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砂漠の果て(第3部「虜囚」)
第三部「虜囚」
―第11章―アルジュブラの占領:1957年夏
タウフィークの死後、アイシャはアルブラートのテントで暮らすようになった。だが歌うことはもうなかった。時折、父親の渡してくれた点字教科書を取り出しては、黙って読むのだった。夜、狭いテントの中で、アルブラートは彼女の隣に寝ていた。
彼はよく夢を見た。それはタウフィークが出てくる夢だった。9年前に初めて出会った時のタウフィークが、今の自分を微笑みながら見つめている姿だった。アルブラートはウードを弾いていた。
ああ......先生が見てくれている......先生良かった......元気になったんだね......
だがいつも演奏の最中、タウフィークはひどく心配そうな顔になって、立ち上がり、どこかに行ってしまう。アルブラートが演奏を止めて、ドアを開ける。それはどこかの街の古びた教会のドアだった。彼はタウフィークを夢中で探して、街の中を走り続ける。街の外れに絨毯屋がある。その店の前にタウフィークは倒れているのだった。
彼が声をかけようとすると、タウフィークの姿は青い氷に包まれて、ゆっくりと宙に浮かんで行く。かと思うと、その姿は急に粉々に砕け散り、何か写真のような物が舞い降りてくる。よく見ると、それは遥か昔に亡くなった父バシールの写真だった。
父さん......! 父さんじゃないか......!でも先生はどこ......?先生......父さん......!
いつも夢はここで終わる。ハッとして起き上がると、彼は汗をかいて、心臓が激しく打っていた。
夢だったのか......そうだ、先生はもういないんだ......
そう思うと、タウフィークの葬儀の時が自然に思い出されて、涙がにじんで来た。
ふと傍らのアイシャを見ると、暗がりのなかで、彼女は起きている。手元の懐中電灯をつけると、アイシャは体を起こして、点字教科書を読んでいるのだった。「アイシャ......」アルブラートが声をかけても、こちらも振り向かずに、本の上に項垂れたように、指を走らせていた。
そのうち、押し殺したようにすすり泣き始めては、本を閉じてしまう。アイシャが枕元に教科書をそっとおいて、毛布の中に潜り込んでしまっても、まだ体を震わせて泣き続けているのを、アルブラートは毎晩のように見ていた。
懐中電灯をつけていると、時折反対側に寝ているマルカートが目を覚まして、小さな声で注意した。
「灯りを消しなさい、ムラート」
「......アイシャがまた泣いているんだ......」
「......だめよ!テントの薄明かりが見つかったらどうするの?」
そう言われて、少年は慌ててスイッチを消した。まだ真夜中だったが、どこにまたイスラエル兵が潜んでいるのか分からない。アルブラートは、このアルジュブラ難民キャンプがもう完全に狙われていることは分かっていた。実際、タウフィークの死後、2週間もしないうちに、外で遊ぶ10歳の少女二人と、それを見守っていた夫婦がいきなり銃撃されて殺された。
あれは夜明けではなく、もう昼間近だった。アルブラートのテントは、渓谷の奥まった岩場の影にあったが、その事件はキャンプの真ん中で起きた。周囲は切り立った山中であるために、イスラエル兵は自由にどこからでも難民を狙うことができる。
それ以来、アルブラートは母親とアイシャと共に、昼間でも外に出られなくなってしまった。もはや楽器を弾くどころではなかった。常に、息を潜めたように暮らすしかなかった。
マルカートは、万が一イスラエル兵に襲われた時のために、あらかじめ拾い集めていた石片を懸命に研いで、小型ナイフを3本用意した。それを息子に見せて言い聞かせた。
「これをいつもズボンのポケットに入れておくのよ―母さんとアイシャはスカートのポケットに入れておくわ。いいわね......何かあったらこれを使うのよ......本当に命を狙われそうになった時のために」
アルブラートが15歳と半年になった、1957年の7月のことだった。アイシャは6月18日に12歳を迎えていた。楽器を弾かず、歌も歌わなくなった二人の慰めは、タウフィークの遺した教科書を読むことだけだった。アルブラートは退屈すると、自分で考えた詩を、テントの中に転がっていた石片で、壁に刻み込んで書いたりしていた。
アイシャはある日、その物音に気づいて、ひそひそ声で彼に尋ねた。
「ムラート...何書いているの」
「うん...ちょっとね―英語の詩を書いてるんだ」
「いいわね...何て書いたの?読んで聞かせて」
アルブラートは少し恥ずかしそうに黙っていたが、書き上げた自分の詩をささやくような小さな声で読んだ。
もしも私に翼があったなら
大空を自由に飛んで行きたい
どこか知らない遠くの国へ
行ったこともない遥か彼方へ
見たこともない街や港へ
もしも私に翼があったなら
大海原をゆうゆうと飛んでみたい
太陽の金の輝きを受けて
大きく帆をはらみ
どこまでも進む船を眺めてみたい
おお神よ
この私の願いをどうかかなえて下さい
この囚われ人の私をどうかご覧下さい
この私の望みをどうかお聞き下さい......
アイシャは少し分からない所があったので、アルブラートは今度はアラビア語で再び読んで聞かせた。アイシャは静かに聞き入っていた。
「つまらない詩だろ?」
アイシャは首を振った。
「とても素敵だったわ。ムラートはそういうの作るの上手ね......まるで音楽みたいな詩ね」
「そうかな。思いつくままに書いただけなんだ」
「きっとムラートのお願いはかなうと思うわ」
「俺の願い―?ああ......これか......そうだね。本当に自由になれたらいいなって思って書いたから......」
マルカートは子供たちの様子を、テントの入り口で見守っていた。二人ともすっかり痩せて、着たきりの服が擦り切れていた。
ムラートはアイシャを愛しているんだわ......アイシャもきっと......でもこのまま自由になれる日が来るのかしら......この子たちの将来はどうなるのかしら......
