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本日の弁当は「カレーライス」さて、私が少年だった1960年代から70年代初期にかけての頃小学一年までは算数の成績が良かったのに、二年生ではがた落ちになりました。それは掛け算の九九が原因でした。今思うと、九九を算数の時間にしっかりと先生から教えて貰った記憶が無く、おそらく誰もが家庭で九九の暗算の仕方を覚えてくるようなものだったのでしょう。九九は呪文のようなもので全部暗記ですから、成績が落ちたことを父親にネチネチと叱責されてからは、兄と姉から九九暗記の特訓を受ける事となったのです。いきなりの父親からの指令だったので面食らいました。前もって九九を練習しとけと、教えてくれていれば、それなりに自分でやったと思うのですが必死で覚えなければならない事で、算数が一気に嫌いになりました。
2013年05月07日
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本日の弁当は「焼き飯&卵焼き」 さて、私が少年だった昭和中期の頃風邪をひけば寝込むわけですが、当時は汗をたっぷりかいて熱を下げる方式が常識でしたので布団を頭からスッポリ被って寝込んだ物です。食欲も湧かず、水分補給も今ほど五月蠅くない時代でしたので、よく脱水症状にならなかったものだと思います。水は苦い粉薬を飲む時だけ飲んだ記憶があり、口中の苦みがしつこいのでコップに何杯も水を飲んだ事が良かったのでしょう。
2013年05月02日
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本日の弁当は「ウインナーと玉葱の炒め物」 さて、私が少年だった昭和中期の頃小学一年は夏休み期間中に風邪をひいたので欠席は免れ、二年生は何とか風邪をひかずに済んだのですが、三年生でとうとう風邪をひいて皆勤を失いました。それからは毎年、定期的に風邪をひいて高熱を出し、2日ぐらいは休みました。いずれも2日では治っていなくて、フラフラの状態で登校したものです。それでも動きながら治っていったのですから、若い身体の快復力は驚きです。
2013年05月01日
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本日の弁当は「ウインナーとキャベツの炒め物」 さて、私が少年だった昭和中期の頃幼稚園児の頃は登園拒否児だったのですが、小学一年、二年生は皆勤でした。しかし、やはり学校へ行くという事が苦痛で、早く日曜日が来ないかといつも思っていました。三年生の初夏でしたでしょうか、登校する前から身体がだるく、授業中に頭痛がしてきて放課中は椅子を枕に横たわっていました。どうしても休みたくなかったので我慢してたのでしょう。周囲が心配して医務室に連れて行かれて体温を測ると、39度を超えていました。学校は親を呼び、タクシーで診療所へ行く途中、私は「明日は学校へ行くよ、休まないよ」と繰り返しましたが、結局はそこで皆勤は途切れ、3日間ぐらい休むことになったのです。
2013年04月30日
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本日の弁当は「スクランブルエッグキャロット」さて、私が少年だった昭和中期の頃学区内対抗ソフトボール大会で優勝した1967年度の我が子供会は南区大会へと駒を進めましたが、初戦で大敗しました。補欠で出る幕のない小学二年の私はベンチで試合を見守るだけ。普段の練習や練習試合では小柄ながら外野までボールを打つ実力はありました。守備も内野ゴロの捕球は苦手でしたが、外野でのフライ捕球は得意で、快足でボールを追いかけたものです。打撃に自信があったのに、上級生の人たちは私がバッターボックスに入ると、「しゃがめ、しゃがめ」と言って私に姿勢を低くしろと指示します。相手投球を高めにさせてフォアボールを狙わせているわけです。それが悔しくてたまりませんでした。
2013年04月26日
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本日の弁当は「おにぎり(あさりしぐれ)」 さて、私が少年だった昭和中期の頃1967年、夏。私が参加した学区内子供会別のソフトボール大会は見事優勝し次なるステージは南区大会です。学区大会の時は白い体操着がユニホームで背番号も付いてませんでしたが、南区大会からは独自のユニホームと背番号が必須です。私は参加資格のない小学二年でしたので、試合に出られない補欠あつかいです。それでもユニホームを着て入場式に参加し、各町内からの優勝チームの列とともに並んだのですが、私は周囲からとてつもない注目を浴びました。何せ身長が120センチくらいでしたので、よそのチームの人たちから「あんた出るの?」「何年生?」などと式の間中に質問責め。だぶだぶのユニホームに身を包んだ私は、ますます縮こまったのは言うまでもありません。
