し次の先発試合に 備える。打者はこの前4番を打ってた人が8番に入ったり する猫の目状態。 はっきりいって、《よう持ってるなあ。こんなチーム状況で》 って感じなんですね。 一方の楽天の先発は岩隈君だった。 余談だけど、試合後、ぶら下がり取材で 初めて岩隈君の横に付いたけど、あの脚の 長さといい、顔の割合、造形、見事だよ ねえ。それでスポーツも一流なんだから。 天は2物を彼に与えていて。まさに、美しさ と力強さということだから。 で、余談がさておき、岩隈君にかかっていたのは 3年連続での二ケタ勝利で。 昨年、入団を拒否してすったもんだした オリックスを相手に、オリックスが負ければ プレーオフ進出が絶望的になる、っていう 試合で登板と。 試合前からでも、これだけ伏線が張られていて。 神戸はスカイマークスタジアムには2万8千人を 超えるお客さんが来てたけど、世間での注目は 野球なら阪神-中日、ロッテ-ソフトバンク、 百歩譲って日本ハム-西武、巨人-ヤクルト、って 感じですよね、昨日は。 よう、スカイマークなんかにお客さん、集まるわ。 でも、ほんまによくお客さん入ってた。 実数発表、嘘やない、って思いましたよ。 結果。 3時間59分もかけて9回戦って、オリックスの 逆転サヨナラ勝ち。 でも、結果以上に、面白かった。 先にオリックスが3点あっさり入れて楽勝、と 思った試合。岩隈君、踏ん張って2回から8回まで 低めを丁寧について散発の2安打。 楽天打線も、オリックスの明日なき(別に今日試合が ない、という意味ではない)継投をのほころびをきちん とついて、1点ずつを奪っていって、 ついに9回表には、勝ち越し。 9回表の勝ち越し点。 ユウキって投手の暴投で、だったんだけど、 得点された後、オリックスの神部投手コーチ がマウンドに登った時。 というか、その前の時点で、だけど。 僕にはユウキって投手が泣いてるように 見えました。高校野球じゃない。トーナメント なら分かるのですが、百何十試合ってやる 試合の一つ。本来なら《次がある》と思えば 良いわけで。でも、ユウキ君にとってはそうじゃ なかった。 で、その裏の岩隈君。 結果として、今季彼が投げた1試合最多投球数と なる139球目を右越えに村松に逆転サヨナラ二 塁打されるのですが、こちらも執念、見せてたよね。 満塁にした大西に投げた最初の2球。スライダーが お辞儀してボールになるのを見たら、田尾監督で なくても限界、って思うわな。 だから2死満塁で、田尾監督が交代させるために マウンドに来たのも正解。 しかし。 彼は、90敗以上してるチームとはいえ、そのチーム のエース。それも、すったもんだした挙句、対戦して るチームに入団するのを蹴って東北のこのチームに 入ってる。 そして、あとアウト一つ取れば、苦しかったシーズン でもなんとか二ケタ勝利、っていう結果が出る。 「行きます」 と躊躇なく、田尾監督に言い放ったのも 当然でしょう。 よれてたのに、村松を2-1と追い込んで。 投手と打者の駆け引きで、このカウントは 投手の勝ちです。野球を少しでも知ってる 人なら分かる通り。 だからどう追い込むか、が駆け引きだった りするので。 いろんな思いが、松村の右越え逆転サヨナラ二塁打 が出るまでに交差していたはずで。 これが面白くないはずがない。 僕が今年、仕事で見たスポーツ取材の中では 一番面白かったし、心を動かされた試合でした。 もちろん、泣くようなことはないし、個人的に 知ってるのは、ようあんな戦力でやりくりするわ、 と感心させられてるオリックスの仰木監督ぐらい しかおらへん訳だし。 試合後の、いや、取材後の仕事は、 岩隈君の短い20行足らずの残念原稿 だけ。 だけど。 久しぶりにスポーツの面白さを見た思いがしましたね。 本来なら、僕のフィールドのボクシングの世界戦を どこかで見て《おもしろかった》とか言ってたい日だった んですが、吹っ飛んだ。 これがあるから、この仕事(新聞記者)も 捨てたもんじゃない。小説を書く、っていう 点から考えても、心が動くのを意識出来る ことは決して悪いことじゃない。 「もっと簡単に勝ててましたよ」 一緒に取材に当たった同僚の記者はオリックスに ついて言ってたけど、簡単に勝たなかったから、 いい試合だった。本当に。 その記憶を、一夜明けでしか記せない 自分の年齢以下の体力にはがっくりする しかないのだけど。 (下)お客さんも誰もいなくなった試合終了、約1時間 経た神戸のスカイマークスタジアム。僕にとって、一年に 一度のプロ野球で「見てよかった」と思える試合後 です。仕事で見ている限り、何も感じない、をモットーに 最近は取材してただけに、自分でも意外だった。そんなに 感情移入出来るほど、個人的に知った選手もいないのにね。
2005年09月20日
31日の午前9時です。 どうしても倒れてしまって、夜が何も 出来ん。弱音でも何でもなく、歳のせい だと思うけど疲れが抜けません。 で、昨夜書く予定だった日記を。 http://www.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=31174&log=20050830 これは、勝谷さんの人気ページのものです。 私のページもここで7月に一度紹介していただいて、 その前後だけアクセス数のケタが一つ上がったので 記憶に新しい。僕がリンクの張り方が分かってない 関係上、アドレスをバーに貼り直してもらわないと 見られないかもしれません。 この日記を読ませて頂いてちょっとまじめに考えた こともあって。前もって言いますが、日記の内容の 可否ではないです。そんなものはどうでもいい。人の 見解に物申すほど偉くないので。 ちょうど、18年前。 1987年の9月1日のデイリースポーツ紙を グチャグチャの部屋から発掘して来ました。 これにまつわる話の中で、考えたことを語ります。 まさに、18年前の今日の夜、原稿は全部揃った はずです。この紙面(1面)の大半の原稿を取材 したのは僕です。というか、コメントのある人物に は最低でも一度は一対一で取材してます、この年の 8月中に。 メインの原稿は僕の書いたものに 大幅にデスクが手を入れてますが、やはり僕のもの。 ただ、肝心の解説というか、「記者の目」という 記事を当時のデイリースポーツの編集委員の方が 書かれていて。 