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先日、ある地方の裁判所に出かけました。夜は現地で飲食の予定があったため、電車での移動です。あなたは、ガラガラに空いた電車に乗ったら、どこに座るでしょうか?うちの事務員さんに、どこに座るか訊いてみました。車内に、若い女性、若い男、中年女、中年男がバラバラに座っている場合、うちの中年女性事務員「三浦さん」(仮名)の観察によれば、男は必ず若い女性の近くに座るといいます。私は中年女性を尊重する立場を(過去の恐怖体験から学んで)とっておりますので、反論しませんでしたが、男にも例外があります。男がゲイであるとか、若い女性が、その男の妻に似ている、とかの場合です。事務員の三浦さん(仮名)の話では、若い女性が電車に乗ってきて、他にいくつも空席があるのに、三浦さんの隣に座ったことがあるそうです。世の中には、命知らずの人がいるものです。私なら別の車両に逃げ込むところです。たぶん、その電車が一両編成で、三浦さんの顔を見ないですむ場所が、そこしかなかったのでしょう。友人の真由美ちゃん(仮名:20代女性)に訊いてみると、こういう状況では、やはり中年女性の近くに座るといいます。理由は、(1)中年女性の近くに座ると、何かやっかいなことが起きたときに助けてくれそうな気がする(2)若い男も、中年男も、やっかいなことを起こしそうな気がする(3)若い女の近くに座ると、若い女が二人となり、ますます男が近くに寄ってくる(4)若い女が自分より綺麗だとクヤシイ(5)中年男はイヤラシイ(6)中年男はキタナラシイ(7)中年男はクサイ(8)中年男はキモイ(9)中年男はウザイ ・ ・ ・(以下省略)真由美ちゃんが私の顔を見ながら、あまりにも感情を込めて話すので、私は、もう少しで自分のことだと勘違いするところでした。世の中の「勘違いヤロー」のほとんどは男です。・・・それにしても、他人事とはいえ、これでは世の中の中年男がかわいそうです。このようなことを思い出しながら電車に乗っていると、若い女性がやってきて、私の隣にカバンを置きました。他にも空いている座席は多く、しかも老若男女さまざまな客が同乗しているのです。その中で、あえて私の隣を選んだのです。この女性の行動は、極めて適切だと感じられました。こういう場合、勘違いヤローの男どもは、ともすれば大きな勘違いをしやすいものです。私は、その女性の行動に、特別な意味を読み込まないように努めました。美しい女テロリストが嫉妬のあまり、私と自爆するため、爆弾の入ったカバンを置いた。美しい女スパイが、私をイーサン・ハントと間違えて、情報を渡そうとしている。といった特別な意味を読み込むのは愚かなことです。素直な目で事実を見れば解かるように、その女性は、たんに私に好意を持っただけのことなのです。こう考えていると、その女性は次の駅で、私には目もくれずに立ち去りました。好意を表現するのが下手な女性だ。おそらく、私の隣に荷物を置くだけでも、精一杯の勇気を振りしぼったに違いない。どうして私の周りには、素直に好意を表現できない女性しかいないのでしょうか。もっと、素直に、私に好意を表現して欲しい。いや、素直じゃなくても、いや、ウソでもいいから、私に好意を示して欲しいと思います。若い女性が私の席の隣に座ろうとしたが、勇気がでなくて座れなかった、という事実を聞いても、真由美ちゃんは、まるで中年男を見るような目で、私を見ていました。「その人は、たんに席が空いていたから荷物を置いただけですよ」「しかし、見たこともない男の隣に荷物を置いたんだ。 少なくとも私を信頼したことは確かだろう。 ・・・それにしても不思議だ。 いくら私がトム・クルーズに似ているからといって、 なぜ信頼できることまで知られたんだろう?」「マッケンジーさんが信頼できるということも、 トム・クルーズに似ているということも、 誰も知らないと思います。 私も知りませんでした。 その人も分からなかったと思います。 たんにマッケンジーさんが、 物を盗む度胸がなく、 盗んで逃げても、 簡単に取り押さえられる、ってことが見透かされただけでしょ!」・・・やはり、女性に「男を見る目」は、ないのかもしれません。 ┐('~`;)┌
January 24, 2008
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私が出会ったちょっと不思議で切ない恋愛物語。私は恋の主役じゃなくて脇役だけどね。私は数年前、いろんなサイトを作っていた。そんなサイトの中に、ちょっとした思いつきで作ったサイトがあった。それが、 『 Part Time Lover 』「区切った時間の恋人」って意味で。当時、そのサイトのトップページには、こんな一文が書いてあった。 恋ができる環境にない人がいる でも、恋がしたい人がいる そんな男女が集まる場所、Part Time Lover ひとときの恋人を、ここで探してみませんか?掲示板と、チャットと、メールの私書箱があるだけのサイト。それでも、いろんな男女が集まってきた。そこのチャットで知り合った28歳のプログラマーがいた。仕事が忙しくて、なかなかプライベートな時間が取れない。給料日には、いい金額のお金が振り込まれるけど、使い道と言ったら、ゲームと漫画くらい。そもそも、遊ぶ時間がなかったんだ。彼は、恋愛未経験者。パートタイムでいいから、恋人がほしい、本気で思っていたみたい。そんな彼が、本当にパートタイムの恋人を見つける。最初はチャットで話しただけの女性。その女性は、チャットをするのも初めてみたいで、どんなところだろうと、おっかなびっくり参加したみたい。その時、たまたまチャットにいたのが彼。いろんな話しをして、お互いに私書箱を作って、メールの交換を始めたらしい。しばらくして、ふたりは実際に会うことになる。ここからは彼の視線で説明するね。☆。.:*:・’゜★゜‘・:*。.*:・’゜☆。.:*:・‘゜★゜’・:*。.*:・‘゜☆実際、会ってみてびっくりした。彼女はすごくきれいな人。ろくに恋愛をしたことがない僕には、とても手が届くとは思えない人。最初、僕は彼女の悩みを聞いただけ。彼女はすごく大変な環境にいた。まだ3歳の娘さんがいるのに、離婚した後は、昼、夜ずっと働いていた。それでも、家賃と保育園のお金を払うとぎりぎりの収入しかない。働いて、働いて、働いて。本当に自分の時間なんて全然持てない。恋をしていた頃を思い出したくて、あのサイトを見てみたという。「ごめんなさい。娘を迎えに行かないと」彼女はピンクのかわいらしい腕時計を見て言う。仕事が終わり、保育園にいく途中に僕と会ってくれた。でも、彼女には、ほとんど時間がない。それから、メールでいろいろ話した。「お仕事、がんばって」僕よりもずっと長く仕事をしている彼女は、毎朝、そんなメールをくれる。そのメールを見ると本当にやる気が出てくる。そんなことが、半月くらい続いただろうか。僕は彼女に一つの提案をした。「僕のために、時間を作ってくれないだろうか」彼女が働いているパートの仕事。週に一日だけ減らしてもらって、僕との時間を作ってもらう。その代わりと言っては変だけど、その給料分以上のお金は僕が渡す。この提案をするとき、「愛人」って言葉がよぎった。でも、そうじゃない。パートタイムラヴァー。僕は彼女とそんな関係になりたい。この話をしたとき、彼女はびっくりした顔をした。そして、ちょっと考えて答えた。「わたしでよかったら」僕はすごく嬉しくなった。彼女と、ほんのひと時とはいえ、恋人同士になれる。僕にも恋人ができる。僕の仕事の休みにあわせて、彼女もパートのシフトを空ける。その日、ふたりは恋人同士。彼女の環境も僕の状況も、すべて忘れて、普通の恋人がするデートをする。一緒に遊園地に行く。クルージングデートちょっと有名なおしゃれな店で食事する。今までは興味がなかったタウン情報誌。それが今では雑誌の、お勧めデートスポットは、僕の大切な情報源になった。「あ、このデートはきっと彼女は喜んでくれるはず」僕は彼女が喜んでいる顔を見るのが嬉しくて、いろんなデートを考えて、予約とかして彼女と会える日を楽しみにしていた。もちろん、デートの後はホテル。泊まることはできないけど、パートタイムの時間で一緒にいられるとこ。彼女はホテルの中では、ういういしい。かわいい彼女が僕の腕の中にいると、「僕は幸せだなぁ」と本当に思う。☆。.:*:・’゜★゜‘・:*。.*:・’゜☆。.:*:・‘゜★゜’・:*。.*:・‘゜☆パートタイムで働くスーパーのレジ係。わたしの仕事が、これ。毎日、毎日、レジに立ち、商品の値段をチェックしてお金を受け取る。毎日、毎日、それだけで時間が過ぎていく。仕事が終わると、次の仕事。コンビニのレジ係。やっぱり、商品をチェックして、お金を受け取る。それが終わるのが、夜の9時。それから、娘を預けている保育園に行く。この時間まで預かってくれるのは、公共のとこでは無理。かなり高いけど、預かってくれるとこに頼むしかない。寝ている娘を連れて家に帰る。疲れがずっしりと感じる。でも、家事をしないといけない。食事の準備をして、食事して、後片付けして、娘をお風呂に入れて、洗濯して、掃除して・・・。終わる頃には、1時を過ぎている。6時に目覚ましをセットして眠る。毎日、毎日、そんなことの繰り返し。ずっと、このまま歳をとっていってしまうのかな。そう考えたら、寂しくなった。そんなときに「パートタイムラヴァー」というサイトを知った。そして、彼に知り合った。そのときから、わたしの中に輝きが戻ってきた。好きな人がいる。それだけで、生きてる実感があった。やさしい彼。彼が資金的に援助をしてくれるから、仕事が楽になった。無理をして働き続けなくても、なんとかやっていける。彼に見てほしくて、新しい服を買った。それまで自分の服なんて、考えたことがなかった。娘の服もろくすっぽ買えないのに・・・。彼と会っているときは、昔に戻ったみたい。何も考える必要がなかった頃に。彼のことだけ考えて、楽しい時間をすごす。たった週に一回。その日をいつも待ち望んでいる。その日のために、仕事を頑張れる。楽しい時間。楽しい関係。本当を言うと、ずっとこんな時間が続いていくものだと思っていた。でも、そうは、ならなかったの。それは、一週間、待ちに待った約束の日。彼からのドタキャンの電話で始まった。「ごめん。今日、いけない。仕事がどうしても抜けられない」最初、本当に仕事だと思った。でも、そのときを境に、彼のメールの返事が遅くなった。レスがないこともしばしば。次の週に会ったとき、わたしは覚悟した。もう、この時間は続いていかない、と・・・。たぶん彼に好きな人ができた。もちろん彼はそんなことを言ったりしない。相変わらず、やさしい彼。でも、なにかが違う・・・、どこが違うとは言えないけど・・・。それからしばらくたって、彼がデートの日以外に会いたいと言ってきた。わたしのパートタイムの仕事のあと。ほんの少ししか時間が取れないのを知っているのに。そして、喫茶店で会った。「ごめん。実は・・・、好きな人ができた」それだけ言うと、彼はつらそうに下を向いてしまった。わたしは、・・・覚悟していたといえ、やっぱりショックだった。でも、責められはしない。もともと二人は、本当なら、重なることがない二人だった。パートタイムの一瞬、お互いに交わっただけ。彼の前には、いくらでも可能性のある未来がある。その未来を、わたしが奪うことはできないと思った。「わかっていたわ」そう言うと彼はびっくりした顔をした。「そうね。終わりにしましょう」わたしは、おだやかに声を出そうとした。でも、“終わり”のところでは、声がちょっと震えてしまった。こうして、私のパートタイムラヴァーの時間は終わりを告げた・・・。☆。.:*:・’゜★゜‘・:*。.*:・’゜☆。.:*:・‘゜★゜’・:*。.*:・‘゜☆サイトマスターをしていた私は、すべてが終わってから、このことを知った。最初はプログラマーの彼からメールで報告を受けた。私のサイトに来ることをやめるという報告をね。理由を聞いたら、彼は彼女とのことを話し始めた。しきりに謝っていた。私は、彼女が傷ついているんじゃないかと心配になって、彼女にメールした。でも彼女は、元気にパートタイムの仕事を続けているらしい。「彼とのことが、わたしにも恋ができるって教えてくれたの。今は、すぐ別の人、とは思えないけど、きっとまた恋はできるようになると思う」そして、「彼にめぐり逢えて良かった」「わたしにも、『新しいことが起きる』と教えてくれて、ありがとう」私にそんな話をする彼女。私は何もしてあげてないのに・・・。ちょっとした思いつきで始めたサイトが、こんな出会いと別れを生み出した。そう思ったら、切なくて、胸が痛んだ。でも、このことで私は、誰にも新しいことは起きるんだって、改めて思ったんだ。少しだけ踏み出せば、誰にも新しいことは起きる。もちろん、素敵なことがね。U.E.Mckenzie
October 20, 2007
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先日、私のこのページを読んでいる奇特な女性と話していた時のことです。その女性が、このページにかつて登場した、私のクライアントの「佐々木さん」が気になるというのです。実は、その他の女性からも「佐々木さんは元気?」とか「佐々木さんって、いい人っぽいね」という言葉を頂きます。私に対して「元気?」とか「いい人ね」とか「好き」とか言わないのが気に入りません。私のクライアントである佐々木さんの登場するエピソードで、一番好評だったのは、『ついに、催促の電話』というタイトルの一文だったようです。読んでいない人で、読みたいという酔狂な方はどうぞ。(たぶん前回の方が面白い・・・^^;)『ついに、督促の電話』 ↓http://plaza.rakuten.co.jp/uematsu/diary/200411190000/それにしても、人間関係はもろい。とくに、仕事の依頼人であるクライアントの佐々木さんと、私の人間関係はもろい。ささいなことで関係は悪化します。ただ「時間が経った」というだけで、険悪になるのです。依頼された書類を提出する期限になると、佐々木さんから電話が掛かってきます。「もしもし、佐々木ですが」「セールスならお断りします」「セールスじゃありません。佐々木です」「あっ、それなら、ただいま留守にしております」「ふざけないで下さいよ!電話したのは、お分かりかと思いますが・・・」「どうしたんですか?声が変ですよ」「えっ?そうですか?いつもと変わりませんけど」「気をつけた方がいいですよ。 私に催促の電話を掛けてきた人で、喉頭ガンで死んだ人がいます。 その人も、いつもと変わりない、と言っていました。 それじゃ、お大事に」「ちょっと待って下さい。 あの・・・催促するわけじゃないんですが・・・」「よかった。 てっきり催促の電話かと思いましたよ。 催促は善良な人間のすることじゃないですからね」「はっきり言うと、催促です」「えっ?催促なら催促と、ハッキリ言って下さいよ。 こんなことで時間を無駄にする余裕なんかないんです。 じゃあ、失礼します。 お大事に」「依頼した書類はどうなっているんですか?」「どうなっているかと言われてもねぇ。 実在しないものについて、『どうなっているか』と訊かれても、答えようがありません。 火星人の病状が今どうなっているか、と訊かれるのと同じです」「ということは、まだ出来ていないということなんですか?」「あらゆる証拠から推理して、十中八九、出来ていないと推定できます」「他人事みたいに言わないで下さいよ。 困りましたねぇ」「そうですか。実は私も困っているんです。 まさに以心伝心、同病相憐れむ、ですね」「以心伝心でも、同病でもないでしょう! 仕事する気はあるんですか?」「もちろんです。片時も忘れず、鋭意取り組んでいるんです。 睡眠中も、食事中も、散歩中も、ジムに行って泳いでる時だって、忘れたことはありません」「お願いですから、真剣に考えて下さいよ」「もちろん真剣です。 毎朝起きると、催促の電話が来ませんようにと神様に祈る毎日です」「それほどまで考えるなら、仕事をした方が簡単でしょう」「まったくその通りです。 ですが、私は困難な道を選ぶ男です」「困難な道を選んでいるようには見えませんよ。 とにかく、困難でも簡単でもいいから、仕事をして下さいよ」「そんなにムキになっていると早死にしますよ。 私の知り合いでムキになりすぎて、喉頭ガンで死んだ男がいます」「そうならないために、書類をお願いします」「やっぱり、声が変ですよ。 催促のしすぎなんじゃないんですか? 催促して楽しいんですか?」「楽しいわけじゃありませんよ」「それなら、催促しないでテレビでも見ませんか? 人生、楽しく過ごした方がいいですよ」「でも、仕事ですから」「仕事なら、何をしてもいいんですか? もし泥棒が仕事なら、泥棒してもいいんですか?」「仕事の催促は泥棒とは違います。 催促しないと上司に叱られるんです」「いっそのこと、一緒に逃げませんか? そうすれば、誰も叱られないですむ」「お断りします。 それより依頼した書類は、いつ頂けますか?」「死に物狂いで仕上げて、夕方までにはメールします。 本当に死ぬかもしれませんが」「死にませんよ。 とにかく、夕方には送って下さいよ」「念のために確認したいんですが、『夕方まで』には、明日の夕方も含まれますか?」「含まれるわけないでしょう! 分かりきったことを言わないで下さいよ」「念のために確認しただけです。 万一ということがあるかもしれないと思って。 ということは、明後日の夕方も含まれないんでしょうね」「当然でしょう。 約束の期日は今日なんですから、今日の夕方です」「そういう融通のきかないことでは早死にしますよ。 私の知り合いで、融通がきかないのがもとで・・・」「喉頭ガンになったんですか?」「私のクライアントになった男がいます」≪注≫私の周囲で、佐々木さんという実在の人物をご存知の方もいらっしゃると思いますが、ここではっきり申し上げておきます。この文章はフィクションであり、この文中における個人名は、実在の人物とは無関係ではありません。
October 3, 2007
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告白するのが怖いという相談を受けました。本人の了解のもと、この場所を使って書かせてもらいます。実際には、告白する前にもう勝負はついていることが多いのですが、今回は告白だけに的を絞って書きます。どんなにモテる人でも、告白して100%「YES」の返事が返ってくるなどありえません。また、どんなにモテない人でも、100%「NO」でもありません。100%モテない私でも、(はかない)希望が持てるというものです。 あくまで、“はかない希望”ですが。いや、私のことはどうでもいいでしょう。ほっといて下さい。(じゃあ、書くなよ)本題に戻ります。告白したときに受けるダメージには、次のようなものが考えられます。(1) 傷つく、へこむ、悲しい(2) 気まずくなって、今までの関係を続けられなくなるこのうち、(1)の傷つくことは、酷なようですが、仕方がありませんね。「傷つくな」と言うほうが無理です。こればっかりは、自分の気持ちの問題ですから、せめて気分転換になるような事をするくらいしかありません。一人にならずに友人と過ごすとか、映画を観るとか、酒を飲む、mixiにハマる・・・。心の傷は時間が癒します。必ず時間が味方してくれます。くれぐれも早まらないように。無理やりにでもポジティブに考えること。たとえば、私の場合はこうです。「これで、またオレは強くなれる」「痛みに耐えてるオレって、かっこいい(はず)」「彼女を傷つけるより、オレが傷ついたほうがいいんだ」・・・などと、自らヒロイズムやダンディズムを掻き立てるのです。かっこ悪くてもいいんです。のたうちまわったって構いません。女性の場合も、悲劇のヒロインの妄想にひたる、という手が使えます。次に(2)の対処です。それまで、友達だったり、同僚だったりという関係が崩れるのは怖いですよね。その他の周りの人にも影響があるかも知れません。そこで、告白する前に、じっくりと考えてみて下さい。もし、相手に断られた場合、再チャレンジする気持ちが自分にあるかどうか?ないのであれば、そこにリスクはないと言い切っちゃいます。(そう思いこみましょう!)だって、恋人になるのが目的なのですから、友達として付き合ってもツライだけです。なので、そこは割り切って、さよならをすべきです。ただ、再チャレンジをする場合は、関係の悪化を食い止めなければなりません。関係の悪化を少しでも妨げるためには、断られたその日にメールをしておきましょう。・・・以下メールの例文・・・「さっきは、びっくりさせてごめん。 友達でガマンするか~(笑) まじめな話、気にしなくていいよ。 ちょっと凹んでるけど、明日には元通りになってるから(笑) いつも通り、これからも友達としてよろしくね!」・・・こんな感じで、“即”「フォローのメールを送る」ことです。そうすることで、相手が「フッた」ということに対して持っている重荷が軽減されます。これは、本当に“即”です。時間が経つほど、相手の重圧も増していき、次の接触の機会には、相当気まずくなります。たとえば、友人とケンカして、絶縁状態が長く続けば続くほど、仲直りをするきっかけが難しくなるのと同じです。次に、数日後、またメールします。これは、何気ない内容で自然な明るいメールにします。今日あった面白いこと。楽しいテレビの話題。自分か共通の友人の失敗談など、相手が構えないような、なごみ系のメールが望ましいでしょう。さらに数日後、明るく、冗談めかして、「私を励ます会をやってよ(笑)」というニュアンスで、さらっと食事に誘いましょう。そうやって、告白という出来事を笑い話にすることで、気まずさを取り除き、普段どおりに接するという意思が相手に伝わります。・・・ここまでの3つのステップで、友達くらいの関係に戻れる可能性が高くなると思います。もちろん、どんなにフォローしてもダメな時はダメです。でも、明るく前向きに笑っていけば・・・、ほら、良い方向に行きそうでしょ!?告白後のことを考えて、思いを告げられないという人は男女ともに多い。私もそうです。(いや、本当です)とにかく、自分から、自分の幸せを遠ざけることはありません。幸せで笑顔になれなければ、笑顔で幸せになりましょう♪健闘を祈る!