2013年04月25日
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本日の弁当は「酢で味付けしたハムと野菜炒め」 さて、私が少年だった昭和中期の頃話し下手だった子供の頃ですが、作り話や嘘はよくつきました。幼稚園のころは自宅が菓子屋だとか言って、二軒隣りにあったお好み焼き屋を自宅だと偽り一年生の時はH君に対して、電池で動く大きな鉄人28号がうちに居ると言って自宅に連れてきて、そこに鉄人が居ないと言われると天井に隠れているなどと言い訳しました。そんな馬鹿馬鹿しい嘘ばかりですが、不思議と責められた事は一度もありませんでした。
2013年04月24日
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本日の弁当は「昆布豆」 さて、私が少年だった昭和中期の頃小学二年生時の記憶は一年生の頃よりハッキリしています。それだけ色んな事が理解できるようになってきたのでしょう。せっかく親友になったH君とは別のクラスとなって、五年生で同じクラスになるまでしばらくは疎遠になり、それまでは殆ど友人というものが出来ませんでした。会話能力も貧弱で、三人で行動すると私はいつも話の輪に加われず、二人の後ろを黙って付いていくような形が四年生の頃まで続いたのです。
2013年04月23日
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本日の弁当は「ハムと野菜炒め」 さて、私が少年だった昭和中期の頃小学二年になると成績がなぜか落ちました。特に算数などは五段階評価で4から2に下がったので、父親からネチネチとイジメのような叱責を受け、姉、兄から掛け算の特訓を受けたのですそれでもなぜか年間を通して成績はパッとしません。その替わり一年生時には感じられなかった様々な行事での感動を味わえました。夏休みにはいると学区内子供会対抗のソフトボール大会で我が子供会は優勝をしてしまうのです。三年生から子供会に入会できるシステムだったので、私は参加できないルールでしたが少数人数の子供会だったので補欠参加、優勝メンバーには違い在りません。副賞にスケッチブックとサインペンを貰い、子供会としては寿司で祝勝会です。
2013年04月22日
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本日の弁当は「卵焼き」 さて、私が少年だった昭和中期の頃幼稚園のころは登園拒否児だったので、夏休みを跨ぐ形で連続二ヶ月休んだり、その後も度々欠席したので、夏休みという純粋な長期的休暇を経験したのは一年生からと言っても良いでしょう。でも一年生の夏休みは夏風邪を引いたりして休暇を楽しんだ思い出がありません。その点、二年生になると多くの興味深い出来事が増えて、濃厚な夏休みを経験する事となるのです。
2013年04月20日
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本日の弁当は「ハムとピーマン、玉葱の炒め物」 さて、私が少年だった昭和中期の頃小学一年の時に親友となったH君とは、学校よりも休日にH君の自宅などに行ってよく遊びました。H君宅は町工場で遊ぶ空間が多かったのです。逆に私の家は小さな長屋の一軒だったので部屋も少なく、遊びに来て貰っても周囲に親や兄弟姉妹が近くにいて落ち着かないのです。H君には姉と妹がいて、その方達とも仲良くなり夕飯もよく御馳走になったものです。
2013年04月19日
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本日の弁当は「昆布豆」 さて、私が少年だった昭和中期の頃友達というものは単純な切欠から出来るもんです。小学一年の時も後ろの席に座っていたH君にちょっと話した事から、中学生までの友達となったのです。お互いに主導権を握る訳でもなく、特に助け合うわけでもなく、おとなしい者同志で気が合ったのでしょうか。
2013年04月18日