もう夕方近かった。いつもは昼過ぎに、密かに僅かな食糧を届けに来る赤十字の看護婦が、今日は来る気配がなかった。マルカートも子供たちも、救援物資が滞って以来、空腹にはもう慣れてしまった。1日1回、スープか果物などを分け合って食べるような日々が続いていた。
サリーは今日はどうしたのかしら......
そう思って彼女はテントの天幕をそっと開けて、外の様子を伺おうとした。その途端、激しい轟音と共に、爆撃音がキャンプの入り口から響き渡った。人々の悲鳴と泣き声に混ざって、銃撃音が途切れることなく始まった。
アイシャはアルブラートにしがみついた。アルブラートは恐怖で凍りついたようになった。マルカートは子供たちのそばに駆け寄って、毛布で二人を覆い隠し、自分も毛布を頭から引っ被った。
銃撃はほんの数分間だったが、彼らには永遠に終わることがないように思われた。嘘のように辺りが静かになったが、その次に彼らが聞いたのは、イスラエル軍の兵士の怒鳴り声だった。
「テントの中にいる者は皆ここに来い!出て来ないと銃殺するぞ!我々イスラエル軍はこのキャンプを占領したのだ!」
アルブラートは頭の中が真っ白になったように感じた。
何だって......占領......?銃殺......?
「怖い......ムラート......助けて―マルカート......怖い!」
「......大丈夫よ。銃殺なんて―脅かしよ......行きましょう」
マルカートは震える息子の手を引いて立ち上がらせたが、アイシャがアルブラートにしがみついたままなので、アルブラートは、またその場にへたりこんでしまった。母親は、息子の肩を抱きしめて、励ました。
「行くのよ......勇気を出して―でも何があっても声を上げてはだめよ」
アルブラートは目をつぶり、肩で息をしていたが、再び母の方を黙って見つめた。彼の、救われないような、恐怖に満ちた大きな瞳を見て、マルカートはたまらなくなり、もう一度息子を強く抱きしめた。この時がまさか母との最後の抱擁になるとは、アルブラートは思ってもいなかった。
「......母さん......」
「さあ行かなければだめ......アイシャの手をしっかり握っているのよ」
アルブラートは、アイシャの手を握り締めて、ようやく二人ともふらつきながら立ち上がった。
3人が恐る恐るテントから出ると、すぐそばに兵士が銃口を向けて立っていた。マルカートは、思わず悲鳴を上げそうになったアルブラートの口を慌ててふさいだ。どうやら80世帯もの難民が暮らすテントの一つ一つに、兵士が一人ずつ銃を構えて、逃げ出そうとする者を撃とうと待ち構えているらしかった。
3人は、その兵士に銃を突きつけられながら、キャンプの入り口に向かった。もうそこには、彼らと同じように、無数の銃口に取り囲まれたキャンプの人々が200人ほど身を寄せ合っていた。皆、石のようにじっと無言で、固まったように動かなかった。
キャンプの入り口になっていた神殿跡は、爆弾の炸裂で跡形も無くなっていた。さっきの轟音はこの音だった。アイシャがこの春までタウフィークと暮らしていた場所も、すっかり瓦礫の山になっていた。そのそばに、後ろ手に縛られて、口も黒い布で塞がれた3人の人が銃口を向けられて立っていた。
アルブラートは我が目を疑った。信じられなかった。
あれは......あの人たちは......赤十字の人たちじゃないか......!ああ......!ドクター......サリー......アンヌ......!
占領軍の司令官らしい男が大声で言い渡した。
「これからこの者たちを処刑する!お前たち難民ゲリラを支援した罪だ!我々に逆らう者は皆こうなるのだ―よく見ておくがいい!」
その言葉を合図に、兵士たちが一斉に捕らわれた3人に向かって射撃を開始した。彼らは声も無く、まるで人形のように次々と地面に倒れた。鮮血が飛び散り、たちまち遺体の倒れている地面は血の海となった。
それを見ても、キャンプの人々は一言も声を発さなかった。何か悲鳴を上げたりすれば、すぐに銃殺されることが分かっていたからだった。しかしまだ15歳のアルブラートにとって、目の前で人が殺されるのを見るのは激しい衝撃だった。
彼は頭の中で何かが炸裂したような感じがした。自分の体がぐらりと揺れていくのを覚えた―目の前が真っ暗で何も見えなくなった。
マルカートは自分の肩に息子が急に寄りかかってきたのに気がついた。少年の肩を慌てて掴むと、アルブラートは目を閉じたまま、がくんと頭を後ろに垂れた。あまりの光景に、アルブラートは気を失ってしまったのだった。
―第12章―別離
アルブラートは、パリに住むようになって18年ほど経った頃、あまりに演奏活動に打ち込み過ぎて、一時、体を悪くしたことがあった。30代の終わり頃だった。彼は、ソルボンヌ大学の近くのアパルトマンにたった独りで住んでいた。病気になったことは、カイロの医師には知らせなかった。
