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砂漠の果て(第1部 「脱出」)
砂漠の果て
「パレスチナ地方詳細図」
パレスチナ地方は古くから、地中海に面した、北はレバノン、シリア、東はヨルダン、西はエジプトに囲まれた地域であった。
1948年にイスラエルが建国宣言をし、第一次中東戦争(パレスチナ戦争)が勃発して以来、イスラエルはその領土を拡大していった。地図中、「イスラエル」と赤い文字で記された部分が見える。
エルサレムは首都であり、すぐ南方にベツレヘムがある。ベツレヘムのすぐ東方に死海があり、2000年の時点でヨルダン領内になっている。
―序章:1995年―
「ウィリアム・アザズ・ザキリス医師に感謝を込めて」―
これは、あの青年が私にいつも手紙をしたためる時の最後の言葉だった。
アルブラート・アル・ハシム。彼は今、パリでは有名なウード演奏家達のひとりとなっている。いや、ヨーロッパでは既に第一人者というべきか。
アルブラート。私は彼を、親しみをこめて、こう呼んだものだ。彼自身がそう望んだ、と言った方が正確かも知れない。彼は今では53歳にもなっている。だが若々しく、今まさに人生の壮年期ともいうべき時期を迎えている。
アルブラートは、かつて、ある人に、「アルラート」と呼ばれていた。
だから、私も彼をそう呼んでいた時期もある。だが、彼はそれを苦痛だと訴えるようになった。ある時から―そうだ、彼が20歳の時―それは、もう、遠い昔。1962年の時からだった。
現在、私は、カイロの新市街で外科医を勤めている。私たちは、時折、手書きの書簡を交わした。アルブラートが音楽家活動が多忙になってからは、書簡のやりとりは頻繁ではなくなった。
今、アラブ社会では、インターネットが普及し始めている。私も、仕事の利便性から、自宅にコンピューターを置いている。だが、それはあくまでも仕事のために使うのだ。患者のカルテのファイルへの保管、医学上の最新情報の入手。アルブラートにも薦めてみたが、彼は笑って、首を横に振った。
そうだ...私は愚かだった。あのアルブラートが21世紀に向かおうとする生活に馴染むわけがない。彼は野生の感性を持っている。ベツレヘムに生まれ、難民キャンプから、いつも砂漠の馨しい風が流れ込むのを、全身で受け止めながら、少年期まで過ごした。彼の音楽は、その環境で育まれたのだ。
彼の音楽は、「あの人」との出逢いとともに、大きく変化し、成長し、そして完成の域に達したといってもいい。その彼が、なぜ今パリにいるのか?
...私が、アルブラートをパリに連れてきたのだ。彼は、こう言った。
「あの人」の思い出を忘れるために。
「あの人」の娘と再会するために。
だが、果たしてそれは、彼のためになっただろうか?
アルブラートにとって、「あの人」は、彼の命の全てだった。その人も、今はもういない。
アルブラートは、パリに来て、「あの人」の娘と再会し、彼女を愛した。...その娘も、もうこの世にいない。
アルブラートは、パリに来て、最愛の息子アリを殺された。
そのパリに、アルブラートは根を降ろし、過去の想いを音楽に託して、解き放とうというのか...少なくとも、私には、そう思えてならない。彼は、カイロという「アラブ世界」に留まるのを苦しんでいる。あまりにも多くの出来事が、カイロには未だに存在するのだ。彼の心の中では―
私も、彼と過去を共有するには、荷が重過ぎる。時には、彼のウードやカーヌーンの音色に惹きつけられるようにして、パリに出かけるが、彼と短い話を交わした後は、逃げるようにして、カイロに戻ってしまうのだ。
だがなぜアルブラートが演奏家になったのか。「あの人」とは、いったい、どんな人だったのか...
まずそれを語らねばならないだろう。1962年以前の、アルブラートの生活にまで遡って...
私は一介の傍観者に過ぎないかも知れない。しかし、過去を語ることは、今もなお苦しみの多い過去に引きずられがちなアルブラートにも、必要なことと思う。アルブラートは、静かに微笑んで、このことを許すだろう―
―パリ サン・セヴラン:1994年―
サン・ジェルマン界隈はパリのシンボル的存在だ。私とアルブラートは、シテ島をすぐそばに臨むサン・セヴラン通りの小さなカフェで落ち合った。昨年の12月の初め頃だった。
木曜日の午前は、アルブラートは演奏を休む。彼の好きなカフェは、いつも決まってこの「ラ・セーヌ・カナル」だった。10時の約束を、私は10分遅れていくと、この店の奥まった、いつもの窓際に、彼はもう来ていた。
少し痩せたように見えるが、やや浅黒い肌にすらりと長い手足は、昔から変わらない。初めて出逢った18歳の頃のように、私の姿を目にすると、席を立って、手を差し伸べた。黒い瞳は青年の頃のままだ。孤独で、無垢な恥じらいを秘めた、輝く瞳だ。
「待ったかね」
「いいえ」
いや、彼は待ったに違いない。それでもそんなことは言わない。昔から、
そういう性質なのだ。それよりも、ぼんやりと景色を眺めるのに気をとられていたので―そういう言い訳をして、相手を責めたりはしない。