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本日の弁当は「ピーマンのコンビーフ詰め」 さて、私が少年だった昭和中期の頃小学校に入学した年は東京オリンピックから2年後でしたが、まだまだその余韻が残っている事を子供ながら感じられました。朝礼に使用される行進曲が五輪関連のものだったり、何かに付け優秀な結果に金メダル、金メダルと囃し立てられたりしました。私の金メダルは、1年生の時のクラス内での暗算大会でした。先生の出す一桁の数字二つをいち早く足して答えた人の勝ち抜き戦です。準々決勝あたりから黒板を背に立って暗算を競います。見事私は勝ち抜いて優勝し、先生から言葉だけの「金メダル」を授与されました。
2013年04月17日
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本日の弁当は「ウインナーと野菜炒め(キャベツ・ピーマン)」 さて、私が少年だった昭和中期の頃新一年生となった私の学習道具には、自分の名前が書かれるのですがひらがなで大きく書かれた自分の名前を観ると、なんだか恥ずかしくなったような覚えがあります。まるで自分の分身がそこに晒されているような気がしたり、自分は一応名前はあるけど本当はそんな者ではないのだという気がしたのです。きっと、ひらがなにした名前が間抜けに見えたのでしょう。
2013年04月16日
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本日の弁当は「スクランブルエッグ・ピーマン」 さて、私が少年だった昭和中期の頃小学校は幼稚園と違って私服登校です。幼児ながら私は幼稚園の制服や制帽が嫌いでとくに夏になると麦わら帽子が制帽となるので、それが嫌いで被るのを拒否しました。それ以前に登園拒否児だったので、かなりの問題児だったのです。新一年生になると環境が替わったせいか、登校拒否する事もなく、二年生を終えるまでの二年間は無遅刻無欠勤でした。
2013年04月15日
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本日の弁当は「おにぎり(梅干し)」 さて、私が少年だった昭和中期の頃小学校の行事には運動会が定番ですが、私の頃は5月に小運動会、9月に大運動会と、一年に二度も運動会があり、10月の体育の日にも学区の運動会があって、運動会嫌いの私には有り難くない事でした。5年生の時だったか、雨で小運動会が中止となった事があります。大運動会は雨天順延で絶対にいつかは開催されると言うわけですが、この小運動会は雨天中止なのです。ところが五年生担当の教師陣が有り難迷惑にも小運動会でやるはずだった組別対抗リレーと徒競走を体育の時間にやるというのです。競争の場での緊張感が人一倍苦手だったので、中止は糠喜びとなったのでした。
2013年04月12日
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本日の弁当は「昆布豆」 さて、私が少年だった昭和中期の頃小学校に入学した年は丁度創立10年だったらしく、秋の運動会は盛大に行われました。セスナ機が上空から運動場にメッセージが書かれたテニスボールを落としたり、私たち新一年生は全員が風船を数個手に持って入場行進し、先生の指示で一斉に空へ風船を放ちました。はがき付きの風船だったので、風船が落下した地域の子供から返信が来たりしました。創立記念とは知らずに、当時は幼稚園の運動会と比較して、こんなに小学校は華やかな事をするのかと感動したものです。しかし、次の年からは質素な運動会となりました。
2013年04月11日
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本日の弁当は「焼きそば」昨日、ロッカー内の弁当が紛失したため、もう一度「やきそば」です。中身はさておき、やっと手に入れた深底のアルミ弁当箱よ、何処へ行ったのか? さて、私が少年だった昭和中期の頃小学校の新一年生となった私達の手元には、真新しい教科書や教科に基づく小道具が。特に気に入ったのは「時計」です。時間の読み方を勉強するための小道具ですが、手のひらサイズの丸くて赤い時計でした。背面に据えられたつまみネジで、先生の指示する時間に合わせるのです。0から9までの数字が印刷された板札のようなものも配布されました。まるで遊び道具のようなものでしたが、遊びとは違う緊張感があったのを覚えています。それだけ教師が厳しかったのだと思います。児童に媚びるような甘い言葉は絶対に発せられませんでした。
