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<明晰判明、アルケー、本質・理解> 哲学は「明晰判明」なものやポシティブなもののみを相手にする、と思い込んでいる人が多い。 なので、この誤解から解いていきたい。 つまり、ぶっ壊して置き直し、したい。 哲学の目的は「ポシティブな一意」追及ではない。 「無知の知」の確認的反省なのである。 対話すれば「ネガチブな多様」でもある、つうこと。 主観の「有」だけでなく、客観の「無」も同時に必ずもつ、ということ。 明晰判明さというのは「・・・である」、ということの反省で得られる。 同義反復の積極肯定ではある。 しかも最初からあるもの(アルケー)であって。 これは主語命題の、哲学的反復確認を指す。 西洋ではありてあるものは神にすらなっているものであるが。 しかし神々に拠らせて祀って立てたら、オイラたちには、カルトにしかわからんなる。 そうではなくて。 明晰判明な、とは、単に自己享有の、「ある」、「ない」のこと。 自分個人の、あるなしを言う。 エゴとして十全な、「自己存在」のこと。 つまり、この世にありえんイデアやオルガノンのことでもあるわけだ。 あえてオクケン言うなら、数学的論理判断の、よじれのことでもある。 感性と知性が、ここでよじれて点になっている。 自分と世界が、ここでよじれて、一体になっている。 あり、なしすら、命あるものは、ここでよじれる。 つまりそこにあるナニカ別のモノではなく。 本質・理解した自己享有の反省、つまり「無知の知」のこと、なのだ。 「ない」も、含むのである。 つまり「無」も含んでいる。 自己を反省し、その無知なることを確認し終えて命題の主語に立てた、ということなのだ。 この主観的に「ある」ことの持つポシティブさ、ということ。 これを、「表象」でしか理解していない輩は多い。 残余のワカラン部分は神任せにするのだ。 ある、を神任せにすると、無責任が特に酷くなるようだ。 じつは、ある、という基本的なことすらワカランなってくる。 つまり物事の片面の、それもうわっつらしか見ようとしていないと、「客観の無が」わからなくなるということ。 哲学で大切なことは「表象・認識」ではなく。 「本質・理解」なんであるが。 主観・客観揃ってないと、物事の中身も含めて全部理解、ぶっ壊し、なんてムリだ。 知力で対象に認めて「知識」に織ることじゃないし。 それができても、「本質」には出会えやしない。 ぶっ壊してみんと、わからんことが多い。 しかし科学で理解できんものは、科学的命題理由が解って知識を得ても、やっぱり理解できんはずだ。 いつまでたっても、本質の表層にすぎん「表象」認識だからだ。 だからって信仰に頼って理解不要カルトに固まってしまうのは間違い。 いや、場違いを生む。 つまり、理解するということは。 知識や織物に主観を編み込んで、奴隷化を受け入れることではない、ってことだ。 <理(ことわり)、ポジ・ネガ> 適材適所を確認して理(ことわり)にし、しかもそれをぶっ壊して。 無知の知に至り。 すべてをもとのサヤに戻して、つまりポジネガ反転して本来の質に戻して、初めて理解だと言える。 その理(ことわり)までをも解することなくしては、理解のしようが「ない」のだ。 有る、表象の受け取りのみではなく。 反復しての受け取り直しが、理解ということには要る。 行為を反省し、無に帰する、そのことが必要なのである。 「本質・理解」とは、そういう意味だ。 つまりネガチブさ、という反面認識も必ず必要。 ポシティブさ一辺倒信徒になっていたんでは、これを理解できようがない。 <アルケー、主観、客観、知識、知性> 特にプロテスタントの輩に、これが多いように感じてしまう。 彼らはその教義において、主観を嫌がるからだ。 しかし主観こそが哲学の出発点なのである。 ・・・である「あり」、の本質であり、アルケーなのである。 客観は、その曖昧な主観を「正確に量ろうとする倫理カテゴリー」つまり主観の枠の中での縛りででてきたもので。 客観はその場では、言わば、お客様にすぎない。 知識を、科学的認識や命題へと「客観的」に置いてはいるんだが。 お客さんを、その綾織った「知力」だけで相手できると思い込んでいるから、正確に量れても倫理カテゴリーを無視することになってしまう。 (カテゴリーの意味が範疇ではないので、未だきれいに理解できんと思う。) おもてなしは心構えからであり、うわべの知性で相手できんのは、しかしあなたもご存じのはず。 ネガチブな自分、というものが、深くその場に絡んでいるのだ。 なのに、自分のそれを全く見ていない。 おもてなし「感情」が「勘定」になってて、しかも客観化で、・・・でありえ「ない」に、なって。 もとの主観が、なくなってしまっているのだ。 「知識」に祀り上げて、とにかく「儲けよう」とすると、そうなるのだ。 知性は詐欺をもやるが。 哲学は、詐欺師や宗教カルトは相手にしないのである。 もちろん、商売にもしないし。 (商売にできるのは「学術知識」のほうであって、「哲学」じゃない。) 哲学が相手するのは、ネガ・ポジの「両面」もつ本質なのだ。 狙いは「本質」。 そして知識や知性は、直接相手にはしないで、かならず本質のあった「現実」を絡ませる。 <現実、ある・ない、感性> 生きている「自分自身」の「現実」のほうが、明確な目的理念より大事と見るのだ。 ここら辺が、東洋人に哲学が広まらない理由だろう。 常識人が大事にする明確な目的は、哲学はまったく相手にしない。 商売道具の客観的計測データが大事などとも、考えないのだ。 そっちは「科学的、再現認識追及」のほうである。 現象の客観的計測データを祀り上げるのは、科学的知見である。 目的があるから、それに基づいてそうするのだ。 哲学は、「目的」ではなく「現実」を先に振り返る。 つまり現象などは気にせずに、「実在」の方を常に気にしている。 そっち向いている。 現象(エアシャイヌング)なんてのは、肯定も否定もしないのだ。 この、現象への道筋は、おいら、長い間囚われていた。 しかしオルガノンへの舗装工事を、どこかで誤っているとわかった。 へんな心理学が紛れ込むので、わかった。 ナニカはあるらしいんだが、そもそも対象が明晰判明でなく、消えちまう。 それ以前に、「ある」・「ない」という明晰判明な「現実」があるのだから、当然、こっちから先に気にして当然なのに、ほかのもんに気を取られて気にせんので。 明晰判明な「自分」というものを、「反省」でしか相手できないんだから。 舗装工事やってる途中で、最初の主観が消えてしまうのだ。 理論が、いつのまにか論理になっちょる。 「はっきりしない認識」というものも確かに「ある」。 (しかし同時に、もしくは「ない」のでもある。) このある、だけ見ていたんでは話にならんと気が付いた。 哲学は、常に、「はっきりせん主観が先に相手のもの」、なのである。 自分が相手。 つまり自分の「感性」を注視していって、その「無知」を見ようとすれば。 そのことですでに、反省は得られているはず。 客観的現象に囚われるのは、主語を消す事故起こすためのものじゃないはず。 何か、泥沼に嵌める「詐欺意図が紛れ込んでいる」のだ。 この紛れ込んでいる、のも、「あるもの」としか見えちょらん。 ここに見えんものが紛れ込んでいる。 そんなへんなもんに囚われんと、無知のそこ(場所であるとともに底でもある)に。 「自分」と言う、極度に<明晰判明>な<享有認識>が、「ある」んで。 (もしくは「ない」ということもあるんで。) 常にそこから、始めるべきなのだ。 わからん現象からは、そもそも哲学は「始められんかった」のである。 (おいらの半世紀以上の無駄な経験の話、そんだけ浪費した。) しかしもちろん、<明晰判明>な<享有認識>相手でも。 無知をネガチブ眼鏡で見てるのに、ポジティブな「ある」が出て来る。 じつは同時にネガチブな「ない」、も、こちらは引っ込んでいる。 そのことが反省で、わかる。 だから普通は、ネガチブな「ない」は命題にしないし、論理上では見えてない。 しかし哲学では、その狙いが本質なのである。 引っ込んでいようと消えようとも、いずれ引きずり出すべき。 一度感性の網に引っかかったら、逃さ「ない」、これが「厳密さ」というもの。 現象に囚われると、お客さんにひっかかり、この厳密さを無くしてしまうことになる。 <想定・憶測> この「ない」は難しいし、普通には見えない。 なので厄介だ。 ここに客観的図式(構想力)ともいえる、ネガチブな力?が働いているのである。 これが主観的図式のオルガノン(想定)でもあると、こっちも未だ(憶測する)のみ。 主観に対するカテゴリーの倫理的縛りとちがって、図式は全く見えてないのだ。 ややこしい図式論議。 本文で、そのうちいっぱい出て来るだろう。 とにかく現象に囚われず、直に導く「感性を注意すべき」である。 <汝自身を知れ、エポケー、無知の知> つまり哲学をやるのなら。 西洋哲学の中興者デカルトの言い出した、「哲学と言うテ-マ」を追求すべきなのだ。 これは間違うことが少ないだろう。 単純な問いの此処にも、じつは、これがあるのである。 「哲学とはナニカ」が。 「自分自身を知ること」において。 ナニカへの「無知を自分でまず知る」というテーマがある。 これは大モトは、「汝自身を知れ」という、太古の神託だった。 哲学の創始者ソクラテスの、座右の銘だったもの。 眼前の現象(エアシャイヌング=空気の輝き)などの詐欺に囚われる前に、必ず、そこから始めるべきなのだ。 うわっつら見る客観現象からは、哲学は始められない。 心理学的形而上学や、虚無的論理学へと落ち込むだけだ。 (これは自分に言い聞かせているんである。) エゴという主語は、ポシティブなものだ、と思い込んでいるサイコパス悪魔もいるが。 実は、極度にネガチブなものなのである。 主語を客観的に見ているから、そう言えるのだ。 享有のように見えて立ってるエゴ。 欧米のそのエゴは、じつは徹頭徹尾共有物なのである。 その証拠に、プロテスタントは共有しか認めないではないか。 ちょっと立ち止まって自己反省すれば、わかること。 自分勝手で極度に主観的なものは、公共の場では隠れる、のだ。 隠れてしまって見えなくなる。 それが、ちょっとでも(倫理的に)反省すれば、出て来て見えるハズ。 エゴの意味が、現代特有の悪意で反転しているので、わかりづらいかもしれんが。 そのエゴが、最初に世界の中で感じているナニカは、(空気の輝く)現象認識ではなく。 感性だ。 悪意ある「目的」じゃなしに、自分自身の「感性」。 この感性でもって、自分だけに「ある」倫理を見つける。 それが、哲学との出会いとなるはず。 他人と共有する感性というテーマじゃない。 そんなもん、悪意によってもたらされた幻想。 哲学(的反省)は、ポシティブさ認識などからは、決して始まらないのである。 むしろ「ネガチブ」なものを、つまり(共有の)感性を、「現実」の片隅に見つける。 自己(事故)の(享有の中に)まず最初に反省で、ナニカを認めてしまい。 それも現実だ、と理解した「そこ」から、始めるのだ。 つまり感性的にひっかかり。 「そこ」で佇んで。 (これをエポケーというんやが。) 自分(らしきナニカ)を見つける。 <ディアレクチーク> それをさらに(ありえ)「ない」と。 つまりネガチブに「反省して」。 あえて親しみのある「共有論議」に、ディアレクチークにして。 その思惟を、今度は享有に戻って逆に辿り確認して、無に帰する。 もとの鞘に戻す。 そして、その「時空」を対象にした「対話」に仕立てて。 命題提言として言うのだ。 客観的には、確かに享有してたと思ってた知識は「ない」と。 それでいい。 「ない」ことを、つまり「無知」を確認し確かめる。 そのうえで。 自分から、今度は(享有的思惟に、つまり自分自身に)戻って。 此処に無知が「ある」ことを「悟る」。 悟りきれんこれを、ひっかかったエゴを繰り返す。 つまり反芻して反復するわけだ。 <自分の「無知」を自分で辿ってまず確認して、それが客観的には「ありえない」ことを悟る>。 <同時に、享有的に「無知の知」として、それが「ある」ことを悟る。> これが哲学の実践の形式なのである。 実はこれが、「演繹」、という理論行為でもあるのだ。**まだまだ続きそう。自分用コピーやりたい放題。落第してもしらん。
2024年11月26日
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問いを立て、そこから始めたい。 哲学とは「ナニ」であるのか? もちろん答えは決まっているので、それを概説したいわけである。 オイラには正解の「無知の知」がある。 それ以外には、客観的には「ありえない」と思うのだが。 無知の知というこれは実践的学問なのである。 詐欺にも宗教カルトにもオカルトにも、直には関わらない。 (万人が哲学者だと認めるカント先生はオカルト好きだったんだが。) このカント先生の最も大事な論議に「コペルニクス的転回」というものがある。 哲学とはナニカ、の論説なのである。 これを認めない人も、なんと居るらしいんだが。 そりゃ、哲学つうことを理解できん人だろと思う。 つまり自己反省が出来ん人だと想像できる。 哲学は反省でできているからだ。 この<思惟の大転回>なくんば、哲学ではない。 日常の思惟とは違うのである。 なので、これを最初に上げておきたい。 <思惟の大転回> これは哲学の思惟モーメントが、普通の日常の思考とは「逆向きである」ことを言う。 一度納得していたものを放棄しての。 自分と言う、因果の時空への再度の統一的逆転。 先生は、「思惟の選び出した対象を思惟によってどうにかするんではなく、思惟の方を変えたんだ」、という言い方をしてる。 科学的な客観思惟にムリヤリ主観的反省を持ち込んで解説しようとしたんではない。 ましてや、パラダイムをとっかえたんでもない。 (実は科学的思惟には、反省などは、一切なじまない。) 科分離して理解してたことを捨てて無に還り、自分が無であることを確かめといてから、過去の時間・空間を日常とは逆に、過去へと辿るのである。 結果的に見出すのは自己の自己性、つまり主観に戻るのだ。 天動説、地動説を持ち出して、同じ宇宙論パラダイムの逆転を見せて説明することが多いようだが。 あれは、哲学理論を根本から理解できない人による誤り解説なのである。 カント先生の論議は、そもそも形而上学(宇宙論)ではないし。 天動説、地動説といったパラダイムとも無関係。 もはや科学的思惟でもなくて、むしろそこからの大ケ-レの主張なのである。 科学というのは、あんたも私も「共有」の、客観的思惟だ。 科に分離した思惟でもあるので。 科学に思惟転回とか反省させようなんて、そんなん、ありえん行為なんである。 そうではなくて。 対象への思惟の方向、その「モーメント」を180度変える。 何度も言うが、あんたのパラダイムは無関係。 問題は「思惟」の、数学的モーメント方向の転回なのだ。 カント先生は思惟の時空を、架空の場所から取り出して見せたんではない。 思惟が、あらかじめ当然ある時空へ還った、というべきか。 経験を伴わない、先験的な思惟となることで、これを可能にしたのだ。 ウソの思惟になった、んじゃない。 経験に先立つ思惟として、対象の客観ではなく、そこにある主観を選んだのである。 非常に曖昧な思惟になるのは事実だが。 経験に先立つ、あらかじめある、思惟にはなる。 反省で、自分向いて、180度逆になったから転回なのである。 だが、もちろんこれで科学的(手法による)思惟ではなくなった。 超越したんじゃおまへん。 哲学的思惟になったのだ。 科学を思惟(反省)するものになったんでもないので、コレ、まちごうたらあかん。 ここから科学哲学なんていうへんな一派が出て来るんだが。 詐欺の類だとオイラは思っている。 そもそも逆向きの思惟になったので、科学的な客観的思惟では、なくなってる。 科学的な客観的対象認識の思惟を、明晰判明に辿れる「主観的思惟」に変え、しかもその「モーメントを逆向きに」したのだ。 つまり大転回した。 180度反対方向向いて、これによって、・・・で「ある」を忠実に辿れるようにし、心身統一的な、「思惟本来の姿」のものとなった。 人の思惟はもともと、対象認識であると同時に、その対象から見られる認識でもある。 (これはデカルトが明らかにしていた、見る者は見られるものである、という論議。) そういった両面性の(本来の)思惟が実現したと考えるべき。 もちろん日常の、普通の思惟ではないのである。 日常と言った日頃のしがらみに囚われない、経験とも無縁な、あえて間違えて言うなら、「純粋思惟」みたいなもんとなった。 しかし「時空なしの純粋思惟などありえん」ので、これは間違いなのだが。 「エポケー」を介在させて、時空を中途半端に立たせておいて。 むりやり実現、実践させた。 カント先生は「先験的思惟の哲学を主張」したのである。 (実際には図式のポジ・ネガの力が働いており、見えてない部分があるので、これも十全には正しくはないとは思うんだが。) 先生は、対象認識の大転回、「ケーレ」、という言葉を使っている。 だが、客観認識のままでの、対象へ向けての思惟ではないのである。 客観的に、その逆の、対象(知性)から客観知の方へ向かってケーレは、「できない」はず、なのだからだ。 なぜかというと客観は、「ネガチブな図式」の支配下にあるからである。 (これは常識知識からはちょっと難しくて、複雑なオルガノンの法則なので、いずれ解説したい。) ともあれ、対象(感性)から主観へ向けての反省的ケーレなのであるのは間違いない。 思惟が、まるっきし逆転しているのである。 しかもすでに、お客さん抱いていない。 客観的認識指向消えうせている。 主観も客観も、同じく、ともに、もともと「オイラの思惟」である。 享有でポシティブな・・・である図式を辿るのか、 共有でネガチブな・・・でない図式を辿るのか、の違いだけでもないのだ。 (統一的な時空の絡むナニカはあるが、それは見えてない。) 要は、「現実の時空で」立ち止まって「自分を振り返って、反省するかどうか」なのだ。 その「反」も実は「享有」についてしか、可能ではない。 共有については、そもそも反省しても、まったく見えてこないからだ。 客観は、オイラの代わりに客を立てる、ネガチブな思惟。 なので、「繰り返す」ことはできるが、「反省」はできないのだ。 反復はできても、反芻的には決して辿れない。 つまり科学的認識だと、客を差し置いて「受け取り直しできない」のである。 (この問題はたいへんな哲学問題、オルガノンの法則が絡むので、短い言葉で説明しても、何のことかわからんだろう。) ともあれ、思惟の大転回とは、つまり。 何かを客にして時空基準をおいて、他の「対象」計量に向かうのではなく。 思惟のモーメント方向を、その根本から変えて、自己の「本質」に向かうこと。 転回後の今度は。 自己の「本質」に向かう自己の自己性、つまり自己の「誠実さ」が命になるのだ。 自己に何かでも僅かにひっかかりがあれば、それは「事故原因」となる。 自己の自己性は、「無知」でなければ困るのだ。 へんな知識が、わずかでもあれば、そいつが邪魔する、ってことだ。 (だからオルガノンの特異点は、必ず数学的かつ「空虚」だし。) (自己反省の転回点は、誠実そのものの「無知の知」、なのである。) つまりカント先生のコペルニクス的ケーレは。 「自己反省による、自省的な(倫理的)思惟なんだ」、ということである。 これが哲学の始まり、なのである。 そしてこれは「哲学の本質」由来、なのである。 科学理論なんぞとは、ぜんぜん馴染まんもの。 ミコワイ・コペルニク(銅屋のミコワイ)は、カント先生と同郷の先輩である。 天文扱う科学者というよりは哲学者であり、優れた数学者でもあった人物。 詳細は本文のつもりで序を始めたが、しょっぱなからつい、ふくれてしまった。 が、言葉足らずである。 オイラの哲学史を読んでいただければ、そこにも書いたつもりだが。 いずれ一節を設けたい。 **多分、序は延々と続く。
2024年11月24日
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「図式」つまり誘因部分がみえて、本体がみえないまま、(うふぉの)象ものや「表象」となってしまって。 それが知性を導いて。 (西洋は)これで道を誤ったんだと思う。 その様が、ファンタシア解釈の辿った「誤った過去の道」哲学史として、オイラたちに見えてるのだ。 科分離のような「知的な理解」への思惟が、もちろんそこには絡んでたし。 (これは、目的が先にあって、それに併せて殺して分けて瞳着コピーした、っつうこと)。 哲学の「抹殺」と「改変」に、知的な理解者が優生学でもって積極従事利用した。 そのことも大きい。 さらにその「利用」にも多々あって。 科学での「細分化」は果てしないし、「時空定義の厳密化」も今や果てしない。 ここが底、はないのだから。 該知の部分が機械技術、マシーナリー・テクニークとなり、その未知の部分がアジェンダにすらなるのだ。 アジェンダがある、つうことは。 予定企画が「ある」、っつうことだが。 それにネガチブな「共有」視点が「投企」されたものがアジェンダ。 ネガチブは彼ら拒否するので、一切見えてない。 目的企画された「陰謀がそこにある」、のはまちがいないのだが、底もない この陰謀は、モトがムリな「あり」、「なし」の区分に由来するのでは? っつうこと。 オルガノン的認識においては、そうなる。 (但しオルガノンは「ある」、わけじゃないので要注意。) 「ある」のはオイラという「享有者」においてのみの出来事。 「能図式」として客観論議を扱うと。 主題にあるはずの「享有の感性」が、「消える」。 親しく論議してるはずの主題が、気が付かん間に全くのベツモノになってしまう。 それゆえ、オルガノンにおいては、<能図式は客観化できない>、のだ。 ファンタシアは、実体のあるオルガノン構想である。 その「中身の実体」のこと。 悟性的に、共有的に働く「お客さん」、じゃない。 実体をネガチブにして、享有させて、働かせ、感性を利用して。 しかしウソの創造させるんじゃなしに。 カテゴリーへと導いて、牢獄に閉じ込める。 そういった図式(構想力)としか言いようのない、「働きのもの」なのだ。 しかしそないなもんは、「客観的には、ない」のである。 主観的に在っても、客観には「ない」。 どこに「ある」のかはっきりさせようとなると。 あるのは「主観的にのみ」あるのである。 思惟が無限ループする同義反復領域となる。 (能図式・想像?=ファンタシア)の反芻 想像共有(共同幻想)であっても、じつは「必ずなにがしかの享有があるはず」。 (コレはムリな命題かも?だったんだが) 能図式=?ファンタシア。 これはその点、それを期待して想像された<感性枠そのもの>という(むりな)オルガノン用語なのである。 なので、感性は、ここにも必ずみつかるはず、としたが。 但し「図式そのもの」は形式なので、一切見えてこない。 しかも<モノ自体は感性的には、ありえない>はずなので、「無」になるんだが。 つまり、(あるかどうかも、確かめようがない)のだが。 この紙一重、つまり<神単>が、「二重の意味を併せ持たせている」ようだ。 つまり重要な意味を持たされている、のだ。 「純粋悟性概念」であり、同時に、「感性の図式」というこれは、重要。 カント先生の、知性と感性の融合論議。 (科学的に思惟し、それを逆に哲学的に辿った、ような。) 1:感性でもって人の心を構えさせ、出来、させる。 「客観的にはネガチブな図式つまり”無”」である部分と。****11 2:感性として構えた人の心を反省し「もともと無知である」ことを認識させる。 「主観的にポシティブな図式”有”」の部分、にムリに分けられる。****12 オルガノンにつきものの二つの原則を、この「紙一重が仕立てている」と、みなせうる。 つまり神を単一にすることが、「みなし論議を立てうる」、原因なのだ。 科分離してるので、それが「知ることを可能にする」、ということ。 そして神を単一にしないと立たない、多神教上では絶対立たない。 おいらたちが・・・である、という時、そこに「想像」と「悟性認識」の一致が起こっているのだが。 この二つの原則がそろって、はじめて人は一人前なので。 片方だけ、感性のみ、知性のみの、うすっぺらいものでは、ダメなのである。 左脳だけでは計算高くてもダメ、右脳だけでは感情溢れてダメなのと同じ理屈。 双方そろった「無」が必要。****13 なので西洋は「神の単一」を選んだんだろう。 それが哲学への道を誤らせた。 これなしには、つまり「無知なしには、認識は成り立たない」のであるが。 しかし単一を選んだことで、哲学も成り立たないことになった。 無知の知の認識は消えてしまった。 ましてや<客観単独で原理論にもなったりは、絶対に、しない>のだが。 そういったウソの論議をも、「可能」にしてしまった。 ファンタシアの絡むオルガノン想像においては、しかも享有者においては。 必ず、「倫理」が絡むのだ。 倫理が絡んで、スジを通す。 オイラたちは現実に生きているんだからだ。 カテゴリーの制約に、享有者がモトモト「絡めとられてる」、つうこと。 (享有の「あり」ということが、倫理として働いて、カテゴリーを有効化させている、と言える。)****14 ネガチブな(ネガチブが見えてない)共有においては、だから倫理は理論上無視できる。 そうであるかのように、一見、見える。 しかし必ず、「倫理はオルガノンの枠からは出られない」、はずなのだ。 倫理観なき単なる想像などは、現実には、「ない」、と言えるからだ。 (自分の枠しか見ないのだから、何も(見えて)ないことになる。) 想像も、倫理を伴う。 悪魔的想像は「悪魔」なので、「倫理無視」なのであるが。 そうなると、<悪魔も神の権能の一部であるはず>となってしまう。 悪魔を創り出してるのは、宗教の(ダメな)思惑なのだ。 まっとうなどんな場合にも、しかし図式が必ず働いているので。 日常の共有行為も含め、人の側では、すべて<図式の導きに従っての現実>となる。 (共有の)無に導かれて、享有の有に導かれ。 オイラたちは、そこの(享有の)カテゴリーに囚われて、初めて「ある」、と言えるんだが。 実際には<共有の無に導かれて>「ネガチブ」な道をも進んでしまう。 倫理制約下の有限な(幽玄な)ものの「無」が、すべてを支配しているとも言える。****15 そういうわけだ。 すべて、現実がモトで、感性が導いて、認識が経験的に起こる、んであって。 (純粋な)認識がモトでげんじつになる、んじゃない。 そのはずなのである。 なのに客観論議ばかり、享有撲滅では。 モトモトの(ありえない)認識が現実となる、ように見える。 それはやはり「表象」という<誤訳が原因>なのだ。 構想力の自由な戯れ、なんてのは、そのずっと手前の「空想」なのである。 <現実は、「ファンタシアとして生きている時空」と言える>。****16 たとえ共有上であっても、その些細な想像にも、「生身の人間」が必ず要るのだ。 全知全能の造物主神や、AI自動機械などでは、だから創造などできっこないといえる。****17 AI自動機械は、真似し、しかできん。 切り貼りしか、できんはず。 自由な戯れで創造はできない。 どこまで行っても、いくら細分化して厳密化しても、所詮切り貼りである。 対象一般の共有空想では、だから、「ある」ことが希薄になる。 人工のホログラムにしか、なんない、と言えるのかも。 まともな想像(創造)には、ならんのだ。 想像にしろ現実にしろ、具体的な、「あり」、の実体が必要。 つまり「時空」での「経験」がなきゃ 話にならん。 (敬虔の伴わない時空は、まさにニセモノの特徴である。)****18 動詞から可能体で現実を考えると、客観的「空想」が可能になるが これは享有をもとにしたウソ事である。 唯一の神を考えることも、ウソ事に属する、ことになる。 但し純粋な享有(あり)だと空想される唯一神は、自分に対してウソつけないのでは? そういった疑問が生まれるだろう。 日本人が、自分にウソつける、ってのは、事実がいっぱい証明しているのだ。 だから西洋人は、日本人のことを「ウソツキ」と呼ぶ。 (西洋人が他人を騙すのは、ウソつきとは言わないんだそうだ。) (その極端な典型が、ユダヤ人のウソである。) 日本人が自分にウソつけるこれは、「享有」が唯一の神ではなく、自分というものの複数対象のことなので、可能なのである。 自分自身は必ず複数の人格を持ち、一人ではない。 これは「事実」である。 人格は、形式だけで中身のない魂なんかじゃない。 一人だと、また一人でないと、理論的に首尾一貫しないので、それが正しいと思い込んでいるだけだ。 したがって、<人の思考は唯一神由来ではない>と、わかるはずなんやが。 もちろん「多様な戯れ」でもない、のだ。 (能図式・空想?=ファンタシア) 「想像」には必ず、像となった「過去の時空」がモトに「ある」。 ある、は過去に、経験としてある享有の“有”。 オルガノン図式が働くからそうなる。 それに対し「空想」は。 モトの時空を持たない、過去の経験を持たない。 しかし知的な「絵空事」。 西洋は、すっかりこちら偏重になってしまっているのだ。 想像(創造)は、じぶんだけでは空想できないという「事実」の支配下なので。 絵空事でない時空を(たとえそれがネガチブであっても)過去に置いて持たざるを得ない。 その必要がある。 (共有のオルガノン図式は、だからファンタシアのネガチブな{仮想の}能図式なのだ。) 客観立てた仮想世界。 西洋は、ネガチブな能図式に嵌ってしまっている。 能図式・表象では、ファンタシアの表(おもて)だけを像化して科分離するので。 この時空が、人工の「選ばれし者」になる。 誰が選んでるのかっうと、神じゃない。 人工なんで、人が表象して選ぶんだよ。 これが、「優生学」、っつうことの介入の真相なんだ。 知らぬ間に、別物にすり替わってしまうことの真相。 真相だから、隠ぺいしてカチカチにして、キリスト教の教義(カルト)にもなってしまっているわけだ。 表の象は、像化が終わった後の、部分表現だから、優生学「判断済」に、ならざるを得ないのだが。 しかし図式なので、必ず、「モトの時空がある」。 だから。 可能的に在る判断済の選んだ享有モノを持ち込んで、摩り替える。 胡麻化すわけだ。 共有世界のはずの時間旅行を、こっそり個人だけでやってる、みたいなもん。 図式が見えていないので、そのネガチブ部分を排除すれば。 全くの人工物にすり替わって、真実に見えちまうことになる。 空想も、ほんとうはそれ固有の時空を持つのだろうが。 常に「ネガチブ」は「拒否」するということなので。 共有世界では、この「すり替わり」が起きてても何も見えない。 (すりかわり、すらも見えてない。) 客観というのはホントは、「みえない共有態」ということ。 「ある」は享有のみの出来事なので、客観にすると「ある」が消える。 なのに、そこに享有をムリヤリ持ち込み、見えるようにするのだ。 ネガチブで、拒否の、共有図式が働いて。 全貌が見えんままに、すり替え行為をも一緒くたにして、判断済優生学持ち込んで、ヤラセてしまう。 可能性の、能という世界が、宙ぶらりんにできる。 しかも見えん(図式)もので操ってる。 さらにこれをもとにした共有論議となると・・・。 ホンマ、メタメタどころの騒ぎじゃなくなるわけだ 現実にある、「享有」と「共有」の綾織る見えてない全貌をオルガノンという。 それを科分離して帰納させたものが「知る」、ということで。 哲学して演繹したものが、これもまた同義反復のオルガノンだ。 真相の極些細な一部がが見えて来たように思うんだが? アホなオイラは、ここですでに頭痛い。 同義反復は無限ループなので、機械だと暴走しちまう。 無数の命題が出てきたが、記憶にも満足に残らないのでちょっとだけ反芻してみた。 やはりオルガノンの領域は手に余るようだ。 哲学史はまだ終わっていないが、未完のまま一旦閉めて。 次は哲学概論に取り掛かろうと思う。
2024年11月18日
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ミャンマーではもともと。 ワー族やモン族といった少数民族が、中国人民解放軍のテコ入れで力をつけて内戦が起き、泥沼化していた。 彼らは少数民族というが。 倭人系中心の、反ビルマ族の利権グループなんである。 もとは英・米連合軍が、現地兵として大日本帝国への対抗馬に利権与えて仕立てた連中。 それがきっかけ。 戦後はしかし、利権はビルマ族に偏ってしまった。 政府の失策も続き、更に日本の商社も軍部に加担して、連中のの迫害にすらも絡んでいったようだ。 特にどこからも相手にされないイスラム系種族の悲惨な様子が、問題にされてた。 アウンサン問題なんかじゃない、のだ。 それは現地から追い出された英国や日本のご都合・偽装問題。 基礎に、旧日本軍や英米軍の築いた「利権」の問題が居座っていて。 その処分どーするか、問題なのだ。 なのにそれが、誰にも見えないようになっている。 倭人系諸族にとっては、戦時中は利用されて戦後は弾圧されるだけの側だったように見える。 彼らも、自分たちの生きる利権に気付いていないようだ。 連合軍には捨てられたのであるが。 それを中国が拾って、中国の援助で、秩序ができかけてた。 だが中国は自分の「一帯一路構想」が怪しくなって、また投げ捨てた。 結局、敗戦で現地の後始末もせずに手を挙げた、日本が一番悪い、ということになった。 虎も売電にも、日本の全貌はロクに見えていない。 モン族なんて、米軍の一部にもなってた種族。 ベトナム戦争でも散々な目にあってる、結構気の毒な連中。 最初から組む相手を間違えてた。 紋付きや倶利伽羅紋々のモン、なんだが?。 日本人には、当時からぜんぜんなんにも見えてなかったんだろう。 ワー族の、髪振り乱す踊りとか、家の千木や、アカ族の鳥居見たら、気が付くはずなんだが。 特にあんたも、ミャンマー問題なんて、遠い、あさっての地域の出来事だ、と思ってやしないか? トラにとっても、じつは中国問題と同じ、超重要案件なんだが。 彼が気が付いているのかどうか。 あんたやオイラが、両手上げても普通に生き続けてることに責任あんのだよ。 ハワイの旧都はしかし、最近になってだが、一斉に焼き払われた。 半ば中国化したカリフォルニヤの多くも、焼き払われてるようだ。 だから梅派は、中国(破壊)問題には深く関わって居るとわかるし。 アロハオエの亡霊にも気が付いて、対策していたとも言える。 武漢の米軍関係者から「凝炉菜」が広がったことも、偶然じゃない。 米軍というのが、ローゼンフェルトの指示書に従った陰謀組織であったことを忘れちゃいかん。 中共なんて、こっちも蒋介石と日本軍を戦わせて、上手に大陸を乗っ取った陰謀組織にすぎん。 戦後も米軍は列島で減反で水田潰させて、緊急時用の新米から消費させて自給率下げさせ。 種苗法も改悪させて、種からぜんぶ買わせて。 禁止農薬日本だけフリーにして、ガンにさせて殺して。 着々と外堀、内堀も埋め尽くして来ている。 それと同じ類の、陰謀問題なんだよ。 陰謀なんで、中身が見えん。 米軍は、潜在脅威にも対抗する組織なので、いまでも引っかかってるはず。 反米主義者をネット盗聴で洗い出して追放したり、事故や犯罪にかこつけて殺したりが多かったのだが。 最近も、豆腐船ともいう大量の監獄船送り付けて日本の大政変に備えていた。 革命はなく、暴動もなく、何もなかったので、幹部はホッっとしてたはず。 敵に寝返った731部隊に、国民ぐるみで毒殺されかかってても、気が付かんのが日本人というもの。 道徳潰しや、優生学の押し付け、倫理の摩り替え、カルトによる洗脳などは、小泉の時代までに、ほぼ終わった感がある。 しかし安部に命じた憲法改正が失敗した。 安部は消された。 誰がやったのかは、不可思議だらけでオイラには、わからん。 なので、韓国系マスゴミ総動員で、安部の背後組織の処理に動かざるを得なかったのは確かで。 背後組織も韓国系多いので、それで自民党は弱体化した が。 いくらキャンペーン張っても、中途半端。 暴動もなかったし、三島のような血の気の多いやつも出なかった。 これはまあ、あたりまえ。 TVなんてご老人しか見てない。 老人のオイラも、もう新聞すら読んでない。 カルトの排除指示は、結局自民党を弱体化させた。 それで今度は、直接、自衛隊を米軍指揮下に編入することにしたようだ。 日本の国益利権と、その軍部を切り離すことに、ずっと米国はご執心。 しかも何としてでも戦える軍隊に仕立て、日本に対中国戦争を担わせたい、というわけである。 今はその下準備中。 日本軍すごい、日本素晴らしい、キャンペーンばっかし張ってる。 台湾問題は、米軍に煽られ続けてこれまで来た。 それに対し、覇権国家意識持たされた中共が、正直に反応してるだけなのに。 ほとんど気づいてないというか、中国人自身が反応させられてると気づいてない。 尖閣も沖縄も、中国は、ここは「自国の文化圏だと、完璧に思い込んでいる」。 中国は、リベラル派にのせられているのだ。 アヘン漬けになっている、みたいなもんだ。 その先に第二次アヘン戦争が待ってる。 対外投資で利権確保のつもりが、ことごとく裏目に出てるのに。 こっちもぜんぜん気づいてない、そんなとこ見ても、わかる。 過去の日本みたいに。 国の経済規模に合わない、過度の軍拡や地場産業破壊に引きずり出されてるのに、架空の数字に騙されているのは日本人だけじゃない。 とっくに破産してる米経済も、正面から中共と張り合ってる、そのつもりでいるのだ。 資本家層は、カナダや、その米に、資産ぐるみで逃げているのに。 それを利用して中国側は勢力拡大のつもり。 米側は勢力取込みのつもり。 宋氏三姉妹支配の頃から、中国のその種族意識も本質も、米側の意識も、ぜんぜん変わってないのである。 こっちの問題は、たぶん虎は表に出てこんまま、中国解体・米破産の日まで、ズブズブと続くと思う。 しかしそこで待っているのは、ロシアやイランと、おんなじ問題なのだ。 彼らが全員、優生学主義者だから厄介なのだ。 対中国あいての小さな列島にとっては、戦争が起きたら即座に破滅戦争となる。 そして万が一、核ミサイル群を生き延びても。 その次は、もしも日本が生き残ってたらと。 再度の日米決戦まで控えさせて、用意されているわけだ。 中国ロビーの老練政治屋である新総理に、破滅戦争の回避策を、お願いするしかないのかも。
2024年11月17日
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ロシア、ウクライナ戦争は。 米国の地盤沈下を防ぐ目的で、下地を虎が作った。 売電がナチスと組んでロシアをそそのかして、やっと起こした代理戦争なのである。 これで米国政府の経済破綻は、かなり遠ざけることができた。 虎派も、米の石油産業と武器産業にも深く絡んでて、かなり怪しいのだ。 しかもウクライナ戦争が続いたおかげで、米軍の隠匿してきた物資は掃けたし。 石油経済も武器産業も、戦争で持ち直した。 だから景気はいいはずなのだ。 米国株式会社の破産は、かなり遅れたとみていい。 しかし東西のヨーロッパ諸国王侯と米国指導層の意見乖離も大きくなり。 オリガルヒとロシア正教の蜜月なども、こっちも相次ぐ軍の消耗で、怪しい。 プーチンとナチスを脅すしか、今の米国には戦争終結の手はないかも、だろうが。 戦争経済一本槍に転換した連中が、応じるかどうかだ。 ウクライナは、米に手を引かれたらそこで終わりだと、民族離散だと知っている。 しかしロシアは独自の衛星国まで動員出来てるほど。 なので、やりにくくなった。 ゴグあるいはマゴグの王が虎の停戦案に応じなければ、いずれ世界戦争になって、みんな破滅だ。 日本なんか、しょっぱなにロシアの超大型核で消えることになっている。 折しも、世界中で、それも過去に何度も絶滅したんでは、という痕跡が見つかりつつあるんだが。 虎の、対プーチン会談はマスゴミのガセネタだった。 ナチスのほうには一応、政権変っても支援約束だけ、したという。 オイラならプーチンに真っ先に、戦争嫌なので和平提案出せ、と呼びかけといて。 ウクライナ・ナチスには超大量の、それも十二分級の積極支援をするんだが。 虎はどう出るだろう。 売電は、戦争起こしといて「ウクライナが早期に潰れん程度の」小手先の援助しかしていない。 焦ってるのは隣国だけで、西洋諸国の何処も、旧兵器の捨てるやつしか出してない。 日本なんか特に、「なんにも出してない」。 戦争やってるのに戦争負担はせずに、商売用のカネだけ出して、将来へ課題だけ繋げる、というのが日本のやりくちだ。 虎が今回しょい込む課題にも、それがある。 北朝鮮問題もあるし、台湾問題もミャンマー問題もある。 こっちはぜんぶ旧大日本帝国の処分問題だが。 どこもきれいに処理できんかった。 そのことが生んだ、それも「対中国」絡みの問題なのだ。 大日本帝国を潰すために、連合国は中国を全面支援してた。 戦後、その中国の軍事力が強大化しすぎた。 しかし戦争できる余裕が、双方にあるわけじゃない。 次回、最後にこれを考えたい。
2024年11月16日
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さて虎は。 イスラエルを崩壊させ、ハルマゲドンの聖書世界を実現ようとしているネタニヤフのパレスチナへのジェノサイドを止められるかどうか。 も、気になるところ。 タカ派抑え込みは、もう始まってるようなのだが。 彼にはイスラエルが本命で、最も大事なのだ。 なんせ本人が、差別主義者でユダヤ人で、終末思想の組織員? パレスチナ問題処理は、反イスラエル工作員に仕立てさせたアラブ人諸国や、とりわけ怒らせすぎたイラン人を、「今後どうやって宥められるか」、に、かかっているんだが。 虎に果たして、<世界の生殺権を握る大統領>、の自覚があるのだろうか? ないかもしれん。 米軍が、未だ世界最強であるのは事実だ。 だが、イラン人を宥められなかったら、イスラエルもチャバドも終わりである。 米国は強大かもしれんが。 イスラエルは、イランやシリア、トルコやエジプト、サウジアラビアを揃えて前にしたら、小国だ。 そして米国が直にここで介入するとなると、中国やロシアも出て来て世界戦争になってしまうことは必定。 日本は、破産中国からの80発の水爆攻撃で、終わることになっている。 小国なので4発でいいらしいが、狙っているミサイルは、そんだけあるらしいと、大昔に誰かが言ってた。 ハルマゲドンの戦いのあとで、真っ暗闇の核の冬が何年も続いて来て。 世界の方もすぐに後追いして終わることになってる。 キリスト教の聖書では、だが。
2024年11月15日
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人種を気にしない人は多い。 しかしトラはユダヤ人臭い。 それ以外の人種をゴイあるいはゴイムと呼んで差別する、組織員でもある。 裏取ってないが、チャバドという組織員だそうだ。 米の利権で立ったので、米の利権は守るだろう。 暗殺されなかったら、の話だが。 売電は戦争ばっかり起こしてきたし、米国とその同盟国の解体しかやってこなかった。 それでヒスパニックや黒人も、差別主義者の虎を選ぶしかなかったのである。 虎の思想は、カトリックに近くて商人特有のモノ。 超正統派、敬虔派だともいうし。 kkkさながらの差別主義者だ、という人もいる。 しかし政権持ってた時も、無駄な争いは避け、上手に立ち回って来てた。 完璧にイスラエル寄りだが、敵とは戦争より取引するタイプ。 だからアラブ人も票を入れたのだ。 言う事とやることが正反対の梅派よりは、支配下の日本も若干だが期待が持てる。 マスゴミは米でも日本でも、最後までウソ八百報道やってた。 ロシアのプーチンと接触しただのと、未だにウソ言ってる。 国内の報道機関も含めて、マスゴミのほとんどはすでに日本人ではないんだし。 詐欺師や犯罪者の集団だから、仕方がない?。 今後は、それではすまんだろう。 犯罪の摘発が始まる、と思う。 そこは期待。 全米の貧しい庶民が、今は超富豪の虎支持者、という変な構図なのだ。 庶民とは、国民の99.99%以上の、「労働に従事する普通の人々のこと」である。 米では、住んでいる場所からして違う。 そんな庶民に期待されている虎だが、課題は多い。 まず米国経済を、立て直さねばならない。 つまり「自分の懐具合」ではなく、「個々の庶民の日常の暮らし」をもとに戻すという、実に困難な課題がある。 1%未満の知識人階層の懐具合主導で、つまり資本主義という金権思想でこれまでやってきたのだが。 世界中が人工の電磁波漬けになってるのに、貧民が溢れてしまった。 人口削減のためにパンデミック起こそう、という事態やってんだが。 もうそれでは破綻しかない、そのことが見えてきたのだ。 しかし1%未満の知識人階層は、権力を労働者に渡すつもりはない。 自ら機械と融合して、AIの一部になりたい「基地外」たちもいる。 頭でっかちの偽ユダヤ人が、特に最右翼にいて暴力主義者?。 それは虎派ではなくて梅派のことだ。 彼らは時に共産主義者と呼ばれたるもする左翼リバティ派、つまりリベラル主張な連中なのだが。 原理主義、最右翼積極派のチャバド貧民と組むつもりはないにしても、最近落ち目だ。 しかしなぜ権力を譲り渡すのか? 同じ穴のムジナだからか? 両派とも、世界統一政府だの、ジオニズムだの、防疫思想だの、いろんな手段でジェノサイドに手を染めてきたのは確か。 しかし「凝炉菜」予防接種で人口減らそうとしても。 応じて毒あおいで死んでくれるのは、今や731部隊の本拠にいるマスゴミTV教の日本人だけだから、外国ではもうやめたのだ。 「凝炉菜」を未だに理解してないのは日本人だけである。 彼ら知識人は全員カルトだから、日本人もそうだろうと思っているのだ。 「日本人は特定のロット接種した全員が死んでるとわかっても、その意味を理解しないだろう」。 とも思っているのだ。 実は虎も、それに加担してきた部分もあるんで、実に、ややこしい。 その整理が大変だろうというか、整理できんなるはずなので、もう触れんだろう。 虎派の、ロバート・ケネディ・ジュニアの動きに、今後は注目する必要がある。 マスゴミは、カネ出してくれるイーロンしか気にせんとは思うのだが。 1月までに、反枠陳派、反電磁波派、反隠蔽派、反軍需産業派は暫時消されていく恐れも十分ある。 今後は、庶民に対する虎の、公約みたいなもんの行く末を見守るしかない。
2024年11月14日
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「知性」 知る、「知性」ということをここで考えてたようだ。 知性は、「単独」行動してんじゃない。 しかも「客観的にそれが像化作用をする」ことなどは、ありえない。 知性は、瞳を対象に置いて瞳着し「一体化する」のみのはずだからだ。 それが知る、ということのはず。 機能の瞳ではない、心の瞳。 表象であるなら機能だが、表象ではないはず。 物事の客観化には、自分と別に客を置く。 だから必ず単独ではなく「複数の視点」が要るんだし。 知的な像化つまり像の認識には、動詞行動も、知る行動の場つまり立居場所の時空も、必要なんだし。 そういった「モト」がないと、知性として像化させられない。 瞳着的インスタンスコピーは、できないはずなのだ。 知性が表象認知してんのじゃないし、知性が「アリ」を形成してんのでも「ない」、つうこと。 (一神教命題は間違っているんでは、と言いたいのだ。) つまり「感性」が<もともと「ない」>となると、知性も単独では、ありえ「ない」、と言いたいわけだ。 感性と、さらに「無の命題」が必要。 生命活動が必要。 (だからカント先生は、モノ自体の無を命題化し、(みえん)純粋悟性概念の図式を想定した。) 知性単独での知的な客観像形成などは、ムリ(無・理)だし、不可能なものなんである。 人の知性には必ず、感性の形式みたいなもんが、知性権能と同時に導いている。 カント先生が言う、あんよひも、があるはず。 この導きが、「命題におけるカテゴリーの作用」であり、「享有者に働く倫理」としておいらたちの日常に関与してるもの、である。 カテゴリーも倫理も、便宜的な仮のもんではないのだ。 実在のもの。 つまりつまり、知性そのものであるという、西洋の唯一神は。 オルガノンが出来上がっていくと、人の感性無くしては、なんにもできないことになっていく、わけである。 だから西洋では、神は最初から「全知全能」にして超越させてしまった。 人の感性すらも、知的に単に表象的に「ある」、ことにしたわけなんだが。 (アル、の立位置がおかしいだろ?時空の上に立つモノなのに、足元が空虚。) (ネガチブな客観無も、無視されてるだろが?、と、ここでオイラ言ってるわけだ。) (詐欺があるんでは?と。) 「知る」ということには、無知ではなく知識が相手だから、必ず始まりと終わりがある。 その矢口となる対象への「コピー能」みたいなもんが働いたと、確かに、みなせはする。 図式が働いた?あるいはそれが知性という力?、と想定ができる。 それは「オクケンの空想」なのであるが、それはいい。 そのコピーのさまの事を「命題」にした、しかも、「知る」は動詞なのである。 すでに動き出している知性と言う命題では「ない」のに、命題提示し、しかも「・・・した」のだ。 インスタンスという、瞳着の動作が、その知性動作の<反省・演繹>のために導入されたというわけだ。 インスタンス的な、剽窃ともいえる「同一化」が、ここに突然「ある」ことになり。 数学的に、<帰納・判断的>に、合同化を図ることになる。 これが知性的かつ客観的に「ある」、という事態なのだ。 「あり」も「無」も、演繹も帰納も、重なる。 このことが、この<重なること>が。 「知る」ということのためには必要不可欠でもあるんだが。 命題では「同義反復」といい。 あるいは動詞的に、これを「瞳着」と、命題みたいにいう。 しかし瞳着には後先がある。 優生の判断が、つまり優勢学的「帰納作用が」、ここで起きているのである。 但し時間・空間無視のままで、図式上の空想において。 空想の戯れじゃない、図式の指導下で。 (オクケンが起きてるんでは?) あり、が、つまり享有図式が、ここには(みえんままに、無として)働いている。 なんと、「あり」、が「ある」、ことになっている。 同義反復になっているのだ。 瞳着的な、つまり<モトからの>知的な「瞳指摘・動詞的」一体化。 これが「ある」、ということ、つまりつまり、これは「判断」なんで。 だから主観が先、モトのもの、時空のあるもの、なんではあるが。 「知る」には瞳着も必ず要るし、感性も必ず要る、のだ。 判断前に「ある」のは、「ありえへん」やろ? 理論的オクケンとしてムリヤリ取り出したが、つまりオルガノン的には、一体の不可分なもののはずなのだ。 瞳着像には、決してならないはずなのである。 つまり表象など、ない。 だから客観的対象認識などは「でき・ない」はず。 (純粋悟性概念が、判断済でなければ、できない。) (つまり優生学抜きには、決してできない、っつうこと) しかるに、優生学前に「客観的対象認識像がある」ということは、此処に何らかの「詐欺がある」としか思えないのだ。 客観像に、その(ズレたものを意味するような)「変容はない」、はずだし。 表象が「モトの像を再形成」したりもしないはず。 科学命題は人の側のモノであって、モトモトある感性とは違う。 (科学的認識を得る、つまり「科学的に知る」という事態は、どことなくおかしいい、っつううことを、オイラ此処で言ってるわけだ。) (単に、「客観的認識」といって、済ませるんだが、すまんだろうと。) (オルガノンの立場からみると、おかしいのである。) そこに合同化が、複数化しての合同化が「ある」、のは間違いないのだが。 瞳着が「ある」んだから、ある。 これは、ズラして別物になっていくだけでは、「ない」のか? ネガチブな何かじゃないのか?。 (おいら、過去にはそう思っていたが、別の理由があるのかも。) 瞳着というこの知性のコピー作用が、「知性の作用」だと、つまり「瞳着だ」とみなされ。 能動的に、動詞的に、その過程が知性として「客観性を持つ」かのように理解される。 時空手順すらも疑問だらけ、なのに、そっちは無視される。 (その無視の理由が知りたいのである。) 造化が、新知識の担い手となる、新事態がおきる。 それは、わかるかも。 コピーしたもんであっても、それが像となって新しく(うふぉ)「認知」されれば新知識となり、表象を通じて、伝達する役割をも持つ。 ただ、「享有者」が自分の瞳に写すんだから、瞳着・合同させるんだから「その客観」、というのはムリだろう、と思ってしまうのだ。 享有者を「包摂」しなくてはいけなくなる。 「全貌」を理解しなくてはいけない。 享有はわからんもの、なのに。 (神なら確かに可能だろうが、それはどこからの認識なのか。) (オイラ自身はわからんのに。) 本来、知性のモトは「享有主観」なのであるはず、とも感じていたから、こんな事言ってるのだ。 感じなきゃ、像化は起こらんので。 感性が必ず最初にあるあず。 なのに。 瞳着も実体は主観的な「あり」行為なんだから、享有主観なのであるはず。 なのに。 「象化あり」となり、「創造あり」となり。 知性が感性から区分される。 創造された像が、客観像となっている。 どこか、なんかおかしいというか、腑に落ちんのである。 (思惟のすべてを説明できんで、此処で思惟が混乱してるので、ようわからんだろう。) (ややこしいし憶測ばかり騙ってるので、そうなるんだが。) 知性も必ず、まず「主観から、おいらから始まる」んであって。 「お客さんから」は始まらないはず。 なのだから、なんだが。 (西洋の一神教徒はもちろん違う意見で、すべてを神に帰する)。 プロテスタントなんて、客観から物事を始める。 客観から一切が始まるんだ、となると。 客として置いて(主観が)観る、ことになるはず、なので。 客体の像が、「主導権を握ってしまう」のは数学論理的にもおかしい、変だ、とオイラ言っているのだ。 主観は、どこへいった?つうことになるからだ。 お客さんは「お客さん」であって、神様になんか、なるはず、ないんである。 なのにわが国では、お客様は「正体不明をいいことに」、神様になって君臨する。 (わが国では視点が複数あって神は複数なので、客観的でないのに、客にするから、なんだが。) 西洋では、認識の知恵が神様となって、複数の人々の間にモトモト君臨している。 (視点がモトモト単数。) (神はこれも単数なので、客観的にはなりえんはずなのに、なる。) (客観的に世間をカルト化して、詐欺る。) 科学的客観化は、一神教と論理的に矛盾する。 客観的認識の、客体の立場の、地をいくモト部分が、ぜんぜんおかしいのだ。 つまり西洋のそれでは、現実認識がぜんぶ、メタメタになる。 倫理観なし、カテゴリー無視となる。 (だから倫理のかわりに、エチカ使ってエチケット導入。) (カテゴリーの代わりに範囲カタログを鋳造し、範疇化した。) メタメタの理由のそれは、「表象」といった「誤り理解の事態」とは関係なくて。 単に<客観がネガチブ認識できない、その理由から>。 きてるんではないのか。 ということが、ここで言いたいことの一つである。 オルガノン的な理屈が、ここにも、つまり客観的認識の詐欺的事態にも、働いてるのであるまいか。 「こころ騙し形成の」図式利用が、図式「悪用」が、ここになされている。 そういえるんでは?。 (と、オルガノン的には想定しえるかもしれんと考えたのだ。) 「数学法定式」だとか、「メタバース」だとか、悪用は現実にあるのである。 数学無視の「ヘーゲル論理学」や「記号論理学」悪用の事を思い出してみよう。 これらは<定義された人工の時空の上でのみ>、図式利用で可能となって、理論化されるはずのもの。 客観的知性(がある)主張の、その根拠、となっているものだ。 主張は首長。 おれや、おれや、という、「優勢主張」の、あれ。 つまり、優生学が此処にあって先取り特権を主張している。 客観ブツであることになった自然(感性的認識の事)が、モノとなったり主人となったりするのは、これは西洋の事例だが。 お客様の地位は、「客体」使ってはじめて「同義反復的な享有利用」が「ある」ことになる。 ある、とは、「可能」になっている、というわけだが。 単に可能じゃなく、先取り特権を主張している。 しかもそれが(本来の)知性の働きというものかもしれん、のである。 そういう(見えてないネガチブな)オルガノン規則が、つまり図式が「ある」のかも。 但し数学上なら、「時空定義するので全く問題ない」のだが。 それを「現実に応用する」のは大問題というか、これがダメなのだ。 ぜったいに堕目、ダメ。 現実にはやっちょるけど。 おいら、「知的な認識に伴う、・・・である図式の真相」についてのオクケンを騙ってる。 (騙りの、そのつもりであって、知性を貶めるつもりなんぞは、もちろんないので、間違わんようにしていただきたい。) 知性が(ある)というのは「享有主体」のモノのはず、なのに。 共有「(「ない」が此処にあるが、見えてない)客観を支える根拠理由の憶測」になってしまってる。 その問題を採り上げてるのだ。 客観認識のさい。 その認識の元となる主観では、象や像が、直の「あり」の主題ではすでに「なくなっている」。 主観が関わる直の「あり」は、お客様、という命題なのである。 無意味なものである。 主観の主観では「ない」し、むしろその場に「ない」ものである。 主観が、ありとした(みえてない)客観にたゆたう、「表象」されたもの。 だから、瞳着的「知性が成り立つ」ともいえるんやが。 そういう仕組みが客観的に「ある」ので、客観が成り立つ。 というのはまちがいなのだ、と言いたいわけだ。 知性偏重。 瞳着偏重が起きている?。 いや、詐欺があるんだ、と言いたい。 象や像がはっきりせんプラズマ様のもの、量子様のもの、だから?。 ここは、前節で思惟を誤ってるのかもしれん。 読み取れん部分が、ある。 享有体が「主題」であって、「客体」が主題ではない。 享有体はUFOのように、何もかもはっきりせん、のは確かだが。 それが現実なので、はっきりせん。 数学的に言うなら、次元ものとなる、ヒジョーに曖昧な物なんで。 じぶんの足場の時空をさしおいて、現実を数学のように軽薄には騙れんのはまちがいないのだが。 だからといって、それで能を先に出して、そこで現実に面被らせて。 「主題」を、主体から客体にすり替える。 これでいいはずない。 我が国でも、「能」とか「幽玄」とか言って、じつは西洋の「表象」と同じようなことやっているんでは?。 そのような気がしてきた。 はっきりとは、わからん部分なのだ。 デジタル化論議は導入できまへん、そっちは一切なじみまへん。 ファンタシアは、イコンより「能動図式」、「能図式」といった、動きのある図象的意味相が確かに近い。 それはまちがいないのだが。 肝心の「能」部分にこだわると、それが、間違い起こす「もと」となるのだ。 ファンタシアの言いたいことは、「主題」であって。 つまり命題であって。 「目的利用」じゃない、命題。 無意味な物。 動詞的関与ではなくて、名詞が、つまり命題「だけ」が問題。 (命題に拘ると、すべてが間違う、その理由説明のつもり。) 無知の知を認識する、それも「無知な本人の様」なのだ。 つまり無のネガチブさに隠れて(つまり共有にして)、有を騙る。 享有する図式の働きが、「あり」(なし)得るのだ。 (この、(なし)が見えてえへんことで、詐欺が起こっている、と言いたいのだ。) (享有、共有は、オルガノン的には不可分の、同じものである。) しかし「ある」、「ない」を知的に問題にする以上、この区分は欠かせないし。 ある、ないも、同じものかもしれんのだが、主観、客観を騙るにも、欠かせない。 知るためには絶対に欠かせない。 しかし論議がどこかで、ちゃんとした理論に成り立たんなるのだ。 (それを図式の働きのせいにしてきたが・・・。) (詐欺がある?悪意がある?) 泥沼深くなってきた・・・ずぶずぶいきそう。
2024年11月12日
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今日でも、その地域には「少数民族ウラルトウ人」が生き残っているのだ。 なぜかアッシリア語を話す。 言語的にも文化的にも、何処から見てもアッシリア人なのだが。 彼らは自らをアッシリアではなく、栄光のウラルトゥ人だと語るのである。 多民族集団が去ったあと郷里のスバルトゥに居残った、本物のウラルトゥ人なのだ。 アッシリアから亡命していたスバル人もと奴隷の、反体制主義者が大勢いた証拠。 北方の異種族を討伐し、エレブニに本拠を移して後のウラルトゥ王族は。 実は腐っていたのだが。 アッシリアから逃げ出した人々がウラルトゥ軍を支えていた。 アルメニア人など、新たな周辺の異種族も加わり。 キンメリア人と言う、新手の寄生種族に王族が背乗りされてて。 内部分裂を繰り返し。 その、極少数勢力であったキンメリアに、どうやら支配王族が征服されたらしいことも分かってきているらしい。 卓越した軍事技術のみならず、姦計にも長けた、征服王朝の小種族であったようだ。 ウラルトゥのパンクシュは、首都での王朝の交代劇を、承認しなかった。 対アッシリアの前線にいてアラタマ旗を守る軍団は、自分たちの王族を捨てたのだ。 但し食料や武器補給のあては、ほとんどなくなっていた。 もはや対アッシリア戦争での、敗北、前線での玉砕は、目に見えていたのだ。 ときに皇紀元年。 彼らは対アッシリア戦争の継続とその糧秣確保のため、好きでもないバビロンに交渉したはずだ。 バビロンの彼らがアッシリアと袂を分かって、対アッシリア独立戦争していたからである。 が、返事はたぶん素っ気もないものだった。 パンクシュは、遠い遠いメディア帝国の首都に、使いを送る。 そしてメディアに、広大な自国の国土をそっくり譲り渡す、そのことを伝えたのである。 ハッチ時代の過去の同僚、マンダ族の子孫たちに。 これは実は、遠方のメディアにとって、あんまりいい話ではないのだ。 遠い、何世代にもわたっての戦争で負けかかっている広大な地域を、軍需品と交換で譲り受ける、という話なのだ。 帝国の領地は増える。 しかし、食わせる責任を負う人々が増えてしまうと言う事であって。 つまりは対アッシリア戦争への、食糧・武器の新供給先に仕立てられるという訳だ。 しかし遠い過去のことであっても。 同じ軍団で、ともにハッチ王ムワタリシュのもとで戦った同僚。 手持ちの、なけなしの食料、武器を出し。 メディア王は、快諾した。 遠い新領地を目指して、騎馬の全軍で進軍したのである。 メディア軍の主力が動いたので、力の回復してきていたバビロンも、好い機会だと動いた。 エジプトもまた、これを逃してはと、独立のために立ち上がった。 無数の部族や小国家が、対アッシリア戦に呼応して立ち上がった。 強大なアッシリアは軍事力が、たこ足状態だったのだ。 しかも、本国との連絡網もちゃんと機能していなかったのだろう。 あるいは、見えてないほかの要素が、いろいろあったのかもしれない。 アッシリア全土の堅固な諸都市は、諸種族の四方からの猛攻の前に、あっけなく次々と陥落した。 極度に古く、古代世界に君臨していた強権共和国の崩壊の話は、ほとんどない。 それを滅亡させた人々の話もである。 灰燼の中から、キリスト教のもととなる教えが生まれて来たくらい。 キリスト教は、西暦紀元年生まれでも4年生まれでもない。 しかも生まれはエルサレムのエルバアル教でも、バビロンのマニの時代でもない。 より古いゾロアスター教などの時代でもないと思う。 ずっと古い、この年代のアッシリア界隈だと、オイラは思っている。 主の去ったウラルトゥの領域に、大きく広がっていたからだ。 囚われていたイスラエル十部族も、生き残りが解放された。 しかし彼らには自分たちの国土に居座るサマリア人を追い払う力もなく。 国土を同僚に売り渡したアラム人とともに、いずこかへ去った。 バビロン軍は、余力でアッシリア傀儡の国ユダを討伐したので、今度はユダ族が、バビロンの虜囚となった。 ハッチの八民族は、その後どうなったのか? 彼らは東へと去って。 やがてシュメール語を話す人々は、オリエント界隈には1人もいなくなっていった。