July 3, 2007
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昨日は遅くまで、ある女性と話していました。数年前に知り合ったのですが、偶然にも私と同じ年齢(現在は43歳)でした。結婚も出産の経験もなく、常日頃からの手入れも手伝って、実年齢よりも(マジで)10歳は若く見えます。(夜ですし・・)オンナとして魅力に溢れていると思います。その女性が、「女じゃなくなる」という不安を抱いていることに驚きました。彼女は結婚も出産も育児もしたいと願っているのに、その願いが叶わなくなるということに、とても不安を感じていると言うのです。私は産業カウンセラー(組織心理学が専門)であって、精神科医でも心理療法士でも、まして婦人科医でもありません。彼女とて、私に解決を望んでいる訳ではないでしょう。それでも私は少しでも彼女の援けになればと、あらん限りの(乏しい)知識を頭の中で引っ掻き回したのですが、何も役に立てそうにありませんでした。できることといえば、ただ話を聴いてあげることくらいのものです。彼女が言うには、「『33年説』というのがあって、初潮から33年で女が終わる」と言うのです。そして、「今年が33年目だ」と。日本人女性の平均閉経年齢は、50.5歳だそうです。現時点では「確実に遅らせる方法はない」らしい。豊かな性生活が女性ホルモン(卵巣からのエストロゲンとプロゲステロンの)分泌を促すのではないかとも言われているようですが、確実ではないみたいです。友人(これも同じ歳の女医で独身)によると、女性ホルモンは女性らしさを保ち、皮膚、粘膜、骨、血管、脳などにも影響して若々しさを保つとのことです。(この43歳の女医が、その知識を以って、若々しさを保っているかどうかは、私はコメントしません)専門医(上の女医は専門医ではない)は決まってこう言うでしょう。「閉経イコール女性じゃなくなったということではありませんよ」と。しかし、その女性が結婚や妊娠、出産を望まないならまだしも、そうでない場合には、何のなぐさめにもなりません。男の私が想像するだけでも、とても深い悩みだと思うのです。男の私にできることと言えば、彼女を妊娠させることくらいのものです。(ウソです)女性が女性としての自信と自覚を最も感じられるのは、男に女性らしく扱われてこそ、ではないでしょうか?(ホントだと思います)「おまえのカラダが目的なんだよ」なんて、若い頃なら怒りまくるような言葉も、50歳を過ぎてから言われたら、多少は嬉しく感じるのではないか、と・・・。(ホントかどうか知りません)やっぱり、恋愛に対する欲求は、あったほうが健全であり、人間的に正常で好ましいと思うのです。・・・ところで、昨夜は午前1時まで話を聴いて、彼女を自宅まで送りました。“送りオオカミ”にはなりませんでした。43歳は微妙な年齢です。果たして、「おまえのカラダが目的なんだよ」と言って喜ぶでしょうか?・・・ぶん殴られるでしょうね(苦笑)
June 24, 2007
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とんこつラーメンダイエットを始めて、約3ヶ月になります。なぜカロリーの高いとんこつラーメンを選んだのか、正確な理由はもう忘れました。いま考えてみると、二つの理由が考えられます。第一に、とんこつラーメンは私の好物です。第二に、ダイエットは長続きしなければなりません。中途半端に終わってリバウンドするのが一番よくない。そもそも、健全で、やましいところのないものは長続きしません。長続きさせるには、「また食べてしまった。オレは駄目な人間だ」と罪の意識を抱く必要があります。それにはカロリーの多いものほどいい。しかし残念ながら、とんこつラーメンダイエットの効果は、まだ現れていません。途中、とんこつラーメン以外に、カツカレーや、お好み焼きダブルを食べたせいかも知れません。あるいは、一緒にライスや餃子を食べたせいかも知れません。最近、そもそもダイエットする必要があるのか、という疑いが芽生えてきました。とんこつラーメンに飽きたことが、さらに疑いを強めたのです。言い訳を考えることにかけては誰にも負けない私の頭脳が、その疑いを加速させました。実際の私を知る人は、「マッケンジーは太っている」と、まるで示し合わせたかのように口を揃えます。世間の常識で計ると「マッケンジーは太っている」らしいのです。しかし私は、世間の常識に捉われない自由な人間です。世間では私を「常識のない人間だ」と評価してくれます。「もしかしたら、私は太っていないかも知れない」ためしに、家電量販店に足を運び、見本として置いてある体脂肪計で計ってみました。両手で取っ手を持って計る方式です。最初に体重、身長、性別、年齢を入力します。正直度を調べるためかも知れません。念のため、住所や電話番号も必要ではないかと確認しましたが、そこまでの個人情報は必要ないようです。それでも私は、私のプライバシーを護るため、小学校の身体測定時の体重を打ち込んでおきました。計ってみると、私の体脂肪率は23%で、「軽度の肥満」という結果でした。こう見えても、私は、だてに太ってはいないのです。その後、数日ごとに店へ行き、何度か計ってみましたが、結果は22から30%の間でした。(5%から30%の間だと言っても間違いではありません)あまりに誤差が大きいのは、私の個人情報を保護する姿勢の表れでしょう。この体脂肪計は、体の電気的抵抗値を測定する原理を使っています。たぶん、体に電線を埋め込めば良好な数値を示すと考えられます。体脂肪に悩んでいる人は、ぜひ試して頂きたいと思います。インターネットでダイエット方法を調べても、電線のことに触れた内容を見つけることはできませんでした。この方法は画期的なダイエット法かも知れません。書店でダイエットの本を見ても同様の結果でした。ほとんどの本が、摂取カロリーを減らすだけでなく、運動が必要だと書いてあります。テレビを見たり、昼寝をしたりする必要性を説く本はありませんでした。あいにく、私は、カロリーを消費するために運動をするのは好きではありません。カロリーを摂取するほうが、はるかに好きです。うちの事務員の中田さん(女性)は、「スポーツジムに行って、水泳でもしたらどうか」と言います。自分でも週に3回、水泳に通っているのです。水泳しても効果がないことくらい、自分の姿を見て分からないのかと思いましたが、私は敢えてその点は避け、問題点を指摘しました。「水の中にいると、水温から身を守るために、かえって脂肪がつくんです。その証拠に、くびれのあるマグロがいますか?くびれのあるゾウアザラシやトドがいますか?」完璧な反論です。「じゃあ、エアロバイクをすれば?」という中田さんに私は答えました。「エアロバイクに乗ったマグロにくびれがありますか?エアロバイクに乗ったゾウアザラシやトドにくびれがありますか?」ここまで徹底的に論破しないと彼女は引き下がりません。結局、私は筋力トレーニングをすることにしました。筋肉があると代謝が増えて、脂肪を減少させることができるのです。買ったときのまま大切に保管してあるダンベルで鍛えることにしました。筋肉をつけるには、寝る前にトレーニングした後、たんぱく質を摂るのが効果的らしい。私はダンベルを少し上げ下げした後、牛乳を飲んで寝ました。次の日、牛乳をヨーグルトに替えました。さらに、鍛えすぎてボディビルダーのようになっては困ると考え、ダンベルは食べ過ぎたときだけにとどめ、ヨーグルトは毎日食べることにしました。一週間後、ヨーグルトをチーズケーキに替え、ダンベルは中止しました。さらにその後、チーズケーキは、とんこつラーメンに替わりました。結局、寝る前にラーメンを食べる習慣と、内臓脂肪が残りました。
December 26, 2006
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あれは、私が大学生だった頃のことでした。今から数年前(正確には21年前)、高い熱が数週間(正確には数日)続きました。(私は自分の不幸は大げさに言う習慣があります。これは、同情をひいて優しくして欲しい、という潜在的な欲求があるからです。私の不幸は顕在していますが)私は病院に行かず、アパートの一室でじっと我慢していました。雄々しく病魔と闘っていた、と言い換えてもいい。病院を怖れている上に、貧乏だったのです。高熱のためアルバイトにも行けず、介抱してくれる彼女も、金を貸してくれる友人もいません。(高熱を除けば、今と同じ状況です)しかし、このままでは新聞の片隅に「苦学生、アパートで病死、死後数ヶ月」という記事が載るという惨めな未来を想像し、死ぬくらいなら病院に行こう、と決心しました。ところで、女性の場合なら、新聞の見出しはこうなるはずです。「薄幸の美人女子大生、自室で変死」この場合、客観的に美人である必要性はなく、十人並みの容貌であれば、“薄幸の美人”扱いしてくれるような気がします。このような場合のマスコミ報道に備えて、普段から映りの良い写真を、あちこちに配っておけば、お気に入りの写真で報道してもらえる上に、“美人”という称号を冠することができる可能性が高まります。とにかく、私は意を決して、緊急用貯金箱を叩き割り、近所の病院に向かいました。なるべく怖くなさそうな病院を選んだのは言うまでもありません。私の住んでいたアパートは世田谷区にありましたが、そこから通学定期の使えるバス路線沿いの二子玉川の住宅街に、その病院はありました。ごく普通の民家と変わらないような造りで、病院らしからぬ雰囲気でした。受付を済ませて待合室で待っていると、若い女性が、にこやかに診察室に招きいれてくれました。白衣ではなく、花柄のワンピースを着ています。私は、白衣や、注射器や、督促状を見ると反射的に恐怖感を抱きますが、花柄のワンピースには恐怖を感じません。(花柄のワンピースを着た女性にひどい目にあったこともありますが、恐怖の質が違うのでしょう)もちろん、にこやかに迎えられても恐怖心が薄らぐわけがありません。殺人鬼が、これから殺そうとする被害者を部屋に迎え入れるときも、にこやかに迎えるに違いないのです。診察室は明るいクリーム色の色調で統一され、木製の古めかしい机の上にある一輪挿しには、ピンクのコスモスが活けてあります。窓からは、庭の茂った木立を通り抜けた日光が、柔らかく射し込んでいました。落ち着いた雰囲気に緊張は少し緩みましたが、「こんなことで油断してたまるか」と気持ちを引き締めます。花柄のワンピースの女性は、私を椅子に座らせて質問してきました。その時になって初めて、その女性が医者だと分かりました。その瞬間、私の恐怖は喜びに変わり、生まれて初めて、病気になって良かった、と感じたのです。ベルトを緩めて横になるように、と言われたときは、不安と期待が交錯し、もう何をされてもいい、と思いました。医者は、「たぶん気管支炎だと思います」と言い、そう考える理由を話してくれました。やさしく謙虚な話しぶりで、微笑を絶やさない。このような医者がいるのか、という新鮮な驚きとともに、私は彼女に好意を持ちました。病気の説明も治療の中身も、よく理解できませんでしたが、それが何だというのでしょう。診察のあと、彼女の大学時代のこと、仕事のことなどを話しました。時間は瞬く間に過ぎ去り、病院を出るときには病気のことも病院の怖さもすっかり忘れていました。残念なことに病気は治ってしまい、二度とこの医者に会うことはありませんでした。それから2ヵ月後、奥歯の詰め物が取れて、歯が痛くなりました。歯医者に行くぐらいなら死んだほうがましだ、と思いましたが、死ぬ気になれば何でもできる、と思い直し、歯医者に行きました。恐怖に怯えながら診察室に入ると、驚いたことに、前と同じことが起こりました。診察室の雰囲気も似ているし、歯医者も若い美人の医者でした。私にやさしくしてくれたのも同じです。「これからすることは痛くありませんからね」と言っておいてから治療します。恐怖をやわらげる配慮です。(ですが、歯を抜くときなど、「これからすることは、とても痛いですよ」と言うでしょうか)またしても、やさしく扱われたことが、とてもうれしかった。歯の詰め物は二日で取れましたが、それが何だというのでしょう。今でも、二子玉川の住宅街に、あの病院があるでしょうか。あの女医さんたちも、今では50台半ばの年齢でしょう。いまでも、花柄のワンピースを着ているでしょうか。想像すると、少し怖くなってきました。病院が怖いのではありません。やっぱり、女性が怖いのです。
October 13, 2006
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先ほどネットで、ある人の旅行記を読んでいて、触発されたので、私も旅行記を書いてみようと思い立ちました。とは言っても、優雅な旅行に行くほどの時間もお金もありません。ついでに付け足すと、女性と旅行に行くほどの体力もありません。ところが、滞在先では女性に、もみくちゃにされました。一日中、朝から晩まで、毎日のように女性が私の体を触るのです。このような経験は、中学校でのフォークダンスの練習以来です。その時の経験と違うのは、場所が中学校ではなく、病院だということでしょうか。ところで、これを読んでいるあなたは、病院は好きですか?私は嫌いです。というより、病院は怖いのです。私の怖いものは、1番が「高い所」、2番目が「女性」、3番目が「病院」です。他にも怖いものとして、「警察」や、「“や”の付く職業の人」など多くの存在が、私に恐怖をもたらしますが、上位3つとは比較になりません。そもそも、この世に病院を怖がらない人がいるでしょうか?何も分からない子供や、動物病院に連れて行かれるイヌやネコも嫌がるのです。怖がらないのは、病院関係者か、意識不明の病人ぐらいでしょう。病院を怖がっていることから、私は意識不明でも、病院関係者でもないと言い切れます。病院に行くと、借りてきたネコのようになります。まるで、私の家に居るときのようになるのです。大病院などでは、初診の申し込みが複雑なことが多いものです。申込書には症状の他、住所、氏名、性別、生年月日、保険者の名前や番号、所在地などを記入させられたりします。これらの事項は、一緒に提出する保険証にすべて記載してあり、病気のため意識がモーローとしている私のような、か弱い病人が書き写すのは無駄ではないかと思います。たぶん、ちゃんと書き写すだけの体力があるかどうかテストしているのでしょう。なんとか記入できたから良かったものの、もう少し具合が悪ければ診察してもらえないところでした。病院が怖い理由はいくつかあります。1.叱られる受付で「申込書の記入方法が間違っている」と叱られるところから始まって、医者には「どうして、こうなるまで放っておいたんだ」、「不規則な生活をしているからこうなるんだ」、「運動と食事に注意しなさい」、「もう少し痩せなさい」などと叱られ、最後に会計で金を払おうとして、「先に8番の窓口に行ってくれ」と注意され、最後に「分割払いはできません」と、拒絶されます。私をここまで虐げるのは、病院と女性だけです。2.何をされるか分からない病院にくる患者は不安に苛まれています。血圧計を初めて見たとき、その器具で何をされるのか不安になり、高血圧と診断されたほどです。整然と並んだ注射器を見て、どの注射器を使うのか気にならない人がいるでしょうか。病院では指示が多く、「次はこの部屋に入って」といった指示をされますが、何の説明もないため、「この部屋に入ったら注射をされるのではないか」と不安になります。3.刑務所にいるのと変わらない入院すると、消灯時間、食事時間は決められ、食事も選べません。映画館も居酒屋もキャバクラも風俗店もありません。ただ、刑務所と違うのは、女性に監視されるという点だけでしょう。4.家にいるのと変わらない自宅にいるのと同じように、女性に監視され、管理され、命令され、お金を要求されます。病院がこんなに怖いなら、きっと健康に良くないに違いありません。転地療法という治療法がありますが、その原理は、「居場所を変えると病気が治る」というものです。この原理からすれば、居場所によっては病気になるとも言えます。私の場合、病院と自宅と職場にいると、病気になるのではないかと思います。私の周りは怖い所ばかりです。病院だけは例外であって欲しかった。〔追記〕私が、「病院」、「女性」、「警察」、「やの付く職業の人」を怖がるのは、“やましいところ”があるからではないのか、と思っている方に申し上げますが、少なくとも私は「高い所」に“やましいところ”はない、と断言できます。
September 29, 2006
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望んだ通りに、思うままに生きることができたら、どんなにいいでしょう。せめて、望み通りの仕事に就けたら、と考えてみました。そもそも職業というものは、計画通りに選べるものでしょうか。計画通りに辞職することは可能でしょうが、計画通りに職業に就くのは、計画通りに結婚生活を送るのと同じくらい不可能だと私は思います。現在、私の職業は貧乏な経営者ですが、このような状況を、若い頃には夢にも思いませんでした。特に“貧乏な”状況になることは、断じて想像もつきませんでした。ただし、夢想だにしないまま現在に至っているものもあります。(ハリウッドスター、アメリカ大統領、トンガ国王などになるのは、いまだに想像もつきません)逆に、夢想していた職業に就いたためしは一度もありません。これまで多くの職業にあこがれました。子どもの頃は、学校の先生、病院の先生、科学者、小説家、画家、お金持ち、仮面ライダー、忍者、スパイなどになろうと思いましたが、どれも実現しませんでした。単に憧れていただけではありません。努力できるものについては努力も払いました。例えば、科学者になろうとして「学研」の『かがく』と『がくしゅう』を定期購読していましたし、忍者やスパイになろうとして、よその家に忍び込んだものです。思春期になってからも、医者になろうと思い、解剖学の本の女性器の項目を凝視したのですが、夢は実現しませんでした。この結果、解ったことは、(1)私は体力や才能が必要なものには向いていない。(2)どうやったらなれるのか分からない職業(科学者、お金持ち、仮面ライダーなど)や、どんな仕事をするのか分からない職業(科学者、お金持ち、仮面ライダーなど)は、いくらなろうとしてもなれない。(3)どんな収入があるのか分からない職業(科学者、お金持ち、仮面ライダーなど)には、なりたくない。の三点です。その後も挫折は続きました。大学受験では一浪のうえ、滑り止めの大学にしか合格せず、就職はしたものの、出世も昇給もせず退職した後、未だに就職せず、借金だけが膨らんでいる有様です。素晴らしい女性と共に人生を過ごすことを夢見ていましたが、失敗でした。ダイエットも失敗続きです。世の中の成功者や実存哲学者は「人は自ら望んだものになる」と教えてくれますが、私は、むしろ「人は望まないものになってしまう」と言いたい。・・・しかし本音を漏らすと、どうも実際は違うようです。もしかしたら、少しは望んだものになれるのかも知れません。多くの文献や書籍を探るまでもなく、成功者は一様に「願えば叶う」と述べています。「成功したから、『成功を願って成功した』と言えるのだろう」と思ったら、違うらしいのです。深層心理や潜在意識などの話はここではおいておくとして、たしかに私の希望の一部は、叶ってしまいました。あなたもそうでしょう。一部を取り出せば、望みが叶った部分もあるのではないでしょうか。(「カタカナを読めるようになる」など)ただし、対人関係には応用が困難です。他人を変えることほど難しいことはありません。ためしに、クライアントの佐々木さんに「仕事の金を三十年分、前払いして」と頼んだら、あっけなく断られてしまいました。結論その一。「人は望んだものになることはできても、他人は望んだ通りにならない」結論その二。「人は望んだものになることはできても、お金は望んだ通りにならない」【註釈】このページには、将来ある若者が訪れるため、教育的配慮を鑑みた結果、論旨が一貫していないことをお断りしておきます。結論その三。「人は望んだものになることはできても、主張は望んだ通りにできない」
May 8, 2006