2013年04月10日
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本日の弁当は「焼きそば」 さて、私が少年だった昭和中期の頃新一年生の私の所持品には、ひらがなで名前が書き連ねられます。上履き、教科書、ランドセル、ハンカチにまで名前を書きました。朝、登校前に必ずチェックする物は、ハンカチと鼻紙です。そして爪がきちんと切ってあるかです。そのようにして登校させるよう、学校からの指示だったのでしょう。教室で毎朝、担任の前にハンカチと鼻紙を差し出し、そして小さな手を広げて爪を見せたものです。爪は毎日切るものではありませんが、当時は砂遊びや泥遊びは当たり前だったので爪の中に汚れが詰まってないかの検査だったのかも知れません。
2013年04月09日
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記念すべき600個目の本日の弁当は「卵焼き&ウインナーとキャベツの炒め物」 さて、私が少年だった昭和中期の頃どこの親でも同じかと思いますが、我が子の出来が自分の評価に繋がると感じていたのでしょうか、新一年生の私に母親が常に言っていた言葉は、「あの子に負けたらダメだよ」と、真顔になって言うのです。自分としては誰とも仲良くしたいと純粋に思っていた記憶はありますが、親にそう言われて何か言いようのない妙な焦燥感が生まれたのです。
2013年04月08日
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本日の弁当は「卵焼き&焼きハム」 さて、私が少年だった昭和中期の頃小学校の入学式の日に、私は校庭内に植えられていた桜の木の下で、個人的に記念撮影をして貰いました。着慣れない余所行きの服を着てランドセルを背負い、上履き入れを提げた新一年生です。その上履き入れの必要性が今思うと不思議です。校内では下駄箱に上履きを収納するので、決して持ち帰ることはありませんでしたから上履き入れを活用する事は殆ど無かったと思います。しかし、入学式の日には新一年生の必需品としてみんなが手に提げていたものです。
2013年04月05日
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本日の弁当は「チキンカツ」 さて、私が少年だった昭和中期の頃桜が咲くと入学式のイメージが湧きますが、住んでいた長屋のすぐ前に小学校があったので校庭に植えられていた桜はいつでも観る事が出来て、毎年初々しい新一年生が着物を着たお母さんと共にやってくるのです。真新しく硬そうなランドセルは、確実に新一年生の胸板より分厚く、それを背負った一年生は後ろへ反っくり返るような形で歩いているのです。
2013年04月04日
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本日の弁当は「卵を絡めたキャベツとニンジンの炒め物」 さて、私が少年だった昭和中期の頃テープレコーダーに音楽を吹き込んで遊んでいたついでに、自分たちの声も録音するのは当然の事ですが、この自分の声、録音すると別の声に聞こえるのが不思議でした。そして自分の録音の声に嫌悪感をも抱きましたが、これは殆どの人が思った事のようです。恥ずかしいというか、心の中まで観られているような、妙な気分になったものです。
2013年04月03日
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本日の弁当は「チャーハン」 さて、私が少年だった昭和中期の頃小学生時代は歌謡曲をテープレコーダーに吹き込んだりして楽しんでいましたが中学になると洋楽に興味を持ち始めたので、その歌謡曲の上から洋楽を録音してしまうので曲と曲の合間に過去に吹き込んだ歌謡曲がチラッと顔を出す事がありました。そうやって幾度も重ね録りしていったので、今聴くと驚くほど昔の音声が飛び出してきて一秒くらいしか現れない曲から当時を忍ぶことが出来るのはとても面白い物です。
2013年04月02日
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本日の弁当は「スパゲッティ」 さて、私が少年だった昭和中期の頃洋楽をラジカセに録音するのが趣味だった中学生時代でしたが、ラジカセが多く普及する以前はラジオの付いていない単なるテープレコーダーが主流でした。それが一台あった我が家では、音楽を吹き込む場合はテレビの前にマイクを近付けて息を凝らして録音に挑んだものです。そんな時はどうしても笑いが込み上げてきたり、状況を把握していない他の家族が突然現れて何かを喋ったりして、余計な音声が混じる事が常でした。