「相変わらずここの景色が好きですね...以前と変わらないんです」
「あの寺院が?」
「ええ。朝のノートルダムは好きです。光を受けて、透明感があります」
「...フランス語がうまくなったね」
「そうですか......もう30年も住んでますから...」
「アラビア語は...覚えてるかね。それとも......忘れたかね」
「......忘れたのもあります」
少しためらったように、アルブラートは私から視線を逸らしたが、やがて黒いコートのポケットから、大事そうに1通の手紙を取り出した。
「先生のお手紙......読ませていただきました。ですから、これはお返しします」
私はちょっと驚いた。彼が、私の手紙を返すなど、これまでになかったことなのだった。
「過去を語る―と書かれてありました。でも......先生は、それを手記になさるおつもりでしょうか」
「いや。ただ、書き留めるだけだよ。誰にもそれは見せない」
「......それならいいんです。それに...先生は...優れたお医者ですし、詩人でいらっしゃいます。書き留める前から......過去はすべて先生の心の中で回転しておられる......それなら、書き留める必要もないはずです」
「私は、回転している記憶を......そうだ、回転している過去を文字にしたい......ただ、それだけなんだ。許してもらえるかね、アルブラート?」
アルブラートは、しばらく黙って、私の顔を見つめていた。
「先生のなさることに、私がとやかく言う権利はないので......」
こう言って、彼はコーヒーを飲み干すと、席を立った。
「もう出ましょう―長いお話は、お嫌いでしたね」
私は、彼と、ソルボンヌ大学の近くまで黙って歩いた。別れ際に、アルブラートは、私の手をしっかり握って、瞳に笑みを浮かべた。
「......また、会えるかね?アルブラート」
「ええ。いつでも。先生が私を必要であれば、いつでもお会いします」
アルブラートは、私の目をまっすぐに見つめると、静かな声で呟いた。
「...私の心の中でも、過去は回転していますよ、先生。いつまでも―」
第一部「脱出」
―第1章― ベツレヘム エイン・ゲディ:1946年
「バシール。バシール...熱があるの?」
そこは、泥で固めて造った掘っ立て小屋の中だった。ほとんど、洞窟の中にいるような狭い場所だった。マルカートは、井戸から汲み上げた水を、すすけたバケツの中にためていたが、タオルをまたその中に入れては、痩せた手でギュッと絞った。
外は雪がちらついていた。ベツレヘム郊外の、エイン・ゲディは死海のすぐそばだった。死海の冷たい空気のために、タオルはすぐに凍ったように固まってしまう。マルカートは、そのタオルに息を吹きかけ、少し温めた。そうしないと、病人には、そのタオルは冷たすぎるからだった。
「ムラート」
4歳ほどの小さな男の子が、小屋の隅で、どこかで拾った石墨で、地面に絵を描いていた。だが、父親に呼ばれて、嬉しそうににじり寄ってきた。
「お父ちゃま、なぁに?」
「ああ...お母さまからタオルを受け取っておいで。お父さまのおでこを触ってごらん」
「...熱いよ。熱い。お熱があるの?」
「そうだよ...タオルをおでこにあてると、気持ちがいいんだ。頼むよ」
ムラートは、母親からタオルを受け取って、父親の額にそっとあてた。
「...いい子だ...うまいな」
「お父ちゃま、病気なの?なんで?お医者さま、呼ぼうよ」
「...お医者様もね、みんな...いないんだ」
「なぜなの?」
「悪い...悪い人たちがね...お医者様をぜんぶ、連れて行ったんだよ...」
「どこに?どうして?...じゃ、お父ちゃま...死んじゃうの?」
「...そうかもしれないな...」
幼子は、キョトンとしていた。「死」が理解できないのだ。でも何となく哀しい気持ちになったらしい。大きな愛らしい目を涙でいっぱいにして、バシールを見つめた。バシールの寝ている粗末な寝床の枕元には、彼が大事にしてきたウードとカーヌーンが置いてあった。
この貧しい、パレスチナ人の若い家族には、この楽器が宝物だった。他にあるものといえば、かけて歪んだ銅の皿が3枚、ひびの入ったグラスが2つ、バケツがひとつと、あと、母親と坊やが一緒に包まって寝るための、薄い汚れた毛布1枚。
「ムラート...いい子だ。さあ泣かないで...お父さまの枕元をごらん」
「なあに...なあに?これ」
ムラートは、つやつやと輝くカーヌーンに触れてみた。きらきら光る弦が何本も張られている。それが、ムラートが楽器というものに触れた最初の時だった。
「...それはカーヌーンといってね...きれいな音が出るんだよ。何か弾いてごらん...その弦をそっと指で撫でてみるんだ」
ムラートは、言われたとおりに弦をすっと撫でた。煌くような音色が、薄暗い洞窟の中に響き渡った。嬉しくなったムラートは、次々と気ままに弦をかき鳴らし始めた。いつしか、それは砂漠の風を想わせるような、茫洋とした、美しいメロディーを形どっていた。
「ごらん、マルカート...僕の言った通りだろう...」
「え、何ですって―?」
「あの子には...アルブラートには...才能があるんだよ。君の...