2024年11月07日
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都市ごとに民族単位ではまとまらず。 宗教でも、どことなく一貫性がない。 これがハッチの特徴である。 特定の民族集団を考えるのは誤り、なのである。 家ごとの商売では通商路は危険なので、異種族が連合を組んで通商したが。 特定の税金負担、集金機構があったわけでもない。 それは各地にいっぱいあっただろうが。 ハッチ帝国の影響が残るオリエントでは、特に通商は、砂漠や山岳地域が平野部より安全だったようだ。 しかもそれは、オリエントという「狭い地域で考えてはならない」のである。 アッシリアも文字通り世界帝国だった。 ハッチも同様。 通商は世界とつながっていたのである。 中心となる帝国が滅んでも、なおも軍隊はいた。 これは聖書にすら出て来る。 もっぱらハッチ人(ヘテ人)の武将たちが、オリエント地域で警護や戦闘に従事していたと。 すでに国はないのである。 北部や山岳地域ではアラム人たちも加わっての、しかし警護は軍隊規模だった。 そしてパレスチナ地域にも、シュメール語で司令官を意味するダビドウム役が居たのだ。 新興諸都市や古い種族なども、そのエジプト軍司令官を中心として、緩やかな連合を組み。 山賊やアッシリア軍の脅威に対抗していた。 バビロンは飢饉から一早く復興したが、またしても種族がアッカド系に入れ替わっていて。 アッシリアとも覇を競い合って。 時には征服されたり、したりも、していたようだ。 アッシリアの政治体制は、領域型、種族型である。 ハッチは基礎が根本から違うのだ。 そんなオリエントの状況の中で。 ハッチ・エジプト系の人々は、軍務中心にパレスチナや砂漠地域に広がったようだが。 ハッチ人は本国が無いので、軍務の帰属意識が上司だけだ。 エジプト軍も、衰退する本国と、だんだんと疎遠になっていく。 彼らの文化の中心地も、地中海沿いや二つの大河の川沿いのみではなく、砂漠に大きく広がってくる。 やはり各地域のエゴが台頭し、諸民族はバラバラになってしまう。 シュメール語で司令官を表す、ダビデ王を見習ったのだ。 「ヘテ人を危険な前線に追いやって、その妻を寝取る」という悪習。 ダビデという王が居たのかどうかも、はっきりしないのだが。 その子、ソロモンの頃が、古イスラエル時代の、力のピークであるようだ。 以後、ハッチたちも、歴史の表舞台から消えていく。 特定の種族としては全く見えなくなってゆくのだ。 「神々の秘密」は、これ以降特に、アッシリアの「唯一神の力に」飲み込まれていくのである。 古いイスラエルの実体は、不明のままだ。 だが。 アッシリアの息のかかった、ユダ族という連中が、これから台頭するのである。 ここが西洋の世界史と違う点。 ユダ勢力が、これから台頭。 つまり一神教に改宗し、アッシリアの庇護のもとで種族を存続させ生き残ろうとする、モーゼ直系の部族グループが、歴史の表に出てくる。 彼らは「アッシリアとともに出て来る」。 彼らは神々を打ち壊し、通商路に不当な税金を課した。 歴史を書き換え、文書類を破棄し、敵対する種族を根絶やしにしようと謀る連中でもある。 ベニヤミン族の一部もこれに同調し、彼らはユダ王国をつくっていく。 それはアッシリアの傀儡王権であって。 征服地を奴隷にして、カワハギして食料にしていく軍事力以外に、さしたる特徴はないのである。 末端の、彼らユダ族自身が、儀礼的にオチンチンの皮をちょんぎられ、奴隷である身分を記していた。 唯一神、アッシュールの奴隷。 対する北イスラエルは、もともと、まとまりのないハッチの伝統を受け継ぐ多民族集団。 雑然とした文化なので、これも目立った特徴はないので、考古学遺物は見つからないのである。 しかし彼らにも希望はあった。 ハッチ文化の末裔たちが経営する国家が、まだ山岳地域に生き残っていた。 少人数だが、ハイーク族の軍隊も残っていたのだ。 但し本当に少数派なのである。 しかし王族の自覚や、隊商擁護の自覚もあったようだ。 アッシリアの横暴に飲み込まれまいと、旗上げした。 ナイリ地域の初代の王、アラメアが高名である。 国名は美馬伊那という不特定地域だが。 これは今日、歴史認識上からもほぼ消えて、敵の地域名の呼び名ウラルトゥが有名。 恐怖の火の山、ウラルトゥ。 あるいはヴァンやウルミアという湖が上げられることもある。 太陽の女神、アラメアの名を持つ将軍。 本当は彼は男であったらしい。 ルティプリの子、アラム。 種族名をその名に持つ、敵のアッシリアや後の時代には美麗王とも言われる。 女装した将軍なのだが。 騎馬民族諸族の間では、女病は崇拝の対象だそうである。 なぜかアラメアシュとは、言わない。 他の王についてはハッチ同様、ルサシュ、イシュプイニシュとかサルドウリシュとかアルギシュティシュとか、アル・メヌワシュとか、シュを語尾につける。 アッシリアの同世代の王たちと比べると、ずっと長命なのである。 ウソかホンマかわからんような、アッシリア絡みの話が無数にある。 作り話が多い、ということだろうか? 朝貢か婚礼か、にかこつけて、アッシリアの王子を討取ったという話もあるみたいだし。 アッシリアの女王が、ご執心だった、という話もあるし。 その女王が殺したという話すらある。 なにがしかの真実はあるのだろうか。 ともあれ膠着語を持つ阿羅武という種族が山岳地域にいたのは確かで、堅固な城砦の跡もいっぱい残っているのだ。 独特の石臼も、大弓も知られている。 今日のオイラたちが持つ、独特の石臼なのである。 彼らは通商や遊牧の、しかし貧しい山の暮らしだったようである。 アッシリア軍の横暴に正面から逆らい、ゲリラ戦を展開して抵抗していた。 彼らはやがて、同じような境遇の周辺種族に知られていくようになり、諸民族の希望となっていく。 後に、覚悟を決めて殴り込んできたアッシリア軍に国土奥深くまで蹂躙されて。 逃げ回るが。 結果的に、その領域も大きく、それで拡大していったのだ。 まるで項羽や毛沢東のように。 アッシリア軍も、ウラルトゥ軍は恐怖の対象であったようだ。 火の山の名として敵の名を呼んで、それが今日に残っている。 ウラルトゥは今日、アララトと訛ってしまったが。 オイラたちには、コニーデの美しい富士より高い崇高な火の山だ。 頂が二つあるのである。 ハッチは消えたが。 姻戚であった多民族国家ビバイナは、王族の自称ハイ族とともにオリエント世界の強国として躍り出て来る。 犬のような種族、遠い、後の隼人と同一種族だとオイラ勝手に思う。 彼らは阿羅珠の軍旗を立て、それがオリエントの希望となった。 過去に、ハッチ・カッシュ連合軍がバビロンを襲った時の軍旗であり。 そしてもっと大昔に、敗北してシュメールの王名表を閉じた時の旗。 諸種族が離散したときのアラタマ旗。 その旗のもとに諸民族は集まり。 対アッシリアの包囲網は出来上がっていく。 実際には、共和国アッシリアのほうが強かった。 大同同盟した彼らは1国、また1国と、個別に潰されていったのだ。 ハッチ系の国のみならず、フルリ人の国も、北イスラエルの、雑多ではっきりしない諸国も、次々と壊滅。 皮むきの悲鳴は巷に溢れ。 いわゆるイスラエル十部族は、アッシリアに奴隷として拉致されて。 その地域には別の奴隷部族、サマリア人が入植させられたという。 エジプトすらもアッシリアの軍門に下り。 ウラルトゥも、その国土の大半を失って北に逃げた。 アル・メヌワシュ、つまり長子メヌワはアルメリア領域へ逃げて。 帝国の首都をトウシュパから遠いエレブニに移動させ、抵抗を続ける。 アッシリア辺境スバルの地域からも遠く離れ。 力の差は歴然だった。 八民族の連合勢力は、風前の灯。
2024年11月06日
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そんな彼らも、カデシュの戦いとして知られるエジプトと大戦争やったころが、国力のピークであったようだ。 ラムセスは2万の戦車軍だったと言われるが。 引きずってた兵站を含めると、たぶん何十万もの規模。 都市がいくつもくっついて従軍移動していたのである。 戦争は、勝ち負けなしであっさり終わった。 双方とも国の内外に戦勝報告したのはもちろんだが、実際には自分たちが負けたと思っていたはず。 ラムセスは1個軍団殲滅され、最後尾のセト軍団に辛うじて救出されて。 ムワタリシュはオロンテス川でどうやら、溺れたらしい。 双方ともボロボロになって現場から逃げて、引き分けて。 結局平和条約結んだ。 以後の彼らは衰退していく。 エジプトも、これは同様であった。 天変地異や気候変動が、和平に動いた主たる要因のようだ。 力の衰えが、双方に平和条約を結ばせた、とも言える。 その後ハッチは、あっさりと滅ぶのだ。 皮肉にも、シュッピルリアマシュという王の頃のようだ。 過去のデータなので今は違うかもしれん。 しかし何がハッチを滅ぼしたのか。 おいらは、王族の選んだ優生学だ、と思う。 伝統のパンクシュを無視し、王族は、選ばれし少数者だけで生き残ろうとした。 飢饉においては、強い種族のみが生き残る。 アッシリアなどは、奴隷を食って生き残ったのである。 奴隷制度のないハッチには、無理な芸当だ。 飢えを忘れかけていたハッチは、食料不足から混乱状態に陥った。 パンクシュは機能しなくなり。 王族は諸民族の庇護者の長であるのを忘れ。 自分たちだけ独自に生き残ろうとしていた。 彼らは宗教にこだわり、それを1神教に統一しようとしていたようだ。 怖い天候神も名の無い太陽の女神もお払い箱。 北方にあったらしい、その時の王族の祖先の地を目指し、そこへと帰還しよう、ともしていたようだ。 そんな状態の彼らに。 西方から、飢えた蛮族がどっと押し寄せたのだ。 重い、技術の遅れた車輪を持つ、祇園祭りの山車のような牛車に乗った、恐怖そのものの侵略者。 食料である活かした奴隷を、その車の側面に、折れた手首でぶら下げ。 悲鳴の響き渡る中を、遅い山車に乗った蛮族集団が進軍してくる。 その様が記録されている。 のちに小アジアで普通に見られるフリギア人だったらしいが。 ミケーネやアカイワ人、ドーリア人など、ヘラスの海洋種族が固まる前の、こっちは小アジアでの出来事。 海から来た諸種族が同盟を組み、小アジアを襲ったのが、動乱のきっかけなのだ。 娘を血祭りにあげてのミケーネの王の出陣は、それらの前触れでもあったかのように思える。 つまり、後の時代にホメロイタイたちに歌われた叙事詩は、このハッチ滅亡の出来事の些細な前哨戦なのである。 アマシアは敗北して東に逃げ、タルイシャは攻め落とされた。 港町ウラも、海中のアラシヤも、アルザワもキッズワトナもダッタシュシャも、ハクミシュも、そしてアリンナもハットウシャも、炎となった。 最後はウガリトも、海から来た巨艦の主たちの手に落ちた。 ウガリトでの防衛戦の話が、その地域に残されている。 エジプト海軍とも連合艦隊を組んでいた彼らは、都市防衛のため何十隻もの増援部隊を次々と戦場に送るが。 逆に、海上のピケラインが崩壊。 一気に攻め込まれる。 たった数隻の蛮族が都市に侵入して、それで大都市は瓦礫と化したと記されている。 侵入者は、蛮族なんかではないのだ。 敵は、数隻の乗員で大都市を崩壊させるほどの、巨大戦艦に乗っていたのだ。 その敵も、ハッチ側では早くから掴んでいたようである。 シェルデン、シュケレン、アカイワシャ、ルカ、ペレセト、デニエン、ウエシェシ、そして、攻め落とされたハッチ西方の諸種族も含めた連合軍であったと。 これにはエジプト辺境のペレセト、つまりパレスチナ人も含まれていたのだ。 過去にラムセスが、対ハッチ戦争で戦功者セト軍団に与えた、パレスチナ地域の軍団なのである。 彼らが中核にいて手引きしていた。 レバノン杉で作られた巨艦ゴリアテに乗った、そして食い詰めた。 海の民の、巨大な連合軍なのである。 ハッチは滅びた。 だが、エジプトは辛うじて彼らに勝利し、大勢の捕虜を得たようだ。 それはいいが、どうやって彼ら大勢の戦勝奴隷を食わせるかで、悩んでいるのである。 結局、彼らをエジプト領パレスチナに入植させる、つまりもと来た住処へ戻させる。 そこが領地の失脚貴族の案を採用して、食糧危機を乗り切るのだ。 都合の悪いことは、後世には書き残さない。 ハッチの諸民族は負けて、蛮族に食いつくされた。 小アジアの地は、その後しばらくの間、暗黒地域となっていたのだ。 そしてエジプト軍の捕虜となった蛮族の一部は、海の民の出発地の一つだったらしいパレスチナに、戦勝奴隷として戻されるのである。 ペリシテ人戦士と、巨艦ゴリアテの話は、かくしてエジプトの戦勝奴隷都市ゴシェン出の民によって、できたのだと思う。 ラムセスが、セト軍団に褒章として与えた領地の下級兵士。 彼らが、謀反して敵の連合軍に加わっていた。 それがわかって、領地の主であるエジプトの宰相は、宰相の地位を追われるしかなかった。 しかし戦勝エジプト側にも、投降した戦勝奴隷たちを食わせるだけの余力がなかった。 このことは、「大勢の奴隷を食わせたこと」がしつこく書いてあって、(什器食料を漏れなく与え、食わせたと、しつこく、ある)逆に、それでエジプト側が悩んでいたことがわかるのである。 手元に食料が無きゃ、奴隷なんて餓死させりゃいい、と考えるのは、奴隷を認める現代のサイコパスだけだ。 エジプトのファラオは、選ばれし民の王では、ない。 「全ての民の」ファラオなのである。 戦勝奴隷の食い物にも、当然、責任を持ったのである。 マッカーサーのように。 おいら、マッカーサーの家畜用飼料放出のおかげで、飢えることがなく済んだ。 当時のエジプトでも、結局、もと宰相の案が選ばれたのである。 戦勝奴隷たちは、押し込められたゴシェンで餓死する前に、食料が得られるかもしれない豊かな元の領地へと戻されたのだ。 これが、宰相モーゼの出エジプトの話となったのだと思う。 都合の悪い話なので、エジプト側に記録はない。 ハッチの話が、いつしかエジプトの話となった。 世界史の種族観はおかしいので、小アジアにハッチという部族がいなくなったら、ハッチは滅亡、と認定される。 実際は違うのである。 八民族は、旧ハッチの領域には、確かにいなくなった。 しかしずっと後の時代の古文書が、「彼らのその後」を教えてくれるのである。 多民族国家ハッチは消えたが、八民族はその後も生き残った。 シリア地域には、クルグンマ、クンムフ、ハッチナといった諸国ができた。 ウガリトはまとまって何処かへ逃げて復興しなかったが。 パレスチナ地域には、エジプト出の連中や旧ハッチの連中が入り混じって、いっぱい国ができる。 旧ミタンニや、エジプト第18王朝の末裔たちも、同じシリア地域で国づくりをしたのだ。 彼らは多民族の連合体となって、民族のはっきりしない諸国となる。 それが「ソロモンの帝国」と呼ばれる、今日の幻なのだ。 大イスラエル実在の根拠は、「ない」そうである。 バラバラの諸民族を、特定地域に見つけられないのだ。 この時代には、一神教でまとまろうとする旧ミタンニやアッシリアの勢力と。 多神教でまとまろうとする、旧ハッチ・シュメールの勢力がいたと考えていい。 アッシリア勢力側が強く、小国を次々と併呑していった。 大イスラエル帝国が見つからないのは、これも当然なのである。 彼らは都市ごとに、民族でまとまっていたのではないからだ。
2024年11月04日
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ヒッタイトなどという「民族国家」は、ない。 古い、古ハッチ族と言うのがいたようだが、どうも、これがはっきりしない。 当然なのだ、これは領域を同じくする架空の民族らしくて。 諸民族の祖先たちのことを指しているのだと思う。 山賊地域を支配していた八又の大蛇、オロチ(オロチョン?)の想定。 そこを平定して、居座って首都と定め、ハッチはできた。 オイラたちの伝承オロチにあたるのは、ハッチではルウイ人なのだが、その支配下に大勢の多種族がいたのだろう。 ルウイ人はルヴィア人とも言う。 白人種で、この時代を生き延びて海路を西方へ逃げた。 ローマ人に採って食われたが。 おいらは、後の時代の、イタリアのエトルリア人と関係があると思っている。 ハッチの主要構成民族は8つあったとされる。 シュメール、アッカド、ネシュリ、クシュ、フルリ、古ハッチ、ルウイ、パラー。 これは帝国時代のモノだろうが。 黄色人種も白人も黒人もいる、ホントに「八民族」なのである。 だから公用語も8つあったかどうかはしらない、が。 公用文書として残る粘土板に、文字は文字通り、シュメール語やアッカド語の楔形文字から、ルウイ絵文字から、ウガリトやパラの線文字まで、何種類も出土してくるのだ。 諸官庁の書記はホンマ、大変だっただろう。 しかもこれは、膠着語も印欧語も屈折語も、いっしょくた、なのである。 まるで国連が、八カ国語で公文書出すようなものだ。 こんな何種類もの、しかも文法や言語の基礎まで異なる諸言語、諸文字を、ハッチは併用して使っていた。 国語に持って、しかも日常に使っていた、ということ。 こんな国は珍しいのである。 現代には、世界中で日本くらいである。 我々は、ひらがなに、カタカナ、漢字に、明治以降はローマ字も含め、4種類の文字を「日常的に併用する」じつに風変わりな種族。 実は過去には、もっともっとあったのだ。 (豊国、アヒルクサ、カロシティ、カタカムナ、ロンゴロンゴ、オガム文字、ルーン絵文字・・・。) ハッチの初代の王はクシュ人だったが。 王を出す種族も、決まっているわけではない。 万世一系ではない、のである。 それは「パンクシュが決めること」、なのだ。 初期にはクシュ人が王で、兵士にはルウイ人が多かったようだ。 後にはフルリ人が王となったし。 さらには、初期-中期まで敵対種族だった蛮族のガシュカ人までが、後には大王を出していた。 エジプトのラムセスと渡り合った王ムワタリシュなどは、神殿部隊というハッチ伝統の精鋭重戦車部隊とは別に。 弟ハットウシリシュの派遣したガシュカ(ガシュガシュ)の、8千もの親衛隊歩兵を率いてもいたのだ。 (エジプト戦車は軽戦車で二人乗り、ハッチのそれは三人乗りの重戦車とされる。)
2024年11月03日
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城砦に閉じこもるんではなく、世界中と通商活動を行い。 領域に暮らす諸民族が自ら兵士を出し、市民が兵士となって戦う軍事国家。 これがハッチの初期王国である。 領域を接する東のアッシリア王国は、まったく違っていた。 彼らは(人の)皮剥ぎ師タンナー貴族が支配する単一民族国家。 しかも女も兵士も市民も奴隷。 逆らえば生きたままカワハギ。 ここは副王のもと、共和制度の政治形態だったようだ。 共和制の持ち回り議長制度など制度整備は実にしっかりできていて。 立憲民主主義国家は、こちらアッシリアのことだったと思う。 ただ、唯一神が、国の主人としていつから居座ったのか、ハッキリしない。 ずっと後期であったように描かれているが、怪しい。 バビロンとは明らかに関係が深くて、もともと同一種族であった可能性もあるが。 ハッチとカッシート人による簒奪で、王族の血が分かれたようだ。 精強なアッシリア兵士は、山岳地域の女奴隷に生ませた混血だと、わかっている。 兵士も女も、生まれついて死ぬまで、タンナーたちの奴隷だった。 アッシリアを特徴づけるものは、この奴隷制度と、そして貴族による民主主義である。 より西にあったハッチにも、南のエジプトやシュメール地域も同様で、戦勝奴隷はいても奴隷階層はないのである。 中期になると、ハッチでも全体主義が怪しくなり、各地域の有力都市のエゴが見えて来る。 代々のラバルナ王は、過去の権威にすがるばかりで。 諸都市のパンクシュでの連携も希薄になり、軍事活動もなくなってくる。 各都市はバラバラになり、各地に有力者貴族みたいな連中ができて。 相対的に、神殿部隊を持つ王権や軍隊も弱小化していくわけだ。 全体主義の弱みである。 北隣の、技術的に遅れた蛮族ガシュガシュ族たちの冒険的侵略にすらも、手をこまねいていた。 敵の居ない間に、城壁の外の収穫を採りこむことばかり考えている、なさけない王がいる。 この弱い王は、トウドウハリヤシュという。 彼の英断が、しかしハッチを突然に、大帝国にした。 東隣新興新種族からの策謀があって、それに反応しただけなのだし。 トウドウハリヤシュの最後も怪しいのだが。 シリヤ方面には、ミタンニという強力な国家ができていた。 ハニガルバットとか、マルヤンニ(マリアンヌ)といった、新手の軍事種族が跳梁していた。 アッシリアも彼らに一度、敗北しているほどである。 それで民主制を導入したという意見もある。 ほとんどの説が、このときアッシリアが一神教を選んだのだとしている。 しかし、おいらはその説を採らない。 敗北して強固なカルトになったのは確かだろうが、アッシリアの唯一神の起源はもっと古そうだ。 新手の侵略者たちのその影響を、エジプト第18王朝同様、ハッチもモロに受けていたのは間違いない。 侵入者は少数で征服専門の連中みたいだ。、 いきさつは不明だが、トウドウハリヤシュ王は、新興フルリ人の養子を迎えて、難局を乗り切る。 ミタンニ側に押し付けられた亡国の後妻と、その連れ子養子、であったようだが。 末席の人物ではあっても、後妻はミタンニの王女の一人であったのだろう。 やがて過酷な生い立ちを持つ、その異民族の子が、ハッチ王国を受け継ぐことになる。 ここでハッチの王権の血は途絶え、別の種族に変わったのである。 ハッチは異民族に乗っ取られた、のだろうか? 実の子もいたようだが、そっちはどうやら、交換でミタンニ方面へ人質として出されていたらしい。 フルリ人の王が立ったことで、フルリ・ミタンニ勢力からの侵略はなくなった。 それだけではなく。 異種族の間に身を置く危険を経験に置き換えて。 養子の子は、ガタガタの多民族小王国を受け継いだのだが。 それだけでなく、この「清泉からの男」が、滅びかかったハッチ王国を次々とまとめていくのだ。 やがてハッチを、当時の世界最強の強国に仕立て上げるのである。 大王シュッピルリウマは過酷で、果敢でもあった。 それとともに、異民族に対し、実に寛大でもあったのだ。 ハッチでは特に国内においても、身の回りは異種族だらけなのである。 特にパラ人やその彼方の、いわゆるヘラス人達に属する人々の子女中心に、人質としてハットウシャの王宮に招かれていた人士は多かった。 彼らはハッチの首都の学校で多くのことを学び。 いずれ帰国し、その出身地域の王となって返り咲く。 というのが、当時は一般的だったようだ。 これはミタンニ国やフルリ人のやりかた。 周辺の諸王国もまた、ハッチで暮らした知り合いなので、行き来も盛んになって国も富む。 その数多い種族の中に、アマシアも、タルイシャもあった。 後の時代に、ホメロイタイが叙事詩で歌った、アマゾネスとトロヤである。 シュッピルリウマの息子、ム(武)・ル(人)・シリ(将軍)・シュの時代になると。 末子相続した彼が幼なかったこともあって、反逆者も出、一時は帝国分裂の危機がおとづれた。 だが、この内省的で神経質な「どもり」の王のものとで、ハッチ帝国の範図は逆に一気に拡大する。 特に西方では、戦争に負けて大王が捕虜になっているのに、無事に帰国できただけでなく、のちに国土が拡大?という異変?も起こる。 ようわからん事態なのである。 おいらは王家が、製鉄の秘密を命乞いの取引に使ったのだと思っている。 やがてハッチは、小アジア全域から、シリア、パレスチナをもうかがう、大帝国となり。 ミタンニへも、パレスチナへも手を出すのだ。 海の国ウガリトも、このときハッチの範図に加わり。 アラシア(キプロス島)には大鉱山すらできていたようである。 ガシュガシュ族も蛮族ではなくなり、王妃を出して大帝国の経営に参画するのである。 おいらたちのご先祖の一つ、アラム人(阿羅武)が出て来るのも、この頃のこと。 「周りに遅れちゃなんねえ」。 アラムは種族名ハイ、あるいはハイーク族ともいう。 遠い北東の田舎の山岳地域にいたシュメール系の蛮族だ。 後には、ウラルトゥという大帝国の主となった連中。 それが、ハッチの王室に手紙を出したのである。 まあ、バビロン攻撃の前からの、通商関係で行き来もあった。 もともと知り合いなんだろうが。 そんな田舎もんが突然手紙をよこして。 「うちの子に、ハッチ王室からの、よめさんほしい」、と。 「文化指導もしてほしいんやが」と。 これがなんと、大帝国側から即座に聞き届けられたのである。 遠いハイハヤかアッジハヤのアラム人の首長のもとに、ハッチ大帝国から王族の嫁さんが来て。 両者は正式に姻戚となる。 それだけでなく、王室からの文化指導もちゃんと、あったらしい。 ハッチ大王もまた、派遣されたキックリという馬術専門員から、騎馬民族の馬術指導を受けたという話がちゃんと残っているのだ。 ムルシリの子、ムワタリシュがエジプトと大戦争やった時、これら遠方のアッジハヤもハイハヤも、ハッチ側の一員として参戦している。 アラム人の彼らは、マンダの騎兵隊とともに大戦争に参加し、大いに活躍した。 ずっと後の時代の、「メディア」と「ウラルトゥ」は、同じ仲間であったことが、この出来事で、わかるのである。
2024年11月02日
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初期の王国での大事件を語らねばなるまい。 それは、小アジアから長駆してのバビロンへの大遠征だった。 当時すでに、アッシリア地域は小王国だったのに、そこを超えての大遠征。 スバル人の女奴隷も、アッシリアの奴隷兵士もすでにいただろうが。 なぜか無視。 取引はあったはずだ。 未だアッシリアは弱小国家の時代。 当時からハッチでは奴隷制度を持つアッシリア人が嫌いで、都市への立ち入り商売は許可せず。 だったようだが、商人の商売は認めていたようで。 特定地域に、カールムという出島みたいな商館を構えさせて対応していた。 種族や風習は嫌いでも、ついでに討取ったりはしないのである。 北西の、力のある蛮族ガシュガシュとは常に戦争してた。 このころのハッチも、まだまだ小国。 アッシリアの彼方にある大国バビロンは、しかし彼らの通商路に立ち塞がる、目の上のタンコブだった。 過去にシュメール系の王朝が平定したにも関わらず、現地は再度山賊の手に堕ちていて、仲間内の通商を妨げていた。 南西部の遥か遠方にあるシュメール地域からの、食料の供給路がヤバかったのだろうか。 国の存亡をかけても討取るべき存在だったのだ。 彼らは遠く離れたザグロス山中の、カーシ(カッシュ、あるいはカッシート)人ともツーカーだったらしくて。 連絡を取り合って、合同軍出兵となり。 二方向から一丸となって、当時の世界最強国家バビロンを襲い、あっさり戦勝。 ハッチ軍は、現地から囚われの神々を救出して小アジアに帰還。 カッシート軍は、バビロンに居座って。 跡地の支配経営種族となった。 両者の本当の狙いはたぶん、バビロンがため込んでいた食料であったのだろう。 アッシリアも、このハッチ軍の通過を黙認している。
2024年11月01日
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ヒッタイトなどという「民族国家」は、存在しない。 ハッチという「多民族の犬が作った軍事国家」なら、紀元前の遠い過去にあった。 小アジアのヒッタイトは、今日、鉄の種族として有名であるが。 単一種族の民族が作った国家ではないし。 その国名もヒッタイトではないのである。 王族の血を引くらしい、ずっと後の時代のドイツ人によって発掘された。 そのことが、ヒッタイトというドイツ風呼び名を作ったといえる。 トルコにあった遠い過去の国が、ずっと後の時代の聖書などを通じて、ヨーロッパ人に知られていったにすぎないのである。 ハッチは、多言語、多文字を持つという変わった国である。 しかも超古代には大帝国であったこともあった。 いつでも強大なわけではなく。 パンクシュという全体会議と、諸民族の神権や祭祀、さらには庶民の通商によって成り立ってもいた、最初は小さな国だった。 単一民族国家ではない。 また王権絶対の国家ではないのに統一が取れている、という不思議な国。 なのに、その風変わりな点はあまり話題とならない。 どこから製鉄技術を得たのかも、わかっていない。 最近、ギョペクリテペが出て来て、大騒ぎしているが。 季節風利用の、大規模な製鉄作業だったようだ。 時代離れした「鉄製武器の使用」は注目される。 世は鍛鉄の刃を埋め込んだ青銅器時代。 ハッチでは、それと違い、製鐵していた。 しかし彼らが嫌っていたアッシリアのようには、飢饉の時代を乗り越えられなかった。 この帝国は、血筋のはっきりしない、いや、種族が代わっていくかのような王族と。 帝国の範図をそれが支えるかのような、ダイナミックな通商や遠距離外交の流れと。 周辺国の動きに迎合する、その政策や大胆な軍事作戦によって名高い。 しかも変貌していく国家なのである。 最初期の王の名はシュメール語で「アニッタ」といった。 名前にはなぜか語尾にシュを付けて、アニッタシュと呼ばれる。 彼は、ネシャという通商都市の王の飼い犬だったようだ。 要衝都市ネシャの王権を奪い取り。 市を略奪させず父母のように扱うことで、この国家は成立したのだ。 しかし傑出した通商都市ネシャ(カネシュ)は、なぜか首都にはならなかった。 王の出自である都市と思われるクシュ・シャラも、その父ピトハナとともに、これも詳しく語られていない。 彼の軍はしかも、他の大勢の犬たちと同様、飢えていた。 仲間同士食いあうほどに。 ハッチの時代そのものが、飢えと戦いの過酷な歴史なのである。 大帝国となっても、彼らの飢えた暮らしむきはほとんど変わらない。 好きなだけ飲み食いできるのは老人だけだった。 彼は、この飢えの時代に、雇犬の身分。 地域で一目置かれる古都アリンナ市や、ハットウシャという城砦都市が敵だったようだ。 新興のルウイ人山賊が支配する領域へ、彼はネシャから討伐に派遣されていたようである。 無謀な小人数での特攻作戦で、敵アリンナ市の攻略に失敗。 彼は、囚われの身となる。 しかしなぜか、その都市の「太陽の女神」と同盟契約を果たし得て。 犬たちの軍に復帰でき。 しかも、そこで更に主導権を得たのである。 滞りがちだった捨て犬たちの給与を、たぶんアリンナ市が出したのだ。 彼はまず、通商諸都市の飢饉時の捨て犬たちの、その主導権を、確保した。 彼の父祖の地は、クシュシャラ(もしくはクッサラ)と記されている。 クシュは、アフリカのクシュかもしれないが、わからない。 つまり父祖の地でも、たぶん「名のない太陽の女神」が祀られていた。 そして突如、彼は全軍を率い、勝手知った都市ネシャに夜襲をかける。 その都市ネシャ(カネシュ)を、諸都市の犬たちとともに占領。 飼い主だった王を裏切って、アリンナ市側についたのだ。 但し軍には、通常起こるだろう略奪を一切許可しなかった。 逆に、「市民を父母のように扱え」と命ずるのである。 多分、彼はこの都市に育てられたのだろう。 しかしこの態度は、この地域最大の軍事拠点だった首都に対しても同じだった。 天候神が支配する、ルウイ人の山上の都市に対しても、同様だったのだ。 総勢1500名もの(大軍と彼は記している)軍で。 彼は、盗賊たちの拠点ハットウシャ市を攻撃、攻め落とし、占領する。 一度、怒りで略奪を許可したようだが。 なぜか思い直して。 その山の中腹にある都市ハットウシャを、彼の<新王国の首都>に定めるのである。 ルウイ人山賊たちの城砦があったその都市は、ハッチ王国の首都となった。 世は、飢饉蔓延る乱世。 たぶん手勢の中に、大勢のルウイ人がいた。 パン・クシュの合同会議で、彼の決定は全軍に支持される。 彼の一門は、やがてラー(太陽)・ヴァルナ(色=諸族の)と呼ばれるようになっていく。 ハッチはこうして多民族をまとめ、地域共栄圏とパンクシュによる全体主義国家の一歩を踏み出し。 その庇護を求めて流入し増え続ける国民を食わすために、王族の奮闘が始まるのである。 この、民衆に対して食わせる義務を王族が負う、というのは。 彼ら王族の日常の立ち居振る舞いと同様、近隣の種族や国家とは違っていた。 彼らは庶民に対してもお辞儀をする、風変わりな王族であって。 これは当時から、近隣諸国で話題になってた。 当時の、そして現代の、多くの国家の支配層とも、全く違う思想であったようだ。 所有する国土や王権を守るのではなく、民衆を守る軍隊だったのだ。 ただ、このお辞儀の風習や配下へのへりくだりは、古代シュメールの文化では普通の事なのである。 ハッチの庶民文化の多くにも、言語のみならずシュメールの影響が色濃くみられる。 木戸のある閉鎖した街並みと、高床式住居、イグサの多用、女性の地位が高いことや女神官がいること。 火の用心の夜回り義務があり、凧揚げや、すもう、猿回し、庶民による神々の像のお身ぬぐい、神輿のお祭り、天幕張っての祭礼や、アンタースームの小枝の芝刺し、など。 そして女たちの井戸端会議。 エンシ(シ(枝)を持つ主人=都市の知事の事)たちや、古いエジプトのファラオの王権とのつながりを思わせるものも、多くある。 そもそもハッチの大王が、大王と名乗ったかどうかは、怪しいのである。 主人「エン」は、シュメール語だが。 主人は様々な名を持つ天候神や名の無い太陽の女神などだったから、ハッチ王ラバルナは、単に将軍だったのかも。 彼らが嫌っていたアッシリアでは副王が実権をにぎっていたのに、ハッチは神々と異なる独自の首長を立てていた。 基本的に多神教で、王は祭祀者の一人にすぎない。 王権がその神々に伍したのは、もう帝国の末期である。 彼の一門は、代々、ラー・ヴァルナ、「諸族の太陽」と名乗ったのだ。 しかもこれは、印欧語である。 それも、アーリア人の古い時代のものと一致する点を多く持つ。 バーラタで出来たカースト制度などは、持たないのである。 神殿住まいの王族はいたのだが、貴族らしき人物も出てこない。 紛争の多い同じ領域に多民族が暮らす以上、盟主は必要だった。 それを推したのが、パン(汎)・クシュという、クシュ・シャラたち戦士の全体会議なのである。 王族は特別だったようだが戦士階級ではなく。 流入した市民がイコール、戦士に徴用、だったようだ。 つまり最初は国民皆兵。 地域の諸民族に擁立されての、統一王権、だったのである。 だから政治体制としては、挙国一致の全体主義となる。 断じて民主主義ではない。 但し絶対王権ではないし、民族主義でも、特定階層の共和制でもないのだ。
2024年10月31日
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(反芻) せっかくだから、無数に出て来た命題を整理しておこう。 前節のみだが、もう一度繰り返す。 くだくだしい物にはなりそうなんだが。 耄碌して、なんにも記憶にとどまらんなって、言い出した本人がようわからんので。 反芻する。 「表象」とは、知性に瞳着的にインスタンスした「概念」のこと。 頭脳メモリに刷り込んだ、表だけの形象のことである。 つまり、その表の「象だけの」形象・継承。 うすっぺらい、表だけ簡略化した、誤謬の継承なのだ。 知的継承なのであるが、象の形してても、生きてる象そのものじゃない。 表象だと、その場限りの「知的な」瞳着的概念や理念といった、仮のウソを指すことになる。 知性も感性も、その場の時空のものが「図式利用」されるのは同じなんだが。 知性だけの利用だと、どこか無責任になり、かつ嘘っぽくなる。 ファンタジイ、ファンタスマといった言葉は、その「表象」を補完する用語だったんだが。 つまり「現実の一部の再現企画のための表現」なのではあるが。 しかし「形象」が「継承」であるように。 現実に置いての、この共有概念も<何らかの、新しい享有を必ず持ってしまう>のである。ーーーー1 ファンタシアにおける誤った訳語が。 それが「別の現実」ともいえる「人工時空を作っちまう」原因、ってこと。 形象という形容概念も、必ず、何らかのそれ独自の「時空を立てて継承」するからだ。 つまり「慶尚」なことをも言ってるんだが。 <共有のそれが必ず「ネガチブに能図式として」働いている。>ので。 つまり<無を控え持っている>ので。 見えてない「ネガチブな人工物」を創り出してしまうことにもなる。 これは倫理に、カテゴリーで拒否されてるはずなんだが。 それが働いていない場合に厄介な事態が起きるのだ。 厄災のこれはつまり。 <客観的に知的な論述であっても、そこには無い(うふぉ)なことを言ってるのである>ということ。ーーーー2 (それに対しポシティブな享有の能図式のほうは、享有に対し・・・で「ある」、を繰り返し図式で指図する、それのみだ。) つまり、有をこそ同義反復的に言うばかりで、これだけでは埒が明かないのは同じ。 ポジ、ネガは本来一体のモノ。 その双方が揃わないと埒が明かない。 ひっかかる人は、ここですでに引っかかって???だろう。 「継承と形象は全く違う漢字で、まったく別の領域の表現じゃんか」と。 同じオルガノン領域の、同じもんなんだよ。 瞳着とは、知的に瞳着・インスタンスして対象と一体認識になりきるということだ。 この働きを「知性」とも言う。 瞳着で一体化し、知性そのものと化すわけだ、が。 表象という言語を使う限り、それはいつまでも表象にすぎんまま。 埒が明かん。 表象が、ポジ、ネガの片面を図示するにすぎんので。 片面では埒があかんままになる。 知性そのものと化すそのあまり、その用語の幅の広さという感性に気が付かんまま。 共有一点張りとなっては、ネガチブな時空に落ち込むだけなのだ。 ファンタシアは、オルガノン領域の言葉である。 つまり現実の、超幅の広い時空を利用させるための単語なのだ。 <ファンタシアは、その現実の広がりに対応できる哲学的表現である>。ーーーー3 この哲学は、自分の無知を自分で知ること。 知識を得ることじゃないんで,まちごうたらあかんエ。 真実の認識だから、まったくの絵空事などではありえないし。 無知だから、単なる「空想」や「想像」とも、なりようがない。 本当に、仮の時空であっても、表象表現だと、モノが出来ちまうことばかりなのだ。 (かくのごとく、心が構えてしまう、ということ。) しかし心を構えさせる相手が無知だと、しぜんと真実しか、できんじゃろが。 つまり無意味な空想の戯れが人に真理をもたらしたりたり、哲学の深淵を見せたりも、ありえないのである。 心を構えさせる相手が知的な瞳着物だと。 ファンタジイやファンタスマが出来てしまって、それが溜まって来るのだ。 現代西洋は、「知性の戯れの神話が創造のモトだ」、などと言うので。 これではいつまでたっても埒があかない。 神話は絵空事だし、モトを伝えるものがその場限りの人工物。 まるで、時空として与えられているファンタシアという表現とは、逆の事言ってることになる。 ウソ言って、心に構えさせて、ウソ作っているだけなのだ。 イルミナティが、自分たちの組織の拠り所となる「論理の虚無主義」があって。 それを隠すには、そういうほかない、からなんだろうが。 「表象」訳だと、そうなってしまうんやが。 そしてこのウソによって、時空は、モロに影響を受けてしまっているとわかる。 現代の客観オンリーな世界では、現実とは本来繋がりのないはずのものも、発明するように。 <霊界なども、想像(創造)ブツとなって、固有の疑似時空が出来上がってしまっていくのである。>ーーーー4 霊界は現実界では「ない」。 実在とは「無縁」なはず、なのだ。 無縁だから一体じゃないんだし。 時空は単なる延長ではなく、区切りがされてて時空なんだから、縁取りが必ず要る。 つまり霊界は、こころの居る世界とは別の時空に属するもののはずなんで。 「霊界」と「現実」は、別門になってる、はずなのだが。 時空に縁取りがなかったら厄介なことになる。 共有の組織や理念とも、霊界は「無縁」なので。 これらが、カテゴリーや倫理抜きで共有化されると。 繋ぎようがないまま、新時空と一体化されてしまうのだ。 つまり縁がないので、わからんままに融合され、一体化しちまうのだ。 しかし霊界は、「個人享有」とのみ、大いに関係があるはずのもの。 カテゴリーを通じて、倫理的に図式が働くので、そうなる。 空想が絡むから、そうなるんじゃない。 先に言った通り、時間・空間の後先を逆にしちゃいかん。 現実との関係問題なので、数学理論でメタバシスに扱っちゃいかん。 もともと享有と、それのみと一体の、そこから取り出した「認識もの」だからだ。 享有が絡む、しかし非現実のものが霊界。 だからこれが、カルトとなり宗教教義になると、逆に現実を導く紐に使われる。 「霊界の原型」が、個々人の信仰内に、勝手にできてしまうからだ。 心が、図式に構えさせられる事態となる。 つまり霊界じゃなくて、「例解」に例えた(無の)の「零会になる」んだろうかな? 本来の「例会」とズレてしまって悪魔的なものに、なっちまうわけだ。 霊界認識というのは、まったくの未知の領域から現実へと至る認識なんじゃ「ない」、からである。 必ず、現実のモトがある。 <現実をもとに、それも、人工的に作られる認識>なのだ。 それが霊界。 現実の後のモノ。 つまり霊界は「人工の共有もの」であって。 つまりつまり、これが「悪魔的作品」ということなのだ。 それ使って、ムリヤリ「他の享有者を扇動しての共有化や標準化を図って」。 共有する現実と経験を繋げようと、企画し実行する。 それが、共有のカルト組織というものなんである。 共有になって初めて、別名オカルト業界とも、つながるのだ。 つまり、悪魔的になって初めてつながる。 享有だと、つながりようがない。 宗教組織とも呼べる、「詐欺師集団」が、ここにできる。 これは明確に言うべきなんだ。 「共有のオカルト集団、宗教集団は、必ず詐欺師の、相互扶助と詐欺目的の集団なんだ」と。 個々人の体験や信仰は真実であったとしても、共有関与が、それを詐欺師業界にする。 だから享有の「宗教的現実」も「敬虔」も、共有関与では享有物に見えてても、そこに普通にでてくるのは「ネガチブな人工物」になってるわけだ。 個々人にポシティブを説いて。 共有する(ウソの)ネガチブを「強要している」わけだからだ。 個々人の信仰では確かに真実であったとしても。 集団になると、しかし、これらは詐欺的行為をのみ生み出すのである。 これは享有の・・・で「ある」、共有の・・・で「ない」の、図式の働き。 <オルガノンの倫理法則によって>、そうなるから、そうなる。 だからカルトは普通、「その集団内部でしか通用しない」わけだし。 宗教の教えも一応、「宗教教義にすぎん」ことになってる、のである。 倫理的なものを、客観事態では本来、持つことができない。 「倫理規制委員会」なんて、ありえない。 俺たち詐欺師集団だ、と言ってるのと同じ。 倫理と言うこれは、享有のものだけの「・・・である」、という享有認識図式だからである。 (同時に、共有にはネガチブ図式。) だから客観性を持つとされる科学用語なども、同じ問題が出て来るはず。 「実は宗教と同類」のカルトなのだろう。 科学用語は「享有論文」があって、それが支える。 知識や技術物。 つまり理論であって。 理論がなけりゃ科学じゃない。 (テクノロジーは理論がないので、科学じゃない。) そして共有のパラダイムが、これを支えてはならないのである。 現実にはもちろん支え介入して、「共有のパラダイムが出来てしまっている」のだ。 しかし、これを、この倫理を、享有のものだと科学者は認識・反省できてない。 だからだから、そうなるのだ。 …である、ポシティブな享有図式を、まったく見ていない。 カテゴリーが示唆しても無視する。 倫理違反やりたおして、ほとんど詐欺同然となっている、のが実情。 ほんま、共同幻想といっていい類のものとなってしまって、その上マトリクス化されてて。 特殊な世界に囲い込まれているのが、現代の科学技術の日常だ。 オートメーション化して、ゲシュテル化して、世界像の共同幻想となってしまっちょる、ということ。 ニュートンの法則もパラダイム化して。 それがオイラたちの「日常認識を形成して」しまっている、心を構えさせてしまっているということ。 本来、「集団でしか通用しないはずの宗教教義が」ある。 それが、世界共通の世界像認識の基礎主張になってしまって、現代のような科学の時代の現実が、日常がそれで出来ている、わけだ。 オイラが「科学は危険な宗教だ」と言う、その事態が、ここにある。 明確に言うべきである。 科学は、科学技術に厳密に定義認定され、学問的に管理されるべきである。 享有論文で個々人に理解されていない限り、無自覚に共有で扱うと、実に「危険な宗教」なのである。 <現代の科学技術は、野放図のまま、すっかり危険な宗教と化している。>ーーーー5 時代の趨勢によって、個々の享有者のものとなって「ある」のは確かだが。 但し、「ネガチブな共有として宗教化し」、その理論が「カルトを騙っている」のだ。 共有が、「ネガチブな無の働く図式」に負う、ということが、科学従事者に全く見えてない。 権能ばかり目的もって見て、目的の働く部類のもの、とみなしているから、なんだが。 図式が見えてないんで、特に厄介。 共有のものである限り、それを支える図式があるのだ。 この、現代という時代の持つ、「世界像の危うさ」、がわかるだろうか? 魔法は動いているのに、魔法の道具も魔法使いも見えてない。 オイラにも見えにくい物なんで、たぶん、ほとんどの人には、何にもわかってないと思う。 これらが、ナチスの先生が警告した「世界像の時代の危うさ」でもあるのだ。 先生とはまったく別の言い方で表現したつもり。 実に危険なものなのである。 特に現代科学は、その基礎に、享有の形而上学的問いを隠し持ったそのまま。 だから一そう危険なのである。 基礎がないのに基礎探求のふりをする。 個々人の「宇宙論」・「神学」・「心理学」が、必ず科学技術の基礎にあって、底を支えておるのだ。 しかもこれが、キリスト教と言う共有カルトによって、霊界と同居している。 その一方で。 モノとは何か、自然ブツとは何か、その基礎へと問いかけ、ひたすら再現技術を磨いているばかりで。 ネガチブな共有図式に指図され、翻弄されるばかりで。 実は(答えのない)享有の問いを満足させようともしてない。 科学技術は、その基礎の形而上学を不問にしてそれ以上問わない。 そのことで、もともと成り立ってるんだが。 しかもその基礎には「先験的誤謬」があると、これは明確に言えることだからでもある。 コレはもちろんカント先生の言い方の継承である。 現代社会が忘れて、不問にしている、先験論議基礎。 こんなん、哲学的基礎なんかじゃおまへんよ。 科学技術の、現代の、「危ういパラダイムの」基礎。 あらかじめ破滅してる、基礎。 科学のその基礎において、形而上学は先験的に成り立たない。 ということを、かって科学者でもあったカント先生は明快に、その純粋理性批判で述べているのだが。 先生自身はコペルニクス的転回やって哲学者になってるので、すでに科学者ではない。 新しい立場から述べているのである。 これを気に入らん科学者が、哲学に背乗りして、科学哲学と称したりして、享有の倫理問題を見えんようにネガチブにして、胡麻化し。 物事を悪魔化させていったのだ。 科学技術の基礎は、不問にはできない。 「個々人」の認識という基礎なのに。 現代は、それを言葉の綾で、命題的に不問にしたまま。 「科学技術は、テクノロジーに進化したんだ」と、する。 これは新手の詐欺師たちの言い分である。 テクノロジー持ち出して言うんだが、そいつは科学理論とは無関係だから、不問にはできないのに騙されて不問にする。 それが今日の現状だ。 この現状がパンデミックを引き起こす。 この項目で、オイラ「死者の断片排泄物」を、エクソソームだと書いてた。 死者を貶めるつもりはないし、エクソソームについても同様である。 重要な物で、命の維持に大事な、生体からの排泄のもんである。 しかしエクソソームは「死者の領域に属する、科学的な認識新物質だ」、という事実がある。 これは、明確にしておく必要がある。 これを曖昧にして、詐欺的なウイルス学ができている、からだ。 ウイルスは生き物なのに、生き物の定義を曖昧にして、破綻理論の延命を図る。 死者ももちろん、共有の縄文文化では、広場の中心に置いて<祀るべき崇高な存在>であるので。 (享有の)想像に利用したり、ましてや霊界に棚上げしては、いかんのである。 しかしオルガノンは、生きている命の営みのこと。 享有・共有の区別なども、もともとは、ない。 <オルガノンにおいて、すべては心身一体で繋がってくる>からだ。ーーーー6 それを表現、具現しているのがファンタシアという言葉であって。 ポシティブな有も、ネガチブな無も、つまり享有も共有も、その言葉で混然と一体のものとなっている。 科分離認識すれば別物になるかもしれんが。 それでは人工の、死霊のものを創り出すだけのことで、終わってしまう。 それどころか、悪魔が出てくる。 <ファンタシアは、(虚構の、形象として)客観化できる言葉ではない。>ーーーー7 客観的に形容すれば、それと同時に必ず、力関係も問題になってくる。 科分離して客観的に論述しようと謀ると、ネガチブに偏ってしまい。 悪魔的なものに化けてしまうのだ。 しかし科学は、それを強引に積極推進しようとするのである。 「倫理」抜きで、「倫理規制委員会」を作ろうと謀る。 倫理的に騙ろうってんではなくて、倫理を規制する。 それが使えないようになるような規約を、仲間内で作ろう、ってことなんだ。 悪魔の発想なのである。 対象を微分して切り分けて、全体の現実を客観視して積分して。 つまり無のネガチブ図式導入することで、ネガチブに偏らせて。 むりやり科分離論述を推し進めるための人工図式ものだ。 やってる連中は、何を期待しているのか。 「当初の、優生学主題の目的に沿わせたい」、だけだろうとは思うが。 優生学は、ダメなもん、なんだよ。 悪魔の理論なんだ。 それをちゃんと認識すべきなんだ。 認識してるか? 優勢な現実も、共有主題だとネガチブ化されているので見えん。 なので、なので、対象が定まらず、すでに客観化できないし。 (もちろん主観的にも、明瞭にはならん、のであるが。) 対象なんて、共有からも享有からも捉えきれない、はず。 彼方や手前に勝手に、(ウソの)時空作って立てた人工物だからだ。 ゲーゲンシュタントやフォルシュテレンしたもの。 優生学主題の目指す「目的」なんぞは、いつまでたっても明晰判明にはならんわけだ。 これは享有のもんだし、享有だと「生命の同義反復で終わる」だけのもの、なんで。 所詮、「ウソを言って空に仮託して、想いの絵を描くことが<客観的な物事>である」ということになっちまう。ーーーー1 (当初の命題に戻って来た。) 強引な「共有化への対話推進には、この「空想」以外に、「騙す」ことも必須となる」始末、なのだ。ーーーー8 享有認識の権能である「ある、」ということを騙して。 その役割を持つ図式の働き部分を、そこだけ取り出して「権能化」させ。 優生学的に判定して「公共利用」する。 それが「共有化しての利用」ということ、だからだ。 しかも客観を立てるには(ダメな)優生学が立たんと、立たない。 <優生学抜きには、科学理論はムリなんだよ>。 この理屈がみんな、わかってんのかどうか? 優生学が即、科学っつうことなんだよ。 たぶんわかってない。 騙されてるからだ。 そして「騙す」ということは。 <ネガチブな役割を持つ図式の、ネガチブな働き部分を「部分利用する」、ということである。>ーーーー9 騙しはウソの始まり? いや、ウソが騙しの親なんだ。 必ず享有が先。 無い、という「ある」権能を騙して裏向ける、んではなくて。 「享有と一体のある」権能、を騙して、能面を被らせ。 享有を隠ぺいさせている。 そのために、(騙し目的に)どうしても要る必要不可欠な、「ネガチブ」権能なのである。 図式が示す権能を、科分離して再度利用する、わけだ。 表象認識を持たせ、しかもあり、え、なくする。 これが、「能面を被らせる」、つうことの意味だ。 これらは、共有において始めて「ある」ことのできる、オルガノン権能なのである。 それを騙して利用する、のだが。 それが<ありえ、なくする>、つうことなんだ。 騙す、ということを「隠ぺい目的」と、その結果から考える場合も多いだろうが。 もっと根源的な、図式ものであったようだ。 実は「騙す」は。 <(見えてない)図式が享有者を動かし<魂を形成させる>、その有様のこと>。ーーーー10 目的を隠して結果出してるんじゃなくて、「虚偽の魂形成」をさせている。 対象を隠してんじゃなく、虚偽の魂形成をさせる。 つまり能面を被らせて、(・・・であることを)演出している。 人工の図式利用なのだ。 想像には近いんだが、その、「像化」と言った意味相が、固有には持ってないので。 表象で「魂を形成させる」のに、像化の関与は、ないのだ。 (だから表象表現は、誤りといえる。) つまりそもそも<ファンタシアは、知的な瞳着の働く権能ではない>んだと思う。 図式利用の、こころ騙しの一種、<面被り演劇>のほう、なのだ。 自己「撞」着、と言う言葉で確かに、この欺瞞的意味合いを表現するが。 騙す相手は自己享有ではなくて、カテゴリーの方をこそ狙っている。 カテゴリーを操ろうとする、「倫理強要的な働き利用」だと言う事。 この倫理の範囲を看て取れない、メタバシス主義者のようなグループも多いけど、悪魔も多いから、これがわかる。 彼らは、「享有物である倫理」を、むりやり「共有のエチケットにしてしまう」始末だ。 もはや悪魔と悪魔主義者を区別する必要もない。 (だから共有でも瞳着が起こり、(何かの目的が)象化を図れば、図式はネガチブに反応する。) 途中だが、疲れたので休憩。
2024年10月28日
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しつこいようだが、宇宙にプレアデスは、ない。 地上から仰ぎ見る星団も、プレアデスではない。 日本語では「スバル星団」なのである。 あの美しい星々は、実際には、個々が遠く離れたバラバラの星々であって。 地球上からは集合しているように見えているだけ、なのである。 太古に、グラヌンとイデイグラット、今はチグリス、ユーフラテスと呼ばれる両大河の上流にあたる山岳地域に、スバル人が居た。 彼らは膠着語を持つ(シュメール系の)温和な山岳種族だったが。 アガデ(アッカド)の山賊が彼らを襲った。 奴隷に堕ちて生き延びた女からは、混血のアッシリア人兵士が生まれた。 女たちは顔を隠すようになり。 言語も変わり、生まれつきの奴隷であるまま、息子はオリエント最強の兵士たちとなった。 神にも等しい副王のもとで、彼らは世界を征服していった。 (アッシリアの主は、全能の神アッシュール) しかし山賊が殺し損ねた人々も、すばるの領域には、いっぱいいたのだ。 彼らは生き抜くために、戦いの術を学ぶ。 やがて世界中がアッシリアに征服されて後も、彼らは未だ、独立を保って戦っていた。 強権支配に耐え兼ねた人々を吸収し、こちらも、いつのまにか大帝国となりかけていた。 しかし現代の歴史上からは、なぜか、もみ消されかかっているのである。 アラム人の敗残兵、ハッチの亡命者、北イスラエルの敗残兵、アッシリアの逃亡兵などの寄せ集めだったためだろうか? いや、原因は彼らの独特の、膠着語言語にあったんだと思う。 ただ、現代に生き残っている少数民族の彼らは、アッシリア語を喋っているそうだ。 彼らは、遠い過去に滅びたイシン市の軍旗のもとに、集まっていた。 アラタマ、旭日旗のもとに集まり、アッシリア軍を、常にゲリラ戦で苦しめていた。 ナイリという土地にあった、初代美麗王アラムの国は、繰り返し襲うアッシリア人の呼び名でもって、かろうじて今日に知られている。 恐怖の火の山、<ウラルトゥ>の名で。 アッシリア辺境、スバルトゥを中心とする山岳地域に、星々はちりばめられていた。 ビアイナ(ナイリ)、アッジハヤ、ムサシル、アル・メヌワなどの、栄光の国々の名が残されている。 世界帝国となったアッシリアと常に正面から相対峙し、最後はアッシリアと相打ちして滅びた国々である。 スバル星団の名は、宇宙に存在しない星団ではなく。 地上の、このウラルトゥ帝国に参加した星々に与えるのがふさわしい。
2024年10月25日
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「無線センサーネットワークの悪用によるkoロナウイルスの世界的影響」の要約、抜粋紹介。 アレックス・ジョーンズ・ショーでトッド・カレンダーとマリア・ジーがこの件を報じた2023年10月27日のものらしい。 コroナは、人工の疾患。 無線周波数悪用による「非感染性」の「センサー疾患」なのである。 (生体被爆だ、っつうこと。()はオイラの表現) 一連の研究は、「電磁波追跡システム」によるものでなされており。 開眼照準での波動センサーの反射により、すべての個人がセンサー病に罹患していること、コロnaウイルスなるものは人為的な「センサープログラミングウイルス」であることをも示している、という。(人工のものなので、ウイルスではないっすよ。)(mRNAなどと同等品。()はオイラの意見) センサーを介し、目の網膜を探知利用して街角からGPS追跡し、人や動物を病気にさせることができる技術、というわけだ。 2018年にマレーシアのUNIMASの博士課程研究において「ISNAH試験」を通じて明らかにされた内容がある。 博士論文が2018年5月20日にUNIMASの上院で承認済。 (人工物は、5Gとして、街角ですでに実用化されている。) 研究名は、「ISNA-動物に対するセンサーネットワークの影響」。 2019年に武漢で「コ*ナ」と呼ばれ、その後WHOがCOV*D-19と宣言したが。 犬や猫による動物試験症状は、コロ*ウイルスに感染したとされる人間と同様だったという。 この研究では、動物の体に対する「ワイヤレスセンサーネットワーク」で使用される方法やその意味を、特定できた、とされるが。 主に「テレマティクス」のような「SMARTデバイス」を標本に使用するユーザーを対象とした研究であって。 これは<提起された問題>を調査するために行われたものだ、という。 (どんな問題かについては論述なし) (要するに、一連の科学研究の些細な部分だけ見ているわけだ。) 「テレマティクス」とは、スキャナ、認識装置、検出器、全地球測位システム(GPS)、全地球航法衛星システム(GNSS)で構成される、「スマート機器」であるそうな。 2015年から2017年まで実施のISNAH実験は、動物に対するセンサーネットワークの影響実験と、その「フィールドワーク」で。 ISNAH のプロセスは、「動物や人体における非伝染性疾患」を<増強>するための,「センサー技術」に関連した多角的な実験だった、というのである。 センサー疾患の拡散プロセス(急性センサー感染障害(CASID))とは。 <無線の周波数によって発生するセンサー疾患>を示す、新しい用語らしい。 人工の無線周波数がGPS追跡され、生体細胞、特に人間や動物の体に向かうと、感知された生体細胞は、電子の動きを阻害するんだという。 そのため影響を受けた臓器に、様々な種類の障害や病気が起こるんだそうだ。 (ここんとこなど、よくわからんかった) CASIDは、C = 4N3 + 2 (i)。N=センサネットワーク生成処理応答信号の数、C= CASID を含むセンサーの疾病発生数。 「サイバーハッカーは、経度、緯度、楕円体の高さで処理された無線周波数コイルを拡大するため、無線センサー技術を悪用している」、とするが。 (ハッカーがやってんじゃねえダロ、科学研究者が全員で関わって、共同でやってんだろ?) 人工の無線周波数(つまり電磁波)は、世界中のクラウディングシステムを通じて人体のGPS座標ポイントに発信され。 (増幅され、ピンポイントで送り込まれる)。 これが人体に、さまざまな種類の病気、特にコ*ナウイルス病を作り出す。 koロナウイルス感染では。 まずサイバーハッカー(どうやら機械の事らしい)が、GPSでセンサーをスキャンし。 人や動物、物体の現在位置を確認し、コ*ナ症状を作り出す。 周波数の距離に応じて、体の特定の部分を検閲して病気にしたり、センサー技術を悪用して呼吸を止めたりもする。 分散周波数を悪用することで、人、動物、牛、ヤギ、家禽、鳥、魚、その他の動物を一緒に病気にすることもできるという。 テレマティクスとは、センサー技術で作られたセンサーライトの一種だそうで。 サイバーハッカー(やはり機械の事らしい)は、人間の目の網膜をスキャンして現在位置を把握し、あらゆる瞬間を監視。 <目を開けた>個人がどこにいても、あなたの位置は即座に知られる。 コroナウイルス感染症が「テレマティクス」関与の証拠というわけだ。 「私たちは、デバイスを通して電磁周波数によって攻撃されています。」 「一部の人々が(技術の悪用を通じて)世界中の水や陸地に大混乱を引き起こしているため情報が伝わらない」、と書いてあったが。 (違うと思う。科学者全員で、科に分けて分担してやってんだよ。) ※コロna疾患からの予防策 (これは有効だと思うので、ほぼ全文転載。) 「ある場所にいて、くしゃみ、しゃっくり、せき、チアノーゼ、鼻水、鼻づまり、悪寒、頭痛、不快感、息苦しさなどを突然感じたら、すぐに目を閉じ、サングラス(放射線防止ガラス)をかけ、黒い布を身につけ、今いる場所から新しい場所にすぐに移動してください。これは必ずしなければならないことです。」 「ii.その後、体に異常や衰弱を感じたら、新しい場所で少なくとも7~25分間、目を閉じたままサングラス(放射線防止メガネ)を着用します。携帯電話、電子機器、テレマティクス、GPS(全地球測位システム)、いかなるセンサー機器も使用できませんが、パーソナル・エリア・ネットワーク・コントロール・ユニット(PANCU)、放射線防止ベッド、放射線防止蚊帳は使用できます。」 (ベッドと蚊帳の売り込みかな?)