病院から帰ると、広い居間の隅にあるベッドに疲れて横たわった。最近、喫茶店である男から声をかけられて以来、気分もすぐれなかった。その男は背が高く、パレスチナ風の服を身につけていた。アルブラートがコーヒーを飲んでいると、いきなり男は近づいてきて、彼の向かいにどかっと腰を下ろした。
「奇遇だね―こんな遠い所で同胞に出会うとは!」
それは、アルブラートが久しく耳にしていなかった、パレスチナ方言のアラビア語だった。アルブラートは、パリに住んで以来、フランス語と英語以外使おうとしなかった。新聞でも、テレビでも、アラビア語を見たり聞いたりするのを避けていた。
アルブラートが黙っていると、相手は笑って、握手を求めてきた。彼は知らないふりをして、席をいきなり立った。その勢いで、コーヒーカップが床に落ちて割れた。
店を急いで立ち去ろうとするアルブラートを、その男は慌てて引き止めた。
「待ってくれ!あんたもパレスチナ人だろう?」
アルブラートはその言葉にまたギクッとした。相手を無言で見つめていたが、彼はとうとう返事をした。「そうだ―それが何だ?」
「あんたはなぜそうフランス人のふりをするんだね?雰囲気ですぐに分かっちまうぜ。やっぱりパレスチナ人じゃないか!言葉で分かる!」
「俺に何の用がある?」
「俺はファイーズと言うんだ。今仲間を集めているんだ」
「仲間?」
「パレスチナ解放機構の仲間だ。なあ、一緒にイスラエルを倒さないか?イスラエルが憎いだろう?......顔にそう書いてあるよ。俺だって親兄弟、みーんな奴らに殺されたんだ......あんたもそうだろう?」
腕を握り締めてきたファイーズの手を、アルブラートは力ずくで振りほどくと、大きな声で叫んだ。
「俺はパレスチナ人なんかじゃない!イスラエルだのパレスチナだの、何も関係ないんだ!」
それ以来、ファイーズという男には出会わなかったが、彼にとっては悪夢が再び繰り返されたかと思うほど、忌まわしい出来事だった。
パレスチナ人だなんて......ああ!なぜ俺はパレスチナ人なんだ......生まれ変わりたい......!アラビア語も、何もかも忘れてしまいたい......!
「過労ですよ。あまりにも仕事に熱中されるんでしょう。あなたのことは私も存じておりますよ。あなたのウードの演奏は本当に素晴らしい...」
さっき診てもらった医者の言葉も、彼の心を突き刺した。アラブ人演奏家であることは、もうこのパリでは有名になってしまった。
馬鹿だな......言葉を変えたって―もし名前も変えたって......この俺自身までは変えられないさ......それに「アラブ人演奏家」がこの俺の仕事なんじゃないか......お笑いだな......!でも今さらそれを捨てられやしない......ウードやカーヌーンを捨てたら、俺は死んだも同然じゃないか......
少年期まで過ごした難民キャンプの思い出と捕虜収容所の恐怖―辛く苦しい記憶―その過去と、自分がなおも現在パレスチナ人であることのジレンマに、彼は時折苦しめられた。具合が悪いと、必ず怖ろしい記憶は悪夢となって彼を襲った。仕事場や病院からの帰り道に、街角でジプシーの親子が占いや踊りを見せていると、必ず母の面影が浮かんできた。
ああ......母さんがいる......あんなにきれいな衣装をつけて神殿の前で踊っている......なんてきれいなんだろう......いや今はいない......そういえばどこかに出かけるって言ってたっけ......もう夜中じゃないか......
帰って来ないのか?......いや違う―母さんは......殺されたんだ......いやそれも違う―母さんは―殺したんだ......!俺が......! 俺がこの手で母さんを......! ああ母さん!どうか許しておくれ......!
唸されながら見た悪夢の後は、心臓が飛び出しそうに激しく打っている。彼はベッドから身を起こすと、息を切らしながら今の夢のことをよく考えた。
俺が母さんを殺しただなんて......あれは―本当のことなのか―?
すると突然、20数年前のことが昨日のように鮮烈に思い出された。アルブラートは再びベッドに倒れこむと、戦慄く両手で顔を覆うのだった。
この俺の手は......なんと忌まわしい......怖ろしい手なんだ......!
アルブラートは、何か冷たいものが頬に滴って来る感触で、ハッと目を覚ました。辺りを見回すと、そこは石の壁に取り囲まれた、狭い部屋の中だった。ドアがあり、小さな窓があった。窓には鉄格子がはめられてあった。外は暗く、雨が激しく降っていた。冷たいものと感じたのは、天井の細い割れ目から落ちてくる雨の雫だった。
ここは一体どこなんだろう......それに母さんとアイシャはどうしたんだろう......
すると、先ほど目にした怖ろしい光景が思い出された。赤十字の医師と看護婦たちが処刑される場面だった。少年は、思わずゾクっとした。
サリー......ドクターまで......!でもあの後のことは覚えていない......気絶してしまったのか......