この日の原稿は、見出しに取った「鈴木啓示氏、 近鉄復帰」(虚報ではありませんが、結果的に 実現してません)の、鈴木氏のコメントがない (これは意図的)以外、外堀は完全に埋まって ます。 当時のプロ野球近鉄の本社、フロント、現場と 3方面の当事者のコメントがきちんと載っている。 本社・上山オーナー代行(のちのオーナー) フロント・前田代表(のちの社長=故人) 現場・岡本監督=当時 現場・仰木ヘッドコーチ=のちの野球殿堂入り監督 の4者のコメントがある人はミニインタビューになり、で 全部出ています。この仰木監督-鈴木ヘッドって構想は 仰木さんに《とんちんかんな記事を書いた谷川君や》 と、この年、初めて近鉄の監督に就任する発表前日に 自宅マンションで奥さんに僕のことを紹介してくださったこと で忘れられないものとなっているのですが。 それはともかく、 数年後、仰木監督が就任2年目で優勝させた時に、この日の 原稿のプランが上山オーナーの構想、そして仰木監督の考え として再度、クローズアップされたのは、野球ファンの方で 覚えておられる人もいるかもしれません。 要は。 8月。汗だくになって、ナイターの練習開始前に、スーツ着て ほうぼうの家に走って(上山さんは近鉄オーナーになるのに、なぜか 阪急の駅が最寄だったりした。仰木さんのとこへは、毎日行くのが 面倒になって西宮から仰木さんのマンションのある新大阪へ引っ越した) 得た情報、というか書いた記事です。朝の取材が終わると、一度 家に帰って日ごろのええ加減な服装に着替えて球場には 出かけてました。 記事はもちろんデイリースポーツだけの掲載。 実現していれば、独走スクープってやつだった はずで。 仰木さんがほぼ次期監督とは。はすでに、スポニチと同じ日(偶然!) 。6月の新聞休刊日に書いてました。近鉄としての、その狙い、 目的を原稿にしたのがこの1987年9月1日の紙面でした。 こんなもん、自慢しても仕方ないので。 何が言いたいか、っていうと、嘘を書かない ためにほんまに、必死に駈けずり回って いたということで。30時間で残業が打ち切りだった 当時のデイリースポーツでは、残業目当ての 超過勤務ってことはありえない。 功名心? なかったとはいえません。当時、26歳。 未来は洋々と考えてましたし、仕事に関しては まじめに取り組めば絶対何か返ってくる、と 信じてました。 ただ、嘘を書いていい、というのであれば、 この87年の夏は僕にとって非常に涼しく過ごせた はずです。仰木監督就任は大筋で、誰が 見ても、ってところはありましたし。 それでも。 全体の考えを知りたかった。 紙面に出ているコメントは自分が聞いてきたことの それこそ何十分の一でしかない。 でも、確実に《それはないやろ》と言わせない ものではありました。 結果的に、鈴木氏のコメントが後日載り、この時に 復帰の意思がなかったことも判明(これは最初から 別の日に紙面を作る予定でした)。また、本社サイド の意向と現場のフロントの意向が違っていたことも あって、実現せず、ですが、1987年9月1日、と いう日付けでは許された、と思ってます。 誤報でさえ、あの時点ではなかったのではないか、と。 すでに案として消えていた可能性はありますが、なかった 話ではない、という。 この後、半月後に近鉄の権藤投手コーチ就任(のちの横浜監督)も スクープすることになり、仰木監督ー権藤コーチの体制で 翌年行く(中西ヘッドもですが)ことが僕の頭の中では はっきりしたのですが、これはほんまに夏の暑い日中、 朝から取材を重ねた結果でした。 で、なんで勝谷さんの日記を出したかというと。 若いアンカーマンの嘘を持ってくることもあるって 話だけが引っ掛かって。 この時、僕は記者の目(解説)さえ書かしてもらってない。 記者として3年目でしたが、まだ一人前じゃない、と いう社の判断だったのだと思います。結果的に、情報を 集めるアンカーマンの役目もしてしまった。 若いアンカーマン=当時の僕、です。 勝谷さんの年齢を考えると、僕とほぼ同世代のはず。 で、どこがどうとは言わんけど、若い時、って逆に しっかりやろうと必死なんじゃないかな、と思った 訳で。特に、その分野でもっと大きくなろうと考えて る人なら。 ややこしい話はこれでおしまい。 今日で8月も終わり。18年経っても 夏に走り回ってたのは変らんかったけど、あの当時の ようにニュースの取材はもう出来ないかも。 あれは体力と、気力と、今後の人生に対する 希望の産物だったから。 「めっちゃピンぼけ」(文芸社)、2000部完売の 《VANISHING POINT》まで 残り327冊(8月30日現在) (下)日記に記した1987年9月1日の デイリースポーツ紙(大阪本社版)第一面。 保存状態が偲ばれるよれよれ、ぐちゃぐちゃ 状態なのは、私ならでは。よう出てきた、って ぐらいで。当時は、カラー紙面も一か月に何度 かしかありませんでした。18年前の方が、 取材記者としては優秀だった、残念ながらそれは 認めざるをえん。不肖・宮嶋のように、取材でも 日々進歩、とはいかんかった。 悔しいとも、失敗とも思わんが。やりたいことが 小説を書くことである以上。
2005年08月31日
19日の午前2時少し前。 家に帰ってから、約1時間が経ちました。 2000年8月の世界初挑戦の時から、徳山君の 世界戦はすべて現場で見て11戦目。その中でも 一番スリリングな試合でした。 初挑戦の時は、1回にペースを握り、4回にダウン を奪うわ、で快勝すぎて。危ないシーンもなかった し。 18日の試合は違いました。 なんといっても、前回、1回で倒された相手との 戦いですから。僕らは知っているのです。徳山君は 川嶋君のベストパンチに耐えられない、ということを。 どんなにポイントをリードしても、手に汗握って しまったのはそのためで。 まあ、そんな新聞で記者が書くようなこと、ここに 書いてもしょうがないわな。オレも、徳山君の原稿 書いて来たけど、余計同じもんは書かへん、って気に なってて。 1月に広島から戻ってきて、彼とは電話で2度ほど 話しただけ。練習場でも、僕が遅刻して行ったり、 他の記者の質問で充分と思ったり、で全く取材らしい 取材も、友人(?)としての言葉もかけなかった。 徳山君が初挑戦した頃は、僕は関西のボクシング記者の 元締めみたいな役割を任されていて。