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砂漠の果て(第16部「炎上」)
第十六部「炎上」
―第49章―シナゴーグ爆破:カイロ 1962年
その頃、アルブラートの右膝は、長時間の歩行に以前よりも耐えられなくなっていた。だが、新居が仕事場のレストランからほんの5分ほどだったため、演奏には支障はなかった。医師からは、重い物を持って歩かないようにと言われていたので、アリが生まれてからは、買い物はほとんどアイシャの用事だった。
若い夫婦は、仕事のある日は、アリを医師夫妻に預けた。夫人のザカートは、動きの活発な5ヶ月のアリを、喜んで世話をした。彼女は赤ん坊の世話は、ムカールの娘のアザゼルが初体験だった。
「アジーは女の子だったし、まだ生後1ヶ月位で別れたから、アリには驚かされるわ。本当に男の子はやんちゃで力が強いのね。それにこの子の眼の愛らしいこと―色も白くて、賢そうで、いつまでも抱いていたいわ」
昼休みの午後1時から4時までは、アルブラートとアイシャは医師宅に戻り、そこで夫妻と昼食を共にした。アリはアイシャを見ると、飛びつくように若い母親にしがみついた。それまでそばにいたザカートの方は振り向かず、思い切り母親に甘えている様子だった。
ザカートはそんなアリがよけいに可愛らしいと言い、アルブラートに微笑みかけた。
「この子はちょっと人見知りするのね。アルブラート、あなたにそんな所がそっくりよ。活発なのは、アイシャに似ているのね」
アルブラートは、レバノンで医師と出逢い、アイシャと再会したおかげで、こうして家族が増えたことに幸福を味わっていた。そして、医師との出逢いがあり、またアイシャとの再会が実現したのは、亡くなったムカールのおかげなのだと思った。
ムカールと17歳の秋に出逢って、彼が俺をホテルの楽師に雇ってくれたおかげで、偶然先生と出逢ったんだ......
ムカールが亡命の直前にアイシャを連れてきてくれたから、こうして今息子のアリがここにいるんだ......
彼は、自分の幸福が現実になっている反面、ムカールの家族は不幸な目に遭ってしまったのだと感じ、複雑な思いにとらわれることがよくあった。
本当に、ここにムカールとアデルとアザゼルがいてくれたら......ムカールの壊疽が悪化せず、彼の身分がアデルとアザゼルを引き裂くことにならなかったら―皆、幸せに暮らせたのに......
1962年の暮れ近い、12月23日のことだった。その日はアルブラートは仕事が休みだった。アイシャはいつものように、昼過ぎから買い物に出かけた。アルブラートは、自宅で、カーヌーンを弾きながら、アリの相手をしていた。
アイシャは、買い物に出かける時は、シナゴーグのそばを通らないようにと、いつもアルブラートから注意されていた。彼女は、彼を心配させまいと、言いつけを守っていたが、その日はアリのミルクを切らしていたため、手早く買い物を済ませたかった。
大丈夫よ......危険なことなんて滅多に起こらないわ......それにアリがお腹を空かしているんだし......この間買った哺乳瓶はサイズが小さくて、今日はそれを交換したいし......
アイシャは、ほぼ1年半前、ハネムーンの帰りに見つけた近道を利用しようと思い立った。彼女は急いで銀行の手前の角を右に入り、シナゴーグの方へと歩きかけた。
突然、大きな爆発音が響いた。
その音に、家にいたアルブラートは演奏の手を止めた。とっさに立ち上がり、窓を開けた。スークの上空が一面、火の海だった。燃え盛る炎の黒い煙が家の前まで立ち込めてきた。彼は何が起きたか全く分からなかった―ただ、スークの炎の中に、アイシャの姿が浮かんできた。
彼は窓を閉めると、小さな息子のことも忘れ、家から猛烈な勢いで走り出た。だが、右足が途端に激痛に襲われ、すぐに転んでしまった。それでも、必死で立ち上がり、建物の壁づたいに這うようにしてスークへと急いだ。
いつもスークに行く途中に通った銀行は、跡形も無くなっていた。アルブラートは、銀行の手前の商店の壁にもたれかかり、炎に包まれたシナゴーグを見上げた。スークの遥か上空は黒い煙で覆われ、夜のようだった。そのどす黒い硝煙が生き物のように、地上に猛スピードで広がってきた。
彼はアイシャを探しにスークの方へと足を進めようとしたが、襲いかかる黒煙と逃げ惑う大勢の人々に押し倒され、壁に押さえつけられた。彼は喧騒の中で、誰かがこう叫ぶのを聞いた―
「イブン・ムハンマッドだ!シナゴーグを爆破したのはムハンマッドだ!」
アルブラートは煙の中で、意識が朦朧とし始めた。すると再び別の叫び声を耳にした。
「ガソリンが漏れている―引火する!」
途端に轟音が鳴り響いた。その瞬間、アルブラートの体はどこかに吹き飛ばされた。
「気がついたか―どこも怪我はないか」
そういう声で、アルブラートは目を覚ました。周囲は薄暗く、部屋の隅にランプが灯っていた。彼を見つめているのは、見知らぬ男だった。
「俺はアフメード・アル・シュケイリだ。あんたはトラックの自爆で吹き飛ばされてきたんだ。ここはオペラ座の地下だよ」
「オペラ座の......地下......?」
オペラ座と聞いて、アルブラートは、アイシャを探していたことを思い出した。彼は、起き上がり、立ち上がろうとしたが、右足と左肩が激しく痛み、寝ていた煤けたソファーに倒れこんだ。どうやら肩を脱臼したらしかった。