彼は立ち上がって、ドアを開けようとした。だが鍵がかかっていた。諦めて、また壁によりかかって、座り込んだ。ひどく空腹を覚えてしかたがなかった。せめて水でも飲みたかった。しばらくすると、急に鍵を開ける音がした。まだ若いイスラエル兵が、食事らしきものを運んで入って来た。
アルブラートは無言で、相手を恐る恐る見上げた。ピストルはポケットに入れてあるようだったが、銃は構えていなかった。それだけでも少年はホッとした。相手は英語で話しかけてきた。
「腹が減ったか」
少年が黙ってうなずくと、兵士は、スープと干からびたパンを乗せたブリキの皿をそばに置いた。アルブラートは冷たいスープを飲み干した。味がほとんどなかったが、それでも何もないよりましだった。パンは固く、ひどくまずかった。それでもキャンプにいた時でさえ、パンは手に入らないこともあった。
少年が食べ終わるのを、兵士はドアに寄りかかって腕を組みながら、黙って見下ろしていた。アルブラートは、食事を終えた皿をそっと床に置くと、相手を見上げた。金色の髪と青い目だった。彼は、イスラエル人をこんなに近くで見たことはなかった。再び、兵士はこう言った。
「いいか。俺の言うことに従え。まず質問だ。お前は今何歳だ?」
アルブラートは黙っていたが、仕方なく答えた。
「......15歳です」
「なるほど。年より幼く見えるな。生まれはどこだ?」
アルブラートは、生まれ故郷のことを言いたくなかった。あの街は、もうイスラエルに占領されていることを知っていたからだった。それでも相手に従わなければ、何をされるか分からなかった―しばらく無言の後、やっと答えた。
「......ベツレヘム......」
「ベツレヘムか。俺はワルシャワだ。ところでこれはお前のものか?」
兵士は、部屋の外にいったん出ると、楽器を持ってまた入って来た。それはアルブラートのウードだった。少年は黙ってうなずいた。
カーヌーンがない......!あれは父さんの形見だったのに......!
「お前が弾くのか?」
「......そうです」
「やっぱりそうか。まだ15歳なら強制労働は16になってからだな。お前はいつ16になるんだ?」
「......来年の1月......」
「俺は来年の1月で20歳になるんだ。それじゃ今度はお前の番だ。何か質問があるか?」
「......ここはどこですか」
「ベト・シェアンだ」
「ベト・シェアン?」
「そうだ。ここはイスラエルだからな」
兵士は厳しい口調ではなかったが、淡々としたものの言い方だった。アルブラートにとっては珍しい、その青い目は冷たい光を放っていた。
「他に質問は?」
「......母さんとアイシャはどこにいるんですか......」
「お前の母親はエルサレムだ。女は皆そこに連れて行くんだ。アイシャなんて名前の女は知らない。お前の妹か?」
「......年下の友達です」
母がエルサレムに連行されたこと、アイシャが行方不明になったことを聞いて、アルブラートの心はかき乱された。二人とも、どうなったんだろう―無事なんだろうか?生きているんだろうか?
「まだ何か質問があるか?」
「母さんは......無事なんですか」
「さあ知らんな。ただ美しい女は別だ。大事にされる。でもその後は皆殺すんだ。美しい女といっても、所詮はアラブ人だからな」
アルブラートはこれを聞いて蒼ざめた。なぜアラブ人だからというだけで殺されなければならないのか、全く分からなかった。
美しい女を大事にした後に殺す......?どういうことなんだ......?じゃあ男の玩具にするのか......?......鬼め......!
「他に質問はあるか」
アルブラートは無言で兵士をぐっと睨みつけた。その黒い瞳は憎しみのあまり、燃えるような熱を帯びていた。兵士は無表情で少年を見下ろしていたが、やや軽蔑するような口調になった。
「美しい女を大事にする―この意味が分かるか」
「......」
「まだおネンネだな。女をまだ知らない。お前はけっこうきれいな目をしているな。してみると、お前の母親はかなり美しいんだろう」
「......」
「黙っているところを見ると、図星だろう。まあいい。それじゃこの楽器を持って俺について来い。余計な口をきくなよ」
アルブラートはウードを持って、静かに立ち上がった。すると兵士は素早くピストルを取り出し、少年のこめかみに突きつけた。アルブラートは一瞬、悪寒が全身を貫くのを感じた。それでも震えるのを必死で我慢しようと、唇を噛み締めた。
兵士は彼に銃口をつきつけたまま、足でドアを蹴って開けた。
「怖いか。逃げるなんて考えるな。すぐに一発お見舞いしてやるからな」
ドアの外は、長い灰色の廊下が続いていた。廊下の両側には、今アルブラートがいたのと同じような部屋のドアが幾つも見えた。皆鍵がかかっていた。
もう夜中だった。雨がますます激しく降り出した。廊下の天井からは雨が滴り落ちてくる。廊下を歩くうちに、アルブラートは全身がびしょぬれになった。廊下は長く、永遠に長く続いているようだった。
廊下を右に曲がると、また両側に独房のような部屋が並んでいた。その奥に、黒いペンキで塗ったやや大きめなドアが見えた。兵士はアルブラートを連れて、そのドアを開けた。中は広い部屋だった。錆びた椅子が一つと、その奥に机が一つ置かれてあった。机の前に、別の男が座っていた。
「連れて参りました、大佐」
「ああ。ご苦労だった、アーロン」
「大佐」と呼ばれた男は、50前後だった。やはり金髪に青い目だったが、アルブラートには、その青い目がアーロンよりも薄い色をし、冷徹な凄味を帯びているように思われた。残忍な目だった。
......こいつは悪魔の目だ......