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~愛着行動の3つの型~理想的な恋人が見つかった。しかし、付き合いを続けていくうちに、何か、しっくりこないものを感じ始めた。自分のことを嫌いではないらしいが、いつも一緒に居たいという態度や行動が、相手をイライラさせるらしい。このように、お互いに好きなのに、二人の関係がギクシャクしていることがあります。以前に、「交換的人間関係」と、「共同的人間関係」という分け方で、人がどちらの人間関係を重視するタイプか、ということで生じる「感覚のズレ」にスポットを当ててみました。今回は、人の「愛着行動」(アタッチメント)の3つの型を紹介したいと思います。(かつて、よしよしさんが“アタッチメント”について述べていましたが、内容を忘れちゃったので、今回は無視しましょう)愛着行動とは、もともとは、母親に対する乳児の接し方の違いを表す発達心理学の言葉です。それは、「安定型」、「回避型」、「不安型」の3つのタイプに分類されます。ちなみに、乳児の接し方から生まれた言葉といっても、幼児期の体験や環境が影響を及ぼした結果、形成された人格というものでもありません。誤解する人が多いので、念のために断っておきます。(ドキっとしたのは、あなたですか?)社会心理学者は、若者や成人の恋愛関係においても、これが当てはまるとして、恋愛愛着行動を次の3つに分類しました。■安定愛着型自然とスムースに人と親しくできる。人に頼ることも、人から頼られることも、特別に意識することなくできる。「人に見捨てられる」と心配するとか、逆に、「親しくなり過ぎている」と心配することは少ない。■回避愛着型人と親しくなることに、少し警戒するところがある。人を完全に信頼することも、人から頼られることも、なんとなく落ち着かない。誰かと親しくなりすぎると、妙に意識して、困惑することがある。親しい仲でも、ある一定の距離があるほうが安心できる。■不安愛着型自分が求めているような親しい関係を、相手は求めていないのではないかと不安である。恋人なら完全に融合したいと思うが、この願望が強すぎるためか、相手を怖がらせたり、負担に感じさせたり、脅迫してしまい、相手を遠ざけることもある。この3つの型のうち、あなたの気持ちに一番よく当てはまっていると思う型が、自分の愛着型です。恋人同士で違う型だと、関係はギクシャクするかも知れません。気になるでしょうから、構成比を教えましょう。■安定愛着型:56%■回避愛着型:25%■不安愛着型:19%ちなみに、私は安定愛着型でしょう。・・・どうりで、多くの女性と親しくなるわけです。・・・どうりで、多くの女性と親しくなり過ぎている、と心配することがないわけです。(私が「楽天的な性格」との指摘もありますが、実際には、その通りです)
April 5, 2006
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=この話をご存知の方も多いかと思いますが、おおよその内容はこうです=一つだけしか街灯の点いていない暗い夜道で、鍵を探している人がいます。そこを通りかかった別の人が、一緒に探してあげるのですが、見つかりません。そこで「鍵を落としたのは、本当にここですか?」と尋ねました。その人は「いいえ、ここではありません。ずっと向こうです。」と答えるので、「それでは、なぜ、ここで探すのですか?」と聞き返すと、「ここしか灯りが点いてないからです。」と答えた、という話です。私はこのジョークが、笑い事ではなく、我が事のように感じてしまいます。探すべきものがそこに無いのが判っていながら、探すのが容易だという理由だけで、無駄な時間と労力を費やす自分をそこに見るからです。・・・ところで、あなたはどう感じましたか?実際にあなたは、これと同じようなことを、知らず知らずに繰り返していませんか?!誰もが自分では気づかない滑稽なことを、自分で気づかないうちにしているものです。大切なのは“気づく”ことです。“気づく”だけで、人は大きく変われる可能性が生まれます。我々の日常も、このジョークのように見当違いな行為を繰り返しているのも知れません。残念ながらこの窮状を打開するための鍵は、なかなか見つかりません。前述のジョークよりさらに悪いことに、その鍵がどこにあるのかも判らない状況では、関係回復への鍵を手にする可能性は低いでしょう。でも、大丈夫!そのためにこそ、このページがある!(・・・かどうか、私には全く自信がありません・・・)
March 30, 2006
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昨日はセミナーに参加してきました。なんと、会場は老人ホームでした。コーチング・スキルの学習のつもりで参加しましたが、テーマは「愛と感謝のコミュニケーション」だったようです。私を知っている人には解かるでしょうが、「愛」「感謝」「完了」(←終了ではない)「承認」「幸せ」など、およそ私に似つかわしくない言葉の存在を学んでしまいました。それにしても、珍しく私の日常を何故ここに書いているかというと、これを読むに違いないあなたへのメッセージです。あなたには「愛の実感」が不足していませんか。言葉のコミュニケーションが不足すると、存在が希薄になってしまいます。人の認識、認知は、言葉によってもたらされるものだからです。愛は物理的な存在ではなく、生命の本能を情緒的な言葉で表現したことによって存在する「不確かな存在」といえます。(↑昨日の講師の言葉ではありません)(私の言葉では、「愛は執着」です)実感を生むのは、現実のリアリティです。しかし、目の前の「人そのもの」は現実として実感できますが、目の前の「人の愛」を現実として実感できるでしょうか。あなたの「彼の肉体」や「彼との出来事」「彼の言動」は確信できます。触れ合うことも、抱き合うこともできます。・・・でも、「彼の愛」は。・・・では、「私の愛」は。古今東西の過去の教典や文献、聖書などには「愛」は名詞としてではなく、動詞として「愛する」という言葉で存在する場合が圧倒的に多いそうです。(↑昨日の講師の言葉です)私の解釈では、これは「愛」は不滅のものとして存在しない、「存在し難いもの」、もしくは「実感し難いもの」であるが、「愛する」ことは行動という現実のリアリティがあるから、「実感し易い」と考えます。「愛」を求めてはいけない!「愛する」のです!そうすれば、愛の存在にリアリティが増すでしょう。さて、その“愛する”という行為ですが、ここで重要なことを、あなたに教えましょう。耳をかっぽじいて(刮目して)、よく聞いて(読んで)下さい。(ここからは私のちょっとしたヒミツの専門的得意分野ですからね)(私が言うと信憑性に欠ける気がしますか??・・・私も同感です!) 恋愛関係や家族関係を良好な関係を保つには「交換的」に考えないこと!人間関係には交換にもとづく関係と、共同にもとづく関係が存在します。どちらを重視するかによって、人は相手の行動に対する関係が極めて異なり、お互いへの援助の仕方なども異なるため、大きな誤解を生みやすいのです。ペアが関係を維持し発展させるには、お互いに援助し合い、助け合わなければなりません。そのとき二人が“交換”と“共同”、どちらの人間関係に基づいて行動しているかによって、関係がスムーズに進んだり、ギクシャクしたりします。ビジネスの場面などでは「交換的な人間関係」が、仕事を円滑に進め、利益につながります。このため、交換的な人間関係を重視するタイプの人が上手く適応できます。しかし、恋人のような感情を中心とした人間関係を基盤とした結びつきの場合、交換的な人間関係で対応していると、対立する場面が多く生じて、関係が行き詰ってしまう場合が少なくありません。むしろ、“共同的な人間関係”を重視し、損得やギブ&テイクにアバウトに対処し、相手の利益を自身の喜びとするような人間関係で結びついている方が上手くゆくというのは、ほぼ間違いないでしょう。相手の喜びによって、その後に自分にもたらされる喜び、ではなく、相手の喜び=自身の喜び。相手を愛することによって得られる自分の愛の実感ではなく、相手を愛すること=自分の愛の実感なのです。ところで、もっと理解を深めるために、以下の4項目にイエス・ノーで答えてみて下さい。 【Q1】 人から援助されたら、すぐにお返しをして、その恩に報いたいと思う 【Q2】 助けてあげたのに、お返しが無いのは気分が悪く、利用されたかも知れないと感じることがある 【Q3】 共同の仕事の報酬は、平等に分けるのではなく、貢献度により分配すべきである 【Q4】 助けてあげたら、お礼や感謝の言葉が欲しい以上の4項目中3項目以上がイエスのあなたは、交換的人間関係を重視するタイプ3項目以上がノーであれば、共同的人間関係を重視するタイプでしょう。(責任は持てません)ちなみに、共同的人間関係を重視する人の典型的回答は、このようになります。 【A1】 人から援助を受けたとき、すぐにお返しを考えるより、ありがたく受け取り感謝する 【A2】 自分が援助したことにお返しがなくても、不当に利用されたとは感じない 【A3】 共同の仕事の報酬は、平等に分ける方がいい 【A4】 援助はそれ自体が自分の喜びなので、お礼や感謝の言葉がなくても気持ちがいいどちらかといえば、交換的人間関係を重視している人はビジネスで成功する可能性があるが、恋愛関係ではギクシャクし易いでしょう。男女の対立が生じたときは、交換的ではなく、共同的に捉えることができれば、トラブルは減少するはずですなのですが・・・。不思議なことに、同棲や結婚など“共同”生活を始めると、トラブルが増加しますが、その理由については、また改めて検証しましょう。〔追伸〕いつもと違った真面目な内容になってしまいましたが、恋愛の心理分析にはネタが多いので、好評であれば続編を書くかも知れません。(例によって、当てになりません)〔追伸〕2昨日のセミナー講師の著書です。共著が多いのですが、十冊以上は書いているようです。話が上手で面白いので、どこか近くでセミナーがあれば参加してみるのも良いでしょう。子どもとのコミュニケーションにも非常に参考になりますよ。 ↓ ↓ ↓
March 22, 2006
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先日、仕事のこともあって、瀬戸内海に浮かぶ故郷の島に行ってきました。無性に早春の気分を味わいたくなり、島で一番高い山に登ったのです。(もちろん、不精な私は車で登りました)その日は、少し風もあって、早春というより晩冬という寒さでしたが、瀬戸内海の海も、草花も春を予感させるものでした。(もちろん、私個人の予感ですから、他人がどう感じようと、そろそろ春なのです)そんな早春の海風の中で、見つけました。ミモザです。昨年、イタリアに住む私の友人にプレゼントしたことを思い出しました。 ↑まだツボミですね↑昨年は「ジャスミ○にミモザを」という言葉だけのプレゼントでしたが、(あえて言うまでもなく、心は込めていますが)今年は写真もプレゼントしましょう。忙しくて相手をしてあげられない、あなたにもプレゼントです。「ピン○ちゃんに、ミモザを」「ちびっ○ちゃんに、ミモザを」「でか○(←デカ丸とは読まないで下さい)姉さんに、ミモザを」「ゆ○ちゃんに、ミモザを」「とも○ちゃんに、ミモザを」「みさ○ちゃんに、ミモザを」「き○ちゃんに、ミモザを」「え○ちゃんに、ミモザを」「み○ちゃんに、ミモザを」(順不同)「みんなに、ミモザを!」〔注〕私は日本固有の「ホワイトデー」なるものに、『絶対反対である!』と主張するものですが、以上をもって、その習慣に代えさせて頂きます。〔注2〕ついでに、私は花を愛するあまり、私のために手折られるミモザが可哀想なので、写真と言葉(だけ)を愛する人に贈る習慣であります。〔注3〕断っておきますが、「私が忙しいから」とか、「めんどうだから」とか、「ないがしろにしている」とか、「どうせ、その他大勢の一人だからでしょ」とか、「マッケンジーは貧乏だから」という訳ではありません。・・・それにしても、緩やかになびく枝ぶりとそれに咲く黄色の花、淡緑色の葉が印象的ですね。 黄色のふんわりした花は明るく、早春の空の青い色とのコントラストは、春の訪れという時節にも合って、気持ちが明るくなってきます。ギンヨウ(銀葉)アカシアとは、葉の色が銀色ということらしいのですが、イタリアでプレゼントに使う「ミモザ」は、もしかしたら、もっと芳香があって房状に大きい花をつける「フサアカシア」の方かも知れません。スパークリングワインとオレンジジュースをミックスしたカクテル「ミモザ」、ボイルした玉子の黄身の裏ごしをふりかけた「ミモザサラダ」など、この花にちなんだ料理を思い浮かべるのは、私が空腹だからでしょう。あなたには、ダイエット中の哲学詩人と呼んで頂きたい。(正確さを求めると、腹の出た中年オヤジと言い換えることも可能です)
March 1, 2006
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女性に向かない職業は何でしょうか。誤解のないように言っておきますが、女性はその気になれば、どんなことでもやる能力はあります。ただ、多くの場合、その能力を発揮する能力に欠けているだけです。普通、女性に向かない仕事として最初に挙げられるのは、危険な仕事と重労働です。これらの仕事が女性に向かないと考えているのは、主として女性です。男女を問わず、危険な仕事や重労働に向いている人間はいないと思いますが、女性の考えは違います。そういう仕事に向いているのは男だと信じています。男自身も、何となくそう考えています。おそらく女性がそう考える理由は、「危険な仕事や重労働は嫌だ」というものでしょう。こういう仕事が女性に向いていないのは認めても構いませんが、他方、安全で力のいらない仕事も女性には向いていないと私は思います。「ちょっと、私の手を握って頂けませんか」という私のささやかで簡単な頼みをきくにも、女性は大きな困難を覚えるのです。当然、家事にも女性は向いていません。家事は生活する上でどうしても必要なものであり、女性は一人で暮らしていても家事をしています。しかし、洗濯にしても料理にしてもゴミ出しにしても、そこに夫の分を追加するだけのことを、女性は非常に負担を感じるのです。サービスすることに苦痛を感じるのかも知れませんが、サービス業に就いている女性もいますから、サービスする能力があることは確かです。ゆりちゃんなどを見れば分かりますが、多くの女性は心憎いまでに男を喜ばせることができます。しかし人を喜ばせるコツを知っている者は、人を嫌がらせるコツも知っているものです。残念なことに、ほとんどの女性は、金にならないと思えば、人を喜ばせる能力を使わず、代わりに人を嫌がらせる能力を存分に発揮しているのが現実です。女性に向かない仕事として、他に、微妙な感覚を必要とする仕事を挙げる人もいます。その証拠に、色、匂い、味、音などの鋭い感覚を必要とする、利き味や色彩調合や香水調合の専門家、料理人、造り酒屋の杜氏、作曲家、画家などは男が多い、というのです。しかし、これは大きな間違いです。一般に、人がネクタイやシャツを買ってきたのを見て「何、その色」と批判するのは女性です。世の男の中で、じゅうたんやカーテンの色を決めさせてもらっている男がいるでしょうか。「こんな料理、わたし食べられない」と文句をつけるのも女性です。「どこの女よ、この安っぽい香水の匂い」と指摘するのも女性です。私のピンクのシャツに付いたわずかな口紅の色を見分けるのも女性です。これらの事実を見れば明らかですが、女性は、男よりもはるかに感覚は鋭い。(少なくとも彼女達は、そう自負しています)それにも関わらず、料理人や作曲家などに女性が少ない理由は何でしょうか。簡単です。それは、王様に作曲家や料理人が少ないのと同じ理由によるものです。
January 21, 2006
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私には女性の考えていることが解りません。あのバッグが欲しい、美味しいものが食べたい、素敵な恋愛がしたい、マッケンジーはイヤだ、と考えているところまでは解りますが、それ以上は見当もつきません。女性の考えていることが解らないので、良かれと思ってすることが、たいてい裏目に出てしまいます。うちの事務所にいる女性に、元気がなかったので、私が気を遣って「食べすぎですか、それともカード破産したんですか、それとも仕事をしていないから良心が痛むんですか」と聞くと、怒られてしまいました。他にも、ある女性に『愛される女になる方法』という本をプレゼントしたら怒られてしまったこともありました。贈り物をされるのが嫌なのかと思って、何も贈らなくても怒られます。もしかしたら、私は愛されていなのかも知れません。好意も持たれていない可能性さえあります。せめて、邪魔者扱いしないで欲しい。考えてみれば、今の世の中において、男はほとんど邪魔者なのかも知れません。女性は仕事を持ち、ブランドバッグを多数所有し、男を複数所有することも可能になりました。子どもを産むにも、精子バンクなどを利用すれば、希望に近い子を作ることもできます。女性が男を必要とするのは、愛玩または観賞用か、慰みもの程度に過ぎないのでしょうか。女性がどのような男を好むのか、色々な女性から意見を聞いてみました。出てきた意見はまちまちで、あまりにも違い過ぎます。意見の中には「セクシーな男がいい」という意見もありましたが、「セクシーな男」の意味を問い詰めると、結局、「魅力的な男」という、何の参考にもならない意見である事が判明しました。また、男の外見について長々と希望を述べる女性もいましたが、そういうどうにもならないことを希望する女性を、私としては軽蔑するしかありません。男の好ましい内面として、参考になりそうな意見をまとめると次のようになります。〔1〕 頼れる男(強い男)これは「黙って俺について来い」という男ではなく、むしろ包容力のある男で、「ふだんは黙って見守ってくれているが、いざという時にビシッと注意してくれる」男だというのです。おそらく、すき焼きを食べているときに、好きなだけ高い肉を食べさせてくれて、ときどき「そのネギの下に肉があるよ」と注意してくれるような男なのでしょう。〔2〕 頼りない男(危なっかしい男)頼りない男や危なっかしい男を好む女性は「この人には私がついていてあげなくてはいけない」と思うらしいのです。それなら、寝たきり老人を好きになっても良さそうに思いますが、女性が寝たきり老人に群がっているのを見たことがありません。(病院で女性看護師が群がっているのは、見たことがあります)私は頼りないことにかけては自信があります。私が何かしようとするたびに、周囲の者は黙っていられず、「ああしろ」「こうしろ」「そうするな」などと指導するから、私が「放っておけない」タイプだということは明らかです。そう思って、自分の頼りなさに胸を張ったら、「“頼りない”と“信頼できない”とは違う」と言われました。〔3〕不良っぽい男(危険な香りのする男)不良といっても、本格的な悪人とか、悪事が本職の方のような男ではなくて、ちょっと突っ張っている感じの男のことを指すようです。「やんちゃな男」や、次の「無鉄砲な男」に近い雰囲気だと思われます。〔4〕無鉄砲な男(行動力のある男)慎重に行動する男や堅実な男は、なぜか人気がありません。逆に無鉄砲なところを男に求める女性は以外に多い。私は、慎重に熟慮を重ねた末に、軽率な行動をするタイプだから、この条件に合うかどうか微妙なところです。ただ、無鉄砲と言っても、ギャンブルに大金をつぎ込んで借金を作ったり、裸で外を走り回るのは許されません。女性の考えは、おそらく、“自分と付き合う程度に無鉄砲”であって欲しいということなのでしょう。(無鉄砲で無分別でないと自分とは付き合えない、と自覚しているのでしょう)もちろん、他の女と浮気するほど、無鉄砲であってはなりません。無鉄砲と言っても、よほど慎重に行動しないと、無鉄砲とは認められないのが難しいところです。〔5〕リードしてくれる男(押しの強い男)このタイプは、成長した女性には人気が無くなる傾向にありますが、まだ男というものが解っていない若い女性の一部は、男にリードしてもらうことを夢見ています。こういう女性も遠からず、本当に男にリードを任せたらとんでもない結果になることに気づき、自分がリードしなくてはならないと考えるようになります。そして結局、男がリードするのと同じくらい悲惨な結果を招くことになります。男が適切にリードする方法さえ知っていれば、こういうことにはならないはずです。女性を思いどおりリードするのは、実は簡単です。女性に「好きなことをしろ」「欲しい物は何でも買え」と命令すれば女性は服従するものです。ただし、そういう男になるには大富豪の経済力が必要です。〔6〕やさしい男やさしい男は昔から人気があります。やさしさの中身は、「プレゼントをくれる」「食事をごちそうしてくれる」「好きなことをさせてくれる」「他の女には冷たい」など、聞けば聞くほど恐ろしくなるような苛酷な内容です。やさしい男になるのは、決してやさしくない。このようなやさしさが私に欠けていることは認めますが、こんな苛酷な条件を要求するような女性にもやさしさが欠けていることを認めてもらいたいものです。〔7〕対等のパートナーリードするのでも、されるのでもない「対等」の関係とは、具体的には、「プレゼントをくれる」「食事をごちそうしてくれる」「好きなことをさせてくれる」「他の女には冷たい」などです。これを「対等」と呼ぶのに疑問を感じるような男は、女性にモテる資格はありません。〔8〕かわいい男女性が「かわいい」と呼ぶものは、子犬、仔猫、洋服、靴、バッグ、俳優、車、店舗など多様です。「かわいい」という言葉をどういう意味で使っているか不明ですが、こと男に関していえば、「抜け目のない男」というよりは「スキのある男」ということになるらしい。たぶん、女性がつけ込むスキがある男なのでしょう。私はスキだらけの男です。そのため日頃から女性につけ込まれていますが、女性にモテているようには思えません。〔9〕少年のような男この点については自信があります。私は「大人っぽい」とか「成熟している」などと言われたことがなく、子どもじみていると言われているのです。しかし「少年のような男」と「子どもじみている」はまったく違うようです。ある意見では、男が無心に何かに打ち込んでいる姿を無邪気と感じるらしい。だが無邪気に風俗通いをしたり、積み木遊びに夢中になったりしても、少年のような男とは認められないでしょう。少年らしさを狙うには、大人の計算が必要です。〔10〕清潔感がある男さわやかな印象を与えるような男のことなのでしょうが、これは明らかに外見の問題です。もし内面が、清廉で廉潔無欲で清潔な男がいれば、ブッダやキリストのように着のみ着のままで不潔な外見になるのです。さらに、ブッダやキリストのように、女性と交わろうとはしないでしょう。ちなみに私は女性から「私生活が不潔っぽい」と言われますが、実際には、清爽で飾らない欲望のままに純粋に生きているだけです。私は潔白だ。〔11〕何でもいいこんな意見の女性がいるのかと思うでしょうが、こういう女性によく聞くと、ハゲはイヤ、デブはイヤ、貧乏はイヤ、マッケンジーだけは絶対イヤ、などと注文がうるさい。「何でもいい」というのは、「自分の希望通りなら何でもいい」という意味なのでしょう。女性の意見を並べてみると、ほとんどの男は、「道理で自分がモテないはずだ」と納得するでしょう。しかし、彼女たちが選んだ男を見ると、とうてい厳しい条件をクリアしているとは思えないロクでもない男ばかりです。それにしても、世の中の男達は、なぜこのような苦しみや痛みを感じながらも、女性にモテようとするのでしょうか。男は女性の呪縛から解放されなければなりません。女性に媚び、へつらってまでモテなくてもよいでしょう。男達はモテることへの欲求を放棄すべきです。私は放棄しませんが。