「どこに行くんだ―外は危険だ。まだスークの火事がおさまっていない」
「スークに......妻がいるんだ―買い物に出かけた後、爆発が起きて―」
「あの爆発では、スーク一帯やシナゴーグに集まっていた人々はほとんど助かってはいないさ。ラジオの報道では、死者・行方不明者は3000人を超えたそうだ。これもイブン・ムハンマッドの功績だな。シナゴーグに爆弾を仕掛けて、集会に来ていたユダヤ人たち238名を殺すことができた」
「......イブン・ムハンマッドだって......?あんたはあいつの知り合いなのか」
アフメードは、意外そうな顔をした。
「あのムハンマッドを『あいつ』呼ばわりするとはな。あんたもパレスチナ人なら、あの人を尊敬すべきだ。ここは『聖戦の獅子』の第三のアジトだ。あんたはトラックの自爆の爆風で、奇跡的に助かったが、あの自爆でも多数のユダヤ人が殺傷できた。トラックの自爆に身を投じたのは、まだ11歳のラシェルだ。あの子はアシュバルとして訓練を受けていたが、体が弱かった。だから父親の依頼で、自爆の犠牲に捧げたんだ」
アルブラートは、昨年の6月、シナゴーグ裏の公園でカーヌーンを弾いていたあのラシェルを思い出した。彼は、その話を聞くのが耐え難くなった。
「......親が病弱な息子をテロの犠牲に捧げる......?そんなことは狂っている―あんたたちは狂っている......死んだら二度と生き返ることはできないんだ......ラシェルという子にも未来があったのに......」
「狂ってなんかいないさ。狂っているのはイスラエルだ。そのイスラエルを倒すために、我々は一致団結して戦う必要があるんだ。ユダヤ人を一人でも多くあの世に送るためには、アラブ人に多少の犠牲が出ても仕方がないだろう」
アルブラートは、相手の話をもう聞く気がなかった。それよりも、アイシャを探しに行かなければと焦った。彼は、アフメードに頼み、杖の代わりになる長めの棍棒を与えてもらい、その地下室から、やっとの思いで地上に出た。その出口は、オペラ座の裏口だった。もう夜だった。
スークの方を見やると、アフメードの言った通り、まだ激しい火炎が辺りを赤く染めていた。彼は、アイシャはもしかして無事に帰宅したのかもしれないと思いながら、杖を頼りに、家に向かった。オペラ座の正面に回ったところで、彼は偶然、ザキリスと出会った。
「アルブラート......!どこに行っていたんだ―ずっと探したよ......!
アリは私の家にいるから大丈夫だ。爆発が起きて、君の家にいったら誰もいないし、アリが一人で泣いていたんだ......アイシャは?」
「アイシャが―昼過ぎに買い物に出かけた後、爆発が起きたんです......
だから僕は彼女を探しに飛び出して―アイシャは家に―いないんですか」
医師は、燃え盛るスークの方を見やった。ラジオの報道を聞いていた彼は、もうアイシャは駄目だと絶望した。二人は、疲れて、オペラ座の正面玄関の階段に座り込んだ。
「......アルブラート......今スークに彼女を探しに行くのは危険だ―とてもできない......アイシャは―あの中にいるんだ......」
そう言われても、アルブラートは納得できなかった。
「なぜ......そう思うんですか―アイシャは、もしかしたら、どこかで怪我をして......助けを待っているかもしれないのに......」
ザキリスは、彼にこれ以上、アイシャが絶望的だと強調できなかった。
「分かった―気持ちはよく分かるよ―でもまだあの大火事とこの煙の中では彼女を探せない......君も足を痛めているんだし......とにかく火事がおさまるのを待たなければ......アイシャを探すのはそれからだ」
2日後のクリスマスの朝、ようやくスーク一帯が鎮火したが、まだ至る所で黒い煙が燻っていた。シナゴーグはほとんど焼け落ち、形をほとんど留めていなかった。アルブラートは、肩と足の手当てをしてもらうと、医師に体を支えられながら、広い焼け跡を松葉杖を使って、アイシャを探し歩いた。
だが、どこを見ても一面の焼け野原であり、無数の黒い焼死体が無残に折れ重なっていた。怪我をして倒れているような人影もなかった。アイシャはずっと家に戻って来ない―そう思うと、アルブラートの心にも、彼女が生きている可能性は薄らぎかけてきた。
午後になり、シナゴーグの焼け跡をふらつきながら歩いている時だった。
爆風で粉々になった銀行の裏手付近に、まだ黒い硝煙が立ち昇り続ける焼死体があった。アルブラートは、その遺体の性別もつかなかった。だが、焼け焦げた黒いヴェールや、ワンピースらしき布の切れ端が遺体に張り付いているのを見て、若い女性ではないかと思い、その遺体の上に身をかがめた。
彼は、その遺体のそばに、黒く焦げているが、何とか形を留めている哺乳瓶らしき物が転がっているのを見つけた。とっさに、アイシャが昨日の昼、新しい哺乳瓶を買って来ると言い残して出かけたことを思い出した。
アルブラートは、震える手で、その遺体に張り付いている衣服の切れ端をそっと引き剥がした。焼け焦げた切れ端の隅に、花柄の模様がかすかに見てとれた。彼は、この遺体がアイシャなのではないかと思い、その模様に目を凝らした。
女性が花柄の服を着ることは多いんだ......
でもこの模様は......俺がアイシャに―目の手術が成功した祝いに買ったドレスの模様とよく似ているじゃないか......