テレビも付かない 世界戦、というのを組んだ金沢ジムも素晴らしい英断だった けど、いろいろ調整するのに僕も一役買うところもあって。 「なんとなく、勝てそうな気がする。勘ですけどね」 世界初挑戦を控えた2000年7月末。ジムの近所の茶店で 徳山君と二人で話していた時の、彼のつぶやき、願望。 まだ、ボクシング関係者以外、誰も知らない頃、そして 不利の予想の中。あの時点では、僕も完全に気持ちをリンク 出来ました。僕も、何者でもなかったから。 5年を経て。 18日の勝利で、元々、眩しい存在になってた人が もっと違うステージに行ってしまった、という感じ が。臆して話せない、と言うんでなく、自分が恥ず かしい、という感覚。 広島にいた3年半で、何者にもなれなかった自分をど うしても、自分が許せない、っていう感覚が僕にはあ って。誤解ないように言うと、何者かになる必然性なん てない。ただ、それで満足出来なかった自分がいて、満 足出来ないんなら何とか努力なりしとけ、と思ってしま うわけで。 王座を転落していたとは言え、徳山君は8度も世界(世界!) の頂点を守り通した人になっていたわけですから。 きのう。 試合後の、控え室で、他の記者に混じって久しぶりに 質問はしてみました。きちんと答える彼の姿には昔と 変わるところなんてそうないように思える。しかし、 聞くこちらの気持ちは、そして、なんとなく義理も果た してない気がして。 義理ってなんなんだろうか? どうせ、馬鹿ほどメール攻撃にあってるに違いないので、 “おめでとう”のメールも打たない形で、今日の一夜明け 会見には行きます。 気持ちの上で、普通に彼と話せる日は戻ってくるのだろうか? 彼の問題ではなく、僕の問題。 どうしてここまでスポーツ選手と係わることを 避けてしまうようになったのか? 単にスポーツをやってるだけで知り合い、友人って やつには変わりがないはずなのに。 会社とのごたごたは、彼らとの付き合いに影響を 及ぼすほうがおかしいことでもあるし。 本当に、勝って良かった。 同時に、自分のこの度量の狭さ、 これって、小説を書くための鍛錬=人の観察、 っていうのを自ら放棄してるってことじゃあ? つまり、「ボクシングをなめてた」と川嶋選手に TKO負けした試合を徳山君は振り返っていたけど、 「小説をなめてる」っていうことになるんじゃあ? どんな理由であれ、人を避けて良いものが書ける 力量なんか、僕にありはしない。 もう一度、人との係わりからやり直し、しないと まともなモノなんて書けるわけがない。 相手に怪訝な顔をされようと、過去につながり のあった人との関係を出来る限り再構築したい。 単純に、そう思った夜。 それが18日、大阪市中央体育館での夜でした。 (下)2001年6月1日。私の大阪から広島への転勤の 仲間うちでの送別会に参加してくれた徳山君が、当時自分が表紙に なっていた「AERA」誌上に、僕のために書いてくれたサイン。 ついでにいうなら、あのあと6月6日に広島へ引越しして 部屋で荷を解いている時、つまり広島着第一号で「そっちは どうですか?」の電話をくれたのが徳山君でした。 5月に韓国での2度目の防衛戦に成功した直後。 徳山さあ、オレの渡したホイヤー、まだ持ってるんかな? 会社に対する愚痴ばっかり言ってるうちに、恥ずかしい ぐらい私は人間が磨耗してしまって。まだ、間に合うか? やれるだけはやろうと、決心はしたよ、さっき。
2005年07月18日
26日の午前7時30分。 男子プロゴルフの取材、最終日。 カメラの人、来てるんだろうか? いないと、またオレが下手くそな 写真、撮らないかん。 岡山へ出張へ行ってくれ、と言われて 4日目。なぜか、宿泊先は広島の福山だし。 まあ、滅多にない出張やけど、あと数時間、 ちゃんと仕事して神戸に帰ります。 で、昨夜書くつもりでいて、倒れて 書けなかった日記を。 不肖からのメール。 こちらから慰労用のメール出してから、 一日半で返事。 ずぼらなオレより早い。 本来は私信やから、公開したらいかん はずやけど、これは大丈夫の自信があるので 公開します。 “のびそうできがめいります。 部隊がひきょうりょくてきで。 日本の民間人がきたらあかんとこやから 宮嶋” 以上でした。 「サマワのいちばん暑い日」にも書かれてる とおりで、メール、書き慣れてない不肖だけ にこれ書くのも四苦八苦したろうことは想像 出来て。平かなばっか、やもんな。でも、言 わなおられへん気分になった彼の気持ちも判 る。で、自衛隊のことも。 行くな、というところへ行った不肖に 協力してたら、自衛隊も駐在地内の外務省 職員も“なんやねん”とどっかから因縁つけ られるの見えてる。協力してもらえるんやっ たら、行こか、って奴が増えるのも想像の 範囲ないや。だから、部隊は間違ってない。 でも、だから、と言って報道陣が一人もおらん かったら、この間の襲撃未遂みたいな事件、誰が 正確に伝えるんや?あきらかに、今、きな臭い。 オレだって、もっと修羅場の経験が豊富で、フリー ランスやったら行きたい。オレで思うんやから、 それこそこの国で人質になった安田純平君 (この人にも、不義理してるなあ。本の 売れ行きばかり気にしてメールも出してない) なんかが思わんはずはなく。 ひょっとして、行ってたりして。 いや、アホなことはこれ以上書かんとこ。 ブログ、ちょっと覗くだけで確かめられること やし。 それこそ、安田君だったかなあ。 数ヶ月前にもらったメールで “ひりひりするような現場の感覚” と書いてられたけど、取材する側が うんざりしながら惹かれてしまうのは まさにこの感覚で。 自分が“生きてる”とか、“仕事してる” とか、ともかく実感出来るからね。 ぼや、っとしてたらこの世のもので なくなってしまうんだから。 不肖のメール。 “のびそうできがめいります” に、取材のすべてが出てる気もして。 彼はこの国が大嫌いなのを公言してるし、 実際そうでしょう。でも、現場の感覚を 味わい、報道カメラマンとして 最前線にいるためには居続けるしかない。 それが仕事。 誰に命じられるでもなく、黙って行って 事態の変化をじっと待つ。回りは誰も 協力してくれず。 わずか3行ほどの、でも必死に打ってきた に違いない不肖のメールに、頼れる者は 自分ひとり、という状況に身を置かざる を得ないプロの厳しさを僕は読み取り ます。 それに比べたら、ゴルフの取材って。 いや、それはそれで、読みたい人も いるに違いないので、やはり大切な 仕事なんですけどね。 (下)不肖からのメールがなかったら、今日は この写真のことを書くつもりやった。あした、 書くわ。予告しておくと、これは南アフリカの 名目上はなくなってるけど実はある、黒人移住区 であるソエトのタウンシップでのもの。 葬儀屋です。ピンクの。時間がなくて、いや、 あっても盗み撮りしたか?なぜか、ほんの少し 日本にかすった人が経営者と分って私はびっくり しました。続きは、あした、ということで。
