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【0】はじめに 本章での目的は、ヘーゲル論理学(所謂弁証法)の骨格を掴むことである。そのために、認識における他の方法論に対する批判とそこから見出せるヘーゲルの立場性、そしてその欠陥を明らかにしていきたい。【1】ヘーゲルによる認識における他の方法論への批判(1-0)本項の目的 ここでは、客観的事実を把握するための方法論を幾つか挙げ、それらに対するヘーゲルの批判とその理由を対置させていく。(1-1)古い形而上学について まずは、古い形而上学について扱っていく。カント以前のドイツの古い形而上学やデカルト、スピノザ、ライプニッツなどの合理論がそれに該当する。事象について特定の規定を理性によって下すことによって真実にアプローチするという立場性を持つ。これに対するヘーゲルの批判は、現実の世界が対立した諸規定が連関しあう全体であるにも関わらずその相関関係を見ずに固定的な規定のみを真実と見做すのは一面的であるということである。(1-2)経験論と批判哲学について 次に挙げられるのは、経験論と批判哲学である。前者はロック、バークリ、ヒュームなどのイギリス経験論、後者はカントの批判哲学などである。 経験論では、真実は現実のうちにあり且つ知覚されるものであるという立場性が取られる。これに対しヘーゲルは、真の認識は多くの要素の分解物である個々の知覚の分析にとどまらず更にそれらを再結合することであるにも関わらず、後半部分を全く見落としていると批判している。 批判哲学では、現実世界の普遍的な諸関係や諸規定は自我もしくは主観に由来するという立場性が取られる。これに対しヘーゲルは、人間の認識能力には限界があり普遍的な諸関係や諸規定は客観的事実に由来していると反論している。 これらの二つの批判に共通して見られるヘーゲルの立場性は、個別具体である実在と普遍抽象である思想とを切り離すと相関関係を扱うことが出来ず、個々の事象の間にある自立性とそれらの結合関係を捉えることが出来ないというものである。(1-3)直接知について 最後に俎上に上がるのは直接知である。経験論や批判哲学の反動として登場した思想である。ヤコービやシェリングらがそれに当たり、現代の哲学では実存主義に近い。 その立場性は、真実は経験という媒介を拝した直接知によって接近できるというものである。これに対しヘーゲルは、人間の認識は如何に直接的であれ、何らかの媒介もしくは人生経験が間に存在すると反論している。これを通してヘーゲルは直接性と媒介性との関係そのものを問題にしているのである。【2】ヘーゲルの立場性 以上の批判を通じて明らかになったことは、ヘーゲル自身の客観に対する思想的態度=弁証法的世界観である その立場性とは、現実の世界が対立した諸規定の連関しあう全体であるということと、そしてそれを認識するためには分析をするに留まらずそれらを客観的事実に基づき再結合しなければならないならないということである。【3】ヘーゲルの認識=弁証法的世界観の持つ欠陥 ヘーゲルの弁証法的世界観では、世界の本性を精神的なものである一方でその認識は客観的事実に基づくとされる。その認識に基づくと世界の運動が精神的なものに成り代わってしまい、主観と客観が混同してしまう。
2011.10.02
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☆はじめに☆ 『君主論』の前半部分(1章~11章)では君主政体における権力獲得・維持について論じられ、後半部分(12章~26章)では残った細かい部分の補足的な説明が為されている。今回は主に前半部分の中でも特に権力維持論に着目する。後半部分は取扱説明書的な色合いが強くやや退屈に思えたので論には加えなかった。☆権力維持論☆ 伝統的に引き継がれた世襲の政体と違って、新興の支配権力を維持することは困難性を伴う。なぜなら、世襲の場合と違って支配者であること自体に支配の正統性を示すことが出来ず、また人民の側も新たな権力を迎える際にはよりよい統治を期待するのでその期待が裏切られると途端に権力が崩壊してしまうからである。 そういった困難性の中、権力を維持するためには古い血筋や新興勢力となりうるものを抹殺し自分以外の結集軸を実力的に作らせないことで自らのヘゲモニーを保つ必要がある。その際に、手段を選ぶことはあまり考えなくても良い。むしろ手段を正当化すべく人民にとって役に立つ統治を行うように心がければいいのだ。手段を選ぶあまり、権力の力量的裏づけを失ってしまった場合、その権力は維持できなくなる。 まとめとして、権力維持に必要な要素をここで挙げると、1)自分以外の結集軸の破壊2)力量的裏づけ3)従順な人民、の3つであるといえよう。
2011.07.13
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