2024年10月19日
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擾乱(じょうらん)は科学者の好む言葉のようだ。 誰がやってんのかわからんようにできる、無責任な言葉だからであるからだろう。 「太陽面での大規模な爆発により放出された高エネルギー粒子が地球に到達した際に観測されるような顕著な地磁気が搔き乱されるさまを磁気嵐という」が。 そこで攪乱された<電磁波の有様を表現するのに>、つまり磁気嵐で起きる攪乱(かくらん)の様子のことを言ってるのだが。 そこでたぶんオイラの高校の先輩たちが、それを「擾乱」にしてしまったようだ。 科学の世界では擾乱なんだと。 誰がやってんのか、何が起きてんのかわからんようにしようとしたのだろう。 オイラは攪乱のほうが、責任がハッキリしていいと思っている。 「擾」には、みだれる、さわぐ、意味合いも確かにあるが、物事をはっきりせんようにする、擾わしい言葉なのだ。 地磁気はハッキリした地球の固有のもの。 なので、オイラは攪乱でいいと思っているし、擾乱だと何やら新作アニメの宣伝みたいなので、使わなかった。 太陽風にあやかって、馴染みのない字で秩序をかき乱してはいかんと思うので。 擾乱製作委員会なるものすらあるようだが、オイラこの言葉好きではない。 11日に地磁気攪乱のこれが、だれがやってんのかわからんままに、太陽の責任にされて起こって。 この6日間は、一応無事だった。 明日以降も無事でありますように。
2024年10月18日
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(表象・想像?=ファンタシア) さて、「ファンタシア」というヘラス語が、どうもひっかかるのである。 これが「表象」という古典ギリシャ語として意図的に誤訳されたことを過去に述べた。 表象というこれは、知的に偏重して認識されている。 そのため、感性抜きで理解されてしまって誤るんだと。 「表象」訳だと、知性べったりになるのだ。 知性に瞳着した概念の形象(継承)みたいになる。 それだけでなく、うすっぺらくなって現実味がなくなってしまう。 なので、明らかに誤訳なんだと述べて来た。 ファンタジイ(おとぎ話)、ファンタスマ(幽霊)、という類似の今日的言葉が、これらに絡んで生まれるしかなかったんだと思う。 当時から幽霊はいただろうが。 逆ではあるまい。 おとぎ話や幽霊からは、現実は想像され得ない、からである。 ファンタシアは、その「現実」の哲学的(無知の知)表現である。 今日では、おとぎ話や幽霊から「現実感」を得て感覚を楽しんでる。 それが普通だが、幽霊は現実から「想像」(創造)されたものである。 同様に、霊界といったものも想像であって。 これらは現実をもとに作られる、「人工の共有もの」。 悪魔的作品、なのだ。 いろんなものの現実「感」部分のみを取り出して、ファンタジイやファンタスマは、できてるからだ。 ファンタシアはもともと、現実の<感性の様>のことを言う。 特殊なオルガノン用語である。 だから、逆だと、これではそもそも、現実がおかしくなる。 ファンタシアは、筋が通った言葉のはず。 それに対し、ファンタジイやファンタスマと言った言葉のほうは、客観的なのだが。 そもそも客観化が困難、というか、満足に明確にはできない。 絵空事の想像(創造)ブツ。 (創造も想像も、漢語では区別されるが、日本語では単に同じ音と言うそれだけでなく、まったく同じ幅広い意味だと、わかるだろう。) ファンタシアはしかも、科学用語などのような、死者の断片排泄物エクソソームではないのだ。 だから、絵空事などではありえないし、空想ともなりえない。 ファンタシアはしかも、「対象認識」だとか、「像化」といった、知的にポシティブな意味を、じつは「本来全く含んでいないのでは?」、と。 つい思ってしまうが。 実はこういったものをも、「知的にポシティブな意味をも、当然ネガチブ部分をも」、もともとファンタシアが心身一体で含んで持っているハズ。 オルガノンの言葉だからだ。 つまり、瞳着した反復ものや薄っぺらい物さえをも、心身一体で含む言葉。 そのはず、なのだ。 享有で魂の像化のような、宇宙規模の全体像的意味を持つ「イコン」だ、とムリに訳して来たが。 どうもしっくり嵌らないのであるのも、この理由からだろう。 イコンだと、どうしても天上界のモノといったような意味を含んでしまう。 崇高なものはもちろん、軽薄な物さえ、すでに含んでいるのだが。 つまりファンタシアは、「共有のみにおいては、客観化できる言葉でないのだ」と思えて来た。 ネガチブに偏っていってしまう。 ムリに共有化認識すれば、やはり、「神話のおとぎ話」や「幽霊話」がでてきちまうのである。 此処に、騙しが必ず出て来てしまう、っつうこと。 陰謀話になっちまう。 (「騙し」を生んだのも共有化、つまり認識対象の複数化導入による騙しという、その命題化が原因なのである。) 「ウソを言って空に仮託して、想いの絵を描くことが客観的な物事である」、という先の命題を思い出していただきたい。 拘らずに、その意味を反芻してみたい。 共有化には、この「空想」以外に、「騙す」ことも必須となるのだからだ。 認識対象をムリに複数化させて、享有認識の「ある」ということを、騙す。 その役割を持つ図式の働き部分を利用するのだ。 騙す目的は、目的「認識」させるためには必要なんであろうが、所詮「騙(だま)し」なのである。 つまり目的は別途あるのだが、ある、ことを「あらしめる」にする。 「図式の働きのために」どうしても要るから、形式的に利用するのだ。 「騙し」というのは目的をかくすという理由もあるが、むしろ。 (見えてない)図式が享有者を動かし<魂を形成させる>、「その有様のこと」なのであって。 「想像」には確かに近いかもしれんが。 その、「像化」と言った意味相が固有にはない、もともともってない、その有様を言う。 像化は、ないのだろうと思う。 そもそもファンタシアは「知的な働きではない」のだ。 つまり瞳着的なものではありえないと思う。 だから知的な動きに対しては、図式が、ネガチブな意味を持って拒否してしまう、のである。 だからだから、見えてない全部世界図や全宇宙像である曼荼羅図なんて持ち出すより。 そんな騙し、やるより。 単に、うふぉの図式だと、アホになって言うほうがいい。 あるいは「先験的図式」や「メタ図式」、でもいいのかもしれんが。 それだと騙しになるのでダメだ。 (メタ(超越)にメタ重ねたら、文字通りメタメタになるし。) ウソにウソを重ねる事にもなるので、それは避けて来たんだが。 避けて正解だろう。 掌握化できるかどうかもわからない「客観的」には。 知的な「像化」というのは、無縁な言葉ではあると思う。 もちろん「表象」だとか「想像」という訳語も、当然のように、全くの誤りとなるのである。 そもそも、象や像が主題ではない、からなのだ。 はっきりせんプラズマ様のもの、量子様のもの、だからだ。 UFOのように、何もかもはっきりせん。 数学的に言うなら次元もの、だろうが。 足場の時空をさしおいて、数学のように軽薄には騙れん。 むしろ「人が構想する」といった、「感性的なモノが明確に」あるものの。 それの<能動的な意味>ではあるので。 (これも「能動的」と言っていいのかどうかは躊躇するんだが。) 過去にはオイラ、これを「能」だと言って間違えてた。 有職故実の共有形式だ、と思い込んでいた時期もあった。 ファンタシアは、イコンより「能動図式」、「能図式」といった図象的意味が確かに近い。 それはまちがいないのだが。 肝心の「能」部分が、いつまでたってもちゃんと見えてこない。 だから、これも完璧には正しくはないのだろう。 これ(ファンタシア、能図式)が、「表象」という、みえてみえない(うふぉ)象ものとなって、知性を導いてしまい。 さらには想像という絵空に見える「像もの」になって、(西洋は)道を誤ったのだ。 それは、古典ギリシャ以降の時代の話である(ローマ帝国での話だっつうこと)。 科分離思惟が、これに絡んできているし。 (これは、目的があって殺して分けた、っつうこと) 哲学の抹殺と改変、それの知識集積へのアジェンダ(予定企画)といった介入もあった。 そういった、構想絡み、目的企画陰謀絡み、になってたんだとは、おいらの哲学史で、すでにわかってきている。 しかしそれが隠されて見えてない(陰謀となってる)ので、あえて実体のない表象にしたのだろうが。 「能図式」では、これも感性が消えちまいそうな気がしてならないのだ。 図式は、感性の形式なのだが。 形式だけでは実体が十全でないので、何も見えんからだ。 ファンタシアは、導く「実体のあるオルガノン構想」なんである。 この実体と言うのは個形容物の意味じゃないのだ。 導く中身のあるものの事だ。 そもそも中身の純粋悟性概念(カント先生を利用して考えてる)は、悟性的に共有的に働くのではない。 それを「ネガチブにして<享有するように>働く」。 あくまで自分の側の、「感性の言葉」でもあるのである。 だから図式、シェーマなんである。 その享有と共有にまたがった能図式の「想像」をこそ、ここでは、まずもって騙りたいものである。 「騙り」は、つまり、<共有の想像>であり。 これは<ウソの創造>、ということでもありうる。 しかしこれは同時に、すでに享有されてもいる部分なのだ。 個対象と複数個対象の間を、揺れ動いている。 (時間を軽薄に数量化した数学的時間なんぞで考えんように。) (カテゴリーの量を取り去るメタバシスやらんように。) (能図式・想像?=ファンタシア) ウソの創造であっても、想像することには必ず、そのモトとなるものがあるのだ。 感性の導き、つまり「時空が底に(そこに)支えて、ある」ハズなので。 想像共有(共同幻想)であっても、「必ずなにがしかの享有があるはず」。 単なる「空想」や「虚構」には、モトとなる感性の「枠はない」のである。 能図式=?ファンタシアはその点、想像された<感性枠そのもの>。 というオルガノン用語。 なので、感性は、ここにも必ず、ある。 そのあるものは、どうやら「図式そのもの」なので、見えてない。 モノ自体はないはずなので、ないのかも。 つまりム、なのかも。 だから紙一重で、二重の意味をも併せ持てている、つうこと。 純粋悟性概念=図式。 1:感性でもって人の心を構えさせ、出来させる。 「客観的にはネガチブな図式2”無”」である部分と。 2:感性として構えた人の心を反省し「もともと無知である」ことを認識させる。 「主観的にポシティブな図式”有”」の部分。 オルガノンにはこの二重の意味が、必ずある。 二つそろってはじめて、想像は「ある」、といえるのである。 像を想うということは、片方だけのうすっぺらいものでは、なりたたない。 知性だけでは成り立たないし、感性のみでも成り立たない。 双方そろった無なしには成り立たない。 モノを切り殺して細分化しても、ヒモにする原理論にもなったりは、しないのである。 (これは物理学が日頃やる、先験的に誤った形而上学となる。) 想像は、しかも享有者においては、カテゴリー制約下の倫理ものだ。 (享有の「あり」ということが、倫理として働いているとわかる。) 倫理は享有モノなので倫理規制委員会といった公共機関が関われるようなものではなくて、そうかといって享有の好き勝手にもならない。 必ず「オルガノン監修」なのである。 倫理観なき想像などは、だから、現実には「ない」と言える。 つまりはすべて図式の導きに従っての、日常の具体物のコレコレの想像、なのである。 現実は「単なる空想」なんかじゃない。 カテゴリーに導かれて初めて「ある」、と言える制約下の有限な(幽玄な)ものの「無」。 ファンタシアの多様性は、複雑で厄介なのだ。 すべて現実がモトだから。 必ず「生きている具体的な想像」なので、想像においても「生身の人間」が必要なのだ。 (生身の人間以外のものが、創造(想像)に関わることなどは、だから、ありえないのである。) (全知全能の造物主神や、AI自動機械などでは、だから創造などできっこない。) ウソ物しか作れないやろ、ってこと。 ましてや、単なる対象一般の空想では、この「ある」ことが希薄になる。 複数の対象の空想だと「時空の枠が」必ずあいまいになってしまうのだ。 つまりは人工のホログラムにしかなんない。 まともな想像(創造)に、ならんのだ。 具体想像で何が出て来るか、というと、「(現実の)出来事」がでてくる。 具体的な「あり」の中身が出るはず。 実体が、経験(敬虔)となって、出てー来る。 (そしてそれが、時空と言うもの、なんだ。) (敬虔のない時空は、まさにニセモノの特徴である。) 「動的な意味合い」が、このように次々と出て来るのである。 能が、可能体になって、しかも現実体となって、出てー来る。 この「可能体」を考えて、それで能といってるわけだが。 それも、客観的「空想」に属するもののようである。 つまりウソ事に属する、というわけだ。 (純粋な享有(あり)だと空想される唯一神は。 だから自分に対しウソつけない、というわけになる。) (しかし日本人が自分にウソつける、ってのは真実が証明している。) (これは享有が唯一の神ではなく、自分というものの複数対象のことなので、可能なのである。) (自分自身は必ず複数の人格を持ち、一人ではない。) (一人だと思い込んでいるだけ。) (したがって、人の思考は神ではない。) (能図式・空想?=ファンタシア) 「想像」は必ず、像という「過去の時空」がモトで「ある」。 ある、は過去に、経験としてある。 享有の“有”図式が働くから、そうなっているのだ。 それに対し「空想」は。 時空を持たない、過去の経験を持たない、しかし知的な「絵空事」なのである。 西洋はコレ偏重になってしまっている。 想像(創造)は、じぶんだけでは空想できないという「事実」があるので。 絵空事でない時空を(ネガチブであっても)過去に持たざるを得ない。 その必要があるんだが。 (共有の図式は、だからファンタシアのネガチブな{仮想の}能図式なのだ。) 西洋はそのネガチブな能図式に嵌ってしまった。 能図式・表象では、ファンタシアの表(おもて)だけを像化してるわけだ。 なので。 この時空が、人工の「選ばれし者」になってしまっている、ということ。 これが、「優生学で知らぬ間に別物にすり替わってしまう」、っつうことの真相だ。 キリスト教の教義(カルト)にもなってしまっている。 表の象は像化が終わった後の、部分表現だから。 優生学「判断済」に、ならざるを得ないのだが。 しかし図式なので、必ず、その「モトの時空がある」。 だから可能であった判断済の選んだ享有モノを持ち込んで摩り替え、胡麻化すわけだ。 共有のはずの時間旅行をこっそり個人だけでやってる、みたいなもん。 図式が見えていないので、そのネガチブ部分を排除すれば。 全くの人工物にすり替わって見えちまうことになる。 つまり空想も、ホントはそれ固有の時空を持つのだが。 常にネガチブは拒否するので、共有では、この「すり替わり」が起きるが何も見えないというわけだ。 (すりかわりすらも見えない。) 客観はホントは、「みえない共有態」なのに、そこに享有を持ち込み見えるようにするのだが。 ネガチブ拒否の共有図式が働いて。 見えんままに、それらを、すり替え行為をも、ヤラセてしまうのだ。 能という、宙ぶらりんの、しかも見えんもので操って。 さらに共有論議となると・・・ホンマ、メタメタどころの騒ぎじゃなくなるわけだ アホなオイラは、ここですでに頭痛い。 無数の命題が出てきたが、記憶にも満足に残らない。 やはりオルガノンの領域は手に余る。 誰か代わりに考えてください。
2024年10月17日
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(空想) 空想と言うのは「絵空事」の事。 個々人の現実には無意味な、うそ事。 つまりは、<客観的に騙れる物事>。 衝撃のこの事実を、オイラこれまで知らんかった。 客観的に語る、という真実があるんだと思ってた。 客観には目的があるから実体があるんだろうと。 何かに託してウソを騙る、という目的があって、客に託され観るのである。 それが客観。 構想力の戯れに任せて・・・云々のウソを言って、「空に想いの絵を描くこと」が客観的な物事である。 (客観を騙るには、必ずこの「空想」が必要なのだ。) (これに対して主観には時空の「現実」が必要となってくる。) ここは世の一般常識と異なってくる部分なので、極めて要注意。 客観には必ず、この<空想が必要とされる>ことを、認識すべきなのである。 空想だからダメだと言ってんじゃない。 そういう独特のオルガノンがあるんだと。 (主観の「あり」から、この客観は語りだすことができないので、わかりづらいのだ。) 客観認識では、必ず「空想に仮託する」必要がある。 物理時間を考えるには絶対時間という周波数を決めにゃならん。 決めたものは現実にあるように見えて、実は空想だ。 空想を導くのはネガチブ部分の図式なので、普通は「この事実が」見えてないのである。 主観、客観そろってないとオルガノン的認識ではないのだが。 どちらかに偏重して認識しようとすると、ウソや不在が出て来るのだ。 科学では特に殺して要素に分離させるので、生きている生物学も死霊学なんだが。 帰納的な論理を主に使うので、言い訳は簡単だ。 優生学認めて、それに仮託すればいいわけで。 思いもよらんもんが出て来た気分だ。 空想の客観的事象というのは、まさに。 虚無主義に囚われた共有専門家が言う、「現実は存在しない」などといった意味のないウソのこと、なのである。 ほんまは、共有社会なるものが「存在しない」。 それは仮託された空想だからだ。 つまり共同幻想である(これは吉本隆明が述べてた)。 しかし享有の自分を少しでも振り返れば、そこに「あり」が、ありてある。 この「あり」、は<享有のみで、ある>のである。 客観の共有には、ない。 空想とーありてある、と、このバランスを取りながら人は生きてるのだ。 両方そろってないと、オルガノンではない。 つまり「現実は存在しない」などと言ってる人がいるが。 彼は、「私には自己反省能力がありません、欠けてます」、と言ってるだけなんである。 「有」は、共有にはネガチブに働き、享有に対してのみポシティブに働く。 図式の力は見えてないのだからだ。 「客」は、共有にポシティブに働き、享有に対してはネガチブのみに働く。 つまり享有に客されている、「見えてない部分」もあるのだ。 (享有が「アリ」をポシティブに捉え、共有では「有り」はネガチブに、つまり「無い」ということになるんだが、その見えてない逆転部分もある、っつうこと) この命題は何度も出てきたが。 オルガノンの規則の一部なんだろう。 (これを形成しているのは「見えてない図式」であって、空想に客観的に描かれた設計図なんぞではないので注意されたい。) 時空に、ちゃんと描かれた構想ではあるのだ。 そのまねしにすぎん「表象は、関係ない」。 現代社会は、その「見えてない図式」を無視する。 そのために、空想の科学的事象や修辞学を、その社会と言う「基礎に据えて」利用する。 見えない図式の代わりに、人工の基礎を置いて、客観だとしてしまう。 共同の幻想的パラダイムは、危うく出来上がっているわけだ。 (享有の)時空の方も、(ありてある)ものなのであるが。 ダメな科学が、それを危うい死んだ時空にし、想定や予定で導いてますますダメにし。 カルト宗教が身内に採り込んで、荘園につくりあげてしまっている。 ユートピアなる空想社会が目の前に「表象」されて、ぶら下げられ。 溢れる多様性を見せずに、天上のカルト教義にばかり、衆人は導かれているわけだ。 それにみんな気が付いてない。 これに気がついた近代の人も何人もいたわけだろうが。 無視された。 カルトというのは、本来、空想とは異なる「実体のあるもの」であるはず。 堅固な世界のものなのだ。 だが。 共有社会のカルト化導入と、虚無主義論理学の支配が進んだその結果。 「現実」というカテゴリーが、聖職者オッカムによって取っ払われてしまい。 これが同じ人工の悪魔領域時空となり替わりかけているというか、なりかわっているのだ。 共有のみの社会に生きる、今日の「カルト人間」たち。 彼らには「有の実体が全く見えてない」のである。 実体が「カルト」に成り代わっているんだから、共同幻想があるのみなのだ。 失われた時や場を求めて、虚偽の人工のオルガノンを立て、彼らは無辜の羊の殺戮を重ねる。 幼いころからの繰り返す教育が、そういった共同体の環境を作ったのである。 「絵空事をやってるように見えて、実はみんな、見えない魔法で操られてんだ。」 というのが陰謀論だが。 どうやら、都市伝説や陰謀論は、その「ことごとくが事実」となってきた。 オイラが陰謀論者になった、んではなくて。 世間が客観的に「ウソ事導入で、そればかりとなって」、そう言える、「ウソが真実だといえる事態」となってきている、ということ。 この節でわかってきたことは。 (客観的、というのは、<ウソ事で、空想して仮に観て言えば>、っつうことだよ。) (あんた、それちゃんと理解してるか?) (「客観は絶対の真実だ」、と思ってやしないか?) 脱線に見えるかもしれんが、やぶにらみに、そういった過去の陰謀論的事態を、このさいもっと多く列挙していきたい。 (優生学の凋落)、(心理学の妄想)、(医療の幻想)、(宇宙の破壊)について、予備的に十分騙り散らし倒してから。 そののちに(想像)を語りたい。 修辞学やってんじゃなく、オルガノン、哲学やってるつもりなんで、間違わぬように。 (優生学の凋落) これは現代では、金満銀行家の「虚無主義的破滅」を意味する。 グローバル社会による世界統一政府という彼らの陰謀を、その破滅が破壊しつつあるのだ。 同時に、「哲学は共有する知恵の学であるというウソ」も、自然と、あばかれつつあるのである。 哲学とは、<自分の無知を自分で知る、認識し知識を破壊する事>。 哲学教授の肩書を持った偽物が、未だに世間で大きな顔で大勢いて、オカネもらって哲学を「共有の知恵に」したがっているのは事実なんだが。 しかし虚無的崩壊はしのびよって、事態を破壊しつつある。 環境工学の黄昏が、すでに来ているのだ。 点取り虫中心の、知識偏重で誤った学問の黄昏も、同時に進行中なのである。 これは地球規模の氷河期の到来で、いずれ表に出るだろう。 地球温暖化という儲け話、陰謀の数々をワヤにし。 賢い半機械人間の地上での優位性を、すでに揺るがせてしまっている。 サイボーグ009は全員死ね、(石ノ森章太郎!)というわけだ。 進化論が、「詐欺的な学問だ」と言われ始めて久しいが。 人の「進化」なる事柄についての「研究」自体も、ずいぶんと怪しいのである。 今や、地上で権力持ってるのは(ウソの)宇宙人なる、へんな存在。 オカルトが主流だ、ってえこと。 人はもはや、アリみたいな、それも実に惨めな宿借り存在になっちまった。 そのため今度は、人の精神性を宇宙人と同等にしたくて、未来の機械に頼り。 機械化できなくて(コロコロ死んじまうんで)、焦ってるようだ。 逆かもしれんという、意図的な人工削減が行われているという説もある。 地上に宇宙人など、どこにもおらんよ。 証拠もないし痕跡もない。 あるのは宗教家による「人の陰謀物語」ばかり。 絵空事が多すぎる、のだ。 火星の衛星や地球の月は、ブツが中空なので、宇宙船かもしれんのだががね。 もしかしたら遠い遠い過去の文化の痕跡が、孤立して残されてるだけかも、だが。 生き残り機械人間くらいは、未だ、いるのかもしれん。 日本なんてその意味で、「超怪しいんだ」、とよ。 この日本の過去が最近暴かれてきてる。 面白いので、ちょい、超古代史へ脱線する。 (脱線・超古代史) 列島は文明の中心地からは遠い「へき地だ」と、されてきたが。 発掘技術の進歩で縄文文化が多く見えて来るにしたがって、欧米の文化人類学者の意見なども、すっかり変わって来た。 ちなみに、この文化人類学というのも「形而上学の一種」だろう。 列島が、世界の人々へ文化を伝え続けて来た諸文化発祥の地だ、というのがわかってきたので、常識が覆った。 だから面白いのだ。 僻地ではなくて、列島は過去の文化の発祥の中心地だった、というわけだ。 但しその文化は、優生学的な今の西欧文化とは、まったくの異質なものだった。 「文明」というのは、前にも述べたがダメな言葉なので、使いたくないが。 文明とはなりえない、独特のローカルさ、をもつし。 「文字がなかった」なんてのが、点取り虫学者の言う、ウソ八百空想の総代表である。 くかみ文字から、あひるくさもじ、カタカムナに豊国文字など、さらにロンゴロンゴやハッチの絵文字に似たようなやつから、カロシテイ文字、オガム文字にルーン神聖文字やシュメール文字まで、無数に神社中心に残されてある。 なのに、列島には文字がなかったという、あほの一つ覚えを教科書は言う。 「稲作を中国から取り入れた」、なんてのも、今やダメ意見となったし。 鉄器も、縄文鉄が各地でいっぱい出土している。 今のところ鍛鉄中心と言ってるが、製鐵跡もあったはず。 砂鉄からのタタラ製鉄は大勢の人が声上げてきたが、無視され続けている。 ハッチのそれよりずっと大規模で、更に超古い物が出て来たりするのに無視だった。 しかし縄文人が日常的にコメ食ってたのも、縄文水田跡調査の「科学知識」で痕跡出て来てバレてきたし。 定住してた事実もある。 クリの木の品種改良してたのも、とうにバレてる。 現代日本人はしかも、「縄文人ではない」、のだ。 3-8世紀ごろ大陸から渡ってやってきた征服者諸王朝の末裔、がオイラたちなのである。 つまりオイラたちは「強盗や海賊のお仲間」なのである。 何故か、オイラたちは辺鄙な島へとやってきた。 文明の中心地を目指したのだろう、などと言われているが、文明はなかった。 超高度の鉄剣文化は弥生時代早期にあったが、鉄剣以外は見えてなかったはずだ。 但し日本人は、その血に古い縄文時代の男系遺伝子を多く(約2割と言われる)持っているのである。 つまり縄文時代文化も、その一部に過ぎんのだが受け継いでいるのだ。 なので。 強盗に入って征服し、古い文化を根絶やしにした、んじゃなくて。 郷に入って略奪はしただろうが、最後は郷に従った、ことがわかっている。 先に倭人が大規模に侵入し(これは帰還しただけとも一応採れる)。 あとからごく少数の日本人がやってきて、かぶさった、背乗りしたのだが。 倭人も日本人も現地の縄文人の男を皆殺しにはせず、ともに列島に同化された。 「権力」と「城壁」と「王」がそろっていないと、現代の文化人類学では高度文明とは、みなさない。 「戦争」や「優生学の痕跡」がないとイカン、というわけだ。 だから小アジアでギョペクリ・テペみたいなもんが出て来ても、説明のしようがない。 丘を掘ったら万年単位の古い高度な建造物がいっぱい出て来て、困っているのだ。 権力と城壁と王なんて、そないなもん、列島の過去にも、この三つとも、何もなかったのだ。 それどころか何万年もの間、ここで繁栄したことが、膨大な貝塚後でわかっているのに。 戦争の形跡すらない。 列島の、言語のモトが辿れないのは、当然のことなのであると、オイラもわかった。 日本語というこれは、「ウラル・アルタイ語の文法と南太平洋諸語の単語と、バーラタの特定種族の慣習やシュメール語の文化で出来ている」んでは、ないのだ。 基層にシュメール語を持ってるとしてた、オイラの過去の認識誤り。 訂正したい。 現代にみつかる、あるいは過去の各地域にいた、オイラたちと同じ遺伝子を持つ彼らのほうが、逆に列島由来の古い植民者の、些細な一部なのである。 縄文は1万6千年の昔、シュメールは8千年が最古の昔、どっちが古い? 列島で、ウラル地方の文法とアルタイ地方の文法が重なったんではなく。 まるっきり、逆だったんである。 日本語からウラル文法とアルタイの文法に分かれていったのだ。 日本語は、言語学者が全否定する「ウラル・アルタイ語」の諸文法で出来ている。 これは言語学者がいくら否定しても、消しようがない事実。 さらに南太平洋諸語の単語でも、できている。 それらが列島へと集まったんではない。 アカホヤの破滅的大噴火でコロコロ人が死ぬので、太古にみんな列島から逃げ出しただけなのだ。 列島も、当時は、今のように小さな島々ではなかったようだ。 海の低かった過去には巨大な大平原をも持ち、大内海を取り巻く巨大な島々の巨大円弧だったという説もある。 巨大な海洋を中心に、いろんな雑多な種族や諸民族が、まるで一部族であるかのように協調して、黒曜石や、翡翠や、宝貝、土器土偶などの焼きものも共通して持ち、いきてた。 弥生時代のような、白い粗末な服着てたんじゃない。 派手でカラフルな、様々な衣装着て。 装飾品も贅沢に付け倒して。 長いものにまかれ、「和を尊しとなして」暮らしてた。 ちなみにこれを<日本病>と言う。 だが。 まかれるべきものが見えず、和を知らない異教徒の新参者が、それを言うのである。 縄文集落には獣除けの囲い程度しかなく、堅固な城壁が作られた形跡がない。 武器庫にも、対人殺傷用の武器などなかった、そのことなどがわかってきた。 共有する地域の中心地には先祖の墓を置き、その周辺には巨大な集会所や作業場らしきものがあったが。 それは縄文鉄を作るための、巨大な共同作業場なのである。 王はもちろん、いない。 天皇が君臨してた、なんてのは弥生時代以降作のウソ八百である。 奴隷も兵士も、ただの一人もいないからだ。 政治家もシャーマンもいない。 そもそも世襲の専門家などは、いなかっただろう。 みんなが何でも屋。 高床式の立派な建物には(新米の)食料が蓄えられて供えられ。 人は皆、「古米」と雑穀と新鮮な魚を食ってた。 ここが大事。 飢饉に備えて、新米には手を付けていなかった。 古米しか食ってなかったのである。 新米は神棚に備えて貯蔵し、翌年用。 そんな社会では、優生学など誰も言い出さなかった。 ある時期に天候の激変が起き。 古米も新米も消え。 日本人のモトとなった、一度大陸に逃れた食い詰め連中が大陸を追われ、再度列島へ侵略して来るまでは。 (心理学の妄想) 日本病と言われる「特殊な心理」を見出したのは誰かは知らない。 たぶんGHQの回し者だろう。 オイラたちは敗戦奴隷だ、ということを忘れちゃいけない。 伝承に学び数万年を列島で平和に生き延びてた人々は、米人のような支配心理学など必要としなかった。 GHQは、日本人を立ち上がれなくするために、この心理学を駆使した。 日本病への予防接種知識だ、とウソ八百言って。 道徳を破壊し、ありもせん共有倫理を押し付けた。 (倫理なんて享有もんだから、共有的には「絵空事」になるんだよ。) 心理学は、その別名を形而上学と呼ぶ。 これは先験的に破綻している学問であって、「宇宙論」・「神学」と一体で同じものである。 パラダイム一体形成を必要とする。 カルト思想(一神教宗教教義)だ。 一神教徒たちの学問なのだ。 知識集積、データーベース的アジェンダ知識なので、哲学とは無関係となる。 修辞学が、それを生み出し。 社会で論議されるべきオルガノンの理ととして、社会を成り立たせ、人間関係を築き、個々人の思いを伝えるものとしても「空想された」ものである。 オイラはこれを「妄想だ、空想だ」、と、ハッキリ言うべきだと思う。 黄泉の国へと、なき女を忍んで探し求める類の妄想が作った、神話由来の学問なのである。 心理学は、哲学とちがって実務に役立つ。 知識使って他者洗脳扇動すればカネになるからなのだ。 享有のものではなく、最初から「共有」の、優生学ものだからである。 だからまっとうなものかというと、「実体は詐欺同然」であるだろう。 詳細は、哲学史で見て来たとおりである。 科学的知見、予見がふんだんに盛り込まれ、優生学的目的が、(不明瞭に)定められている。 つまり、目的があるのだが、わざと明確にはされない。 心理学の妄想は、つまり優生学的迷信に基づく「陰謀目的」の実践なのだ。 (医療の幻想)。 目的が明瞭にならないのは、共同幻想の特徴である。 医療機関や製薬機関、特に予防接種がパンデミックの根本原因であったこと、が、データーの上でも具体的にわかってきた。 そのことが明瞭に、科学的に、示され始めたのだが。 一部の人たちだけ大騒ぎしてる、だけで。 報道が皆無なので、大衆と陰謀家たちは当然無視。 しかしついには、専門家と言われる人たちの間で、病気が害悪ではなく人の「治癒への動作に過ぎん」こと、までが言われ始めている。 医療への根本認識が変わりつつあるのだ。 発熱が、「身体の自然な治療行為であること」などは、早くからわかってた。 なのにずっと、無視され続けてた。 熱覚まし毒の調合処方が、治療行為の一つとされて来たのが西洋医学。 ケガして使う消毒薬が、生体を破壊し治癒を遅くしている。 なのに、最近までヨーチンや赤チンやオキシドール消毒剤が使われて来た。 (今は使ってないらしいが、オイラの子供の頃は小さなケガにも消毒薬、てのは、一般的だった)。 上気道炎症に始まる風邪なども、ウイルスが原因ではないという「生体被爆説」が出て来たし。 破壊された人の細胞を検出してウイルスと言っているだけ、という、DNA検出はエクソソームなどの由来物だ、という説も最近有力となっている。 今やウイルス学自体が、その基礎の足元から揺らいでて、もはや倒産寸前。 パスツールなどは、もうとっくに詐欺師認定されて、その威信は地に堕ちてる。 インフルエンザも風邪も、地上に電気や電磁波をもたらした産業由来のものだと。 地球規模の害毒汚染由来の疑いが、濃厚に出て来てしまって。 金権を失いたくない人々が、カネや軍事力や太陽活動にすがって、それを必死に隠ぺいしようとしているのが実情。 太陽の活動活性化期に併せて、到達日の同じ日に地上でhaap実験を行って、地上で見られるようになった特異な赤いオーロラの原因を騙そうと謀ったり。 あげくには天文台封鎖して軍事権力下に統制したり。 なんじゃろね、これは。 今や人工の軍事兵器と判明した、コロナ風邪。 それも、もともと太陽のコロナ同様の、実にあやしげなものだった。 mRNAが害毒なんだが、コウモリさんのDNAが、気の毒に犯人にされてた。 しかし太陽の表面温度6千度なのに、その周辺のコロナが100万度。 なんじゃろね、これは。 今は太陽活動に全責任負わそうと必死だが。 太陽の地表温度は、実は6千度などよりずっと低いかも、という話も、ちらほら。 そもそも、低い軌道侵入の観測機器が無事らしいという? ともあれ今でも最悪進行中なのが、予防接種の陰謀ではある。 マスゴミが立役者。 基本は現代まで生き延びた731部隊による、環境保守金権団体と組んだ悪魔行為である。 731部隊は戦後、米軍指揮下に入り優遇されて来たのである。 彼らがパンデミックを演出し、世界人工削減の推進役となった。 コロナ予防接種による被害認定者数はついに、これまでの全病気の予防接種での被害認定者数をはるかに超えたが、ロクに報道もされず。 しかも、次の自前増殖型コロナ枠陳である<レプリコン投下治験>が始まる。 世界中で拒否されたが、今後は日本でのみ行われるらしい。 これは原爆並みの被害をもたらすだろうと、ずっと都市伝説界隈では言われている。 なのに、何処も、やめようとはせん。 いろんな大企業が儲けを予測して、次々と積極参加してる始末だ。 医療行為が人々を殺していた事実がデータでわかってきたのだが、しらんぷり。 レプリコン枠陳は、多次予防接種原因で容易に免疫不全を起こす。 死ぬ本人以上に、「シェディング現象で近隣者を殺すかもしれない」、と言われている。 ヒポクラテスの医療というのは、もはや「幻想」である。 日本もGHQの目論見のとおり、もう明日は「ない」のかもしれない。 (宇宙の破壊) 最近、ビッグバン理論が、じつに壮大に崩壊した。 認めん科学者も、もちろん、いるが。 これを壊したのは反科学派じゃない。 「科学技術」の得た新認識なんである。 一昔前の電波望遠鏡ハップルではなく、ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡というのが、直接電波の目で見て、旧来の理論がなりたたんようにして、しもうた。 宇宙論の崩壊(形而上学の崩壊)がそこで起こったのか、と思えば、逆で。 今度は、人の「現実」が、実はホログラム「幻想」だの、「時間」が実は存在しないのだの、などと言い始めている。 果てはセルン利用で、「宇宙の方を破壊にかかっている」、というのが現状だ。 地上にブラックホール作りたがったり。 科学は、自分の行為の反省が絶対にできやしない。 「ある」、ということが見えてないので、つまりは「客観に頼る」しかない。 なので、その客観を支える現実が希薄になれば、すべてが希薄になるしかないのだが。 希薄になってても、もともと死んだものしか相手にしてないので、気が付かない。 倫理などとっくの昔に無くしてて。 自分の命、という支えとの繋がりがないのだ。 最後の支えのはずの、命を神に捧げて。 更に最後の拠り所だった神とその信仰を見失って、人という種族はどこへいくのか。 宇宙ともども、自滅するしかない、というわけだ。 享有の命を失うことが、宇宙の破壊につながる。 この意味は、享有が理解できないと、わからない。 次回は「想像」を語りたい。
2024年10月17日
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磁気嵐が出た後で大地震が起きるという、科学論文が出てたことは周知。 オイラ読んだのは確か6日目の3.11に関する指摘だったと思うが。 tv報道などは記憶ない。マスゴミは論文黙殺だった。 「地磁気攪乱(かく)乱後1か月以内に大地震が起きる」恐れはあるので、警戒しておくべき。 科学的に確率で言えることかもしれんが、何もかもはっきりせんことなので、小声で言う。 磁気嵐は事実だが、じつは太陽が根本原因かどうかも、はっきりせんのだ。 地磁気攪乱(かく)乱は、字のごとく、太陽活動にかこつけた、どこかの組織の手の覚えによる特許目当ての実験かもしれんので。
2024年10月11日
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「Xフレアにより日本時間10月10日深夜からG4クラスの地磁気嵐が発生する見込み」だという。その間、誰が、何を進行させたいって?「影響を受けるのは、人工衛星や GPS や短波無線など」のみのはずなんだけど?。ナサのいうことはあてにならん。
2024年10月10日
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(空想) 空想と言うのは「絵空事」の事。 個々人の現実には無意味な、うそ事。 つまりは、<客観的に騙れる物事>。 衝撃のこの事実を、オイラこれまで知らんかった。 客観的に語る、という真実があるんだと思ってた。 客観には目的がある。 それに託してウソを騙る、という目的があって、客に託され観るのである。 構想力の戯れに任せて・・・云々のウソを言って、「空に想いの絵を描くこと」が客観的な物事である。 (客観を騙るには、必ずこの「空想」が必要なのだ。) (これに対して主観には「現実」が必要となる。) 世の一般常識と異なる部分なので、極めて要注意。 客観には必ず、この<空想が必要とされる>ことを認識すべきなのである。 (主観の「あり」から、この客観は語りだすことができないのだ。 必ず「空想に仮託する」必要がある。 空想を導くのはネガチブ部分の図式なので、普通はこの事実が見えてないのである。 主観、客観そろってないとオルガノン的認識ではないのだが、どちらかに偏重して認識しようとすると、ウソや不在が出て来るのだ。 思いもよらんもんが出て来た、気分だ。 空想の客観的事象というのは、まさに。 虚無主義に囚われた共有専門家が言う、「現実は存在しない」などといった意味のないウソのことである。 ほんまは共有社会なるものが「存在しない」。 それは仮託された空想。 つまり共同幻想である(これは吉本隆明)。 しかし享有の自分を少しでも振り返れば、そこに「あり」が、ありてある。 この「あり」、は享有のみで、あるのである。 客観の共有には、ない。 このバランスを取りながら人は生きてるのだ。 つまり「現実は存在しない」などと言ってる人がいるが。 彼は、「私には自己反省能力がありません」、と言ってるだけなんである。 「有」は、共有にはネガチブに働き、享有に対してのみポシティブに働く。 見えない図式の力だからだ。 「客」は、共有にポシティブに働き、享有に対してはネガチブのみに働く。 つまり客されている、見えてない部分もあるのだ。 (享有が「アリ」をポシティブに捉え、共有では「有り」はネガチブに、つまり「無い」ということになる。) この命題は何度も出てきたが、オルガノンの規則の一部だろう。 (これを形成しているのは「見えてない図式」であって、空想に客観的に描かれた設計図ではないので注意されたい。) 時空に、ちゃんと描かれた構想ではある。 そのまねしにすぎん表象は、関係ない。 現代社会は、その「見えてない図式」を無視するために、空想の科学的事象や修辞学をその社会と言う基礎に据えて利用する。 共同の幻想的パラダイムは、危うく出来上がっているわけだ。 (享有の)時空の(ありてある)ものなのであるが。 ダメな科学が、それを危うい死んだ時空にし、想定や予定で導いてますますダメにし。 カルト宗教が身内に採り込んで、荘園につくりあげてしまっている。 ユートピアなる空想社会が目の前に「表象」されて、ぶら下げられ。 溢れる多様性を見せずに、天上のカルト教義にばかり、衆人は導かれているわけだ。 それにみんな気が付いてない。 これに気がついた近代の人もいたわけだが。 カルトというのは、本来、空想とは異なる、「実体のあるもの」であるはず。 堅固な世界のものだ。 だが。 共有社会のカルト化導入と、虚無主義論理学の支配が進んだ結果。 現実というカテゴリーが取っ払われ、これが同じ人工の悪魔領域時空となり替わりかけているというか、なりかわっているのだ。 共有のみの社会に生きる、カルト人間たち。 彼らには有の実体が全く見えてないのである。 実体がカルトに成り代わっているんだから、共同幻想があるのみなのだ。 失われた時や場を求めて、虚偽の人工のオルガノンを立て、彼らは殺戮を重ねる。 幼いころからの、繰り返す教育が、そういった共同体を作ったのである。 絵空事をやってるように見えて、実はみんな、見えない魔法で操られてんだ。 というのが陰謀論だが。 どうやら、都市伝説や陰謀論は、その「ことごとくが事実」となってきた。 オイラが陰謀論者になった、んではなくて。 客観的に(ウソ事導入で、そればかりとなって)そう言える、ウソが真実だといえる事態となってきている、ということ。 (客観的、というのは<ウソ事で、空想して観て言えば>、っつうことだよ。) (あんた、それちゃんと理解してるか?客観は真実だと思ってやしないか?) 脱線に見えるかもしれんが、やぶにらみに、そういった過去の陰謀論的事態を、このさいもっと列挙していきたい。 (優生学の凋落)、(心理学の妄想)、(医療の幻想)、(宇宙の破壊)について、予備的に十分騙ってから。 そののちに(想像)を語りたい。 (優生学の凋落)。 これは現代では、金満銀行家の虚無主義的破滅を意味する。 グローバル社会による世界統一政府という彼らの陰謀を、その破滅が破壊しつつあるのだ。 同時に、「哲学は共有する知恵の学であるというウソ」も、自然とあばかれつつあるのである。 哲学とは、<自分の無知を自分で知る事>。 哲学教授の肩書を持った偽物が未だに世間で大きな顔で大勢いて、オカネもらって哲学を「共有の知恵に」したがっているのは事実なんだが。 しかし虚無的破壊はしのびよって、事態を破壊しつつある。 環境工学の黄昏が、すでに来ているのだ。 点取り虫中心の知識偏重で誤った、学問の黄昏も、同時に進行中なのだ。 これは地球規模の氷河期の到来で、いずれ表に出るだろう。 地球温暖化という儲け話、陰謀の数々、をワヤにし。 賢い半機械人間の地上での優位性を、すでに揺るがせてしまっている。 サイボーグ009は全員死ね、(昔の漫画家の名前忘れた)というわけだ。 進化論が、「詐欺的な学問だ」と言われ始めて久しいが。 人の「進化」なる事柄についての「研究」自体も、ずいぶんと怪しくて。 今や、地上で権力持ってるのは(ウソの)宇宙人なる、へんな存在。 オカルトが主流だ、ってこと。 人はもはや、アリみたいな、それも実に惨めな存在になっちまった。 そのため今度は、人の精神性を宇宙人と同等にしたくて、未来の機械に頼り。 機械化できなくて(コロコロ死んじまうんで)、焦ってるようだ。 地上に宇宙人など、どこにもおらんよ。 証拠もないし痕跡もない。 あるのは「人の陰謀」ばかり。 絵空事が多すぎる、のだ。 火星の衛星や地球の月は、ブツが中空なので、宇宙船かもしれんがね。 もしかしたら遠い遠い過去の文化の痕跡が、孤立して残されてるだけかもだが。 生き残り機械人間くらいは、未だいるのかもしれん。 日本なんてその意味で、超怪しいんだとよ。 この日本の過去が最近暴かれてて、面白いのでちょい、超古代史へ脱線する。 列島は文明の中心地からは遠い「へき地だ」とされてきたが。 発掘技術の進歩で縄文文化が多く見えて来るにしたがって、欧米の文化人類学者の意見もすっかり変わって来た。 ちなみにこの文化人類学というのも形而上学の一種だろう。 列島が、世界の人々へ文化を伝え続けて来た、諸文化発祥の地だ、というのがわかってきたので常識が覆ったから面白いのだ。 僻地ではなくて、列島は過去の文化の発祥の中心地だった、というわけだ。 但しその文化は、優生学的な今の西欧文化とは、まったくの異質なものだ。 文明というのはダメな言葉なので、使いたくないが。 文明とはなりえない、独特のローカルさ、をもつし。 「文字がなかった」なんてのが、点取り虫学者の言う、ウソ八百空想の総代表である。 くかみ文字から、あひるくさもじ、カタカムナに豊国文字など、さらにロンゴロンゴに似たようなやつからカロシテイ文字、オガム文字にルーン神聖文字やシュメール文字まで無数に神社中心にあるのに。 列島には文字がなかったという、あほの一つ覚え? 「稲作を中国から取り入れた」、なんてのも、今やダメ意見となったし。 鉄器も、縄文鉄が各地でいっぱい出土している。 今のところ鍛鉄中心となってるが、製鐵跡もあったはず。 砂鉄からのタタラ製鉄は大勢の人が声上げてきたが、無視され続けている。 ハッチのそれよりずっと大規模で、更に超古い物が出て来たりする。 縄文人が日常的にコメ食ってたのも、水田跡調査の「科学知識」でバレてきたし。 定住してたのも、クリの木の品種改良してたのも、とうにバレてる。 現代日本人はしかも、縄文人ではない、のだ。 3-8世紀ごろ大陸から渡ってやってきた征服者諸王朝の末裔、がオイラたちなのである。 つまり「強盗や海賊のお仲間」なのである。 文明などなかったのに、何故か、オイラたちはやってきた。 文明の中心地を目指したのだろう、と言われているが、文明はなかった。 超高度の文化はあったが、鉄剣以外は見えてなかったはずだ。 但し日本人は、その血に古い縄文時代の男系遺伝子を多く(約2割と言われる)持っているのだ。 つまり縄文時代文化も、一部に過ぎんのだが受け継いでいるのだ。 なので。 強盗に入って征服し古い文化を根絶やしにした、んじゃなくて。 郷に入って略奪はしただろうが、最後は郷に従った、ことがわかっている。 先に倭人が大規模に侵入し(これは帰還しただけとも採れる)。 あとからごく少数の日本人がやってきてかぶさった、背乗りしたのだが。 倭人も日本人も現地の男を皆殺しにはせず、ともに列島に同化された。 「権力」と「城壁」と「王」がそろっていないと、高度文明とは、みなされない。 戦争や優生学の痕跡がないとイカンというわけだ。 だから小アジアでギョペクリ・テペみたいなもんが出て来ても、説明のしようがない。 丘を掘ったら万年単位の古い高度な建造物がいっぱい出て来て、困っている。 権力と城壁と王なんて、そないなもん、列島の過去には、この三つとも何もなかったのだ。 それどころか何万年もの間、ここで繁栄したことがわかっているのに。 戦争の形跡すらない。 列島の、言語のモトが辿れないのは、当然のことなのであるとオイラもわかった。 日本語というこれは、「ウラル・アルタイ語の文法と南太平洋諸語の単語と、バーラタの特定種族の慣習やシュメール語の文化で出来ている」んでは、ないのだ。 基層にシュメール語を持ってるとしてた、オイラの過去の認識誤り。 訂正したい。 現代にみつかる、あるいは過去の各地域にいた彼らのほうが、逆に列島由来の古い植民者の、些細な一部なのである。 縄文は1万6千年昔、シュメールは8千年が最古の昔、どっちが古い? 列島でウラル地方の文法とアルタイ地方の文法が重なったんではなく。 まるっきり、逆だったんである。 日本語からウラル文法とアルタイの文法に分かれていったのだ。 日本語は、言語学者が否定する「ウラル・アルタイ語」の諸文法で出来ている。 これは言語学者がいくら否定しても、消しようがない事実。 さらに南太平洋諸語の単語でも、できている。 それらが集まったんではない。 アカホヤの破滅的大噴火でコロコロ人が死ぬので、太古にみんな列島から逃げ出しただけなのだ。 列島も当時は、今のように小さな島々ではなかったようだ。 海の低かった過去には巨大な大平原をも持ち、大内海を取り巻く巨大な島々の巨大円弧だったという説もある。 海洋中心に、いろんな雑多な種族や諸民族が、まるで一部族であるかのように協調して、いきてた。 弥生時代のような、白い粗末な服着てたんじゃなく。 派手でカラフルな、様々な衣装着て。 装飾品も贅沢に付け倒して。 長いものにまかれ、和を尊しとなして暮らしてた。 ちなみにこれを<日本病>と言う。 だが。 まかれるべきものが見えず、和を知らない異教徒の新参者が、それを言うのである。 縄文集落には、堅固な城壁が作られた形跡がない。 武器庫にも、対人殺傷用の武器などなかったこと、などがわかってきた。 共有する地域の中心地には先祖の墓を置き、その周辺には巨大な集会所や作業場らしきものがあったが。 それは縄文鉄を作るための、巨大な共同作業場なのである。 王はもちろん、いない。 天皇が君臨してたなんてのはウソ八百である。 奴隷も兵士も、ただの一人もいないからだ。 政治家もいない、そもそも世襲の専門家などは、いなかっただろう。 高床式の立派な建物には(新米の)食料が蓄えられて供えられ。 人は皆、古米と雑穀と新鮮な魚を食ってた。 ここが大事、飢饉に備えて新米には手を付けていなかった。 古米しか食ってなかったのである。 新米は神棚に備えて貯蔵し、翌年用。 そんな社会では、優生学など、誰も言い出さなかった。 ある時期に天候の激変が起き。 日本人のモトとなった、一度大陸に逃れた食い詰め連中が大陸を追われ、再度列島へ侵略して来るまでは。 (心理学の妄想) 日本病と言われる「特殊な心理」を見出したのは誰か知らない。 たぶんGHQの回し者だろう。 オイラたちは敗戦奴隷だということを忘れちゃいけない。 伝承に学び数万年を列島で生き延びてた人々は、米人のように心理学など必要としなかった。 GHQは、日本人を立ち上がれなくするために心理学を駆使した。 日本病への予防接種知識だ、とウソ八百言って。 道徳を破壊し、ありもせん共有倫理を押し付けた。 (倫理なんて、享有もんだから、共有的には絵空事になるんだよ。) 心理学は、その別名を形而上学と呼ぶ。 先験的に破綻している学問であって、「宇宙論」・「神学」と一体で、同じものである。 パラダイム一体形成を必要とする、カルト思想(宗教教義)だ。 一神教徒たちの宗教教義の学問なのだ。 知識集積、データーベース的アジェンダ知識なので、哲学とは無関係となる。 修辞学がそれを生み出し。 社会で論議されるべきオルガノンの理ととして、社会を成り立たせ、人間関係を築き、個々人の思いを伝えるものとしても「空想された」ものである。 オイラはこれを「妄想だ、空想だ」、とハッキリ言うべきだと思う。 黄泉の国へと、なき女を忍んで探し求める類の、妄想が作った神話由来の学問なのである。 心理学は、哲学とちがって実務に役立つ。 知識使えばカネになるのだ。 享有のものではなく、最初から「共有」の、優生学ものだからである。 だからまっとうなものかというと、「実体は詐欺同然」であるだろう。 詳細は哲学史で見て来たとおりである。 科学的知見、予見がふんだんに盛り込まれ、優生学的目的が、(不明瞭に)定められており。 つまり、目的があるのだが、明確にされない。 心理学の妄想は、つまり優生学的迷信に基づく「陰謀目的」の実践なのだ。 (医療の幻想)。 目的が明瞭にならないのは共同幻想の特徴である。 医療機関や製薬機関、特に予防接種が、パンデミックの根本原因であったことがデーターの上で、具体的にわかってきた。 そのことが明瞭に、データ科学で示され始めたのだが。 一部の人たちだけ大騒ぎしてるだけで。 報道がないので、大衆と陰謀家たちは当然無視。 しかしついには、専門家と言われる人たちの間で、病気が害悪ではなく、人の「治癒への動作に過ぎん」ことまでが言われ始めている。 発熱が、身体の自然な治療行為であることなど、は、早くからわかってた。 なのにずっと、無視されてた。 熱覚まし毒の調合処方が、治療行為の一つとされて来たのが西洋医学。 ケガして使う消毒薬が、生体を破壊し治癒を遅くしているのに、最近までヨーチンや赤チンやオキシドール消毒剤が使われて来た。 (今は使ってないらしいが、オイラの子供の頃は一般的だった)。 上気道炎症に始まる風邪なども、ウイルスが原因ではないという「被爆説」が出て来たし。 破壊された人の細胞を検出してウイルスと言っているだけ、という、DNA検出はエクソソームなどの由来物だ、という説も最近有力となり。 今やウイルス学自体が、その基礎の足元から揺らいで、もはや倒産寸前。 パスツールなどは、もうとっくに詐欺師認定されて、威信は地に堕ちてる。 インフルエンザも風邪も、地上に電気や電磁波をもたらした産業由来のものだと。 地球規模の害毒由来の疑いが、濃厚に出て来て。 金権を失いたくない人々が、軍事力や太陽活動にすがって、それを必死に隠ぺいしようとしているのが実情。 太陽の活動活性化期に併せて、到達日の同じ日に地上でhaap実験を行って、地上で見られるようになった特異な赤いオーロラの原因を隠そうと謀ったり。 天文台封鎖して軍事権力下に統制したり。 なんじゃろね、これは。 人工の軍事風邪と判明した、コロナ。 それも、もともと太陽のコロナ同様の、実にあやしげなものだった。 コウモリさんが気の毒に犯人にされてた。 しかし太陽の表面温度6千度、その周りのコロナ100万度。 なんじゃろね、これは。 太陽活動に全責任負わそうと必至だが。 太陽の地表温度は6千度よりずっと低いかも、という話も、ちらほら。 低い軌道の観測機器が無事らしい? ともあれ今でも最悪進行中なのが、予防接種の陰謀である。 現代の731部隊による、環境保守金権団体と組んだ悪魔行為である。 731部隊は戦後米軍指揮下に入り、優遇されて来たのである。 彼らがパンデミックの推進役となった。 コロナ予防接種による被害認定者はついに、これまでの全病気の予防接種での被害認定者を、はるかに超えた。 しかも、次の自前増殖型コロナ枠陳である<レプリコン投下治験>が、今後は日本でのみ行われるらしい。 これは原爆並みの被害をもたらすだろうと、ずっと都市伝説界隈では言われているのに、何処も、やめようとはせん。 いろんな大企業が儲けを予測して、次々と積極参加してる始末だ。 医療行為が人々を殺していた事実がわかってきたのだが、しらんぷり。 レプリコンは、多次予防接種原因で免疫不全を起こし死ぬ人以上に、シェディング現象で近隣者を殺すかもしれないと言われている。 ヒポクラテスの医療というのは、もはや「幻想」である、に近い。 日本もGHQの目論見のとおり、もう明日は「ない」のかもしれない。 (宇宙の破壊) 最近、ビッグバン理論が、じつに壮大に崩壊した。 認めん科学者も、もちろんいるが。 これを壊したのは反科学派じゃない。 「科学技術」の新認識なんである。 一昔前の電波望遠鏡ハップルではなく、ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡というのが、直接電波の目で見て、旧来の理論がなりたたんようにして、しもうた。 宇宙論の崩壊(形而上学の崩壊)がそこで起こったのか、と思えば、逆で。 今度は、人の「現実」が、実はホログラム「幻想」だの、「時間」が実は存在しないのだの、などと言い始めている。 果てはセルン利用で、「宇宙の方を破壊にかかっている」、というのが現状だ。 科学は、自分の行為の反省が絶対にできやしない。 ある、ということが見えてないので、つまりは客観に頼るしかない。 なので、その客観を支える現実が希薄になれば、すべてが希薄になるしかないのだが。 希薄になってても、もともと死んだものしか相手にしてないので、気が付かない。 自分の命、という支えがないのだ。 最後の支えのはずの、命を神に捧げて。 更に最後の拠り所だった神とその信仰を見失って、人という種族はどこへいくのか。 宇宙ともども、自滅するしかない、というわけだ。 享有の命を失うことが、宇宙の破壊につながる。 この意味は、享有が理解できないと、わからない。 次回は「想像」を語りたい。