彼の絶望感は決定的なものとなった。彼は、その遺体の傍らに跪き、黒く焦げ、形も崩れかかった胸に顔を埋め、幾度となく彼女の名を呼んだ。
「......アイシャ......!アイシャ......!」
ザキリスは、そんな彼の姿に何と声をかけたらよいのか全く分からなかった。彼は、アルブラートの肩に静かに手を置き、戸惑いながら呟いた。
「......アルブラート......その女性が―アイシャであるという証拠は何も......何もないんだ......」
「......いいえ......この服の模様は......僕が......彼女に贈ったドレスの模様です......僕が―彼女に―買い物に行かせなければ......」
それ以上、アルブラートは何も声にならなかった。ただ、黒く焦げた衣服の切れ端を握り締めながら、その遺体のそばに茫然として座り込んでいた。
彼はその焼死体をじっと見つめた。顔も黒い炭と化し、とても人間の姿とは思えなかった。この女性の遺体がアイシャだとは考えたくなかった。だが、彼の中では、アイシャの生存の可能性はもはや無だった。そして、焼け焦げた哺乳瓶とドレスの模様―この二つが、この真っ黒な無残な遺体がアイシャであると、雄弁に語っていた。
アルブラートは、ザキリスに頼み、この遺体を病院に運んでもらい、棺におさめた。病院には、ザカートがアリを抱いてやって来た。彼女は、アリを看護婦に預けると、棺の中を怖ろしげに見やった。
「運ばれた遺体はアイシャだという証拠は明確ではない」と、ザキリスから言われていたが、ザカートも、帰宅しないアイシャの生存に、もはや望みを抱いてはいなかった。彼女は、棺の遺体を見た途端、悲鳴を上げ、顔を覆い、その場に泣き崩れた。
「アイシャ......!可愛い私の娘が......どうして......!」
アルブラートは、心が空っぽの状態だった。彼は、なぜこんなことになってしまったのかと、ただそればかりを考えた。すると、封じられていた罪悪感が再び甦ってきた。
前にも考えただろう......俺は母さんを殺したんだから......だから......怖ろしい罰が下されると......ムカールが死んだのも......アイシャがこんな怖ろしい死に方をしたのも......すべて―俺に対する神の裁きだ......お前は幸せになる権利などないという......
彼は、遺体安置所を泣き続けるザカートと出ると、アリのいる育児室に行った。何も知らないアリは、ベビーベッドの柵につかまり、父親を見上げた。アルブラートは、脱臼した肩が痛むために、我が子を抱き上げられなかった。彼は、ベッドのそばの白い椅子に座ると、アリの小さな顔を見つめ、黙って白く柔らかい頬を撫ぜた。
赤ん坊特有の甘い香りを漂わせながら、アリは若い父親を嬉しそうに眺め、可愛い笑い声を上げた。そのアイシャによく似た黒い瞳を見た途端、アルブラートは深い悲嘆に叩きのめされた。彼は、はしゃぐ赤ん坊のそばで、項垂れると、肩を震わせ、無言で涙を流した。
......もう二度と......アイシャの声を聞くことはない......もう二度と......彼女の美しい姿を見ることはできない......あの天使のような歌声も―あの愛しい温もりも......もう二度と帰ってこないのか......
―第50章―アレクサンドリアの幻影
アルブラートは、愛しいと思いながらも、アリを直視することがもはやできなかった。彼は自宅に戻らず、医師の家の2階に数日寝泊りしたが、毎晩決まって怖ろしい夢に襲われた。ルクソール神殿の前に、黒いヴェールのアイシャが佇んでいる。彼は嬉しさにはちきれそうになり、彼女のもとに駆けつけるが、彼女を抱きしめた途端に、アイシャは黒い灰となって彼の足元に跡形も無くなり、消え去ってしまう。
彼は、そんな夢を見るたびに、恐怖に慄きながら飛び起きた。寝るのが怖ろしく思えてきた。
眠りたくない......!寝ると必ずアイシャがおぞましい姿で夢に現われてくる......