December 15, 2005
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少し前、某銀行の女性職員が十億円近くのお金を詐取したとの報道がありました。なぜそのような事が可能なのでしょうか。できれば私が銀行員の頃に教えて欲しかった。銀行を去った今となっては、“私に貢いでくれる女性の見つけ方”か、“私の言う通りに動いてくれる女性の作り方”を見出すしかありません。かつて私は、女性は天使、女神、観音様のような存在だと信じていました。悪くても、犬や猫の仲間だろうと思っていました。その後、幾多の苦い経験を重ね、ライオンかハイエナの仲間ではないか、と疑う段階を経て、怪獣やゴジラの類いだと気づいたとき、ついに真理に到達したと思いました。暴れる怪獣を相手にして、打つ手はない。女性との付き合い方を考えても無駄だ。こう思いました。「どうして私のような善良で弱い男を平気で踏み潰せるのか」についての疑問が氷解した瞬間でした。しかし、あるとき米国のテレビ番組(ディスカバリー・チャンネル)を見てから、私の認識は一変しました。それを見たのがいつだったのか憶えていませんが、私が経済問題に悩むようになって以降のことだと思います。さらに絞り込めば、私が女性問題に悩むようになって以降ですから、ここ四十年以内の放送だったのでしょう。その番組は、冷戦時代に東ドイツの諜報部が西側の女を、どうやってスパイに仕立て上げたかを描いたドキュメンタリーでした。その方法は、狙いをつけた女に男性諜報部員が接近して、恋に陥らせ、スパイ行為を働かせる、という古典的な手口です。元諜報部員の証言によると、狙った女は、ほぼ100パーセント恋に落ちたらしいのです。これを見て、ぜひ知りたいと思ったのは「どうやって狙った女を恋に陥らせることができたのか」ということです。その諜報部員がハンサムだったのなら、まだ解ります。ベッカムがモテるのは仕方がありません。納得は出来ませんが、あきらめはつきます。しかしテレビで見た限り、誘惑した諜報部員はどれも、私と似たり寄ったりのサエない男なのです。そういう男が、富豪、医師、IT企業の社長、ベッカムなどを装いもせず、狙った通りの成果を挙げたのです。私がテレビに釘付けになったのは、私を知る人なら容易に想像できるはずです。その具体的な手口を、私以外の全男性に代わって知りたい。もっと知りたいのは、どうやってスパイ行為を働くように説得したのか、ということです。たとえ女性が恋に落ちても、男のして欲しいことをやらせるのは至難の技です。第一、頼みごとが尋常ではありません。西側の女性に祖国を裏切って、重罪を犯してくれと頼んでいるのです。しかも、尋常な相手に頼むのではありません。「ちょっと新聞を取って下さいませんか」というささやかな頼みごとでも、言うことをきこうとしない女性が相手なのです。番組によると、親密になって数ヶ月たったころ、「スパイをしてくれないと、もう会えない」と言って、女性にスパイを働かせたといいます。しかし、これでは何の説明にもなりません。かりに私が、「新聞を取ってくれないと、もう会えない」と言っても、相手の女性を喜ばせるだけでしょう。私が女性に踏み潰されているのは、たぶん、女性との付き合い方が適切でないか、女性が適切でないか、私が適当でないかです。その答は、私を知る人なら容易に想像できるはずです。
December 8, 2005
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先日、テレビを見ていたら、日本に長期滞在している外国の男が、日本の女性について語っていました。「数人の日本人女性と付き合った(この時点で私は許せないと感じた)が、日本の女性は自分の意見を持っていないから、付き合っても飽きてしまう」と言っていたのです。(ここで私の怒りは頂点に達しました!)(飽きたのなら、私に紹介しろ!)そんな私の孤独はともかく、この発言の内容自体も私の認識と大きくかけ離れています。その男と付き合った女性は、英語が苦手で「イエス」としか言えなかったか、男が、何か(お地蔵様など)を日本の女性と思い込んでいたのではないでしょうか。自分の意見を持たない女性が本当にいるなら、ぜひ紹介してもらいたい。私の周囲にいる女性は、確固たる自分の意見を持っています。「エルメスじゃなきゃイヤ」とか、「ベッカムみたいじゃなきゃイヤ」とか、「マッケンジーはイヤ」など、詳細かつ明確な意見を持っていて、妥協というものを知りません。結果的に、ベッカムとは似ても似つかない男と付き合ったりしているので、どこかで妥協しているのでしょうが、少なくとも私の説得で女性が意見を変えたためしはありません。日本人は、男女を問わず、自分の意見や主張を持たない、とよく言われますが、これは明白な誤りです。うそだと思うなら、通りがかりの人に「千円出せ」とか、「私と付き合え」と言ってみるがいい。女性の買い物にケチをつけてもいい。人間の自己主張の強さに改めて驚くはずです。実際は誰でも他人の自己主張の強さには手を焼いているはずです。自己主張するのは簡単です。しゃべる必要もありません。よく電車で青年が足を投げ出して座っていますが、これは「自分の前方五十センチは、俺の領域だからな!絶対に侵害させない!(コワいお兄さんが来ない限り!)」と、自己を主張しているのです。犬が放尿によってテリトリーを守ったつもりになっているのと同じ種類の自己主張でしょう。犬も自分より強いオスには、放尿による主張は通用しません。なぜ日本人は自己主張をしないとされているのか不可解ですが、さらに不可解なのは、自分の意見を持ち、それを主張するのが良い、とされていることです。他人と違う意見を持てと言うなら、二+三=六だ、という独自の意見を持てばいいのでしょうか。急いでいるとき、グループ全員が「日替わりランチ」を注文しているのに、一人だけ「スペシャルシーフードグラタン」を注文すべきなのでしょうか。自分の意見を持って良い場合は限られています。自分の利益や好き嫌いを主張するときのような、他人から見るとどうでもいい場合だけです。むしろ自己主張は、迷惑と争いのもとです。自己主張と同類のものとしては、わがまま、主体性、こだわり、頑固などがありますが、はた迷惑なものばかりです。それなのに「日本人はもっと自己主張すべきだ」と叫ばれているのです。たしかに、日本の外交は外国に対して強い主張をしないし、日本人旅行者が海外でカモにされることも多いと感じます。これは損なことでしょう。損をするから自己主張が必要だと叫ばれるのかも知れません。しかし、なぜ損をしてはいけないのでしょうか。他人に迷惑を掛けているわけではなく、むしろ喜ばれているのです。ソクラテスは、「加害者になるよりは被害者になれ」と主張したし、キリストは、「左の頬を打たれたら右の頬を出せ」と説き、私は、「左の頬も右の頬も打たないでほしい。どうしてもと言うなら、力いっぱい打たないでほしい」と希望しました。(三人とも被害者である点が共通しています)(ソクラテスもキリストも最期は死刑になったのが不吉です)私に危害を加えることしか頭にない者たちには、おおいに反省してほしいものです。もちろん、主張すべきことは主張すべきです。しかし、主張するなら、他人と違う意見より、正しい意見を主張すべきです。「エルメスじゃなきゃイヤ」と主張するより、「二+三=五」と主張して頂きたい。とくに私の価値については、正しい意見を持ってもらいたい。こう主張したら、ゆりちゃんに「本当に正しい意見を持ってもいいんですか」と言われたから訂正しますが、暖かい意見を持ってもらいたい。
December 3, 2005
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人は、目とか耳とか本とかPCのディスプレイとかから得られる情報だけでは、物事の真実を判断することは出来ないとカントは考えた。(かどうか、知りませんが)たしかに、キャバクラ嬢の愛想のいい笑顔や、「わぁ~、来てくれたんだぁ♪すっごい嬉しい☆すっごい会いたかったのよぉっ!」そんな言葉を額面通りに受け止めるのは愚かなことです。しかし、社交辞令や営業用の笑顔と解っていても悪い気はしない、というのも一面の事実です。「どうせ、仕事だから愛想よくしてくれているだけ」と冷ややかに受け止めても良さそうですが、あえてそうしないでニヤけてしまうのは、カントが言う『自由意志』の働きなのでしょう。カントは必然の支配を受けない自由意志こそ、人間の尊厳の源と考えました。人間の尊厳に関わるとなれば仕方ありません。尊厳を守るためにも、存分にニヤけざるをえないのです。また一人の女の子に通いつめて仲良くなると、愛想よくされるだけでは満足できなくなるのが常です。キャバクラ嬢もそのあたりは心得ていて、上客と見込んだ客には、あえて疲れた顔を見せて、「マッケンジーさんの前だと、仕事を忘れてリラックスできちゃうのよね~」なんて言ったり、わざわざぞんざいな口調で話したりして、「あなたは特別な人」感を演出したりするのです。いったい何を信じればいいのか分かりませんが、それでもやはり、男が目指すべきは、彼女達の言動の中に「仕事を越えた部分」を見つけ出すことです。「いくら仕事でも、彼女だって、時には本音を見せてくれるはず。本音を見せてくれるのは、自分に特別な好意を抱いているから」「さっきの態度や言葉は、けっして演技じゃない!」こうした可能性の存在を信じられない男は、キャバクラに行く資格はありません。(そういう人は最初から行きませんが)カントも、『限界がある人間の感覚器官で認識できないからと言って、神が存在しないという証明にはならない』と言っています。キャバクラにおいても、「仕事を超えた部分」のように見える言動が、果たして真実かどうか証明する必要はありません。ただ、無心に全力で信じればいいのです。「俺は特別な存在だ」「俺には素顔を見せてくれている」「俺に好意をもってくれているかも知れない」と。『イワシの頭も信心から』ならば、『女の子の愛想も信心から』です。そもそもキャバクラで男が追い求めている「成果」とは、いったい何でしょうか。「もちろん、狙った女の子を口説き落とすことだ」と力説する方は少なくないでしょう。その日を夢見て、男は足しげく店に通い、プレゼントでご機嫌をとり、アフターで高いお寿司をおごったりします。果てしない散財ですが、それでも口説き落とせるとは限りません。カントは、周囲の目や、見返りを期待するのではなく、『自分がやりたいからやる』『好きだからやる』という純粋な動機で行動してこそ価値があると考えました。たとえば、海で溺れている美人を反射的に助けるように、“下心や欲得抜きで”行為そのものの尊さに基づいて行動させる道徳法則のことを『定言命法』と名づけています。(どこかの宗教用語みたいですが)人は定言命法に従って初めて、自由な主体となるというのです。(まったく意味が理解できませんが)要するに、口説き落とすという結果は二の次で、入れあげたいから入れあげる、という境地になれたとき、我々は真の意味でキャバクラを楽しめるのです。「成果」を求めるのではなく、「入れあげたい」という『定言命法』に従うことが尊いのです。とは言っても、首尾よく成果が挙がってしまう可能性も無くはありません。そのときは、「ああ、これでは自由に楽しんだことにはならない」と言って、自分で自分を非難しなければならなくなります。しかし、自分自身の非難なんて、痛くも痒くもない、嬉しい状況でもあるので、どっちに転んでも大丈夫なのは言うまでもありません。またカントは、『他人も自分も、手段ではなく目的として扱え』と言っています。これも私なりに解かり易く解釈すると、『欲望を満たす手段として女の子を見るのではなく、女の子に欲望をかき立てられること自体が大事である』ということではないでしょうか。お互いがお互いを目的としている関係が成り立つとき、(私は『愛』か『打算』が生まれると思っていますが、)カントは彼が理想とする『目的の王国』が生まれると言っています。(なぜか『目的の王国』という言葉に、夜の繁華街の匂いを感じます)欲望の世界においては、とかく『目的』ばかりが空回りしがちです。徒労感や無力感に打ちのめされたときには、「これでまたカントの理想とする境地に一歩近づいた」などと思ってしまうことで、力強く立ち直りましょう。間違っても、迂闊に『目的』を遂げてはいけません。とくに、ゆりちゃんに対して、私以外の男には、けっして許されることではありません。≪註≫実は私は「キャバクラ」なるものに行ったことがありません。そもそも私の住む街に存在するのでしょうか。聞きかじった上っ面の知識に、適当な当て推量(と仮名)で書いたに過ぎません。今回の件を検証するためにも、ぜひ誰か私を連れて行って下さい。もちろん、勘定もお願いします。【イマヌエル・カント】よく分かりませんが、史上もっとも偉大な哲学者の一人。几帳面なタチで、毎日、決まった時間に散歩するカントを見て、街の人は時計の針を合わせたとか。しかし、けっしてカタブツなわけではなく、話好きで明るいキャラだったらしい。ちなみに、彼は一生独身でした。(夜の街を散歩していたのでしょうか)ところで、カント自身が『コペルニクス的転回』と言った“認識”とは、たとえばキャバクラ嬢が「大好き」と言った場合、本当に大好きかどうかは問題ではなく、言葉の意味は聞く側が勝手に決めるもので、それこそが“正しい認識”であるというものです。解かりにくいので、私の解釈で簡単に言うと「世界は自分の解釈(勘違い)で作られる」ということです。この考え方に立つことで、この世界は何倍も楽しくなりそうです。(悲しくもなりますが、そこは考え方一つということで)夜の世界も楽しくなるでしょう。ちなみに私は、ゆりちゃんと二人きりの世界(目的の王国)で楽しくしたい。
December 2, 2005
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気が滅入っているのは、このところの天候不順のせいばかりではありません。しかし個々の事情や、個人的状況や、お腹の出っ張りはどうあれ、もうすぐ夏になります。帰省する人、受験がある人、忙しくて夏どころじゃない人、一年中夏休みのような人、一年中夏休みだったらいいなぁと考えている私、休みはともかく四季のある日本では、ほぼ一年に一度、いやおうなく、だれかれ構わず夏が訪れます。若かろうが若くなかろうが、夏といえばビーチとビールでしょう。たしかに若い時分の自分のような楽しみ方を目指すのは無理があるかも知れません。しかし、失ったものを嘆いても青春の浪費というものです。残された余命が少ない中年には時間が限られているのです。中年の男は攻めるしかありません。(中年の男には攻める時間しかありません)(待っていても誰も来ません)夏の海には何かが待っているに違いないのです。果敢に立ち向かえば、必ずや、海における自己の価値観や、自己実現の方法が見つかるはずです。来たる夏に備えての心得を『生の肯定』を力強く訴えたニーチェの思想から、抽出してみましょう。夏の海に出かけるとき、(愚かにも)男は、ビーチの力、夏の海の雰囲気などに過剰な期待を寄せがちです。自分の力量は棚に上げて、都合のいい夢を抱かずにはいられません。しかし年齢とともに、気力も可能性も小さく萎んでゆきます。(体は弛んでゆきます)もちろん、若い頃だって、旨くいったわけではないのですが、「夏のビーチの神様」の力を信じていました。そんな“信仰心”が消えてしまったからといって、海へ行かないと言うのは、未熟で短絡的な逃避です。ニーチェは、多くの人が神を信じてもいないのに、とりあえず宗教の価値観に縛られて生きている状況を激しく批判しました。ニーチェは『神は死んだ!』と宣言して、自分の価値観を探す必要性を訴えたのです。若いとは言えない私(と、その他大勢の人)は、「夏のビーチの神様」の死を自らに宣言しましょう。例え、ビーチの神様の力が存在していたとしても、その恩恵を受けられるのは、残念ながら、私よりお腹が平らな、成長途上の青くさい連中です。失ったモノへの未練をすっぱりと断ち切ることで、ビーチにおける自分なりの価値観や、新たな喜びが見えてくるはずです。(新たな女性も見えてくるはずです)そんな気持ちで辺りを見まわすと、さしあたって目に入るのは、ピチピチの水着姿の群れです。(なかには、水着が張り裂けんばかりにピッチピチの一群も棲息しています)野心や邪心を捨ててみれば、女性の造作や年齢の幅に係わらず、どの水着姿も有りがたく感じられます。ああ、なんて素晴らしい境地でしょうか。半端にナンパな気持ちを持っていると、幻想を抱いて目をギラつかせている若者に対して、「女にガツガツして、みっともない」とか、「若いのに痩せすぎだ!もしも遭難したらオレの方が生き延びるに違いない」とか、「そんなに肌を焼くと、中年になってオレのようにシミができるぞ」とか、ドス黒い気持ちを抱いてしまいがちです。それは、ニーチェ言うところの『ルサンチマン(弱者の強者に対する憎悪と怨恨)』に他なりません。しかし、神の死を宣言してしまえば、そんな若者を素直な気持ちで応援できます。万が一、驚くような上玉を連れ去ったとしても、「どうせ、散々おごらされて逃げられるに決まってる」と最悪の展開(自分にとっては最良の展開)を予想することが大切です。ニーチェ的な『積極的な意味を持つニヒリズム』とは、きっとそういうことに違いないのです。「ねえ、みんなで海に行かない?」このセリフは、何も若者の専売特許というわけではありません。若くないなりに、ビーチを満喫する方策を探るために、あえて果敢に、もう若くない男女ばかりで海に行くという荒業に挑んでみるのも一興でしょう。たしかに、想像してみても、絵になる光景ではありません。しかし、ニーチェは言いました。『脱皮できないヘビは死ぬ』と。自分を乗り越えて強くなろうという『力への意志』を持たない人間に未来は無いのです。若くない者同士の場合、みんなで水着姿になるだけで、移ろい変わってゆく無常の境地を感じられたり、人生の虚しさを思い知らされたり、現実の自分と対峙できたりするのが、若者には不可能な、最も有益な点と言えるでしょう。ニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で言った、「これが人生だったのか。よし、ならばもう一度!」という気持ちが、ふつふつと湧き起こってくるはずです。具体的な行動としては、たとえば海の家で、バイトの女子高生にビールを注文しながら、(ご機嫌な調子で)「お、夏休みのバイトか?精が出るねえ。感心、感心」などと声を掛けるなどという芸当は、若い女性を連れている若い男には絶対に真似できません。砂浜で、何十年ぶりかで砂に埋めてもらって、「子供の頃に返ったような気分だ」と言いながら、その舌の根も乾かないうちに、「ソコはもっと高く砂を盛り上げてくれないとリアルな膨らみにならないじゃないか」といった楽しいセリフは、若者には言えません。(言いたくもないでしょうが)いずれも、極めてオヤジ臭い行為ですが、敢えて勇気を振り絞って、恥ずかしさに打ち勝って口にすることに意義があります。若くない者同士の海辺は、オヤジという新しい境地に脱皮する絶好の機会です。オヤジとは、自分の運命を肯定しつつ、従来の自分を超えようとするという意味において、ニーチェが理想の生き方とした『超人』そのものなのです。ただ、こちらは、そこまでの高い理想と、深い思慮と、大きな考えで、敢えて行動しているのに、周囲は何の違和感も無く、「マッケンジーの言いそうなこと」と、“いつものこと”とでもいうように、自然に受け止められてしまう可能性もあります。ただしその場合は、いつの間にか“新たな境地に達していた自分”を祝福してあげれば良いだけなので、まったく心配はいりません。≪註‐1‐≫【ニーチェ】ドイツのザクセン州に牧師の子として生まれる。二十五歳で大学教授になったものの、哲学にはまって大学を辞め、各地を放浪。さほど注目されないまま、多くの著作を生み出す。最期の十年ほどは精神に異常をきたし(原因は梅毒だったといわれる)、自分が評価されるようになったことも知らないまま世を去った。≪註‐2‐≫ニーチェは、結婚や恋愛がらみの名言を数多く残しています。といっても、彼は生涯独身でした。彼が恋愛でひどい目に遭ったエピソードは有名です。彼の言葉に恋愛問題解決のヒントを読み取るのは自由ですが、少なくとも彼は恋愛の巧者でも、恋愛の達人でもなかったようです。(言うまでもないでしょうが、私も同様です)少なくとも、彼の言葉や、私の解釈を、ビーチで実践するには、自分の責任において自己の人格を賭けて、試みて頂きたい。実践による皆様の成長を祈ります。