アーロンは、少年にピストルを突きつけたまま、椅子に座れと命令した。アルブラートは、ウードを持ったまま、黙って椅子に座った。大佐は机に座ったまま、その怖ろしい目で少年をじっと眺めていた。
「楽器を弾くというのはこいつか」
「はい、大佐」
「こいつは英語を話すか」
「はい、大佐」
大佐はフンと鼻を鳴らすと、頬肘をついて、再びアルブラートを見た。
「俺の言葉が分かるか、小僧―黙っていないで答えろ」
「......分かります」
「なぜお前をここに呼んだか教えてやろう。ここは15歳以下のパレスチナ難民の収容所だ。皆まだガキどもばかりでな―昼間は雑用に使うのだ。それ以外は独房に閉じ込めてある。お前もこれから独房暮らしだ。16になったら強制労働をさせるがな―」
大佐は椅子にふんぞり返り、軍靴を履いた足を机の上に乗せた。
「小僧、俺ははっきり言うと、こんなガキども相手は退屈なんだ。それがお前は楽器を弾くと聞いたのだ。俺はガキどもの扱いは部下に任せる―それが仕事だ。だがそれだけの毎日は退屈なんだ。分かるか」
アルブラートは相手の声が地獄の底から響いてくるように感じた。
「分からんだろう―まだお前のようなガキには。まあいい。お前の仕事はな、決まった時間にここに来て、その楽器を弾くことだ。これは命令だ。俺の命令に従うなら、食事は1日2回は与えてやる。いいな」
こんな......こんな悪魔の前で......ウードを弾くだなんて!......そんなことできるものか......!
「命令に従わないなら即座に銃殺だ。お前は従うか」
「......従います...... 」
「そうか。素直な奴だな。じゃあ明日からここに来るんだ。アーロン、こいつを独房に連れて行け」
「はい、大佐」
再びさっきの独房に戻り、鍵を掛けられると、アルブラートは薄汚い木のベッドのそばに近寄り、ウードをベッド脇に静かに置いた。ベッドには、かび臭い煤けた毛布が1枚だけ掛かっていた。彼はひどく疲れて、ベッドに横になったが、再び起き上がると、ウードを見た。ウードは雨と泥で汚れていた。
アルブラートはウードを、毛布で丁寧に拭い、汚れを落とすと、懸命に磨いた。弦の1本1本にこびりついた泥を、手で払いのけると、息を吹きかけては、毛布で艶が出るまでこすり続けた。これは命令のためではなかった。自分の命とも、父とも思っていたウードが、敵の手に触れられたのが嫌でたまらなかったからだった。
きれいに磨き上げると、彼はウードを抱きしめて、ベッドにまた横になった。彼が抱きしめているウードは、父であり、母であり、タウフィーク―そしてアイシャだった。
昨夜はすぐそばに母さんとアイシャがいたのに......
急に、昼間、テントの中でアイシャに読んで聞かせた自分の詩の一節が浮かんできた。少年はそのことを思うと、切なくなり、声を立てずに泣いた。
おお神よ
この私の願いをどうかかなえて下さい
この囚われ人の私をどうかご覧下さい
この私の望みをどうかお聞き下さい......
―第13章―逃げる少女
毎朝6時には、アルブラートの独房にアーロンが朝食を運んできた。アーロンは石の床に、いつも同じように、パンとスープを乗せた皿を置く。それを少年が食べ終わるのを黙って見ている。終わると、無言で立つように促す。アルブラートがウードを持って大佐の部屋に行くまでは、相変わらずピストルを突きつけていた。
最初の頃は、アルブラートはウードをこんな所で弾くことはできないと思った。無理矢理椅子に座らせられると、ウードを膝に乗せる。あの悪魔のような目の大佐の視線を痛いほど感じても、なかなか指が思うように動かなかった。
「どうした―早くやれ」
アルブラートは懸命に何かを弾こうとした。頭にピストルが突きつけられている恐怖から、気持ちが乱れ、何も曲が浮かんでこなかった。
「弾かないのか。弾けると言ったのは嘘か」
「......嘘ではありません.....」
「それなら早く何かやれ。俺は退屈なんだ」
ようやく彼はウードを奏で始めた。何もイメージはなかった。ただ弦を単調に弾くだけだった。それでも徐々に何らかのメロディーとなって来た。
弾いているうちに、いつしかアルジュブラ渓谷の美しい廃墟が思い出された。アイシャと遺跡の中を歩いたことが思い出された。その演奏の間、大佐の怖ろしい目とピストルの恐怖は忘れることができた。
だが弾き終わると、再び現実に戻った。大佐は机に頬肘をついたまま、黙って聴いていたが、冷たい口調で言った。
「それだけか。つまらん曲だな。だが仕方がない。アラブ人の音楽なんてこんなものだな―所詮ベドウィンだからな」
ベドウィン......?俺は遊牧民なんかじゃない......!