また彼は、アイシャと一緒にスークに買い物に出かける夢を見るが、アイシャはいきなり「急がなきゃ」と言い出し、市場に向かって走り出す。アルブラートが引き止めようとすると、彼女は全身炎に包まれた姿で、彼の元によろめきながら歩いてくる―そして彼の目の前で燃え盛る炎の轟音と共に、たちまち黒い遺体と化してしまうのだった。
アルブラートは息子のアリの世話を、ザカート夫人に任せたまま、演奏をすることもなく、そうして日々悪夢に苛まれ続けた。彼は次第に痩せ細り、窶れ始めた。
1962年ももう終わりを告げ、新年を迎えた頃だった。ザキリスが、彼の部屋に朝食を運んできた後、ラジオでの報道を告げた。
「たった今聞いたんだが......あの年末の爆破事件の首謀者とそのグループがカイロ警察に逮捕されたらしい。イブン・ムハンマッド、バシャール・アル・サーレム、アフメード・アル・シュケイリの3人だ......皆、パレスチナ人ということだ―それに、今回のシナゴーグ爆破で、イスラエルが後3日以内にカイロを爆撃する、と予告してきた。もうカイロにいるのは危険だな」
アルブラートは、その話を聞いて、パレスチナ人そのものに憎悪を向けた。
「......イブン・ムハンマッドは―死神なんだ......アイシャは僕と同じパレスチナ人に殺された......僕はムハンマッドに会った時から、いつか何かが起こると思っていた......」
「何だって......君はムハンマッドに会ったことがあるのかね」
アルブラートは顔を覆い、震えながら頷いた。
「こんなことになったのも......パレスチナ人がイスラエルと戦うのを止めないからなんだ......僕は―パレスチナ人が憎い......パレスチナ人である自分自身が憎い......怖ろしい―忌まわしいんです......」
ザキリスは、そんな彼を黙って見つめていたが、彼の心の傷や混乱を癒すには、時を待つしかないと思った。
「とりあえず食事をしなさい―それにカイロがイスラエルの爆撃を受けるのなら、私たちは避難するしかない―幸い、アレクサンドリア郊外にザカートの実家がある。今日中に荷物をまとめて、カイロを出発しなければ―」
「カイロが爆撃されるのなら......アイシャは......」
アルブラートの心身状態が良くないために、アイシャの埋葬はまだ行なわれていなかった。ザキリスは、遺体は死後10日経っているが、地下の霊安室の保存状態が良いと考えた。医師は、ためらうように呟いた。
「......棺をアレクサンドリアに運んで―葬儀をするしかない......」
1963年1月3日の朝だった。
アルブラートはもうすぐ21歳を迎えようとしていたが、アレクサンドリアへの緊急避難のための荷物の整理で頭がいっぱいになり、自分の誕生日は全く忘れていた。アリも、もうすぐ生後半年となるのだったが、アルブラートはアイシャが亡くなってから、アリを見ることが辛かった。最愛の愛児を見なくなってから、もう2週間ほど経っていた。
左肩の脱臼もほぼ治り、彼は自宅前の玄関に、一つの鞄と金色の鍵を握り締めて立っていた。彼は鍵を差し込むのが怖ろしかった。医師が一緒に自宅に行ってあげようと言ったが、アルブラートは、患者の対応に追われるザキリスに迷惑をかけたくなかった。
今一度、白い2階建ての瀟洒な自宅を見上げ、しばらく躊躇していたが、彼は思い切って鍵を差し込み、ドアノブに触れた。玄関ロビーに立つと、懐かしい香りが彼を優しく包んだ。
ああ......アイシャの肌の香り......アイシャの香水の香り......アリのミルクと産着の香りだ......
吹き抜けのロビーに続く、広いリビングの窓際に置かれた白いソファには、アイシャがお気に入りの赤いドレスを着て、何か本を熱心に読んでいた。アルブラートは驚嘆した。何回も目をこすったが、はっきりとそこにアイシャが座っている姿が見える。
「......アイシャ......!生きていたんじゃないか......!もうあんな悪ふざけはやめてくれよ―死ぬほど心配したんだから......!」
彼はそのソファに駆け寄り、彼女の隣に座った。だがアイシャはどこにもいなかった。ただ、ソファの上に、赤い皮製の英語の辞書と愛用のノートが置かれてあるだけだった。
アルブラートは、この家にいるのが途端に怖ろしくなった。ほんの10日前の朝まで、この家には静かな幸福と希望が満ちていた。だが今では、暗い虚無感の漂う、何とも言い表しがたい畏怖の洞窟へと化していた。彼は、ソファに項垂れたまま、座り込んでいた。とても荷物の整理などできないと思った。
だが、アイシャが最後に何を書いていたのか、読んでみたいという気持ちに駆られ、恐る恐るノートを手に取り、開いた。そこには英語とアラビア語で、数行の詩が書かれてあった。
お母様のミルクをお飲み 愛し子よ
お母様のミルクはお前に命の源を与えてくれるのです
命の輝きを 神のまなざしを
そうしてすこやかにお眠り 大きくおなり 愛し子よ
お母様はたとえいなくなっても
お前の魂の中に生きているのです いつまでも
アルブラートはそれ以上、その詩を読むことができなかった。
「たとえいなくなっても」......?なぜこんなことを書いたりしたんだ......まるで死ぬのを予期していたかのように......
彼はそのノートを閉じると、押しのけるように、ソファの隅に押しやった。彼は、リビングの書棚に、新婚時代から、アリが生まれた後までの写真を整理したアルバムがあることを思い出した。アルブラートは、アイシャの姿を、すべて記憶から消し去ってしまいたいと、心から願った。アルバムを自ら開くことは、もうないだろうと思った。
俺は写真を見ることはもう二度と無理だ......でもこれらは、いずれはアリには必要なものとなる―自分の母親の顔も知らないでいては―アザゼルの二の舞をさせてしまうじゃないか......