2005年06月26日
午後11時です。 もう少し、早く書き出そうと 思ったんですが、どうしても 頭の中の整理がつかなくて。 今日の仕事。 ボクシングの世界戦の発表会見だった のは、きのう書いた通りだったのですが、 現場(金沢ジム)への到着が15分近く、 会見開始予定時間よりも遅れて…。 もう、冷や汗もんで。 理由。言い訳になるけど、言い訳します。 金沢ジムは大阪の地下鉄千日前線の北巽駅から 徒歩5分強のところにあります。 あるんです。 で、僕が北巽駅に着いたのは午後1時50分。 会見予定時刻の10分前。 ここからが大変だった。 浦島太郎状態だったわけで。 金沢ジムを訪れたのは、4年ぶり。 2001年6月に広島へ転勤して、今年の 1月に大阪(神戸)に戻ってくるまで4年間、 全く行ってなかったんです。 ボケが始まった、と言われても仕方がない。 4年前はほぼ一週間に一度ぐらい通ってたのに。 まず、地下鉄の上り口=出口を間違えた。 で、見慣れない風景だったのに「4年で街って 変わるんだなあ」とか、心の中で思いながら 全く対角線に反対方向に歩き始めてしまった わけです。 着くわけないわな。 気がついた時は、2時5分。 そこから、道で出会う人ごとにジムの 位置を聞きました。正反対と分って、 慌てて汗だくで走ってなんとかジムに たどり着いたのが2時15分。 この展開では、見事なほど少ない 遅刻時間で済んだのですが、遅刻は遅刻。 で、すでに始まっていた会見の席では 静かにしていたのですが。 終って、親しい記者とかで徳山君を囲んだ 時、僕が一言言った途端「(谷川さんは) 遅れて来てたけどね」と、徳山君のキツイ 一言。「見てたんか」とだけ返したけど、 恥ずかしかった。だって、やはり付き合いを 大事にしてきた選手の、一世一代の試合に 関する会見だからねえ。遅れちゃ駄目、な わけで。 カッコ悪かった。それより、よく知っていた場所 へ4年ぶりとはいえ行くのに、全く逆方向へ行って 何も思わないオレって…。 確かに、売れん本(というか本屋にない本)のこと で悩んでたんは事実やし、今日の夜何を食べるかに 始まり、ミスタードーナッツのポン・デ・ライオンの おもちゃとかもらって恥ずかしくないか、とか アホなことで頭の中が一杯やったんは事実やが。 ふう、で。 まあ、何とか望遠のないデジカメで写真も撮れたし、 事なきを得たって形にはなったけどね。それにしても カッコ悪かった。しっかりせな、とホンマに思った のは確かで。まあ、取材や原稿上は穴が空かんかった から良かったけど。 明日はしっかりやろ、っと。 で、2、3日前から通知してるサイン本。一冊も 昨日から今日にかけては減ってません。残り16冊 のまま。僕のサインやから、あってもなくても 同じなんは認めるけど、それでもええ、という奇特 な人。サイン入りで定価でお分けしますので。 左のメールを送るのところに「サイン本欲しい」と 書いて入れておいてください。購入方法は即日、 メールでお知らせしますので。 (下)仕事の帰り、寄った大阪市中央区の、なんば花月の 前にある「ジュンク堂書店難波店」で。ついに、理想の 形で不肖の「青春記」と横並びの「めっちゃピンぼけ」を 発見!ただし、コーナーは「ミリタリー=戦記」のとこやった …。相変わらずやのお、ほんまに。
2005年05月09日
午前1時に間もなくなります。 今日、というか、もう昨日になりましたが、 一日が長かった。 誤算は雨の読み違い。 当初の予定は、昼の2時に大阪の西三国の ボクシングジムで「ボクシングくじ」に関 する記者会見。終った後に、神戸に戻って スカイマークスタジアムでオリックスー中日 戦の取材、となってました。 結果は、その通りなったんです。 でもねえ。雨。スカイマークスタジアムには 屋根ないんですわ。私も神戸在住で、山二つ 奥地へ行けばこの球場っていうところに 住んでいる手前、昼間の雨見たら、野球の 試合なんかない、思いますがな。 で、早よ家帰れる、思て意気揚々と大阪へ 出ました。会見終った後も、雨降っとるし (大阪やいうのを忘れてる)大丈夫、と 思って、取材対象のボクシングジム会長らと お茶まで飲んで。 で、5時ぐらいやったですな。 ようやく神戸に向かったんですけど。 心は、自分の家、って感じで。 で、雲行きが怪しいと思うたのは、 電車の中で、です。雨粒が窓にかからん ようになっとる。 “なんかの間違いや”、とホンマに思いました。 でも、間違えとらんかったんですわ。 6時開始の試合で、6時15分ぐらいに 神戸地下鉄の「総合運動公園」に着くと。 聞きなれた歓声が耳に入って来ました。 やってまんがな、試合を。ほんまに、なんでやねん、 と20回は駅から球場までの歩いて5分ほどの 間に心の中で呟いて…。 あーしんどかった。 一回、仕事モードやった気持ち、切ってもて ますからね。苦しかった、ほんまに。 中日・川上投手の打たれて悔し原稿書いて 終わりやったけど、もう、って感じで。 予断はいけまへん。歳なんやから。 一度、緊張の糸切ったら気力も、体力も 取り戻すのが大変で。 ほんとうに、お疲れの一日でした、まる、って 子供の日記やないか。いや、絵がないから、 子供より下やな。 失礼しました。まあ、こんな日記で 終る日もあるわな。 (下)サイン本に備えて、コンビニで買って来た サイン用のペン。どちらを使うか、思案してるところ。 サインなんか、したことはおろか、考えたことも なかった。今回だって、本が普通に配本されてて、 考えてた通り人の手に渡ってたらやらんかったやろなあ。 でも、一度、手を染めたら忘れられん味やったりして。 なんかいやらしく聞こえるのは気のせいやろか?