2013年04月01日
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本日の弁当は「卵焼き&ウインナーとキャベツの炒め物」 さて、私が少年だった昭和中期の頃ラジオ放送局へのリクエスト電話は中々オペレーターに繋がりません。10回、20回とダイヤルを回し続けてやっと繋がると言った具合です。繋がってリクエスト曲を伝えたところでそれがかかるわけでもないんですが。それでも数回、リクエストしたものを放送してくれて、私の名前も読んでくれた事はありました。当時はプッシュホンはあまり普及されていなかったので、ゆっくり回転するダイヤルでコツコツとかけ続けたのです。
2013年03月29日
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本日の弁当は「チキンカツ&野菜炒め(にんじん、たまねぎ)」 さて、私が少年だった昭和中期の頃中学一年の時は洋楽のレコードばかりを買っていましたが、ラジカセに吹き込むのも洋楽がほとんどで、カセットテープに録音成功できればレコードは買わなくて済んだのです。どうしてもレアな曲で放送されにくい曲はリクエストハガキを送ったりしましたがこのリクエスト番組も良く聴きました。電話リクエストなる番組には話し中も何のその、放送局に繋がるまで何度もかけ直しました。
2013年03月28日
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本日の弁当は「チャーハン」 さて、私が少年だった昭和中期の頃ラジオから流れてくる洋楽を録音するにはカセットテープが必需品でしたが、ラジオはカセット付き、所謂ラジカセが大人気。それが欲しくて親にねだりましたが無理な話です。周囲の同級生は殆どが持っていて見せて貰うたびにいつかは自分もと思った物です。中学二年の統一テストで良い成績を取る事を条件に、親に買って貰う事を取り付けましたがもう一歩の所でノルマとする点数は取れませんでした。ラジカセの価格は当時で三万円くらいしましたので高価な代物です。それでも私は「努力したのだ」と親を説き伏せて、半額くらいのラジカセを買って貰いました。ダイエーで一万六千円で売っていたスタンダードのラジカセで、カセットの位置が右に付いていて、エコー効果の釦も付いていました。
2013年03月27日
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本日の弁当は「ウインナーと野菜炒め」 さて、私が少年だった昭和中期の頃中学一年時は良く洋楽のレコードを買い、ラジオで海外のポップスを良く聴きました。良い曲が流れ始めるとカセットラジオの釦を慌ててオンにして録音しました。そのために曲の頭が切れていたりする事が多く、終わり頃にDJが喋りだして曲の最後までキチッと収録できない事ばかりでしたが、それでもカセットテープにタップリと好きな洋楽を収める事が出来ました。40年以上も前のカセットテープは今でも健在ですが、何度も重ね録りをしたので曲と曲の間にひょっこりと昔の曲が少しだけ現れるのです。
2013年03月26日
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本日の弁当は「鶏五目おこわ」 さて、私が少年だった昭和中期の頃英語歌詞の意味などサッパリ理解できなくとも、中学一年の私は洋楽にはまっていきました。当時一枚のシングルレコードの価格は500円。私の少ない小遣いでは買えず、お年玉の残りを節約しながら毎月一、二枚のレコードを買いました。時には奮発してLPレコードなども買いました。なぜか悪い事をしているような気がして、家族にはレコードを買ったとは言わず、友達から借りてきたといって、足付きのステレオで聴いておりました。
2013年03月25日
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本日の弁当は「卵焼き&キャベツとハムの炒め物」 さて、私が少年だった昭和中期の頃1960年代後期から70年代初期は、日本の音楽界は歌謡曲真っ盛りの時代で、演歌が良く売れた時代でもありました。私は中学にあがる頃に洋楽に目覚め、少ない小遣いでレコードを買いまくりました。一番最初に買ったレコードは曲だけの物で、アメリカのホットバターという演奏グループが出した「ポップコーン」という曲でした。有名な曲で大抵の人は知っている曲で、当時もヒットしたのですが中学風情では話題に上りにくく、こういう曲を好む自分は少数派だと思っていました。それからは歌謡曲には目もくれず、洋楽オンリーに突っ走っていくのです。