彼は、書棚からそのアルバムを抜き取った。すると急に、アイシャと二人で楽しみながら、写真を整理した時のことが思い出された。アルブラートは、その思い出を振り切るように、アルバムを鞄の底に入れた。
次は、アリの産着を数着持っていかなければならない、と思った。ベビー用クローゼットを開けると、丁寧に折り畳んだベビー服を6着ほど腕に抱えた。だがクローゼットの奥を見ると、10着近い産着が山積みになっているのが見えた。それらは、アイシャ自身がスークで次々と書いためた物だった。彼は、慌ててクローゼットの扉を閉めた。
楽器は、年末に、医師が既に自邸に運びこんであった。アルブラートは、ムカールの物も、少し持ち出さねばと思い、2階に上がった。彼は、ムカールの書棚から、彼がいつも大事にしていた歴史書と美術書、哲学書を取り出した。
その薄緑の歴史書に、しおりが差し込んであるのに気がついた彼は、その頁を何気なく開いた。
その頁は、「アルメニア人―アルメニア人音楽家」の項だった。アルブラートはざっと目を通したが、ある箇所で目が釘付けになった。その箇所には、ムカール自身が印をつけ、何か端書を書き込んでいた。その印のある部分は、「アルメニア人ヴァイオリニスト アルベルト・ローラン」となっていた。
『アルベルト・ローラン(1900~):ジプシーとの混血である名ヴァイオリニスト。父はアルメニア人アダム・カーレィン(1880~1915)。カーレィンは、15歳の時、第一次アルメニア人ジェノサイドを逃れる途中、ジプシーのローラン一族に救出される。20歳の時、一族の娘ロザリアと結婚。ローラン一族は、イタリア人ストラディヴァリにヴァイオリンの製法を伝えたロマニーの末裔と言われる。
アルベルトは、1919年、ベツレヘムでも勢力を誇っていたパレスチナ・アラブ一族の娘ファイユーン・エル・アラウィと結婚し、婿入りするが、束縛を嫌い、ローランの姓で通す。現在はヨーロッパを拠点に活躍中。』
この項目の端に、青年は走り書きをしていた。
―アルベルト・ローラン―アラブ風に読むと「アルベルト」は「アルブラート」となる。アルラートはアルメニア系アラブだ。アルベルト・ローランは彼の祖父に違いない―
アルブラートは、この歴史書の記述と、ムカールのメモに驚いた。
ムカールはいつこれを書いたんだろう―弱々しい筆跡......死ぬほんの数日前か......でも「アルベルト・ローラン」......母さんが教えてくれたお祖父さんの名前だ......母さんの旧姓は「エル・アラウィ」だった......ベツレヘムに住んで踊り子をしていた......それじゃ、お祖父さんは―今でもヨーロッパにいるのか......
この時、アルブラートの心は一つに決まった。それは、アラブ世界をすべて捨て、ヨーロッパに行き、音楽院に入り、西洋音楽を一から学ぶことだった。
アルブラートは、医師夫妻と共に、その日の夕方、ラムセス中央駅からアレクサンドリア方面の列車に向かった。彼は、息子のアリと一緒にいてやりたかったが、可愛らしさの盛りを迎えたアリを見るのが苦しく、夫妻にアリを預けたまま、隣のコンパートメントに引きこもった。
列車は静かに走り出した。急に、ハネムーンに行くためにラムセスの駅からアイシャと乗車した時のことが思い出され、自然と涙がこぼれ落ちた。
窓の外には、すぐそばにナイル河の雄大な流れが広がっていた。アルブラートは、ズボンのポケットに入れていた、焼け焦げたアイシャのドレスの切れ端を、窓からナイル河にそっと落とした。切れ端は、しばらく波間に漂っていたが、やがてどこかに消え失せた。
マァッサラーマ*......アイシャ......もう一生会えない......目の光と美しい声と白く煌く体......すべてを失ったアイシャ......
* マァッサラーマ:アラビア語で「さようなら」(Farewell with the peace on you forever) の意。
アレクサンドリアでのアイシャの葬儀は、1月5日に行なわれた。墓碑には、「若き音楽家アルブラート・アル・ハシムの妻、不世出の歌手であり天使の歌声の主アイシャ ここに永遠に眠る(1945~1962)」と刻まれた。
カイト・ベイ* の城塞を遠くに望む、郊外の市民墓地だった。北から地中海の穏やかな風が吹いてきた。全体にヨーロッパ的な色彩の濃い、美しい街並みの外れに、ザカート夫人の実家があった。そこには夫人の母親ナフマ一人が住んでいた。
アルブラートは、こうしてアイシャの埋葬が済んだ後も、地中に眠る女性は、もしかしたらアイシャではなく、別の遺体ではないか、何かの間違いではないか―時折このような疑念に捉われた。彼は、葬儀の最中も、アリを抱いたザカートの方を敢えて見ようとはしなかった。
翌日も、彼はザカートとナフマに頼んで、客室に一人こもり、窓の外を眺めていた。急に背後で、人の気配を感じて振り向くと、部屋のベッドにアイシャがお気に入りの赤いドレスを着て、座っていた。
アルブラートが驚いて、彼女のそばに腰掛けると、アイシャは哀しそうに彼を見つめて、こう言った。
「ムラート......体中が燃えて熱いのよ―でもあの子が泣いて、あなたを呼んでいるわ―私はあの子を抱く腕がもうないの......アリのそばに行ってあげて」
アルブラートは、彼女の姿と声をすぐそばで見聞きした。急に眩暈を感じ、眼をこすってもう一度、彼女を見ようとしたが、アイシャはどこにもいなかった。アルブラートは今の彼女の言葉に恐怖と虚しさを抱き、すすり泣きながらベッドに突っ伏した。
アイシャ......あの遺体はやっぱりアイシャなのか......アイシャ......!燃え尽きて死んだのか―どんなに苦しく怖ろしかったことだろう......生きながら―焼かれて......!