2005年05月06日
深夜12時を30分ほど 回った時点です。 最近にしては遅い日記の 書き出し時刻かな? もうきのうになりましたが、ちょっと ヘコみましたね。記事に関して、はっきりした 注意を上司の方から受けたので。間違えた指摘 じゃなかったです。それだけに、20年以上も記者やって て“それを言われたらお終い”って気にも なって。 僕の働いている会社に版権みたいなものは あるはずなので、記事の全文をここには載せられません。 ただ、問題のあった日の、問題のあるところを 抜き出します。 23日。サッカーJリーグの試合。 あの大黒のハットトリックでG大阪が 勝った日の原稿ですが、確かに上司の方が指摘 されたようにこの日の僕の原稿には繰り返しが多い。 “「体がうまく反応した」と大黒は振り返るが、 うまくトラップした上で体を反転させて” 新聞記事としては、すでにここでアウトです。 「うまく」がカギカッコになってる以上、次のは 巧みにトラップした上で、とかにしないといけない。 この日は、送稿したすべての原稿に、こういうところ がありました。これじゃあ、確かに数字的な間違いは ないけど、ダメだよなあ。 言い訳は簡単に出来ます。 送稿した時間とかを見れば、見直さずに送っている ことはすぐに判るわけで、要は時間に急かされていた ということで。時間に急かされると、碌なことにならない のは僕のようなベテランのゾーンに入る人間でも、新人でも 変わりありません。 ゆっくりやれば、差は自然と出るのですが。 スポーツ記事はそれを許さないところがかなり あって。まあ、そのためにデスクが居て、原稿に 目を通すのですから最終的には大丈夫のはずですが。 で、ベテランと新人でも同じ、っていうところで、 ピンと来る人はピンと来る。あの、尼崎の列車事故。 23歳の運転士だから起こった、とは限らない気が するのです。僕は専門家ではないので、論評など しませんが。 読みかけていた三崎亜記さんの「小説すばる新人賞」受賞作の 「となり町戦争」。運転ぶりがどうなって るのか確かめたくて、私鉄を使わずこの日はJR。 大阪から須磨まで23分も遅れる安全運転の快速 の中で残りの60ページ、終えて読了。 正直に言います。退屈しました。百ページを越えた あたりから。『絶対戦闘シーンをリアルに描かない だろうな』と、いうのがよめてしまったからで。 案の定でした。今日、読んだ部分はだから、しんどかった。 ただし、読後感は独特のものがあって、読む前と読む 後では世界が微妙に違った感じがあって。 と、いうことは作品として成功してる、ということです。 帯に引用されている作家の星野智幸氏の 「この小説は、戦争に現実感を抱けない私たち自身の、不気味な 自画像なのだ」というのに、妙に共感を覚えましたね。 リアリティを抱けない=作者が意図して書かない=カフカの 『城』の世界、つまり不条理(?)、って構造になって。 で、さっきの列車事故の話につながります。 JRの尼崎駅の横も通過した電車に乗っていた のですが、そばで惨事があった、なんてやはり 情報として知らされてなければ分らない。そして、 知ってるばっかりに、少しずつ定刻より遅れながら 進んでいく電車の様子に事故の影を意識する。 でも、自分が乗ってる電車は脱線もしないし、 怪我人も出ない。 つまり、そばで大きな事故があった、という現実感は 実際に経験せず、見ることもなければ、味わえない。 妙な圧迫感だけが残ります。昼間、一両目に2、3人 しか座っていない普通電車を見た時もそうでしたが。 星野さんのコピーの中の戦争を、列車事故に置き換えたら 今日(もうきのうですが)の、僕の心理状態は丸分り、って やつで。 ベテランと新人の話はどこへ行ったか、って? 簡単に言って、僕が運転士で、土曜日の原稿を書いた時の状態で、 業務にあたっていたら…。結果は同じじゃないか、と。 違いは人命を預かっていない、という点だけで。 過信もクソもない。ただ、急いていただけです。 僕の場合。早く会社に戻って、学生野球の記録 などを処理しないといけない、とだけ頭にあって。 その時点のことが、おろそかになってる。新人 だから起こる問題でもないような。いや、全く 運転士にミスがない可能性もあるので、僕の失敗 と同一視は出来ませんが。 リアリティの欠けた妙に圧迫感のある世界。 人為的なミスとするなら、誰が引き起こしても 実は不思議でない事故(異論は承知です。死んでも 事故なんて起こさない、と宣言出来る人もいる でしょうから)。 結論として書きます。とんでもなく悲惨なこと が起こっていても、それをリアリティを持って 感じられることって、実は今の世の中、特に 日本などでは少ないのではないか。 そして、その悲惨な状況って、僕らのどの世代 の誰が、どこで引き起こしても、実は不思議は ないのではないか? それが本当は現実(リアル)な世界なのではないか、 と思ったりして。論文はオレのフィールドじゃあ、 ないのになあ。訳判らなかった人、すんません。 (下)アフリカ版「となり町戦争」の結末。 これを撮ってる時、全く実感がなかった。 骸骨の一つ一つに皮と肉をかぶせて人間だった、って 考えることは正直言って、撮った数十枚の写真で 一度もなかった。 鬼ってか? そうかもしれん。 ただ、帰ってきて、写真を見返すと、気持ち悪く なったんは事実や。撮ってる時には全く感じん かったリアリティが、実物がなくてただの写真、 になってから、感じられるって? 私の心理状態がおかしいのか、他の人もそう なんか、知りたいところではあるけど。 (2004年2月25日撮影、ルワンダのキガリにある虐殺記念館の 一つで)
2005年04月27日
午前零時半を少し回りました。 さっき、仕事から帰ったところ。 今日は、時間一杯お仕事、って 感じになりました。元々、人員 ぎりぎりでやってる会社なのですが、 一人が病欠しただけで、仕事量が そのまま倍になってしまうんだから。 いや、不平とかじゃなくて、単純に 時間の余裕がなくなるって話で。 今季初めて、JリーグのG大阪の 試合を見たのですが、なぜか当りで。 大黒さんはハットトリック。 きっと、サッカー好きな人は熱くなる んだろうなあ。いや今季、私が取材に ついた試合はなぜか、サッカーの試合 が野球でも通りそうなスコアになるケース が多くて。 神戸が川崎に6点取られた試合とか、横浜M の大島がやはりハットトリックを達成した 試合とか、今日(正確にはきのう)の5-3 もそうだよねえ。両方合わせて8点のサッカー。 スタンドで見る分には面白いと思うよ。 なんで、オレ、サッカーに関心が向かない のか?仕方ないわな、人には好みがある んだから。 で、当然、それなりの原稿を要求されますから、 スタジアムを出るのが遅くなる。加えて、一人 休んでるから、会社へ上がって彼の仕事だった ものも片付けて。ふう、で。 帰る途中、ネット見たときに、このページのアクセス 数がまたとんでもなく悪くなってるのも気付いた けど、手立てするどころやない(アクセス数って、 ほとんど意味ないって分ってはいるのだけど、 気になりますね。カウンター、いらないよ、ほんと。 そんなことより、コメントの一つあるほうが 大事と思ってるんですが)。 なんとか、終ってやっとゆっくり出来たのが今。 でも、明日は予定になかった兵庫県リレーカーニバル の取材。真面目に行くなら、朝の9時にはいないと いけないけど、要領かまします。でないと、寝る時間 がない。大体、不肖・宮嶋氏をはじめ、何人かの方に FAXやメールで連絡取るつもりやったのに、 なんも出来んかった。 あした(しつこいけど、これは今日のことや)が 勝負や、思て寝るのが一番かなあ。 あ、移動の合間に二冊本、読み始めたよ。 「めっちゃピンぼけ」の見本本と交換で 送ってもらった真名耀子さんの「かつての コイビト」(文芸社)ってやつと、三崎亜記さんの 「となり町戦争」(集英社)。2、3日うちに、感想も ここに書きますね。 とりとめもない日記になってしまった。 また、人気が落ちそう。辛いのお。 明日の日記こそ、気合入れて書こう、と。 (下)帰りの電車で、ちょっとだけ目の保養をさせてもろた。 まぶい金髪ねえちゃんやったけど、なんで、オレ、写真撮ろ、 思たんやろ。せっかく、美についてそこはかとなく考える チャンスやったのに、シャッターチャンスなんか考えとった ら何も楽しめん。あげくに、このピンぼけ写真や。 まあ、でも健全な隠し撮りやと思うけど。え?隠し撮りに 健全なんてないてか?