「つまらん曲は止めてくれ。もっと賑やかな曲は弾けないのか」
アルブラートはしばらく黙って考えていた。すると、アシュザフィーラ難民キャンプにいた時に奏でた祝祭の曲を思い出した。それを、こんな場で弾くのはいたたまれなかった。だが仕方なく、弾き始めた。
9歳のアイシャが民族衣装を見につけた日の朝―彼女の額に輝く金貨の飾りと、白い額、愛らしい黒い瞳が浮かんできた。だが大佐は曲を中断させた。
「もういい。野蛮な曲だ。お前たちは非文明人だからな。モーツァルトやチャイコフスキーとは訳が全く違う。お前はモーツァルトやチャイコフスキーは聴いたことがあるか」
アルブラートは黙って首を振った。
「知らないのか。当然だな。アラブなど野蛮な種族だ―俺たち文明人とは全く違う。ところでこのナイフはお前のものか」
大佐は少年に、石で研がれたナイフを見せた。それはマルカートが作ってくれたナイフだった。彼は母を想い、目頭が熱くなった。
「これはお前が気絶している時に、アーロンがお前のズボンのポケットから見つけたんだ。なぜこいつを持っていた?答えろ」
「......オレンジを切って食べる時のためにです」
「ふん。言い訳は何とでも言える。だがこれは凶器にもなる。アーロン」
アーロンはアルブラートからウードを取り上げ、床に置いた。そうして、少年の痩せた細い手首を乱暴に掴むと、椅子の後ろに回し、手錠をかけた。
大佐はナイフを持ったまま、彼のそばにつかつかと歩み寄った。アルブラートは大佐を怖ろしげに見上げた。身長が190センチはあろうかと思われるほどの大男だった。アルブラートはゾッとして、相手から目を逸らした。だが大佐は彼の細い顎を掴み、「こっちを見ろ」と命令した。
「俺の目を見ろ。凶器を持っていた罰を与えてやる―いいか」
突然、アルブラートは左肩に鋭い、えぐるような痛みを覚えた。大佐はナイフを数分間、彼の肩に突き刺していたが、無言でそれを抜き取ると、吐き捨てるように怒鳴った。「野蛮人め!」
血まみれのナイフを床に放り投げると、大佐は兵士に言いつけた。
「こいつを連れて行って手当てしておけ、アーロン。おい小僧―明日もここに来い。お前に文明国の音楽を聞かせてやる―チャイコフスキーをな」
独房に戻ると、やっと手錠は外された。肩の痛みが激痛に変わり始めた。アルブラートは肩を押さえて、痛みをこらえていた。声を立てまいとしていたが、あまりの痛みに涙がこぼれ落ちた。アーロンは一度外に出て、鍵をかけたが、しばらくすると、何か箱を持って戻ってきた。
アーロンは箱から包帯を取り出し、床に座り込んでいるアルブラートのそばにかがんだ。彼は、少年の傷口を消毒し、薬を塗ると、無言で肩に包帯を巻き始めた。その手当ての仕方が丁寧なのに、アルブラートは驚いた。手当てが終わると、兵士は言った。
「あの大佐は、俺と同じポーランド生まれだ。アイザック・アルバシェフという名前だ。大戦前は、ワルシャワでピアニストをしていたんだ。それで音楽を知っているお前に興味があるんだ」
ピアニスト......?じゃあ音楽家なのか?あんな怖ろしい奴に音楽が分かるのか......?
「大佐はお前の演奏をけなしただろう。でも俺はそうは思わなかった。腕がいいんだな、お前は。小さい時から音楽をやっているのか」
「......そうです......」
「肩が痛むか。しばらくは弾けないな。でも1週間もすれば治る。そうしたらまたあの楽器を弾くんだ―お前は俺が憎いか」
アルブラートは黙っていたが、低い声で答えた。「......いいえ」
「俺は好きでこんな仕事をしているんじゃない。去年、18の時、徴兵令が来た。それで仕方なくやっている。俺はお前は憎くはない。だがアラブ人というものは憎い。俺は7歳の時、アウシュビッツ強制収容所にいた。その時、親父と姉を殺された。あの時はナチスを死ぬほど憎んだ。でも兄とおふくろと一緒に奇跡的に助かって、解放された。それからイスラエルに来たんだ」
アーロンは淡々と話を続けた。
「イスラエルに入国したのは10歳の頃だ。だが2年前、兄とおふくろが死んだ。外出の途中、パレスチナ難民ゲリラに銃殺されたんだ。それから俺はアラブ人が憎い。パレスチナゲリラが憎いんだ」
「お加減はいかがですか、お嬢さん」
窓の方を見つめていたアイシャは、聞き慣れない声に振り返った。黒い服を着た青年が、彼女のベッドのそばに近づいた。彼女をいつも診てくれる医師が、アラビア語で彼女に説明した。
「アイシャ―この男の人は神父さまだよ。シリアに駐在している国連軍に随行して、君のような子供たちの話相手になって下さる。苦しいことや悩み事があったら、何でもこの方に話しなさい」
青年はアイシャの手をそっととった。それでもアイシャは相手の顔とは違う方を見やっていた。少女が盲目であることを聞いていた青年は、静かに話しかけた。
「お嬢さん。私はルイ・ミシェル・アントワーヌと言います。フランスから参りました。お嬢さんは、英語はお分かりですか?」
アイシャは神父の声の方に顔を向けた。「少しなら......」
「今日は少しお話しても構いませんか―?」少女は頭を振った。
「そうですか......でも私が必要ならいつでもお呼び下さい」
それは、1958年の春間近だった。アイシャが国連部隊に救出されてから、半年ほど経っていた。アイシャは、昨年の夏に起こったことを時折思い出しては、熱を出したり、不眠状態に陥ったりした。彼女はアルブラートやマルカートのことばかりを考え続けていた。
あの時―キャンプが占領された時、目の見えない彼女は、周囲の出来事を音で察知するしかなかった。
占領軍の砲撃や、人々の悲鳴のあと、アルブラートとマルカートに抱きかかえられて、歩いた。それからイスラエル兵の大声の後、銃声が鳴り響いた。周囲は死んだように静まり返っていたが、途端に、自分の手をしっかり握って離さなかったアルブラートが、手を離してしまった。
アイシャはその後、マルカートに抱きしめられていた。この時、マルカートが押し殺したような、ささやき声でこう言うのを聞いた。
「アイシャ......しっかりするのよ」
その直後、マルカートは彼女のそばから急にいなくなった。ジープの遠ざかる音が聞こえた。アイシャは突然、誰かに乱暴に手を引かれて、崩れかけた神殿の岩場に押さえつけられた。そばには、子供の泣き声や、老人の祈るような声がしていた。その静かなざわめきも、突然始まった銃撃音によって打ち破られた。
......私死んだんだわ......でもこれで父さんと会えるんだわ......
