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女性の強さに関する分析


私のページに訪れる女性から、よく「男は弱い」「男は逃げる」というコメントを聞かされます。

私も男ですから、とても脆弱で虚弱で貧弱で衰弱しています。
それだけに、強いものには憧れの気持を抱いています。

K1選手などの格闘家や、アクション映画の主人公、ハードボイルド小説の探偵などにも憧れていますが、とりわけ私が憧れているのは女性です。

女性は長生きするなど、体力面で強いだけではなく、精神面でも強く、口論などでも男を圧倒します。
見た目はいかにも弱そうですが、フグでも何でも、無害な外見をしているものが、本当は恐いのです。
女性の中には、外見まで強そうなのもいますが、そういうのは本当に危険です。


私は女性の強さから、なにがしか学んで、精神面の強化を図りたいと願っています。
その矢先、女性の強さの秘密の一端を垣間見る出来事を目にしました。

駅のベンチで、小学生の男の子と女の子が並んで座りました。
後からやって来た小学生の男の子の一団が、それを見つけて「わー、二人は付き合ってるんだー」と、はやし立てたのです。

こういう場合、二人は何らかの方法で反論しないと、明日の学校で噂が広まって、困った事態になるものです。
男の子は、ムキになってこう言いました。
「ちがわい。つきあってなんかないよ。おれ、こいつのこと嫌いだもん」
この反論は明らかに弱い。
嫌いなら、どうして並んで座るのかとつっこまれるのが目に見えています。
論理として弱いだけでなく、女の子を蹴落として、自分だけが助かろうとする、卑しい根性丸出しです。
(まるで、幼い頃の私と、今の私の姿を見るようです)

その時、業を煮やしたかのように、女の子が反論しました。
「つきあってなんかないよ。つきあうっていうのは、手をつないで帰ったり、一緒にアイスを食べたりすることだけど、わたしたちそんなことしてないもんっ!」

なんという見事な反論でしょうか。
女の子は、まず“つきあう”という言葉の定義を述べ、自分達がその定義に合っていないことを指摘し、だから、つきあっていないと結論づけています。
これは、論証の形式としては完全に正しい。

それだけに、女の子に反論することは非常に困難です。
女の子に反論しようとするには、“つきあう”という言葉の定義の仕方に疑問を呈するくらいしかないでしょう。
だが、“つきあう”という言葉の定義は、実は極めて難しいのです。
“つきあう”の定義が何か、ということが問題になったら、果てしない議論になってしまい、決着がつかない可能性が非常に高い。

このように女の子の発言は、反論が困難な上に、「二人がつきあっているかどうか」という問題を、言葉の定義の問題に切り換える効果もあります。
男の子の発言とはレベルが違うのです。

これは特殊な例だ、と思われるかも知れませんが、そうではありません。

例えば、ほとんどの女性は「わたしのことを好きなら、どこかへ連れて行って」くらいのことは言うでしょう。
この言葉は、愚かな男にも理解できるように、簡単な形で表現しているために、一見すると甘えているだけのように思われるかも知れませんが、これまで述べたのと同じ手法を使っています。
「好きだということは、どこかへ連れて行くものだ」と定義し、そこから「連れて行かなければ、好きではない」と結論づけているのです。

他にも、女性と話していると、「かわいい」とか「やさしい」とか「きれい」とか「うそ」とかの、定義を争う場面が多いことに気づくでしょう。
そのうちに「わたしは正直で、あなたはウソつき」といった定義が成立してしまうのです。

このような勝手な定義の上に築かれた信念をくつがえすことは不可能です。
例えば、「信じられないというのは、わたしが信じないことだ」という定義に基づいた上で、男の主張の「信じろ」と言う発言が、果たして受け入れてもらえるでしょうか。


しかし、男としては、これほど高度に洗練されたやり方でなくても、この手法を学ぶことで強くなれるかも知れません。

やり方は簡単です。
自分の主張に合わせて、自由に定義すればいいのです。
「愛するとは、与えることだ」とも。「愛するとは、奪うことだ」でもいいでしょう。
「愛とは、見返りを期待しないものだ」でも「愛の継続には、金が必要だ」と言ってもいいのです。
もっと身近な定義としては、「愛していれば、プレゼントをしなければいけない」とか、「愛していれば、毎日メールを送るものだ」などが挙げられるでしょう。

謙虚な人は、いくらなんでも自分の定義は勝手すぎるのではないか、と不安に思うかも知れませんが、そのような場合は、「真の」とか「本当は」などを付けるとよいでしょう。
宗教家や占い師は、これを得意としてきました。
哲学者などは、まさに自分勝手な定義を基にして、「時間は、本当は存在しない」、「あなたが願っている幸福は、真の幸福ではない」、「確実だと信じるのは、本当は疑わしい」など、信じられない主張をしてきたのです。

これをみても分かるように、普通の言葉を、ほとんど正反対の意味に使っても構わないのです。

世間では、同様の主張は広く使われています。
たとえば「真の民主主義とは、民衆をだますことだ」、「真の防衛とは、何も防衛しないことだ」、「自由主義経済で本当に豊かになるには、統制することだ」、「教育とは…」など。
(少し政治的な色彩が色濃くなりましたので、ここではこれ以上書きません)


それにしても、人間とは、どこまで勝手になれるものかと思います。
無責任極まりない。
怒りを禁じえません。


いま、佐々木さんから、仕事の催促の電話が来ました。
二日前、「提案書は、一両日中に送ります」と言っておいたのですが、「一両日中」を、「一週間以内」と、私が定義しておいたのが、通じなかったのかも知れません。



≪註≫
文中の“佐々木さん”を、ご存知ない方もいらっしゃると思われますが、その場合には、私の11月19日の『ついに、催促の電話』をご覧下さい。




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