2005年04月23日
夜中の1時です。 明日の朝、6時に起きる身としては なんでこんな時間まで、って感じですが。 いや、さっきまで家で仕事だったんです。 私の本来の仕事はスポーツ記事を書く ことで、当然、そのためには取材しない といけない。 で、今日のトピックは担当のボクシング にあったのですが、なぜか私は神戸のスカイマーク スタジアムに行き、プロ野球の取材。松坂の 原稿を仕上げるという結果で。 その後で、10日ほど前の日記に書いた試合後、 意識不明になった前日本王者だった選手が 亡くなった報を受けました。慌てて、家に 帰って資料をひっくり返して、リング禍を 調べて。人、一人が亡くなってるのに、自分の 書く原稿で数字とか、固有名詞が間違って ないか、とかにばかり気を回す私。 なんだかなあ、って感じで。しかも16日は、 神戸のジム所属の選手が東京で世界タイトル に挑戦するとあって、関西の知り合いのボクシング 担当の記者で神戸にいるのって、おそらく 僕だけ。みんな東京なんだなあ。会社のシステ ムの問題なので、仕方ないのですが、 やっぱり「めっちゃピンぼけ」や! 16日は大阪ドームでプロ野球の取材。勘弁して くれよ、というのが本音です。そんなに 簡単にスイッチは切り替わらないって。 人が亡くなる、っていう地点にくると、それは もうスポーツとは言えない。そして、その事実 を知って、虚脱感に襲われることもあっても 不思議でないはず。 28歳で、もう翌日が来なくなったヤツがいる。 まさに今日は彼にはないのですから。生きてる 間にやれる限りのことをしておかないと。死ん じまったらお終い。この日記も、書かずに寝よう と思ったのですが、書ける時に書いとかないと、 と思い直して書いてます。 それと、場違いですが、文芸社から、「めっちゃピンぼけ」 を置いてくれる本屋さんの追加リストがメールで送られて きたので、それもアップします。 地域 書店名 冊数4月15日 - トーハン首都圏店売★ 304月15日 伊丹市 ブックスユートピア 34月15日 磯城郡 宮脇書店田原本店 24月15日 宇都宮市 すみやMEDIAMAX宇都宮戸祭店 24月15日 橿原市 リブレット橿原 34月15日 橿原市 ヴィレッジヴァンガードアルル橿原 54月14日 広島市中区 紀伊國屋書店広島店 104月14日 広島市中区 フタバ図書紙屋町店 44月14日 広島市中区 フタバ図書八丁堀店 34月14日 広島市中区 金正堂 14月14日 港区 ブックスふたば汐留店 54月14日 港区 ブックファースト城山ヒルズ店 14月14日 高崎市 煥乎堂高崎店 24月14日 高知市 TSUTAYAあぞの店 44月14日 高知市 ツタヤ中万々店 54月14日 高知市 TSUTAYA土佐道路店 44月14日 高知市 TSUTAYA高須店 44月15日 札幌市中央区 日販北海道支店★ 54月14日 四日市市 シェトワ白揚書籍館 34月14日 渋谷区 旭屋書店渋谷店 104月14日 渋谷区 文教堂渋谷店 34月14日 上田市 TSUTAYA上田バイパス店 34月15日 寝屋川市 パルネット寝屋川店 14月15日 神戸市中央区 朝日屋ポーアイ店 34月14日 神戸市灘区 ブックスキヨスク六甲道店 24月14日 神戸市灘区 ブックファースト六甲店 54月15日 神戸市兵庫区 知恵蔵兵庫店 34月15日 神戸市兵庫区 ブックス花咲く街角湊川店 24月15日 神戸市兵庫区 パルネット新鉄ビル店 34月15日 静岡市 丸善新静岡センター店 34月15日 静岡市 谷島屋呉服町本店 54月15日 静岡市 戸田書店静岡本店 104月14日 千代田区 ジュンク堂書店プレスセンター 74月14日 千代田区 書原霞ヶ関店 24月14日 前橋市 戸田書店前橋本店 54月15日 天理市 ラックス天理店 34月15日 奈良市 ヴィレッジヴァンガード奈良ビブレ店 34月15日 奈良市 啓林堂書店ビブレ店 14月15日 奈良市 ビッグウィル奈良店 34月15日 奈良市 啓林堂書店奈良店 14月15日 二本松市 メディアデポタカヨシ二本松店 54月15日 二本松市 宮脇書店新二本松店 34月15日 白河市 みどり書房白河店 24月15日 白河市 文教堂書店新白河店 34月15日 宝塚市 ユートピア中筋店 34月15日 墨田区 ブックストア談錦糸町店 14月15日 枚方市 TSUTAYA東香里店 54月14日 鈴鹿市 未来屋書店鈴鹿店 10 毎日、少しづつ増えているようです。嬉しいですが、 本当に売れるのだろうか?不安と期待が半ばして。 (下)ボクサーの死を聞いて、ここになぜか貼ろうと 思った画像がこれ。 ルワンダの首都・キガリ近郊の、虐殺のあった 教会で見つけた犠牲者の遺品。おそらく、殺されると いうのは分っていたのだと思う。この品は誰のために 残すつもりだったのか?“We Miss You All”―いい 言葉ですね。ただ、絶望的な状況で吐かれる、記される この言葉って…。いい言葉ってなんなんだろう? よく分らないことがこの世には多すぎて。 (2004年2月26日撮影)
2005年04月15日
深夜の1時半。 さっき、仕事から帰って来ました。 ボクシングの日本タイトル戦の 取材。事故があって…。TKO で敗れた王者の方が、意識不明 になって。 改めて過酷なスポーツだと思った し、それ以上に、スポーツの枠を 簡単に越えて、人の存在そのもの、 ってところまで行ってしまうのが。 これまで、この仕事に携わって来て ボクシングの担当ものべで10年を 越えるほどやってますが、自分が取材 で見たなかで脳内出血をはじめとする 大きな事故は見てませんでした。 幸運だったんでしょう。 病院の待合室。こういう時は 嫌でも緊張します。 僕は8歳の時、4歳の弟を交通事故 で亡くしてますが、あの時の運ばれ た病院での待合室の雰囲気。未だに、 覚えていて。 起こったことの意味が分ったのは ずっと先。いや、まだ分ってない かもしれない。 今回のことが、大事に至らないように 祈るのは当たり前のことで。で、何を 書いてるのかも自分でも良く分らなくて。 でも、今から寝て、起きたらまたボクシング の試合の取材。東洋太平洋と世界戦。 そんな気分じゃない、ってのは確かなの ですが、フリーの記者じゃない限り、 休むことも出来ない。 人が人を傷つけてしまう競技。スポーツ として認知されているし、僕自身、好き な競技でもあるので、偉そうなことは言 えません。 敗者には何もやるな、はかのへミングウェイ の名言だったと思いますが、かといって 生死の危機に直面した上で競技生命まで絶た れるのは、敗者の払いすぎって思わざるを得ない。 好きなものでも、見たくなくなる 時がある。それだけは事実というしかなくて…。 (下)勝者となり、新日本王者となった 選手。阪神の桧山なども応援に来てるなど 華やかなムードだったんですが。