2013年03月23日
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本日の弁当は「ソフトめん(カレーのたれ)」 さて、私が少年だった昭和中期の頃子供会会長の仕事とは?あまり細かくは覚えていませんが、思い出すのはラジオ体操のカードにハンコを押して、ひとりひとり名前を呼んで手渡すこと。難しい名字が漢字で書いてあったので読めずにいると、自分よりも頭の悪い子が横から首を突っ込んで名前を読むという事があり、何とも言えない屈辱感を味わいました。そんな小さな事が神経には結構こたえるのです。
2013年03月22日
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本日の弁当は「鯛めし(鯛めしの素使用)」 さて、私が少年だった昭和中期の頃子供会の会長選挙には三つ上の兄の時も候補者に選ばれました。兄と両親から他の人に投票をするようにと私は陰の運動を促され、見事に兄を落選させる事に成功しました。しかし、私の時は兄も両親も協力してくれず、因果応報で私は会長に選出されてしまいました。どうやら私は家庭的な援助には恵まれていないと、その時に気付いたのです。
2013年03月21日
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本日の弁当は「あさりタケノコご飯」 さて、私が少年だった昭和中期の頃住んでいた学区には「子供会」なる小学二年生から中学二年生までの子供が対象の集まりがありました。学区内には子供会が十数チームあって、私の所属した子供会は総勢十数人という少数なものだったので、何かの行事の際には他のチームとの合同参加になる事がしばしばありました。子供会会長を選出する時も、最年長の中学二年はだいたい2人しか居なかったので、自然と2人の対決となるのですが、誰も会長などやりたくないので選挙日前まで裏工作運動が盛んに行われるのです。つまり「あいつに投票しろ」などと陰で言い合うのです。
2013年03月20日
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本日の弁当は「野菜炒め(にんじん、長ネギ、キャベツ、かにスティック)」 さて、私が少年だった昭和中期の頃リーダー格ではないのに、私はよくリーダーにさせられた小学時代でした。ひょっとすると児童会会長に立候補した私に対抗者を擁立させた担任は私を救ったのかも知れません。子供会の会長にさせられた時も、適任者であるリーダー格の人物は居たのですが弱気な私は会長に選ばれたものの、結局はリーダー格の奴があれこれと口出しして、おいしい所を持っていかれ、私は「頼りない」と罵倒されるのがオチでしたから。
2013年03月19日
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本日の弁当は「オムレツ(にんじん、長ネギ)」 さて、私が少年だった昭和中期の頃黄金期の小学五年はそのまま六年へと惰性で良い調子に繋げてくれましたが勘違いしていた部分も多かったのでしょう。いまひとつ担任からは信用を得られず児童会会長に立候補した時などは、他に候補者が名乗り出ない事を懸念した担任が各クラスに働きかけて優秀な児童を擁立させました。自分のクラスの生徒を落選させる為に動いた担任にも大いに問題はあると思いますがリーダー気質ではない私の事をよく見抜いていたとも言えます。努力や周囲の応援では補えない頼りなさがあったのでしょう。
2013年03月18日
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本日の弁当は「チャーハン」 さて、私が少年だった昭和中期の頃小学五年時代は私の人生黄金期で、モテるわ成績は上がるわ失敗も見逃してくれるわでつい良い気になって浮気までも経験してしまいました。しかし家庭内ではビクビクと落ち着きません。それは祖母と父親の仲が悪く、毎日喧嘩を見せられていたからです。父親は子供の頃から自分の母親にろくな育て方をされなかったと言って、恨み辛みを毎日のように私達に話して聞かせたので、私ら兄弟姉妹もいつしか祖母を嫌うようになりましたが、隣近所まで轟く祖母と父親の怒鳴り合う声にいつも怯えていました。