July 5, 2005
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人は表情や身振り手振りなどでもコミュニケーションを行いますが、最も重要な手段は言語によるものでしょう。そもそも言語は様々な機能を持っていますが、ここで忘れてならないのは、退屈させるという機能です。結婚式の披露宴など、あらたまった席では必ず、退屈させるためにスピーチが用意されています。スピーチの内容は、ほとんど決まっていて、「いつまでも仲良く」とか、「協力して幸福な家庭を」といった奇跡を願うようなものばかりです。こういう話を聞くには人生は短すぎます。(話を聞いているときは、時間の流れるのが非常に遅く感じられるのが不思議です)結婚という迷路に迷うにも人生は短すぎます。たまには、「どうして結婚なんかしたんだ!」と叱ったり、結婚の弊害を主張する人がいてもよさそうなものですが、そういう人が披露宴のスピーチを頼まれる可能性は皆無に近いでしょう。これが“離婚披露宴”なら、離婚する二人から“離婚の秘訣”などを聞けるところですが、結婚披露宴では、ありきたりの話ばかりで、そういう有益な話は期待できません。披露宴会場では、居眠りも読書も腕立て伏せもできず、できる事といえば退屈しかありません。退屈する仕組みになっているのです。退屈から救ってくれるのは、わずかに、目の前の料理が冷めてしまうのではないか、という心配くらいです。一方、スピーチをする方は退屈を逃れています。しかし、並み居る列席者がもっともらしい顔をして聞いているふりをしている中で、何がめでたいのか確信が持てないままに無理やり結婚を祝福させられるのです。楽しかろうはずがありません。わずかに救いになるのは、自分の話を聞かされる人達が、じっと退屈に耐えているという事実くらいです。スピーチの間、結婚する本人たちは、当然、神妙な顔をすることを義務付けられていますが、心の中では、余興で歌う歌詞を暗唱したり、久し振りに着た着物が苦しくて「料理を全部食べられないのではないか」と心配したりで、誰も聞くどころではありません。このように参加者全員がスピーチを迷惑がっているのに、なぜ必ずスピーチが行なわれるのか不思議です。スピーチのように全員が嫌がっていることが当然のように行なわれるというのは、不可解かつ不愉快なことです。もしかしたら、新婚の二人がこれから味わう苦痛を、関係者全員で分かち合おうとしているのかも知れません。スピーチが全員合わせて五分程度の長さなら、まだ我慢できます。しかし、ほとんどの人は、短いスピーチでは失礼になると考えているからやっかいです。「簡単ではありますが」と断る人がいますが、こういう人の話が簡単であったためしがありません。第一、「簡単ではありますが」という部分が余計です。余計な部分を挿入することに、何の抵抗も感じていないのですから、話を短くする努力を払う気がないことは明らかです。むしろ、こういう人は、話は簡単であってはいけないと考えているのです。こういう感覚で簡単だと言っても、話を聞く側が簡単だと感じられるはずがありません。それとは逆に、「話が長くなってしまいましたが」と断る人がいますが、こういう場合、本当に話が長い。本人が認めるくらいですから、他人が聞けばもっと長いのです。「ひとことで言いますと」と要約する人もいますが、「ひとこと」がひとことで終わることは絶対にありません。それに、ひとことで言えるなら、どうして最初からひとことで済ませてくれなかったのか。さんざん喋った後で、今さら要約されても、要約の部分だけ長引くだけです。このように、どう工夫しても、言語が退屈させる機能しか果たさない場合があります。もちろん、こういう(退屈な披露宴などの)場合には、スピーチなしのパーティーにするという方法もあります。問題なのは、私の仕事における私のスピーチです。(一般的にはプレゼンテーションと言い換えられています)自分でも退屈だと思うのですが、言語を使用しないで意思の疎通が可能なら苦労しません。仕事以外でも、言語を使用しないで、女性に感情(愛情など)を伝達するとなると、社交辞令、美辞麗句、虚言、歯の浮くようなお世辞、でまかせ、責任回避の伏線、練りに練ったシナリオ、偶然を装った演出、あえて意識的に使用する誤解を招く表現、などが必要なくなるでしょう。仕事においても、私が(苦い実体験を通じて)苦労して身に付けた、言い訳や言い逃れのテクニックが使えなくなります。言語には「ごまかす」という機能があることも忘れてはなりません。
June 29, 2005
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副題<「権威に訴える論証」に騙されるな!>相変わらず忙しくしていますが、この忙しいのに結婚式に招待されてしまいました。時間的にも繁忙を極めているのに、経済的にも窮乏を極めそうです。それにしても、結婚式というものは、実に幸せな良い気分になれるものです。いにしえの賢人は、この感情をこう表現しました。「人の不幸は蜜の味」と。それにしても、よく「結婚式の祝辞は無い方がいい」と言う人がいますが、私はそうは思いません。結婚式や披露宴、さらに結婚そのものなどは、無いほうがいいと思いますが、祝辞には意義があります。(内容には異議もあります)ことに夫婦円満の秘訣を説く祝辞は貴重です。私はこれまで、祝辞に真剣に耳を傾けてきましたが、いまだに功を奏したことはありません。秘訣を説く人を見ても、その人自身に功を奏しているようには見えません。この場合、「自分の夫婦生活がうまくいっていないような人の夫婦円満の秘訣は信用できない」と考える人がいるかも知れませんが、これは誤りです。こういった誤った推論を対人論法といいます。これは、発言者の人格、経歴、行動などを理由にして、発言内容が誤っていると推論するもので、実質的には人身攻撃をしているに過ぎません。犯罪者が不良少年に「罪を犯してはいけない」と説教したり、タバコを吸う大人が未成年に「タバコを吸うな」と注意するのは言行不一致かも知れませんが、それを理由にして発言内容を誤りだとするのは間違っています。先日、妻がニュースを見て「弱者を食い物にするのは許せない」と言ったとき、私は「私のような弱者を食い物にしているのは誰だ」と言い返そうとして思いとどまりました。せっかくニュースの中の男に向いている矛先が、私に向いてしまうのを恐れたからでもありますが、妻の普段の言動を理由にして、発言内容を誤りと決めつけるのは論理的に間違っているからでもあります。私とは対照的に、妻は間違いだからといってひるむような人間ではありません。(真実にもひるみません)妻がひるむのはゴキブリだけです。(ゴキブリの方がはるかにひるんでいると思います)妻は普段から、対人論法をはじめ、誤った推論を自在に使っています。妻は私の提案をことごとく退けますが、おそらく彼女は、「自分の言うことに、夫は反論しない。ゆえに自分の言うことが正しくて、夫の言うことは誤りである」と推論しているのでしょう。こういう人間はおうおうにして、自分のことはすべて正しいと考えるものです。しかし、「権威ある人がAと考えた。ゆえにAは正しい」という推論は『権威に訴える論証』といい、正しいとは限らないのです。とくに妻の場合、いくら暴力的なまでの権威をふるっていても論理的には大間違いです。(こう言っても妻には応えません。論理も妻の前では無力です)通常、我々は人の言うことをききません(これは私に対する人々の反応を見れば明らかです)が、他人が言うことでも、権威があると認めると無条件に信じるものです。たとえば、円周率の求め方を知っている人は少ないと思われますが、それでも国の検定による教科書に「3.14」と載っているのだから正しいと無条件に信じています。飛行機に乗ることに不安を感じない人は、航空会社の訓練を受けたパイロットと整備技術者を信用し、その彼らは飛行機の製造会社と設計を信用し、その設計者は物理学を信用し、物理学者は数学者を信用しています。(その数学者も、自分の妻には信用されていないに違いありません)このように。「専門家がこう言った。ゆえにそれは正しい」という推論が多用されていますが、この推論はいつも正しいわけではありません。専門家が常に正しいとは限らないし、専門家が専門領域外で発言することもあるからです。たとえば、コマーシャルで発言しているタレント達は、薬や電子機器や保険などの専門家ではありませんが、彼らが有名だからという理由で彼らの発言を信じるのは誤りです。また、テレビやマスコミの発言を正しいと考えるのも誤りです。さいわい、彼らはたいてい公共的な中立性や健全な常識を持っているからいいのですが、一部の国のように、公共性が偏った思想や宗教に影響を受けることも認識しておく必要があるでしょう。一芸に秀でた人物や業績を残した個人を過大に評価し、その発言などを妄信することは危険なことです。嘆かわしいことに、私の周りでも誤った推論が横行しており、「マッケンジーがこう言った。ゆえに誤りだ」と非常に誤った推論をしています。しかし、そのような人も、私という人間を深く知る前は、「マッケンジーという人物は信用できるかも知れない」と考えていたはずです。初心を忘れるな、と私は言いたい。世阿弥が言ったことだから正しいはずです。
May 31, 2005
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このページを訪れる皆様にお知らせします。このところ私の個人的な都合により、ページの更新や返事が返せない日が続いてしまい、まことに心苦しい限りです。そのような状況にも関わらず、皆様には労わりの言葉を頂き、心苦しく申し訳ない思いでいっぱいです。…ところで、実は私の文章は、下書きから校正に至る作業を何日かに分けて作成しております。すでに下書きを終えたものも何点か存在していました。(過去形です)そのような今日、ある事情により、もう少しお待ちいただく事態になってしまったことを皆様にお詫びします。本日、未明、私の事務所において盗難事件が発生いたしました。パソコン、デジカメ、PDA(SONY:CLIE)を盗まれてしまいました。さらに、数百万の現金や、残高数千万円の預金通帳、有価証券、権利証、貴金属宝石類も、見あたりません。窃盗事件の以前から見あたりません。どこにあるのでしょうか。幸いなことにデスクトップPCは無事ですから、仕事への支障は軽微なものです。そもそも私の仕事も軽微なものです。がんらい私の性格も軽率なものです。それにしても、(今となっては証明するすべもありませんが)過去最高の傑作であった下書きが盗まれてしまいました。今後の私の文章が面白くないと感じられる方は、私の事務所に侵入した窃盗犯に不満を向けることを提案します。最後に私からの教訓。失ったモノは、「価値があった」と錯覚しがちである。失ったモノは、存在しなくなったからには、価値の存在も失ったのである。〔追伸〕失ったモノや、失いそうなモノに、“執着すること”を“愛”と錯覚しがちである。思い出(過ぎ去った過去への哀愁≒愛執)として愛でましょう。《つい追伸》本当に泥棒に盗られたのです。盗まれたのは、ノートPC、デジカメ、PDAのみだと認識しています。事務所内の什器・備品などへの保険も契約しています。盗まれたPC内のデータのバックアップも(おおむね)取っていると思われます。PCのウィンドウズにおける、起動その他のパスワードも設定しています。しかし、そうはいってもアドレスデータが800件近く、HD内に存在することの責任は重く受け止めなければなりません。皆様に迷惑が及ぶような事態が発生した場合には、ご一報下さい。私に可能な範囲で、誠心誠意、対応させて頂きます。ご迷惑とご心配をお掛けして、本当に申し訳ありません。・・・陳謝深謝! m(_ _)m
May 20, 2005
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仕事が重なって徹夜しました。この一週間で徹夜は二回目です。時間的にも、経済的にも、余裕の無い生活は嫌悪しているのですが、どうしても時間が足りなくなってしまいます。(せめて経済的に余裕が持てるなら、仕事で徹夜するのも我慢できます)物事というのは、どうして予定通りに運ばないのでしょうか。すべての物事が予定通りに運ばないのなら、まだ良いのです。問題は、仕事の締め切りやローンの引き落とし、約束の日時、納税期限などは容赦なく予定通りに来るのに、私の仕事と入金だけが予定通りにならない点にあります。先週の木曜日に東京へ日帰りの出張に出掛けたのですが、仕事が予定より早く終わってしまいました。このような時は、たいてい仕事が失敗の場合ですが、私の仕事はたいてい失敗なのに、予定通りに終わることが稀なのは理解に苦しむところです。さらに私の場合、交通機関までも予定通りに運行しないのです。この日の飛行機は定刻通り羽田空港を離陸したのですが、広島空港が雪と風のために着陸が遅れて、一時間以上も予定より遅れてしまいました。そもそも私は予定の立て方が楽観的すぎる上に、予定外の仕事が突然生じることがよくあります。(仕事が突然片づくことはありません)(また、予定外の仕事は突然生じたりしません)このような場合、責任感の強い私は徹夜するしかありません。(とくに、無責任にも、約束の期限をとっくに過ぎている場合)これまで何度も徹夜しましたが、いい思い出は皆無です。徹夜してやったことと言えば、マージャンで負けた、苦し紛れに試験勉強をした、苦し紛れに仕事をでっち上げた、くらいです。もちろん、徹夜してやった事はこれだけではありません。トランプに負けたし、女性にふられたし、仕事もできなかったものです。年のせいなのか徹夜するとこたえます。(徹夜までして、ふられると、とくにこたえます)徹夜明けの日は仕事をしていても、眠気で仕事になりません。眠気をこらえて仕事に臨みます。調子がいい時でさえ、ろくな仕事ができないのだから、よっぽどひどい結果になると覚悟していましたが、実際にやってみると案じたほどではありませんでした。徹夜すると、自分を客観的に評価する能力が麻痺するのです。(私の仕事は普段からひどい、という可能性も、わずかながら否定できません)睡眠不足は身体に悪そうな気がするのですが、何かの異常で何年も眠れない人をテレビで見たことがありますが私より元気そうでした。動物はすべて睡眠を取っているように見えますが、何のために睡眠を取るのでしょうか。睡眠中には食物は取れないし、生殖行動もできないし、敵に対して無防備になります。動物にとって、睡眠はむしろマイナスなのではないでしょうか。休息が必要なら、起きたままじっとしていても良さそうに思われます。一説によると、目覚めている間に取り込んだ情報や記憶を、脳が整理するために睡眠が必要だといいます。しかし、いくら睡眠を取っても情報が整理された気配はありません。(もしかしたら、「情報の整理」というのは「忘れる」という事なのでしょうか。それなら、起きているときからやっています)何年も眠れない人も、情報を処理しきれなくて混乱している様子はありませんでした。眠れない人の場合は、不都合といっても、「寝坊した」という言い訳が使えないくらいでしょう。もっとも、睡眠にも利点はあります。睡眠中は、飲みすぎない、食べ過ぎない、有害な行為をしない(睡眠中は有益な行為もしませんが、有益な行為は起きていてもしないのです)、無駄な浪費をしない(貯金もしませんが、起きていても貯金はできません)、下らない文章を書かない(代わりにいびきをかく)、弁解や言い訳や嘘を言わない(代わりに好きな人の名前などの寝言を言う)などの利点が挙げられます。こんな利点があるくらいですから、睡眠はたぶん何かの役に立っているのでしょう。よく考えてみれば、こんな下らない文章も、眠っていれば書くこともないのです。徹夜して仕事をする必要もないのかも知れません。そもそも私自身の仕事が必要ないのかも知れません。いろいろ考えていくと不愉快な結論が出そうです。早く寝てしまいましょう。私にとっては、不愉快な結論を避けるためにも睡眠は必要なのです。
March 31, 2005
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世の中には納得できない事が多いが、多くの男が特に納得できないのは、一部の男ばかりが不当にモテるということです。正確に言うと、「一部の男だけがモテる」ということに納得できないのではなく、「自分がモテる側に入っていない」ところが納得できないのです。動物学者によると、動物の世界でもモテるタイプというのがあり、ツバメの場合、尾の長いオスがモテるといいます。尾の短いオスとつがいになったメスは、しばしば尾の長いオスと不倫して、その子を産むらしいのです。では人間の場合、どのような特徴を持ったオスがモテるのでしょうか。先日のアカデミー賞の主演男優賞を逃したディカプリオですが、洋の東西を問わず女性からモテているらしい。なぜでしょうか。人種や国籍を除けば、私と大して違わないように思えます。中田さんに訊いてみました。「月とスッポンの違いがあります」不審に思った私は、さらに訊きました。「スッポンの方がモテるのか」「スッポンの方が社長よりはモテるでしょう」ますます納得できません。ディカプリオだけでなく、カメもライバルとは気がつかなかった。先日、知り合いの女の子と話していたとき、「ディカプリオのどこがいいのか」と訊いてみました。彼女はディカプリオのファンなのです。彼女は、ちゅうちょなく断言しました。「アゴの形がいい」彼女はブラッド・ピットのファンでもありますが、ブラッド・ピットもアゴの形がいいと言います。ようするに、エラが張っているのがいいと言うのです。このことから判断すると、たぶん彼女が好きなのは、クリントン元大統領、名倉潤、ハゼ、アンコウ、マムシなどでしょう。やはり人間はツバメとは違います。人間は長い進化の歴史を経て、ツバメにないアゴを獲得し、ハゼ、アンコウ、マムシの域に達し、女性はアゴの線で男を判断するようになったのです。他にも、背の高さ、手の大きさなどの男の外見に惹かれる女性がいます。なぜ、このような身体的特徴が好まれるのでしょうか。たぶん動物学者は、遺伝子や種の保存のうえで何らかの利点がある、と進化論的に説明するでしょう。たとえば、エラの張っている男は、噛む力が強く、(女性が)どんなに不味く硬い生煮えの料理を出しても食べることができる。歯を喰いしばる忍耐力があり、(女性が)どんな酷い仕打ちをしても耐えられる。歯で栓を抜けるから、(女性は)栓を抜く労働から解放される。背の高い男は、高いところに手が届くので、(女性は)高所作業の労苦から開放される。男の手が大きければ、(女性は)男の手を座布団の代わりに使える、などの利点が考えられます。こういう外見上の特徴で好き嫌いが決まっていることに納得できない男もいるでしょうが、ツバメでも外見にこだわっている以上、事実として認めるしかありません。外見にこだわるということは、裏を返せば、精神は二の次だということです。さらに裏を返せば、外見にこだわるということです。精神性の高さは評価されないのです。これなら私にも、まだモテる見込みがあります。(可能性を述べただけです)実際、内面より外見の方が重視されているのは確かです。鼻を失うのと、高校で得た知識を失うのと、どちらが良いかと訊かれたら、多くの人は迷わず、知識を捨てるでしょう。私は以前から、髪の形や服装にばかりこだわる人間に向かって、「表面ばかり取り繕うより他にすることがないのか。そんなヒマがあったら、私の仕事を手伝ったらどうなんだ!」と、そっと心の中で叫んできました。だが、外見にこだわることも進化論的な意味があるのです。しかし、種の保存や優秀な遺伝子の伝播のためなら、エラが張っている男よりも、長寿の年寄りの方がモテてもよさそうに思えます。女性がさらに進化して、「男は年を取っていればいるほどいい」と進化しないものか。そのとき、カメが私のライバルになるでしょう。(やっぱり、スッポンがライバルだったのだ!)