2024年10月07日
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(構想) 想いを構える、心構え(テクネー)の、その「心形成」のことを構想という。 現代に一般的な設計図のことではない。 心にできる物の事。 想定枠だけのこころなので、構想ということに中身はない。 だから図式形成とみなすこともできるが、感性のものとしての存在なのである。 客観的には存在し得ない。 純粋な悟性概念の図式とカテゴリーの牢獄が仮象に想定はできるんだが。 必ず実体があるので、客観ブツとはぜんぜん別物。 カント先生はだからこれを「先験的なもの」という言い方をし、オイラはうふぉ、だと言って来た。 そこにあるのはしかも「創作物ではない」のだ。 ネガチブな(しかもかくれてない)図式の表象的反省であって。 具体的なコレコレの想像、などではないのだ。 断じて優生学判断済ではないはずである。 なのに、現実にはすでに図式が権力持ってる、判断済の時空がある。 優生学の領域で、では、さあどうするか、あるいはこっちが優勢と、悟性を捌き選ぶんでもない。 構想は、<ネガチブな図式のこと>、なのであるからだ。 そもそも見えてない。 入り込んだ<優生学自体が、もともと問題にならない>、想定時空の、つまりうふぉ時空の、見えてない出来事なのである。 そういった物への「想定」や、「予定」や、「企画」も、構想とは別物となる。 構想においてはこれら3つのものは当然一切成り立たなくなる。 構想では、アジェンダとは無縁、となるのだ。 経験的な過去になら、心はあったと言えるのだが、その「経験作り」なのだからだ。 経験則すら、構想と言うことのネガチブさには、逆らえない。 そもそも、もともと科分離できない時空なしには、これらに接触できないのである。 だが。 想いを構えるんだから、これはロゴス的な働きだ、と思うだろうし。 純粋悟性概念を積極的に考えてもいい、と思うかもしれんのだが。 実はミュトス的な働きも、ここ構想という時空には、ある。 というか、そっちが主人なのだ。 筋書きがある。 出てー来る、その<時間・空間の中に置いて、初めて>「ある」と言えてる。 だからだ。 構想を取り仕切っているのはもちろん、前にしっかりと立った純粋悟性概念の図式なのだが、もちろんそないなもん普通にはまったく見えてない。 つまり、見えてないカテゴリーが仕切って。 反省の場では構想はすでに、成り立ってしまっているのである。 しかも成り立ってるのに構想の中身は「未だなく」、「すでにない」。 ないのに、そのくせに、ぜんぶ生きているはずのものなのである。 それが時空として認識されてくるべき享有物であるなんて。 すべてが「倫理的なもののはずである」のに、なんかおかしいやろ。 光る、硬い、心象の灰色鋼枠ばかりがポシティブ主張し、思惟的反省の場では反省して優先的に捉えられてるから、こうなってしまうのだ。 つまり利用する用語が、おかしい、間違えているのである。 整理が必要であるし、場の整理、つまり時空検討も必要。 構想を考えるなら、詩的構想が科分類しやすいので、以後、これでやっていきたい。 <詩的構想の科分類> 反省が、つまりその反省と言う「受け取り直し」が。 柔い傷つきやすい、つかみどころのない感性の時空を掌握するために導入された。 何か別の、人工の硬い枠に、ここで、構想のとっかかりで、すり替えたのだ。 ブツの中身ではなく容器を、すり替えた。 「出ー来」の瞬間を想定反省すると、そうなっちょるのだ。 詩的なものの場合は、抒情を入れる「入れ物を作った」、ということになる。 摩り替えたというより、人工物にしたというべきか。 構想はしかし、常に、オルガノンに導かれての反省であるハズ。 導き手が、カント先生が言う、「あんよひも」、が必ず居るはず。 だが容易にオルガノンは見つからず、必ず人造オルガン想定になっちまう。 これは反省の「用語が不適切」な、ためだと思うし、科学的思惟にも問題がある。 つまり詩の出来が悪いわけである。 その悪い、科学という詩でニ千年、やってきた。 ハッキリ言う、<科学というダメな詩>、と。 哲学(無知の知)を基礎に、おいらは科学を見放すわけだ。 死者しか相手しない、だめな思惟の言葉だと。 想定が、いつしかゲシュテルとして、認識の彼方に立ち。 そこではオルガノンの命がいつのまにか「立たされたオルガンの反省」にすり替わってしまっているのだ。 これが、だめな詩。 惨めなポエムになってるともいえる「現実の日々の事態」だ。 自己享有する「ある」から立つ構想は。 必ず、抒情的な内容ものをも含んでの、具体的にアル享有時空のこと。 アル、のは、枠だけではないはずなのだ。 中味の実体を、つまり生きた<時空を伴う>はず。 (余談だが、最近の物理学では、ついに現実に、この「時空はない」、なんてことをすら言い出した。) (量子力学など、論理学絶対主義の一派のこの物理学の現状は、虚無主義に毒され切ったといえる。) (この「現実事態を回避したがっている」わけだ。) (命を殺すのみでなく、今度は時空を先に抹殺したがってる。) そんな最新の物理学は、人の現実を消したがる殺人鬼志向だが。 立った詩的構想のほうは、その生に執着する嫉妬心から、殺人罪を犯した。 フィリアをはさんで同じ領域にいる、哲学の創始者を殺すに至った過去がある。 詩の場合はミューズであって、フィリアではないのだが。 神々がいる同じ領域をはさんで。 「ある」から立つ構想として見出した、同じ、現実に立つ、憧れの<時空対象>だ。 これがなくては詩にならねえ。 共有の「無」から立つ虚無的論理の構想などは、抒情的な物を含まないのである。 詩的にアル、それは「叙情」と呼ばれるものがあることを意味する。 叙述される「意図を持って」詩があるなら、それは大衆を「図式的に扇動する」のみ。 誰かが言ってたが、イデオロギー下に詩は形成されない。 抒情も、叙情の場合には、手からこぼれるようなもんでないのだが。 溢れるようなものではある。 魂とつながっているのかもと感じる。 ヘラス哲学の創始者は、抒情詩の歌い手によって殺されたのではなく、叙情詩の歌い手によって反省的陰謀で消されたんや、と思うとったんやが。 じつは、逆なんであるのかも。 政治的意図で殺されたんではなく。 抒情詩の歌い手が、嫉妬心で単純に権力機構利用して殺しただけなのかも。 ヘラスの個々のポリスを弱体化させ、人工のギリシャ古典にしていくといった、陰謀がすでにあったんや、と思いたいが。 どうやら違うかもしれん、もっと直情的な単純な物かもしれんということ。 抒情と叙情の違いにはしかも、「享有と共有の相違も絡んでいそう」なのである。 抒情詩は、享有者が未知の人々に向かって、<自分だけの時空を歌い出す>。 そういった性格のものである。 叙情詩はそれに対し、共有者としての共通の感情や激情や出ー来する時空を、<特定の人々に対し扇動するもの>なのだ。 後者はかなり悪魔チックである。 だから陰謀加担やと思うとったんやが。 つまり詩の構想に、昔から別の漢字が使われて来た二種類がある。 ヘルマン・ヘッセのへたな訳書いていて、これに気が付いた。 彼は孤独な「享有の自分を語る」前者の詩人なんだと。 ハインリヒ・ハイネはそれに対し、孤立して「共有の種族に語りかける」、後者に属する。 やはりユダヤ人は、共有オンリーになる、ようだ。 訳していてもどうも、しっくりのらないのに気付いて、これに気がついた。 おいらユダヤ人とは相性悪い。 マーラーは大好きなのだが。 享有も共有も、もともとは同じものだ。 <人の有>なんだが。 思惟が単数を選ぶのか、複数を選ぶのか、によって違ってくる。 これは主観と客観の違いでもある。 また、この思惟の方向によって、詩は二種類に分かれる。 仮にだが、それを抒情と叙情と分けよう。 流浪思惟中心の抒情と、反省思惟中心の叙情。 「抒情」と「叙事」の区別なんてえのは、うわべの分類で、ほとんど無意味。 情も物事も、思惟と反省、双方が必ず加わるからこのどっち重点かの区分が重要。 「抒情」と「叙情」が、思惟のモーメント方向の分類なので、こっちがもっと意味を持つのだ。 つまり情が絡む構想には、二種類あるということ。 普通の知識織、していく思惟と。 哲学的な、反省へと立ち止まり、破壊する思惟と。 情がからまない思惟は、たとえば科学的思惟で。 これは客観志向の複数対象共有思考の特徴。 理解、は哲学と同じ、破壊して解ること。 抒情は反省的かというと、逆なんであるんですなあ。 単数流浪的で流しっぱなしで、ほとんど反省なし、といえる。 萩原先生が、「感情の流浪」と言った意味が、やっとわかった。 叙情の図式が、その「感性の反省」に沿って(みえんままに)動いて、感性を導いているのだ。 外形枠体裁を持つのが、詩で。 言葉の枠しか気にしてないのが、詞だってことは、これは世間常識。 但し、この命題定義自体が、極めてあいまいなのである。 形式には、4行詩、14行詩(ソネット)、5言、7言、律詩、絶句などいっぱいある。 我が国でも俳句、短歌といった詩や、外的形式のない歌詞がある。 これもうわべの表象で、ほとんど無意味な、あたりさわりのない分類だ。 人の構想自体は、その本質が<ネガチブな図式>なのである。 その部分は見えんようになってる。 反省しようが思惟を逆転させようが、中枢部分は絶対に見えっこないのである。 見えて、出来てくるのは、その人の<経験>だけである。 享有経験なのか、共有経験なのかは。 <思惟の単数が対象>なのか<複数が対象>なのかで、きまりだろう。 享有、共有を区分する<規則>が、やっと認識の表に出て来た。 <思惟の対象が1つだと、享有>。 <思惟の対象が複数だと、共有>。 悪魔は、光るもので誘って思惟の対象を眩惑化し、単数をむりやり複数に持ち込む詐欺やって騙しているわけだ。 抒情も叙情も、思惟の「流浪中心」なのか、「反省が加わる」のか、で、きまる。 抒情が流浪主体。 叙情が反省加担中心。 その経験に載せて感情を流浪させ、「歌い出す」のがポエム(萩原朔太郎先生の説)なんだが。 ここで実際に働いてるのは、歌う行為の、その裏にあるもの。 見えてない「図式形式枠」なのである。 それに尽き動かされて、詩は、できる。 出-来る(ポイエーシス)。 出てきたら見えるわけだ。 形式枠は、構想の、モトとなる、心にある図式、のことなのだ。 規則が、そこに「ある」。 享有を「振り返り」、その「経験化された図式の働きを反省して」。 出て来た感情のものを叙情というのである。 振り返らずに、経験にまとめる意図抜きに単に流浪させても、これも抒情だ。 この素朴な抒情の場合でも、図式は同じように、<単数相手に働いている>と考えられるし微細なはんせいはあるだろう。 見えんだけ、なのは同じ。 だから詩において、抒情か叙情なのかも、あんまり意味がないのかも。 単数相手にそれを見据え、つまり出来た享有心を歌い出すと。 「抒情詩」や「叙情詩」となる。 複数の物事であっても、一意にくくって対象化すれば同じになる。 一方、共有を振り返り。 <複数を相手にして>。 その経験化された図式の働きを反省して共有化し、出て来た客観ものが叙事詩になるのだ。 抒情を流浪させるから叙情詩、出来事を歌うから叙事詩、なんじゃない。 そういった区分は無意味。 ここをまちごうたらあかんえ。 抒情のない詩なんつうのは、「ない」はずなのだし。 出来事のない人生なんか、絶対にない。 ところが現代詩では、こういった事情が根本から違うのである。 まず普通の、<生きている人の抒情がない>。 つまり生きていない人工物の、<光る硬い抒情>や<叙情>なのだ。 (この光る堅い、定義はTSエリオットに由来する。) しごく悪魔チックなのである。 現代のエンターテイメントが悪魔チックになる場合が多い、その理由である。 あえて、光る硬い叙情だと、死んだ心の者だといわずに、さりげなく評論させている。 実際には反省された叙情でもない、ズラされた「人工の叙情」に徹するのである。 こういった手の試作がなされていた時代がある。 (叙情は<時空掌握・その時空目的>である、そのことがわかるだろう。) (現代詩では特に、人工の図式が仕込んであるから、明確にそうなるのだ。) この叙情に関しても、(現代詩的ではない)萩原朔太郎先生は、すでに疎外されてたと思う。 時代の、軍部や大衆企画からの除外、村八分だけでなく。 全員が体制翼賛会的悪魔となることを強要された、その時代からも、疎外されてた。 歌い出すこと、感情を流浪させることが「詩の形成だ」と先生は見てたようだが。 オイラは歌い出す前に、すでに図式が「出てー来てる」、と思う。 判断済となっている。 先生は現代詩という名の、見えてない陰謀にヤラレ。 詩壇からも疎外されて氷島に閉じ込められるしかなかった。 詩人を殺し、人工の叙情に置き換える陰謀が行われていたのだ。 大学の先生までが加担してやってた。 経験化された<図式の働きの反省>、という、見えてない過程が此処にある。 これが抒情を<出来>させている、当のものだ。 見えてない過程は、ぜったいに見えっこない。 だが、反省の経過、つまり経験は、そこにあふれ出すのである。 日本の近代の詩聖には逆らうが。 言霊の構想の出来は、「歌い」にあるのではなく。 その前の、思惟の「反省にあるのだ」と思うんである。 抒情も、微細ではあっても反省を持つんだと。 抒情や叙情は、(ネガチブな)図式の働きとなりえなかった享有者の反省的思惟だ、と思うのである。 溢れる経験だけがエモーションとなり、情緒として溢れて見える。 享有反省の全くない詩など、ありえない。 意図した人工の詞でも同じ。 同じようにしかし、<人工で叙情付けられた詩>など、「ないはず」なのだ。 なのに現代詩が、自分を「ある」と主張している。 ゲシュテル化された、オートメーションの魔法陣でない限り享有者の詞や詩はない。 しかし優生学的に他者の抒情を攻撃する、共有者たちの「詩壇」があり、それが権力を持つのだ。 享有詩人がいるんじゃない。 なのに詩壇が力を持つ。 現代詩は、言わば詩の本質である享有がない。 なのに、複数化された対象物をもって<自分たちの仮想の時空を構想した>のである。 光る、堅い叙情で世界を埋め尽くそうという悪魔達の陰謀があった。 その実践運動が、詩にふさわしくない共有の運動となった。 オカネもらってこれの実験企画してた人が大勢いたと思う。 時代と合致して、共有化、体制翼賛化が動いていた。 詩は時代を超越するはずなのに、「時代と一体となって実践活動してた」のだ。 つまり心を構えさせる(テクネー)のは感情の流浪ではなく、<反省>という「振り返り」、だと、おいら思うわけだ。 アルケーを求める、これは佇み、なのだ。 停滞すること。 これは西洋で一般的にいう「反復」、「受け取り直し」とおなじ機能で。 図式の・・・と反復される権能への構え、つまり<構想>なのだ。 反復する、それの意図が「経験というカルト化」を引き起こし。 そのカルトが、見える物となって哲学を殺し。 抒情に化けて出てくるんだと思う。 この「出てーくる」ことが<ポイエシス>、ということである。 (ハイデガー先生が登場する。) だから<詩の本質は、ポイエシス>で、いいわけだ。 構想は、このポイエシス次第。 つまり詩次第、だとわかる。 ここに図式の牢獄があり、倫理の働きの中枢がある、のである。 構想ということは、今日。 ロジックが虚無主義を仕立てて優生学判断を虚無へと追放し、知的な瞳着へと表象させてしまう事だ、と言ってしまっている。 そういう虚無主義風潮が、現代の常識的風潮なのである。 これは<表象>という「不適切な言語の犯す誤り」。 誤った詩的解釈だ。 現実が、誤った言葉に捻じ曲げられてしまっているのだ。 論理の手を借りて、図式の牢獄からは出た、かのように思い込んでしまっている。 これは明らかに、間違っています。 メタバシスやっても、カテゴリーの牢獄、倫理の牢獄からは逃れられない。 自分を無くし、享有を消し、果ては時空を消していくしかなくなってくる。 そっちの動きもすでに出ている。 しかし構想というのは、「図式の牢獄に捕まることを言う」のだ。 こころがカテゴリーの導きで倫理的に「構えさせられる」、そのことを言う。 こころが、カテゴリーの力で構え「させられ」、そこに「経験」が、できる。 見えないネガチブな領域を無視して、隠れた本当の意味がポイエシスされるんだろうか?。 いいや、違うと思う。 隠れた図式の働きは、そのままである。 ネガチブな<経験>は、<敬虔>となるだけなのだ。 経験は = 敬虔である。 これは日本語では同じ意味の、享有者の言葉なのである。 しかし無視することは、無視されること。 共有理解だと無視して無視される。 ポイエシスの時空がズラされて、死んだ人工物に取り囲まれても、その敬虔が見えなければ、カテゴリーの力は、牢獄のうっとうしさしかもたらさないだろう。 果ては虚無の論理に捕まり、人の人たる所以の時空を、手放そうと図るのだ。 かくして「構想」は「空想」と化してしまうことに陥るのだ。 次回は、この空想を騙りたい。
2024年10月01日
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哲学史は結局のところ、オルガノン反省構想の歴史であると思う。 俯瞰や企画じゃなくて、反省して絵にかいた餅、その反省。 哲学は必ずネガチブな領域への反省である。 オルガノン、つまり生命の「法則」は、生命という「共有」世界が命だ。 その共通の法則であるはずのものだから。 だからだから、前節に従えば、<ネガチブな図式に動かされる>共有ものでもあるのだ。 それの反省。 しかし、享有の有として生きてなきゃ話にならん。 感性を持つ、人の側のものなので。 これ(生命)は必ず、法則として享有者があると反省があって初めて確認できる。 しかも<ネガチブ>な、<共有図式>の産物となる。 現実の生き死にというものがポシティブには相手できない、その理由なのだ。 人の手には、人の生殺権などない。 図式にはポシティブなものも「ある」ように思ってしまうが。 ポシティブものは<享有の専売特許>であって、享有でもって「有る」ことを相手する。 共有者は、これを一切、あてにできんのである。 目当てにもできんので、メド立たない。 この「あてにできん」部分の図式にあたるものを、予定構想目的で再現企画したものが、優生学なのだ。 別名を<進化論>とも言う。 みえんネガチブ部分を、想定で補って胡麻化してあるのだ。 つまり時空間をズラしているわけ。 あてにできんので明確に示せず、アジェンダとなってしまっちょる、というわけである。 未来志向の情けない顛末。 反省のできない科学の思惟では、これらの事実を、そもそも全く認識できないことは何度も述べて来た。 なので、主観的享有に、その感性に頼るしかない。 感性的にそれらを規定して、命が取り持っている。 それが、ロゴスのカタログ。 カテゴリーとして見えている制約の牢獄なのである。 カテゴリーは倫理の、言葉による、図式の諸形式なのだ。 純粋悟性概念、ということの意味である。 そのカテゴリーを有らしめてるのが「主観」なので。 優生学なんつーものは、所詮学問にはならん、というわけだ。 そのことが、あなたにもわかるだろう。 科学では、そもそも優生学はその「優生」部分を認識できず。 共有の客観が立たないので学問にはならない、ということ。 これはまた、構想力の創り出した、<人工物の魔術>を見ているだけになっちまってるのだ、ということ。 優生学がしかし現実に働いているように見える。 それは、人の魔術の詐偽実践の、その結果なのである。 みんなヤラレてんだよ。 これまでやってきた詐欺実績が絡んでいるのだ。 優生学的主題そのものが、享有に対しポシティブに「ある」ことなどは、絶対に「ない」。 時空をずらして、<ネガチブ>な<共有の図式>を企画する悪魔もいるが。 その悪魔ちっくな人工の試みは、正しく魔法と呼ばれるんだが。 魔法は絶対に成功しえない時空ズラシの無駄な努力だ。 ネガチブなことには、客観的に言って「死」が待ち構える。 つまり主観に予測される「無」が、必ずつきまとう。 だからである。 世の基本が、もし共有のみであるのなら、すべては。 ネガチブな図式が支配することになる。 そしてすべてが構想力に帰してしまう、わけだろうが。 しかしそうは、なってないし、なりえない。 (AI人工世界の出来事を除いては、なんだが。) この世の基本は、人の<個々人の享有>、人の主観的認識だから、である。 共有認識には、これらはない。 しかも客観のみでは、構想しても、それが「ありえ」、ん。 ネガチブな図式を期待する、魔法利用の「他者の共有悪魔」は、消え去るしかないのだ。 すべてをデジタルな構想に帰してしまう予定だとしても、だ。 外人中心で、へんな政府企画であるムーンショットが、それをやろうとしている。 日本人も加わっているが、大概は一神教徒みたいだ(憶測)。 論理学で神を見失った超賢い人々は、しかし外人に結構多いのである。 科学技術で人工の遺伝子を作り上げたり、宇宙をも壊せるハドロン機械を仕立てようとしたり。 さらには宇宙の構造に関わる宇宙論的電磁理論を見出そうとしたりして。 その結果、生体にも手を出し始めた。 実は19世紀からずっとやってる、という話もあるが。 連中の持つ「優生学判断済」が、種の存続を脅かしかねないほど結構ヤバイのである。 その事には、大勢の人がすでに気が付いている。 医者に掛かって予防接種すればするほど病気が増える、そのへんな事情に、あなたも気が付いているはず。 数字観なくても知人動向聞くだけで、わかるはず。 しかし誰も、この出来事の本質とはなにか、ナニがどうなっておるのか、基礎からはあんまり気にしないのだ。 享有する自分が生きる、のが、何より優先だからだ。 つまり修辞学は無知の知より優先、という命題がある。 この命題は正しい。 それは西洋が古典ギリシャ哲学という過去を選んだ時に、すでに決まっていた「修辞学」の成果なのだが。 これは同時に、優生学という、滅びへの道筋も、その基礎にもってしまっているのだが。 「優生学判断済」は、多くの人がそれのヤバイ点を指摘して来たのだが。 優生学のヤバさ加減も無視され続けて。 世界はもう、何度目かの滅亡へと向かって突っ走っているかのようである。 その根本原因は、「宗教」や「科学」が理由ではない。 無知の知の忘却、つまり「哲学の滅亡」に理由があるのだ。 それが解っているのに。 必死で哲学の核心を示そうとすると、読者2人(ロボット)に堕ちる。 まったくもって意欲消沈する。 人々は文字を読み解くより、聞き流すのが好きだ。 おいらも実はそうだ。 自分で考える、そのことが失われているために、そうなるのだ。 自分で考えないと、おいらの文章は全く読めないはずである。 でもええんよ、哲学は、享有者がフィリアちゃんにスリスリする事なんやから。 読者おらんでも結構楽しいんである。 無知な(おいらみたいな)人は、とにかくなんでも「知りたがる」。 自分で自分の無知を知って、自己満足で、いきていられる。 この間ずっと、<居る・カノン>の基本を訪ねてきていたのだが。 死や無といったネガチブな共有態ではなく。 自己満足な自己反省で、ポシティブな生への<有ルケ?>を訪ねているこれをもっとやるべきだが。 プロテスタントみたいな、享有を認めん連中が増えて。 ネガチブな共有図式に身を任せる小羊奴隷やメシア的宇宙人ばかりになってきた。 読者の見込めんおいらの卒論書き直しも、たぶん紙の本にはできずに消え去るだろう。 超重要な命題もいくつか見つけたので、ぜひ「知識のコピー」を後世にのこしたいものだが。 命題には、拘らん方がいい。 コピー情報も、共有読者のコピー作業次第。 自分用、営利を伴わないコピー利用は、一切自由勝手です。 <用語の再整理> これまでの自分勝手な哲学史論議で、もう2年経過か?とも思う。 正面の敵優生学の立ち位置も、ほぼわかってきた。 が、最近は耄碌がすすんで、記憶も、ずいぶんと曖昧。 なので何度もやって来た用語の整理から、もう一度やりたくなったんだが。 どうやら「ムリなオルガノン構想」は、結果的に哲学概論の構想へと発展するかもしれんことが見えてきた。 手始めに。 まずヘラス哲学と古典ギリシャ哲学の違いを説き。 自然学、科学、修辞学、数学、形而上学、論理、科学技術などについての、その基本となる基礎知識を、ざっと見まわしたい。 哲学史を書き始めた頃とは少し、考え方も違ってきているはずである。 メタバースに俯瞰して神の立場で見るんではなく、オルガノンの、心身一体の有限者の立場で書きたい。 (ヘラス哲学) ヘラス哲学と古典ギリシャ哲学とは、お互い別物である。 どこが違うのかと言うと。 ヘラス哲学は「無知の知」一本やりである。 心身一体でのオルガノン的傾向を持つ、自己思惟の<反省を軸>とした思惟のもの。 「享有の感性」に対し、アルケー?と問いかけ。 演繹を目指し、命題を採り上げての、共有の「親しい対話」を特徴とする。 空しいネガチブな言い訳(弁証論)をやるんではないのだ。 論駁も、それが目的ではない。 「自分の無知に至る」という明確な目的が明白にもともとある。 なので、よその目的には囚われようがないのだ。 自然(フュシス)体であろうと願う、ということ。 またその目的が、自分が知恵・知識を何にも持たないこと、なので。 優生学にも、捕まる筋合いが、まるでなくなる。 哲学は、ソクラテス由来の共有品である。 彼が創始者である、のだが。 但し、享有者が1人居さえすれば、どこででも関与できる。 命あるかぎり、つまり人が絶滅さえしなければ滅びようがない学問なのである。 知識ではない、<無知の知>。 (古典ギリシャ哲学) 古典ギリシャ哲学は、ヘラスの哲学とはぜんぜん違って。 「知恵の学識体系法則」を探し、そこにあるカノンを持とうとするものだ。 見えてない共有図式の探求というか、特権探し。 上昇志向の問いを含んだ、知恵・知識優先、つまり「優生学の学問」でもある。 オイラの信奉する、ヘラス哲学とは全く異質な物だが。 現代世界にはこれがドデーンと、大きな顔で居座っちょる。 生きることと稼ぐことを取り違えちょるのだ。 古典ギリシャ哲学なるものは、アリストテレスの知見をもとにして、後の時代にローマ帝国で修辞学者によってできた。 古いプラトンの理想を実現せんとしたり、といった、へんなこともやるのだ。 (未知の)<イデア追及>の<学識体系>、ある種の共有企画推進事業なのである。 未知のネガチブな図式が予想されるが、もっぱら西洋で、形而上学中心に発達したのは、これであった。 (「形而上学は、心理学・宇宙論・神学、など」のこと。) (これは後で述べたい。) 哲学を名乗っているが、オイラはこれを全く哲学とは見なさない。 <修辞学の一部>だとみる、のだ。 事実、その初期には、ちゃんと修辞学と呼ばれていたという、いきさつや経過もある。 これのおかげで、はっきりせんなった哲学が、西洋世界の宗教とも一体化したように見えるのは。 優れた修辞学者だった聖アウグスチヌスが、同時に哲学者でも、宗教家でもあったため、である。 彼はキリスト教と言うローマ帝国の中枢に巣くった宗教に捕まり、修道院で政治を執り行った。 宗教的理念と一体化して、ローマ帝国の滅亡に手を貸した。 共有宗教と彼の享有信仰は一体のものとして修辞学でまとめられ、日常生活が即政治の論駁の日々だった。 家族は投げ捨てて。 彼は、宗教家でありながら、神を騙して悪人までやってたのだ。 宗教家で同時にしかも享有哲学者でもあったという、超奇怪な人物。 修辞学と哲学は同時に可能だが、宗教家の享有信仰と哲学は同居できない。 彼が、のちのカトリックに引き継いだのは、やはり哲学ではなく修辞学(これも後に述べる)のほうなのである。 優生学も一緒に構想して、世に受け渡した。 これらはカトリックを通じて、修道院のスコラ哲学へ、西洋の形而上学へ、そして科学や論理学へと発展していく。 聖アウグスチヌスの哲学部分は、どうなったのか。 これを受け継いだのは、同じ修道院でもスコラ哲学とは異なる筋の英国人だった。 時代を飛び越えて出たように見えるのは、マイナーな世界にいるためである。 スコラ学の、ドゥンス・スコトゥス博士がそのマイナー人。 超重要で巨大な先生なんだが、資料はすくない。 享有現実のヴァーチャリターな様を述べた。 (自然学) 自然学は、世の隠れ無き様(フィシス=自然{形容詞})と<形容できる事態>を、主観・客観的に対象認識しようとする、ある種の「学び」。 由緒ある学問、つまりこれは「問い」でもあるわけだ。 学びであるとともに、当然、多くの問いも立ったということ。 だからその一部が、「科学的態度と重なる」ことにもなった。 哲学や修辞学とも重なってくるのだが。 しかし現代の、<科学技術>や<テクノロジー>とは、まったくの別物であるので注意されたい。 自然学は科学ではないし、科学技術でもない。 科学や科学技術といった、そういった優生学判断を<含まない>。 (論理学の影響を受けたこれについては、後に述べる。) 科学は、認識の対象を科に「切り分けて」可能となる、「学び」。 理解することには直結している。 科学技術は、細分化して理解し、全体を再現構想企画する学問であり。 学識、つまり細分化し「切り分けた知識や知恵」が、極めて重要となる。 こっちは哲学なんぞよりずっと古いんである。 物事の「理解」、「認識」、「再現」に深く関わる。 そのため知性優先に陥りやすく、捕まりやすい。 悟性の持つ瞳着機能に負うことが多いため、カテゴリーが無視されたりもする。 とにかく享有観察がおろそかになり、見えなくなるのだ。 瞳着なんか特に、主観判断抜きで、図式のまま見るだけ、表象するだけ、だ。 現代では、もっぱらカテゴリー無視の共有理解オンリーなのである。 感性面がまるでネガチブになってて、まったく見えていない。 極めて歪(いびつ)なものとなっている。 (修辞学) 人が生きる目的で諸々の技を修め社会生活を営んでいくための、とっかかりをなす、超重要な「学び」である。 辞(ことば)を学び修めるそのための学なので、修辞というのは実に適切な訳といえる。 哲学を含め、<すべての学の源>でもある。 ただし「学」のみならず、「学問」の源なのか、というと。 辞を学び修める態度があだとなって、知的な問いへも、感性への問いも、中途半端になるしかない、という運命を持つ。 何事にも、生きるのが先、となってしまうのである。 学も問いも、おろそかとなる。 だからすべてが「政治的に優生学判断後のもの」となってしまうのも必然のなりゆき。 生き延びるために政治理論を立て、理不尽な、まちごうた優生学には気がつくふりもせん、つうことになる。 修辞学的態度をよく政治判断とみなし、政治哲学と読んだりする、その理由であるが。 政治判断が政治家個人享有のもので、その他大勢様には絶対に頼りにならん理由も、この「優生学判断済」にあるわけだ。 政治家センセエの金権哲学、という、あれ。 自分が享有的に判断済。 つうことは、自分が自分のためにのみ有効、なんで。 共有するお客様神様の有権者には、無関係になんのだが。 金権哲学を有難がる人は、なぜか多い。 すでに「命題となったものを学ぶ」ので、無意味なものも相手する特徴がある。 命題つうのは「無意味なお題目」なので、それに囚われてはならない。 これを述べてたのはオイラではなくて、アリストテレス先生である。 (数学) 数が宇宙を支配してる、という意見がある。 ばかこくでねえだ!。 これ(数学)も修辞学同様、<人の>生きていく上での、「知恵」や「知識」の源の一つ。 人体分割、分数がモト、と言う説がある。 数が宇宙を支配してるんじゃねえ。 「人体」が「数学」を支配しているんやで。 自分の享有領域を守ってるつもりになってるだけなんやで。 数は、数学を支配してるオルガノンの、ネガチブ図式のカノン(法則)なんだ。 図式で支配されてるのは、道具的に利用されたオイラたち。 だから人工の図式がやってる、といっていい。 方程式の方が、もっぱら目立つのだが。 魔法陣立て済の目論見という仕様書の方が、時空ズラサせて、ネガチブに、じつは、あらかじめヤラレてんだよ。 人は、必ず身体を持つからだ。 その身体があってはじめて数学が成り立ってんだから。 人の数分割利用図式が、数学の支配者といえる。 ネガチブ領域のものなんで一切見えんが。 身体に伴い、数学の不得意な人も、だからなにがしかの数学を必ず持つ、のである。 その数学道具的利用の意味だと、数学は人を支配してもいるんやが。 主観的操作も、客観的認識も、数学的に可能には見えるんだが。 数学の共有利用は出来ても、その共有は<人工に立てられた図式上で>有効なだけだ。 宇宙も、地上の自然な物事も、人と関係しなくなったら数学とは関係ねえ。 共有は、ネガチブに関わる。 そのことを忘れては、ならねえ。 数学が方程式立てて利用されるので、科学や特に科学技術の占有ものだ、と思い込んでいる人が多いが。 違いまっせ。 そこで悪魔が、自前の「用具に」数学を、つこうちょるだけ。 数学は、人の(享有の)日常生活のためのもの。 その意味で、オルガノンの一部なんだが。 「理解」や「認識」、「手順」や「表象」を、あくまで、<数えていくためのもの>だ。 数得ていく、図式を辿る、のが数学の使命。 個人が自分個人に享有的に利用したように思うちょるが。 図式を介して共有関与できるだけ、と知るべき。 共有の、数学利用してのアジェンダ実践は、数学とは別物のエンターテイメントである。 オートメーションなんか、もう完璧に魔術である。 日常の取引延長のために、メタバシスやって企画したもんだが。 方程式の立て方など、数学と言うより魔術が、そこに見えてるジャロが。 優生学実践だとか、オートメーションといった、「魔法陣建て」のものだとかは同類。 学としての数学は、オル・カノンの、カノン部分だけ切り取って見せてる、と考えていい。 オル、そのことを一切無視しちょるのである。 だから科分離利用、修辞学利用といえる。 しかし数学はもともと、高度な「科分離切り分け技術」とか心的カルト作り、などとは無関係で。 人の日常生活のための客観ものとして、身体を据えて判断して置いたのである。 だから優生学判断済、にはなる。 その分割理解や、応用がモトだ。 だから科学的認識との相性は抜群なのである。 だといっても身体は生きたものだから、死霊になっては利用できん。 「普通の日常」時空と一体のものだ。 判断済の時空定義から出たら、数学は生きていけんなるのである。 アカデメイアなどでは、数学をすでに学んでいること、が入校の条件だったし。 リュケイオンでは、「哲学を学ぶための基礎知識」として教えてもいたようだ。 哲学などより、ずっと基本的、基礎的な学問なのである。 実用数学、実践数学なるものは、全く別のもの。 後の世の企画ものだ。 ましてや純粋数学など、「ない」のである。 記号論理など虚無のお遊びだ。 数学はすべて、<経験が学び取る学>なのだからだ。 宇宙の学なんぞじゃ、ない。 論理の虚無に採り込まれて、目先が見えんなってる人が多いようだ。 メタバシスされ、客観にのみ偏った現代数学は、歪(いびつ)である。 そして哲学に主観の主観がありえない(無知のみがある)ように、数学にも客観の客観などは、ない。 絶対にない。 純粋哲学なんてのは純粋経験並みの論理的妄想だが。 純粋数学なんてのは、経験則無視の妄想なんである。 記号論理は数学の一分野だが、その数学の数学図式じゃない。 つまり数学は、決して宇宙の法則なんかじゃないのだ。 その基礎認識を形成しうる、身体的な(感性の重要な)基礎分野。 つまりは時空論議の一部ではある。 この時空を無視し、カテゴリーの一部を消し、倫理を無視して。 知に偏って実践実用化された数学的知見やその応用を<メタバシス>という。 これの知的な、うすっぺらい反省応用が、現代特有のメタバースだ。 もとは神学者オッカムのやった暴挙だが。 それが、現代の数学や修辞学をはじめとする諸学が、知に偏ってしまっている理由となってしまっているのである。 おいらはこれらを一切認めん。 数学における「カテゴリーからの逸脱」など、絶対に認めようがないからだ。 そして心理学・宇宙論・神学に、数学をも加えんとする「論理絶対主義者の形而上学的意見も」認めない。 認めたら、<人が神になっちまう>からだ。 つまり神になったつもりの悪魔が、できる。 <宇宙が企画で出来る>ことになるからだ。 (形而上学) カント先生が、「心理学・宇宙論・神学」という枠を示してくれていたので、おいらもその範疇構想的に、これを考えてることが多くなった。 若いころはすべてが疑問で、特に卒論破綻した頃には今よりずっと頭よかったが、論議はメタメタだった。 超越(メタ)・超越(メタ)で対象化認識しようと謀ると、そうなっちまうのだ。 形而上学は、人のこころや宇宙の成り立ちや、神についての知見を集大成した形而ブツとして掲げられる西洋の学問。 いわば<この世の、見えてる全体像の学識企画>である。 彼は哲学者ではないが、ライプニッツがデーターベースとして構想したものを考えてもいいだろう。 アガステアの葉っぱに書き留められた全知識。 見えんものは相手にせんで、見える物だけ、形になって上げられるものだけを。 見えんものも見えるようにして相手にする。 だからどうしてもムリが出て、基礎破綻する。 破綻のない形而上学を最初に示したのはライプニッツとされているが。 彼の完璧なような理論の場合でも、楽観論の神が天上から見張っていて、「隠れカーネルがある」と、いつも指摘される。 共有図式のネガチブな様からは、いくら楽天家でも逃れられない。 辞書には、形而上学 = 哲学、なんぞと載っているのもあるが。 これは真っ赤な大嘘のコンコンチキ、なんである。 人のこころや、宇宙の成り立ちや、神についての全体的知見が必要なのは、宗教カルトたちであって。 普通のまっとうな人には、必要ない。 形而上学なんて、神についての全体的知見なんて、いらんのだ。 連中は安心立命仕切っていて迷わんし、「カルト共有組織員」であって。 そもそも享有する人ではない小羊なので、行く末に迷うばかりの哲学とは無縁となる。 形而上学は、もっぱらこの<宗教カルト>たちの、安心立命立てるためのもの。 カルト教義だと断言していっていい。 絶対に哲学ではないのである。 教義から見て現実はどうでもいい。 彼らの「究極の問いへの集大成」、その「全体的、宗教カルト・オルガノン構想」というべきだろう。 同じオルガノンなんだが、哲学の目指すそれとは紙一重で、違うわけだ。 こっちは現実が大事。 「無知に帰する知の探究」、連中のは「神として立つ知恵探し」。 オルガノンは<享有者のもの>だから、彼らとは主人も違うのである。 自分個人という享有者ではなく、神。 形而上学の主人は必ず、見張っているカーネル、つまり唯一神となるのである。 唯一神信仰では、享有者のオルガノン的主人にはなれない。 もしなったら、メシアが出来上がっちまうからなのだ。 オルガノンは「人の命」だから。 だからこの唯一神への究極の問いは、カント先生によって<先験的誤謬>であることが判明している。 大昔に、確定済みなのだ。 未だにベストセラーの一つである純粋理性批判の一節に、ちゃんと公表済になってる。 だから、そこで哲学おわったああ、なんていう宗教家が多いかというと。 彼らは全員がカルト亡者なので、形而上学が誤謬に終わり破綻する事なんぞ、見ようともせんのである。 だから世間へ、この事実を伝えたのは哲学者のみだった。 だからだから、十分には伝わらんかった。 そもそも形而上学は、彼ら宗教家が、へんな形で修辞学の世界に持ち込んだものだ。 その「へんな」とは。 アリストテレスの知見を、過去に遡らせ。 師のプラトンの採り上げたイデアに理論付けて出来た、へんな理論ものだ。 つまり<新プラトン主義>という、宗教思想のもの。 哲学とは何の関係もない、宗教思想。 これを、ちゃんと哲学と区切れる人は、いなかったのである。 ドゥンス・スコトゥス先生なんかも、命の危険があって逃げ回ってたし。 デカルトもやったが、やはり誤解され、無視され、逆にイルミナティ組織に利用された。 カント先生ももちろん、フリーメイソン組織に採り込まれて六階建てされ。 ナチス組織員のハイデガー先生が出るまで、西洋は、宗教カルトたちだけの天国だったのだ。 ハイデガー先生は、カント書(カント ウント ダス プロブレン デア メタフィジーク)において、カントの場合、形而上学は未だ「問題」であったことをちゃんと示した。 この「問題」の意味の読み違えで、未熟なオイラ泥滑に堕ちた。 が、先生方自身が、きっちりわかっていなかったと思う。 特にユダヤ人の先生方には、次々と騙された。 コーヘンにもフッサールにもやられたので理由を尋ねるうち、彼らの現実主義に気が付いた。 彼らは「現実と言う唯一神の奴隷」なので、無知の知には永遠に出会えないのである。 哲学者の周辺に群がって、哲学者を見張っている。 まるで悪魔のように。 ニーチェも、ハイデガー先生も、彼らの包囲化にあった。 すでに自らの主著、ザイン ウント ツアイト(存在と時間)で明晰判明に確認していたことを、ハイデガー先生は「カントと形而上学の問題」で再度、確認したわけだ。 ナトルプのそそのかしには応じず、カント先生との対話の道を歩んだ。 その前に書かれた主著の目論見とは、また少し違う立場で、カント書は書かれたようだ。 「存在と時間」のときは、宗教的問いが未だ生きていた、と思う。 しかし主著の、時間から存在を騙る事々は、ことごとく破綻しているのである。 二十世紀最高の高峰は、そのフンダメンタル オン ト ロギー(基礎的存在論)の基礎からして、大崩れ海岸のように、救い難く崩れ倒しているのである。 形而上学は必ず先験的誤謬に陥る。 なので、共有論議が不可能であることを、先生は身をもってディアレクチークで示したのである。 これはしかし積極的キリスト教徒(ナチス)である先生にとって、即、哲学の終焉を意味した。 しかし先生はもともと、ライプニッツの形而上学を討取ってひん剥く前から、気が付いていた様子でもある。 素朴な思惟は、いつも残っていたのだ。 それ(形而上学)が、メシアを騙る悪魔たちの構想する、マシーナリー・テクニークだとまでは気が付いてなかったのかもしれないが。 これも技術論を書いて、ゲシュテルのヤバイ仕組みを露わにしてくれていってる。 先生が(共有的に)ナチスであることと、(享有)哲学の成果は<無関係>なんである。 本質的にハイデガー先生は享有の哲学者で、聖マルチン教会の堂守という立場だ。 宗教家にはなりかけたが、職人となっての哲学を選んだ。 積極的キリスト教徒部分は、習慣が張ったその泥沼に捕まっているにすぎない。 哲学を基礎から学べば、宗教は当然、その根拠を見失ってしまうのである。 そうなっても、信仰を失っても、無知の知は終わりようがないんだと、知るべきである。 ハイデガー先生は、永久氷雪神話を信奉するモノホンのナチスである。 つまり宗教家なのだが。 宗教家である前に、享有者である、哲学者なのであるからだ。 要は、どっちが基本にあるか、の問題だけ。 「神」の共有にあるのか、「無知」の享有知にあるのか。 同時にはムリ。 共有では客観や理解は立っても「あり」、が認識されてない。 それは優生学判断に負うしかない。 享有では、主観や無知は立つが、「無が」、つまり図式の認識がない。 (つまり、無は、図式の認識、なのだ・・・。) あぶくのように出て来たこの命題、オルガノンの重要命題です。 西洋に、この<無知の享有知>を思い起こさせたのはデカルトだった。 彼がいなかったら、哲学も科学も、魔術の中に滅びていただろう。 デカルトの形而上学も、その内容は破綻していることで有名である。 だからあの時代、どっと、哲学への参入者が出て来たのだ。 (科学技術) アリストテレスの時代は、未だそれは技術ではなく、単に科学であった。 学ぼうという態度が、優生学という宗教的イデオロギーからではなく、哲学の「無知だから」に起因してたからだ。 その後、すでに新プラトン派により、哲学は知識学に堕ちてしまってはいた。 哲学と科学は併存できない。 無知の享有知か、知識利用の共有知か、だからである。 科学の科分離思惟は、じつは哲学なんぞよりはるかに古いものである。 オッカムのやったメタバシス行為により、初めて、数学的知識を量のカテゴリー抜きで利用できるようになる。 これは哲学のない人たちに大歓迎され。 ライプニッツなどの「楽観論的形而上学」を生み。 神のデーターベース世界からしての二進法デジタルと化して、将来へと企画投機された。 「心理学」・「宇宙論」・「神学」、という形而上学構想は、科学をその上部構造として立てることにより、技術という、まったく未知の新分野を生んだのだ。 ヘラスの「テクネー」という言葉が、「心構え」という本来の意味を失い。 ここで初めて「マシーナリー・テクニーク」と変貌したのだ。 今日の技術、という言葉は、心構えではなくマシーナリー・テクニークである。 心は科学が切り殺した。 ローマ帝国の宗教家たちが、それを発動させる科学技術の、生みの親である。。 キリスト教徒の騎士階級ではなく、小領主階級のユダヤ教徒が、それをやった。 やがてキリスト教徒も科学の持つ「優位性」に気が付き、ともに「優生学を推し進める」ことになる。 特にプロテスタント興隆により、顕著となる。 何度も言うが、<科学技術は優生学で出来ている>。 知識のデーターベースへのアジェンダ化、学的論理のアジェンダ化が生じ。 形而上学は、その破綻が見えてるのに。 科分離科学的思惟は、宗教カルトと一体で、それを基礎に心理学・宇宙論・神学のオルガノン構想を将来的に完成させたのだ。 形而上学構想が基礎となり。 知識学体系のアジェンダとして、論理学が、そこに関与した。 論理学には、破綻はないからだ。 そのかわりに虚無がある。 ヴァーチャリターな享有者の現実もない。 その論理がオルガノンとなって構想され、数学的な、メタバシスな理論化を可能としたのだ。 (論理) アリストテレス先生は、ヘラスですでに論理学を認めていた。 だが、これは「オルガノンにおける数学的論理」だった。 命のある、「生きた人の身体」をもとにした「数学理論」であって、カテゴリーのそれこそ範疇で働くべきもの、と考えていたようだ。 優生学抜きの、純粋論理などでは未だなかったのである。 アリストテレス先生のは、優生学判断の「後の」もの。 無知の知が、人の享有存在の「あり」だったから、それ無視の先立ちは不可能であるのだ。 これを、優生学的諸判断前に持ち込んで、論理学を先に立て。 論理絶対主義とも言える立場を作り上げてしまったのがヘーゲルだ。 神の視点に、イルミナティの立場に立とうとしたのである。 彼は最初は哲学者だった。 だが、後には論理絶対主義に乗り換えて、これを無知の知より上位に置いた。 だからへーゲルは、もはや哲学者ではない。 彼はイルミナティのグランドマスターだったから、その組織は哲学界をも支配するはずとなる。 但し人である限り。 論理はオルガノン論理か神の論理か、その優生学的立ち位置(時空)がなければ存在しないので。 キリスト教などと同様、その立ち位置を「将来の学問に置く」しかなかったようだ。 実在のありかを、「将来という、わけのわからんものに置く」しかないのだ。 ここで虚無が忍び込んでいるのが、わかるだろうか? 神の論理が、この世という時空(憂慮と延長)を統べる、という考えになるんだろうか。 (浅学なもんで、オイラにゃ、ようわからん世界ではある) おいらはもちろん「論理は数学論理にすぎん」とする立場。 「カテゴリー制約の倫理規制は有効」、と思っているので、彼の立場とは全く違う。 ともあれヘーゲル的な論理学の立場だと、「純粋経験」や「客観の客観」が可能となる。 これに毒され、騙されたた人も多いようだ。 時空の制約にあるオイラたち人間と違った、オイラたちからしたら虚無の彼方にある、神の判断が、可能となるのだ。 つまり人が神を殺したり、(メシア)神を主張したり、英知の論理学神の下っ端で生きることも可能だ。 イルミナティの理念が出来上がる。 但し、すべて<時空があいまいになる>のだが。 虚無に堕ちることすら連中は厭わん。 つまりこれらをひっくるめて<虚無主義>というのである。 へーゲルが、「虚無」をこの世に引きずり出した。 虚無の享有世界を騙ろうとしたニーチェではない。 (テクノロジー) これは科学技術とは全くの別物である。 心構えに論理的虚無主義を持ち込む、主に米で生まれた新大陸の魔術である。 テクネーはもともと、人の心を<構えさせるネガチブな図式の働き>。 それをロゴスつまり論理から引きずり出して、人造企画物にする。 極端な言い方するならポエムにする。 それが目的の魔法なのである。 科学技術の本質はハイデガー先生が見出したとおり、マシーナリーテクニーク(機械技術)の発動であって、狙いの企画モノを再現するのが目的。 ポエトリイにする企画だというこれもハイデガー先生の見立てだ。 ゲシュテルという独り立ちする怪物を、そのオートメーション企画で、欧米は実現してしまった。 あくまで、切り取った科分離ものの再現企画。 つまり、人造オルガン製造のための手段。 生体を相手にしたとて、フランケンシュタイン博士が出来上がるだけなんだが。 テクノロジーは、じつはぜんぜん別の狙いがあって、 その本質は<出来>、にある。 論理を使って、心構えのモノを出ー来させる。 テクネーを再現技術だと考えていたんでは、このネガチブな図式は見えてこない。 心理学をやって、ユダヤ人たちは気が付いたのだ。 人の心が構えて創り出す構想、そのネガチブな働きを、表象ではなくファンタシアに論理化すれば。 緻密な設計図がなくても、モノが出来ると。 実践者は、西洋、特に米国の多くの発明家である。 ポシティブに出来る、ことが先だし、狙いなので、ネガチブな図式は一切見えてないのである。 論理を時空なしに扱うので、虚無的時空世界なのだが、共有しか気にしないのでへんな時空であることにも気が付かん人たちばかり。 一部の反省できる人々が倫理観からカテゴリー適用の異議を唱えても。 メタバースの英知に酔った反省の出来ない人ばかり。 かくして世界は滅びかかっているわけだ。 フランス人の共有倫理観なんて明らかに異常。 倫理は享有への自己反省による牢獄であって、エチケット無関係なんだが。 テクネー・ロジックの、この論理が、人の心構えを表象して、形容や力関係の知的瞳着な優生学判定済みへと持ち込んでしまうのだ。 オイラずっと撞着ではなく瞳着と言い続けて来た。 知恵の本質であり、純粋悟性概念のその純粋悟性部分の仕組みだ。 それは構想ということ。 ロジックが虚無主義を仕立てて優生学判断を虚無へと追放し、知的な瞳着へと表象させてしまうのだ。 次回はここらあたりから攻めたい。
2024年09月24日
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自然とある電磁波は、周波数を持ってないそうだ。 しかしそのくせ周波数で区分され、科学分類されている。 こうしないと客観的に「ある」ことにならない。 以下の区別もほんとうはない、のである。 持ってない周波数持たされて、有らしめられてる、わけだ。 宇宙線 3000THz~ 太陽光 10MHz~3THz 地震の波 ~300Hz 人の脳波 1~50Hz以下らしい 雷 8Hz 磁石や地球については微弱だという。 自然でない、つまり人為が加わらない電磁波の波形も、正弦波なんかじゃないらしい。 「ノイズフィールド周波数と呼ぶものだ」と書いてあった。 それに対し、人工の電磁波は、振幅がほぼ一定しちょる。 これが何かを引き起こしとるんや。 太陽の光や、人の思惟や、磁石の地力線、これらが周波数ごとに分かれた「ベツモノ」じゃないってこと。 つまり電磁波が自然界にある、というわけでもないんだろう、が。 ムリヤリ有らしめられている。 (おいらは、自然界というものも認めんし、「ある」というのは享有にあるっつうこと以外認めんので、こうなる。) しかし西洋文化のオイラたちは、常識として電磁波がある、としてきた。 太陽光も人の思考も雷も、同じ仲間だってことらしいんやが。 ひっくるめて電磁波。 最近は地震も、これ(電磁波)が地震予知の最重要要素だ、という科分離思惟人、つまり科学者も増えてきてる。 怖いお仲間は、地震、雷、火事、親父だってよ。 火事にも電磁波、からんどるんやろか。 人工の電磁波は、「単振動する電子の動きを作り出したもの」なので。 自然と見出されたものとは、まったくの「ベツモノ」。 科分離思惟の人たちに欠けてくるのは、この「ベツモノ」認識だろう。 フーリエ解析で、波形を数学的に分類したそれを、「周波数」というらしい。 長波、中波、短波、超短波、極超短波、ミリ波、サブミリ波、赤外線、 可視光線、紫外線、X 線、γ 線 などともわけて呼ぶそうだが。 こっちはぜんぶ人工の定義もんである。 しかしこれらが、ぜんぶ怖いわけじゃないのか? 太陽風なども、自然な状態では地磁気のフィールドでほぼバリヤーされている。 人工のもんだけが、特に怖いわけだ。 使い方を誤れば超怖い。 しかし電磁波の使いかたなんて、習った覚え有る?