彼は、アイシャが再び姿を現わしてくれないかと切望したが、自分でもその幻影を見るのがやはり苦しかった。この絶望感は果てしなく、延々と続くかと思われた。
その時、誰かが彼の肩にそっと触れた。アルブラートは振り向き、思わず叫んだ―「アイシャ......!もう戻って来ないでくれ......!」
だが彼のそばにいるのはザカートだった。ザカートは彼の心痛を察しながら、静かに昼食を部屋に運んできたのだった。彼女は、自分の息子となったアルブラートの、艶の失せた銅色のやつれた頬や、すっかり隈のできた落ち窪んだ大きな黒い瞳を静かに見つめた。
情愛に満ちた品の良いその眼に、大粒の涙が今にもこぼれ落ちそうになっているのを見ると、彼女は思わず彼を抱きしめ、押し殺したような声で泣いた。
アルブラートはザカートに抱かれながら、涙声で言葉を繋いだ。
「......アイシャがたった今......このベッドに座って言ったんです......ハネムーンに着て行った赤いドレスを着て......アリが僕を呼んでいると―」
ザカートは、涙を拭い、強いて微笑みを浮かべると、遠慮がちに言った。
「アルブラート、今日はあなたの21歳のお誕生日ね―あなたに神様からの贈り物があるのよ......アリが初めて言葉を喋ったのよ」
「言葉......?でも―あの子はまだ生後......半年で......」
「ええ―でもね、早い子はそろそろそういう時期なのよ。昨日あたりから、可愛い声でね、あなたたちを呼ぶの......『アブ』『ウンム』(お父ちゃま、お母ちゃま)* と......そういう時のアリは、とても哀しそうな顔をするのよ......赤ん坊には不思議な能力があるでしょう―まるで、今度のことがすべて分かっているみたいなのよ」
アルブラートは、その話を聞いて、今まで息子を避けていたことなど嘘のように、アリに会いたくてたまらなくなった。彼は、階下に降りて行った。アリは、ナフマに抱かれていたが、父親を見ると、哀しそうに「アブ」と連発した。
アルブラートはここ半月見ていなかった嬰児の顔をじっと見つめた。アリの黒い瞳には、アイシャの鋭利な活発さはもうなく、アルブラートによく似た悲哀の感情が込められていた。アルブラートはアリを力を込めて掻き抱くと、息子に頬をすり寄せ、涙を流した。
さっきアイシャが言ったことは本当だったのか......アリが俺を呼んでいると―アイシャはそう伝えに来たのか......
「......許しておくれ、アリ......お前の父さんはここにいるよ―どんなに寂しかったろうね......お前のアブは本当に馬鹿だったよ......もう父さんはお前のそばを離れないから、安心しておくれ」
*「カイト・ベイ」(Fort Qaitbey): アレキサンドリア東港に15世紀マムルーク朝のスルタン、アシュラフ・カイトベイによって建てられた要塞。
* 「アブ」(Abu),「ウンム」(Unm): アラビア語で「父・母」の意
―第51章―青い男-1:エル・サハラ
アレクサンドリアに避難して5日後、イスラエル軍はカイロの新市街を中心に爆撃を続行していたが、エジプト政府の要請に従い、ようやく停戦となった。その要請とは、カイロ警察が拘留していたシナゴーグ爆破の首謀者3名を、イスラエルに引き渡すとの条件だった。
夕食時、ザキリスは、ジャハルと連絡が取れたとアルブラートに伝えた。
「ジャハルはギザに避難していたんだが、レストランは幸い被害を受けていなかったそうだ。私の病院や君の家もね。だが30名近く重傷者が出たらしい。私はカイロに戻って、その患者たちを診てやりたいが、あいにくとカイロへの鉄道や空路、海上はイスラエル軍によってまだ封鎖されている―今月中にはカイロに戻ることができると思うんだが......」
その時、普段は口数の少ないアルブラートが、思い切ったように医師に話し始めた。
「先生......僕は―もうカイロには戻りません。レストランで演奏することも止めます。オーナーのジャハルには、楽器をアレクサンドリアに無事送って下さったお礼をどうぞお伝え下さい」
「カイロに戻らない......?それでは、このままアレクサンドリアに留まるのかね」
アルブラートは、いたたまれないように、医師から視線を反らした。
「エジプト政府が、今回のテロの首謀者をイスラエルに引き渡す―そうすることで、停戦は実現しましたが、それは永遠の停戦ではありません......
むしろ新たな戦闘の始まりです―今度は、イブン・ムハンマッドを継ぐゲリラのリーダーが、再びイスラエルを攻撃します......必ずそうなります」
「イブン・ムハンマッドの次のリーダー......?それは誰だね」
「それは僕にも分かりません......ただ、パレスチナ・ゲリラというのは徹底的な復讐と自爆をも辞さない怖ろしい戦闘集団です.....彼らはどんなに踏み潰されても、またたく間に蟻のように結集し、アラブ社会を戦闘の泥沼に化していく......僕はもう―こんな社会にいたくない......アラブ世界を捨て去りたいんです......」
「アラブ世界を捨て去って......君はどこに行こうというんだね」
「......ムカールが遺した歴史書に......ジプシー出身のヴァイオリニストであるアルベルト・ローランのことが書かれてありました......