君の踊りの血も受け継いで...きっと、立派な楽師になる...」
「バシール!でもそうなったとしても、とても無理よ......イスラエル軍がもう近くまで来ているのよ...私たちを追い出すか、難民キャンプに収容するか......もう時間の問題だわ。あの子に才能があるのが、私は却って辛いわ......あの子が立派な楽師になるという、将来の夢なんて見れないのよ......イスラエル軍の占領がいつまで続くか、わからないのよ。一生かも知れないのよ......!」
つい最近まで、流浪の民だったユダヤ人は、1945年、パレスチナにイスラエル建国の夢を果たした。だが、逆に、今度はそこに住んでいたパレスチナ人たちが流浪の民となった。
イスラエル軍の「パレスチナ人掃討作戦」の噂は、恐怖と共に、散り散りになったパレスチナ人たちの間に広まった。特に「難民キャンプ」という言葉は、彼らにとって、最大の恐怖だった。
1940年、若い夫婦はベツレヘムの小さなアパート暮らしで、幸せな生活を始めた。2年後、可愛い男の子に恵まれた。二人は、その子に「アルブラート」と名をつけた。バシール・アル・ハシムは、25歳で、ベツレヘムの音楽院を優秀な成績で卒業したあと、ウードとカーヌーンの奏者として、音楽活動を始めていた。
マルカート・エル・アラウィは、ロマニー(ジプシー)とアルメニア人の混血だった。放浪の旅を続けて、ベツレヘムに辿り着いた頃は、まだ6歳だったが、ロマニーの血を受け継いで、踊りが素晴らしく上手だった。
次第にベツレヘムの街に踊り子の噂が広まり、15歳の時には、マルカートは、街の劇場で舞台に立つようになっていた。彼女は、それから1年後に舞台の伴奏者であった、バシールと恋におちた。1940年、二人はパレスチナの伝統にのっとった結婚式を挙げた。花嫁は、まだ17歳だった。
それから5年後、第二次世界大戦が終わると共に、彼らパレスチナ人にとって、不安と恐怖と死の生活が始まろうとは、だれが予測できただろうか―
―第2章― クムランへの道:1947年1月
1946年の年の暮れから、47年の年明けにかけて、エイン・ゲディは猛吹雪に襲われた。アルブラートが小屋の外に出ると、雪は腰の辺りまで降り積っていた。小さな体を擦り切れた毛布でくるみ、かじかんだ手で、雪をすくっては懸命にほおばった。しばらくすると、雪は口の中で解ける。それと、小屋に残された僅かな乾パンをかじると、その日の食事は終わりなのだった。
1月に入ると、バシールはほとんど何も話さなくなった。荒い息遣いで、薄汚れた寝床の中で、凍ったように動かない。マルカートは、彼女の小さな息子のことなど忘れたように、病人のそばに座り込み、彼の冷たい手足をさすっていた。
珍しく晴れた日、小屋に降り積った雪が徐々に解け始めた。その雪は小屋の中―洞窟の中を水浸しにした。病人の枕元に置いた楽器のそばに、まだ真っ白い雪が残っていた。アルブラートは、母親にパンをねだりにそばに寄った。小屋の外は、まだまだ一面の雪の荒野だった。
マルカートは、ショールを頭からかぶり、唇をきゅっと噛み締めて、バシールを見つめていた。バシールはびくとも動かなかった。ただ、青白い顔で、目を閉じているだけだった。
「お母ちゃま。寒いよ、ねえ」
「........」
「ねえ、もっとぎゅうって抱きしめて」
母親は、幼子をぐっと抱きしめたが、力が抜けそうに感じた。
「ねえ、お父ちゃまは?眠っているの?」
「......ええ」
「死んでいるの?」
「......そうね」
「お墓に埋めてあげないの?」
「......そうね......」
アルブラートは、父の枕元のウードとカーヌーンを、ずるずると小屋の外に引っ張り出した。解けた雪で濡れた部分を、自分の引っ被った毛布で丁寧にぬぐい、磨いた。まるで、そうるすることで、父が生き返るかのように。
彼は、雪の中に座り込み、凍える手でカーヌーンの弦を静かにかき鳴らした。音は、煌きながら、朝日に輝く雪原を渡り、凍った死海の上に響き渡り、遠くへ、遠くへと流れて行った。アルブラートは、その音が亡くなった父のいる所へと伝わっていくような気がした。
小屋の中に入ると、母が、涙も流さずに、じっと父の青ざめた顔を見つめていた。マルカートは、無意識にやっているかのように、父の体に雪をふりかけていた。バシールの体は、ほとんど顔を残すまでになるほど、雪に覆われた。
尚も、母が、雪で死者の顔を覆うようにしているのを見て、アルブラートは慌てて、母のそばに駆け寄った。
「お父ちゃま......!」
この時、初めて父を亡くした子の目に涙が浮かんだ。こらえていた嗚咽がもう止まらなかった。アルブラートは、バシールの顔にすがって声を上げて
泣いた。父はまだ若く、その静かな表情は、神のように厳かだった。
マルカートは、どこかから、細い木の枝を拾ってきて、雪で固めた墓の上に、そっと、その枝をさした。墓標は、夜になると、風のあおりを受けて、静かにゆらゆらと揺れた。
―アルブラートは、そののち、28歳になった頃、4歳の時以来、初めて、家族3人で暮らしたエイン・ゲディを訪れた。第3次中東戦争が終わった後で、付近は荒れ果てていた。もちろん、小屋の跡も、父の墓も見つけることはできなかった。
「もう行きましょうや」
ヨルダンから彼を案内してきたトラックの運転手が言った。アルブラートは、小屋のあった辺りにしゃがみこんで、東方に光る死海を黙って見つめていた。塩の香りが、海辺から漂ってきた。
「危ないですよ。ここいらはイスラエルの占領地だ。この頃はわしらだって容赦しませんぜ。ましてや旦那は―」
「分かってるよ」
アルブラートは、立ち上がって運転手を振り向いた。
「すみませんね。ここら辺は、わしらも命がけなんで...」
「謝るのは、こっちだよ。もう戻ろう」
ふたりを乗せたトラックはスピードを上げて、走り出した。アルブラートは助手席から、どんどん遠ざかっていくエイン・ゲディを振り返った。彼は二度と、この地を踏むことはなかった―