しかし彼女が次に気がついたのは、どこかの小屋の中だった。そばに誰かがいるのにビクッとした。「気がついたかい、可愛い子ちゃん」―若い男の声だった。
「......誰なの......」
「誰でもいいじゃないか。お前さんはあの銃殺を奇跡的に免れたんだ。銃殺の瞬間に気絶しちまってな。俺が助けてやったんだ。ありがたく思いな」
男はそう言うと、いきなりアイシャを抱きしめた。銃を身につけた音、煙草の臭い、ごわごわした制服の感触―アイシャはすぐにイスラエル兵だと分かった。兵士は、彼女のワンピースの胸元を引き裂いた。アイシャはゾッとして、男を押しのけようとしたが、びくともしなかった。
少女の白い、柔らかく膨らんだ乳房を見た男は下卑た笑い声を立てた。
「逃げようってのか―無駄な抵抗は止めな。すごいべっぴんじゃないか」
アイシャは全身をわなわな震わせていた。男は無理やり少女の唇に接吻し始めた。
ああ......!いや......!こんなことはいや......!
ふと、ポケットにあったナイフのことを思い出した。アイシャは、相手に分からないよう、そっとナイフをまさぐり、手に握り締めた。自分の心臓の右側に、相手の心臓の感触を確かめると、いきなりそのナイフを男の胸に突き刺した。
男はうめき声を上げたかと思うと、アイシャのそばにドサッと倒れこんだ。
辺りに生臭い血の臭いが漂った。アイシャは尚も震えながら、その場に1時間ほどじっと座り込んでいた。相手に恐る恐る触って見ると、すっかり冷たくなっていた。彼女は裂けた胸元を両手で覆い隠しながら、ふらつきながら立ち上がり、風の吹く方へと歩き出した。
どこを歩いているのか、皆目分からなかった。返り血を浴びた、自分の手や胸の血の臭いが嫌でも鼻についた。時折、硝煙の臭いが風に乗って吹いてきた。キャンプは、もしかしたら焼き払われたのかも知れない―そう思うと、アルブラートのことが思い出された。
あの時、なぜムラートは私の手を急に離したのかしら...... ムラートも、どこかに連れて行かれたのかしら......ここに今ムラートがいてくれたなら......!
アイシャは生まれて初めて、完全な孤独を感じた。足元は、アジュルーン渓谷の遺跡の草むらではなく、ごつごつとした岩場だった。彼女はくたくたになって、昼とも夜とも分からず、岩場の陰に腰を降ろし、眠り込んだ。
しばらく眠ると、再び歩き出した。数時間歩いたかと思われた頃、近くに水の流れる音を聞いた。それはヨルダン川だった。彼女は川に近づき、そっと川べりに素足を浸した。まず顔を洗い、水をすくっては喉を潤した。それから血のりのついた手や胸を懸命に洗った。そうして再び歩き出した。
「ヨルダン川に沿って歩けばシリアに近づく」―点字教科書で読んだ内容を思い出しながら、川から離れないように、何時間も歩き続けた。喉が渇くと、川の水を飲んだ。そうするうちに、めまいがし、大きな疲労に襲われた。
彼女は、これ以上歩けないと思いながら、川から少し離れた砂場に倒れこんだ―それは、キャンプの占領の日から3日目の朝だった。シリアから、難民を救出に向かっていた国連軍の一隊が、ヨルダン川の側に倒れている少女を発見した。彼女は、シリアのクネイトラにある国連陸軍病院に運ばれたのだった。
アイシャは、病院に入った最初の頃、誰とも口をきこうとしなかった。
看護婦が食事を食べさせようとしても、それをはねつけ、ベッドから逃げ出そうとしては、床に転んだ。たちまち、体中にあざができた。彼女の頭の中には、占領や銃殺、兵士に乱暴されたことなどの恐怖が渦巻いていた。名前を聞かれると、途端に泣き出したりした。
医師は、とにかくぐっすり眠れるようにと、安定剤を飲ませた。看護婦は辛抱強く、優しい言葉をかけながら、少女をなだめ、少しでも食事を与えさせた。救出されて半月ほどすると、アイシャは徐々に落ち着いてきた。ようやく、医師は少女の名前と、年齢を聞くことができた。
だが、どこの難民キャンプから逃げてきたのかは、敢えて訊かずにおいた。また錯乱状態に陥るかも知れなかったからだった。医師や看護婦は、彼女が救出された場所や、その時の様子を、救出に当たった国連軍兵士たちに詳しく訊いた。
「ヨルダン川周辺にキャンプはなかった。それでは最近壊滅したアルジュブラ難民キャンプから逃げてきたのかも知れないな」
このアルジュブラ難民キャンプ事件の報道は、中東や欧米の人々を震撼させた。国連部隊が支援に入ると、もうすでにあったはずの数多くのテントが焼き払われていた。銃殺された子供や老人の遺体は放置されてあった。犠牲者や行方不明者は200人以上に上った。
国連は、イスラエルに、難民キャンプの占領や襲撃を即刻中止するよう戒告したが、イスラエルは逆に、アラブゲリラの活動を非難し、従おうとしなかった。
アイシャは、落ち着きを取り戻しつつあったが、今度は逆に、アルブラートのことを思い出すことが多くなった。
目の見えない暗闇のこれまでの短い人生で、ただアルブラートの手や髪の感触や温かみ―優しく落ち着いた声―そしてウードやカーヌーンの響き―これらが彼女のすべてだった。11歳の秋、アルブラートに抱かれた時のぬくもりが忘れられなかった。父親に対する愛とは違った、本当の愛を知り始めた時だった。
そのアルブラートが、もはやそばにいない―このことは、アイシャにとって耐え難いことだった。少年のことを想うと、夜も眠れないほど辛かった。あとになって、自分が歩いて逃げたヨルダン川の近くに、ベト・シェアンという街があることを、医師から聞いた。
「アイシャ―こんなことは言い難いが―ベト・シェアンには難民の少年ばかりを集めた捕虜収容所がある。だがその街はイスラエルの中だ。それにそういう収容所は、イスラエル領域には、他にも幾つもある。君の探している少年は、ベト・シェアンにはいないかも知れない―もしかしたら安全な場所に逃げ延びて、無事かも知れない―希望をもつことだよ」
医師にそう言われても、希望と不安が錯綜したまま、1958年の夏になった。彼女は13歳になった。
ムラートは、もう16歳......無事でいるのかしら......いつかまた、会える日が来るのかしら......