2005年04月03日
夜中。というか、もう朝だよね。 午前4時半。なんか、疲れ果てて 午後10時前には就寝。早朝に起きる、 っていう習慣になってきた。 時間的には健康的そうだけど、実際は そうじゃないよねえ。困ったもんで。 昨日は通天閣のお膝元にあるボクシング ジムに行って、世界王者の公開練習の取材。 記者仲間やボクシング関係者は言ってたんだよね。 「たなぼた」世界王者って。 イサック・ブストスって選手。去年の12月に 日本のジムに所属するタイ人、イーグル京和の 試合中に起こった肩の負傷で敗色濃厚だった 試合を記録上はTKO勝ちで王者に就いた人。 でも、違ったよ。 練習見て思いました。やはり、ほんまに弱かったら 世界チャンピオンにはなれません。と、言い切っても いかんか。ほんまに反則勝ち、とかで王者に就いた 人でおかしな人は何人かいるのは確かなので。 初防衛戦。 練習内容もだけど、顔つきと姿勢が。 自信に溢れてる、と思いましたね。 ブストス。三十歳になったばかり、か。 挑戦の時と、防衛戦で顔つきが変わる 外国人選手。何人か、取材現場で見ました。 辰吉に挑戦する前の98年12月に見た ウィラポンと、同じく辰吉を相手に防衛戦 を行うためにやって来た99年8月の ウィラポン。全く、違っていたよ。顔付きが。 防衛戦の際には、サインまで取材の合間に もらってしまった。 自信のオーラ(本当にあると思うよ)が出てた からねえ。初戦で辰吉がKO負けしたのは、 びっくりしたけど、2戦目でもう一回やられた 時は、びっくりしなかった。試合前の 両者の練習、印象とかで。 ブストスも、そうなんじゃないかなあ。 ここで、最強挑戦者とか迎えると、試合 は分らないんだろうけど、挑戦する高山君、 ここまで読んでくれたあなたでさえ、どこの 誰か、詳しいことは分らないでしょう? それでいいんですけどね。日本も、東洋太平洋も、 タイトルを取ったことがない。わずかにある、 日本タイトル戦はTKO負け。世界ランカーに 勝ってランクインしてるから、挑戦資格は確かに ありますが、試された挑戦者ではない。 「たなぼた」王者と実力を試されてない挑戦者の 世界戦、と昨日までは思って「ケッ」と心の中で は通常のタイトルマッチより下に見ていたような 気がします。 今は、違います。 見たいもの。それは、ブストスの自信の裏側、 ですね。これだけ、王者になってしっかりした 顔、いい顔になった男がどう戦うか? 地位が作った顔がホンモノか、どうか? もし、ホンモノ、ならではの試合を見せて くれるようなら、自分らにも置き換えられる 部分があって…。 出版社が「ぜひ」と、本を出すのを願い出る ような者でなくても、出版することで、作家 を名乗る権利を持つことで、得られる自信も あるかも、という。 まあ、ボクシングと小説(本)が一緒って ことは絶対ないんですけどね。 (下)記者会見中に、私が横顔を撮ろうとカメラ を取り出すと、話すのをやめてポーズ。他の記者 には悪かったけど、どこまでもサービス精神のあ る、取材者には好感の持てるWBCミニマム級王者 のイサック・ブストス(メキシコ)。 2005年3月31日撮影
2005年03月31日
日記の更新、体力的な限界もあって2日間に一度のペースになって来てしまった。それでも、アクセスしてくださる方のおられるので感謝しないと。 何とか、時間と体力を工面して更新しないとね。最低でも小説が出版されるまでは。 今日からは甲子園の高校野球から、ボクシングの世界戦に備えたモードに変更。朝が少し楽になるので、今、書いてます。 リトルモアさんからコメントで頂いてたの、面白そうだったから、日記にこうやって書きます。「職業病」についてからの発想で。 僕らの仕事。僕の好きだった作家の一人、島田雅彦さんが「彼岸先生」(何か大きな賞ももらってましたね)っていう、夏目漱石のパロディとも、現代版とも取れる小説の中で、「僕は新聞記者ぐらいにしかなれない」と記者を揶揄していたシーンがどこかにありましたが、その通り、と僕は思いましたね。読んだ時。島田さんは、おそらく、新聞記者の書く文章で、嫌な思いをされたことがあって小説家>新聞記者、という構図をはっきりさせたかったのでしょうが、言葉の制約とか、許されたスペースとかをテクニカルに考えてその構図は正しいかな、と。 制約、スペースに納得出来ない記者、っていう人はノンフィクションの長い文章を書く、という策を取るでしょう。現状に満足してなければ。で、ここで現れるのは、新聞記者を含むノンフィクションライターとノンフィクションを書く作家との線引きです。 僕が新聞記者になった頃、はやっていたのはニュージャーナリズムって言葉と手法でした。一人称を使うなら自分が見たことしか書かない。三人称の場合は、取材して来たことをシーンに見事に溶け込ませ、見て来たかのような場面を再現する。 ゲイ・タリーズの「汝の父を敬え」などを一つの頂点とした手法。難点は、事件とかが起こった時点より、かなり遅れて発表される、ということにならざるを得ない、ということでした。日本では柳田邦男さんの「空白の天気図」とか、本田靖春さんの作品がそれに当って、面白かったけど、じゃあ、これらの作品と小説家の書く、実話を元にした小説との違いは?