バシールの死後、3日ほどで、ベツレヘムのアパートから持ち出した食糧も、底をつこうとしていた。マルカートは、5歳になったばかりのアルブラートと乾パンを分け合った後、ボロボロになった毛布に二人でくるまって、小屋の外にうずくまっていた。
小屋も、泥で造ったものだったために、雪と共に凍りつき、やがて、ぺしゃんこに解けて、つぶれてしまった。彼女は、これからどうしたらいいのか全く分からなかった。時々、トラックやジープが彼らの前を通り過ぎた。
そんな時、マルカートは誰かが自分の手を握っているのに気がついた。寒さと空腹で、うとうとと眠りかけていたのだった。驚いて、その手を払いのけ、相手を見ると、30代ほどの看護婦らしい女性が、やはり驚いたように、彼女を見つめているのだった。
「いったい―いつからここにいらっしゃるの?」
相手は流暢なアラビア語だったが、マルカートは何も答えなかった。
「私たちといらっしゃい。このままだと死んでしまうわ」
「どこへ......?」
「クムランにある難民キャンプよ」
難民キャンプと聞いて、マルカートは恐ろしくなった。以前、ベツレヘムのアパートを出る前、バシールが言っていたのを思い出したからだった。
「ベツレヘムはいずれ、イスラエルの手に墜ちるだろう。そうなる前に僕らは逃げなけりゃならない。逃げた場所がいつまでも安全ならいいんだが―そこも、もし暮らせなくなったら、難民キャンプに身を寄せるしかなくなるだろうね......でもキャンプの生活は、危険と隣り合わせだ。イスラエル軍がいつキャンプを攻撃するか、予測がつかない......」
マルカートは看護婦を押しのけるようにして、弱々しく呟いた。
「いいえ......キャンプはいや」
看護婦はその言葉に驚いて、彼女をまじまじと見つめた。まだ若く、美しいマルカートだった。やつれているが、つややかな肌をし、華やかな黒い瞳が大輪の花のように見える。そばには、まだ小さな男の子もいる。
「まあ、何も心配することないわ。ご安心なさい。キャンプは国際赤十字の援助で造られたばかりのものなのよ......そりゃ、衛生状態は......いいとは、決して言えないけれど、あなたがこの可愛い坊やとここに座り込んでいるより、ずっと助かることも多いわ。同じパレスチナ人同士、助け合って、これからは暮らさないといけないのよ......キャンプがこれからは、あなたたちの街よ。さあ、ジープに乗って―」
ところが、マルカートは車に乗るために歩くだけの力もなかった。
アルブラートも、同様だった。彼らは、看護婦とジープの運転手の助けを借りて、ようやく、車に乗せられた。ジープの後部座席は、暖かかった。
看護婦は、若い母親とその子供に、温かなミルクを飲ませて、自分の膝に横にならせた。ふたりとも、完全な栄養失調だった。クムランまでは、2時間ほどの道程だった。親子は抱き合うようにして、看護婦の膝で眠った。
ただ、アルブラートは、この時、母親と同じほど大切に、父の形見の楽器をそばに置いてもらっていたのを、幼い頃の最後の記憶として、ずっと覚えていた。
―第3章― アシュザフィーラ難民キャンプ: 1950年夏
「みんな、黒板をごらん」
タウフィークの声で、アルブラートはハッと我に返った。木造の小さな教室の外には、耕された畑が広がっていた。あちらこちらに植えられたオリーブの木々に、もう淡緑がかった白い花が咲いている。ほんのりとした芳しい香りに、アルブラートはうっとりとなっていた。
「これが英語のアルファベットだ。ムラート。発音してごらん」
アルブラートは、おずおずと立ち上がって、黒板を見た。見慣れない文字がいくつか並んでいる。去年、アラビア文字の基本を習った。最初は、母国語に新鮮さを感じ、熱心に習い覚えた。けれども今度は英語。外国語は苦手に感じていた。
「どうした?話を聞いていなかったんだね」
「ごめんなさい」
「じゃあ、これだけもう一度。A,B,C,D,E だけ発音してごらん」
アルブラートは、時々つっかえながら、先生の真似をしてみた。自分でもうまく発音できたとは思えなかった。教室に集まった10人ほどの子供たちがクスクス笑ったり、ひそひそささやき合った。
タウフィークは、子供たちの石版に、今のアルファベットの5つの文字を書かせた。ペンもインクもないので、石を研いだものを鉛筆代わりにしていた。黒板は、タウフィークが自分で作った。学校を建てる際、ベニヤ板を一枚譲ってもらい、それに黒くペンキを塗った。チョークもない。子供たちと同様、石を削ったもので、黒板に文字を書くのだった。
アルブラートが難民キャンプで暮らすようになって、もう3年ほど経った。キャンプには最初、学校も病院もなかった。皆、テントを張って暮らしていたが、国連の援助で、そうした施設を造る準備が進められた。
タウフィークという青年は、ラムラの街で教員養成学校に通っていたが、イスラエル軍の迫害が激しくなったために、幼い娘を連れて、このキャンプに逃れてきた。キャンプの子供たちが、ほとんど教育を受けられずに大きくなっていくのを心配した彼は、「学校を造る」決心をした。
難民の大人たちは、最初は、食糧の確保や、荒地を農地に変えることに没頭していたし、子供たちも、多くは栄養失調で、学校どころではなかった。アルブラートはもう8歳だった。学校や、病院といった施設ができても、建物らしいものではなかった。
キャンプでは、同い年ほどの友だちが何人かできた。それでも、寒い去年の冬を越すことができずに、6歳か7歳で亡くなる子供が後を絶たなかった。衛生状態も悪く、伝染病が流行り、体力の無い者は、次々と倒れた。
国連や赤十字団が、医療器具を病院に運んできた。アルブラートも、母親のマルカートも、昨年の冬は高熱で倒れたため、1ヶ月ほど、病院で点滴を受けた。母親はまだ入院中だった。キャンプに着いたばかりの頃、彼らは、2年余りに渡るエイン・ゲディでのひどい暮らしのために、何の免疫力もついていなかった。