彼女は、時折アントワーヌ神父の訪問を受けた。最初は頑なだったが、この不安な気持ちを誰かに話したい―そして理解してもらいたい―そういう気持ちが少しずつつのってきた。日がな一日、なすすべのないアイシャに、神父は散歩を勧めた。アイシャは、神父に手をとられて、よく病院の内庭を散歩するようになった。
内庭には、気持ちの良い噴水が湧き出でていた。アントワーヌ神父は彼女の手を優しく取って、噴水のそばのベンチに座らせた。神父は英語とアラビア語の点字本を何冊か彼女に渡した。
「これは物語が書かれてあります。フランスのおとぎ話と、『千夜一夜物語』です。こちらは、イギリスの詩人ワーズワースの詩と、アラブ・アンダルシア地方の詩集です」
アラブ・アンダルシア地方の詩集と聞いて、彼女は以前アルブラートに読み聞かせてもらった「ハルジャ」を思い出した。頁を指で追いながら読んで行くと、果たしてその詩は本の第2章におさめられてあった。
どうぞ教えて 妹たちよ
この不幸にどうやって耐えたらいいの
恋人なしに私は生きてはいけない
彼を探しに飛んで行きたい......
アイシャは、それを読みながら、アルブラートの丁寧な、優しい低い声を思い出した。涙を流しながら、何回もその詩を読む彼女を、アントワーヌ神父は静かに見守っていた。
この闇に包まれた少女の孤独はどんなに深いことだろう......この少女の心はどんなに光を求めていることか......
アントワーヌ神父は、アイシャの足元にひざまずくと、彼女の細く白い手をそっと握り、静かに祈りを捧げた。
「主よ―この少女にどうか光と幸福をお授け下さい......」
その時、どこかから鐘の音と共に、賛美歌が遠くから聞こえて来た。アイシャは、ハッとしてその歌声に耳を澄ました。
「あの歌は......?」
「あれは、夕暮れの祈りの賛美歌です。この近くにアルメニア教会があるのですよ。アイシャ―あなたは歌が好きですか」
アイシャが頷くと、神父は彼女をその教会に連れて行った。
アイシャは胸にレースと花模様の刺繍をあしらった、白いワンピースを着ていた。素足には、靴を履いていた。慣れない靴で、アントワーヌ神父に手を引かれて、石畳の道をしばらく歩いた。神父は教会に着くと、ドアを開けた。賛美歌はいったん止んでいた。神父はアイシャを椅子に座らせると、その隣に腰掛けた。
賛美歌が再び始まった。それはラテン語だったが、アイシャには天から光を浴びるような心地がした。
この歌の中に父さんがいる......私のすぐそばにムラートがいるんだわ......
彼女はつと立ち上がると、目を閉じて、今聞いた賛美歌を歌いだした。
汝 神の御子よ おお神のしもべよ
悩み苦しむ私の魂をどうぞお救い下さい
何の罪もなく卑しめられる私の心をどうぞお導き下さい
涙に明け暮れる私に希望と喜びをどうぞお与え下さい
情け深き聖なる御母 おお聖マリアよ
清らかな美しき御母 おお聖マリアよ......
アントワーヌ神父は、その伸びやかで豊かな声量、どんな聖歌隊にも負けないほどの歌唱力と見事な美しい声に驚いた。ずっとパレスチナ難民の子供たちの世話をしてきたが、こんなに歌の上手な少女に出会ったことはなかった。
これは奇跡だ......!ラテン語も知らない少女が今聞いたばかりの賛美歌を、こんなに素晴らしく歌い上げるとは......しかもなんて美しい声なんだろう......!
歌い終わった少女の肩に手をやると、神父は言った。
「アイシャ......あなたは何て素晴らしい才能の持ち主なんでしょう...!どこかで歌を習ったことは?」
「いいえ―ただ小さい時から歌うのが好きだっただけよ」
アイシャはつぶやくように答えたが、歌っている時の気持ちを思い出し、自分でも驚いたかのように、神父の方を見つめた。
「神父様―でも私......歌っている時は幸せを感じたわ。長い間、歌うことを忘れていたの。キャンプで......あの占領が始まるすぐ前は......ずっと歌うことができずにいたのよ」
神父はパレスチナ人の少女を感動しながら、そっと抱き寄せた。
「時々この教会に来ましょう―そしてお歌いなさい。歌があなたに幸せを運んでくれます......あなたの希望の光は、歌なんです......!」
●Back to the Top of Part 3
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