2013年03月15日
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本日の弁当は「スパゲッティ」 さて、私が少年だった昭和中期の頃黄金期の小学五年生時は、どんな失態を演じても私の人気が落ちることはありません。女子に対して「泳げる」、と言って嘘を付き、水泳の時間に大恥をかいた事は言うまでもありませんが、誰も私を責める人は居ませんでした。名誉挽回の為に市営プールで独学で水泳を習得し、翌年の六年生の時に泳ぐ姿を女子達に見せる事が出来たのです。
2013年03月14日
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本日の弁当は「コンビーフ&にんじん、たまねぎの炒め物」 さて、私が少年だった昭和中期の頃四年生から五年生に進級すると、周囲や自分の状況が一変しました。かつての友人が復活したり、他の友人も増え、小学生ながら恋愛も盛んになってよくモテました。そのころが人生の黄金期でしょうか、何をしても上手くいき、その気にならなくても周囲が持ち上げてくれたりしたのです。
2013年03月13日
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本日の弁当は「ハムエッグ」 さて、私が少年だった昭和中期の頃小学時代は新学年を迎える直前にクラス決めの点呼がありました。どの組に入るか、どんな子と一緒のクラスなのか期待と不安が高まるのです。劇的だったのは四年から五年生になった時です。給食を机の中に隠して腐らせた四年生時はまさに地獄の日々。それが五年生になると一転します。一年生の時に友達となったH君をはじめ、多くの仲の良い子らと同じ組になり気分も爽やかになって成績もアップしたのです。
2013年03月12日
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本日の弁当は「スパゲッティ(しいたけ、にんじん)」 さて、私が少年だった昭和中期の頃通知票は相対評価の五段階評価が通常で、クラス40人のうち上位4人が「5」上位5位から12位までが「4」を貰えるのでした。小学三年の時、卓球部を無断欠席したりして挙げ句は退部したことがありましたがそれを担任が気にくわなかったのか、私の体育の成績を「3」にすると保護者会で母親に通達したのです。実際に体育はクラスで1位の成績だったらしいのですが、卓球部を中途半端に退部した罰として成績を下げられたのです。とんでもない事をされたと今でも思っていますが、当時の親たちは先生達を尊敬していて言われるがままで、抗議する気配すらなかったのでした。
2013年03月11日
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本日の弁当は「野菜炒め(椎茸、キャベツ、にんじん、ウインナー)」 さて、私が少年だった昭和中期の頃通知票や試験には凄く興味のある少年でした。そのわりにはどうやって勉強したら良いのか判らず、机に向かっても向かわなくても成績は変わりませんでした。頑張っても頑張らなくても五段階評価では平均で三ぐらいのものでした。両親自体も教養があるとは言えない環境で育ってきたくせに、私の成績が悪いと、「親が恥を掻くじゃないか」と、ぎゃーぎゃー騒ぎ立てました。参考書ひとつ買ってくれる訳でもなく、自分たちのメンツばかりを気にする、世間に良くある親子関係だったのです。
2013年03月08日
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本日の弁当は「餃子弁当」 さて、私が少年だった昭和中期の頃そろそろ終業式の時期になりますが、通知票などをもらう時期でもあります。小学五年ぐらいの頃、母親が日曜日に職員室の留守番アルバイトをしていた事があり私も着いていった事がありました。誰もいない職員室で、私はやりたい放題。勝手に教員の机の引き出しを開けたりしました。その中には通知票の元となるような、各生徒の成績記録があり、4や5,2や1が記されており、空欄は3という評価の意味だったと思います。よく勉強する子は4や5が並び、普通の子の欄は空白、つまり3という評価が多いのが判りました。近所のあの子はどんな成績だろうかと、教員の机の中を捜索したりしました。
2013年03月07日