「ムラート。ちょっとおいで」
朝の授業が終わると、タウフィークは少年をそばに呼んだ。教室に椅子はないので、ふたりとも、木の床に座り込んだ。
アルブラートは、この頃、手足がすらりと伸びてきた。顔立ちが、母親によく似てきて、男の子だが、華やかな雰囲気だった。キャンプの同じ年頃の子供たちの中では、一番背が高いほうだった。
「何?先生」
「ああ...前から感じていたんだが...勉強が嫌いなのかい?」
「えっ?勉強って...」
「英語のことだよ」
少年は、困ったようにうつむいた。
「英語って...英語って、覚えなくてもいいんだろ?」
「何でそう思うんだい?」
「だってさ...別にアメリカ人と話するわけじゃないもの」
「今はね。でも、大きくなったら、きっと必要になるよ」
「ふうん」
アルブラートは、小さな顔をちょっと赤らめて、青年を見上げた。
「あのね、先生。俺...本当は勉強って、好きじゃないよ」
「ああ。構わないよ。そのうち、好きになるかも知れないからね」
この若い教師の教え方は、いつもこうだった。強制的ではないし、子供の興味が自然に湧くのを待つ。だから、子供たちは安心して、タウフィークに何でも打ち明けることができた。
「ごめんなさい、先生...だって、勉強って、去年が初めてなんだもの。
去年は、面白かったよ。でも英語まで...頭に入りきらないや」
「いや、そうじゃなくって、お前は勉強より、ウードやカーヌーンを弾いているほうが好きなんだろ。よくわかっているよ」
「うん。そうなんだ。でもね、先生。ちょっと来て」
教室を出ると、アルブラートは小高い丘の上を目指して走り出した。そこには、キャンプで亡くなった人々の墓地があった。タウフィークがようやく少年に追いつくと、アルブラートは墓地の一番北側にいた。
「こっち。ほら、ほら、先生、見て」
そこには、アルブラートの友人の墓があった。ふたりとも、去年、一緒に入院していたのだが、アルブラートだけが助かったのだった。
「俺、字はもう読んだり、書いたりできるよ......ほら、これがタリク。『タリク・アル・ジャミール』―こっちは、アリのだよ。
『アリ・エル・アザズ』―ほらね、もう読めるんだ。地面に何回も書いて、練習もしたよ。だから、もう書けるしね」
こんな幼い子が、死んだ友達を慕って、毎日墓地に出かけ、その墓標に刻まれた文字を見て、読み書きを練習するとは......
教科書も読本もない―学校とは名ばかりのものに過ぎない。
タウフィークはそれも仕方のないことと思った。文字の基本を教えただけで、後は子供たちは、自らの方法で、母国語の読み書きを身につけていくしかない。
「その......他の人の名前も、お手本にしたのかい?」
「うん。だから、一応、名前だけは、読み書きできるよ」
「じゃ、ムラート。勉強が嫌いなわけじゃ、ないんだね」
「わかんないや。嫌いかもしれないし、好きかも知れないし」
二人は、並んで丘を降りた。少年は、裸足で歩いていた。物心ついた頃から、靴を履いた覚えがなかった。寒い冬は、素足のままは、恐ろしく辛かった。でも、今は初夏―6月に入ったばかりだ。裸足で歩くのは、すがすがしく気持ちが良かった。
どこからともなく、オリーブの花の香りを乗せて、芳しい風が吹き渡ってきた。アルブラートは背伸びをし、両腕を大きく広げて、その風を胸いっぱいに吸い込んだ。
...砂漠の風だな...ユダ砂漠の風...
「先生。今夜も、先生のうちに行っていい?」
「もちろんだよ。あまり暗くならないうちにおいで」
「楽器は、いつものところにある?」
「ああ、テントの隅にね。アイシャが磨いているよ」
「ほんと?良かった! 弦にほこりがたまると、いい音が出ないんだ」
タウフィークは少年の肩に手を置いた。
「今夜も、あの娘に何か弾いて聞かせてやっておくれ」
もう午後の1時を過ぎる頃だった。アルブラートは、キャンプの入り口にやって来るトラックの方へと走っていった。
今年の春から、救援物資が手に入りやすくなった。昼過ぎのトラックは、いつも一番乗りをしなければならない。少年は、リュックに、牛乳やパン、オレンジやチーズを詰め込んでもらった。それから、ビニール袋にスープの粉を分けてもらうと、後ろを振り向いた。もう、キャンプ中の人々の長蛇の列が出来ている。
彼は、人にぶつからないように、トラックから離れると、キャンプの中央にある病院へと向かった。病院は、建てる際に、資材が不足したため、一部が泥で固めてある。マルカートは、運よく、木材であつらえた病棟に入ることができた。こちらの方が、空気もよく、病人には気持ちよく過ごせるからだった。
病院の入り口には、赤十字の看護婦たちが、いつも熱い湯を沸かしていた。アルブラートは、そこでブリキのお椀を受け取り、スープの粉を入れると、お湯を注いでもらうのだった。それから、そっと、スープをこぼさないように、母のベッドまで運んでいく。
白い、おおぶりなカーテンは、ほんの少し開いていた。マルカートは、眠っていた。ここ数日で、熱も下がり、体調も落ち着いていた。アルブラートは、スープを、ベッド脇のテーブルにそっと置いた。
母は、ふと目を覚まして、息子を見やった。
青白かった彼女の頬には、ほんのり赤みがさし、強く波打つ長い黒髪が、つやつやと輝きながら、背中まで伸びていた。
「ムラート。いらっしゃい。待ってたのよ」
母がそう言うと、まだ幼い少年は、たまらなくなったように、彼女に抱きついた。この温かな抱擁が欲しくてたまらない。幸福感が、アルブラートを包み込んだ。
「母さん、スープ持って来たよ」
「お前がお飲みなさい」
「これ、母さんのだよ」
「いいえ、お前も一日に一度は、温かいものを飲んだ方がいいのよ」
そう言われても、アルブラートは全部飲む気になれなかった。ほんの少しだけ、スープをすすると、またテーブルに戻した。