ということになって。 カポーティの「冷血」。映画と小説との間で、使おうと思ってたけど、ここで書きます。これは本当に、面白い。じっくり、殺人者を取材して、虚構をはさまない、という努力を極限までして、文体は三人称。これを実話と知らずに読めば、十分どころか一級の殺人者に対する心理ノベルとして読めます。けど、実話。これは変えれません。「冷血」をノンフィクション作品として評する人もいるのでしょうが、基本的にジャンルは「小説」に入ります。作者の意思の問題で「小説を書く」と表明して書かれたノンフィクションは、ノンフィクション扱いされない。 吉村昭さんの「戦艦武蔵」などが日本でのこのケースに当るっていうのは、沢木耕太郎さんなどが死ぬほど昔書いてたことで。吉村さんなど、ノンフィクション小説などというジャンルさえ認めてないと聞きます。彼らには「小説」を書く、という意思しかなく、たまたま素材が実話で、変更が出来ない事実ばかりだから、従ったまで、ということで。 これ以上書くと、論文になっちまうので一度、止めますが、なんで「職業病」からこれを連想したか、というと、昔、この仕事を始めた頃。たとえば、神戸でのユニバシアード大会で、ソ連の大学生、イゴール・パクリンが走り高跳びの世界記録を出した際に、僕が書いた原稿は相手の心理、心に入りこんで書く、ということが、心掛けていた、というよりも自然に出来ていた。競技終了後の、会見で聞いた言葉で相手の心理まで考え、その上で、一人称の許されない新聞という媒体に、どう三人称で書き込むか、を瞬時に考え実践していた気がします。その時に、手法がどうで、とか細かいことは一切考えてなかったのは覚えてます。 今。相手の心理の奥まで考えて新聞原稿を書く姿勢ってあるか、と言われれば、はっきり「ノー」と言えます。前回の日記の通りで、署名でない、というのも大きい要素を占めますが。 小説を書く、はともかく、何かを文章で創造している、一つの表現手段だ、ということを意識せずに生み出される新聞原稿やノンフィクションって、やはり、島田氏のいう小説家>新聞記者、と言われても仕方のないものになっているような気が。 何かいてるのか判りにくいかもしれませんが、結局、その仕事に対する愛情が仕事ぶりにも反映するのではないか、ということで。小説を書くことを愛する人は、たとえ素材が事実でも「小説」に固執するでしょうし、柳田氏らのようにジャーナリストの使命を信じる人は「ノンフィクション」に固執するに違いない。「アンダーグラウンド」を書いた際の村上春樹氏がどうだったのかは、僕は調査不足で知りませんが。 で、どちらにも固執出来ない、中途半端な僕のような連中だけが、やれ「ニュージャーナリズム」だの、「ノンフィクションノベル」だの、手法の話に固執する。抽象的だけど、事実と思うのは、どんな仕事でもそれに「愛情」を持てなくなるのが職業病、の最たるものでは?一流の人は、おそらく職業病、なんて言葉も使わないと思うし。たとえば、イチローが手にマメだらけとして真剣に「職業病です」なんて言うわけない、と思うのです。 自分が何をしたいのか?今、小説を書き続けたい、と思ってるのは事実ですが、全く書くのを止めている状態で。記者としては、そつなくこなす、は出来ている以上だと思いますが、それだけのことです。誰や?四十にして惑わず、とか言ったんは?まあ、なんであれ前向きには考えてやっていきますけどね。 (P・S)勘違いが一箇所。ニュージャーナリズムは三人称の文体を用いる場合だけだったですね。一人称は「私ノンフィクション」とかいう分野で、沢木耕太郎氏が『一瞬の夏』で試みてました。この作品が、新田次郎文学賞(文学賞!)を受賞したことでも、ノンフィクションという分野が認められるのが難しい、というのが分りますが。 (下)学生時代に、教科書のつもりで何度も読んだカポーティの「冷血」(新潮文庫)。文庫本になった際の初版で、昭和53年9月26日発行となってます。
2005年03月31日
さっき、名古屋から帰って来ました。「名古屋国際女子マラソン」の取材。 ようこれだけ、ちょんぼするわ、ってあきれるほど失敗してきました。花粉症や、寒さのせいだけにはできん。やはり、責任感の問題だろうなあ、やる気がなかった訳じゃない。 2位入賞の大島さん、所属は「しまむら」でした。私は「しもむら」と書いてしまった。「しもむら」は、アフリカ取材で僕が尊敬する30代前半のフリージャーナリストだった…。日本記録保持者の渋井さん、世界選手権代表の座を確実にするために走ったんじゃ、なかったっけ?選考レースでいい成績収めないと、日本記録を持ってることなんか選考の対象にならない、って原稿を書き終えてから知りました。 全然、ダメじゃん。 自分の敗因分析は明確で、自分が仕事の中心じゃなかったことで無意識の中に感じてた詰まらなさが形として出たまで、です。何事も、自分中心でないと面白くない、って子供やないか、ほんまに。 心温まる、というか、そこまでしなくても、っていうこともありました。大南敬美さん。あなたの取材者に対する態度は、出来すぎで、そこまでしなくても本当にいいんです、と言いたいくらいでした。足の感覚がなくなって、車椅子に乗ってるのに、何できちんと話が出来るんだ?もし、オレだったら、八つ当たりしてしまいそう。取材に来る人に。 で、改めて思ったのは、今、自分がやっていることを愛し、満足感が得られてると、他の人に対しても思わぬほど優しい姿勢で接することが出来るのでは、という当たり前のこと。幾つになっても出来んオレって…。 まあ、でも仕事は続けるし、どこかで自分が主体となれる取材も出てくるだろうし。それまで、書けない小説を書く努力。自分がやってること、どんなことでも愛着を持って、って出来んと分ってても書いてみる。とりあえず、早よ、小説のゲラ見直してしまおう、っと。 (下)左足の状態が悪く、車椅子で引き上げる 大南敬美さん、後ろで押しているのは双子の 姉の博美さん。
2005年03月13日
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