March 20, 2005
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よその会社にも女性の事務員さんが居ます。ちょうど、よその家の台所にもゴキブリがいるのと同じです。(前に使った言い回しと同じです)どういうわけか、どこの事務員も私の会社の事務員と似たり寄ったりです。定期的に秘密集会でもして、行動を揃える訓練でもしているとしか思えません。その証拠に、事務員という人たちは、たいてい事務所にいます。また、たいてい椅子に座って机に向かっており、机に座って椅子に向かったりしません。電話で話しているのを見たことはありますが、壁と話しているのを見たことがありません。弁当を食べているのを見たことはありますが、ライオンに食べられているのを見たことはありません。事務員がペンを持って何かを書いているのを見たことはありますが、仕事をしているのを見たことがありません。何よりも、私がへりくだって丁寧に接しているのに、揃いも揃って私に対する態度にトゲがあるような気がします。先日、ある保険会社の窓口に行き、担当の女性事務員を訪ねました。その女性はボールペンを持って机に向かっていました。バーベルや棍棒を持っている方が似合いそうなのに、惜しいところです。私 「保険料の領収書を受け取りに来たんですけど」彼女「身分証明書を見せて下さい」私 「でも、しょっちゅう顔を合わせてるでしょう」彼女「いつも拝見するたびに、怪しいと思ってたんです」私 「それは奇遇です。私も怪しいと思ってました」彼女「とにかく規則ですから、証明書を見せて下さい」私 「でも貼ってある写真が…、異常に悪く写ってるんです」彼女「顔に問題のある人に限ってそう思うものです」私 「そうですか。 あなたも写真写りが悪いと思っているんですか。 ただ、悪く写っているだけならいいんですが、あまりにも実物と違ってるんです。 写真よりも、そのボールペンの方がまだ私に近い」彼女「安っぽいところがですか?」私 「とにかく証明書の写真を見ると、かえって私本人かどうか疑われるぐらいなんです。 それでもいいですか?!」彼女「拝見します」私 「仕方がない。 私が疑われても知らないからね。 じゃあ、渡すから、見ないでくださいよ。 見るなら目を閉じて下さい。 あっ、見ちゃ駄目だ。 目がつぶれる!」彼女「なあんだ、よく写ってるじゃないですか。 楽しみにしてたのに。 よく写りすぎてマッケンジーさんとは分からないくらいですよ。 鏡を見たことがないんですか」どの事務員もこうです。(どの女性もそうです)うちの中田さんが失礼な態度をとるのは、まだ仕方ありません。中田さんに対しては、労働基準法違反の雇用契約という後ろめたさが私にあります。しかし、他の会社の事務員の女性に、こういう態度をとられる謂われはありません。(食事に誘ったという、後ろめたさはあります)もちろん、どう扱われようと私は、仕返しをしようとするほどの度量はないし、仕返しするほどの度胸もありません。一週間後に電話したら、この女性が電話に出ました。「もしもし、マッケンジーですが」「コホン、もしもし、コホン」「どうしたんですか? 大丈夫ですか? 食べ過ぎたんですか?」「いえ、コホン、この季節になると、コホン」「この季節になると食べ過ぎるんですか?」「食べすぎなんかじゃ、コホン、ありません」「じゃあ、腹が減ってるんですか?」「腹が減ったら、コホン、なぜ咳が出るんですか、コホン」「すみません。 早とちりして。 じゃあ、満腹すると咳が出る体質なんですね」「コホン、満腹なんかしてません、コホン」「ほら、やっぱり、食べ足りないんだ」「食べてばかりいるみたいに、コホン、言わないで下さい!」「えっ。 食べてばかりじゃなかったんですか。 でも一日五食は食べるでしょう?」「コホン、三回に決まってるでしょう!」「えっ。 一時間に三回も食べるんですか。 それで食べ足りないんですか?」「コホン、ガチャッ!」私の心配が通じないところも、うちの中田さんそっくりです。おまけに、私の用件を聞いてもらえない点も同じです。ついでに、私の仕事が進まない理由も、どうやら見つかったような気がします。ああ、忙しいっ!
March 9, 2005
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私はいつも忙しいが、最近は忙しさの余り、忙しさの原因究明を怠っていたような気がします。私が忙しい原因を考察してみれば、その対策も浮かぶでしょう。そもそも、一日のうちで私が最も時間と労力をかけて取り組んでいるのは探し物です。先日も、顧客に相続についての説明をする直前になって、自社株の評価を試算した書類をプリントアウトするのを忘れていることに気が付きました。持参したパソコンの中に入れていると思ってパソコンの電源を入れたところ、その途端にバッテリーの充電が切れてしまいました。結局、そのパソコンの中にはファイルを保存していなかったから良かったようなものの、そうでなければ、その重たいパソコンを持ち歩いたのが徒労に終わるところでした。事務所に帰って、別のパソコンの中からファイルを探しました。途中で電話がかかり、そばにあった封筒の裏に相手の電話番号をメモしました。その直後、気が付いてみると、メモを取ったペンがなくなっていました。今度はペンを中心に周辺を捜索しました。(ただのペンなら、そこまでこだわらないのですが、そのペンは、ちょうど私の四十回目の誕生日から五十六日目に、友人の事務所で拾った記念のペンなのです)捜索の収穫はゼロでした。探している間に、メモを書いた封筒を失くしたから、マイナスと言っていいでしょう。こういうことにならないように、整理方法を考案したのですが、そのアイデアを書いたメモもとっくの昔に失くしました。どうして、こうなるのでしょうか。誰かが盗んでいるという可能性も否定できませんが、ちょっと目を離した隙に私の事務所に入って盗んで出て行くほどの天才的な泥棒技術の持ち主が、なぜ私の安物のペンを狙うのか、という根本的な疑問が残ります。私の経験から言うと、物がなくなるのは、誰かに盗られるというのとは違います。盗られるのなら、単に物が移動しただけですが、私の実感では「完全に消滅した」というのに近いのです。まれに後で見つかることがありますが、それも、突然出現したという感じがします。そう考えて、私の居る所は「魔の三角地帯」かもしれないと疑いました。しかし、私が旅行や出張などで移動するのに合わせて「魔の三角地帯」が移動すると考えるのは、「地帯」という言葉の意味に反しているような気がします。様々な可能性を検討した結果、私は、『物体は何の原因もなく、突然消滅することがある』と考えるのが最も整合的な説明だという結論に達しました。この結論は物理学と真っ向から対立します。物理学では、『物体は生半可なことで消滅してたまるか!』という前提を立てています。例えば、物理学の理論によれば、冷蔵庫に三つ入れておいたイチゴ大福が、次に開けたとき二つになっていた場合、誰か(泥棒、私自身、事務員の中田さん、など)が食べたか、数え間違いをしているか、別の物質に変化したかです。これらの可能性を調べてみて、何の原因も見つからなかった場合(通常、“中田さんが自白しない限り”原因は見つかりません)、『何の原因もなく消滅した』とはされないで、『原因が見つからなかったから、原因はどこか別にあるはずだ』という結論を下すのです。しかしこれは、『私の金が、財布の中にも家にも銀行にも無いから、どこか別の所にあるはずだ!』とか、『自分は容姿容貌や性格にも優れたところが無いから、別の優れたところがあるはずだ!』と考えるのと同じくらい間違った推論です。物理学は経験科学です。当然、経験に忠実でなければなりません。それなのに、『物がなくなる』という、誰もがしょっちゅう経験していることを認めないのです。虚心坦懐に反省して、『物は時々何の原因もなく消滅する』と認めれば、さまざまな現象をより簡単に説明できることが理解できるはずです。そうすれば、私の責任を追及されることも無くなるのです。物理学を、こう修正すべきでしょう。『消滅しないのは、不要な物と邪魔な物だけである。 これらは原因が山ほどあっても消滅しない。 だが、貴重な物はときどき消滅する。 最も貴重なもの(美貌、優れた人格、才能)などは、しばしば最初から消滅している』
March 6, 2005
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バレンタインデーが過ぎました。それにしても、こういう悪習がいつまで続くのでしょうか。私はバレンタインデーを軽蔑していますが、その最大の理由は私がチョコレートをもらえないからではありません。それが悪習だと(人生経験を積んだ結果)固く心に決めているからです。そもそも、愛情や好意を伝える日、という趣旨からして軽薄です。第一、愛情を伝えて何か効果があるのでしょうか。ディカプリオに伝えてどうにかなるのか。私に伝えてどうにかなるのか。(私の出費が増えるだけではないのか)一歩譲って、愛情を相手に伝えるとしても、物品を贈るという安易な方法しか無いのでしょうか。和歌を贈るとか、「マッケンジーなんか嫌いっ」と言うなり、両手で顔を覆って、くるっと背を向けて小走りに走り去るとか、もっと洗練されたやり方があるでしょう。さらに百歩譲り、合計百一歩譲って、物品を贈るのを認めたとしても、なぜチョコレートでなくてはいけないのでしょうか。他にも、高級車、現金、私の詩集(有償でお分けします)など、贈る物は他にいくらでもあるでしょう。一歩も譲られたくないなら、私に贈ってみなさい。(私の詩集はお断りする)何よりも、バレンタインデーは人心を蝕んでいます。もらったチョコレートの数が男の価値を決めるような錯覚を生み、その結果、職場や学校で肩身の狭い思いをしている男が多いのです。(私は違う)チョコレートを多数もらえばもらったで、いくつもらったかを自慢するような卑しい態度を生んでいます。(チョコレートを多数もらう男はたいてい卑しい)バレンタインデーが過ぎて二日経過した今日、友人が嬉しそうに「チョコレートを五つもらいましたよ。マッケンジーさんは沢山もらったでしょうね」と言いました。私は軽蔑の気持ちを込めて、「たった二十個ですよ」と答えました。生まれてから今までにもらった総数は、控え目にみても二十個には、なっているはずです。今年はゼロかと思っていたら、夜の街で働いているYちゃんから、私の留守中に郵便で送られて来ていました。しかし、よく解からないのは、私の会社名の下に「御中」と書いてあったことです。その箱には二十個は入っていたはずです(私が事務所に出た時には、中田さんが半分食べていました)が、私の分を十個と計算することもできたものを一個と計算しているのです。なんと謙虚な計算の仕方でしょう。若い知人の中には、毎年チョコレートを困るほどもらっている男もいます。そういう男を見ても、とくに魅力があるとは思えません。おそらく、その男がもらっているチョコレートのいくつかは、私に渡そうとした女性が、私とその男を間違えて渡したものでしょう。つねづね、女性には男を見る目がなく、ことに私を見る目がないと思っていましたが、これほど根本的な間違いをするほど愚かだとは思っていませんでした。こういう間違いを助長するような習慣は即刻廃止するべきです。でも、私には送って下さい。請求書に振込先を明記して頂ければ、チョコレートの代金を振り込みます。〔追伸〕もちろん、送料と振込手数料も弊社が負担します。
February 16, 2005
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最近の私は、どうでもいいこと(仕事の約束など)は憶えているのに、大切なこと(女性の誕生日など)が憶えられません。今日もメモを書いていて「コミュニケーション」なのか「コミニュケーション」なのか悩みましたし、昨日は「退職金規程」と書くところを「退職金規定」と書いてしまい、一歩間違えば顧客からの信用を失うところでした。(もともと信用が無かったのが幸いでした)一昨日は手帳に「監」という文字を書こうとして愕然としました。どうしても書き方を思い出せないのです。どうもおかしい。「薔薇」や「羊羹」を書こうと思って書けなかったことは一度もないのです。(もちろん、書こうと思ったことがないのです)漢字が書けないときは、やむなくカタカナや平仮名を使っていますが、最近でも「じゅ」と書こうとして「じぇ」と書いてしまったことがありました。こういうことは小学校のとき以来の経験です。きっと、私は若返っているのでしょう。最近では、もっぱら文字を書くのはパソコンに頼りきっています。何でも機械まかせにしていると、人間の能力は低下するのです。考えてみれば、今や、改札からジグザグ縫いまで、ほとんどが機械まかせです。現在、電気炊飯器を使わないで米を炊ける者が何人いるでしょうか。飛行機を使わないで空を飛べる者が何人いるでしょうか。自転車を使わないで自転車に乗れる者が何人いるでしょうか。危機感を抱いた私は事務員の中田さんに警告しました。「そうやってパソコンばかり使っていると、文字が書けなくなりますよ。“薔薇”と書いてみて下さい」「書けません」「そうでしょう。もう兆候が現れていますよ。そのうち“じゅ”と書けなくなります」中田さんの顔に不安の色が走るのが見えました。珍しい現象です。私はたたみかけるように、機械に頼る危険性を説明しました。中田さんは心配そうに聞いています。私が話している間、つまみ食いも居眠りもしません。明らかに感銘を受けている証拠です。説明が終わると彼女が言いました。「それって、社長のボケが始まっただけじゃないんですか」「なんてことを言うんですかっ。私は中田さんより二つも若い。第一、だいぶ前からですよ」「前から、佐々木さんの仕事を忘れて遊んでましたけど」「どうでもいいことは忘れることができるまでに成長したんです。中田さんの名前を憶えているのが不思議なくらいです」「この前も、打ち合わせに資料を忘れてたそうじゃないですか」「そんな憶えはありません」「でも、先方の社長がおっしゃってましたよ。『おたくの社長は仕事する気があるのか』って」「そんなバカなこと・・・があったかも知れません。よく憶えていませんが」「ついこの前ですよ。忘れるのが早すぎませんか」「忘れる時は一秒で充分です。ついさっきも車に乗る時に、素晴らしいアイデアが浮かんだんです。それが、乗ってエンジンをかけた時には、すっかり忘れていました。ボケていたらこんなにも素早く忘れられる訳がありません」「つまらないアイデアを一秒も憶えているのは無駄ですもんね」「どうしてつまらないと断定できるんですか。私は素晴らしいアイデアに限って忘れてしまうんです。どこまで不運なんだろう。だから貧乏なんだ。実に惜しい。中田さん、思い出せませんか」「社長が忘れたことを、私が思い出せるワケがないでしょう」この後も、延々と下らない会話を続けました。こんな会話の相手に給料を払っている私は、やはり相当ボケているのかも知れません。それにしても、どうしても、みっちゃんの誕生日が思い出せません。まこちゃん、ゆかちゃん、あーちゃん、きーちゃん、かおりちゃん、いっちゃん、ちぃちゃん、ゆうちゃん、あいちゃん、ゆりちゃん、みいちゃん、ゆみちゃん、めっちゃん、ちびちゃん、・・・(順不同敬称略)そのほかにもたくさん・・・。人生には、憶えきれないほど重要な事が多すぎるのかも知れません。≪註≫上記にあなたの名前がなかったワケは、(私の心の中では、あなただけ特別に、)あなたの名前と違う愛称で呼んでいるからですよ。
February 11, 2005
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私の事務所へ行くと、事務員がいます。繁華街に行くと暴力団がおり、山に行くとマムシがいて、海に行くとサメがいるのと同じです。(これ以上の適切な比喩が思いつきません)(以前から読んでいない方のために解説すると、彼女は私の中学高校の二年先輩なので、双方が敬語で話していますが、実在の事務員の女性とは同一人物ではないかも知れません)(同一人物かも知れません)事務所に入ると緊張のあまり、何を言おうとしたのか忘れてしまいました。「たった今、中田さんに何か言おうと思ったのですが、忘れてしまいました」「私に百万円あげよう、と思ったんじゃないですか」「中田さんにそれだけの値打ちが無いことから、違うと断言できます」「あっ、思い出しました。請求書が届いています」「そんなことは支払日まで、中田さん一人の胸の中にしまって置いてください。 そうだ!思い出しました。『こんにちは』と言おうとしてたんだった。なんて私は礼儀正しいんだ」「挨拶を忘れるのが礼儀正しいんですか!?」「そういう中田さんは、そもそも私に挨拶をしましたか?」「しましたよ。思い出せないんですか?!」挨拶のような、ちょっとしたことを忘れるのは、成熟した人間によくあることです。成熟のしるしだと言っていいでしょう。許せないのは、度忘れにつけこんで過去を作り変えようとする行為です。数ヶ月前、会社を経営している友人が、自分の発見したビジネスのアイデアを、得々と私に語って聞かせたことがあります。彼が得意気に語っているのは、私がかつて彼に教えたことでした。彼にはアイデアを盗んだという意識はなく、心の底から自分が発見したと思い込んでいたのです。これほど始末の悪いことがあるでしょうか。私の発見したアイデアで、新しいビジネスを展開しようと目論んでいるのです。私の着想や、私の発見するアイデアが、いつも下らないものなのが不幸中の幸いでした。しかし、それ以来、優れたアイデアやビジネスモデルを聞いたりするたびに、「これは私が考えたことではないか」と疑うようになりました。楽天の三木谷社長やライブドアの堀江社長なども油断できません。安心できるのは、カーネギーや松下幸之助のビジネスモデルのような、私が生まれる前に存在したものだけです。考えてみると、記憶を都合よく作り変えるという現象は、珍しいことではありません。ギャンブルや釣りを考えてみれば明白です。たいていの人は、うまくいかなかった時のことは忘れて、成果をあげたことだけを深く記憶にとどめて、自分は勝てると思い込んでいるのです。私のように、幼稚園の女の子の奪い合いに始まり、負けた記憶しかない、という異常に謙虚な記憶の持ち主は、まずいません。(私ほど負け続ける人もいませんが)過去の出来事には、多くの場合、指紋や公正証書などの客観的証拠がありません。当事者の記憶だけが頼りだという事をいいことに、人間は、記憶を作り変え、過去を捏造し、自分を優れた者だと思いたがる傾向があります。「君はこう言った」と言われた場合、愚にもつかない内容なら「そんなことは言っていない」と否定し、自分には考えつかないような卓見だったら「そう言われれば、そんなことを言ったかも知れない」と認めるのです。おそらく私の周囲の人たちも、不幸な出来事は私のせいだと記憶し、幸運な出来事は自分の力だと記憶しているのでしょう。この事実は、私に恩返しをする人間が一人もいないのをみれば明らかです。私がしたことを事細かに覚えていろ、とは言いません。私自身、どんな有益なことをしてあげたか、をまったく覚えていないのです。私に何か有益なことをしてもらった、という記憶だけでいいのです。実際に、私がしてあげたことは有益なことばかりです。その証拠に、私には「有益なことをしてあげた」という記憶だけは、鮮明に残っています。過去は、自分の都合に合わせて作られるものです。もし、事務員の中田さんに、「一万円借りていましたよね」と尋ねたら、平然と肯定するに違いありません。ためしに、そう言ってみたら、中田さんは、こう答えました。「いいえ、二万円でした」