「ねえ......母さん」「なあに」
「あのさ......ここに来て、良かったじゃない?」
マルカートは、少し黙っていたが、ためらうように答えた。「ええ―そうね」
「なんで、父さん......あんなこと言ってたんだろ」
「あんなことって...?」
「キャンプは危ないって。だから、母さん、怖がってたよね」
「そうだったわね......お前、小さかったのに覚えてるのね」
「すごく覚えてるよ。父さんも一緒にここに来てたら良かった。そしたら父さん、あんな寒い所で死ななかったかも知れないね」
まだ幼い息子から、こういうことを言われるのは、マルカートにはとても辛いことだった。それでも、彼女の心の中には、キャンプに対する不安が依然としてくすぶっていた。
親子がキャンプに辿りついた翌年の1948年の春だった。エルサレム西部の小村デイル・ヤシーンが、イスラエル人のテロ組織の襲撃を受けた。あっという間に、200人以上の女性や子供を含むアラブ人が虐殺された。
イスラエルが建国宣言を行ったのは、デイル・ヤシーン事件からほぼ1ヵ月後の5月だった。この短期間に、イスラエル軍が次々とアラブ人に無差別攻撃を行った。恐怖に駆られた人々は、故郷を逃れ、たちまち難民が、何万と膨れ上がったのである。
大人たちの間には、密かな噂がささやかれ始めた―「戦争が始まるぞ」―と。エジプトを始めとするアラブ諸国は、イスラエル建国を認めなかった。
「彼らは、我々の聖都エルサレムを奪ったのだ。奪略者を許すことはできない。彼らのやったことは、暴力による侵略行為だ。この卑劣な行為には、断固として戦いを辞さない」
今にも戦争が始まる気配を、この噂で、マルカートは敏感に悟った。
そうして、事実、デイル・ヤシーンを合図とするかのように、戦火の火蓋が切って落とされた。戦いの炎は燃え盛り、1年間激しい戦闘が続いた。その結果、勝利を手にしたのは、イスラエル側だった。
ここのアシュザフィーラ難民キャンプは、難を逃れ得た。しかし、それもたまたま運が良かっただけかもしれない。マルカートは、今回の戦乱を、息子には決して語らなかった。幼い子供には、戦争の話など、おびえさせるだけ―
でもまた戦争が始まったなら―それは、ただの戦争に留まらない。戦争が押し潰すのは、真っ先に、弱き者、小さな者、貧しい者なのだ。戦争の波は、真っ先に、この難民キャンプを襲うだろう。そうなったらどうなる―
不安を隠せない彼女は、それでも、幼い息子の言葉にも気持ちが乱れそうになった。アルブラートは、母の不安げな表情にハッとしたが、リュックに担いできた荷物のことで、今度はそちらに夢中になった。
「ほら見て。オレンジとか牛乳あるよ。パンももらってきた」
「一緒に食べるわ、お前と」
マルカートは、オレンジを持った手が震えていた。少年は驚いた。
「母さん...手が震えているよ......!」
「何でもないの。ただね...お前の言った通りだったと思うのよ...
なんでもっと、早く...早く、父さんとここに来なかったのかしらって...
私はどうして、もっと父さんにお願いしなかったのかしらって......でも、こんなこと言っても、もう遅いわね.....母さんは、馬鹿だったわ」
「母さん...ごめん」
「いいえ、お前が悪いんじゃないのよ―しかたのなかったことかも
しれないわね......それでも、どんな時でも親子3人でいたかったものね」
アルブラートは、父のことを言って、幼心に、悪いことをしたと思った。
涙が子の頬を伝うのを、マルカートは指で拭ってやると、その小さな体をぎゅっと抱きしめて、額に接吻した。
「泣かないでね...それより、今夜は病院に一緒にいたいわね」
「うん。でも今は、先生のとこで寝てるから...」
「ああ、そうだったわね。楽器は先生に預けていたのね」
「アイシャが磨いてくれているって」
マルカートは、アイシャの美しい、伸び伸びとした歌声が頭に浮かんだ。
「そうなの...あの子に、聴かせてやっているみたいね」
「そうだよ。母さんも、聞こえるの?」
「そりゃ、よく聞こえるわよ。上手くなったわね。いつも嬉しいわ」
音楽の話になると、アルブラートは生き生きとしてきた。
「アイシャがね、すごくよく分かってくれるんだよ。
ここの音階がいいとか、このメロディーはこうしたらいいとか...」
「まだ4つなのに?」
「うん...目が見えないけれど、その分、音楽がよくわかるんだ」
―第4章― 盲目の少女アイシャ: 1954年
アルブラートの脳裏には、いつも鮮明なアイシャの姿が刻み込まれている。幼なじみの少女。彼と共にキャンプで育った少女。彼の音楽を誰よりも理解し、愛してくれた少女。
のちにキャンプがイスラエル軍に襲撃された際、長い間行方不明と
なっていたアイシャ。成長して、再会し、そして彼の妻となった
アイシャ。
最愛の息子を産んだアイシャ。そして息子のアリ。
いつも記憶はここで途切れる。彼女はどこに行ったのか。可愛い大事な息子アリは、どこに―
彼らは、今でも夢の中に現れる。話しかけてくることもある。しかしそれは一瞬のことだ。彼らは夢の闇の中に回転しながら消えていく―
初めてアルブラートがアイシャに出会った時、彼女はまだ2歳だった。若草色に白いオリーブの花模様のワンピースを着て、父親に手を引かれていた。
人見知りをするアルブラートが、テントの入り口の垂れ幕から、好奇心に惹かれて、キャンプに来たばかりのふたりをそっと覗き込んでいると、タウフィークが声をかけてくれた。
「入っておいで」
それでも、アルブラートは照れて、入り口に立っていた。まだ街から来たばかりの人たち。青年のそばには、お人形のように愛らしい女の子が、黙ってぬいぐるみを抱いて座っている。
「おいで。友だちになろう」
タウフィークは立ち上がると、アルブラートに近寄り、握手をしてくれた。大きな手、優しい手だった。少年は青年に、父の面影を感じた。
父さんの手も、こんなだったっけ......