2024年09月15日
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<判断力批判について> さて、カント先生の判断力批判が、まったくもって優生学批判ではない、という話もしておかねばなるまい。 批判どころか、肯定という意見もあるほどだからだ。 アリストテレスのオルガノンやってる途中なんだが、無関係じゃない。 ただ、これは泥沼清掃の類であって、オルガノン構想ではないので注意されたい。 いわば脱線なのであるが、大事な大事な脱線清掃作業の部類だろう。 カント先生の思惟は、無知の知に沿ったコペルニクス的転回後の、哲学的思惟。 反省的で普通とは逆向きの思惟だった。 オルガノンに沿ったもののはず。 カテゴリーに導かれての思惟のはずなんだが。 西洋の古典ギリシャ伝統のおかげで、誤った濁流にも掉さす必要に迫られ。 それが原因で、ぜんぜん別物へと誤解されてしまっちょるのである。 まず世間様の判断力批判認識を見ていく。 <世間の判断力批判認識> 「第一部、美的判断力の批判と第二部、目的論的判断力の批判から」なる。 これはそのとおりだろう。 次の、「判断力に理性と感性を調和的に媒介する能力を認め」た、というのがウソである。 媒介能力なんか念頭にない。 ウイキは判断力という図式みたいなもんがあると、調和的に媒介する能力がある、というのだが。 これは紙一重の、優生学肯定の別解釈。 判断力批判は、優生学を批判できずにぽしゃってる、だけなのだ。 カント先生は、科分離思惟にあるはずの「理性と感性を調和的に媒介する能力」を批判しようとした。 科学的に思惟し、それを反省していった。 「批判しようとした」のである。 能力理論を見出そうとしたんじゃない。 是をまちごうたら、ワヤになる。 純粋理性をズタズタに解剖してばらしたように、人の判断力をもぶっ壊してみようとしたのである。 つまり西洋の優生学的判断を、ぶっ潰そうとした。 その思惟を逆立ちさせて皮を剥ぎ、伝統的思惟にある潮流思想なので、ぶっ壊そうとしただけなのである。 できなかった。 だからといって、「調和的に媒介する能力がある」、にはならない。 「ある」は、享有的な認識なのである。 共有のものじゃない、からだ。 カント先生は、愚痴も言えんような封殺され切った人じゃないので、愚痴垂れた。 それが誤解された。 同じクリチークでも、純粋悟性概念の図式を見出したような仮想の純粋理性相手の成果のようには、事が運ばなかった。 享有「実在」が絡んでおり、「形而上学」の問題も出てくるし。 ただ、これらは片付いてるはずだった。 しかし判断には、とりわけ「優生学」の問題がモロに出てくる。 だからぶっ壊し、できなかったのだ。 西洋の歴史の全否定になるからだ。 だからこれが、「実践理性の象徴としての道徳的理想、神へ人間を向かわせる機縁となることを説く」などと、宗教勢力に採り上げられ誤解されるんだが。 「それはまったくの誤解というものだ」、と言いたい。 先生に「宗教的意図は皆無」で。 この神指向への理解は、「科分離的論理思惟者の騙るウソ」、それの虚無主義論理塗り重ね、なのである。 ウイキの理解の事言ってんだ。 先生の思惟はもともと、逆転してた「哲学」であるからだ。 科学じゃない。 つまり<ネガチブ>な、<反省的な思惟>なのだ。 思惟はネガチブでも、アルケーにモノが現になければならないオルガノン的思惟。 つまり心身一体の哲学。 科学的な合目的思惟ではないのは確かなのだが、そもそも神なんぞ、予定に見えてるはずないのである。 <先生の判断力批判> 「当初は{趣味判断の批判}として構想された」。 たしかに、のちに「構想力概念の展開から目的論的判断力の批判が加えられ」たかのように、一見見える。 当局への迎合、修辞的態度の変化なども、確かにみられるが。 当初の<目論見どおり>だと思う。 その基礎から、基本「構想」は破綻していたのである。 ウイキの解釈は、この<破綻>を、最初から全く見ようとしてない。 過去の話だが4回生のとき、オイラの学部卒業を三村先生は卒論破綻評価してくれて高得点がもらえた。 しかしオイラ得意だったはずの一般教養の数学が落ちて留年したのも因縁を感じる。 胃を壊しての二年目の卒論はもうホントに、メタメタだった。 構想力の問題は、数学的ではないのだ。 破綻と言うのは、ネガチブな思惟が引き起こす。 それを導いたのがネガチブな図式の反省思惟なのであるが、ウイキは理解評価どころか、まるで認識できてないようだ。 ウヤムヤに結末を胡麻化すだけだ。 じつはカント先生の英知でもってしても、オイラの先生である三村先生の英知でもっても。 目的論における判断力の批判、つまり優生学判断済みの科学的認識を逆さにひんむくことは、できなかった。 それは事実。 三村先生も、カントにはわからん部分が多すぎ、といつも言ってた。 まちごうても学部生が、構想力の問題なんぞに手を出したらあかんえ。 沈没します。 それを破綻沈没を「成果として<<ネガチブに>提示している>」のに。 誰も共有理解しようとせん。 なるでネガチブが見えてないからである。 世間の古典ギリシャ以来の、科分離思惟のポシティブ一辺倒の伝統が、カント先生の斬新な思惟を許そうとはせんのである。 (つまりウイキ論評では<ネガチブ図式部分>が全部一切、ハナから無視されてる、っつうこと。) 美的判断は「表象から行われた」とする認識から、世間判断は出ることはできず。 結局「快苦を基準として判断を趣味に委ねる」?。 なんじゃこれ? これを明らかにしたいわけだ。 趣味に逃げ込む理由を。 この「趣味」と言う訳語も、これがまたまた、超へん、なのだ。 むしろ主観的な、<風味>とか、<味わい>のことのはずだろが。 勝手に、客観持ち出してはいかんじゃろが。 客観の趣味なんて、享有の持つ概念とは無縁な、想定上のもの。 ここでは相手すべきもんではない。 「好み」や「嗜好」と、共有化して理解しちまえば、それは確かに判断後の趣味と同類になる。 だが、主観ー享有と、客観ー共有を、韓国風のおいしいまぜまぜご飯にしてはいけないのである。 筋の通った日本文化に韓国文化をまぜまぜしてはいかん。 知的な「表象」などでは、そもそもご飯は、「味わう」ことができない。 判断済の、うわっぺり見栄えだけになっち、まうからだ。 まずいプラスチックコーティング米食ってるようなもんだ。 味を騙して旨そうに仕立てる、詐欺目的の危険物だが。 癌の原因になるこれを、旨いという享有人がいるんだろうか。 共有者ならおるだろうがの。 味わいは、「享有」だけのもの。 「風味」に至るには、どうしても先に享有認識に基づかねば至れないのである。 人の感性は、日常的な時空においてには、「味わい」を確認できている。 おいらたちは、「享有を理解するがゆえに」、日常を味わうことができている。 つまりここで行われる判断とは。 対象の性質を認識する事によって行われる、科学的共有判断ではなく。 「日常の個人享有判断」なのである。 (そもそも、科学的共有判断は、できん。) 表象がすべてを網羅し裁断するというのなら、その享有判断にない別の、ネガチブな時空の判断となっちまう。 細断も裁断も、あげくは死んだメシアの<祭壇>になっちまうからだ。 つまり「享有判断が、表象の時空とは違う時空にある」、ということを先生は言ってんのだが。 そういった論議は徹底されずに、無視されてしまった。 なぜか「美」や「崇高」が唐突に、しゃしゃりでてくる。 つまりこれは、伝統の古典ギリシャ思想が共有世界を見張っているため起こる事。 優生学判断済みの科学的認識を、逆さに時間経過を遡ってひんむくことはできなかった、ということなのである。 ネガチブな図式は<構想されえない>のである。 だから、アルケーへのとっかかりが、ないのだ。 判断前の享有「風味」から、判断後の共有「嗜好」に、なぜか論議の重点がずれて移ってしまうのである。 これは世間がそう誤解した、ということもあるが、そんだけじゃあるまい。 その前に「西洋の古典ギリシャ」という、西洋が越えられない問題があるのだ。 カント先生は敬虔主義者のカトリック信者。 つまりトランプ派。 なので「崇敬」には拘ったとしても、メシア志向なんぞはゼロのはずだし。 「科学者」でもあったので、優生学をコキ下ろしたい意図なんぞも、皆無のはずだ。 だから「優生学に沿ったもの」、という評価ができてるわけだが。 これは批判書であって、肯定書ではないつーこと、忘れたらあかんえ。 そもそも先生は科学的啓蒙著作の数々でフリーンメーソン達に注目され、それで哲学教授の座を得て、貴族に伍して、贅沢に辛子を擦って食いつなげたのであるから。 破綻には熱心でないのはもちろんのこと。 表象の時空と違う、享有時空は、結局構想されずじまいで終わって当然のように一見見えるのである。 しかし純粋理性批判で形而上学の先験的誤謬を見出したような、画期的な泥沼整理がなかったのか、というと。 オイラたちに、その泥沼が満足に見えてえへんもので、著作をきれいに読み取れてない、つうのが正解だろう。 少なくともウイキの世間理解は、ぜんぜんダメである。 オイラの理解も未だ中途半端なんやが。 <哲学的理解へのヒント> ヒントはある。 「美」という優生学判断においては、「想像力と悟性の一致が見られる」のかもしれんというのだ。 しかし「崇高」という、直に図式としては見えてない<ネガチブな図式においては>という、お預け物なのだ。 カトリックはわざと認識をねじれさせて、特異点を、ミステリーを作る。 その操作が「想像力」と「理性」との間に<矛盾がある>ようにみせてしまうのだ。 つまり想像力というものは、理性に沿って「理性の法則で動いている」感性的なナニカではなくて。 間になにかがある。 つまりここではまったく別の、<ネガチブな図式>が働いているにすぎんのだが。 ミステリー時空にすり替える。 それを証明するのが、「矛盾あり」という数学論理だ。 この「あり」は享有特有のものなので、数学も中途半端なわけだ。 そして「崇高」と言うネガチブな(見えてない高みがある)、とする。 崇高は共有では見えてない。 図式というのは構想力であり。 見えてない時空間そのもののことでもある。 つまり見えてないものをも含む、客観的にも可能とする、感性形式なのである。 この<居る、時空間>や、未だ未知の<ネガチブ、図式>がなければ。 そもそも構想自体が働かない。 純粋悟性概念の図式を働かせるに足る、カテゴリー命題がなければ。 知的対象認識のものですら、一切ない、わけだ。 (構想は、オイラという享有者が知的に構想してるだけじゃなくて、ネガチブな図式にもポシティブな図式にも、共有的に動かされているのか?) 想像力には、「ネガチブな図式」が控えるんだが。 つまり、知らんままにこれ(ネガチブ図式)に操られてると思ってんだが。 少なくとも形式で引っかかってるんで、真に知らんままに、ではないというわけだ。 この立ち位置は、敬虔主義の、その敬虔認識をもたらす崇高の、<さらにその背後には何が居るのか>といった。 <判断済テーマの反省のはず>なんである。 (一度図式に思惟させられた科学的思惟の、それを、反復して反省してるわけだ。) 「想像力」と「理性」との間には、矛盾がある、という命題。 これはもちろん、純粋理性批判で「先験的に確かめ済」だった。 判断力批判は、そもそも「純粋判断力批判構想」などでは絶対にない。 日常に「ある」優生学判定済の理由を尋ねて、日常に「ある」享有に問いかけた、哲学なのである。 科学の死霊調査ではなく、現に生きてるフィリアへのスリスリなのである。 反復の反省、なのである。 「個人の趣味」とウイキにあった。 (だからこれの批判なんで、破綻はもともと決まってるんだが。) 神を求める神学ではないし。 切り刻んで科学する宇宙論でも、生きる方途を尋ねる修辞学でもない。 ポシティブ1本槍じゃないので。 そもそも「信仰が動機じゃない」のだ。 科学なんぞじゃないのは、もちろん。 科学的にわかりたかったつうのも、もちろん違う。 動機はやっぱ、「フィリアちゃんにスリスリしたいな」、だ。 もう一度、信頼を受け取り直し(反復つうこと)したい。 だから先生はヴァーチャリターをまるで理解しようとしない現実<主義者>たちに、捕まり得たのだ。 先生は、世間がそう考えてるような「形而上学構想」ではなく、到底ムリな「オルガノン構想」をやろうとしてたんだと思う。 批判意図を破綻させるつもりなんぞも本当はなくて、それは「単に予定」で。 享有判断を純粋に見出して、哲学の真髄を示し。 次に<ネガチブな図式をむき出しにし>。 最後に客観の客観を尋ねるようなことにまで、手を出して。 破綻してこれを示す予定だった。 4つにくくれるカテゴリーを駆使して。 図式の4つある時空のカタログ。 4つあるポジ・ネガ、を、批判目的で反省したのだ。 しかもこれらを、科学的に「科分離方法で哲学」してた。 これが本当の科学哲学構想。 もちろん、不可能はわかっちょる。 理解すること、それも(つまり科学も)忘れてえへんかったつうこと。 逆向きの反省思惟はしかし、科分離思惟では<絶対に不可能>なのだ。 科学的思惟は一切、<反省できないから>である。 しかし信仰が動機じゃないのに「崇高」な他者なんぞが出てくるなんてのが、まさに科分離思惟でない証拠じゃん?。 享有美に対し、共有のフィボナッチ数列や黄金律を見出し問うような、一見、科学的態度。 (不可能な破綻思惟反省。) 数学的共有実在を混同した追及テーマなんぞじゃない、のはもちろん。 崇高に何かを真摯に問いたい、わけなんぞでもなくて。 ズレた崇敬に、人倫の理由を問わせて稼ぐカトリック宗教でもなく。 単に<無知だから知りたい>だけ、だ。 ただ。 知りたいは、必ず、「知らされたい」でもある。 図式の操る、感性的働きの反省。 時空的には必ず、これは4つのカテゴリー的課題側面を持つのだ。 これをちょっと脱存して科分離併記すると、何かが見えてくるように思えてしまうのでやってみる。 ポジ時間、ネガ時間、ポジ空間、ネガ空間、が、カタログ的に構想できる。 範疇的にではなく、倫理的な拘束力を持つカタログ。 カテゴリーそのものではないが、そのような機能も当然あるわけだ。 ポジ部分は、享有が理解できてる明るい面の図式分で。 ネガ部分が、暗い共有図式である。 時間・空間は、これは感性形式なので、ポジにもネガにも対応できてるわけだが。 普通は見えてない。 形式として、感性の枠を支えるだけだ。 これが鋳造される範疇と誤解される。 鋳造ではなくカタログ提供なのだ。 但し、思惟や理解には、必ず「カテゴリーの制限」がある。 オイラが時間旅行などありえんと述べる理由だ。 理解の枠を超えようってんだから。 空間旅行はできる? 実はオイラが移動してるにすぎんのやが。 <時空は一体の感性形式>にすぎんので、空間をそのままに、時間だけ対象とはならない。 ポジ時間やポジ空間は、享有できるが。 ネガ時間、ネガ空間はそもそも、<享有できようがない>。 そしてポジ時間や、ポジ空間は、これはなんと・・・<共有できない>のである。 <有は、享有のみ>だからだ。 享有は、ネガチブな共有。 共有は、ポシティブな享有と、役割分担はっきりしちょる。 ネガ時間やネガ空間が共有できないのは当然と思うかもしれんが、まるで逆なのである。 「ネガ時間やネガ空間は<共有できる>」のである。 むしろ、ポジ時間や、ポジ空間は<共有できない>という問題がでてくる。 (やっと見つけたナ。) つまり共有という事態は、ネガチブ専用品御用達、ゆえに共有なのである。 なのにこれを、みんなでポジティブ専用御用達に使ってるから。 おかしなおかしな命題が出てくるわけなのだ。 享有は、固有のオル・カノン時空を持つ。 共有は持たない。 なので、そう「なる」んだろう。 持たない共有に、ムリヤリ時空ずらせてでも生成させる。 それが共有的に<有る>ということ、同義反復=他者としての神である。 共有は、それ固有の時空を持たないゆえに、共有。 共に有る<空想、想定>にすぎんから、というのが存在理由だ。 見えてない図式が引きずり出した共有には当然、<客観の客観が立たない>。 これが客観の客観が立たない真相の、いわく由縁だ。 ポジ時間や、ポジ空間は、カテゴリーでの制約上、絶対に共有ありとはできないんである。 つまり<ある>と言えない、わけだ。 共有の仮想時空には置けるやろ、と思うかもしれん、純粋にすればいいかと思うかもしれん。 事実、そうなされて来たんだが。 仮想時空だとか、中性的変容だとか、そんなもんは、ほんまは<ない>。 ある、のは<享有世界の証拠>が<ある>のみ。 共有には、<ない>、のみ。 これは、以前はオイラ気が付いてなかったが、超重要な命題である。 オンという共有存在は=無の理由でもある。 共有は、享有する図式の<ネガチブな領域にすぎん>ということだ。 図式にもポジ、ネガ両面あって、ネガ図式部分が共有。 <判断力批判に戻る>。 「いかなる天才といえども趣味判断を(天才に)服属させることはできない。」 「恣意的な概念作用よりも、芸術の内実的な美的技術、すなわち趣味が決定的に優先される」 これらの趣味を判断するのは主観であり、<享有>である。 享有が必ず先にあって。 <あり>がそこから始まる。 共有は、それらに<ネガチブな関与>ができる、だけである。 これはオイラの<自然観>でも確かめられる。 先生の論議でもこれが出てくるからだ。 オイラはしつこく、「自然というのは名詞ではなく感性の言葉だ」と言い続けて来た。 ヘラスでは、隠れ無き事(ア・レ-テイア)、という形容詞フィシス。 昔の日本では、しぜんと、出来事に付随して感性補助で出てくる「副詞なんだ」と。 自然学はアリストテレスにとって超重要な学問であったが、その自然は「自然対象物を意味しない」ということ。 「自然の所産においての目的の原理は、自然の特殊な法則を探究するための発見的原理である。」 オイラに言わせれば発明品なんだ。 つまり以下もオルガノンのことを述べているのだが。 「全自然の理念は、原因はつねに目的論的に判断されねばならないという課題を課すものである。」 つまり「全自然の理念」なんつうものは、個人享有者の妄想にすぎんのである。 そして共有者にとっては、ネガチブに働くので、ことごとくメ-・オンとなる。 (科分離思惟では)「目的論的に判断されねばならない」という課題が立ちふさがるので。 図式はおろか、カテゴリーがより分けた区分さえ、怪しくなるのだ。 自然を全きもの、<それ自らあるもの>、としてしまうと。 その「原因は、つねに目的論的に判断されねばならないという課題」となるだけなのだ。 課題が出来ちまうだけ。 ネガチブな領域の、目的論に囚われの図式が出来てしまう。 そしてこれがカルト、ということなのだ。 カント先生が「崇敬」を見出すその先。 先生はカルトの一員として、美のような共有目的を持つ、道徳に日常を頼る。 まあこれは、宗教組織当局者に追及されないようにするための、ある種の偽装妥協かもしれんが。 先生はフリーメーソンリーだが、当局はカトリック最優生だったので。 (しかし先生がカルトだとしても、当初の<批判の目論見>は破綻しているのである。) カルトでなくなってる、自分の無知をちゃんと自分で、見出してる。 カント先生の判断力批判は、まったくもって優生学批判にはならなくて。 世に共有するキリスト教の諸道徳に頼る、へんな結論となった。 これは当局の監視があったという理由からではなくて、<人が常に優生学的課題を背負っているから>、である。 生きにゃならん。 その課題が共有論議に(ある、空想される)。 そのネガチブな図式的制約の結果である。 判断力批判の最大の成果は、これだと思う。 <享有認識は、あるを語り>。 そして<共有認識はネガチブ領域専売特許の認識である>、つうこと。 これは虚無や超越がもたらした認識ではなく、論議の破綻がもたらしたものなのである。
2024年09月12日
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<優生学的判定済事例> さてここらで、脱線にも見えるかもしれんが、優生学的判定済の事例を挙げにかかろうと思う。 既存のものではなくて、オルガノンものの構想命題となりうる享有の、カタログ化を図りたいのである。 但し、この構想は共有を含まない。 つまり、まったき時空のものではないと断っておく。 しかし優生学判定済の命題を挙げれば、その理由が見えてくるはず。 1:享有こそ人の<現実認識>である。 2:享有においては、<あんたが大将>となる。 3:すべての<享有的生き物は、死ぬ>。 4:享有者に<輪廻転生はない>。 これらの共有態も構想可能ではあるが、ぜんぶ無意味な構想だ、とわかる。 1、共有に至って、「[現実は全きもの(エンテレケイア)」となるので判定不能が起こる。 2、共有の中では、「あんたは一部品」なので、評価不能になる。 3、共有生物は「オルガノンとして生きていない」ので死もないので、論議自体無意味になり。 4、「輪廻転生」は享有概念上では成り立つが、共有概念だと「宇宙全体」に広がって無意味となる。 つまりこれらでわかるように。 1、享有こそ「現実あり」ということ、その自覚が「現実」なのである。 これは「同義反復」となり、自覚の、ほんとうの意味だ。 つまりこれはそういった「図式の働き」を表現してんだということ。 ネガチブな非現実も非享有も消えた「優生学判定判断後」の「享有もの」こそが「現実」。 現実は、(図式に示された)優生学判断の後のしかし「享有反復」、っつうこと。 これを脱存とも呼ぶ。 実際には、未だ共有があるし。 非現実との「力関係」もあるのだが。 カタログ判定上には、つまりカテゴリーには、上がってこないのである。 共有はことごとく無意味と化すから、扱えないのだ。 優生学的「判定済」は、これで進んでいってしまうのである。 つまり<享有>オンリーということで、「扱えないまま推進」されてしまう。 逆にみると、これは優生学が<享有にしか有効でない>証拠なのだ。 つまりつまり、<共有社会では優生学は全く使えない>のである。 優生学は、だからだから、「ダメなもの」と、ここで初めてハッキリ言えるのだ。 2、天上天下唯我独尊の(これは享有ということ)他者ではない享有、という法則がまずあって。 これが「判定済」で、でてくる。 仏教には、貧者の一灯(享有においては、あんたが大将)が、ある。 3、生者必滅。 これも仏教用語だが、享有者の絶対に逃れられない「運命」である。 メシアは別? メシアも死ぬんだよ。 4、輪廻転生などは、ない。 享有者には、生まれ変わりも寄生生命なども、ありえないのだ。 享有だからだ。 1回限りの自己完結した生命体、それが享有者の「無理槍な定義」であるからだ。 他者への寄生なしには輪廻転生などは空想できない、という諸法則などができることがわかる。 これらいずれも、神の居ない仏教の理念からの、オイラ独断論的選別、つまり剽窃である。 唯一神の教団などにはないものだ。 ネガチブさを内部に含んだ、ドダイがムリな、うふぉ理念のカタログだからだ。 だから堅固さ、厳密さを求めるカルト教義にはなりえんので、宗教とは無縁となるのである。 仏教ではこれらに加え、「生きとし生けるものをみだりに殺してはならない」という、既存の「道徳」も学んで、内部に持っている。 これは小乗時代からあるようだが。 特に大乗座部では、特有の高度に発展した解釈の諸々ができた。 そして仏教は<オルガノン>以外に、独自の「宗教教義にあたるものがない」し。 オルガ否定どころか、オルガ部分を超大事にする。 なので、全き宗教とは呼べないものなのだ。 それに対しキリスト教は、このオルガを否定して、宗教として成り立つのである。 生体独自のオルガスム否定。 すべて超越神帰依の、本物の宗教。 メシアの命すら磔にして殺す、超怖いカルト集団だ。 汝殺すなかれ、と神の十戒にもあったはずなのに、しかも極端に残忍に殺す。 自分が科学の基礎信仰となって神と瞳着しているのに、科学の創設者の一人をも皮剥いて殺した。 仏法は確かに、そのままオルガノンとみなせるものが多いのだが。 しかし実はこっちも、大乗の理念が絡んで変節し僧兵集団となって皆殺しまでやってた時代さえあった。 菩薩理念が絡めば、普通は柔和になるはずなのだが。 如来理念が絡んで、それでカルト化して、アジェンダ化し先鋭化して、宗教化している宗派も多いというのが実情。 教義も、仏教であっても、それができている(カルト化している)ことが多く。 それもとに宗教カルトになれば、人をも平気で殺す悪魔と化すことになる。 優生学判断済が絡む、怖い事例だ。 つまり仏教の持つオルガノンも、キリスト教の持つ優勢学のそれも、お互いにごくごく似ているのである。 いずれも紙一重である、そのことが切実にわかるはず。 似ているが、全くの別物のはずなんだが。 違いが判らん。 確かに紙一重なのである、簡単に一線を越えられるから。 また紙一重で、オルガノンは、宗教教義ではまったくないはずなのだ。 これを利用して、独自のオルガノンを構想し、<共有の倫理概念だ>とみなすメシア主義者、つまりフランキストたちもいる。 そないなもん、ありえないんやが。 「共有の倫理概念」てえの聞いただけで、彼らが無茶言ってることがわかるはず。 彼らは<享有>概念をまったく基礎から理解できておらず。 つまりカテゴリーの適用が、「適切ではない」。 だから、そうなってるのだ。 倫理がエチケットと化す事情だ。 <カテゴリーが適切でない、紙一重でオルガノンと違う「部分」> その紙一重の部分、オルガノンと違う「部分」をこそ、ここで注視していってみたい。 オルガノンは図式で享有を動かしてる(架空の)システムだが、そんなもんはもちろん理解できん。 だから理解できるように違う部分を抜き出し、科分離思惟を使う、ということ。 かなり科分離思惟優先にはなってしまうだろうが。 科分離思惟はもともと、その対象となる物事を<解る>、<理解>するためにある。 切り刻んで、ぶっ殺して、解体して、最後は無知認識に至るために、あるのだ。 再現企画の(目的利用の、将来の)ためにあるんじゃない。 過去を過去としてあらしめるために、享有として<ある>。 この「ある」を認識をズラせて悪魔チックに利用しているのが、オイラ達現代人。 紙一重で、オルガノンと違う「部分」だ。 それが<理解>部分だ、といっていい。 判定部分の、しかも<ネガチブな図式>部分が見えるだろうか。 <「宗教教義」と「オルガノン」の、違い> 天上天下唯我独尊の理解は。 おいらが宇宙にただ一人で立ってる、つう、孤独な「享有のこと」のはずだ。 だがこれが紙一重で、「俺が天上でも天下でも一番偉い」にも採れる、のである。 優生学判断が加わると、逆転した全くの真逆の意味になる。 そのことがわかるはず。 時空が、その方向にズラされてあれば、の話だが。 そもそも優生学的判断は、時空判断済の「後の話」になる。 なので、時間空間を事前にズラスのはムリだ、と思うんだが。 時間旅行せにゃならんので。 そして「貧者の一灯」も。 「貧者の最強な享有騙る共有灯」、と解釈できたり。 生者必滅だから・・と、なんと輪廻転生が、ここから出てきたり、もする。 紙一重で、すべてあっさり逆転する例だ。 優生学を否定してオルガノンの法則を据えるのは。 実に困難で、<ネガチブ>なできごと、なのだ。 科分離思惟が、「オイラの理解することを牛耳っている」ためでもあるんだろうが。 見えない図式として、主人でもないのに「オイラの理解」を見張ってるようなのだ。 主人は享有。 オイラの理解は判定済の共有。 それは、オイラたちが、こういった科分離思惟にすっかり馴染んでしまっているため、なのである、というより。 科分離思惟と反省を伴う一体化思惟は、もともと一体のもの、オルガものだから、でもある。 そのことをまず、徹底理解すべきなのである。 オルガンだけ、科分離だけ見てたんじゃあ、何にも先に行けん。 科分離思惟でわかる、そのことを推進するにも。 科分離思惟に、自覚が見えてないまま、<おいら図式操作されている>ためだと、認め知るべきなのだ。 つまりあんたも、自分で知らんまま、気が付かんままに<図式操作>されている。 <感性>自体がその形式に。 オイラという、享有でない科分離する<優生学>に、操られているからなのだ。 それが、主語の措定が、見えてない図式のあることの<理解を有効に>してくれている。 (感性と、ズラされた共有自覚を繋ぐものが、見えてない当の図式) 科分離思惟であれば、特に、それは「決定済」になると、そういったフラグが立つと、そう理解すべきなのだ。 但し図式は、プログラムじゃないのである。 プログラムは人工の構想品にすぎん。 図式は感性の<形式>なので、構想品にはならない。 学んだ先達の道徳に、自分の反省を促されるように。 知的行為が、図式上で反復して操作される。 ・・・・と繰り返される。 信仰教義に、享有感性の形式を、ずらされていってしまう。 そのため(図式のせいで)オイラたちは、<ダメな優生学>を、いつまでたっても否定できないのだ。 一神教徒である西洋の人々は、オイラたち今日の(科学に汚染され尽くしてる)多神教徒より、たぶん、もっと大変なのである。 選民思想捨てんと、オルガノンなんていっさら理解できへんというのなら。 オルガノンなんて理解したくもなくなるだろうし。 そもそもオルガノン理解しようとすると、信仰に一意となる<瞳着>が得られなくなる。 優生学から遠ざけられて、何もかも理解不能になってしまう。 そのためだ。 つまりこれをあえて単純に言うと。 優生学捨てたら「無知」に落ちる、ということである。 小賢しい知恵に頼っての、物事片付けができなくなる。 科分離認識してたものが光って、共有を主張し。 心身一体になっちまうように見えてるから、全体が見えんなってる、のだが。 そこで<知性>を、<汝の唯一の神を>捨てよ、と、図式に言われているわけなのだからだ。 享有判断の基準としても「選民思想のほうを選ぶ」人ばかりとなるだろう。 カルトは、死ななきゃ治らん、なるのである。 この優生学の「選民思想」というのには、別名もある。 そっちがもっとわかり易い。 ヒエラルキーとして「図式客観形容」もできるし。 これはそもそも、<カースト思想>というものでもあるのだ。 選ばれし民という優生学思想は、即ち、カースト思想そのものである。 カーストに囚われすぎてジャーティーを忘れてはいかんのだが、ここでは細かいことおいといてカーストに拘りたい。 なお、ジャーティーは家柄とか出自のことだが。 「カースト制度の基礎となる共同体の単位」というのはウソである。 バーラタには、アーリヤ人が大古に持ち込んだ。 (バーラタは、それがふさわしいかどうかは別にして、現インドの正しい国名、支配地域名。) そこに<選ばれし者>、となった、ガチの<優生学思想>のことをカーストという。 これはまた、<メシア信仰>の事でもある。 共有への信仰と言い替えられる。 (信仰の本文はあくまで享有なので、この、判断つきかねるへんな現実関係がわかるだろうか。) 優生学は、キリスト教の、最も中心思想の一つでもあるんだが。 カルト内部では、そういった露骨な表現などはしてないはず。 キリスト教は、メシアという共有の希望の光を使って時空をずらし、享有部分を信仰に引きずり込み現実を交差させてわからんするカルトだ、と考えていいのだが。 原始キリスト教の概念は、たぶんアーリア人の家柄がもともと持ってたのである。 アーリア人は、アッシリアに原始キリスト教を持ち込んだ。 宇宙人臭い連中と同一の、山賊連中。 地上の高原地帯にあった楽園、「すばる」人達の集落を襲い。 女を奴隷にし、アッシリアの兵士奴隷種族を作り上げた不埒な連中。 たぶんバーラタに殴り込んだのと、同一の連中だ。 東に殴り込んだ彼らは、優生学は手放さずに隠し持った。 ただ、英知優先の唯一神は、手放すふりをするしかなかったのだ。 だからここで、欺瞞を使った。 彼らはバーラタのクシャトリア達の持つ力に、コテンパンにねじ伏せられてたからだ。 (ラムセスの後の時代に、エジプトにねじふせられてた海の民の状況に似ている。) しかし彼ら侵入者の方が、知力は遥かに上だった。 バーラタにカースト思想を持ち込み、根付かせたからだ。 王族であったクシャトリアの、更に上の階層を作り上げ。 バラモンという上位カーストとなり、上級国民に乗ることにも、見事に成功した。 奴隷とならずに生き延びたのだ、というより。 彼らが奴隷制度という形式を作ったのである。 それまでカーストはなかったんで、奴隷制度といったそのものが、もともとなかった。 これはエジプトなどでも同じ問題がでてくるのだ。 戦勝捕縛者はいるが、制度としての奴隷がなかった。 王やファラオは、彼らをも食わす必要に迫られ、奴隷制度に飛びついた。 バーラタでもエジプトでも、彼らバラモンや海の民はその知力で、自分たちが持ち込んだ階級制度の共有社会の上層部に乗って、それらの階級制度も作ったわけだ。 奴隷「制度」と、彼が最上層「階層」に居座ったことなどは、たぶん根が同じなのである。 唯一神由来の、他力共有概念なのである。 彼らバラモンは、優生学的に選ばれし者としてバーラタの最上層階級に居座った、ということ。 その核芯部分は、感性の諸形式による、<図式>で<共有化>されているのだ。 つまり<図式が、共有化させている>のだ。 (享有と共有を繋ぐヴァーチャリターな部分には、ネガチブな図式が関与している、っつうこと。) つまりカーストのあんよひもを形成している、感性の享有認識の見えない図式を、社会に制度化し、設置したのが、彼らなのだ。 享有の享有たる、その由縁を形成している、時空そのもの。 それら時空を悪魔的にずらせて。 人工のカースト制度導入形式で、「あるもの」としたのだ。 つまりここでは、オルガノンの法則を、紙一重で「別のモノに置き換えた」のである。 DNAを、メッセンジャーRNAに置き換えた、みたいなものだ。 優生学にすがる者たちがこれで稼いでる。 人工のものを、神の権威を導入した。 ありてあるもの、という「英知」がここで、(感性の)図式から何か別のモノとなった。 端的にあっさり言うなら、指図命令する「唯一神」ができたのだ。 人の人格の基礎を支えている「感性」や「直感」や、「生体の諸法則」そのものであるようなものを。 人工の共有カーストとして、カルト化し、確立した。 言わば優生学とカルトと唯一神は。 同時に、享有者であり共有者であるものともなったのだ。 図式がそのまま、人の本来の<享有>ではなく。 ズレた<共有>に、人工の、<エンテレケイアな座>を占めたと言える。 これが<優生学理念>。 人が近づけない絶対のモノ。 だから「優生学がここではじめて出来た」、ともいえるかもしれん。 それは<神の権威>なのだ。 これはまたヴァーチャリター(現実)の、ねじれた部分でも、ある。 だから、可能だったのだろうか。 現実における認識のねじれた部分(感性と知性の関係)を利用して、優生学的に、現実に居座った。 それがカースト制度だ。 こんなもん簡単ではない。 ほとんど見えていない感性特有の<超重要問題>ではあるが、白黒はっきりしない。 こんな感性問題に白黒つけたくないので。 のちの時代の西洋の古典ギリシャ思想は、ファンタシアを<表象>にした、とも言えるかも。 この<感性>も、さらにのちには<中性に>なって、天使や妖精になりきっていったわけだ。 この筋の話で、悪魔も中性化させたがっているのが、宗教家の特徴。 つまり感性の<形式>ではなく。 知的な<優生判断済のもの>に置き換えて、ずらされていった、形而上学的認識破綻の回避策を採った、わけだが。 それらが今感性を置き去りにし、世界を滅亡の淵に追いやっている根本原因となってしまっているのだ。 知性の<優生学>と。 感性的な<オルガノン>は、 ほんとうに紙一重の、ほとんど同じものなのである。 もう一度言う。 (共有)知性の優生学なー図式と。 そして(享有)感性の、オルガノンなー図式だ。 そのことが解れば、回避策は簡単なはずなんだが? まず、カルトたちが享有を全く理解しようとせんので、どうしようもない。 そもそも無知の知を、金輪際わかろうとせん。 これがいかんのだ。 <優生学とオルガノン、その違い> 科学 = 優生学(共有技術) = 知性優先「特権」、なんだ。 ということが、まずきっちり理解されちょらん。 だから違いがはっきりせんのである。 科学は優生学判定済の「共有技術」で、しかも「特権階級」だけの道具である。 これが、いいかげんになって見えちょる。 全人類の「便利な道具」のように見えちょる。 なので、ここで判断が忍び込み、どうしても薄暗くなってしまうのだ。 まあ図式は金輪際見えんものだ、が。 同じものが同じものとして見える<享有理解>がないと、まったくどうにもんならんのがおいらたちの世界。 ・・・である、と言わん事には、始まらん。 それが無視されると、超越へと飛ばされて。 さらに悟性概念にも、ごまかされて来た。 形而上学の先験的誤謬がウソで引っ張って来た。 優生学は、<知性>が最優先の学である。 知性は賢く、奴隷先の道徳を教え、人を瞳着させ、ファンタシアを可能にさせる。 奴隷でない悟りし者には、知力そのものである<神のみ>が、存在者となるのだ。 そういった、「優生学図式による魔術の陣立」てが、悪魔に利用されてすでにできている。 これは「人造のオルガノン」であり、「偽物の欺瞞もの」である。 つまり「科学的思惟」と「優生学」は。 相互に<まったく同じもの>なのである。 同じ人工の知力(神)による、カースト制度確立だからだ。 優生学では、そういった魔術陣が、立たされているのだ。 この科学=優生学は。 図式に動かされてる点も、時空ずらせて人工のものにする点も、ともに共有である点もまったく同じ。 数学的に、イコールでくくれるかも。 犠牲の享有者を絡めとる、図式の魔法陣が見えてないだけ、なのである。 認めたくない人は多いだろうが、事実である。 科学技術は = イコール、「優生学推進技術」だ、といっていいと思う。 「より良き」もの、「より力強い」もの、「より徹底した」技術を求めるのが科学だからだ。 伝統の文化ではなく、ダメな文明ものアジェンダだ。 だから優生学捨てることは、科学技術を捨てることになるので、できん。 これって、できん人ばかり。 オイラも、もともと科学的理解は不完全だったんだが、もう不要なのに捨てきれん。 なので随所で論議が袋小路に堕ち込んで困ってる。 優生学的判断なしには、将来的アジェンダの目的など、まったく立ちようがない。 その<ある>ことをまず理解すべきだが。 アジェンダの「目的」が、「陣立」てが、優先して導いている。 そして科学は、合目的な再現のための技術であると、もう一度きっちり認識しなおすべき、なのだ。 科学は明確な、アジェンダ企画の目的に沿って、<再現>の意図をもってなされる。 そしてこの再現に光を与えてる肝心要の者が、<イデア>なんである。 つまり。 「アリストテレスの、さらにその没後に持ち込まれた、新プラトニズムの学説」。 つまりつまり、誤った解釈のほうの、後世のプラトン学説なのだ。 これが<イデア論>における実体であって、これではダメなのだ。 (古いアテナイ流行のイデア論には実体概念がない、のがわかるだろうか。) (というのも、実体をカテゴリーで立てたのはアリストテレス先生だから。) 新プラトニズムの学説は、誤ったへんな学説なんだと、ここではっきり言っておきたい。 これに捕まっている人、宗教家でなくても多すぎ。 時間の一部を逆転させてズラせて、公共のイデアを立てた。 つまり「イデア論」は、「優生学」のアジェンダに成り下がっているからだ。 「哲学的思惟」と、「オルガノン」も、これは両者ともに<同じものだ>と理解できるはずなんだが。 科学的合理的思惟が、そしてイデア論が捨てられん人多すぎて、理解に到達できない。 オイラもほとんどそうなのだが。 ネガチブ領域の思惟してる、させられてんだ、と。 自分でわかっちょけばいいだけ、なんやけど。 科学思考では、「図式に操られている」、そこんとこがぜんぜん見えとらへんもので。 操られ、操作されている実体感がない。 カテゴリー除外されて、倫理部分が読み取れんのだ。 カルト者は特にここで、踏み絵踏まされるように感じるのだろう。 土壇場で足引っ込めてしまうので、理解の糸口すら見つけられんなる。 科学 = 優生学、という怪しい図式の前に、居合わせた全員が盲目となるのだ。 「科学の本質を見ようとはせん」、つうこと。 しまいには難癖つけて、「盲目」という文字や命題まで消そうと図る始末なのだ。 トランスジェンダー問題で、男女の区別無くそうとしてみたりも、悪魔実施の、この一環の動きだ。 しかし優生学はいずれ、破棄されねばならないものなのである。 <享有者の敵>、おいらたちの共有の敵だからだ。 おいらは日本人が古来信仰してきた<地蔵菩薩の理念>を、代替えに推奨したい。 でなければ。 オイラたちの共有の営みは、ここで終わってしまうからだ。 優生学にすがらんのなら、何らかの共有テーマが必要。 <生きとし生けるものを敬い、現世にある最弱のものから最優先して救済すべし>。 地蔵菩薩の理念は、優生学命題の真逆なのである。 バーラタで、遠い過去に一度、これの衝突が起こった。 真逆どおしの衝突。 いきさつはマハーバーラタや、ラーマーヤーナに、ちゃんと載っている。 神話の話じゃない。 元凶は、超賢いアーリア人の殴り込みだったのである。 バーラタは、外からの殴り込みに強い。 全員捕縛した。 だが、入り込まれての、背乗りや組織化侵食には弱いことも、繰り返す歴史が証明した。 これはバーラタの伝統を一部受け継ぐ、我が国にも言える。 連合艦隊司令長官がフリーメーソンでは、勝てるわけないのである。 バーラタはイスカンダルの侵略すら跳ね返したのだが、策略で浸透された英国には支配された。 その地で得た、優生学と真逆な思想が「地蔵菩薩理念」。 これを、オイラたち日本人はずっと拝んできた。 だが。 そこまで自己欺瞞徹底やらんでも、優生学の回避策は、ある。 人が「科学的思惟には必ず優生学が立ってる、そのネガチブな図式のもとで思惟してんだ」と哲学で<わかってれば、いいだけ>だ。 自分が無知であると悟ればいいだけ。 ナガチブな面を、ちゃんとネガチブあるんや、と認識しておれば、いいだけ。 哲学が生きておれば、優生学なんぞに囚われずに済むはずなんだが。 哲学(無知の知)は、今は死に体。 それが証拠に、オイラはずっと孤立無援。 核心論議すればするだけ、読者はいなくなる。 (ホンマ、愚痴でんなあ。) ネガチブさ、という部分を誰もがハナから拒否するもんで。 自分を誘導してる、<ネガチブな図式>のほうが、自分にまったく見えてえへんのである。 そのことに気がつかんのだ。 <ネガチブな図式> ネガチブは、つまり<生者必滅>などは。 人の<宿命>という、ネガチブな<感性の図式>のことである。 つまり、人を動かしている感性的な核心の力のこと。 これは享有も共有も同じ。 ネガチブな力は、共有にもどうやら影響してくる?。 はっきりせんけど。 享有で反省する以外はまったくみえてない、暗い、<図式誘導の思惟>なのである。 これを、「人と言う種族すらも簡単にいずれ滅ぶものなのだ」と解釈させる。 それが、危機感を煽って、それで儲ける宗教の教えだ。 それを、滅びを見越し対策もして。 このネガチブ部分を、とにかくにも克服したいのが一神教徒なんだが。 そのために、究極の選ばれし者メシア殺してまでやってる始末。 なんと、自ら高次元生命体となって、他の生命体に寄生したりすらまで、数学で考え出した。 それが、<輪廻転生思想>と言う、紙一重の悪魔思想なわけだ。 だが、これらはもちろんsfにすぎないのである。 ファンタシアを、誤ってファンタジーにみなした、だけの話。 この世に輪廻転生などはないし。 人にソマチットのように寄生する生命体も、寄生する悪魔的な力も、いやしない。 現実には、経験で悪魔的人間が出来上がって居るだけ。 悪魔に憑りつかれているんじゃない、本人が悪魔人格になってる。 見えてない全体や人の無知が、オルガノンの仕組みならぬ「図式法則」が、あるのみだ。 人が無数の生命体に寄生されてるのは事実だが。 人の身体は、必ず一つである。 人格は容易に分裂するが、<享有する時空は必ず一つ>のはず。 ドッペルゲンガーは、ウソ。 (同じ人物が同時に別の場所(複数の場合もある)に姿を現す現象を指すこと。) 人格分裂は、いくらでも起こる事実である。 おいらも悪魔的人格を抱えている。 この一を、唯一神の一に仕立てるのが優生学なのだ。 ドッペルゲンガーは多分、図式権能が反逆して起こる生体エラーなのだ。 ファンタシアの誤解釈による、知的表象利用の、空想科学思想が世間にもびこっている。 その科学空想は、死霊の知識をつかった<合目的再現技術>に過ぎんので。 つまり、目的達成のためのアジェンダにすぎんので。 これはテクネーの誤解釈や、やはりファンタシアのイコン風誤解釈をも生むことになる。 生きた、有限な、その場限りで消えてしまう感性に。 共有の永続する宇宙を想定して、瞳着的にカルト化させてしまう。 つまり「未来企画へと信仰してしまう」、わけだ。 アジェンダとなる。 イコンという考え方が、魂のありかの図式、と、陣立て風に、紙一重で書き替わってしまう。 つまり図式=知的瞳着となってしまっている、のだ。 (図式=瞳着というこれは、真っ赤な嘘なのである。) (だからエラーも起きる。) 図式は構想力。 ・・・・と反復して受け取り直させる、<感性の力>。 そのオルガノンにすぎないが、このオルガノンは幻想でしかない。 図式はまた、享有者が直接受け取る<反省>でもあるんやが。 ネガチブなので瞳着できんし。 イコンは、感性の形式によるファンタシア、なのである。 瞳着ではないので、再現、なんぞでもない。 図式=瞳着というのはやはり、魔法陣使う連中が言うウソである。 彼らは図式をオルガノンとして直に見出すことに失敗。 倫理が消え。 図式を論理として見出すことに失敗し。 虚無主義がおとない。 図式を現象として見出すことに失敗。 厳密な学も心理学へと暴走。 図式を構造として見出すことにも失敗し。 この主義主張もいつしか消えた。 図式はファンタシアの跡付け、「感性的受け取り直し形式という命題」であるにすぎん。 <享有>の<現実>がなければ、じつに無意味な言葉なのだ。 誤りのない完璧なものではなく。 感性の絡んだ、「じつにいい加減なうふぉ物だ」っつうこと。 その、ええかげんなうふぉが、オイラたちの支配者。 それが優生学でもある、この理不尽さ。 但し共有目的には<目的>立てたら見えるが、それ自体は共有に対しては一切働かん。 但しポシティブに対して動かんだけで、ネガチブは、いっさらわからん。 この「共有と目的アジェンダがベツモノだ」と理解すべきなんだが、それができちょらん。 享有には共有を導く有効性が、なにかある、のだが。 それがわらん。 目的立てたら、図式は働いてない。 (だから悪魔達は、目的じゃなしに魔法陣をアジェンダ立てして図式を発動させるのである。) この「目的」が、優生学であり、<判断力>なのだ、 共有者が、受け取り直しする優生学で、判断済の直観の形式とみなす、見える人造のイコンではない、ということ。 判断力は、図式が見えてる人たちの、そのイコンではない「架空の美学形式」なのだ。 エステチカの類。 宗教においては、こういった人造の時空間が与えられて、強制的に受け取り直しさせられている。 教義でカルト化されている。 図式=見えてない感性形式、のはずが。 図式=形而上に見える感性=信仰による表象された魂、と「書き替わってしまって」いる。 それが形而上学なのである。 つまり「心理学」、「宇宙論」、「神学」なのだ。 しかし形而上学は、その先験的誤謬のため、未来に至っても、受け取り直せない。 ファンタシアは、いくらウソついても中性の表象にしか、ならないのだ。 魂にもともとあるとする、ナニカのカノンを導けるものではない。 神の恩寵なるものすらも、導けない。 では、「優勢なる見えん力に頼るしかない」、となる。 永遠の魂ありきで、知性撞着という神ありきでやっても、しかし客観の客観など、永遠に立ちようがないのだ。 そもそもファンタシアは誤った表象ではなく。 図式という、有限な直観の形式に導かれたイコン、魂の宇宙絵、なので。 (これもほんとは間違いというべきなのだが。) 有限なイコン(宇宙像的魂)となっちまうジャロ。 もともと無なので、無に帰するべき、その場限りの時空の受け取り直し、となるのだ。 見えてえへんのに、見えてえへん力に頼る。 魔法陣立てて、ムリに頼らせる。 これが、優生学がキリスト教の中で生き延びて来た、ほんとの理由、だろう。 <時空形式>を人工で立て、その魔法陣化を図る。 人工で仕立てられた(力を持つ)図式に、優生学が「跡付けで目的付けしている」、のだ。 だからミステリイに見えるもんが、ここに、信仰として居座れるわけだ。 <優生学という名の図式>ができちょる。 但し、人工物。 図式はしかし、人工物といった形式じゃないのだ。 図式には、目的など持たせられない。 プログラムであるなら<目的>があるはずなのだが。 図式には、プログラム的要素はなく目的もない。 なのにオイラたちは目的に誘導され、肝心のオルガノンが見えてないのである。 特にこの「目的」が立ちふさがって。 windowsのapiだった」bitbiltの働きをしてオルガノンに成り代わり、隠ぺいする。 魔法陣立てる連中にも、アジェンダは見えてても図式は見えてないのだ。 図式は<ネガチブで出来ているオルガノン>なので。 悪魔たちにも、オイラたちも、ともに直接見えてないのだ。 (これが本質だろう、図式はネガチブで出来ているオルガノン。) ネガチブ強要でできているカテゴリーや。 ネガチブ規制でできている倫理は、図式のお仲間だと、この命題でわかるはず。 (哲学のない)ユダヤ人たちが熱心に、「構造」だの「志向」だの、「知性」にそれを追い求めているその理由も、わかってくるはず。 動機はヤバイかもしれんが、<感性の者だ>ということを認めたのはフロイトだけだった。 だからオイラ、フロイト研究したかったんだが、ダンボールに集めた本持ち逃げされて、ぽしゃった。 そのおかげでハイデガー先生に出会えたのだが。 瞳着から構想を解放する理解と違って ネガチブな時空への強制を求める図式もあるが。 そしてそれを形而上学というんであるが。 これらの諸関系は、未だにぜんぜんん整理されてない。 特に科学的思惟では、まったく役に立たんのだ。 次節では判断力について論じてみたい。
2024年09月05日
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台風定義を勝手に書き換えて、昔の天気図をワヤにして。 暴風もない、わからんへんな低気圧を台風にした。 まあこれだけで、新手の人工台風作った、とも言える。 そしたら、そいつが風力実験に手を貸すんかと思たら、列島に居座ってしまって。 そりゃ低気圧はフラフラと居座るがな。 経済活動も文化活動も、へんな台風で、なにもかもワヤになってきた。 公共のウソ追放が先決だ。 風速70mの<暴風>はウソだったと。 マス・ゴミはハッキリ謝るべきだ。 平時に地上で10分間続けて、17mもの暴風はなかった。 それが過去の台風と、10号の決定的な違いだ。 持続する風は5mー14m、だったので、台風という定義枠にもはまっていない。 だからここにもウソがある。 そして極地域、狭い範囲での70m推定の突風はあったが。 これは通常の雷雨だけでも日常に起こっていることだ。 「突風」と「暴風」摩り替えて、ウソのコマーシャルやるんやない。 被害起きてます、被害です、の一斉キャンペーンがなぜかシツコクて、目立った。 庶民規制の法律作りたい輩が、台風利用でカネ出したんだろという噂。 ここは憶測にすぎんが。 その連中と、人工の台風送り込んできた連中は、たぶんどこかで繋がっている。 線状降水帯というのもごく最近出て来たイメージだが。 列島の気象が、熱帯の海洋性気候になってるだけの話? 自然現象で起きたこと? いいや!。 定義の書き換えが、それ(現象認識)に疑惑を与えたんや。 (おいらは現象学に騙されて、ムダな時間過ごしすぎた。) それに、自然てえのは人の感性表現である。 わが国では古来「名詞」ではなく。 しぜんと使って来た、単なる副詞。 (日本人が自然崇拝のアニミズム信仰なんて、ちゃんちゃらおかしいという意見。) 列島周辺が異様に温められてて、恒常的にスコールがくる。 地球温暖化を言う連中とも、(台風現象は)つながっていそうだ。 なので極地的な大雨はもちろんある。 しかし雨も、広域河川氾濫などは、ウソなのだ。 一部で大雨洪水で、一部で渇水だ。 ただ、地上が総じて電子レンジ状態なので。 「磁気嵐」や「電波障害」、電磁波による「電気異常現象」などは頻発するだろうが。 熱中症という医学のウソも、なんとかしろや。 メカニズムわかっとらん、だけなんやろ? ところで、電車止めるのと、動かすのと、どっちの被害が大きいか、という問題がある。 しかし公共交通機関が動かんで社会生活ズタズタでは、どっちにしろ話にならんのである。 過去には、風雨を押して鉄道が驀進してくれて、これでみんなが助かっていた。 悲惨な事故も起きたんやが。 恒常的な風は、10号については<ない>んだ。 それを忘れちゃいかん。 台風定義を、目的への誘導で書き換えたやつがいる。 これで社会を混乱させようとしたのは、事実。 台風警報無視で電車動かせて営業やって、パンタグラフ吹っ飛ばして株主総会で責任取らされるのが怖いんで。 風もないのに、公共機関も止まっていた。 雨が怖くて? これはウソじゃろ? もし万が一架線事故起きたら、そこは折り返しでバス走らせたら済むこと。 全面運休とか間引きとか、明らかに異常。 まだ何かほかの懸念隠してる。 民間の交通機関が止まるのは、事故時の責任回避のためで。 この責任回避したい役員連中は、今や「国民」のために働いてるんじゃない。 <株主>のために働いている。 これは、税金使って赤字運営でローカル線支えていいはずの公共サービス機関を、民営化し、外国に売り渡そうとした。 その政治家が、悪い。 つまりは、その政治家に票入れた、あんたが悪い。 時代が進んで、明らかに人造の電磁台風が来たが。 日常は、過去となんら変わっとらん。 だから、台風つうのは、<25m平均の暴風円>、だけの古来定義で、ええて。 この定義、なくしちまいやがった。 ワカラン電磁台風定義なんぞ作る気は、ないんやろ? <電磁>部分が、社会で黒塗りの御法度なんやから。 (インフルエンザ様、風邪の原因も御法度にしてた。) 「突然の突風」だの、「線状降水帯」だの、「電磁波攻撃」だのが、新しい部分だ。 最後の奴だけは黒塗り隠ぺいで。 台風に対処の方法ない。 んだったら、そんなんも単に注意報で、ええがな。 どうせ死ぬのは庶民や。 警報にして規制して、刑法にして、何やりたいん? そもそも定義変えても、台風対処の方法が、ないんやろ? それとも、あるんかいな? 治験データー、進路操作、拡大縮小操作、これも隠し通す、つもりかいな。*コピー利用一切自由勝手。
2024年09月02日
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EMP電磁波攻撃というのは、なにも核爆発に限定されない。 1989年に太陽フレアによる磁気嵐で、カナダで600万人が長期間影響を受けたことがわかっている。 こういった事象が、(わざと)一般には十分伝えられてない。 電磁波問題は特に、ネット上でも意図的に消されていく。 高エネルギー電磁波は太陽が日常的に作るし、宇宙からも宇宙線と言う形でやってくるが、そんなことより。 人工のEMP電磁波兵器を、隠れて日夜<軍事研究開発している>ため、機密を隠そうとするのだ。 この分野で特に、中共やロシアの研究は進んでいるようだが、米は飛びぬけているだろうし日本でもやっている。 宇宙線が雲の原因というのは最近の研究成果らしいが。 それすら封殺の動きがあるらしいことで、薄々、世間の事情がわかる。 ところで、今度の台風10号で、気象も電気もド素人、世捨て人のオイラが一番危惧してたのは。 これが、日本国と言う敗戦国を利用した、<EMP電磁波兵器治験>ではないか、という無知ゆえの空想である。 レぷ*コん*くチン治験を、日本国が認めた。 そのことで、この疑いが表に出て来てしまったのだ。 電磁波台風をいう人は増えてるはずなのだが。 電磁波を言うとネットからは排除されるし。 目的が定まらないと科学ではない、切り取られてないと科学にならんという問題が邪魔してるのだ。 そしてこの陰謀がある。 *プりこンわ*チん治験というのは。 今後の、コロすけの新タイプ患者に使う予定の、mRNA枠陳のこと。 治験なので、その事前の、(人体)実験なのである。 大概アルバイトの人が犠牲になるようだが、こんどの治験は、それで済まない。 シェデイングがある。 コ*な様の病気を引き起こすmRNAの、その未知の病気に対抗する、枠陳製造準備に絡むことは、その治験である。 *ろなDNAは、世界中の、どの機関も持っていないと明言済だが。 なぜか未知の病気を起こす病原菌となりうるmRNAは、その準備もある。 新タイプのものだと病気も未だないので、枠陳は当然まだ仕上がっていない。 これの事前人体実験を、なんと世界で唯一日本政府が許可したのである。 怖いのでどこも逃げてるのに。 もうすぐ始まる。 10月?知らん。 大衆も知らんので、推進者は儲かるとホクソえんでいる。 これの特に怖い点は、シェディング現象で世間に拡散が起こりうることを、実験主企業が認めてる点で。 つまり「特定の地域に危険なmRNA持ち込むんで、大規模な流行が起こるかもしれんが、いいんかね?」と聞いて来たのに。 「いいです、お願いします」と日本側が返事してるのだ。 まあ、病原体の同定もできていなかったのに、*ロナ予防接種を導入した、これなどと同じ部類の話なんだが。 今度の台風への、オイラの危惧も、類似品というわけだ。 その、<敗戦国上げて参加の類似治験ではないか>、という素人危惧なのだ。 EMP台風と聞いてもピンとこん人ばかりだろう。 大衆には無意味な概念でド素人が1人で踊ってるわけで、無視されるのは慣れてるんだが。 最近の、ラジオへ入る騒音と、霧雨の背後シャーシャー鳴る、不気味な耳鳴り騒音も気になって仕方がないので、踊らされている部類。 雨がないのに、雨音してる?(錯覚) まあ暴風がないのに、(突風で?)電柱がぶっ壊れるんだからナ。 低気圧が去れば、治験電磁波も去るんだろうか?