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本日の弁当は「スクランブルエッグ・ピーマン」 さて、私が少年だった昭和中期の頃小学時代、三学期末になると文集造りが盛んになりました。一年を振り返る回想録や詩、漫画、その他雑文などをクラス全員が好きなように書きガリ版刷りで冊子を作ったのです。今思うと、ちゃんと残しておけば良かったと思っています。通知票などは残っていて、成績を観るのも面白いのですが、性格などの所見や身長体重、休んだ日数などを観るのも、当時を思い出せてくれます。
2013年03月06日
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本日の弁当は「卵焼き&ウインナーとキャベツの炒め物」 さて、私が少年だった昭和中期の頃地面の冷たさが靴底を通り越すほどの寒さが多かった少年時代でしたが、吐く息が白いのでそれを煙に見立てて怪獣の真似をしたりした覚えがあります。通学路の窪みには氷が張り、それを踏んで割れる音を楽しんだり、民家の庭にある水道から流れたままの水が凍ってしまっている情景もよく見かけました。やはり現在は温暖化なのでしょうか。昔ほど厳しい寒さを感じません。
2013年03月05日
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本日の弁当は「ハンバーグ&シメジとニンジンの炒め物」 さて、私が少年だった昭和中期の頃この寒い時期は小学時代、朝の授業前に全校児童が校庭に駆り出されて、縄跳びをさせられました。縄跳びをしながら校庭を二周くらい回るのです。風邪をひかないようにと言う体力造りが前提とされた行事でしたが、地面の冷たさが靴底を通り越して、つま先の感覚がなくなるくらいの辛さでした。そして、この体力造りの甲斐もなく毎年風邪をひいていました。
2013年03月04日
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本日の弁当は「ゆでニンジン&スクランブルエッグ」 さて、私が少年だった昭和中期の頃小学時代、給食当番なるものが定期的に巡ってきて、5、6人で編成された当番者たちが白い割烹着とマスクを装着して給食を教室へ運び、ひとりひとりに分配し終わると、全員の前で両手を合わせて「いたーだきます」の号令をかけます。忘れてしまいましたが、おそらく自分の分を取り分ける時は、嫌いな肉類が入らないようにしたと思います。
2013年03月01日
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本日の弁当は「焼き飯」 さて、私が少年だった昭和中期の頃小学校の教室の机は、五年生までは二人用の机で横長のものでした。給食の時間になると、その机を他の机数台と向かい合わせにして給食を食べさせられた物ですなぜそんな事をして食事をさせるのか、いまだに良く判りませんが、コミニュケーション教育の一端でしょうか。六年生では机が個人用のものとなって、担任も向かい合わせで食べるという事を指示しなかったので、それぞれが気楽に前を向いて給食を食べました。
2013年02月27日
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本日の弁当は「チャーハン」 さて、私が少年だった昭和中期の頃小学時代、ハッキリとは覚えていませんが給食の時間が終わるとその後は掃除だったと思います。掃除が終われば次の授業開始まで放課です。その間中、校内音楽放送がかかり、いつも「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」というモーツァルトの曲が流れていました。この曲を聴くと、今でも辛かった給食の時間を思い出します。
2013年02月26日
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本日の弁当は「スパゲッティ&オムレツ」 さて、私が少年だった昭和中期の頃小学時代、美味かった給食と言えば「ソフト麺」とかが真っ先に浮かびます。たまに食パンの代わりに「クラッカー」が出たりしましたし、夏にはデザートとしてアイスクリームが出たりしました。チーズも好きでしたが、給食で食べるまでは家庭では食べた事のないもので、コーンスープもそうでしたが初めて食べるものには抵抗が最初はありました。それを乗り越えると大好物に変化したのです。
2013年02月25日
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