「坊や、名前は何て言うの?」
「アルブラート」
少年が、ウードを持っているのを見ると、タウフィークは興味を示した。
「坊や、弾けるの?」
「うん」
「すごいな。何か弾いて見せて」
アルブラートは、この頃作って、練習している曲を弾いた。死海から吹く風をイメージして作曲したものだった。寂しげだが、美しいメロディーだった。指さばきも、特に習ったわけではないのに、しっかりとして、見事なものだった。
タウフィークは拍手して、微笑んだ。傍らの娘も父親の真似をして、小さな手をパチパチと叩いた。
「すばらしいね。街でよく楽師の人たちが、モスクや教会の前で演奏していたけれど、まったく変わらないよ。立派な腕前じゃないか...!
すごいもんだね。誰かに教わったの?」
アルブラートは黙って首をふった。「父さんがよく弾いたよ」
「ああ、じゃあ父さんから習ったんだね」
「習ってないよ」
タウフィークは、小さな男の子のそばにしゃがみこんで、頭を撫ぜた。
「じゃあ、お父さんが弾くのを見て、覚えたんだね」
「うん。でも死んじゃった」
「そうか......この子もね、母さんが死んでしまったんだよ」
「ふうん...何て名前?」
「アイシャというんだ」
「アイシャ......おじさん、何て名前?」
「僕はタウフィーク」
「タウフィーク?」
「タウフィーク・エル・カマーム」
アイシャと呼ばれた少女は、何か不安げにしていた。その様子に気がついた父親は、彼女の側によって、抱き上げ、少年のそばに連れて来た。
「だあれ...だれかそこにいるの?」
「アイシャ。今きれいな音楽が聞こえただろう?」
アイシャは、少年の方を、大きな愛くるしい瞳をぱっちり開けたまま、
じっと見つめていた。そして、暗闇の中をまさぐるように、左手を伸ばし、アルブラートに触ろうとした。タウフィークはその小さな、柔らかな手をそっと握って、少年の手に触れさせた。
「だあれ?」
「男の子だよ。アルブラートっていう」
今度は、アイシャは、アルブラートの頬や髪に、手の平で無遠慮に触れた。その仕草にアルブラートはビクッとして、思わず後ずさりした。
「この子......目が見えないの?」
「ああ。生まれつきそうなんだ。だから、何でも手で確かめないと、不安がるんだよ」
「ふうん......でも、音楽は聞こえるんでしょ?」
「そうだよ。赤ん坊の時から音楽が好きでね。歌も歌うのが好きなんだ。まだ小さいけれど、きっといい友だちになれるよ」
実際、アイシャには歌の才能があった。4歳の頃から、急に美しい声で朗々と歌を歌い出し、周囲を驚かせた。よくアルブラートのウードやカーヌーンに合わせて、張りのある声で歌うのだった。その歌声は、天から響き渡り、はるか遠い砂漠にまでも届いていくかのようだった。
お金も宝石も私はいらない 宝物はいつも私の心
私は砂漠で生まれて砂漠で死んでいく
オアシスで倒れた白い駱駝のように......