2024年09月01日
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台風への違和感を感じていて、現代の科学的認識の持つヤバさ加減が、わかってきた。 まず「目的」を立て、「対象が明確」に切り分けられてないと発動しないのが科学的認識。 オイラは、この<科学的認識自体のヤバさを感じているのだ>とわかってきた。 世間では、その弊害として、スピリチュアルが流行し、占いや予言が流行し、末世の様相を呈しているが。 それをもたらしたのは科学認識への<過度の依存と要求>だと思う。 伝統が無視されている。 科学的認識は、目的を立てて発動する。 客観性を持つ、<対象化認識技術>である。 この意味が、誰にも、まるで見えてない。 そのことがわかってきたのだ。 もちろん、オイラにもきれいには見えていない。 ただ、科学技術は、対象を定義し客観的に切り分け確定し、整備して始める。 この定義がフラフラでは危険そのものだ、とは誰でもわかるはず。 それゆえ、おいらたちの現実が、死霊の世界だの、機械ゾンビの世界になってくるのだ。 スピリチュアルなファンタジー世界や、デジタルなAI支配の、しかもそれが優生学的に主人の社会になる、ということ。 現代は、その運命に向きあっている。 死霊の飛び交うアングラな世界は、実は。 科学技術が人の培ってきた伝統文化の世界に入り込み、それを支配し駆逐していく「新時代の世界」でもあると、あなたにも見えてくるはず。 恐怖の新時代。 台風の定義は、国の従事者の都合だろう。 これが、最近特に徹底して書き換えられてきたことを初めて知った。 目的に併せて、対象を切り分ける基礎認識を揺るがせてきているのだ。 「風の強さと吹き方」に関しても、この書き換えが行われて来たようだ。 実は台風はもともと、長年の伝統に培われたもの。 「暴風」という別名があった。 突風は竜巻にすぎんのであるが、この暴風というのが台風のこと、なのである。 おいらたち老人の頭にこびりついているのは、この暴風=台風というイメージである。 今回の台風でわかるように、気象庁は、これ(暴風)を定義から消してしまったのだ。 おまいら、消えろ、てよ。 h12,h14,h19、h25,h29年と、風の定義は頻繁に書き換えられている。 どこで暴風が突風に置き換わったのかは知らん。 こんなもんは伝統の言葉なので、動かしちゃいかんのに。 おいらたち老人が馴染んできた、25m暴風の台風定義は、もはや跡形もない。 実は先日初めて知った。 そしてこんどの10号台風も、暴風は、なかったのである。 科学が発達してきたから、新事実がわかってきた・・・ん、じゃない。 単においらたちの<伝統が駆逐された>だけの話。 暴風を伴わない、未知の新手の自力機関で、大気が渦を巻く低気圧のような新事態が起こって来ただけ、なのだ。 たぶん電磁波のような、もしかして人工かもしれない、未知の力が関与している。 ただ、そこは<ようわからん>のである。 しかも、ワカランのではプロとしての実績に傷がつくので、わからんまま定義の方をいじっていって、胡麻化したてるのだ。 こんどの低気圧は、わからんので「わからん低気圧渦巻とします」、と言えばすむこと。 そうせずに、伝統の「台風定義」を消した。 つまり分母を、いじった。 持続する風の「暴風」は消えたが、「突風」にすがって台風という伝統の言葉の面目を保とうとしているわけだ。 台風は低気圧の強力な渦である。 中心がへこんだ風の渦巻現象なので、中心近くでどうしても暴風の「概念は消せない」。 それで17m暴風の概念を、新たに作ったわけだが。 今度のやつは、中心近くでも、5mも吹いてない場合すらあった。 それで、ダウンバーストの突風を代わりに持ち込んできたわけだが。 相手が、<台風ではない別の新事態>なので、今後どうなるかだ。 議論置きるはず。 過去にも、こんなんはあったのかもれない。 台風と言うのは普通、その暴風圏内に被害をもたらし強風圏で雨を引きずったりはするが、今度の奴は違ったのである。 事前から、周辺の海水温を上げる機構と一体。 広域に線状降水帯という新手の概念をもたらす新事態と一体。 さらに長時間に渡って電波事情、電力事情にダメージを与え続ける新事態と一体。 独自の台風と言うより、地球気象と一体のモノ感が大きい。 電波事情、電力事情などは、気象庁では未だに掴んでないみたいだ。 営利企業各社などは一早く掴んで、広域で列車を止めて対策したりしている。 気象庁がちゃんと説明せんので、パンタグラフ飛ばされたくない新幹線が、なんで遠方の無関係な地域まで休止を決めこまにゃならんのか、違和感が出る事態になっちょる。 気象庁は、定義書き換えて自己責任が果たせると思ったら大間違いである。 懸念は懸念として、ちゃんと国民に報告すべきなのである。 伝統にも礼を尽くすべきである。 最も偉いのは国民庶民であって、選ばれし公僕なんぞじゃないからだ。
2024年08月31日
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一つ前の、東京逸れた鋭角コースが、すでにぜんぜん怪しかった。 今回の10号もTVに脅かされてばかり。 だが、ウソ八百だから組織のアジェンダか?それがはっきりせん。 停電という被害の実体がある。 天候神の見学かもしれん??。 オイラたち庶民は、まず東京直撃コースが消えて、1度騙され。 ついでオイラたち旧世代に恐怖の伊勢湾台風コースが消えて、2度騙され。 日向灘コースも消えて、3度騙され。 最後に列島縦断コースだと煽り倒したあげく。 上陸したのかしてないのかも曖昧なまま。 これで4度も、立て続けに騙され倒したことになる。 直の被害は、やはり停電だけかも? TVは線状降水帯や竜巻の被害を嬉々として採り上げるが、あれはべつもんだろ? 風のまったくない、雨のすくない、停電させる、へんな台風というのが実体。 4回続けてウソの予報進路ばかり聞かされて。 誰も気象学者や報道機関に文句一つ言わんのかよ。 <列島縦断>、<風速70mの超大型>、などと脅してた。 コレはまったくのウソなのだ。 海水面暖めて、突風期待してただけだ。 雷雨絡みの突風は、台風なくても突発で起こる。 お盆後の夏休みの大事な時期を、ウソで潰された人、多いはず。 天候のことだから、仕方ない? 停電がなきゃオイラも、報道人災なだけだ、と思うだろう。 なぜかこの時期、マスゴミ総動員で、風速70mを煽り倒してた。 常識改変キャンペーンもやってる。 そのホンマの理由が聞きたいもんだ。 目ばかり大きい、レーダーにも雨雲のロクに映らない、低気圧観測値だけのへんな低気圧が当の怪しいヤツ。 低気圧との違いは、「前線を伴わない」というだけらしい?。 ウソだよ、常識の書き換えやってるのか? ウソの宣伝効果試してた? そりゃねえだろ、「停電被害」は「凄い」のに。 それとも、これが、コメ不足や停電被害が、テロ仕掛けの狙いおものなのかも? 直撃喰らったはずの奄美大島定点カメラに、暴風は映らなかった。 オイラ???となって気にした。 そのうちカメラにアクセスできなくなったので、データ数値見た。 そしたら、鹿児島県のどこも。 70mの風なんて、ぜんぜん吹いとらんじゃんか?。 書かれたデーターは馬鹿正直。 データー消してあるらしき地域もあったが。 普段から強風で高名な枕崎でも、上陸中のはずの29日朝9時に風速9・6m。 なんやこれ? 波と風、見間違えたんか、と、もう一度見直した。 周辺各市町村の最高値が、溝辺の13・4mだった。 これは低気圧豆台風通過の風としては、ありうる程度の、やや強風だ。 鹿児島で6・9m。 しかしほとんど、どこもそんな程度の、そよかぜもん、だった。 前の、千葉に停電もたらした台風のときと同じ。 上陸地点出されたとこなんか、諸データの表示自体が、<なかった>。 停電対策などもとってるはずなんで、これはおかしいんだが。 問題ないどこも、そよかぜ程度。 天候神が柳川ウインドファーム風力発電所の見学にきたんかいな? 気温が、これは周辺より低くて。 24-7度になってたのが注目される。 低気圧以外の周辺地域は、30-31度だった。 線状降水帯が出たというが、雨も、ほとんど降ってないのである。 逆に、レーダー雲情報では、本州の列島に、きれいに雨雲かかってた。 台風の70mの風、はウソなのである。 全くの出まかせ。 雨も、台風直の雨じゃない。 台風は自立してない。 鹿児島の当日の現地では、雨なしの0・0から、多いとこでも9ミリ。 そもそも台風の暴風は、風の一時停止など、ありえん。 目は無風だが、鹿児島県がすっぽり入る目なんて、ない。 中心近くで、ずっと同じ方向の風が持続するから、暴風という。 暴風が吹き荒れる25mラインの円を、過去には台風と呼んでいたのだ。 そもそも25m以上の暴風のない台風なんて、ありえん。 ところがこの常識がいつの間にか、書き換えられているんである。 ウイキには17.2m以上を台風と呼ぶと書いてある。 しかしこの定義でいっても、13.4mは低すぎだから、台風じゃなくなるわけだ。 現在中心が居るらしい熊本に至っては、熊本0・8m 南阿蘇で1m、松島で1・6m、最高が岱明の4・5mで南小国なんか0・2mだ。 気温は低く、22度から26度。 TVが強調する竜巻の発生などは、台風なくても起こる局所的突風だ。 風なくて幸い、と思うかもしれんが? なんか、ぜんぶへんだよ。 そもそもの奄美大島でも、ライブカメラでは、軽自動車が普通に街路を行き来してた。 瞬間最大風速なんてのは、竜巻使っての脅しなのだ、と、このときわかった。 でもライブはそのうちカメラ調整中となって、TV情報に不都合なライブも次々消えた??? それでも、停電はいっぱい起きてたようである。 (大本営発表の情報操作がなければ、の話だが。) オイラは停電が怖かったんやが。 昨日の朝の7時ごろまでで、鹿児島県の99万戸のうち、なんと20万戸も停電したらしい。 風ないのに、大停電だとよ。 停電酷かったんは鹿児島や長崎で、今本体がいるらしい熊本は千件ちょっとだから。これは普段通りだろう。 大阪や千葉で先般起きた、原因不明の怪しい部類のやつだ。 電気の専門家は解っているはずだが?。 遠い近畿では猛烈な電磁波の中、セミは遠方でいじけてないてた。
2024年08月30日
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<実在の法則と、時間・空間の解釈> アリストテレス先生は、無知の知からの実在を直に導く。 図式といった見えてない概念を介在させず、「実在の法則」を直に構想しているようにすら見える。 「享有」を見出したが、それに拘ってないからだ。 しかし<本質>や<実体>には、たいそう拘るのである。 その拘りが誤解に六階されて、ギリシャ古典ができたが。 そっちはダメなもんなので、無視したい。 つまり<享有の法則>を、享有する感性のうちに直に探っていて。 心身一体の「主語に述語として付け加え得ないもの」というカテゴリーをカギに。 その背後に働いているオルガノンと、その法則らしきものを見出そうとした。 さらにこれらの指導理念に見えるイデアすら呼んできて、目的に据えた?。 これはちょっぴり疑問。 <空間>は、享有と共有の双方を見つけてきてる、ように見える。 だが、カテゴリーの示す<時間>は一つしかない。 この理由が不明。 なんで享有時間と、共有時間、分かれてないのか。 この時間、たぶん時間じゃないからなのか。 オルガは体(からだ)でもあるので、空間も、空間という入れ物にすぎん。 つまり単なる延長ではなく、すでにある身体にすぎんので。 実体は、ここに間違いなくある。 特定の場所に、時空的に、<オル>はずなのだ。 ほんとは一つでいいのだが、その時空間は、あえて共有、享有を分けた?。 オイラに見えてない意味があるんだろうか?。 カテゴリーに尋ねてみよう。 (分量、性質、関係)。 (場所、位置、時間)。 (能動、所動、状態)。 これらは三つ巴で、つり合い取れてるんだが。 時間、はおいら、ここでカテゴリーに入れるべきじゃないと感じた。 意味がずれるので、たぶん翻訳がおかしい。 この「時間」は、人が測る「時の間」の意味じゃなくて。 なんか別の、客観的な現実の機能を規制にかかっている感性のように思えるからだ。 具体的な時間じゃなくて、居ることの時間的意味みたいなものを表現したがっている。。 関係が状態となる、その中間に居ることの、感性的制限の主張だろうが。 つまりここでは、図示あるいは憂慮、みたいな言葉がむしろ、はまるんじゃないだろうか。 形成済の図式じゃなくて、それが執り行う規制の方が言いたいもの。 享有、共有という科分離思惟は適当じゃなく。 むしろここから右に向けて、可能、仮想、現実の順に表現してると思えるからだ。 縦に向けても、何かの制約経過を表現していってる。 そう考えれば、ここに出てくる9つの様態は、ぜんぶ生命体の現実のあり様のはずなのだ。 右に向けて、主観から客観に至る経過を捉え。 下に向けて、関心の力が実際の力となっていく、その経過を示してる。 だから関係が最後は状態となるのだが。 これは分量が状態として規制されたことでもある。 中間には純粋がしゃしゃり出るんじゃなくて、配慮とか憂慮といった、感性の中間が示されるべきなのだ。 「分量」はホンマに<享有特有のもの>であって。 共有でも使えはするが、共有(目)的ではないことがわかる。 それが証拠に、プロテスタントたちには、これが理解しがたかったのである。 オッカムなど、不要としてそぎ落としてしまった。 なので、ここでは享有の(分量を)指すわけだ。 共有「目的の」分量じゃない。 あくまで享有が、人の「あり」のモト。 「性質」もまた、享有から見ての主観的な固有の関係なのであって。 その「関係」のみが、今度は主観と無関係で客観的に共有のものとわかる次第。 享有からは個々に、はっきり見えても、関係としては一切見えとらんからである。 つまり享有にも関係するんだろうが。 それは享有側からのみのカテゴリーが働いた場合の話だ。 関係構築には「力関係」が要る。 享有とも共有とも言い難い、「優生学的判断」が、そこに絡むようには思う。 (だから、客観の客観狙いの構想者達は、エネルゲイアを力関係ではなく純粋に、「力そのもの」と捉えたがるのだろう。 (しかしモノ自体はないし、力も、感性に捉えられた「もの」にすぎん。) 「場所」は享有特有の、空間ものである。 科分離されてて、見えん部分があるのだ。 場所指定といった場合には別の問題が介在するが、場所だけでは「判断適用前」となる。 「位置」はそれに対し、もともと共有の場所を意味していて、享有的な事態には関わってないことがわかる。 そして「時間」は、ここで享有にも共有にも<共通>の、完璧に共有ものなのだが。 やはり時間ではなく<憂慮>だろう。 固有な享有時間があったとしても、享有者以外には<無関係>となるからだ。 「能動」、は享有の可能を問う動きで、客観視しようがない。 なので、享有なのでは?。 「所道」は享有の動きの所在動きのことか? 意味が、コレ、ようわからんのである。 「状態」は、それに対し、<享有対象の・共有態>をこそ言う。 ざくっとみて、訳が悪いとは言わんが、ぜんぶ、ようわからん。 享有の命題適用範疇をエイドス・エネルゲイア「適用前」と考え。 共有の命題適用範疇を「適用後」と科分離的に考えれば、むしろわかり易いだろう。 だからそのように、後者の方に偏って、伝統の古典ギリシャ思想は考えたのである。 しかしそれは誤り。 そしてアリストテレス先生は。 形容・力関係はいずれにせよカテゴリー命題としては、「無視」なのである。 科分離理解においては形容・力関係という思想にはカテゴリーが絡んでくるが、それが未だきれいに見えてこない部分があって、というべきか。 疑惑部分なのだ。 <純粋悟性概念の図式> 次に、カント先生のカテゴリーである<純粋悟性概念の図式>のほうを、見てみたい。 このカテゴリーは、次のように4つに大きく、くくれる。 アリストテレス先生のは3つにくくれて各項目表題がなかった。 量(単一性、多数性、全体性) 質(実在性、否定性、限界性) 関係(実体性、因果性、相互性) 様態(可能性、現実存在、必然性) こちらの形容・力関係は、一切事前には絡んでないことが明瞭にわかる。 純粋モンだから、当然なのだ。 優生学適応前の、<経験を含まない非現実様態、その構想>、だからだ。 人に見えてない図式を、強引に、むりやり図式として見せるための仮想物なのだ。 但し倫理の規制が事前にあるので、何もかもウソというわけじゃない。 うふぉ、程度だ。 純粋構想の悟性概念として、そういった仮想物として、カテゴリーを採り上げたのだ。 つまり知性ではないが、仮想のものにおける(先験的な)純粋知性の図式なので。 見まわしても、時間・空間部分やその感性的判断は含んでいないはず、なのだが。 結局演繹の最後に。 これらの背後にある、時間・空間がことごとく、主人面して出て来て、ひっくり返るわけだ。 <図式は構想力であり、時間的、空間的な感性のこさえものだ>、となる。 純粋悟性の概念自体が、神の与えたもうた側のものではなく、実は感性の形式が形成した構想にすぎなかった、そのことが世間に暴露されるわけだ。 延長として理解された、西洋独特の空間概念とは異なる理解を、すでに含んでいるので注意されたい。 例えが悪いが。 優生学抜きに始めたはずの純粋な先験構想が。 実は「優生学判断に基づいてたんだ」、と、認めてしまうようなものが出てくる。 図式が出てくるのだ。 それがこれ、人倫のカテゴリー(制約)においてなのだ。 「量」を念頭に、「単一」、「多数で」、量を司どる、享有の延長的図式を示し。 量の「全体性」の構想で初めて、共有問題が顔を出す。 そしてこれらカテゴリー全部でもって初めて、まったき時空を持つ、「量」となるのだ。 共有部分のみでは、全き量は形成されない、ということ。 享有、共有と別個に絡んで、しかもそれをくくれば「量」となる。 次の「質」、念頭の、「実在」とその「否定」は、これもいずれも、享有問題である。 「限界」が示されて、そこで初めて共有が見える。 (これが示すものも意味深で、<有限さがなければ、共有はありえない>のだ。) まったき「質」になるのは、そのすべての条件が網羅されて後の話。 次も、「関係」を示す「実体性」、「因果性」、いずれも個々の享有問題であり。 「相互性」が出て、初めて共有となりうる。 「関係」のカテゴリーは、そんな複雑さをもつのだが。 優生学判断済で、すべてを割り切って科学してると、こんな純粋悟性の関係自体の持つややこしさが、自分に一切見えてないことが、そのうちわかってくる。 最後の「様態」念頭の「可能性」は、享有あっての個別ものだ。 そして「現実存在」もまた、享有のものだ。 伝統のギリシャ古典哲学では、これを(エク・ジステンツさせた超越表象ものを)実在に置くので、一見、享有のものだとは見えないのである。 可能性は、普通は現実でないファンタシアものだと、つまり可能的なヂュナミスだと捉えるのだろう。 そうではなくて。 可能性も現実存在もまた、オイラの優生学的判断が絡む、<享有的判断>だと置くのだ。 つまり、オイラのねじれた優生学的「判断済の、感性的認識」こそが現実なのである。 (此処で、ちょい脱線したい。) (用語の科分類、切りそろえをしてみたい。) エク・ジステンツ(脱存)は、現実(享有)に立って、時空判定を正しく見ようとしての既存認識からの<脱存>であって。 セーヤン(キルケゴール)やハイデガー先生など、脱存論者の時空解釈の立場のものだった。 エクジステンツ(超越)は、スコラ哲学由来の(誤った)時空表象選びで、科分離思想のモノ。 しかもこっちは哲学ではない宗教のモノだ。 これに更にユダヤ人などが参戦し、エクジステンツは「実存だあ」とか言い出して、世間を掻き乱した。 それらはしかし文学的ファンタシアであって、スコラ哲学と同じく、まったく哲学ではないので要注意。 (短期で、脱線から脱出。) さて、「様態」においては。 必然性の構想ができて初めて、共有論議が、後(跡)からでてくる。 まったき「様態」となるのは、これらできる現実の必然性がが示されんとあかん。というわけだ。 カント先生のカテゴリーは、正しくは、「量、質、関係、様態」の4つで。 その「範疇的過程」を示しているように、一見、見える。 だから多くの人が、カテゴリーは「範疇」だなんて言い出したんだろうが。 これは全く正しくない。 享有に見出されたケッペンものが、まったき共有になっていく。 つまり判断「保留」の無意味な命題が、全き時空を選んでいく「図式過程」を示しているとも言えるんだが。 図式は実は、<そんなものやない>のだ。 図式が働いてる先は、共有じゃなくて<享有>なのだからだ。 倫理やカテゴリーが享有だけのものであるように、図式の働き先は享有オンリー。 方程式やプログラム言語みたいなもんとして図式=構想力を考えると大誤りが起きる。 現に現代のほとんどの科学者には図式が見えてない。 図式の働きは一見。 優生学と無縁な命題ものが、正しい時間・空間を選んでいく、そのようにも見えるんやが。 しかし「全体」、「限界」、「相互」、「必然」、は、時空を選んでしまって後も不変。 正確さや厳密さがつけくわわったりはしない。 究極の概念などとは特に、一切<無縁>なものなのだ。 エンテレケイアなものなど、どこにもいっさら、出てこないのである。 むしろ図式の働きは、カテゴリーにカタログ化された、「個々の役割の意味」を淡々と図示しているにすぎない。 図式が働いてる先は、共有じゃなくて、<享有>。 これ(図式)は、その享有者のためのロゴスのカタログ。 さてアリストテレス・カント両者の相違部分は、というと。 まず、「量」と「様態」部分は、アリストテレス先生と、ほぼ一致し。 状態の「意志」や可能性を示す「能動」、「所動」と言った、誰がやってるのかわからん権能が消え、 かわりに共有明確な「質」と「関係」が加わっている。 そしてアリストテレス・カント両者に一致しているのは、次の点である。 <形容>・<力関係>は、ともに、ありそうで、<ない>のだ。 エイドス・エネルゲイアは無関係。 ・・・であるのに、優劣付いたのちの悟性「判断済」、あるいは実在「承認済」も。 すでに「混在済」だったってこと。 これらは図式の権能、つまり人の感性の働きとは別のものなのだ。 カテゴリーは人倫の牢獄を論議してるんだから、当然かもしれん。 (範疇と理解したのでは、この論議は全く見えんなる。) そしてこれらは「神の世界を論じてんじゃなく」。 カテゴリーという、<有限な人の世界を論じてる>。 うふぉもん、だからだ。 (つまり範疇を論じてるんじゃない、形而上学的課題は「ない」ので、くれぐれも間違わんように。) だからここに、神の視点導入などは、許されんのである。 宗教介入は、お門違い、お払い箱。 メタバシスなども当然、まったく許可されはしないのである。 オッカムのやった不当な神権の介入のことだ。 エイドス・エネルゲイア「適用済」の理由が、ここにある。 アリストテレス先生もカント先生も、二人とも、神の視点介入などは<許可してない>、からなんである。 オルガノンやってるのに、神は無縁。 優生学的判断が、カテゴリー上ではすでに「判断済」となってる、その理由だ。 <(唯一)神の視点は許可されない>。 だから、除外したのである。 享有から始め、それが共有となって、主題が「人倫の命題」となる。 これを簡単にぶっ壊してしまうのが一神教なので。 だからダメだ、とオイラもしつこく言うのだが。 宗教家連中は神の視点を、一意に統一しようとして、あらかじめまとめてしまうのである。 「カルト教義」にして世間に流布してしまう。 そないなことやっても一元には決してならないんだが。 一元論を目指してしまう。 「オルガノンに神の視点は許可されない」、とあるのに、一神教徒の「信仰心」は、それをやってしまう。 だから「哲学としては、宗教介在あるのは金輪際ダメなんだ」と、オイラ言って来たつもり。 カテゴリーは優生学判定を「除外」してるのに、判断済となる理由だ。 その「現実の時空解釈」では、二人の立ち位置に違いがある、そのことが見えてきたはず。 アリストテレス先生は。 実体が実体となる様の時空解釈を、享有から始めて共有まで網羅した。 カタログ化し、十全なオルガノンものへの将来的構想とした。 (講義録なんで、生徒に考えさせる目的でアジェンダ使った、だから誤解されたんやが。) カント先生は。 純粋悟性概念の図式構想そのことの、時間・空間的解釈のカタログ構想の提供者。 (唯一神を冒涜するつもりはないので、これで逆に誤解された。) つまり両者ともに、「優生学」という「現実判定論議」を<無視>しての、オルガノン構想なのである。 「優生学は」現実判定論議を無視して「目的ありき」、なので、オルガノン構想からは除外なのだ。
2024年08月29日
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誰がどうやっていじってんのかがわかんないが。 過去とは違うんで、いじられてるとわかる。 たぶん、いろんな機関がそれぞれの思惑で。 台風操作には、特許という物すらすでにあるのも証拠。 電離層を暖めたり、海水面を暖めたりの、もっぱらお燗ばかりらしいが。 ガイアさんにもし意識があったなら、気分悪くて青筋もんだろう。 人間撲滅とか言い出すに決まっている。 最近は異変が実に多い。 今年はセミが異常なだけでなく、いつも多い蚊もいない。 ラジオに、恒常的にブーンという雑音が入るようになった。 雲が厚くてよくわからないが、お空も縞々のようだ。 電磁波雲の特徴は、遥か高空にある棒状、帯状の長く続いたやつ。 縞々になっていくつも出てることが多い。 ずっと高空のほうなんで、あんまり動かない。 薄くなって消えたり、また同じところに現れたりもしている。
2024年08月27日
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目がいたい。 それもデスプレイ見ながら、特定のゲームやってるときに起こる。 涙が出て、しばらくそれが止まらなくなる。 デスプレイから目をそらすと痛みは治まる。 老化による涙腺の渇きだとかなんとかは、騙しの目的誘導だ。 老化による身体の抵抗免疫力低下も涙腺機能低下も、これは間違いないが。 ゲームやってるときしか起こらんので。 直接の原因はデスプレイにあると、はっきりしちょる。 それも特定のゲームが出している特定周波数の、光か電磁波。 こっちは業界超えて隠されるので、ハッキリわからんものである。 それにいつもいつも痛いわけではないので。 特定の周波数が体調不良の引き金になるようだ、としか、わからん。 光も電磁波も、さらには音も熱もレントゲンの放射線すら、実は同じものだ。 波の性質や形態や周波数が違うだけで、同じ現実に影響する波だ。 感性で伝わるものでもある。 世の常識誘導は酷いので、特定の産業擁護に情報封殺が行われているかのよう。 過去にはブラウン管で大勢の視力障碍者を作ってきたが。 この目の痛みを無視してやり続けると、たぶん失明に至る。 それでもやめられんのがゲーム。 痛みが治まったらゲーム復帰。 これを中毒と言う。 目の痛みは、たぶん中毒への、体の側からの警告なのだ。
2024年08月26日
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米は流通に乗る前に、買い占められた。 例年より生産少なく品質悪化は確かだが、昨今の小売窓口は異常。 これを異常と言わんやつらが、これを起こした直接の<犯人>なのだ。 工業米、軍事米名目などで、流通する前に買い占められている? 報道なければわからんかった人は、いいカモ。 先般、コメの先物取引も前もって解禁してた。 小売窓口の異常なども、その目論見の一環だったのだろう。 コロナで枠陳煽って儲けたので、コメも本気で儲けたい? あるいは、毒薬漬け採算度外視の輸入米増やせと言われてる? 現物が<どこにあるのか>。 小売窓口異変の報道の前に、これを、まず透明にしてから、広報すべき。 つまり、<入荷出荷経路数量を透明にせよ>。 直取引が増えたというなら、何割だ? 要は、流通させてないだけの中抜きジャロが? 買い占めは、企画してるやつを叩いて出させれば済む。 こういう時に、「儲け主義」は、我が国では古来犯罪である。 対策は迅速逮捕、犯人摘発、それに尽きる。 こういう場合にこそ警察の出番ですぞ。 そもそも流通させてないので、大手の備蓄機構にしか、ブツはないはず。 このために備蓄米を減らす努力してたことも、備蓄ないという報道してたことも、もうバレてるが。 小口業者も、便乗で僅かな入荷分を少しでも貯めて。 儲けようとしてるわけだが量はしれてるはず。 そもそも基本数字出さずに個人備蓄を煽ったメディア。 これが最も悪い!これに尽きるかも。 学者引っ張り出して大衆心理とかにして胡麻化そうとしてるが。 買い占めてる悪辣なやつらはいるのだ。 それも「流通」前後に大勢群れてる。 一網打尽にすべき。 準備なしに恐怖を煽り、末端の消費者に備蓄煽ったマスゴミ責任が最重過失。 準備なしに、恐怖を隠してムリな人集めイベント企画やるのと同じ。
2024年08月25日
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<生命の・法則> オルガノンを、大雑把であっても構想してみたい。 切り殺した知的精神や生体のカノンではなく「生命体の基本法則」を見出してみたい。 そんなもん「ない」かもしれん、のだが。 その有無は<享有>が鍵となるのである。 人は無知だからあらかじめ、享有して「ない」のである。 しかし享有があるんだから、「ある」。 ・・・であるという認識を司るのは享有だから。 だから共有にはないか、というと、それがわからん。 人と言う種族は起きて続いている、と言えるだけ。 ただしシツコク言うが、オルガノンは論理学の虚無主義とは無縁だし。 本体著作が、未だアリストテレス先生の著作にはなってない講義録だったし。 この試みは単に、先生の哲学構想を想定してみる、といった程度の意味でしかない。 これは「人倫の法則」とはモロに絡むのである。 だが生物再現人工の学でないのはもちろん。 生きている享有者の日常を作り上げている見えてない図式相手の探査なので。 先にも見て来たとおり、科分離思惟にはなじまない。 そのうえ、信仰的思惟とも場違いなので。 特に哲学の無知と論理の虚無を混同している虚無主義者の一神教的信仰に基づく論理的なカルト思想、つまり優生学は、先に徹底駆除しておかねばならない。 論理主導だと必ず信仰の問題がしゃしゃり出てきて、あっさり虚無主義(ニヒリスムス)に落ち込ませてしまうからだ。 落ち込むのは本物の論理主導のものなので、本物思惟であっても超危険物。 偽物は単に修辞学が絡んだ偽物詐欺なので、邪魔なだけだ。 世間に流布しているアリストテレス先生の思想は、ローマ作「古典ギリシャ思想」と、本来の「ヘラス思想」に二分されうるのである。 そのことがハッキリとオイラにもわかってきた。 本稿は、心身一体のヘラス哲学を目指すので。 書き換えられる前のヘラス思想のほうを、アリストテレス先生の基本思想だとみなしていく。 なので、既存の全集のオルガノンに書かれていることは、ほとんど全部無視する。 しかし既存文書無視してもヒントはそこにある。 オルガノンは<実在の生きてる哲学>だ、ということ。 実在に関わるのは感性の哲学的反省であり、棟梁の英知は、その経験と反省の徹底に深く関係している。 ヒント提供者が、カテゴリーになりうるのである。 カテゴリーは命題ではあるが、享有相手の倫理である。 英知(神)がやる「範疇」なんぞではない。 人の感性が集め、そこに見出したもの。 ロゴス(言語)のカタログにすぎん。 古典ギリシャの「範疇」利用では、虚無主義に落ち込むか政治思想に囚われるかしかないが。 しかしヘラスのカテゴリーは、オルガノンの、まさにそのカノン(法則)のキイとなりうるのだ。 カテゴリーというこれは、単に<無意味な命題のモノではない>、のである。 無意味だとそう考える人は虚無主義者や一神教徒にも多くはいるが。 実際にカテゴリーは、個人享有者に対してのみだが、強固な倫理力を行使する。 享有者に対してのみ働く、のである。 共有者は無視する。 共有社会では、範疇的な<客観的判断済、区分け済>といった、通過済の意味しか持たない。 パスする。 しかも世間的な意味だと個人への力が見えていないわけだから、範疇という理解は誤りとなる。 「現実の人倫の制約モノ」は、個々人が有限であるそのゆえんだ。 命題表現の無意味を削ってったらカテゴリーになった、んではなくて。 (そういう、へんな論理学的理解が多いようだが。) 命題は拘ってはならんもんだと、先生はあらかじめ知ってた。 そのうえで。 先生は、まず(実体)を見つける。 そしてさらにその。 (分量、性質、関係)。 (場所、時間、位置)。 (状態、能動、所動)。 都合10個のカテゴリーを見つけた。 これらは人の生命の、生きたカタログ・ロゴスであって。 <実在の証(あかし)>となるもの。 オルガノンの<ある>ことの、証なのである。 くれぐれも、範疇なんぞではおまへんので、間違わんように。 実在をロゴスのカタログに並べて、その実在を証(あかし)ている特殊な命題。 それを、アリストテレス先生は先例のプラトンに倣って、独自に自分自身のものとして見つけた。 享有の倫理的制約を頼りに見つけたのだ。 オルガノンの構想を導くナニカのものから、逆に(哲学的反省で)辿って、演繹同定していって見出したのである。 オルガノンを導く仕組みを探ってったら、判断済み認識を導いているものとしてこれらの<命題要素が出て来た>のである、とも一応は解釈はできる。 しかしあくまで命題を検討したんじゃなくて。 命題が「結果的に出て来た」、っつうこと。 目的思惟じゃなくい。 それと逆の、反省的思惟で、過去の実体となって見つかった。 実在をもとに。 まず最後に収斂すべきだろう<実体>概念という、命題の核となる言葉と出会い。 特に(状態、能動、所動)などの、<構想を動かす力関係>みたいなナニカが、そこに見つかった。 実体のナニカを制約する力関係だ。 構想には未だなっていないから、力関係なんぞではない、のだが。 「実体」は特に、すべてのカテゴリーを包摂する命題だろう。 最初に見つかったのだが、最後にある言葉。 実体がなければなにもかも幽体にすぎず対象とはならなくなる。 固有の時空を持たない、量子みたいなもんとなるのだ。 (そんなん、ありえへん。) 表象ですら「実体の表象」なのである。 実体のないナニカなんぞは、ウソもんであることになる。 カテゴリーは、心の法則を導くのだ。 見えてない構想の、制約や形式をなす、その核心部分なのである。 (信仰なんぞと間違わんように。) (神の作ではなく、これは人の感性の作。) カテゴリーはそれらぜんぶが、心身一体で、実在のカギとなるものなのだ。 ここに、この享有構想の時空に、「形容」や「力関係」といったものは、まったく見つからなかった。 これもヒントになる。 「エイドス」、「エネルゲイア」は、優生学的判断上においては最重要の命題とされている。 特に修辞学においては。 だがオルガノンにおいては、ほとんど<無意味>なのである。 この二つの命題はむしろ、形而上学的問いを導く合目的科分離のための概念、といっていいのでは?、とオイラ感じている。 カテゴリーの所属が、違うというより。 そもそも<実体的感性ではない>のでは。 カテゴリーは実体的感性の反省で出て来たもの。 つまり対象時空が本質的に確定されていないと、「形容」や「力関係」は出てこないのである。 そして実体感性のオルガノンには、形容も力関係も、未だない。 つまりつまりこれは、「優生学が判定済でないと、肝心のものが出てこない」、という意味だ。 オイラがアリストテレス先生の論議で最重要視される「エイドス・エネルゲイアの二元論」という代物に疑念持ち始めた理由が、ここにある。 対象が明確に切り分け済でないと、形容・力関係などは特定できないのである。 手っ取り早くいえば、科学的な分離思惟でないと、「形容」・「力関係」などは出てこない。 しかも出てくるときは必ず、形容・力関係、その「判定済」として、出てくる。 構想において実在は判定済み、なのだ。 つまり優生学判断回答済の、形而上学理念への問いなどとして、自己破滅的に出て来るのである。 アリストテレス先生の思惟が、形而上学的課題や科学的思惟を含んでいる、のは確かだが。 オルガノン構想の、それもカテゴリー検討のさいには、これらは除外されるべきである。 「形容」は、ファンタシアを表象と理解すれば、重要な概念なのだろうが。 ヘラス哲学においては<ファンタシアを表象と訳すのは誤り>、という問題もあることを先に検討した。 古典ギリシャ風に、ファンタシアが表象であって初めて意味を成してるのがこれ。 優生学。 そして「力関係」のほうは? これも単なるカテゴリーではなく、優生学判定済の。 「具体的なゲバルト暴力」。 その合目的再現科学認識なのだ。 実在ではない。 帰納的な思惟に拠る、実体「想定」の類なのだ。 つまりエイドス・エネルゲイアは、人倫のカテゴリーにおいては、実在を証するものではないので、ここ、カテゴリーには上げられてないのである。 エンテレケイア論議なども含め、これらの論議自体がさほど重要な概念でもないのでは?という疑念も、ここからくる。 その背後にある、ファンタシアを動かす論理の空虚さが見える。 これにも、先生は当然気が付いてたのだろうと思えるからだ。 ファンタシアは、知性が主導し、瞳着させておこる。 極めて知的な、知性的認識のものだが。 但し当の形式に使われる図式の働きによる素材は、感性のものなのだ。 導きも、感性。 つまり知性の知性たるゆえんの瞳着は、感性が導いている。 つまりつまり、この「知性」は、「感性」の導きで初めて形式立てられる、ということなのだ。 その感性を持つ享有の生命体の法則が、反省の最初に見出されていた<実体>なのである。 現実の背後に居る構想だ。 先生が求めていたのは、空虚な論理や、ナニカに客観利用できる隠れ無き理論でもなくて。 享有者の、それも主観的実在。 ほんとにある、そのことの法則の反省的構想追認。 だからこのカテゴリーは、実体を自己主張する。 実在のその背後に、命題となる、「実体の生きた法則」があるはず。 人はこれを、感性によって導き出すしかない。 個別享有の生き物だから。 最初に見出した(アルケーの)、「自分の無知を、自分で知る事」。 これが哲学であり、哲学的反省の実践であり、倫理の行使である。 無から立つ「現実を騙ること」のうちに。 享有者の意味とすら見なせるかもしれん、<法則>を、これを見出し。 ディアレクチークの騙り、を、語りにすること。 これは、思惟を反省して受け取り直して、<演繹>することである。 哲学的反省は、棟梁的「演繹が最終目的」、なのである。 生命活動をも包摂する科分離思惟で見えなくなっている、ネガチブ領域を含んだ思惟が、先生の吟味検討する「対象」にあたるので。 しかも享有にして同時に共有の、生きた法則が大事だったんだと思う。 これを「神々の変容の法則」探し、といっていいように思うかもしれんのだが。 後のオヴィディウスの時代のような、神々と張り合うつもりなどは、まったくないのである。 同じカテゴリーにない、と言えるのだ。 ファンタシアをファンタジイ話にするつもりもない、というべきか。 実在は、その根が神話にある、というのが、ローマ風のウソだ。 これがまかり通っているので。 ハッキリ、言ってやるべきだろう。 「神話ってのは、ご先祖の伝承にあるのでなければ、詐欺師が騙るウソ話だ」。 時代の違うタ・メタモルフォーゼの作者とは、オルガノンは路線もまったく異なる、っつうこと。 アリストテレス先生のオルガノンに科学的要素はあっても、神話的要素はまったく<ない>と断定していい。 巨人に火をもらった伝承から恩義を感じていたとしても、神々との戦争なんて、考えてもいない。 ウーシアに対する巨人の戦いというのは、あくまで古典ギリシャ文化から出たナチズム神話に(つまり優生学の想定に)すぎない。 しかも先生のヘラス哲学論議に、優生学は、ない。 持ち込んだのは科学者なのだ。 「死すべき有限者」の、「自己の無知に由来する実在」その探査が、オルガノンである。 そいつを動かしているだろう<法則>の方を、つまり感性の方を反省しようと向いているのだが。 これは形而上学的問いが立っているのではない。 心理学、宇宙論、神学は立っていない。 感性を動かす、現に実在する、その<法則>を探っている。 これは享有の反省で行われている。 要は、まったく別の<共有方向から>無反省にこれを見たら、これが優生学探査になるのかも、っつうこと。 (しかしカテゴリーは、思惟モーメントが科分離思惟とは逆向き、なのだ。) 現実は、すでに起きたことで、これから起きる出来事ではない。 つまりこれらカテゴリーは、哲学する享有者を、既存の<日常的に導いている>倫理。 その日常をも形成している、現実の感性的規制の数々とともに、ある(このあるも享有特性)。 生きている実体の、<実在の証>部分。 その<鍵>となるものなのである。 鍵のシステム構想(みたいな、しかし感性の)もんだが。 それはよそからの視点だ。 つまりこれは「図式の享有実際の適用状況」であって。 過去の、決定済な時の秘密でもある。 それもよその視点では? これらがよく構想における「実践」への<心構え>と間違えられる。 技術が適用されたように見えるから、なんだろうが。 しかし心による図式の「実践的権能」なんぞ、オルガノン探査は気にしてんじゃない。 科学者みたいに、神になるつもりなど皆目ないからだ。 働いている未知の図式は、論理や数学理論などといった客観的なアルゴリズムとは、まったくの「無関係」なのである。 なので要注意。 徹底して感性のモノでできている、人倫の側のものだが。 それらは等しく、客観性を全く持たないのである。 科学的認識には、一切馴染まない。 有限な時空を持たないからだ。 人が自分で自分を閉じ込める、単に倫理の側のもの、だっつうこと。 人倫に、共有社会は関係おまへんので。 倫理規制委員会なんてのは、倫理の見えん人の、へんな目的持った集まりなんで。 これもまちごうたらワヤになる領域だが。 世間が、コレまちごうちょる。 そして英知ではなく、コトが感性だから。 実在認識の図式に、中性的変容などもありえないのである。 つまり純粋悟性などは、この世にありえないことになってしまうわけだ。 必ず「うふぉ」になる。 (だからカント先生は、ア・プリオリ談義をもとに、<先験的>、という耳慣れぬ言葉を使って、世間的思惟と、自分の思惟を差別化した。) (つまり胡麻化した、とはいえる。) (カント先生は、世間共有者相手のディアレクチケーをやる目的で、組織に雇われたレクチャー師だったので。) オルガノンは、これら中性でないナマの、生きた実在によって導かれる。 と言うより、導かれたオル・カノンである様を、感性で反省する。 実在を、「実体」のカテゴリーとして見出し。 それが居る途(オルト)・の法則を導くわけだ。 今ある、というより、あった過去的「居場所」の法則。 オイラのオルガノン志向思惟には、ふんだんにこういった科分離思惟が紛れ込んでいるので、泥沼なので整理しているのだ。 形容には拘らない(そのくせ実体)、と言うか。 適用済の変身物語などとは、まったく無縁なものとなる。 「形容」にも「力関係」にも、オルガノンは拘らない。 カテゴリーが、その心身一体構想の、モトのもん、アルケーだからだ。 ここが、オイラがタ・メタモルフォーゼ神話の神話性に疑問抱くようになった理由でもある。 変容は、表象が作る知的な<形容概念が先に働いている>のだが。 オルガノンの鍵は、それよりもっと先立つ。 感性ものだ。 これらの反省はほとんど「先験的感性論での法則探し」、といってもいい類となる。 カント先生の思惟に似てくる。 カテゴリーも、享有者を導き閉じ込める倫理牢屋のカギ法則なんぞではない、のはもちろんのこと。 判断済みの、心身一体の生命認識の形式や外形を作り上げていく、その素材、原因もんなどでもない。 むしろ、生きている<享有>という命の、<無知の知>部分に嵌る、命の鍵なのである。 それがしかも部分でなく。 全体で一つだということ。 カテゴリーを、部分鋳造の範囲と捉える用具的思惟には、決してなりえへん、つうことわかるはず。 享有のみへの問いとして、ネガチブに隠されている(図式様のナニカ、エトヴァスな)法則を求めての、隠れた理論や理屈の探求ではあった、とは思う。 それも、空虚な論理に基づいてのものでもなくて。 感性に基づいての、実体ものだ。 <カテゴリーの手引きで>実際に構想されうる、形容や力関係を伴うもの、なのだ。 エイドス・エネルゲイアは此処で初めて、関係するんだと思う。 実践的判断力が問題となりうる、その時空で関係する。 アリストテレス先生が仕立てたのは、生きた講義録(書き換えで失われた)だったから、この優生学思惟とは少し違うのだ。 <アリストテレス先生のカテゴリー> 論理学は、すでに整いかけていた。 それら優生学判断済の、実践判定済のものは哲学ではなく、数学的な時空理論物であることも、ほぼわかっていた。 先生は純粋基礎数学やってたんじゃない。 数学は一般教養にはなりうるが、数学から哲学には、ならない。 哲学(無知の知)とは別門だからだ。 アリストテレス先生のカテゴリーはそもそも、カント先生のように、時間・空間の純粋な直観形式のみを求めたものではないのだ。 そのことがわかるのは、カテゴリーそのものからだ。 あとでカント先生のも見ていきたいが、まずアリストテレス先生のを見ていく。 <場所>、<時間>、さらに<位置>とある。 固有の享有「場所」に加え、共有の「位置」指定までが此処にはあるのだ。 そして特定の享有者に、固有の時刻というのがないし。 「時間」と言う、共有感性の幅のみが置かれてある、という不思議さ。 つまり共有があるのに、これが判断、判定済の、つまり日常ものではない不思議さを持つのだ。 空間の享有居場所と、その共有位置、というのはわかるが。 時間が、<享有>、<共有>といったことの<区別を、そもそも持ってない>のである。 (図式適用前なのか?) 図式がすでに働いてるから、か? いや、時間実体が人の側特有の、それと一体の感性と目されてるからだろう。 というか、時間は先生に見えてなかったか、あるいはこれを見出した先の方途が、カテゴリー制約となる図式を対象に示すものでなかったか、だ。 オルガノンと先験哲学という仮テーマにおいて(カント先生のも先験哲学、つまりオルガノンの一種なんやが)、カント先生と大きく違う点が、ここに見えてる。 カント先生は、思惟の反省を含んだ思惟実体の発見狙い。 そうであっても、あくまで<科分離思惟>の反省、なのである。 思惟が科学的思考の逆向きだった、っつうこと。 (コペルニクス的転回で、科学とは違う逆向きモーメントの思惟をカント先生は見つけた。) だから先験的図式論が、でてきてたわけだ。 オルガノンには、その先験的図式論は<ない>のである。 (直の図式論はあるかも。) アリストテレス先生の思惟は、もとより心身一体のものなので。 これは「純粋」想定の「悟性概念図式」とは違ってきて当然なのだ。 ぜんぶ現実の生命体もとに、想定済であって。 優生学も既に判断済のモノ、なのである。 (だから優生学がある、には決して使えないので注意されたい。) 純粋悟性概念などは、建前上は、ないとも言える。 実際には感性絡みだから、必ずあるんだが。 図式には感性的に、見えないままに、<導かれる>のみだ、とも言える。 アリストテレス先生の場合は違ってくる。 あくまで<実在を証す>実在「鍵」の重視なんで。 つまり<享有者>の(あらかじめ)純粋でない、判断済み図式の様態をアルケーに持ってきて据えた、というべきか。 優生学<経験済>の、フリーパス利用済というか。 もともと優生学問題には、「してないだけ」なのであるが。 またそうでなくては、感性など、もともと心身一体でありようがないのだ。 (カント先生みたいに、純粋を批判してぶっ壊すつもりあるんなら別だが。) この問題には整理が必要だろう。 <整理> オルガノンは、優生学的判断済の、生きて居る・法則である。 つまり科分離思惟によったとしても、カテゴリー適用後の生きているものである。 殺して要素思惟して解り、そのくせ生かして利用? オルガノンという性格上、そうならざるを得ないのだ。 優生学判断抜きに、あんたが生きられると思うんなら別だが。 現実に、<弱肉強食はあるように見えてる>、からだ。 この<ある>を、許すかどうかは別の問題、だっつうこと。 列島に残る地蔵菩薩の理念のように、最弱の者から救済していく思想も現実にはある。 優生学は間違った、撲滅すべき思想なのだ。 オルガノンはしかし先験的思惟ではなく。 しかも現実にはありえない原則を見出そうとする、哲学的なもの。 つまり反省の思惟であるのは、先験哲学と同じだ。 優生学はアリストテレス先生の場合、もちろんまったくもともと問題にはなっておらず。 <そのかわりに>形容や力関係が、のちに問題となって後から出てくるわけだ。 形而上学問題が出てくるんで、古典ギリシャ思想には出て来た。 その形而上学話に理不尽な弱肉強食が出てくる理由を、あえて跡から問うたわけだ。 そう、弱肉強食は理不尽なのである。 不尽な部分の理は検討し、破壊し、論議し尽くして滅ぼさねばならない。 そもそも感性を感性として認知する以上、実在のカテゴリーには実体が立つ。 実体に純粋悟性概念など、出てくるはずないのだが。 カント先生は、<先験的哲学構想>でこれを見出した。 これはアリストテレス先生のオルガノンの実在の立ち位置とは、<まるで違う世界だ>ということ。 同じカテゴリーと名付けられていても、<実在の立ち位置>が、お互いにまったく違うのだ。 アリストテレス先生のは、心身合一的思惟の、オルガノンもの。 感性的な生命の実在を示す、それを実体として証すカテゴリー命題となる。 カント先生は、科分離思惟での、先験的哲学構想における感性的判断力の実在を示すカテゴリー命題の主題提示。 実在の立ち位置、つまり実体が、二人ともまったく違うのだ。 つまりこれらは、優生学含みの判定済みの時間・空間解釈が、お互いに違うということ。 時空解釈の違い由縁なのだ。 アリストテレス先生は優生学スルーの実体カテゴリーで、オルガノンもの。 時間・空間は、実体と別のカタログになる。 カント先生は優生学判断前の時間・空間を図式主導する純粋悟性概念のカタログ。 次回はカテゴリーの2回目、<実在の法則と、時間・空間解釈>から、さらに泥沼をかきわけていきたい。 煩雑でわかりにくい。 これは、オイラがよくわかっていないからである。
2024年08月23日
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断っとくが、オイラ電気はド素人。 電気と電磁波の関係調べても、何も出てこんかった。 nhkの悪魔的キャンペーンに誘導されるばかり。 要するに、ブツリ学の概念だから素人は知らんでいい。 電気も電磁波も同じ波なんだが、その違いすらおまいらにはわからんやろし。 用途が違う科学なんやから一緒くたにすな、っつうことらしい。 ブツリ学自体が、オイラには怪しい悪魔に見えた。 電気も電磁波も、今の時代の脚光浴びてる、へんなスポットライト部分だ。 一緒くたに扱うには用途が違う? オイラの感受性は単一の人格だよ。 だから、わからんこの二つをくっつけてみようと思った。 普通では、くっつかん。 世間で頻発するトラブルが介入すると、なぜかくっついて。 <漏電>や<電磁波被爆>となったのである。 後者はオイラ、コロ風邪という世間と違う非常識見解をとっている。 今回問題にしたいのは、前者。 電気は、粒子であると同時に波でもある。 わからんもので、波の科学研究も遅れている。 不具合がその波で生じている事まではわかっちょるのに。 世間への啓蒙も、ほとんどない。 その不具合起こす予定せぬ波を、<高調波>というらしい。 これは一部再現もされてるらしいが。「高調波は、基本波よりも数倍~数十倍までの周波数を持つ電流や電圧のこと」だというんだが。 これは「不具合」を隠すためのソラシ意見で。 要するに、普通の電流とは場違いに生じる<ひずみ>波のこれをこそ、高調波というのだ。 余計ものだからカネにならんのか、ほとんどわかってないが。 これが「電路や接続機器に悪影響を及ぼす」ことなどは、わかっている。 要は電磁波浴びると扇風機がヨタヨタになるのなんぞは、コレの影響臭いのである。 これって兵器にもなる? 直の関係は不明やけど、世に電磁波増えてから、電子機器の不具合は問題になって来た。 生易しい物じゃなく、危険な漏電をも引き起こす、意図せぬ波の関与。 あげくにはショートさせて、工場を燃やしたり。 パンタグラフをふっとばしたり、地中の電線を焼き切ったりもするのかもしれんのだ。 事故は再現実験されてないので、オイラの勝手な妄想かもしれんのやが。 最近の停電も、原因ほとんど、意図せぬコレではと、素人頭で、かんぐってる? 地震や台風の時に限って、機器不具合の停電が頻発するからだ。 昨日は関東圏で、万に達する停電が相次いだ。 風は千葉でも、そよ風程度しか、ふいちょらんのに。 どれもこれも、機器の不具合まではわかるが、その不具合の理由のほうが、わかってないとみえて、報道もされん。 電場と磁場の干渉で光が生まれるように。 電気の波と電磁波の波が干渉して高調波を起こし。 機器をぶっ壊してるのかもしれんのだが。 防災の専門家という連中には、そんな空想想定はできんようだ。 新米の雇なら期限課題でいいが、役立たん名誉職ならクビにすべき! 悪魔が、そう言ってる。
2024年08月17日