January 23, 2005
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今日、当社の事務員の中田さんに「コピーを製本して下さい」と頼んだら、「今、手首を痛めているからできない」と言われました。この説明がインチキであることは、彼女が大盛りラーメンのどんぶりを、片手で軽々と持っているのを見れば明らかです。このように、説明は、頼みごとを断ったり、自分のやりたいことをするためにも使われます。こういう人は、何事につけても、説明に困るということがありません。最悪でも、「そんなこと、したくない」とか、「ご自分でどうぞ」と言えば、充分な説明になると考えています。説明までを武器にして、やりたい放題です。私はこのような説明に対する不信感をつのらせた結果、説明全般を疑わしいと感じるようになりました。例えば、日本人の行動が「島国の農耕民族だから」と説明されることがあります。この説明は便利だから、私も使っていますが、もしこの説明が正しいなら、何代かの祖先が島国でひとたび農耕を営んだが最後、子孫は一定の行動パターンに支配されることになります。人間の行動のうち、因果関係が明らかな場合というのは、数少ないものです。私などは、今夜の私の行動すら予想もできません。(万が一、女性と二人きりだと、何をするか解かったものではありません)私の行動のうちで、因果関係が明らかな事柄は、せいぜい、私が金を使うと妻が怒るとか、気前よく金を使うと妻以外の女性が喜ぶとか、仕事が遅れると佐々木さんが催促する、くらいのものです。つまるところ、因果論は結果論に過ぎないのです。人間の行動の大部分は説明不可能に思えますが、文科系の学問は、あえて人間行動の説明に挑み、何でも説明できる理論が数限りなく登場しています。例えばフロイトは、ちょっとした言い間違いから宗教儀式にいたるあらゆる人間の行動を、性衝動によって説明しました。驚いたことに、性行動さえ、性衝動によって起こるというのです。しかし、フロイトの理論によっても、他のどんな理論によっても、人間の行動を正確に予測することはできません。すでに起きた事については(「なぜバブル景気を妄信したか」とか「なぜ少女への暴行殺人事件が起きたのか」)、専門家の説明は雄弁で説得力がありますが、その説明を未来に適用して、人間の行動を予測することはできません。地震の終息宣言や、梅雨明け宣言が、事後になって宣言されるのと同じです。経済学も例外ではありません。もし確実な予測が可能なら、万人が裕福になれるでしょう。少なくとも経済学者は、その著作やテレビで、もっともらしい説明をしなくても金持ちになっているはずです。(ちなみに、経済の語源は「経世済民」に由来するそうです。経済学者は結果説明ではなく、民衆を救う世の中の仕組みを説明して欲しいものです)無理に未来を予測しようとすると、「Xが起きる条件が整えば、Xが起きるだろう」とか、「Xが起きるだろう。さもなければ、Xは起きないだろう」といった言い方しかできません。この点では、オリンピック中継の解説者が、「どちらが勝つでしょうか」と質問されて、「日本に頑張ってもらいたいものです」と答えるのに似ています。人間の行動は予測が出来ないだけではなく、絶対こうだ、と断定することができません。仮に中学生の重大犯罪を根絶する方法を、断定的に(「中学校を全廃して中学生をなくせばいい」とか、「重大犯罪を合法化して、重大犯罪をなくせばいい」など)主張したら、かえって方法の説明が意味を失います。その一方で、断定を避けて説明しようとすると、こうなります。「AとBとCの条件が重なると、数十万人に一人の少年が重大犯罪を犯す可能性がある(ただし、誰かが重大犯罪を犯す気になり、かつ、それを実行に移すのを妨げるものが何も無いと仮定する)」説明の困難さは、説明される側になってみれば明らかです。我々の行動の大部分は、「成り行き」とか、「なんとなく」としか言えない行動ですし、これから何をするか、本人にも完全には予測できません。誰が、自分は絶対に恋に落ちないと断言できるでしょうか。そう断言できるのは、瀕死の重態患者か、私くらいのものでしょう。断言する元気もない人か、うそつきにしか断言できないのです。人間の行動は、本人でさえも予測も理解もできないのです。他人に解かるはずがありません。余りにも不可解だからこそ、人は何らかの説明が欲しいのですが、私にはそうやって作られる説明そのものが不可解に思われます。説明をつけると、説明の分だけ余計に不可解になるように思うのです。そして、そういう説明に満足している人間が、いっそう私には不可解に思われます。そう思うのは、私が、島国の農耕民族だからでしょうか。
January 19, 2005
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私は説明が嫌いです。よく説明を求められますが、説明を求められる状況というものが、一度として楽しかったためしがありません。第一、説明を求められることが、「何をしていたか」とか、「誰と会っていたか」など、説明に窮することばかりなのです。何とか説明しても、楽しい結果になることは絶対ありません。不十分な説明では怒られるし、十分に説明すると、もっと怒られるのです。もともと相手は、何かが気に入らなくて説明を求めているのですから、楽しくなる訳がありません。しかし、どうして自分が嬉しい時には説明を求めないのに、気に入らないことがあると説明を求めるのか、説明を求めたいところです。私は説明を聞くのも嫌いです。こちらが説明を要求していないのに、「一言説明させて頂きますと」という発言があると、その後には決まって退屈な話がきます。(その発言の前にも退屈な話がきます)説明の最も悪いところは、信用できないということです。信用できないのは私の説明だけではありません。ほとんどすべての説明がインチキくさい。現在、一般的に受け入れられている説明によれば、あらゆる出来事は、人心の荒廃か、環境の悪化か、運命のいたずらのせいだとされています。しかるに、私の周りの人に、いくらこの三つを使って、じゅんじゅんと説明しても絶対に通用しないのです。これだけでも説明というものの胡散臭さが想像できますが、それにしても納得できない説明が多すぎます。たとえば「若いうちしかできないから」という説明などはその典型です。このように説明されるのは、深夜に家を抜け出してバイクを走らせるとか、体にスミを彫るとか、軽率で愚かな行為に限られるのです。確かに、これらは若いうちしか出来ないことかも知れませんが、若いうちしか出来ないのはこれだけではありません。歴史の年号を覚えるとか、親孝行するとか、若死にするなど、他にもあるのに、そういうことは積極的にしようとはしません。「私は愚かだから」と説明した方が、よっぽどすっきりします。年をとった者の説明もインチキです。「もう年だから」と説明して、体力を要求する仕事を拒否したり、町内運動会に出るのを断るくせに、深夜まで遊び歩いたり、買春ツアーに出かけたりしているのです。こんなインチキな説明がまかり通っているのに、どうして同じくらいインチキな私の説明が通らないのか、謎としか言いようがありません。物理学や数学のように厳密な説明もありますが、一般人の理解を超えているし、私の理解をも超えていて使い物になりません。このように、説明は、納得できないか、理解できないか、苦しいかのどれかです。それなのに今の世の中は、説明すべき人が説明しない一方で、天気や経済から、スポーツの勝敗、芸能人の離婚にいたるまで、あらゆる現象に説明がつけられ、それを評論する人まで存在します。科学的に説明できない現象さえ、カーテンの色などで説明されるのです。なぜ、ここまで説明がはびこるのか、こういう事態こそ、説明が必要です。たぶん、人心の荒廃か、環境の悪化か、運命のいたずらのせいでしょう。
January 18, 2005
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今年も年明け早々から、凄惨なニュースが多いようですが、悲しい気分はこのページの趣旨にそぐわないので、多くは語らないことにしましょう。それにしても、誰もが自分の利益しか考えない世の中です。こう思われていますが、しかし一方で、私のような者の利益を考えてくれる人もいます。楽天からのメールでは、「お得ですよ」とか、「残りわずか」と教えてもらえるし、道を歩いていても、「魂を救ってやる」と言われたり、「金を貸してやる」と書いたティッシュをくれたりします。私が、魂の救いを求めており、金が無いことを、どうやって知るのか不思議です。なかには、私の自宅や事務所に電話を掛けてきて、「お前だけに儲け話がある」とか、「いい節税法がある」とか、「今がチャンスだ」と教えてくれる人がいます。私は、ファイナンシャル・プランナーでもあります。ハイ・リターンには、ハイ・リスクがつきものだという事を知っています。それに長年の経験から、「自分だけ大きな利益を得ようとすると、必ず損をする」という法則が成り立っていると確信するようになり、最近では、「私だけは、何をしなくても損をする」という法則も成り立っていると感じているのです。このようなセールスの電話は、大事な時を狙ったかのように掛かってきます。お好み焼きの最初の一口を味わっている最中とか、唐揚げ弁当の最後の唐揚げを口に入れた瞬間という、最も大事な時に掛かってくるのです。電話を掛けるなら、佐々木さんから仕事の催促をされている最中とか、事務員の中田さんに叱られている最中にして欲しい。そこまで都合のよい時でなくても、数年に一度訪れる、暇を持て余して人恋しい時とか、数百年に一度訪れるであろう、金の使い道に困っている時とか、あるいは、せめて私が留守の時にして欲しいと思います。最近の電話セールスの話法は巧妙で、本当に旨い話に思えます。しかも、かなりの情報を握っています。(そのわりに、私が貧乏だという情報は握っていない)なかには私を「センセイ」と呼ぶ人間もいて、こういう人間は、私の情報を的確に握っていると言えます。少なくとも、私が政治家、教師、医者、弁護士、作家などのように、尊敬を要求する、愚かな種類の人間であることを知っています。(私の名前が「センセイ」だと思っている可能性もあるが)そもそも資格や免許などは、その試験に合格すればいいのであって、合格者を尊称の対象とするかどうかは、個人の判断に委ねるべきものです。しかし、「センセイ」と呼ばれると、無下に電話を切れないのは、我ながら情けないところです。私の性格までも把握されているのです。こういう事実から判断して、何者かが名簿を売ったに違いありません。私と関係ある者が売ったために、私の周囲で何人もの人が迷惑をこうむっているのです。非常に嘆かわしく、残念なことです。こんなことなら、私が先に売っておけば良かった。最近の電話には、受信したくない電話番号を登録しておくと、着信音を鳴らさない機能があります。これなら、電話に出たくない相手からの電話に、悩まされることも減るでしょう。そこで、着信拒否機能のついた新しい電話機を買ったという友人に、使い心地を訊ねようと、数日前から電話していますが、ずっとつながりません。
January 11, 2005
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今年の正月は、ほぼ例年通りでした。いつものように、正月を返上して酒を飲み、昼寝し、雑煮を食べ、年賀状を読みながら寝ていました。もらった年賀状の多くは、デザインや色使いなどに趣向を凝らしています。しかしその中で、ひときわ異彩を放つ年賀状が一通ありました。これをくれたのは、本人の名誉のために名前は伏せておきますが、風変わりな私の友人です。(正月ボケの人がいると困るので、断っておきますが、“風変わりな”は、“友人”を形容しているものです)無地のハガキの中央に、ボールペンで几帳面に「賀正」と1センチ角の小さな文字で書いてあり、その脇に簿記などで金額訂正に使う小さな印鑑で、「斉藤」と本人の印を押しています。なぜ押印しているのか不明ですが、たぶん「賀正」を訂正しているのでしょう。その年賀状に書いているのはそれだけです。近況、所信表明、決意、家族の紹介はもちろん、年号も書いていません。(考えてみれば、年号は今年に決まっているのだから不要です。来年や去年の年賀状を出す人はいません)余白があれば、それを埋めようとするのが普通の心理ですが、空白を恐れる様子が全くありません。他の年賀状と比べて、異常に文字が少ない。行きつけのうどん屋の肉うどんの牛肉ぐらい少ない。これ以上省くとしたら、捺印か年賀状そのものくらいしか無いでしょう。私はこれほど、シンプルかつ大胆な年賀状を見たことがありません。そして反省しました。私の年賀状の何とつまらないことでしょう。比較にならないほど手間を掛けたのが無駄だったように思えました。パソコンで印刷したので、手が掛かっているようには見えないでしょうが、実際には長い時間を費やしているのです。まず、インクジェットプリンター用の年賀状を買い求めたのが十二月の初旬です。それからほどなくして、年賀状のソフトを買いました。新しいソフトに宛名用のデータを入力するのが大変でした。私のアドレスデータは、Palmの電子手帳を使用しているので、そのデータを移さなければならないのです。そのデータの校正に一日をかけ、インクを買いに行くのに一日かけました。インクを買いに行ったのに、東急ハンズとパルコに寄っていたら、インクを買うのを忘れるのに一日かかりました。その他にも、さまざまな障害が私を襲い(忘年会など)、手書きの何倍もの時間をかけて送ったにも関わらず、私の年賀状は元旦に到着しないばかりか、効果は簡素な年賀状には及ばないのです。何のために年賀状を出すのか、疑問に思えてきました。年賀状に労力を傾けるには、人生は短すぎます。(年賀状を書くだけのためには、人生は長すぎますが)多くの人は、年賀状を出さないと不利な扱いを受けるのではないか、という漠然とした不安から出していると思いますが、効果のほどは疑わしいものです。私は、百数十人に年賀状を出し続けていますが、私に食事を奢ってくれたのは十人だけです。損得じゃなく、礼儀の問題だ、と言う人がいるかも知れませんが、「パソコンで簡単に済ませたな。無礼な野郎だ」、「こんな趣味のいい年賀状を送りつけて、自分の才能を見せびらかしたいのか。失礼なヤツだ」と逆効果になることがあります。むしろ、年賀状を出さない方が危険は少ないと思います。かといって、年賀状を一切出さないという勇気もありません。今でも、食事を奢ってくれる人は少ないのです。年賀状を出さないと、これ以上どんな目に遭うか分かったものではありません。妻にも出した方がいいかも知れません。考えた挙句、来年の年賀状は、次のようにすることに決めました。賀正これまで、お世話になりました。これからの百年間も宜しくお願いします。2006年元旦~2106年元旦
January 7, 2005
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現代のようにストレスの多い時代に生きている人間が、心の健康を保つのは難しい。とくに私のように、社会的にも認められず、周りの人間にも認められず、経済的にも恵まれず、そのうえ、心の健康というのが、どういう状態なのか解からない者の場合、心の健康を保つのは不可能に近い。とくに、メンタルヘルスの試験で、いい結果を出す方法を知らないのが致命的です。実際にテストに回答してみて判ったのですが、自信を持って回答できる質問が少ない。自信が持てたのは、わずかに「貯金が少ない」と「病気がちである」に、「はい」と答えたのと、「体力に自信がある」と「家族に信頼されている」に、「いいえ」と答えた程度です。しかし、どうしてこれらの質問によって、心の健康を調べることができるのでしょうか。例えば「体力に自信がある」に、「はい」と答えても、その人が失恋したばかりなら、心が健康だとは言えないでしょう。「楽しい気分でいる」「幸福だと思う」といった質問項目もそうです。家族が病気で苦しんでいるのに、楽しい気分でいる人や、金を盗られて、幸福だと感じたりする人は、やはり健全とは言い難い。心の健康を測るには、回答者の置かれた状況や、生活環境や家族の状態、経済背景や宗教、イデオロギーなども熟知していなければ、正しい結果は得られず、誤った診断が下され、かえって心を不健康にするのではないでしょうか。この疑問をN先生にぶつけてみました。その結果、私は彼を「信頼できない医者」と考えていたのが、間違いだったことを知りました。彼の答えが、またしても誤っていたからです。このように、答えが例外なく誤っていれば、「常にきっかり三時間遅れている時計」と同じく、逆に信頼できるのです。どうして、この時の彼の返答が誤っていることが判ったのか、疑問に思う人がいるかも知れません。なるほど、彼が何と答えたのか、聞き取れなかったのは事実です。しかし、彼が何を言ったにせよ、彼の信頼性を考え合わせれば、その返答が誤りだという結論しか出てこないのです。他の質問項目にも疑問があります。例えば、「嫌いな仕事が早く終わっても、格別うれしいとは思わない」という項目がありますが、終わってうれしくないなら、「嫌いな仕事」とは言えないように思えます。この質問は、国語力を試しているのでしょうか。一つ一つ検討していけば疑問は尽きません。いっそ質問を簡略化して、「私の心は健康だ」だけにしたら、どうでしょう。「いいえ」と答える人は、明らかに不健康だし、「はい」または「どちらともいえない」と答える人は、不健康である上に、自己認識ができていないと断定すればいいのです。この方法だと、テストそのものを省略することもできます。以上の他の質問に、私がどう回答したか、例を次に示しましょう。「人と話していて、腹が立つことがある」には、「はい」。(面と向かって悪口を言われた時、とくにそれが当たっていると、どうしても腹が立ってしまいます)「配偶者の理解がある」には、「いいえ」。(一夫多妻に対して理解してもらえない)「タバコ、酒、胃腸薬が、増えたような気がする」には、「はい」。(中学生の頃から比べると、増えているような気がします)「何かをしようとすると緊張する」には、「はい」。(うそをつくときや、約束を守らないときなど、さすがに緊張してしまいます)「人前で思うように喋れないことがある」には、「はい」。(従業員の中田さんに、「コーヒーを入れて下さい」とか「コピーをお願いします」と言えません)「がんこな一面がある」には、「はい」。(もっと自己主張しろと言われたら、がんこに拒否します)「なかなか決断できない」には、「どちらともいえない」。(決断力があるかどうかを、一時間考えましたが、結論が出ませんでした)「手足が震えることがある」には、「はい」。(氷点下の気温の中で裸だったり、電流を流されたとき、震えてしまう)「簡単なことを思い出せない」には、自分の自宅の郵便番号が思い出せなかったので、「いいえ」と答えました。回答の提出日を思い出せなかったので、提出できませんでした。はたして、私の心は健康なのでしょうか。〔追記〕今回は、突っ込みどころ満載です。(今年最後なので、歳末大サービスです)ちなみに、テストには「深く考えすぎないで答えて下さい」と注意書きがあります。
December 31, 2004