アイシャは8歳になると、いつもこの歌を歌っていた。
この歌は、誰も聞いたことがなかった。けれども、どこかで聞いたことがあるような歌だった。この歌を聞くと、不思議な懐かしさに、皆心が安らぐのを感じた。何よりも、途切れることのない、豊かな声量の、伸び伸びとした美しいアイシャの歌声に、周りの人々は魅了された。
アイシャは、歌うために生まれてきたような娘だった。
歌う時は、目を閉じて、やや呼吸を整えたかと思うと、いきなり前触れもなく歌い出す。声の煌びやかな響きと、凛とした歌う姿は、神殿で歌う歌姫のように毅然としていた。背がすらりとして、8歳よりもやや年上に見えた。
つややかな黒髪を、この頃はマルカートに幾重にも細い三つ編みにしてもらい、背中に無造作に垂らしていた。古びた赤い花柄のワンピースを着ていることが多かったが、アイシャはどんなに貧しい装いでも、父親に似た白い肌と、はっきりした気品のある目鼻立ちで、まるで貴族の娘のようだった。
「いつもその歌を歌うね」
アルブラートが、タウフィークのテントで、弦を整えながら尋ねると、アイシャは、ちょっと首をかしげて考えていた。
「どこかで覚えた歌?」
「別に。何となく頭に浮かぶのよ」
アイシャは、そばにいるアルブラートの腕を、乱暴な男の子のように引き寄せて、彼の体にもたれかかった。12歳になっていた少年は、10歳ほどに見える少女の柔らかな香りに、ほんのりと体が温かくなるのを感じた。
「ねえ、飽きたんでしょ」
「いいや」
「嘘つき。飽きたに決まってる」
「いいや...いいよ。あの歌はいつ聞いてもいい」
アイシャは、はにかんだように微笑んだ。
「そう。じゃあまた歌うわ。でもいつかまた別の歌も歌うわ」
アルブラートは、いつもはすぐに楽器を弾かずに、まず彼女の歌をじっくりと聴いた。それから、自然に湧いてくるイメージを、一気にカーヌーンで弾きあげた。彼の頭には、一度弾くと、その曲は完成されたものとして、いつまでも残るのだった。
また、ウードで、同じ歌に、違ったメロディーをつけたりもした。キャンプの大人たちは、思いかけず、毎晩、素晴らしい音楽を聴ける喜びに、驚嘆しながらも、至福のひと時を味わうことができるのだった。
―第5章―遠い爆撃
1953年、反イスラエルのエジプトが共和国宣言をした。これに対し、イスラエルはアラブ側に大反撃を行った。ヨルダンのキビア村を、イスラエル軍部隊が襲撃して住民50人が殺害される事件が起こったのだった。ユダヤ人2人がアラブ人に殺害されたことへの報復であった。
アルブラートが10歳を迎えた1952年頃には、既にアラブ側へのイスラエル軍の攻撃が激しさを増しつつあった。いったん始まった憎悪の連鎖は途切れなく続く。アシュザフィーラの西方からも、東方からも、爆撃の音が聞こえるようになった。
ほとんど毎晩のように、焼夷弾が炸裂した。すさまじい爆撃音と共に、西の空がぱっと赤く染まり、それが長時間続く。ほんの数分経つと、再び空全体が燃えるように明るくなる。
1952年頃から、アシュザフィーラ難民キャンプは、あちらこちらに防空壕を造り出した。夜になると、それまでのテントでの生活から、防空壕へと移るようになった。最初子供たちは、焼夷弾の爆撃音に震え上がっていたが、毎晩となると、もう慣れてしまった。
焼夷弾の攻撃がほんの数分途切れる時がある。そんな時は、アルブラートはアイシャの手を引いて、防空壕から地上に出て、西方を眺めやった。再び爆撃音が響くと、西の空が昼間のように明るくなる。少年は、その光景を恐ろしいとは感じなくなってしまった。
「アイシャ。今ね、エルサレムの街で戦争が起きているんだよ」
「怖い......!」少女は、アルブラートにすがりついた。
「空が真っ赤になって、明るく見える。けっこうきれいだよ」
「いや......! ねえ、早く戻りたい」
アイシャは生まれてこのかた、光を感じた経験がない。それだけに爆撃の音や、このキャンプまで響いてくる地鳴りに敏感だった。
アイシャは6歳の時の、この恐ろしい記憶を忘れていなかった。それで、
アルブラートに時々、愚痴をこぼした。
「ねえ、もう焼夷弾の炸裂する夜には、私を外に連れ出さないで」
「わかった。ごめんよ」
「ムラート。空がきれいだなんて言っていたでしょ?」
「うん......うっかりしてたよ。アイシャは怖いだけだったんだね」
「そうよ」
それでも、普段はいつも一緒の二人だった。アイシャがもうすぐ9歳になる日の朝、タウフィークは娘に、パレスチナの伝統衣装を着せた。これは、彼がまだラムラにいる頃、娘が大きくなったら着せようと用意していたものだった。
色彩豊かな細かな刺繍をほどこしたドレスに、きらきら光る金貨が額を飾る白いヴェール。それは少年のようにはっきりした顔立ちのアイシャの美貌を、よりいっそう惹きたてていた。
美しい衣装を身につけた喜びからか、アイシャの心に自然と歌が泉のように湧き出でた。彼女はそっと目を閉じると、いきなり高らかに歌い出した。
おお神さま どこにおいでなのでしょう
私はここにいます 純白の天使になって
あなたのみもとにおつかえします
あなたのみもとに いつまでも いつまでも......
それは天の高みから響き渡る声だった。アイシャは2回続けて、この歌を歌った。素晴らしくよく伸びる声なので、シナイ砂漠やエジプトや地中海全体にまで届いていくように思われた。
彼女が歌っている時、雲間から太陽の光が眩しいほどに輝き始めた。彼女の声は、その光に包まれて、再び空に吸い込まれていき、また地上へと果てしなく広がっていくようだった。
哀愁を帯びると同時に、不思議と心が高揚するようなメロディーだった。
アルブラートは、何かに打たれたように、彼女の姿に見入っていた。
彼女の歌を聴き終わると、少年は、いつも手放さないウードの弦の調子を整えて、歌のイメージを曲に託した。アルブラートは夕方になると、今度はカーヌーンで演奏した。どちらもアイシャの歌声によく溶け込むような曲だった。
アルブラートが演奏すると、再びアイシャが美しい声で歌った。
おお神さま どこにおいでなのでしょう
私はここにいます 純白の天使になって......
だがこの音楽の華やかな宴も、暗闇と共に中止された。最近、イスラエル軍のアラブ人の集落への急襲が激しくなるのに恐れをなした人々は、密かに闇に紛れて、他の地へと移転し始めた。彼らは北方のアジュルーン近郊の渓谷にあるアルジュブラ難民キャンプへと向かった。1954年の夏の終わりだった。
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