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nhkは強い雨の取材したくて苦慮? 東京狙い、お盆狙いの、へんな台風。 電子オーブンレンジの中にいるような高温続いたり。 風も吹いていないのに、各地で停電が頻発したり。 それを見越して、列車が事前にいっぱい運行停止してたり。 台風と言うのは必ず25m以上の暴風圏を持つものだ。 箱型の軽自動車など、簡単に飛んでってしまう。 おいら土佐人だから台風の怖さはよく知っている。 京阪神へ出て長いが、そんな本格暴風などには出会っていない。 瞬間最大風速と言うのは、あんまり意味のない表現だ。 数字の大きさで人を騙すにはいいかもしれんが。 今回の東京狙いの台風は、なんか騙し台風のように感じた。 地震も結局、なかったんで、騙されたわけだし。 nhkの怖がらせキャンペーンで終わった雰囲気。 地震被害ないからめでたし、にはならんじゃろう。 食い扶持邪魔されて実害の出た人は、怒るべきでは?。
2024年08月16日
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<魔法陣> 魔法陣というのは、例えば現代に林立する5G用電波鉄塔のことである。 また、人々を電磁波の媒体に安上がり利用するための予防接種、という、時空ズラせ目的の人体実験のことでもある。 陰謀論に通じてる人にしかわからん話ししても、普通の人にはわからんと思うので、もっと見える具体過去の話をしたい。 哲学という、無知の知の話をこそやっていきたい。 魔方陣には、その英訳であるmagic squareの意味は全くないのである。 英語のそれでは、魔法陣でなくなる。 「四角い数学的数字ミステリー」を示す言葉にすぎん。 そうやって数字の感性遊びを持ち出して、ケムに捲いているのだ。 ケムトレイルやって、気象改変や花粉症作りの、めくらましキャンペーン。 これを出してくるのが、そもそも悪魔。 彼らのやるのは時空のズラし目的なので、そういった意図のものはハナから無視するべきなのだ。 そう言いながら、逆に世間様にすっかり無視されてるのはオイラの方なんだが。 これは哲学という領域が、もともと享有のものなので仕方がない。 (1日の固定最低読者たった2名、しかもこの2名、ロボット臭い。) それが何を狙っての陣立てなのか、のほうが重要なんだが。 知性、知識での、哲学の囲い込み撲滅作業かもしれんのだが。 目的は見えてない。 魔法陣を使う連中には、オイラたちに直に見えてない、狙いの<目的>があるのである。 大衆を騙す詐欺る、という、時空ズラシ目的がある。 ギミックという言葉の、最近の世間への積極導入流布で、これがはっきりしてきた。 魔法陣使う、その狙いの目的とは? 魔法陣は、{隠した目的達成のための、魔法的効果を狙っての<図式陣立て>}なのでもある。 まさに陰謀論のメインテーマ。 これが、魔法陣という用語の、正しい解説にあたるのだろう。 しかもその図式(シェーマ)が、社会にまったく認知されてないので厄介だ。 構想力だから、誰にも見えないのである。 陣立てしても見えん。 magic squareなんて、無関係の遊戯領域に入るのだが。 こんなん出すしかないのかも。 隠し事好きな黒塗り大好きな陰謀家たちが、小道具立ててやる大事業アジェンダなのである。 彼らは、人に見えてない図式(シェーマ)を使っている。 超賢い連中なので、見えずとも、頭で人工的に考え出す。 同時にサブリミナル使ったり、サイコパスとかソーシャルパスといった心理学使ったりもするが、そんな問題はほっておいといて。 とにかく見えてない、人に有効な方程式のような図式(シェーマ)を。 魔法陣に使う。 それで逆に、これを利用して社会に対し共有論議認知啓蒙ができると考えた次第。 図式論は、半世紀以上取り組んできたオイラの専門である。 <魔法陣と図式> シェーマは、感性のもたらす<構想力>のこと。 思惟構成や反省解体のモトとなる、構想の力。 なので、自分の感性が自分で見えてる人、反省がある人でないと、わからないはず。 世の人にわからんそれ(図式)の利用が。 <魔法陣立て>、ということであるのだ。 魔法陣建ては人工のモノである。 magic squareでは、見える数字使う数字遊び利用の(世のシステム魔法)なので。 まったく別のもの。 わざと数字のお遊びにしてしまって、見える物見せて胡麻化してると言う事だが、ヒントにはなる。 わかってわざとやっているので、このギミック(欺瞞)は<悪質なもの>なのだが魔法意図は隠されている。 言語ズラせて、あえて世に流布して、めくらましやってる。 数学の数字が選ばれてるのも、確かに悪魔的意図の時空のズラしなのだが。 陣立ての、本当の目的には。 個人の享有的感性認識の導きがあり、それ使っての<共有化への誘導>、がある。 対人攻撃的意味合いもあるのだろう。 ホンマはカネ儲けか?、そこはわからん。 一神教教義的に人工化がなされている、意図が示されている、ということ。 図式は、人に普遍的にある見えてないオルガノン権能のことでもある。 (優生学的権能など、ないが。) 完璧な想定プログラム? (そないなもん、絶対にありえないが。) しかしこれを利用することで、<享有認識の共有化が可能>となるのだ。 つまり教義知識への、カルト化結集が図れる。 これが悪魔達のアジェンダ部分で、しかもこれが儲けの入口なのだろう。 その狙いが巧妙。 見えちょらん図式を直にではなくて。 見える人の感性使って、何か(オイラたちに見えん目的)を達成すること。 選ばれた図式の本来持つ、規則に沿ったようなナニカ。 そういった欺瞞的実施がなされている、ということ。 まあ、見えてえへんんもんが言うので、結構いいかげんなんやけど。 使ってる連中にも、自分の描いた魔法陣立ては見えてても。 シェーマは直には見えてないはず。 つまり個々の人々に対し、優生学的共有化への「導き」、が狙いなのだ。 信仰者を増やす共有化への<魔法を使う事が狙い>。 (宗教への導きは魔法だ、と、これでわかるだろう。) <魔法> 魔法と言うものは、かくのごとく、はっきりせんのでややこしい。 魔法と言うのは、享有者に対し、<共有目的誘導で使用される悪魔の道具モノ>。 ということもわかるはず。 図式を、直に利用しているわけではないのだ。 図式は誘導するが共有目的など持たないオルガノンの一部。 連中にも見えてない。 だから魔法使いが特殊な職業となる。 悪魔の相手を、もともと共有とする人々が魔法使い。 なのに、魔法の狙いは享有、という、時空対象がズらされた不思議さがある。 <図式は、享有者にしか認知され得ない>ので、どうしてもそうなるようだ。 何度も言うが、超賢い連中にも多分、図式は見えてない。 図式は特に、意図を含まない感性なのである。 享有者がそれに動かされるだけ。 個々人が<自分に対してしか>認知できないものだ。 他人の感性では、オイラの享有現実は認知できないように。 自分だけのポジ・ネガ含んだ感性。 なので、これを操ろうとする魔法目的は、必ず共有狙いなのだが。 図式の性格上、その対象は必ず<享有狙いにする>こととなる。 意図的に、現実と同じくする、こととなる。 目的時空導入で、そこでねじれさせて。 時空変節が起きている、ことにしちまう。 人工の時空をもってきて、据えるわけだ。 いわば純粋な図式は魔法に使えるが、人工の時空となれば、これは優生学なのだ。 ここで時空がズラされて、利用されてることが、わかるだろうか。 「時空」と言うのは人の、それも<享有者の感性のこと>なので。 オルガノンなので。 変節させないことには、悪魔にも享有者の共有利用ができないわけだ。 悪魔の光による享有時空のズレは、現実の享有・共有のネジレを人工的に起こしているわけだ。 現実のオルガノンにおいては、感性と知性のネジレが、それにあたる。 これはバーチャリターと呼ばれる。 人の(享有者の)現実。 魔法陣というのは、その個々の享有者を狙って、感性を導きズラして。 悪魔の戦列に組み込むことを目的とする魔法利用図式の陣立て。 ネジレ起こす、欺瞞をやる、目的の人工物。 だから普通の人は、こんな厄介な詐欺なんて、やらないのである。 自分や相手を、直に騙そうとするのみ、のはず。 直に騙すのは普通の人。 日本人は自分を騙すのが上手で、外人はその逆らしい。 手の込んだこれをやる連中は、普通人と違って、超賢い悪魔なのだ。 普通の人は魔法陣なんか使わない。 共有社会構成する、個々には享有者だが。 ギミック(欺瞞)なんてのも、普通は一切必要ない。 単純に、自分や相手にウソつきゃ、済むことだからだ。 悪魔がやる人工の時空導入は、それとは違う、っつうこと。 mRNA(メッセンジャーRNA)は、まさにこういったものの一つだ。 悪魔が時空ズラしに使う、魔法陣立てなのである。 コロ*予防接種に入ってたといわれる、はっきりせん代物である。 コロ*被爆では死んでる人少ないが、予防接種では大勢の人が殺された。 今後、オイラも含め死ぬ予定。 (オイラはコロ*ではなく、一つ前の、高齢者向けサーズ予防でやられた。) この悪魔がズラす時空というのが、もともと共有のものではなく。 <享有者の感性>だ、というあたりから、もう一度詳しくレクチャーして、ここらへんからホントの泥沼に入っていきたい。 <時空は、=享有者の感性認識(形式)> オイラたちには、「時間・空間は数学的認識だ」という、へんな思い込み(優生学的図式誘導)が持たされてて、カルト化してしまっている。 予防や防疫は世のため人のため、という世間常識がおかしいのと同様。 やってんのが731部隊にいた悪魔だという認識が世間にない、それと同じ。 時間・空間をも数学で扱ってるのは、それは確かなんだが。 その認識は、数学的<命題認識>つまり無意味な物ではなくて。 人の日常を、感性の仕組みで導く<図式認識>なのである。 命題だと、たとえば数学と言う学問上においてのみ意味を持つはずだが。 ズラされて日常にズレこんで、現実化されて、その日常が変えられてしまっている。 時空は現実のモノだが。 数学などよりもっとありふれた、日常の感性レベルのモノなのだ。 命題にはその時空が使われる。 しかもオイラの、享有日常の認識なのだから。 これはオイラ個人に属する。 正しくは、<オイラだけの感性に属する><オルガノン>が使われる。 つまり時間・空間は、反省的思惟に属する(ネガチブである)ある種の命題なのだ。 またオイラたちは、数学で割り切れないなんかがある、とも日頃感じているようだが。 数学利用で日常割り切ろうってんだから、どだいが無理な相談してるわけ。 数学が、諸認識の基礎に、有用さを狙って人工存在している。 それは確か。 <命題における時空的においてのみ、存在する>のである。 中性的に変容するかのようでもあるのだが、そのときはカテゴリーがある。 独断論で騙られるオルガノンみたいに、生命に普遍的にある規則志向の適用がなされてる、んじゃない。 特定の時空命題に、しかもカテゴリーを伴って命題化される。 (ここでカテゴリーを範疇などと考えたら、ワヤになりまっせ。) カテゴリーは純粋悟性概念の、図式で、みえん牢獄。 その図式は享有者の感性でできている。 数学というこれは、人によって創り出された<共有の人工物の証拠>なのだ。 宇宙の真理なんかじゃない。 オルガノンには、決してならないが、mRNAにはなるかも。 これは人工の構想物なので、ウイルスと違い、実在する。 別の証拠にも、<純粋数学などはこの世にありえない>、つう問題がある。 純粋数学を探している研究者も多いようだが、無条件にはありえまへん。 必ず<特定の時空命題定義上において>の、数学となる。 数学っつううのはそういうもんだ。 つまり純粋にはならん。 経験に先立つ者や超越者にはならない。 数学が宇宙の普遍的真理なんだと、そう思い込んでしまうと。 それがそのまま形而上学カルトとなるのだ。 これは先験的誤謬に拠ってしまうので、必然的に自己破綻する。 そもそも享有的反省がなければ、数学認識なんて、生じることすらもないのだが。 純粋なんてのは享有的反省忘れようって魂胆なんで、欺瞞が生じる。 つまり個々人が自分で、自分の思惟している対象と、その対象を思惟している自分を見返して。 起こっている出来事を反省し理解しなければ、<認識>には、ならないので。 そうなると図式もできんわけで。 図式が神の側にないことの理屈、わかりまっか? 数学を形而上学の基礎に置いたら破綻するなんて、普通には気が付かない。 問いと回答だけでは、点取り虫がでてくるだけだからだ。 しかも破綻するのは、真剣に猛反省できる人に限る。 真剣に<はんせいする>時間・空間は、その対象にも自分の<心構え>にも、絡む。 テクネーに絡む。 オルガノンはポシ・ネガ両面を持つ共通項のナニカではあるのだが。 それ自体は、客観視できる出来事でもなければファクターでもないことがわかるはず。 真理の「要因」や「要素」、などではない。 生命は、その本質物質を特定できない理由がここにある。 図式の持つ時間・空間は、そもそもモノ自体ではないからだ。 これは人の、<直観の形式>にすぎん。 (これを見出したのもカント先生だった。) 数学はこれを単に<表象>して、中性にして。 次元だとみなして、論議の基礎に感受できるように置いた仮想の(時空)もの。 みなして仮置きして、量や質といったカテゴリーで優生判断する。 優生学で判断するんじゃない。 カテゴリーで判断する。 つまり(時間・空間を)空想想定して、数学の基礎に、その共有数学のファクターに据えている、わけだが、時空が先。 メタバシスやれば違ってくるが。 但しそれやっても、量や質のカテゴリーから享有者が自由になる、というわけではない。 カテゴリーの束縛は、メタバシスやって、すべてを中性にしても止まない。 それどころか数学は、享有者に直接手出しできないことがわかるはずなのである。 方程式という、メタバシス化したある種の図式表象を使って、間接的に手出しできるようには、確かにできる。 これはオッカムが可能にした画期的な悪魔的発明品で、図式の働きを隠したこれ自体をメタバシスと呼ぶ。 つまりメタバシスで、質とか量のカテゴリーを取り去らねば、自由にはならんのだが。 哲学での事情は、これら数学の事情とは、まったく違ってくる。 そもそも哲学では<享有の、個人的現実をのみ扱う>。 享有でないもの現実でないものは、哲学の対象とは、もともとならないのだ。 だから(共有の)中性知識などとは、哲学では一切無関係となるのだ。 数学では可能のように。一見見えるだけ。 (つまり共有の中性知識は、哲学とは無縁となる。) むしろ(享有の場合には)<無知>と哲学は直に関係する、というわけだ。 この理屈は、無知の知を説明できるだろう。 時間・空間は、その<享有の無知が居座れるような、形式>となる。 図式、ともなる。 (無知の知の、形式と図式の、紙一重の様子がわかるだろうか?) これ(時間・空間)が、享有する個々人の直観の形式。 なので。 共有の知識などとは距離があると言うか、見えない図式を介して、まったくの別物となってるわけだ。 これは、享有者が自分の無知を反省すること(哲学がそこに始まる)から生じてくる当然の帰結なのだが。 当然、<直観の形式>をも、さらに自ら問おうとするに至るのは必然だろう。 これが時間・空間とは何かという、形而上学的問いとなる、ということ。 哲学だと過去に誤解されてた形而上学的問いだが。 基礎に図式の指示があるのであって、無知の知は、ここにはない。 信仰というモトがないので。 おいらなんかの見習い哲学徒のやる問いは、形而上学ではない。 だからオイラは、この哲学の問いを、うふぉへの問い、と表現してきた。 答えは出ないし、数学みたいな方程式図式様態にすらも、なりえない。 共有図式に指示されてない(信仰がない)からだ。 哲学の問いは、およそ正確にも、なりえないものだ。 そのかわり<厳密>となるんだと、これはナチスのハイデガー先生に教わった。 的確に人間を立てて射貫ける的に、シュトレンゲになるんだと。 これを享有者の信仰に求めて。 心理学、宇宙論、神学としたのが、本物の形而上学なんだが。 これが哲学でなくて知識探求の<先験的誤謬>であることは、これもカント先生が純粋理性批判で明快に示していたんやが。 しかし当のカント学者が一神教徒ばかりなのでは、みんなして形而上学に落ち込むばかり。 (ギミックと紙一重の、うふぉ、にならずに、ウソに堕ちた。) 時間空間はそもそも、<モノ自体ではない>。 人の直観の形式を示す<エトヴァス>にすぎない。 <エトヴァスは見えん> カント先生の言葉の、一つ覚えが、つい出てくる。 ホンマ、これぐらいしか知らんのやが。 マン カン ザーゲン(人は言える) デア ゲーゲン シュタント(彼方に立つ=対象について)、アイネ ブロッセン(単なる) トランツエンデンタールイデー ザイ エトヴァス(先験的理念にすぎんと)。 つまり哲学の対象となる時空は、先験的な形式を示す享有感性のモノなので、手がかりがいつも目の前に転がっている。 なのに、この先験的形式の原則を示すこと(オルガノンではなく、オルガノンの意図を読むこと、図式を読み取る事)は、容易ではないというか、不可能に見えるのだ。 それは神の意図を読む行為となるからだ。 それの主たる理由は、オイラたちが科分離認識つまり科学に馴染んで、神々を冒涜してしまっているということに、おもな原因があると思う。 (神は単数にはなりえまへん。) それも過度に馴染んでしまっている。 科学的思惟に馴染むということは、一神教信仰教義に馴染みカルト化すると言う事で。 感性の正しい適用がなされるオルガノンを見失って、現実が見えなくなっている。 そのためだとは、わかってきた。 オルガノン界隈は、言語命題や、カテゴリーや、倫理といった個々の用語すらがいいかげんだ。 まったく整理もされていないのである。 それを(優生学的にアホな)オイラが哲学史を通して、見て来た、つもりだ。 歴史記述してきたつもり。 人工に陣立てすれば、みえてえへん図式ですら見えてるように感じる。 優生学=科学的思惟=一神教的信仰=形而上学的誤謬、ほぼイコールで並ぶと、いまさらながらオイラ思う次第。 科学は技術であり、思惟としてはまったくの科分離で死んでる。 これは<死霊再現技術>。 世の人は、現実と言うことがなんであるかの手がかりすら、理解していない。 日常の図式が、ふんだんにあるのに、気にしない。 それは<無知の知>を見出した哲学徒ですら、同様なんである。 プラトン先生は、なぜ自分がイデアに囚われるのか、真善美にとらわれるのかもわからなかったし。 アリストテレス先生も、自分が命題に囚われてしまう理由までは、わからなかった?。 たぶん、そのためにオルガノン講義したのである。 講義はしたし、親しくレクチャーもしただろうが、書いてはおらん。 哲学徒の末席に座るおいらは当然、何もかも皆目わからんのだが。 この現実への問いに、回答を与えるために、諸宗教の教義がある。 それは確かなんだが。 カルトに組みして同時に哲学なんてのは、欺瞞以外のもんではありえへんのである。 (ギミックの出てくる意味に注目。) 組織を利用して稼ぐ哲学者は多いが、その哲学は必ず<享有>となる。 哲学者の数だけ哲学ができる、のが普通。 組織と哲学はもとより無関係。 それら享有が<知性>に瞳着してしまい、感性のカの字も理解できないへんな一神教教義に支配されて、カルトと化して。 さらに世から消されようとしてるのだ。 オルガノンの抹殺。 それらは、哲学史という(もはや全貌も見えない売れん大著となったが)多言を弄して、見て来たとおりである。 オイラたちは、自分の感性の正しい適用がなんなのか、これは哲学も含め、まったく理解の範疇には出来てない。 (範疇の意味は、そういう悪魔の人工物だということ。) (オルガノンのカテゴリーではないのだ。) (感性も感性と言う中性のモノとして見えてんじゃなくて図式でもなくオルガノンなんだが、それがきれいに見えてないつうこと。) その証拠に、自分の進退(身体)すら、オイラたちは自分で自由にはできないじゃんか。 オルガノン認識が正しくないので病気にすらなっちまう、ではないか。 宗教は、この疑問だらけの病人に、回答を教義で固め、人工図式にして与えてくれる。 だが、その回答で先験的形式の原則を示すことができているのか、つうと。 現実をいじりにかかって、悪魔まで使って、ギミックやって霊感商法の始末だ。 そのため現実は、バーチャルにねじれてしまっているばかりなのだ。 ここにある、<享有こそ現実>つうこと。 これを見出し反省し、世にディアレクチークしてくれたのが、ドゥンス・スコトゥスという英国出の大先生。 スコラ学(スコラ哲学ではないので要注意)の、つまり学校の先生だが。 <人の感性・知性のバーチャリターな様>=現実、は、現代においては科学に悪用されるばかりである。 (もっぱらズラした仮想現実のほうが利用されるのだ。) この先生も、悪魔に囲まれて大変な一生だったようだ。 科学技術が、詐欺をやる事すら公然と認めて。 自分の基礎に、古典ギリシャというヘラスものでない偽物を居座らせている。 ギミックを流布させている。 そのため、欺瞞が世にはびこることになるのだ。 これが最近の、オイラのおおよその意見。 偽の理解や知識が科学的知見にも入り込んでいる。 現実の時空をずらし、悪魔的に利用されている。 端的に言って、科学界では、<いまだに優勢学が世を支配している>のである。 これは事実。 優生学は、科学を手放そうとしない。 というか、優生学は科学と一心同体ではないんか? だから世は破滅へと向かって、そのポシティブのみの方向にズルズル、コックリサン効果で動いている。 反省すれば、それがみえるはずだ。 おかしいやろ、となるはずなんだが。 ネガチブさが、ヤバい部分が、世間の指導者層の誰の目にも、ぜんぜん見えていないのだ。 実はオイラにもきれいに見えているわけではない。 オイラ一人で、世の中の事ぜんぶみえる、っつうメシアは確かに大勢いる。 だが。 そいつらはみんな詐欺師にすぎんことがわかるだけ。 人は有限だし、全部見えるはずなんか絶対にないんである。 図式論なんかは特に、半世紀以上やったけど、未だに、一切見えとらん。 (なので、優生学=?図式論、つう疑問も一抹あるのだ。) (システムの図式論は、これは明快に悪魔図式論である。) 悪魔は時空をずらす。 エトヴァスを人工のものに欺瞞化して見るためだ。 <時空> 時空というのが、享有者の感性そのものである。 実に単純なこのことすら、きれいにみえちよらん事なのだ。 仮にその時空が共有時空であっても、そこにはまず、享有のオイラの感性が認識しているはず。 共有は、その人工光で認識を立てる。 認識と言うことの形式を、無知なオイラから切り離して、別に立てちょるのだが。 この、共有になる前の心身一体が、オルガノン領域なんだが。 図式は感性の形式となって、享有も共有をも操る。 切り離せない、と思うのはまさに客観視できん、ということで。 それが現実だ。 <オイラから切り離せないオイラの現実の、その形式が、図式なんである>。 図式論議は弁証法同様、跡付けの弁証論にしかならんものだ。 実際に相手にしてる対象は時空であって、図式じゃないし。 科分離して死霊にはできんはずの、プログラムにはありえへん、図式。 それを切り離して人工にして解ろう、っつうんだから、どだい無理な相談。 心身一体の指標たるものが、時空一体の人工のアルゴリズムではなく。 個別のプログラムと化して図式立てられ、優生学に操られているのが日常の現実。 更に、信仰がもたらす先験的誤謬が、今も人々を導いてしまっている、という問題もある。 オルガノンの図式を操作できんので、操作のため優生学ができた、といってもいいほど。 一神教を撲滅し、アリストテス先生のオルガノンが正しく刊行されれば済むことだが、それはもう望めやしない。 おいらも。古典ギリシャ語で躓(つまず)いて、1年コケてもヘラス語まったく読めんまま終わったし。 時空のなんたるかも、わからんまま、そのうち終わる。 世は一神教徒の支配する、稼ぎ中心の世の中。 おいらたち多神教徒も、その一神教教理の悪影響をモロに受けてしまっているのだ。 <自然>という副詞の、名詞寄りの変節で、すでにわかるはず。 オイラたちの認識は優生学に包囲支配され、隠れ無くあること(自然)も、高みの見物すら、できなくなっちまってる。 八方塞がりで、この時空に希望はないか、というと。 未だ生き続けてることが希望なんじゃよ。 人間と言う種族は未だ、息しちょる。 進退できる身体があり、時空がある。 これは生命の、オルガノンの特徴だ 死ねば、すべてを大地に返すだけなんで、優生学とも哲学とも一切無縁となるじゃろ。 享有者が自分の無知を知ることも、生きているからこそ可能なこと。 ポシティブなメー・オンが無を意味するようには、ネガチブなオルガ・ノンは、生命の死を意味しない。 むしろ<生命の・法則>、という独断論的意味が、享有側に身体を通じてもたらされている。 はっきりと言うべき。 「生命の・法則」というこれは<独断論>だが。 ただしオクケンじゃない。 人々が生きている限り、これは<自分の無知を自分で確認して探求>できることを意味するからだ。 老人性愚痴はそのくらいにしといて<時空>に戻りたい。 <時空>つまり時間・空間は、享有する個々人の、<直観の形式>である。 次元などという数学命題じゃおまへん。 これらはカント先生のご意見で、オイラだけの意見じゃない。 ここに、死した神や転生する寄生虫の形式を据えるんではなく。 科学的分離志向思惟は一時ぜんぶ忘れて。 生きたオルガノンの<生命の法則>を(独断論的にであっても)見つけて据えるべきなのだ。 カテゴリーがそれを支持している。 しかしすでに、優生学が取り仕切ってあるので、邪魔される。 これが(すでにできてる)共有認識の現実。 誤りが、まるで弁証法の言い訳のように居座ってしまっている。 これを完璧に取り去らねば、生きたオルガノンなんて、見えようがない。 生命体は、いくらでも身の回りにいるが、そしてジャイナも、生きとし生けるものを尊べと教えるが。 切り殺して実験材料にするのが科学。 殺したんじゃ話にならんのだが。 切り殺して命の糧にするのが人間の本性というもの。 オイラたちが深入りしすぎている切り殺しの技は、語源・ローマ発祥でスキエンチア、今、英語でサイエンスという。 (科学と言うのは切り殺し優生学術の事。) 魔法陣建てで隠されて、米ではテクノロジーに、まるっきし別物になっちまった。 優生学は、一神教特有の(つまり選ばれし者達の)教義。 生きた宗教概念である。 かれらの教義の一部なので、じつに厄介なカルト(宗教教義)となっている。 オルガノンの法則とは無縁な、その宗教教義や概念部分を見出し、それを捨てるべきなのであるが。 じつは、もともとが共有で一体の、<一神教宗教>。 享有の感性を図式操作する目的でもたらされた、他者を示す光が図示するのだ。 光が表に出るので、ネガチブな図式権能は隠れて見えない。 彼らには、直感の形式たるオルガノン理念など持てない、その、ちゃんとした持てん理由もあるのである。 彼らはそもそも、<享有を対象化認識できない>。 割り切れんその理由は、彼らが共有カルトだからだ。 ネガチブな享有部分は見えてない。 未知のものを、未知のものとして、科学分類、理解できようがない。 うふぉ、がやれない、つまりネガチブを持ちようがない心身一体の、偽オルガノンの持主だからだ。 しかし優生学すでにもっちょる。 聖アウグスチヌスという、偉大な享有哲学者が創り上げた、万事に優生学主張しない、へりくだるカトリックですら、そうなのだ。 一意に信仰で固めてしまうカルトなので。 直感の形式たるオルガノン理念は彼らにとって、もともとのカルト教義の一部にすぎない。 つまり彼らはオルガノンの誤謬に取りつかれているわけだが。 形而上学的な先験的誤謬という殿堂から、彼らには、その誤りの殿堂から出る方法がないのだ。 時空は彼らに取って、信仰の内なる他者の光でしかない。
2024年08月13日
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昨日とは一転、朝から蝉が鳴けずに悶えている。 電磁波は、とりどり、いっぱい。 耳鳴りほど強烈にはこないが、数種類感じる。 明るくなってもセミは一切沈黙。 鳥さんの一部だけが、ダミ声になってひそひそ話してた。 声帯がヤラレてんのか、カゼ気味なのか・・・ 蝉と電磁波の関係は、電磁波いじってる連中も気にしてるらしく。 ネット検索にはまったくひっかからないようになってる。 上気道の風邪被爆と電磁波の関係みたいなもので、タブーなのだ。 それともホンマに、気にしてるの、オイラ1人?
2024年08月11日
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南海トラフキャンペーンに向けての一連の操作が終わると。 蝉は朝から鳴き放題。 ホンマ喧しい。 しかし蝉の声が聞こえると、きょうび安心できる気がする。 電離層を暖めるだけでなく、最近は地中をも暖められるようだ。 それも何日もかけて。 だから今蝉が鳴いてても安心できんのだが。 **兵器はもう日常のもの。 偽ユダヤ人からの日本への脅迫・警告はこれではなく、地球利用だった? いや、真相がワカランのだよ。 原爆投下式典に併せた人工**だろうが。 これは報道の突出からも、nhkが知っていた?。 十分準備して取り組んだが、被害が少なくて焦った?。 神奈川のやつは、別のグループの手のものだろう。 カネもらってる連中が気にしてないので? こっちが人口密集地域に近くて、より問題なのだが。 報道準備がなかったし気にもせん?。 下衆の勘繰りという。 勘繰れば、いくらでも勘繰れる。 ワカランままウダウダやるより、わかってる悪魔をどうするかだ。 オイラ一人で解っても?。 オイラにわかってきたのは**と***の関係? それもありそう、というだけの、暗~い話。 人の形してる悪魔は、現実に人殺しなので実にハッキリしてんだが。 悪魔は霊界のものじゃなくて現実の人だと叫んでんの、オイラ一人。 登録読者(ロボット利用)?2人。
2024年08月10日
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<図式=心のオルガノン的構造ならぬ、享有的時空構造> 人の心は独特の<時空でできている>。 この構造は、いわゆるユダヤ人たちが言う構造ではないのだ。 人の享有する心身一体の感性の構造。 図式なのである。 神が、個々人の心を操っている、とまで想定されている。 それは誤り。 享有者の、個人だけの心構えにすぎんのであるので、神とは無縁。 その形式が、いわゆる図式。 人のこころの構想力たる共有形式であって。 これは神や神々とは無縁な享有物。 人の側の、個々人のもの。 つまり個人享有の、内なる形式を反省したもの、にすぎんわけだ。 享有であり、同時にこれは共有でもあるものはあるはずだが。 それは理解できん。 (構想の構想など、わかるはずない。) (特に共有部分が哲学では、解りようもない。) (科学では特に、享有部分がいっさら無関係となる。) それ(図式)が、心身一体で、ファンタシアの出来事が表現すべき、オルガノンの形式構造なのだ。 (享有の形式はオルガノン。) これが、再現指示できる共有の(科分離の)時間・空間の、図式的メタバシスを見せている。 なので、「個々人の心を操って」、とまで言われるのだが。 それが天の、「メタバースを表象している」んだとよ。 ばかばかしい。 つまりこれは、構想が図式とならず優生学でズレてしまってる悪魔的思惟の証拠の方を見てるわけで。 そのことを露わに表象している、とも言える。 構想力が、人造のアルゴリズムと化して、そこに指図だけが魔法陣と化して生きているのである。 めくばせばっかり、形式化しちょる、というか・・・。 ここに、つまり図式にも、<他者の光>という優生学悪魔の介入があった、わけだろう。 というか、図式は<享有の享有たる><感性のオルガノン形式>なので。 優生学の悪魔は、その路線と違う間違いのほうしか表現できないのである。 つまり図式を、反省的享有の感性ではなく。 魔法陣として、隠して利用するのが優生学なのである。 享有者個人を破綻させるのが、その目的となる。 実は、最初から共有の悪魔人格の意図的介入がある。 光る他者、破壊者なので。 光る他者は、最初からオルガノン的には破綻しているのである。 当然、倫理観など一切持ってないからだ。 だからメタバースに表象できる。 うすっぺらく認識できるのである。 メタバースは悪魔的俯瞰図にすぎず、誤った図式認識ということが、これでわかるだろう。 図式の権能であるこれを、表象とするのは間違い。 ファンタシアは人が自分の図式をなぞることができる能力だが、表象ではない。 図式はもともとから、一体のモノとして、享有者だけが全貌を持っている。 人格の一部というより、人格そのものなのだ。 神や神々とも無縁となる。 縁取りがなくなる。 この縁取りが、心理学でよく取り上げられるが。 現代の心理学風表現でいうと、優生学の悪魔はソシオパスにあたるだろうと思う。 ソシオパスは人格形成の一部が欠けている、と考えられる。 (もちろんオクケンにすぎんが。) これまでサイコパスと言われてきたことが多かった。 心理学用語はじつに便利で、同時にアクマチックである。 だが超危険な優生学なのであることの認識なしに、これを使ってはならない。 享有に対してしか、つまり自分自身に対してしか有効でない、自己表現なのだ。 倫理と、ポジネガが逆の働きしてて。 他者に対し、ポシティブにのみ優生学使うと、悪魔になっちまう。 カテゴリーも、カテゴリー命題として見れば、当然科学用語みたいなもの。 カテゴリーは純粋悟性概念の図式なので、命題ではない。 ちゃんともとの意味を持っている。 なので、これらの用語使いでは、享有の感性的反省はネガチブとなり、無視される。 絶対に無視できんで存在する現実を司る、図式と一体のモノ、なのに。 無視される。 心理学用語が意味を持てるここでは、本当は図式がからんでいるから、意味を持てるなのだが。 対象が英知の光そのものであることで、つまりサイコパスでありソシオパスであることで。 倫理の牢獄に取っ捕まらずに、表象可能となっているように見えるのだ。 特に科学者には感性でできた図式が見えない。 だから科学者には、心理学が信奉される、ともいえる。 哲学方向には誰も見向きもしないまま、みんなで心理学知識に走る。 世は扇動され、これに突き動かされて破滅へと突き進むわけだ。 メタバースというのは、人倫に許されざる<メタバシスの現代版>のこと。 これは<(邪悪な=優生学でポシティブな)図式的俯瞰図>のことでもある。 本来俯瞰できんものを、優生学を持ってして表象、表現している、っつうこと。 見えん図式を無理に悪魔的にずらせて。 知的に<俯瞰した>と、するものだ。 瞳着で人を動かす陰謀の目的が、そこにアジェンダとして隠されてある。 その目的に併せて、この図式も人工化された。 そういった代物なのだ。 あるいはまったく見えてないのなら、今後俯瞰予定するアジェンダ的要素もある、のかも。 これらは哲学的反省と、一見類似させて表明される。 そのことが多いんだが。 図式(シェーマ)は、オルガノン同様、実際的な人工の「構想」物である。 物になりきれてないモノ、というか。 構想力(という、うふぉ物)。 しかも実態は、ある特定の目的を持たされた つまり優生学的に解決済みの<仮想時空間>でもあって。 必ず、時間をも空間をも伴う、もののはずなのだが。 カント先生は、「図式は構想力であり時間だ」としていた。 ベルグソンなどはこの時間をゾルゲ(憂慮)だとしたので感性派といえる。 しかし現実には、人には経験的にバーチャリターがあるのだ。 つまり現実に認識のよじれがあって。 そのため人には、自分の<経験は認識でき>ても。 その経験の<対象がまったく掌握できないもの>となっている。 メタバースなどといった、超越世界のモノにおいては特に、対象が遊離して現実でありえなくなる。 つまり仮想現実となる。 (うふぉ、ではなく仮置きした偽物の現実となる、わけだ。) (たいがい、サーバーとかいう騙し機関が、ここに絡むんやが。) インターネットも、一つの心身統一体の<現実>ではあるから、なんだが。 仮想の時空としか言いようがなくなる事態が、起こる。 悪魔化された<表象>と言う言葉が絡んでいるため、そうなってしまうのだ。 仮想の、共有時空のように見えるんだろうが。 それはもともと、<ウソの人工時空>だっつうこと。 うふぉ、ではなくて「ウソのファンタジー」。 現実での認識は、ねじれた一意に収束する。 それゆえに「オイラはある」、と言えるんだが。 享有現実の時空間とまったく別の、ズラされた時空間なんてホンマにはないからだ。 全部<享有という現実>の話。 つまりすべてはオイラという感性の成果にすぎんのである。 (なんか観念論者に似て来たか?な。) (形而上学やってんじゃないんで、間違ってくれんように。) (図式論をあぶり出しやってるだけ。) メタバシスに対し倫理的抵抗のない半悪魔人が多い。 インターネット上に、知的なソシオパスの空間を想定しているのだろうか。 だが。 それは本人の享有時空間がズラされてて、享有的にへんな時空に見える、というだけで。 そういう時空間が現実に作られているんでは、ないわけだ。 科分離して、空間だけ考えてみても。 現実のオルガノン空間は必ず時間を伴うし。 知的な認識空間も、必ず感性的な認識を伴う。 時空も現実も、ホンマは一体のものなのだ。 (数学的には考えんように。) 共有は、必ず同時に享有、なのである。 科分離して、殺してそれで解ってくるようなもんではない。 ネガチブな反省をも、必ず伴う。 ポシティブだけで推進できるようなもんではない。 あくまで共有も、その現実は<享有>がモト、<感覚>がモト。 それで、・・・である、とはじめて言える、からだ。 モトが共有では、中性的にして表象するしかなくなるからだ。 そして次のこれがワカラン人、多そうだが。 <オルガノン的時間は必ず、同時に空間でもあるはず>。 これは命題ではない。 現実である。 現実はヴァーチャリターなのである。 おいらが一意に、自己享有掌握できる現実。 ということだ。 (反省的感性の、ズラシではなく、よじれがある。) (よじって、一意にまとめたのである。) 何万人もの他人を平然と焼き殺した超賢い悪魔にも、これはよくわかってたようだ。 数学の上でやる物理世界であっても、それはある種の現実なのだと。 現実が絡む限り、「時空連続体」があるのみ、つうこと。 これを超越したり、俯瞰したり、ズラしたりは、全くできない。 時間・空間は、数学的に分かった理解(分数的理解?)がなされることが多いが。 これこそ心身一体の、オルガノン的命題で包摂した仮想のもんであるべきもの、っつうこと。 今の世間では科分離して、別の対象として仮に置いてしまう。 だから仮に論議できるように思ってしまうらしいが。 時空は本来、そのようなもんではない、のだ。 心身一体にある、オルガノン的現実。 だから病気の人も、どうしても出てしまう。 神の法則が支配する国においては病気なんぞありえんはずだ。 だから病気は、神の優生学が、むしろ支配してない証拠。 最近、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡が提供したデータで、一気に宇宙論の論議が進んだ。 ビッグバンという、これまでの宇宙論創成の神話が泡となって。 くだけ散って、消えた。 既存の形而上学理論を飛び越えた、古い時空の銀河が、直に観測されてしまったためだ。 (究極の果ては誤謬だと、もう何世紀も昔に終わってんだが。) 宇宙では、オイラたちは過去を公然と見られる。 天文学に影に隠れて、宇宙論は生きながらえて来た。 天文学は見えてる過去だから、ウソつけない。 過去は<あったこと>。 事実なので、遠い過去の光が間違いなく見られる。 その知的な対象に、何千年も何百億もの過去に、瞳着できる。 未来は未だ<ないこと>なので、一切見られない。 予言など、誰も出来ない。 アジェンダ企画や予測想定にしか、ならないわけだ。 (だから確定予言と言うのは、宗教が使う詐欺、なのである。) 科学も、類似のウソの<想定>を平然と、やる。 自分の首懸けて命がけでやるならまだ許せるが。 大概が外れて、想定外だなどと言って、責任も取らずに胡麻化して逃げる。 東電の役員たち、科学者のエリートたちも責任取らずに逃げた。 (1県を破滅させた東電役員の責任を問わなかったことで、これで日本は滅ぶ。) ジェイムズウエッブのおかげで、宇宙には、始まりも終わりも見えんなった?。 いや、視野の周波数が以前よりほんの少し広がっただけで、なんにもワカランのは同じ。 宇宙的規模の未知の現象が、次々と見つかっている。 ダイソン天体すら見える? オイラの兄は大昔、天文台では楕円天体(ufoのこと)が特定の人だけに見える、っつうてたが。 残念ながら、すべてsfファンタジーの世界の話に化けちまうのである。 形而上学的なものの整理すら、世間で、まともにされていない、からだ。 心理学・宇宙論・神学は野放しの野生動物みたいなもんである。 数学的正確さは求められても、享有現実の厳密さは、求められたことがない。 現象学など厳密志向の(誤った)学問志向のもんでも、中性のうふぉ表象もんしか相手にせんのだから。 科学の電磁波利用で、人の可視光線の幅が若干拡張された。 宇宙線の観測などで、仮説領域が広まったことも宇宙論の躍進には大きいのだろうが。 形而上学の(宇宙論の)枠すら、まともに構想されたためしもない。 形而上学はデカルトやハイデガー先生などが試みたが、過去に破綻しているのである。 形而上学的主題において、オルガノンは決して成功しないとわかっている。 というか、先験的誤謬があるので無理なのは、もともとわかっているのだ。 カント先生より古いデカルトですら、自分で破綻わかっていて、やってる。 (誤謬の)形而上学すら見えていない人が増えたのも、そこいらが根本原因か? 形而上学の(宇宙論の)枠すら、まともに構想されたためしもない。 つまりオルガノンが構想されてない。 いや、オルガノンは何度も出て来た。 みんな基礎認識の用語で間違ってたり、倫理観がなかったり。 (未知の)オルガノンすらモノにできてない人間に、宇宙論(形而上学)なんて、完遂できるわけないのだ。 神にでもなったつもりにならないことには。 つまり、メシアにでもならんことには、宇宙論など、できん。 そういった説明不足。 メシアのつもりの、悪魔の人は、しかし最近多すぎ。 オイラが危惧するのは、こういったファンタジーに囚われて、人々が祖先の神々との諸関係を見失ってしまう事である。 祖先の絡むそこも実は一体に時空、一体の共有・享有である。 宇宙論(形而上学)とも切り離せないのに。 むしろそこでの隠ぺい作業が、現状把握に、ヒント与えてくれる。 宇宙論は、カント先生の言う通り、形而上学なのである。 これは哲学では<ありえようがない>。 (なのに哲学辞書には形而上学=哲学と書いてある。) これは一神教徒の破綻者にのみ当てはまる。 形而上に(有利をではなく無理を)見ようとしている信仰の核だからである。 優生学ではないが、破綻を創り出そうとしている。 しかし厳密志向の対象認識論議を持とうとする。 つまり破綻したオルガノンはそれを、破綻なしに持っていて認めさせようとしているのだ。 (一神教徒の信仰においては。) 病気という例外を除いて、だが。 宇宙論は形而上に、知的に宇宙の真相を見ようとしている。 学問なんで(そんなことが可能かどうかは別にして)、宇宙望遠鏡が大いにモノを言うのである。 しかし神はいなくても、これは唯一神への<信仰>がもたらしたことなのである、とわかるはず。 つまり先験的誤謬の賜物、なのだが。 信仰なかったら、そもそも対象時空がアジェンダされない。 予定理論が企画できない。 いまは、<従事者に、その認識がないこと>が、本当の問題なのだ。 モノ言う優生学には、そこ(場所でもあり、底でもあり、時間・空間でもある)有利、つまり有理なのだが。 優生学やってる本人にはこれが全く見えてない。 理由は、哲学が死に体だからである。 殺して死霊にして表象してるからだ。 宇宙という対象は時間であり、空間でもある。 つまるところ、自分享有者である、その単純なことが見えてない。 時間空間は、宇宙をいじれる<数学の概念だ>、と思い込んじょる。 時間旅行の対象だ、と、ファンタシアでではなく、ファンタジーで思い込んでいる。 <そこ>、という場所を示す共有表示と、<底>という限界を示すカテゴリー用語が実はおなじものなのだが。 それすらも見えてないのだ。 カント先生の哲学の成果(科学技術の基礎にある形而上学の先験的誤謬)を忘れて、今日の宇宙論は、へんな方角にズラされて発展中なのである。 悪魔の優生学と化していっている、わけだ。 そのため起こっている仮想の形而上学の事柄なのだ。 形而上学は必ず、<先験的誤謬>に落ち込む、のである。 これを忘れてはならない。 ワカラン人は、カント先生の項目から見直してください。 そのカント先生当時の深遠な形而上学どころか、今はチャチなsf時空の世界なのに。 その命題に囚われるのは、当時と同じ、誤った信仰や信念。 なぜかというと。 個々人の意識の変容によって影響を受けるのは、<享有のみの時空での話>だからである。 タ・メタモルフォーゼ神話は、享有時空だけの変身物語なのである。 共有社会には、一切関係ないのに?。 共有認識操作が<目的>の、誤った論議なのに、ローマ社会で流行した。 共有社会でモノ言うのは、なんといっても<優生学>だからだ。 弱肉強食、力の強い奴が生き残るという、これは図式が示しているテーマなのである。 奴隷労働制度や資本契約を利用しての、<力関係とその形容>契約、に基づくものなのだ。 力関係とその形容は、まさに図式に示されている。 指図された、優生学テーマなのである。 しかしこれらはすべてズラされた、「人造の時空間」の<おとぎ話>だ、といっていい。 現実との直の関係が、見えてない。 時間・空間が、感性のモトが、まったく、見えちょらんのである。 <図式に操られちょる>、だけ。 (感性のネガ部分、否定部分を無視するんで、見える部分だけに一方的に操られる。) ネガチブ部分にはカテゴリーが牢獄作って待ってる。 この「人造の時空間」というもの自体、じつは図式の力の表象なのである。 人の<構想力のこと>いってんだよ。 力関係と形容で表象・再現した、ありえへん、<モノ自体>の論議なのだ。 モノ自体は、ない。 これはカント先生も、後には哲学を捨て論理学を選んだヘーゲルすらも、ちゃんと述べている。 特にカント先生は「モノ自体はない」というこれを明確に示した。 図式に囚われぬよう、図式論も、ちゃんとあえて示した。 先験的図式論として一節を設け、純粋悟性概念の図式がカテゴリーであるその理由も明らかにした。 人の享有感性のもつ、優勢的力関係のものを示したんじゃない。 図式に基づく、再現(時空意図)などはない。 ただ、人の現実があれば必ず、判断済のカテゴリーはついて回る。 人の享有感性で形容した、先験的対象物があるんや、といってもいい。 誤謬が必ず先に、見えているモトに、あらかじめあるのだ。 しかし図式は、この共有感性ではなく。 これらについては、享有のみの、<うふぉ>時空での話。 カント先生がやってたのは、ア・プリオリな先験的論議のはずだからだ。 それがズラされて共有利用されちまってるから、おかしい、のだ。 他者同士で一つの意識をつくっていく、コックリさん効果みたいなものはあるし、一神教の布教には、享有のみの、時空での話なのに。 なぜか共有に、大いなる影響がある。 もともと全部が、<誤った共有のモノ>だからだ。 日本を立て直ししたいメシアたちには、この図式を利用して、支配権を固めるという目先の目的がある。 彼らは、<オルガノン>と<倫理>と<図式の時空>を、<その根元から読み間違っている>。 もっぱらそれのみ。 図式に頼ってのみの、目的利用のようだが。 本当は、一神教の布教やって稼ぎたい下心が隠れてある。 実は、そっちだけ、だろ。 突き詰めれば、優生学的に輪廻転生したい、だけやろ。 接点、そこ(信仰)にしか、現実は、バーチャリターは、本当は、ない。 ねじれた点でしかない。 物理的モノとの関係や意識命題関係には、コックリさん効果は大いに影響がある。 スピリットや精神で、直に共有社会は絶対に変えられないが。 無意識の享有が集まると、図式共有は未来を変えるようにすら、見える。 (これをコックリさん効果とオイラ仮に呼ぶ。) つまり暗殺を逃れてのガッツポーズには、インパクトがあるのだ。 そこに繰り返しの優生学図式が形成され、それが人の心構えを突き動かすからだ。 特に、悪魔をそのままにしていては、共有社会はまったく変わらんのだが。 そして人に「予知能力」などなく、「超常能力」も一切ない、のだが。 ぜんぶもともとあって、図式共有すれば時空そのものを変えられるもんなんだ、と思い込んじょる。 変えられるのは、門の形くらいじゃろうが。 本当にあるのは、心身一体のオルガノン的認識のみだろう。 これは享有に対してのみ働いている。 形容と力関係、なのだが。 知識や英知も、この享有・共有一体の優生学的ナニカに対しては、無効とならないように思ってしまう。 そんなナニカなど、共有的には、モトモトまったく<ない>、から無効なんだが。 なのに図式共有で、魔法建てて変えられる、と考えてしまうようだ。 <ある>、といえるのはオイラの<享有>認識のみだから。 其れ退けてない、といえるのに、だ。 当然、優生学も、<享有に対してのみ有効>なのである。 何度も述べて来たこれ、大事。 優生学は、<享有に対してのみ有効な命題>。 共有社会などでは、そもそも無意味。 誤った命題となるのである。 だから勝ち負けなど、享有を除いて、ない。 オレが勝ったと思ってるだけで、負かした相手は、そう思ってない。 しかも更に、個人に見えてるのはポシティブのみの部分であり、本当はネガも含んで、そういった<隠れた図式>となっている。 つまりこれを時空ずらせて使う者こそ悪魔図式(魔法陣)なのである。 ほとんどの人が、これ間違えて認識してる。 見えん悪魔図式に、その共有扱いに、あらかじめ捕まってしまっているのだ。 他者より共有社会で優れているから、勝ち組だから生き残る、と感じてるようだが。 それ間違い。 そこには享有する悪魔図式が、誤った共有適用があるだけ。 図式は魔法陣として共有立てられる。 だが、有効なのは享有のみなので、悪魔図式が働くのは<優生学の享有範囲のみ>。 これは、享有認識で成り立ってる経験認識上に、<帰納的概念>が出来た、というにすぎんのである。 弁証法の背後には、享有の弁証論がある、にすぎん、みたいな、もんだ。 同じ問題である。 つまり主観で魔法陣に頼って成り立って、自分に対し、そう思い込んでる、だけの話。 ほんとうはすべて、<享有の時空のみで有効のはず>なのに。 共有とは、もともと一切、関係ない享有時空での思い込みばかり。 つまり優生学は、<共有学問にはなりえない俗説>なのである。 学問にもならん。 だが、悪魔のもんなんで個々人の病気の原因とはなる、わけだ。 これをきっちり認識の必要がある。 優生学は、つまり進化論などは、およそ学問ではない。 ハッキリ言う。 似非科学で、病気の原因。 ウイルスはこの世に存在しないとわかったので、破壊活動やる細菌のようなもんだ、と言っておこう。 (DNAもない。) (あるのはメッセンジャーRNAつまり、人工の企画物のみ。) (エクソソームやエンドソームはみつかるが、大概が老廃物である。) 図式はプログラムではない、という話をしたいと、最初に思った。 科分離する対象認識科学は、図式と同じものであるはずの、電磁波も光も放射線も個別に扱う。 だが。 これらはすべてオルガノン的には、おなじものである。 現代科学においても、周波数が違うだけになってきちょるが、その機能すらも同じ。 コマンド的にもステートメント的にも、パラメータも同じ。 科分離認識の都合だ。 一律に人はデジタルで利用できる、周波数の違う振動だ、なんてこと言ってんじゃない。 デジ・アナなんて都合視台の科分離認識は、そんなこと、どうでもいい。 もっと根源の話してる。 プログラムで、一意にモノを図式化して扱いたいんだろうが。 図式はもともと(神の)プログラムなんぞではない。 人の(享有・共有の)<有限な感性>にすぎない。 その証拠に、人の病気がある、のだ。 <脅迫神経症> 感性と知性の不一致が引き起こす、脅迫症という病気があるらしい。 おいら脅迫神経症というのは聞いた事あるが、今は神経を除外する?ようだ。 しかし神経も肉体も一体の人の病気なんで、分母や呼び方変えて病気の命題が変わるわけではない。 どうやら、脅迫神経症は、時間・空間的関係を読み違えてしまう病気のようだ。 感性と知性の不一致という理論が語られる。 だが、それは科分離認識であって。 実際にはコレ「図式認知上の」病だとオイラ思う。 だから時間・空間的関係を読み違えてしまう病気、といってるのだ。 これは図式が<人の(享有)側の感性もの>なんで。 神の経験の無いことも、その関係欠落の証拠。 人と言う、オルガンの出来損ないが起こす、頭脳の一部位の病気なんぞじゃ、ない。 優生学は一切関係ない。 つまり病人である享有者に、病気への責任などは、ない。 生活習慣病というのも、じつはおかしな概念だが、そんなんどうでもいい。 だからといって共有社会への責任は、まったくなくならない。 唯一神は、病人作った責任があるので、負うべきなのだ。 人の人格も存在も尊厳も、すべて関わってしまうのだが。 一部位の不具合、それは優生学的解釈だし、感性抜きで知性に拘るのもへんな優生学なのだ。 そうではなくて。 生命機構の図式認知の仕組み(そんなもんあればだが)誤認が引き起こす、図式読み取り能力が引き起こしている、<享有・共有の病気>なのだ。 一見、<優生学的判断力の誤認>みたいなもん、が働いてるのだ。 それが病気となる、ように見せている。 これももちろん、優生学的判断である。 実際には、時間と空間の関係誤認というより。 享有と共有の<領域誤認>が起きていそうではある。 つまり図式権能適用の誤り。 これが、病気を引き起こしているのだ。 (図式権能なんて、ないんだが。) おいらが見たビデオでは、紙に書かれた内容を何度確かめても確証得られない不安が押し寄せる、という切実なテーマだった。 おいらにもその傾向だけだが、若干ある、ようなので。 此処には時空が絡んでいる、とわかる。 違う例になるが。 たとえば、玄関のカギ閉めたはずなのに、閉めたのに、閉まってないのではと不安になる。 時空認識手順の、「ご破算にねがいまして」が、いくらでも起こってしまう病気のようだ。 これは処理済の図式が、そのつどご破算になってしまうということ。 それから起こるんだろう。 共有領域のカギ処理して、享有に戻ってしまっても、処理図式が残っておれば知的に再確認は安心できるのだが。 それが消えるのでは、大変だ。 図式認知ができていない、ご破算になることになる、からである。 図式認知ができないと、つまり物事の判断基準がなくなるわけで。 まともに判断ができなくなる。 (つまり判断のモトは図式といえる。) 電磁波に方向探知判断能力を奪われた、鳥とかクジラみたいなもんだ。 電磁波に操られるままに道路上に落下する鳥の群れを見たことがある。 判断のもとが図式ではなくプログラムだと思い込んでいるから、鳥やクジラに起きた病気原因がハッキリしてても特定できない。 図式が、普通は見えないものなので、これが起こす病気などは測りがたい。 科学分離思惟は特に、この<図式を一切無視する>ので、わからなくなる。 案外陰謀や隠ぺいだけの問題じゃなくて。 この<図式を一切無視する>、問題が絡んでいる厄介な問題かも。 共有社会の物理や化学や生体へは、薬物のみが関与すると思い込んじょるので、この危険さが見えるだろうか。 見えん電磁波も、見えん図式も、あるんや、とは最近少しだけわかってきてるが。 人の感性のものや、とは認識しとらん。 なので厄介なのだ。 厄災の原因となる。 科学に見えてえへん図式が、共有の厄災の原因となっている。 見ようとしても先験的に科学では見えん。 その問題に加えて。 現実に魔法陣が仕立てられ、それが人々を破滅に導いている。 次回は魔法陣について騙りたい。