母は、僕の祖父は、アルメニア人とジプシーの混血であるアルベルト・ローランだと昔、話してくれました......今、祖父はヨーロッパにいます......僕は―先生から頂いたギリシャの国籍と共に、ヨーロッパに行き、祖父に会いたい......そして―パレスチナ人であることを―すべて捨て去り、生きていきたいんです......アリのためにも......」
アルブラートはやっと顔を上げ、医師をじっと見つめた。その眼に、深い決意が籠められているのを見たザキリスは、この若者の言葉は、もう誰にも否定できないと感じた。
「......君がそこまで考え、決心しているのなら、私は何も反対はしない―だが、君はパレスチナ人であることをすべて脱ぎ捨てる―忘れ去りたいと言うんだね?君がヨーロッパに行って、ギリシャ系の人間として生きるのは自由だ―
だが、人はどこに移住しようとも、生まれ育った民族性を―親から受け継がれてきた血を拭い去ることは決してできない......己の存在そのものを消滅させることはできない......君はアラブの血をヨーロッパ人の血と入れ替えることはできない―それが医学的に可能であっても―君の心はアラブ以外に有り得ないんだ」
すると、アルブラートは涙ぐみ、やや昂じた口調で頭を振った。
「いいえ......!いいえ!僕は―僕は......もう苦しいんです......アラブとして生まれて―さんざん辛酸をなめてきました―アラブ人であることをすべて忘れてしまいたい......忘れてしまいたいんです......!」
「......私は君より23年も年上だ......だが君の受けてきた苦しみの1パーセントも、私は苦しんではいない......その私が君に助言すべきではないのかもしれない......君の今の言葉すべてを理解する資格もないが、理解するよう努めたいんだ―それで、アルブラート、君は......どこに行くと言うんだね」
「どことも......まだどことも決めていません―ただ、僕はヨーロッパに行って―西洋音楽を学びたいんです」
ザキリスはしばらく考えていたが、やがて静かな口調でこう言った。
「......パリに行きなさい、アルブラート。パリのコンセルヴァトワールに入ったらどうだね―あの学校を出れば、君なら一流の音楽家になれる。ただ、入学試験に最低ヴァイオリンとピアノの演奏が試されるが......」
アルブラートは、ピアノと聞いて、収容所での凍りつくようなしびれた無感動が甦るのを感じた。彼は、ピアノを拒絶する自分に気がついた。だが、逆に、ピアノを嫌悪する以上に制覇してやろうと思う自分自身をも見い出した。
ピアノが何だ......ピアノなど、すぐにマスターしてしまえばいい......!ピアノを弾きこなして、俺を「野蛮人」と罵った西洋人を見返してやる......!
ザキリスは、ピアノという言葉に、アルブラートの顔色が変わり、気持ちが乱れているのを敏感に感じ取った。アルブラートは、ハッとし、音楽を生み出す楽器に過ぎないピアノを憎んでいる自分を恥じた。同時に、自分を見つめる医師の視線が、自分の心を鋭く見抜いていることを察した。
先生は俺の心を見通している......
警察で「あのこと」を聞いたから―俺を収容所で苦しめたのが元ピアニストの男だったと知っているから......でも、俺にはもう他に道がないんだ......
ザキリスは、じっと思案していたが、落ち着いた様子で語りかけた。
「あの音楽院は、専攻によって入学の年齢制限がある。ヴァイオリンとピアノは22歳までらしい。アルブラート、君がその気なら、8月の入学試験までにヴァイオリンとピアノの基礎を修得しなければならないな......
ちょうどパリに知り合いがいるから、今から連絡をつけておこう」
アルブラートは、医師に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。彼の戸惑ったような、気後れした表情を見て、ザキリスは微笑んだ。
「私には何も気を遣う必要はないんだよ―私はロンドン大学の医学部を出た後、パリには研修のため数年間滞在していてね。患者の中に、たまたまコンセルヴァトワールの教授もいたんだ。とてもいい方だった―あの方なら、君のレッスンを引き受けて下さるだろう」
翌日、アルブラートは、アリを連れて、ザカートと気晴らしに買い物に出かけた。アリは嬉しそうに彼にしがみつき、何か言いたげな表情で、父親を見つめていたが、市場に着くと、物珍しそうに辺りの物に触ろうと夢中で手を伸ばした。アルブラートはアリの活発な動きが右膝に響き、仕方なく赤ん坊をベビーカーに座らせた。
ザカートが一通り買い物を済ませ、絨毯屋のそばを3人で通りかけた時、買い物客の女性たちの声が聞こえて来た。
「今度のカイロの爆破事件の怖ろしかったこと―年末に、私の兄が仕事にカイロに行く予定だったのよ。でも別の用事ができて、その仕事はキャンセルになってね―運が良かったわ」
「本当に、パレスチナ人というのは油断ならないわ。難民の男たちは、ほとんどがゲリラ部隊に志願するそうじゃないの。イスラエルよりも、パレスチナ人の方がよっぽど恐怖よ」
アルブラートはその話を聞いて、いたたまれなくなり、足早にスークを出ようとしたが、膝が痛み、スークの入り口の壁にもたれかかった。ザカートは心配そうに彼に近づいたが、彼は辛そうに眼を閉じて、じっと動かなかった。
スークの入り口には、たくさんの男たちが椅子に座り込み、煙草をふかしながら談笑していた。
「この頃はあの一族は気前がいい。このキセルも彼らから買った」
「『青い男』のことかね」
「そうそう、彼らは北上してリビア付近で商いをするようになったんじゃ。『青い男』から買った羽毛のチョッキや絨毯は、皆、質が良くて安い。おまけにサハラでの興味深い話もする。最近は、蜃気楼が立つ暑い日など、赤い服を着た若い女の姿がよく見えるそうじゃ」
アルブラートは、何気なく聞こえて来たこの会話に、ドキッとした。
「赤い服の若い女」が蜃気楼の中に......?まさか―アイシャの幻なのか......?
