1
畠山陽一さんのキノコの写真展 今日は、アトリオンで、尊敬する秋田のキノコ博士、畠山陽一さんの写真展が開かれました。小学校の校長先生だった方で、長年キノコや植物の研究を続けていらした方です。秋田のキノコなど、たくさんの本を出版していらっしゃいます。 クロゲナラタケ PHOTO K.Maruyama 実は、陽一先生は9年前に4箇所の癌の告知を受け「余命3ヶ月」と医者から宣告をされました。しかし、手術後の身体で、ヒマラヤに行き登山、それ以来ガンの進行が止まってしまったそうです。現代の奇跡と、アンビリーバブルでも紹介されました。 たまご茸 サワモダシヒマラヤの写真集も出版され、執筆活動の傍ら、 ネパールに学校を作るなど、国際的な活動をなさっています。先生のお話をお聞きしていたら、年間30%はネパールなどの海外へ、もう30%は日本のどこかの山々で写真撮影、後30%強は、執筆活動と、大変お忙しいです。 昔は、まだまだ迷信のようなキノコの見分け方しかなかったので、亡くなられた方も多かったと聞きました。現在は、畠山先生の写真集のおかげで、不幸は殆ど無いです。本の中で、致命的な毒キノコもあるから、絶対に冒険してはいけない等、写真以外にも暖かいアドバイスが満載です。 秋田の人間は、皆、畠山先生のキノコの本を携帯して、キノコとりに行きます。これまで60数冊の本を出版され、海外、46ヶ国を訪問しています。調査・撮影をしています。一番多いのはネパールヒマラヤで、多い年は年4回も訪れています。次いで中国チベットへ、パキスタン国境から上海まで11000kmを日本人として初めて踏破しました。 平成17年度秋田市文化選奨受賞(秋田市広報から) 書籍"雲表の珍草「雪蓮に魅せられて」"を出版したこと ヒマラヤからチベットの高山の岩場に生える植物、雪蓮(サウスレア)を求めて、十七か国を調査。平成十五年には世界未記録種も採取しました。現在も中国の研究者と共同研究を続けており、その集大成とも言える貴重な記録です。
2008.09.09
閲覧総数 605
2
大好きなシューベルトについて、ご紹介しますフランツ・ペーター・シューベルト Franz Peter Schubert(1797年~1828年)オーストリア・ウィーンで生まれ、活躍した作曲家です。多くのジャンルで素晴らしい作品がありますが、特にドイツ歌曲(ドイツリート)において功績が大きく、「歌曲の王」と呼ばれていますシューベルトの父は教師で、音楽が好きなアマチュア音楽家でした。6歳ころから父にヴァイオリン等を教わり、あまりの天分に父の手には負えなくなり、リヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーに指導を託しました。ホルツァーは、感動表現を大切に指導していました。フランツは、この少年時代に、ホルツァーや仲間の徒弟たちから得るものが大きかったようです。1808年、シューベルトはウィーンの主要な音楽学校となっていたコンヴィクト(寄宿制神学校)の奨学生となりました。宮廷礼拝堂コーラス隊養成の為の特別教室がありました。ここでの学生オーケストラの練習や同僚の学生との交流からも大きく学びました。シューベルトの友人たちは、貧しいシューベルトを献身的に支え続けました。この時期に音楽的知識の基礎を築き始めました。変声期を迎え、コンヴィクトを去ったシューベルトは、しばらく教師の仕事を続けます。しかし、内から湧くように流れ出てくる音楽の衝動に、忙しい生活の中で、夜も寝ずに作曲をし、名曲をたくさん生み出しています。交響曲や弦楽四重奏曲、そして、歌曲たち・・・・この時期に作曲された「アヴェマリア」「糸を紡ぐグレートヘン」は、私がしょっちゅう歌うレパートリーです。シューベルトは、彼の才能を認めるグローブ一家と親しくしていましたが、そこの娘テレーズは歌がうまく、良い友人でした。 シューベルティアーデ 彼は、友人たちに愛され、とても大切にされていました。友人ショーバーの勧めで、教師を辞め、作曲に専念したシューベルトを支え続けました。彼らとの交流の中で、たくさんの素晴らしい曲が生まれたのです。特に素晴らしいのは、多くの詩人達との出会いから、芸術的な歌曲がたくさん生まれたことです。有名な「野薔薇」「魔王」、歌曲集「水車小屋の娘」「冬の旅」「白鳥の歌」など世界中で、毎日彼の音楽を聴かない日はなく、今もたくさんの人に愛され続けています。また、その後のドイツの作曲家にも大きな影響を与え、ドイツリートは、世界でも稀に見る素晴らしい高度な芸術として、多くの人々に愛されています。私は、歌以外で、一番好きな曲は?と聞かれると、彼の「アルペジョーネ ソナタ」と答えます。今はもうなくなってしまったアルペジョーネという楽器のための曲ですが、現在はチェロで演奏しますこの曲の1楽章が大好きです。
2009.03.06
閲覧総数 552