2024年08月09日
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ギミックという用語が日常に入り込んできた。 騙しとわかる騙し、欺瞞的な絵図や日常の用法のことだが、同時に騙しが日常に入り込んできた雰囲気だ。 欺瞞と手品は明らかにちがう。 しかしギミックはこの欺瞞と手品を同じ時空でつかわっせようと謀るのだ。 欺瞞は共有がらみの出来事。 手品は、オイラが、享有者が騙されるだけで、共有的には騙しだとわかっている。 この手の共有の騙しには、国語にちゃんと欺瞞と言う言葉がある。 これを使うべきで、享有が見えてない騙しのギミックなど使うべきではないのだ。 これだと、享有は選ばれし者の天下で騙し放題になる。
2024年08月04日
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早朝はセミにぎやかだった。 大勢の鳴き声が遠ざかって、いじけた鳴き声が増えていく。 それがわかる。 同時に扇風機がヨタヨタしはじめるのも特徴。 昨日と違い、遥か遠くの山にしか聞こえなくなっていく。 鳥の鳴き声も皆無。 おいらの神経に触るような電磁波などは感じない。 だが、蝉黙らせる強烈な奴がでてんだろう。 今日はしかし、耳鳴りも、なぜか無い。 そう言ってるうちに、扇風機が回復し始め。 セミは逆にふっと、すべて途絶えてしまった。 何十も遠方で鳴いてたやつが消え。 澄んだシーンという音色の電磁波が復活してた。 脳髄にジンジン来る。 カネないのに電磁波計測できる機械買わにゃあ?。 しかし因果関係がどうも、わからん。 デジタル数値がモノを言う?はずなんやけど。
2024年08月03日
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<図式=心のオルガノン的構造ならぬ時空構造> 人の心は独特の<時空でできている>。 この構造は、いわゆる構造ではないのだ。 神が、個々人の心を操っている、とまで想定されているそれは。 享有者の、個人だけの心構えにすぎんのである。 つまり個人享有の内なる形式の、反省したものにすぎん。 享有であり、同時に共有でもあるものはあるはずだが。 それは理解できん。 (特に共有部分が哲学では解りようもない。) (科学は享有部分がいっさら無関係。) 心身一体で、ファンタシアの出来事が表現するオルガノンなのだ。 これが、再現指示できる共有の(科分離の)時間・空間の、図式的メタバシスを見せているので、「個々人の心を操って」、とまで言われるのだが。 それが天の、「メタバースを表象している」んだとよ。 ばかばかしい。 つまりこれは、構想が図式とならず優生学でズレてしまってる、悪魔的思惟の証拠の方を見てるわけで。 そのことを露わに表象している、とも言える。 構想力が人造のアルゴリズムと化して、そこに指図だけが魔法陣と化して生きているのである。 めくばせばっかり、形式化しちょる、というか・・・。 ここに、つまり図式にも、<他者の光>という優生学悪魔の介入があった、わけだろう。 というか、図式は享有の享有たる<感性のオルガノン>なので。 優生学の悪魔は、その路線と違う間違いのほうしか表現できない。 図式を、反省的感性ではなく魔法陣として隠して利用するのが優生学なのである。 享有者個人を破綻させるのが目的となる。 実は、最初から共有の悪魔人格の意図的介入、光る他者、破壊者なので。 光る他者は、最初からオルガノン的には破綻している。 当然、倫理観など一切持ってないからだ。 だからメタバースに表象でき、うすっぺらく認識できるのである。 メタバースは悪魔的俯瞰図にすぎず、誤った図式認識ということがわかるだろう。 これを表象するのは間違い。 図式はもともとから、一体のモノとして享有者が持っている。 人格の一部というより、人格そのものなのだ。 現代の心理学風表現でいうと、優生学の悪魔はソシオパスにあたるだろうと思う。 人格形成の一部が欠けている、と考えられる。 (オクケンにすぎんが。) これまでサイコパスと言われてきたが。 心理学用語はじつに便利で、アクマチックである。 だが超危険な優生学なのであることの認識なしに使ってはならない。 享有に対してしか、自分に対してしか有効でない表現なのだ。 倫理とポジネガが逆の働きしてて。 他者に対し、ポシティブに使うと、悪魔になる。 カテゴリーも当然科学用語みたいなものなので、これらの用語使いでは感性的反省は無視される。 絶対に無視できんで存在する、図式と一体のモノなのに。 心理学用語が意味を持てるここは、本当は図式がからんでいるからなのだが。 対象が英知の光そのものであることで、つまりサイコパスでありソシオパスであることで、倫理の牢獄に取っ捕まらずに表象可能となっているのだ。 だから科学者には心理学が信奉される。 哲学方向には誰も見向きもしないまま。 世は扇動され、これに突き動かされて破滅へと突き進むわけだ。 メタバースというのは、人倫に許されざる<メタバシスの現代版>のこと。 これは<(邪悪な=ポシティブな)図式的俯瞰図>のことでもある。 本来俯瞰できんものを、優生学を持って表象、表現している、っつうこと。 見えん図式を無理に悪魔的にずらせて、知的に<俯瞰した>とするものだ。 瞳着で人を動かす陰謀の目的が、そこに隠されてある。 その目的に併せて、この図式も人工化された。 そういった代物なのだ。 あるいは今後俯瞰予定するアジェンダ的要素もある、のかも。 これらは哲学的反省と、一見似させて表明されることが多いが。 図式(シェーマ)は、オルガノン同様、実際的人工の「構想」物である。 物になりきれてないモノというか。 構想力(という、うふぉ)。 しかも実態は、ある特定の目的を持たされた<仮想時空間>でもあって。 必ず、時間をも空間をも伴う、もののはずだ。 カント先生は、「図式は構想力であり時間だ」としていた。 しかし現実には、人には経験的にバーチャリターがある。 つまり現実に認識のよじれはあるが。 そのため人には、自分の経験は認識できても。 その経験の対象がまったく掌握できないものとなって。 メタバースなどといった、超越世界のモノにおいては特に、現実でありえなくなる。 つまり仮想現実となる。 (うふぉ、ではなく仮置きした偽物の現実となる。) (たいがい、サーバーとかいう騙し機関が絡むんやが。) インターネットも、一つの心身統一体の<現実>ではあるから、だが。 仮想の時空、としか言いようがなくなる事態が起こる。 悪魔化された表象が絡んでいるため、そうなってしまうのだ。 仮想の、共有時空のように見えるんだろうが。 それはもともと、<ウソの人工時空>だっつうこと。 うふぉ、ではなくて「ウソのファンタジー」。 現実での認識は、ねじれた一意に収束するが。 それゆえに「オイラはある」、と言えるんだが。 享有現実の時空間とまったく別の、ズラされた時空間なんて、ホンマは、ないからだ。 全部<享有という現実>。 つまりオイラという感性の成果にすぎん。 (なんか観念論者に似て来たか?な。) (形而上学やってんじゃないんで、間違わんように。) メタバシスに倫理的抵抗のない半悪魔人が。 インターネット上に、知的なソシオパスの空間を想定しているのだろう。 だが。 それは本人の享有時空間がズラされてて、享有的にへんな時空に見える、というだけで。 そういう時空間が作られているんでは、ないわけだ。 科分離して空間だけ考えてみても。 現実のオルガノン空間は必ず時間を伴うし。 知的な認識は、必ず感性的な認識を伴う。 一体のものなのだ。 共有は、必ず同時に享有、なのである。 科分離して解ってくるようなもんではない。 ネガチブな反省をも、必ず伴う。 しかしあくまで、共有もその現実は<享有>がモト、<感覚>がモト。 それで、・・・である、とはじめて言えるからだ。 共有では、中性的にして表象するしかなくなるからだ。 そしてこれがワカラン人、多そうだが。 <時間は必ず同時に空間でもあるはず>。 これは命題ではなく、現実である、ヴァーチャリターなのである。 おいらが一意に自己享有掌握できる。 現実、ということだ。 何万人もの他人を平然と焼き殺した超賢い悪魔にも、これはよくわかってたようだ。 数学の上でやる物理世界であっても、それはある種の現実。 現実が絡む限り「時空連続体」があるのみ、つうこと。 これを超越したり、俯瞰したり、ズラしたりはできない。 時間・空間は、数学的に分かった理解がなされることが多いが。 これこそ心身一体のオルガノン的命題で、仮想のもんだ、っつうこと。 科分離して、別の対象に仮に置いて、仮に論議できるように思ってしまうらしいが、時空は本来、そのようなもんではないのだ。 だから病気の人も、どうしても出てしまう。 最近、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡が提供したデータで、一気に宇宙論の論議が進んだ。 ビッグバンという、これまでの宇宙論創成の神話が、泡となってくだけて消えた。 既存の理論を飛び越えた、古い時空の銀河が直に観測されてしまったためだ。 宇宙では、オイラたちは過去を公然と見られるのだからウソつけない。 過去は<あったこと>なので、間違いなく見られる。 その知的な対象に瞳着できる。 未来は<ないこと>なので、一切見られない。 アジェンダ企画や予測にしか、ならない。 (だから確定予言と言うのは、宗教が使う詐欺なのである。) 科学もウソの<想定>を平然とやる。 大概が外れて、想定外だなどと言って責任も取らずに胡麻化す。 (1県を破滅させた東電の責任を問わなかったことで、日本は滅ぶ。) 宇宙には、始まりも終わりも見えんなった?。 いや、視野の周波数が以前よりほんの少し広がっただけで、なんにもワカランのは同じ。 宇宙的規模の未知の現象が、次々と見つかっている。 ダイソン天体すら見える? オイラの兄は大昔、天文台では楕円天体(ufoのこと)が特定の人だけに見える、っつうてたが。 残念ながら、すべてsfファンタジーの世界の話になっちまうのである。 形而上学的な整理すら、世間で、まともにされていない、からだ。 数学的正確さは求められても、享有現実の厳密さは、求められたことがない。 現象学など厳密志向の(誤った)学問志向のもんでも、中性の(うふぉ)もんしか相手にせんのだから。 科学の電磁波利用で、人の可視光線の幅が拡張された。 宇宙線の観測などで仮説領域が広まったことも宇宙論の躍進には大きいのだろうが。 形而上学の(宇宙論の)枠すら、まともに構想されたためしもない、っつうこと。 デカルトやハイデガー先生などが試みたが、破綻しているのである。 形而上学的主題において、オルガノンは成功しない。 というか、先験的誤謬があるので無理なのは、もともとわかってるのだ。 (誤謬の)形而上学すら見えていない人が増えたのも、そこいらが根本原因? (未知の)オルガノンすらモノにできてない人間に、宇宙論(形而上学)なんて、完遂できるわけないのだ。 神にでもなったつもりにならないことには。 つまり、メシアにでもならんことには、宇宙論など、できん。 そのつもりの、悪魔の人、しかし最近多すぎ。 オイラが危惧するのは、こういったファンタジーに囚われて、人々が祖先の神々との諸関係を見失ってしまう事である。 そこも実は一体に時空、一体の共有・享有である。 宇宙論(形而上学)とも切り離せないのに。 むしろそこでの隠ぺい作業が、現状把握にヒント与えてくれる。 宇宙論は、カント先生の言う通り形而上学である。 これは哲学ではありえない。 形而上に(有利をではなく無理を)見ようとしている信仰である。 優生学ではないが破綻を創り出そうとしている。 しかし厳密志向の対象認識論議を、つまり破綻したオルガノンはそれを、破綻なしに持っているのだ。 病気の例外を除いて。 宇宙論は形而上に、知的に宇宙の真相を見ようとしている学問なんで(そんなことが可能かどうかは別にして)、宇宙望遠鏡が大いにモノを言うのである。 しかし神はいなくても、これは<唯一神への信仰>がもたらしたことなのである、とわかるはず。 つまり先験的誤謬の賜物、なのだが。 信仰なかったら、対象がアジェンダされない。 予定理論が企画できない。 いまは、<従事者にその認識がないこと>が本当の問題なのだ。 モノ言う優生学には、そこ(場所でもあり、底でもあり、時間・空間でもある)有利、つまり有理なのだが。 これが全く見えてない。 理由は、哲学が死に体だからである。 宇宙という対象は時間であり、空間でもある、つまるところ自分である、その単純なことが見えてない。 時間空間は、宇宙をいじれる数学の概念だ、と思い込んじょる。 時間旅行の対象だと思い込んでいる。 <そこ>、という場所を示す共有表示と、<底>という限界を示すカテゴリー用語が実はおなじものなのだが、それすらも見えてないのだ。 カント先生の哲学の成果(科学技術の基礎にある形而上学の先験的誤謬)を忘れて、今日の宇宙論は、へんな方角にズラされて発展中なのである。 悪魔の優生学と化していっている。 そのため起こっている事柄なのだ。 形而上学は必ず、<先験的誤謬>に落ち込むのである。 ワカラン人は、カント先生の項目から見直してください。 そのカント先生当時の深遠な形而上学どころか、今はチャチなsf時空の世界なのに。 その命題に囚われるのは、当時と同じ、誤った信仰や信念。 なぜかというと。 個々人の意識の変容によって影響を受けるのは、<享有のみの時空での話>だからである。 タ・メタモルフォーゼ神話は、享有時空だけの変身物語なのである。 共有社会には、一切関係ないのに?。 共有認識操作が<目的>の、誤った論議なのに?。 共有社会でモノ言うのは、なんといっても<優生学>だからだ。 弱肉強食、力の強い奴が生き残るという、これは図式テーマである。 奴隷労働制度や資本契約を利用しての、<力関係とその形容>契約なのだ。 力関係とその形容は、図式に示されている。 指図された、優生学テーマなのである。 しかしこれらはすべて、「人造の時空間」の<おとぎ話>だ、といっていい。 現実との、直の関係が見えてない。 時間・空間が、感性のモトがまったく、見えちょらんのである。 <図式に操られちょる>、だけ。 (感性のネガ部分無視するんで、一方的に操られる。) この「人造の時空間」というもの、じつは図式の力の表象なのである。 人の構想力のこといってんだ。 力関係と形容で表象・再現した、ありえへん、<モノ自体>の論議なのだ。 モノ自体は、ない。 これはカント先生も、ヘーゲルもちゃんと述べている。 特にカント先生は「モノ自体はない」というこれを明確に示し、図式に囚われぬよう、図式論もちゃんとあえて示した。 人の享有感性のもつ、優勢的力関係のもの。 図式に基づく、再現(時空意図)。 人の享有感性で形容した、先験的対象物があるんや、といってもいい。 誤謬が必ず先に、見えているモトに、あるのだ。 しかし図式は共有感性ではなく。 これらについては、享有のみの<うふぉ>時空での話。 カント先生がやってたのは、ア・プリオリな先験的論議のはず。 それがズラされて共有利用されちまってるから、おかしいのだ。 他者同士で一つの意識をつくっていく、コックリさん効果みたいなものはあるし、一神教の布教には、享有のみの時空での話なのに。 なぜか共有に、大いなる影響がある。 もともと全部が、<誤った共有のモノ>だからだ。 日本を立て直ししたいメシアたちには、この図式を利用して、支配権を固めるという目先の目的がある。 彼らは、オルガノンと倫理と図式の時空を読み間違っている。 もっぱらそれのみ、図式に頼ってのみの目的利用のようだが。 本当は、一神教の布教やって稼ぎたい下心が隠れてある。 実は、そっちだけだろ。 突き詰めれば輪廻転生したいだけやろ。 接点、そこ(信仰)にしか、現実は、バーチャリターは、本当はない。 物理的モノとの関係や意識命題関係には、コックリさん効果は大いに影響がある。 スピリットや精神で、直に共有社会は絶対に変えられないが。 無意識の享有が集まると、図式共有は未来を変えるようにすら見える。 (これをコックリさん効果と呼ぶ。) つまり暗殺を逃れてのガッツポーズにはインパクトがあるのだ。 そこに繰り返しの優生学図式が形成され、それが人の心構えを動かすからだ。 特に悪魔をそのままにしていては、共有社会は変わらんのだが。 そして人に「予知能力」などなく、「超常能力」も一切ないのだが。 ぜんぶもともとあって、図式共有で時空そのものを変えられるもんなんだ、と思い込んじょる。 変えられるのは、門の形くらいじゃろうが。 本当にあるのは、心身一体のオルガノン的認識のみだろう。 これは享有に対してのみ働く、形容と力関係なのだが。 知識や英知も、この享有・共有一体の優生学的ナニカに対しては、無効となる。 そんなナニカなど、共有的にはモトモトまったく<ない>、からだ。 なのに図式共有で、変えられると考えてしまうようだ。 <ある>、といえるのはオイラの<享有>認識のみだから。 其れ退けてない、といえるのに、だ。 当然、優生学も、享有に対してのみ有効なのである。 何度も述べて来たこれ、大事。 優生学は、<享有に対してのみ有効な命題>。 共有社会では無意味。 だから勝ち負けなど、享有を除いて、ない。 しかも更に、個人に見えてるのはポシティブのみの部分であり、本当はネガも含んで、そういった隠れた図式となっている。 つまりこれこそ悪魔図式(魔法陣)なのである。 ほとんどの人が、これ間違えて認識してる。 見えん悪魔図式に、その共有扱いに、捕まっているのだ。 他者より共有社会で優れているから、勝ち組だから生き残る、と感じてるようだが。 それ間違い。 享有する悪魔図式があるだけ。 図式は魔法陣として共有立てられるが、有効なのは享有のみなので、悪魔図式が働くのは優生学の享有範囲のみ。 これは、享有認識で成り立ってる経験認識上に、<帰納的概念>が出来たにすぎんのである。 弁証法の背後には、享有の弁証論があるにすぎん、みたいな、もんだ。 つまり主観で魔法陣に頼って成り立って、自分に対し、そう思い込んでる、だけの話。 ほんとうはすべて、<享有の時空のみで有効のはず>なのに。 共有は、もともと一切、関係ない享有時空での思い込みばかり。 つまり優生学は、<共有学問にはなりえない俗説>なのである。 学問にもならんが、悪魔のもんなんで個々人の病気の原因とはなる、わけだ。 これをきっちり認識の必要がある。 優生学は、つまり進化論などは、学問ではない。 ハッキリ言う。 似非科学で病気の原因。 ウイルスはこの世に存在しないとわかったので、破壊活動やる細菌のようなもんだと言っておこう。 図式はプログラムではない、という話をしたいと、最初に思った。 科分離する対象認識科学は、図式と同じものであるはずの電磁波も光も放射線も個別に扱うが。 これらはすべてオルガノン的には、おなじものである。 現代科学においても、周波数が違うだけになってきちょるが、その機能も同じ。 コマンド的にもステートメント的にも、パラメータも同じ。 一律にデジタルで利用できる、周波数の違う振動だ、なんてこと言ってんじゃない。 デジ・アナなんて都合視台の科分離認識は、そんなこと、どうでもいい。 もっと根源の話してる。 プログラムで、一意にモノを図式化して扱いたいんだろうが。 図式はもともと(神の)プログラムなんぞではない。 人の(享有・共有の)有限な感性にすぎない。 その証拠に、人の病気がある、のだ。 <脅迫神経症> 感性と知性の不一致が引き起こす、脅迫症という病気があるらしい。 おいら脅迫神経症というのは聞いた事あるが、今は神経を除外する?ようだ。 しかし神経も肉体も一体の人の病気なんで、分母や呼び方変えて病気の命題が変わるわけではない。 どうやら、脅迫神経症は、時間・空間的関係を読み違えてしまう病気のようだ。 感性と知性の不一致という理論が語られる。 だが、それは科分離認識であって。 実際にはコレ「図式認知上の病」だとオイラ思う。 だから時間・空間的関係を読み違えてしまう病気、といってるのだ。 これは図式が<人の側の感性もの>なんで。 神の経験の無いことも、その関係の証拠。 人と言う、オルガンの出来損ないが起こす頭脳の一部位の病気なんぞじゃ、ない。 優生学は関係ない。 つまり病人享有者に、病気への責任などはない。 だからといって共有社会への責任は、まったくなくならない。 神は病人作った責任があるので負うべきだ。 人の人格も存在も尊厳も、すべて関わってしまうのだが。 一部位の不具合それは優生学的解釈だし、感性抜きで知性に拘るのもへんな優生学なのだ。 そうではなくて。 生命機構の図式認知の仕組み(そんなもんあればだが)誤認が引き起こす、図式読み取り能力が引き起こしている、享有・共有の病気なのだ。 一見、<優生学的判断力の誤認>みたいなもん、が働いてるのだ。 それが病気となる、ように見せている。 これも優生学的判断である。 実際には、時間と空間の関係誤認というより、享有と共有の<領域誤認>が起きていそうである。 つまり図式権能適用の誤りが、病気を引き起こしているのだ。 (図式権能なんて、ないが。) おいらが見たビデオでは、紙に書かれた内容を何度確かめても確証得られない不安が押し寄せる、という切実なテーマだった。 おいらにもその傾向だけだが、若干あるようなので。 時空が絡んでいる、とわかる。 違う例になるが。 たとえば、玄関のカギ閉めたはずなのに、閉めたのに、閉まってないのではと不安になる。 時空認識手順の「ご破算にねがいまして」が、いくらでも起こってしまうようだ。 これは処理済の図式が、そのつどご破算になってしまうから起こるんだろう。 共有領域のカギ処理して、享有に戻ってしまっても、処理図式が残っておれば知的に再確認安心できるのだが。 それが消えるのでは、大変だ。 図式認知ができていない、ご破算になることになるからである。 図式認知ができないと、物事の判断基準がなくなるわけで。 まともに判断ができなくなる。 (つまり判断のモトは図式。) 電磁波に方向探知判断能力を奪われた、鳥とかクジラみたいなもんだ。 電磁波に操られるままに道路上に落下する鳥の群れを見たことがある。 図式が普通は見えないものなので、これが起こす病気などは測りがたい。 科学分離思惟は特に、この図式を一切無視するのでわからなくなる。 共有社会の物理や化学や生体へは、薬物のみが関与すると思い込んじょるので、この危険さが見えるだろうか。 見えん電磁波も、見えん図式も、あるんや、とは最近少しだけわかってきてるが。 人の感性のものやとは認識しとらんので厄介なのだ。 厄災の原因となる。 科学に見えん図式が、共有の厄災の原因となっている。 現実に魔法陣が仕立てられ、それが人々を破滅に導いている。 次回は魔法陣について騙りたい。
2024年07月31日
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今日はセミの鳴き声の暴風で。 電磁波の音がまったく聞き取れない。 聞こえんのがあたりまえらしいが。 全くないわけではないと思うんだが。 ニイニイゼミのようなやつも油セミのようなやつも、遠くの蝉が勝っている。 なので、わからん。 おいらの体調はセミ同様、非常にいい。 いつも早朝のひと時だけ、電磁波は止まっている。 その間だけセミが遠慮がちに鳴いてる。 今日はセミ側に全く遠慮というものがない。 特にクマゼミが増えたから?。 空模様も、いつもの夏だ。 なぜか電磁波が止まると扇風機がよく回るんだが。 これも錯覚か。 言ってるハナからセミの様相が変わり、 どいつもこいつも一斉に、ちっち、ちっち言い出した。 途中でジジジとやめてしまうやつもいる。 空模様はまったく変わってない。 風もない。 また鳴きだして、扇風機もぶん回り始めた。 その後静寂が来たが、扇風機はぶんまわっている。
2024年07月28日
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<優生学、再び> 優生学には、ローマ人の古典ギリシャという堅固な基礎がある。 享有に思い込ませる共有詐欺だが、根の浅い簡単なものではない。 悪魔的な一神教の宗教信仰という、これがモトになってて。 特に根が、堅固な宗教教義になっている。 その宗教信仰の一部をなす基礎教義が、文明へのアジェンダなんである。 <選ばれし者> <光の子> <輪廻転生>という、キリスト教特有の思想教義が根っこにあるのだ。 仏教では釈尊も入滅を言うが、輪廻転生は否定しても主張しません。 これ言うのはキリスト教の特徴。 なので、一神教徒でない日本人などは、こないなもん、持ちようもない。 オルガノンを生んだヘラス人も同様だった。 死んだ後の事なんぞは気にせんのである。 なんにもないんやから。 あるのは生きている証拠。 つまり生きている「享有の信仰」が、人の個人思惟のモトにあるはずだが。 特権者として選ばれちまうと、まず倫理が消える。 自由の意味が変わり、共有一辺倒に、立っている時空が人工化するのである。 全てが<自分に由来>ではなく、<自在に表象可能>へと変わるので。 中性風になる。 ファンタジックな、教養的な教義にもなる。 倫理同様、優生学なんてのは、享有する自分に対しての話。 享有理念の範囲でしか有効でない代物という問題もあるのに。 一神教の神は、そもそも享有の信仰に応えるための神であるのに。 実際には、共有時空に対してしか、対応してこなかったという。 へんな神だ。 というか、宗教という代物がもともと、そういったもの。 てっとり早く言うなら、公共利用の<優生学詐欺教義>のことなのだ。 だから神道や仏教は、公共のものであっても詐欺宗教となることは避けてきた。 この認識がない人、最近増えた。 優生学は一神教徒に選ばれたのだが、騙す目的が隠れちょる。 優生学は、その享有信仰に対して図式的に働く。 感覚の繋がりで出来ているので、わからんままに感性を導くのである。 倫理などネガチブな規制とは根本から違う、独特のポシティブなアプローチをしてくる。 まず享有の信仰に、共有の免罪符を与えてくれ、応えるのだ。 カトリックが資金集めに使ったものだが、他人として見ているのは氷山の一角。 免罪符は優生学の基本なので奥が深い。 与えられた神からの特権で、時空ズラされて、ヒエラルキー的共有の時空、となって。 自分もすっぽりそこに納まっちまう代物なのだ。 優生学というのは、そういう<人工のウーシア構造図式な>、わけだ。 この共有時空はもちろん、宗教特有の目的をもつ。 但し明晰判明とはなりえず、必ずアジェンダとなるのだ。 つまり、メッセージ付きの人工ものなので。 今日のイカガワシイ、メッセンジャーRNA思想とまったく同じものだ、ということがすぐわかるはず。 信仰のそれも、人工物で、いかがわしいんだが、組織に属してしまえば居心地よさに変わる。 世の人の健康や免疫力も、mRNAでもって消えた。 ローマ人がそれまで持っていた、先祖との共有維持目的の多神教信仰、なんぞとも無縁とされて。 紀元前後あたりに侵入した、曰く不可解な一神教の信仰となって。 帝国ローマはやがて強大化して、死んだ。 アリストテレスという優生学知識体系の基礎を打ち立てたこれが。結果的にローマ人という種族をボロボロに侵食して、辺境へ追いやっていったのだ。 そして選ばれし王族の血筋だけ、はいろんな周辺の種族の血筋に輪廻転生して寄生して生き延びていく。 宇宙人の介入、侵略みたいな出来事が起こった、大事件。 ホンマに宇宙人介入してるんや? 宇宙人なんてありえまへんて。 億見だが、企画売るためのウソ八百やと思う。 キリスト教徒、特に新興宗教は、宇宙人介入説を表に出すことが多い。 もともとその教義の一部にあったようだが。 それで、図式操る詐欺師のウソだと、わかる。 宇宙人いたら、星の距離を超えて来たものだ。、 人間みたいな未開種族に介入して、何のメリットがありまんねん。 アホな種族に君臨しても、優生学優位なんぞ、一切得られん。 介入無意味ないというのが、宇宙人介入のない証拠じゃろ。 優位がなきゃ、教義に採りこむ意味もないわけで。 さわらぬ神に祟りなし、お客様は神様、の、オイラたちには、こんな無意味は理解できん。 昨今、レプティリアンに代わって登場し。 スピリチュアル業界で日本でも人気なのが、プレアデス人とかオリオン星人あたりなんだが。 これらは、地上の新興宗教団体のキャンペーンモノ。 正体もバレてる。 一神教の教義の特徴が際立ってて、言い回しも同じなので、それがよくわかる。 名前からして、宇宙とは無関係なのだ。 星団自体が、宇宙にはありえんものだからである。 (地上から見た、星の輝きの優生学神話や星座物語。) (まさに優生学の団体様ご一行なのである) しかしイタリアの絵画を見てても、ホンマに、宇宙人の介入があったようにすら思えることが多いじゃんか。 光る他者の空飛ぶ円盤まで、ちゃんと、有名な絵画に描かれちょるもんで。 その、後先騙される光の描写に、どうしても騙される。 まあこの宇宙人の介入つうこと自体が、もともとキリスト教の主要アジェンダ・テーマにある。 宇宙から最後の審判にやってくる。 それをネタに、聖書が読める階層の賢い享有認識層へ浸透し、共有的に支配してきた宗教教義。 モトネタはマニ教で。 そのさらに元ネタはゾロアスター教やミトラ教、つうのもわかっちょる。 ヘラス人なんか、この特定宗教の言う事聞かんので。 (彼らが言う)異世界の力の介入によって、種族ごと奴隷に落とされて、この世から消されたのである?。 ヘラス社会や文化はほんま、陰謀と奴隷制度と海賊たちの力に屈して、消えた。 さらに過去の歴史記述をも捻じ曲げられ、時空までずらせて聖書史観が作られ。 ファントム時間まで創出された。 一神教の信仰力は、時空を捻じ曲げるほど、じつに強力なのである。 ルネッサンス期直前の、悪魔の光が持つ力はホンマに若干異常だったとは思う。 そこは説明つかんけど。 オイラは、優生学に宇宙人無関係と思う説なんで。 人の種族的変身物語にも、宇宙人なんて関わってないと思う。 むしろ自分でやったこととちゃうか? ローマ人王族が自分たちの力で、自分たちの滅亡への基礎を築いたみたいに。 古代のオーパーツや各地に残る遺跡などから、 古代の核戦争あったことなどは、見直すべき時代が来てると思う。 虚偽の優生学アリストテレスからたった2千年で、悪魔は原爆を持った。 人の関わるの電磁波の力は、今や地球を庇護するバリヤーにまで手を付け始めている。 それらぜんぶ、アリストテレスの名を、基礎に借りただけだ。 ぜんぶ古典ギリシャの、優生学の力なのだ。 享有者を共有に取り込んでいく、<力、と、形>とでもいうべきもの。 神の力、神の形。 それはローマ帝国を乗っ取り、滅ぼし。 さらに西洋中に広がった。 特にキリスト教は、海賊を中心に広がり拡散したように思える。 聖書を読める知的な海賊。 マンガの話じゃない、こわ~。 オルガノンを、哲学ではなくオルガン製造機械技術の知識だと見たい、一神教に団結した、共有認識の科学のもの。 それらが、宗教信仰と一体になっているのだ。 科学技術の力と、キリスト教は、不可分かつ一体のモノである。 (コレ言ってるのはオイラだけ?みんな見えとらん?) 科学的合理主義思想に代表される、<文明>の持つアジェンダ力だと思う。 見えてない図式の力が、文を明るく照らす力が、見えとらん背後にあるのだ。 別名を、未来志向的な<優生学的自己保全思想>ともいえる代物がある。 まあこれって、<持続的に永続発展可能な予定企画>つうことですなあ。 アジェンダのこと。 そないなもん、ありえてはならへんもんやけど、実際に力が働いている。 図式の誘導力と指図があるのだ。 人工の時空が、表象企画されて、ある、というべきか。 図式だけ、見えてないのである。 瞳着的認識を最重要視し、そのありえぬ今を未来投機していく。 これは<予防防疫思想>でもある。 知性先導で勝ち組を増やしていく、ネズミ講でもあるのだ。 これらが、詐欺で滅んだこのローマ文明から輪廻転生して、今日の世間様に寄生し、居座っているものだ。 それらは魔法陣様の、見えない図式(シェーマ)を広く形成している。 見えんままに、悪魔に利用させている。 つまりこれらぜんぶ、宗教のやる魔術なのだが、金銭優生学が深く絡んでいる。 この力と形容(その目的)に、西洋世界は征服されていった。 (図式の目的は見えちょらんのである。) つまりこれは古代ギリシャ古典に基づく。 アリストテレス全集の持つ文明の力であり、科学技術という名の、優生学アジェンダなのだ。 これに日本もすっかりヤラレた。 優生学は、科学技術というキリスト教世界の<時空共有信仰>なのだが。 これに寄生され、すでに半死半生。 (蓄財は世界一らしいが。) カトリックは享有信仰を打ち出すが、優生学という騙しがあることで、享有自体がズラされてしまう。 これが見えてええへんと図式は見えんので、しつこいと思うほど繰り返すが。 享有者を篭絡させて、教会組織において、選び、共有化することと。 科分離認識のアジェンダ技術によって優生学を個人享有から共有への道筋を作らせ。 さらに図式への信仰心構えを作らせる、これが。 同じ優生学。 この一連の操作が、つまり図式の作用なんだが。 これが文明と言う名の、信仰教義でもあるのだ。 科学技術 = 一神教信仰 = 優生学 = 文明アジェンダ、という、一連の誘導図式がここにある。 それがわかるだろうか。 ・・・・と続いていくうちに、享有の感性は、もともとの感性ですらなくなっている。 遺伝子は変わってゆく。 一神教の宗教信仰は、この世に悪魔を解き放った。 人間をも犠牲にする、全焼の小羊を増やした。 それのみでなく。 勝ち組だのなんだのと、ウソ言って誘って。 下賤に見下した芸者も平然と殺した。 人も生贄に加えた。 優生学は信仰となり、科学となり、技術となり、アジェンダとなって。 その時空も確保され。 今や支配階級は小羊集団そのものをも、絶滅へと追いやっていく。 選ばれし特権者たちは、アドレナクロムに頼って自分たちの肉体の長生を確保しようとしたようだが真相は闇のまま。 ピザゲートでも失敗したがほとんど無傷で生き延び。 さらには魂の輪廻転生へと手を伸ばす、かのようだ。 小羊は騙されて従順に、豚のように殺されていった。 だが賢い牛は屠殺場への道すがら暴れる。 市場の列柱の雑踏に隠れて、抵抗を説いた先達者たちも確かに、大勢いたのだ。 優生学への抵抗なんで、とうてい哲学とは言えん目的ものだが。 れっきとした抵抗運動。 ローマ時代におけるストア派の興隆は、この<抵抗運動>だと思う。 優生学に対する心構えの態度は、常に二択である。 受け入れ、奴隷支配されるか、逃げて抵抗するか、だ。 いずれにせよ死ぬんだが。 死んでも、選ばれた優生学信奉者は、輪廻転生させてくれるんだそうだ。 テクネーは個々の享有者のもの、なんで。 へんな寄生虫を生き延びさせる目的の優生学であっても、個々人が自分のこころの信仰に選べる。 ここがミソである。 <信仰の核>は、宿主となる<享有者>の信仰。 操作してる寄生虫のほうじゃない。 そんなsfあったな。 たしかゴアウルドとかいってた学芸会。 優生学に対する心構え(テクネー)の態度、これは。 「悪魔を選ぶか、神を選ぶか」の二択じゃないので、決して間違わんように。 神を選べば、悪魔は必ずついてくるので、これだと一択になる。 悪魔を選んでも、神が必ず付いてくる。 また自分の心を騙すか、相手を騙すか、でもないので。 享有に共有の騙しが入ると、これは疑心暗鬼が起こる。 鬼になる。 疑心暗鬼にされんよう要注意。 悪魔は必ず、個々の人。 その「全体」、なのであって、この世の人。 あの世の霊体ではない。 一部の人格が憑依してやっても、その「個体人全体」。 人は心身一体の存在者だからだ。 肉体的存在者であって、それが精神持ってるだけ。 精神が宿ってんじゃない。 瞳着して一体であって、引き剥がせば死んじまう。 だから悪魔も当然、肉体や精神同様に、「死すべきもの」、なのである。 死刑執行すれば消えちまう。 中性の個人情報に豹変しての輪廻転生、など、しない。 ところで最近の科学は、悪魔的思考言語をおつむに書き込める技術までが出来てるらしい。 読み取りの方も、ほぼ達成しかけているという。 だが、勘違いせんように。 人は心身一体のオルガノン的存在なのである。 身体共有する人格へは、個々の享有者が全責任を負うしかない。 図式魔法陣の成果と、悪魔的人格を混同してはいけない。 だから、「心神喪失で無罪」、という、今の法制度はありえへんよ。 殺しても無罪放免、最近コレ多いが。 人格の一部が殺しました、おいら関係ない?。 乗ってたサイボーグの車がやったこと、おいら関係ない?。 これでは輪廻転生認めてる、優生学認めてることになる。 おいら、病気での心身喪失者の犯罪も、当然有罪だ、と言ってるわけだ。 そもそも犯罪者て、みんな病気なのだから。 一神教の神は、悪魔の導入者のほうなので、人とは事情が違う?。 こっちは不死になる?。 実は神も、人と同様に死ぬのだ。 信仰者達全員が死に絶えたら、共有の神々も、あっさり消える。 ハッチのテリピヌ神話がそれを、教えてくれた。 神は英知そのもの。 なので、構想力の持つ瞳着的な力関係や形容と、不可分では<存在しえない>。 この事実を、古典ギリシャ神学では、「神は超越者である」、といって中性に仕立てて胡麻化してきたのだ。 (時空)超越しちまうと何にもなくなるわけで、あの世のファンタジイにしかならん。 ならんどころか。 不死の神っつうのは、憑依転生する、寄生虫みたいな化け物だ、ということになる。 意思決定機構に寄生する、輪廻転生してあたかも共有種族のように生きる寄生虫誕生させたというわけだ。 一神教の神は、それ固有の時空を持たない図式構想にすぎない。 目的もあいまいで、未来志向のアジェンダ。 生命科学の言うDNAみたいなもんだと考えていい。 構想は示してくれるが、一神教の神は種族ごと淘汰すること、しかやってこなかった。 今は悪魔祓い主の顔して、悪魔作って回ってる。 これが解って来たのは。 悪魔の跳梁や、テクノロジー利用上の横暴というか。 倫理やカテゴリー無視する、彼らの組織の酷い振舞の現状などから、だが。 わけても優生学によるキャンペーンの数々からだ。 そもそも猛烈な優生学キャンペーンのもとに居る現代のオイラたちに、<倫理>も<カテゴリー>も一切見えなくなっている。 倫理は享有者の牢獄にしか見えず。 カテゴリーは命題の規則にしか見えてない。 (じつは純粋悟性概念の図式。) なので。 昨今のテクノロジーという新事態にも、発明家以外誰も対処できずにいる。 「テクノロジーというこれは科学と同じだ」なんて、哲学博士が言い出す始末で。 これは、実に情けない事態なんである。 優生学を受け入れた連中には、自分の眼先の享有目的しか見ちょらんのである。 それが自然で、じつは、見え見え(自然である)。 悪魔連中には、科学もテクノロジーも、同じものの扱いとなる、というわけだ。 常に優生学で判定してるので、同列になる、らしい。 科学は、理論が先行して再現を伴う。 なので、利便性高いと思うかもしれんが、理論が邪魔して目的物ができんこともある。 テクノロジーは、その出ー来させる<心構え>から逆利用するので、発明が自由に可能なのである。 失敗すりゃ再挑戦できる。 これはエジソンが言ってたな。 永遠に挑戦可能。 テクノロジーは、これも過去に書いた記憶があるが、テクネー・ロジック。 やはり優生学の別門である。 形而上学的な問い立てから始める科学技術的的思惟とは、まったくの別門。 科学とは異なる手法の、図式的<発明品>なのだ。 科学が追及する「再現」品ですらない。 「発明」をやるそれが中心、それが証拠。 悪魔チックな図式を使う虚無主義の、「論理絶対主義」ポイエシス利用の、ポイと絵の仕組みを出ー来させる、新技術なのである。 テクネー利用なのに、優生学の奴隷利用なので、技術となるわけだ。 心を逆に支配し、構えさせる。 メタバシスした図式に従って、目的物を「出ー来」させる。 優生学目的優先なので。 技術であるのは多分変わらんのだが、時空の実際にはテクネーが使われる。 それも古典ギリシャの技術ではなく、ヘラスのテクネーが直に。 心構えとされて優生学に奴隷化されている、というべきか。 設計図は、これも表象され、描かれるのではなく。 心に、奴隷的に構えさせている。 ここでは図式が、直に操作されているのだ。 原料はそれだけ、なのだ。 表象はない、つまり設計図などない場合すらある。 つまり、絶対に技術やそのインスタンスコピーだけではないのである。 むしろ正しいテクネー解釈がモトになってるかのように見える。 なのに、<技術の奴隷>なのである。 優生学で立つからだ。 材料との道具的関係を、瞳着的に多用するから、である。 製造過程に深く関わっている感性にまったく気付かぬまま、知性だけに頼る、というべきか。 瞳着によって、道具も目的物も、優劣無くなる。 だから科学的思惟でもなく。 むしろ絵画造形的だ、とは言えるだろう。 享有認識ではなく、すでに時空がズレている。 心構えができて、それに指示されている。 (これは科学のノートにあたる)。 こうやって、はじめてモノは、発明されるのである。 (ここからまた、メタバースという知的な構想力も一部が反省され、蒸し返されて出てきたようだ。) しかしメタバースは、メタバシスのことである。 歴史の繰り返しにすぎんのである。 オッカム同様、カテゴリー命題無視し導入た、倫理の見えてない魔法陣使うこと。 その<心構え>も一律に、<技術>と訳した古典ギリシャのアリストテレス理論。 間違いの解釈がモトなのだ。 優生学が先導するので、ロジックの対象全体がおかしくなって、ボケて見えんなってる。 対象認識しようとすると、分母が見えんなってくるのだ。 この見えんなる理屈は、その昔、windowsのAPIのbitbltだと述べた記憶もある。 闇が深く、いっさら事態が世間には見えとらん、わけだ。 科学思考傾向の若干あるおいらにも、ほとんど現代世間の動向は見えちょらん。 もちろん悪魔的傾向も、その持ち合わせは若干ありまっせ。 だから優勢学がわかる、理解できてる、わけだ。 勝ち組に入りて~、かねほし~、ってのも優生学。 悪魔は霊世界のものではなく、現実の人そのものだ。 平然と他人の首切る人こそ、悪魔存在者。 植物体が、地中で根を絡ませて何処かでつながっているように。 この世の出来事は、もともと心身一体であるはず、なのだ。 おいらの感性でつながって認識されてんだから、という理屈。 (感性反省が、享有、共有といった科分離思惟でない、の、わかるやろか。) 優生学がすべてを仕切っているように見えるのは。 共有の希望の光を、よそに、自分ではなく<他人>に見ているためだ。 共有的にも、すべてのものが繋がっているのだろうが。 それは、わからん。 (おいらは超常のテレパシー能力なるものが一切ない。) 科学的思惟はオイラたちの日常に浸透して、それらを隠ぺいしており、わからんことだらけ、が本当に日常にあることだ。 あること、は本来、<享有>という。 享有は日常のことのうちでのみ有効だからだ。 共有の、他者認識は時空が違う。 享有とは一見、無関係なのである。 (コレつなげているのは図式。) オルガノンを哲学だ、と理解している人は未だ、この共有の繋がりをも感じているわけだろうが。 それを道具に使う悪魔が出てきて。 さらにメタバースの設計企画までなされるようになって。 何もかも隠ぺいされて。 しかも享有が消えてなくなる。 わからんなってしまってる事態となる。 これはぜんぜん誰にも、ヤラレる本人に見えてないわけだ。 オイラにも、完璧には見えてんじゃない。 図式は、うっすらとあぶり出しのように(しかし中性ではなく危険なまま)見えてるだけ。 ただ、この隠ぺい者を引きはがすのは、じつは、<言うのだけ、書くだけは簡単>なのである。 実に簡単。 だから多言弄してる。 いくつかの命題言葉を、誤って使ってる古典ギリシャ語からヘラス語に戻せば、いいだけなんで。 核になる言葉が、「ファンタシア」、「テクネー」、「カテゴリー」、そして「オルガノン」だった。 ほかにもいっぱいあるはずだが、頭脳容量最近いよいよ小さくなってきたオイラが騙ってるのは、この程度の狭い範囲のものだけだ。 心身合一は、ポジ、ネガ<両面ある>オルガノン思惟なので。 これがヘラスの哲学用語であって。 もっと古い時期に生まれた科学的思惟は、ネガ部分を反省できない欠陥商品であると、そう悟ればいだけ。 それらの反省がしかし、科分離認識では「一切できんなる」、のである。 人は、この世の出来事をファンタシアできる。 それは反省も持つからだ。 オイラたちは、個々の享有の存在者、反省できる個人個人なんだが。 英知だけで、心身合一思惟のこれを、瞳着的にやるとなると。 反省が無いのでうすっぺらくなって、メタバシスでつながって、ファンタジーやファンタスマになっちまうからだ。 おとぎ話や幽霊に化けちまう。 ファンタシアという、このヘラス言語は。 中性的に「表象」できる、という(無反省の)誤った意味じゃないので。 いつしかファンタジーやファンタスマにされちまったのが実情。 これらはしかも表象化が起こした、誤った道なんで。 それを辿ってしまうと。 魂の宇宙像に、うすっぺらく形容、力関係化できる、ということになっちまうだけのこと。 つまり形而上学で宇宙の本質を求めたら、エイドス、エネルゲイアになるわけだ。 アリストテレス先生に帰された、超有名な二元命題なのである。 これについては若干(形而上学自体が)イカガワシイし、わからんし誤謬もわかっとるんで、あんまり相手したくないというのが本音。 その<魂の宇宙像>がエイドス、エネルゲイアに収斂するのだが。 明晰判明には描けないのだ。 それどころか、理論を突き詰めればこの形而上学的問いは必ず、破綻していくしかないのだ。 「心理学」、「宇宙論」、「神学」は、<先験的に破綻している非哲学論議である>。 これを(形而上学を)哲学だ、というのは真っ赤な嘘。 辞書にはそう書いてあるが、ウソ八百のコンコンチキ。 というか、この事実(形而上学の先験的誤謬)を見出し公表したのは、心霊現象もお好きなフリーメーソン組織の、カント大先生であるので。 先生の御威光借りて、オイラ言ってるわけだ。 純粋理性批判という、クリチーク・デア・ライネン・フェアヌンフト、っつう人類最高峰の著作で、世に示した。 もちろん世間は理解できず、誤解のまま基礎に踏み固め、麓階建築にした。 (ついでにオイラの優生学的人類最高峰を、あと二つ騙る。) (タ・メ・タ・タ・フィシカというアリストテレス先生の誤解本と、ザイン・ウント・ツアイトという、ナチスの破綻本。) (ほんとはオルガノン出すべきだろうけど、ムリ。) 世間は哲学を六階してて理解できない、ので。 イコンは一神教宗教のカルトものだと思われている始末。 禁止の宗派もあるようだ。 そうじゃなく、魂の宇宙絵全体像イコンは、有限な人の有限な感性の本質。 つまりオルガノンの本質なのだ。 カント先生は、純粋悟性概念の図式がカテゴリーであることも見出したほどの人なので、オルガノンには十二分に通じてた。 石工組織はオイラ大嫌いなんだが、哲学上、この組織を利用して世に出たカント先生はオイラの大先生なわけだ。 但し、ポジの積極的な形容は、必ず感性に基づいて出ー来ており。 ネガの力関係も、感性の反省的思惟のことだ。 ここに図式や構想力の世界があるのだが。 科分離思惟なので見えてなくて。 しかも基礎認識が最後に必ず誤る、と、きちょるので。 カント先生も、図式論議は、わざと素通りしてたような経過がある。 なので、正しいファンタシア訳とかテクネー訳とかは、現状では、ないんである。 正しいオルガノンも、オイラの現状能力では明らかにムリだ。 ファンタシアに、イコンと言う言葉を無理に当てはめたが、誤解もされるんで。 その原因は、科分離思惟してしまうためだ、とはわかってきたんだが。 存在に関する神々の力、(シュメール語でメーという)なんぞも、西洋世界にはない概念。 (シュメールは最近、アカホヤ大噴火から逃げた縄文人の一分派だということがハッキリしてきたが。) (血筋は同じでも、イコール日本人じゃないよ。) (日本人は侵略・征服者の方。) 科分離思惟では、メー・オンは無である。 無にすぎんなる、わけだ。 テクネーというヘラス語を「技術」だ、と図式風に訳すことで。 これは副産物として絵画を生んだ、そのことが、わかっている。 絵画は、中世のローマ帝国範図のなかで、特にイタリアで生まれた。 ヘラスどころか、古典ギリシャの世界にもロクに絵はないのに。 (戯画とか、漫画に似たものとかはあったが。) それまで人などは二次元に描くものと言うより、もっぱら三次元造形してた。 現実に似せたものだった。 風景も神殿メタバース設計じゃなく、大衆視点で造形してた。 絵画の素材は、感性のモノなのだが。 なぜか現実に似せてない。 享有者の科学的再現が狙いなので、(つまり図式操作が目論見なので)、心を操るようなメタバシス構想の導入で、絵画になってしまった、というわけ。 悪魔介入で、ずれてしまった。 さらにズレて、抽象化理論にすらなった。 この図式構造を、直に描いて瞳着させて、当初の感性を惹起させ。 コピーして売ってお金にしようと図るのが、「漫画」である。 戯画とかカリカチュアというのは、若干お門違いの、ファンタジーやファンタスマであるようだ。 図式の重要な要素である感性を、直視できてない。 遊びや、あの世のモノ、にしちょるが。 狙いは魔法陣でない、この世の図式。 漫画は、ある種の<心の構造のメタバシス>な表象であるのかもしれんが。 それは魔法陣的発想。 それでは漫画にならんのである。 仮想の現実をこそ描くからだろうが。 だから戯画とかカリカチュア解釈だと、現代風の、ダメな優生学になっちまう。 特にメタバシスでは一切漫画にならんという、この関係図式が面白いんだが。 ここでは、この論議自体を素通りするが、いつかやってみたい。 なんとか図式を直に剥き出したいので、先急ぐ。 科分離メタバシスは簡単なんやが、図式を注視するのは疲れる。 次節に、<図式はプログラムではない>という話をしたい。 特に「人相手のプログラム」なんて、最悪である。 これは「陰謀の事」だからだ。 科分離する対象認識科学は、同じものであるはずの電磁波も光も放射線も。個別に扱うが。 これらはオルガノン的には、人と、おなじものである。 科分離してわかる、周波数の違う振動だ、というわけじゃない。 デジタル認識など、そんなこと、どうでもいい。 プログラムで一意に図式化して、優生学的に扱いたいんだろうが、図式は(神の)プログラムではない。 神は悪魔に関係して登場してても、図式は神とは無縁、ということが言いたい。
2024年07月26日
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遠くで雷がひっきりなしに鳴り始めたのでpcを止めた。 すると圧迫感というか、不可解な緊張がフットと遠ざかり。 電磁波の音ならぬ音が、自分の身体の不調を告げる耳鳴りにとってかわった。 数種類あった音ならぬ音は消えている。 不意に、一斉に、セミの鳴き声が立った。 春蝉も油蝉も、カナカナまでが鳴きだした。 雨も少し降りだしていたようだ。 雨音や風の音の中で、セミの鳴き声は、ここぞとばかりの乱痴気騒ぎとなる。 ニイニイゼミの鳴き声はホント、電磁波音の一つに似ている。 これは頭蓋に響く。 遠方の雷音は、なおもひっきりなし。 これが、場の電磁波の圧力を遠ざけたようである。 セミの鳴き声は喧しいほどになって、小鳥の声も混じる。 直前の晴れてた状態と、あたりの雰囲気が違いすぎ。 これこそが夏だ。 しかし雷音が遠ざかると、セミも一斉に去った。 今はある種の電磁波音と、鳥さんが騒がしい。
2024年07月22日
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