その日の晩、アリを寝かしつけると、アルブラートは客室に戻り、ベッドに入ったが、なかなか寝つかれなかった。スークで耳にした女性の幻の話や、パリ音楽院でピアノを学ぶことなどが、頭から離れなかった。
彼は、自分はピアノとは真正面に向き合えないのではないかいう不安と、アラブを捨てるために西洋音楽を学ぶということに、自ら大きな矛盾を抱いていることに気づき、悩んだ。だが音楽院に入り、せめて祖父と同じヴァイオリニストになりたいという決心は変わらなかった。
眠れぬまま、何度か寝返りをうち、壁際のソファーを見た途端、彼は驚いて跳ね起きた。
亡くなったムカールがそのソファーに座り、彼を見つめていたのだった。
ムカールは元気な頃のように顔色が良く、常に彼を惹きつけた黒曜石のような瞳が美しい光を放っていた。だがその声は、夢の中で聞くように、遥か高みから響いてきた。
「ドクターの言った通り、お前はパリ音楽院に行くんだな。俺が予言した通りになっただろう。でもお前はパリに行って、アラブの心を捨てるのか―お前は、西洋音楽を深く学んだ上で、今までお前の分身だったウードとカーヌーンの技法を更に磨くんじゃなかったのか」
「ムカール......!俺はもう苦しいんだ......アイシャがあんな酷い死に方をしてしまったんだ......もう俺はアラブのことも、パレスチナ人であることもすべて捨て去りたいんだ―パリに行って、まったく別の人間として生きていきたいんだ」
「それなら俺のことも忘れたい、アイシャのことも忘れたいのか」
「忘れたくない......!でも忘れなければ―忘れなければ―息が詰まりそうになるんだ―ムカールとアイシャの思い出は......すべてアラブに繋がることなんだ」
「そうか。俺を忘れたいか―でもそれは不可能だと、そのうちお前は気づくだろう。それにアラブの心を捨てるのなら、ウードとカーヌーンは、お前は二度と弾かないのか―もし弾くとしても、矛盾に一生苦しむぞ」
アルブラートはこの言葉に何とも言いようが無かった。ムカールは続けた。
「お前がそんなにアラブを捨てるというのなら、パリに行く前に、エル・サハラに行くべきだ。そこに最近、若い女の幻が出現すると遊牧民の間で噂になっている。きっとアイシャだ―アイシャは、お前が忘れたいと思えば思うほど、お前の前に姿を現わすんだ。ぜひアイシャに会って、砂漠の風を感じて来い―お前はそこで、もしかしたらアラブへの想いを真に吹っ切れるだろう」
ムカールの姿はそのまま、霞のように消え去った。アルブラートはこの足で、サハラ砂漠まで行くのはとても無理だと感じた。だが、今のムカールの言葉は夢でも幻でもない、現実に聞いたものだった。
彼は目覚ましを5時にセットし、旅行鞄に一泊分の衣類と、700ポンドを財布に用意した。午前0時をほぼ回った頃だった。彼は机に向かい、医師宛にメモ書きを書いた。
―親愛なるウィリアム先生
昨夜、ムカールの幻が現われて、アイシャがサハラの蜃気楼にいると言うのを聞きました。私はその真偽をぜひ確かめたいのです。マルサー・マトルーフまでタクシーで、その後シーワ・オアシスのホテルまでジープで行き、1泊して帰ります。いつもご迷惑をおかけして申し訳ありません。アリのことをよろしくお願いします。どうぞご心配なさらないで下さい。無事に帰ります。
1963.1.10 アルブラート
アルブラートは目覚ましと共に起き、すぐに着替え、メモを1階の食卓の上に置くと、家人を起こさないように、そっと家を出た。午前5時半には、国鉄の駅前に着いた。
彼は、ずらりと並んでいるタクシーの一台に乗り込み、行き先を告げた。運転手は、その地名を聞いて眉をひそめた。
「マルサー・マトルーフ?エジプト軍の基地じゃないか。あそこまで2時間はかかる。あんたはパレスチナ人だろう。訛りですぐ分かる。どうせフェダーイーンとして軍隊に志願しに行くんだろう。俺は、パレスチナ人はお断りだね」
アルブラートは、黙って運転手にいきなり200ポンド紙幣を握らせた。運転手はその額に驚いて、この金なら家族を半年養っていけると言った。
「難民のくせに、あんたはえらい金持ちじゃないか。フン、この金ならマルサー・マトルーフまで行ってやってもいいぜ。だが何だってあんたはこんな金を持っているんだ」
「俺は、軍志願じゃない。シーワ・オアシスに人を探しに行きたいだけだ。それに、俺はカイロで演奏活動をして、金を貯めたんだ」
「カイロの演奏家かい。そう言えばオペラ座近くのレストランの演奏が大人気でレコードも爆発的に売れたっけな。そうだ、あんたの顔はレコードで見たことがあるぞ。まだ小僧っ子のくせに、大したもんだな」
運転手は気を良くして、マルサー・マトルーフに向かって出発した。走っているうちに朝日が昇り、午前7時半には街に着いた。
アルブラートは、タクシーを降りると、早速ホテル街へと向かった。最初に見つけたホテルのフロントで、シーワ・オアシスまで乗せてくれるジープはないかと尋ねた。
フロントの受付係は、相手がパレスチナ人だと分かると、あからさまに嫌な顔をし、別のホテルで聞けと素っ気なかった。彼は、2軒目のホテルでも無視された。アルブラートは、こうしてパレスチナ人というだけで、ホテルのフロントで無愛想な扱いを受けると、17歳の秋、初めてサイダの街を訪れた日を思い出した。
膝が痛み、くたびれた彼は、3軒目のホテルの前に仕方なく座り込んだ。すると、肌の黒く、小柄な50代ほどの男が親しげに近寄って来た。
「あんたかい、さっきからシーワ・オアシスに行きたいと言っているのは。俺がジープに乗せてやろうか。だがサハラの旅は高くつくぜ。あんたはいいなりをしてるな―まず金を頂くとするか。往復代200ポンドでどうだ」
アルブラートは男に金を支払った。男はしわがれた声で笑った。
「俺はサハラの案内人、マーディ・アル・ユスーフってんだ。最近、シーワ・オアシス周辺はトゥアレグ族が縄張りを張っている。『青い男』どもは中には気の荒い奴らもいて危険だ。まあ、俺のジープに乗りゃあ、昼前には安全にオアシスのホテルに着くから大丈夫だ」
●Back to the Top of Part 16
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