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自慢していると受け取られたくないのですが、私は身体が不健康であることは自慢できます。うそだと思うのであれば、私の周りの人に聞いて頂きたい。彼らは一致して、私が毎日のように、身体の不調を言い訳にしていると証言するでしょう。しかし、心の健康となると、話は違ってきます。私の周りの人間の心に問題があることは、確信を持って私は証言する用意があります。だが、私自身の心が健康であるかどうかに、今一つ確信が持てないのです。先日、心の健康度を知る、いいチャンスが訪れました。メンタルヘルスの調査に協力することになったのです。(現在では大企業に勤めている人の大半は、このテストの経験があるはずです)百項目を超える質問に、「はい」「いいえ」「どちらともいえない」の三つから回答するのですが、問題を読んでみて、健康だという結果を出すには、どう答えたらいいのか、判らないことに気が付きました。(テストというからには、楽して高得点を目指すべきなのは、言うまでもありません)知人の心療内科医であるN先生は、その道の専門家であり、私は彼に全幅の不信感を抱いています。健康と診断されるには、どう答えたらいいか、彼に聞いてみました。彼の丁寧な説明を聞きながら、私は床のゴミを観察していました。ゴミの方が興味深かったのです。断片的に耳に入った説明のうち、ゆうに一割は理解できたと思います。その結果、はっきり解かった事は、信頼できない専門家の話は、聞けば聞くほど不信感がつのるということでした。結局、独力で回答して、健康を勝ち取るしかない、という結論を導き出しました。質問の中には、「約束を破ったことは一度もありません」とか「言ってはいけないことは決して言いません」という質問があります。これらは、私が日頃よく口にしている言葉ですが、正直に「はい」と答えたら、「この大うそつき」と診断されそうな気がします。正直すぎると、うそつきの烙印を押されるのです。かといって「いいえ」と答えると、私が普段口にしている言葉が、うそだということになります。正直者には困る質問です。いっそのこと、「どちらともいえない」にしようかと思いましたが、そう考えると、「約束を破ったことが一度も無いかどうかに確信が持てない」と答えたことになり、今度は「国語力の欠如」とか「意識混濁」などの診断を下される恐れがあります。他にも、「体重が減った」などの質問項目があり、これにも「どちらともいえない」と答えると、同じ結果を招く恐れがあります。「うそつき」と、どちらがいいのか、苦しいところです。N先生の話では、こういう調査には、うそをついているかどうかを調べる質問を入れる事があり、これもそうだろうと言います。この種の質問に「はい」と回答すると、うそをついている、と見なされるらしいのです。私は、この意見と彼の信頼性を考え合わせ、彼の意見は誤っていると断定しました。どう答えればいいのか判らない質問は、他にも多数あります。例えば、「もっと充実した精神生活を持ちたい」とか「過去を振り返って悔やまれることがある」という質問があります。これに「いいえ」と答える人がいたら、どんな人なのか、ぜひ知りたいものです。また、「家に帰りたくなくなることがある」といった質問には、どう答えるべきでしょうか。家に帰りたがらないのは不健康だ、という前提での設問かも知れませんが、それだとほとんど全ての人が不健康という結果になるでしょう。むしろ、そういう気持を持ったことが無い人の方が不健康だという考え方もあります。同様の項目は他にもあります。「人生がむなしいと感じたことがある」「孤独だと思う」「物事にとらわれることがある」などです。大多数の人が、こういう経験を持っている以上、不健康とする訳にはいかないでしょう。しかし、不健康な人もこういう経験を持っているような気もします。そこまで検討するのは考えすぎだ、と言われるかも知れませんが、考えすぎが、なぜいけないのでしょう。それに、私は「考えが足りない」という評判をとっている男です。他の質問もじっくりと、考えすぎてみたいと思います。<以下、次回につづく、でしょう>
December 30, 2004
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やっと、クリスマスが終わりました。これで、女性と会ってもプレゼントを渡さなくていいというものです。やっと、繁華街にも出られます。それにしても、どうして、クリスマスに浮かれたりするのでしょうか。クリスマスに浮かれる人々は、七面鳥の気持を考えた事があるのか。孤独な人が、こういう日にどんな思いをしているか、考えたことがあるのか。何人もの女性にプレゼントを渡さなければならない私の窮状を考えたことがあるのか。(おまけに、プレゼントを渡しても、何の見返りもないのだ)かつて、日本でもクリスマスには、家族や恋人やホステスと過ごし、街は閑散としていました。今やクリスマスは、女性にとっては、プレゼントをもらう日です。アクセサリーショップやブランドショップには、男たちが群がっています。ある知人の若い女性(仮に名前を、みっちゃんとしますが、特に意味はありません。詮索しないように!)に訊くと、彼女はこう答えました。「クリスマスは一年で最大のイベントですよ。 誕生日よりも力が入ります。 毎日がクリスマスならいいのにと思います」「勤労感謝の日や、敬老の日よりも力が入るのか」「あたりまえです」「どんなプレゼントをもらうのが嬉しい?」「身に着けるものが一番です」「驚いたな!教養が足りないことを自覚していたのか」「教養を身につけたいんじゃなくて、指輪とかが欲しいんです。 思い出になるものを、いつも身につけていられるでしょう」「でも、金目のものじゃないと、思い出にならないんだろう」「金額は問題じゃありません」「じゃあ、仮に男が、 『たいしたものじゃないけど、気持だけは人に負けないつもりだ。身につけていて欲しい』 と言って、使い古しの百円のボールペンをプレゼントしたら、どうする?」「『おまえ、何か勘違いしてないか?』と言って、突っ返します」「しかし、金額は問題じゃないんだろう。 たとえば、 『君には、都会の汚れた空じゃなく、澄みきった満天の星空がふさわしい』 と言って、権現山(高尾山でも無意根山でも英彦山でも可)に登り、星空を指差して、 『ごらん、これが僕のプレゼントだ』 と言ったらどう?」「『おまえの夜空か。目を覚ませ!』と言い捨てて帰ります」「それなら、豪華クルーザーで南太平洋に連れて行って 『ほら、あの南十字星が僕のプレゼントだ』 と言ったらどうする?」「それなら、うれしい」「南十字星だって、その男のものじゃないだろう。 目を覚ませ! 結局、金が問題じゃないか」「いいえ、どれだけ犠牲を払うかという、誠意が問題なんです」「それなら、みっちゃんのために、男が二晩徹夜して作った詩をプレゼントしたらどうだ。 詩なら、指輪なんかより、ずっと思い出になる」「気持ち悪いだけです。 『常識を身につけろ!』 と諭してやります」「短歌や漢詩なんかはどうだ。 平安時代には、和歌のやり取りで愛を確認していたのだ」「『平安時代に帰ってろ!』と言ってやります」「自作の絵や音楽を贈られたら、どうする?」「『失せろ!』と言います」「男が有名アーティストで、高価な作品でもか?」「それなら別です」「ほら見ろ、やっぱり金じゃないか」私はこう言って、話を一方的に打ち切った。彼女に、「じゃあ、マッケンジーは詩をもらいたいんですか」と質問されて、私が答えに窮するのが目に見えていたからです。それにしても、聖なる祝祭日が、どうして欲望に飢える日に成り下がってしまったのでしょうか。子供の頃から、クリスマスには何かもらえると思い込ませてきたことが、さもしい人間を育てたのです。ぜひとも、改革が必要です。今後、クリスマスには、詩を交換するようにしたらどうでしょうか。そうすれば、みんなも私と同じように、クリスマスが早く過ぎるように祈るはずです。少なくとも、私のように、クリスマスが過ぎるまでは、極力目立たないように、身をひそめるようになるでしょう。
December 28, 2004
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先頃、このページにおいて、私は「あなたの記憶は本物ですか」と書きました。今回は、「あなたの(恋愛)感情は本物ですか」と問いましょう。そもそも、感情はどのようにして起こるのでしょうか。本能に根ざしたもの、というのは誰も否定しないところでしょうが、感情が起こる仕組みについては、古来いろいろな仮説が立てられてきました。その中でも、興味深いのは、ジェームズ(アメリカの哲学者で、心理学者)と、ランゲ(デンマークの生理学者)という二人の人物が、ほぼ同時に発表した「ジェームズ・ランゲ説」と呼ばれる仮説です。一般常識としては、悲しい出来事があった時には、先に「悲しい」と思い、その結果として涙が出る、と考えられます。哲学者ジェームズはこれに対して、生理的な反応は感情の結果ではなく、原因だと主張しました。つまり、ジェームズによれば、「泣くから、悲しい」という訳です。この理論は一見、あべこべなようですが、確かに、美しい女性などが、私にぶつかりそうになった時など、ドキッとして、後から“私に対する恋愛の感情が起こる事実”などを考えると、「なるほど!」と納得させられる部分もあります。その後、批判や修正をされることになった「ジェームズ・ランゲ説」ですが、現在でも、その考え方が完全に否定されている訳ではありません。例えば、心理療法の分野では活用されているとも言えます。とくにリラクゼーション法の多くは、まず体にリラックスしている状態を作り出すことを目的とします。それによって、リラックスしている「感じ」が実際に生まれる訳です。もちろん、この説だけですべての感情が説明できる訳ではありませんが、感情の起源についての理論は、ジェームズの大胆な発想から始まったと言われています。「ジェームズ・ランゲ説」は、感情についての新しい見方を提案しましたが、この考え方を、もう一歩進めたのがシャクターです。彼は生理的な変化が起こるだけでなく、それが認識されることで初めて感情が生じると考えました。認知過程を重視するこの考えは「感情の認知説」と呼ばれています。(解説は退屈かつ面倒で面白くない上に、何より私には難しいので割愛します)彼らの実験ではありませんが、この説で説明できる興味深い実験があります。「恋愛の“感情を作る”実験」です。(ここまでの、退屈な文章に我慢できた人だけに、この秘法を伝授しましょう)ダットンとアロンズの行なった実験は、深い谷に架かる不安定な吊橋と、浅い川に架かる広い石橋を舞台に行なわれました。被験者はそれぞれの橋を、偶然通った男たちです。男たちが橋を渡っていると、実験者によって用意された女性が、突然、心理テストへの回答を依頼します。また、テストが終わると、女性は連絡先として、電話番号を被験者(男たち)に教えます。その結果、石橋の被験者に比べて、吊橋の被験者の方が、心理テストでは、恋愛的な興奮を示す回答をしました。さらに、吊橋の被験者は、後日「実験について、詳しく知りたい」などの理由(口実?)で、その女性に電話を掛けるという行動が、多くみられました。これは、吊橋の上にいる恐怖によって引き起こされた「生理的な興奮」が、「女性に対する興奮」と混同されたためと解釈されました。「ドキドキ」を「トキメキ」と混同したのです。感情の認知説は、恋愛のシチュエーション作りにも役立ちそうです。劇的な出会いを経験した男女が恋に落ちるのはこのためでしょう。初めて異性と二人で会う場合には、刺激的な場所が有効です。そうは言っても、暴力団の事務所などでデートするのは行き過ぎです。現実には、夜の高層ホテルでの食事などがドキドキする場所ですが、食事代を支払う側が(経済的に)より強い恐怖を感じる点で、男性の方が不利なのは、前述(「りすとらんてにて」を参照)した通りです。ところで、この文章を読んだ私の周りの女性の中には、思い当たるフシがある方がいるかも知れませんが、その出会いのハプニングや状況は、あくまで偶然であることを、お断りしておきます。あなたが抱いた私への恋愛感情は、本物だと信じて下さい。(少なくとも、私の抱いた下心は本物です)
December 27, 2004
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1992年、アメリカの女性が心理療法を受け、その中で、「牧師の父から、性的な暴行を何度も受け、二度も妊娠させられた上に、ハンガーで堕胎させられた」という記憶を思い出しました。このような悲しい事例は、カウンセリングの現場で時折見られるものですが、この話には続きがあります。その後、彼女が病院で検査を受けると、なんと妊娠した事実は無いと判明したのです。彼女はカウンセラーを告発して、1996年に百万ドルで和解が成立しました。カウンセラーは記憶の捏造を否定していますが、彼女はカウンセリングの過程の中で、偽りの記憶を作り出されてしまったのです。(偽りの記憶を思い出してしまったのです)実は、多重人格なども、(下手な?)カウンセリングによって作られる可能性が指摘されています。深層心理を探り、無意識という(本人の知覚できない意識を)カウンセラーが判断することが、記憶を生み、人格を生んでしまうのです。このような事例は多いといいます。私が以前、よしよしさんの質問に答えて、フロイト風の分析を書きましたが、あのようにワザとふざけて信用できない文章にしたのは、この危険を考えてのことです。いくら私が信用に値する立派な人物でも、盲目的に信じてもらっては危険なのです。(以後、私を信用しないで下さい)(でも、もう少し信じても構わないと思います)ふつう記憶は自分自身の体験によって形作られたものです。自分の記憶を疑う人は、私ぐらいでしょう。(私は、確かに、ラテン系日本国籍のスコットランド人だし、大金持ちだし、大勢の女性にモテた、と記憶しているが、最近少し疑うようになってきた)ここで、ある実験を紹介しましょう。ロフタスらが行なった実験では、あらかじめ被験者の周囲の人から、子供の頃に起きた実際の出来事を聞いておきました。次に、その実際の三つの出来事に「五歳の頃にデパートで迷子になった」という架空の出来事を加えた四つの物語を文章にして、被験者に読んでもらい、その出来事について憶えていることを書いてもらいました。その結果、実際に被験者が体験した出来事の68%が思い出されただけでなく、29%の人は、架空の出来事についても“思い出した”のです。その後、二回にわたって行なわれた面接でも、この作られた記憶は、ほとんど維持されていました。あなたの記憶は本物ですか。(私の記憶も自信が無くなってきました)
December 24, 2004
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このページに来る人は、二種類に分類できます。(1)悩みが深刻で不幸な人と、(2)悩まない不幸な人です。ところで、私は「哲学」も中途半端ですが、「心理学」も中途半端です。私自身、「産業カウンセラー」といった分野の仕事にも関わりますが、私を悩ませるものには、金がない、信望がない、私の能力が(私に自信があっても)評価されない、容姿容貌が(私に自信がない上に、さらに追い撃ちをかけるように)誰にも相手にされない、といったことの他に、もう一つあります。それは「心理学で、心が解かるのか?」という質問です。実は最先端の心理学でも、答えは「NO」です。先ほどの質問には、「“心というのは、簡単には解からない”という事がよく判ります」というのが回答です。だいたい世の中のほとんどの事は、(よく分かっていると思われる人ほど、)よく解かっていないのです。(これで、私の周りで、私の素晴らしさが、理解されないのも頷けます)驚くべきことに、心理学という学問自体、いまだに「心」の明確な定義さえ持っていません。ここで、少し心理学を説明すると、心理学を研究するためには、ほとんどの場合「統計的検定」という操作が必要です。科学として、客観的に捉えるためには、因子分析、自由度、標準偏差、帰無仮説、t検定、カイニ乗検定、ピアスンの相関係数、などの統計学が必要になります。(見ただけで、ジンマシンが出そうです)要するに、心が解からないので、行動を測ることで、心理を捉えようとする訳です。みなさんは、カウンセラーと言われる職業に何を期待するでしょうか。カウンセラーの基盤となるのは臨床心理学と呼ばれるものですが、実は心理学とは違うものです。心理学者の観点◇心の一般法則を追求・ 理論的・ 客観的・ 部分的・ 抽象的・ 科学的臨床心理学者の観点◇一人の個人を扱う・ 実践的・ 主観的・ 全体的・ 具体的・ 非科学的人の心は、それぞれ皆違う。私が、このページで「心理学」や「臨床心理学」的なアプローチを、まともに取り上げなかったのは、言葉や文字だけでは真っ当な対応が不可能だからです。無責任に適当なことを言いたくなかったので、あえてその色を出さないようにしていました。そもそも臨床心理学では、「心理療法家の数だけ心理療法がある」という言葉がよく使われます。しかし、ほとんどの心理療法は以下の三つの視点のいずれかに属しています。(1)精神分析療法:フロイト→ユング(分析心理学)、アドラー(個人心理学)、エリクソン、クライン(2)行動療法:バンデューラ、ベック、エリス(以上、認知行動療法家)(3)来談者中心療法:ロジャース→ジェンドリン(フォーカシング)、バーン(交流分析)、フランクル(実存分析)それぞれ全く違う視点を持っていますが、いずれも長所短所があります。実際の治療場面では、状況に応じて、技法を組み合わせたり、使い分けることが重要だと思います。つまり、ネット上でのカウンセリングには、おのずと限界があって、実際には、無責任で中途半端な行為(好意?)になりかねないのです。しかし、背に腹は代えられないので、今後は(ネタに困ったら)少しはそのようなネタを書くかも知れません。ちなみに、私は、(3)悩みが深刻でも幸せな人になりたい。
December 23, 2004
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世の中には、何の根拠もなく信じられている事があります。マッケンジーは「お子ちゃま」だとか、マッケンジーは「うそつき」だとか、何の根拠もない事ですが、当たっているのが不思議です。早寝早起きなどの、規則正しい生活が良いとされているのも、根拠は不明です。もちろん、フランクリン(…プランクトンだったかも知れない)をはじめ、多くの人が力説してきたという事実は無視できません。ただ、「多くの人が言った事だからといって、とくにフランクリン(トランポリンかも知れない)が言ったからといって、それを無条件に信じるのは愚かだ」ということも、多くの人が言ったのですから、判断に苦しむところです。早起きの利点として、よく挙げられるのは「早起きは三文の得」と表現される経済的効果でしょう。スコットランドでも、「早起きの鳥は、虫を捕まえる」ということわざがあります。しかし、この点については、すでに「早起きした虫は、鳥に捕まってしまう」という逆の真理が、私によって指摘されています。早寝早起きが良いとされる一番の理由は、健康に良いという事でしょう。たぶん、それが自然の摂理に適っている、というような根拠でしょう。しかし、自然界には夜行性の動物は多いのです。(不思議なことに、自然の摂理にうったえる人に限って、仕事や結婚のような反自然的なことに意欲を燃やす人が多い)結局、どうして早寝早起きが良いのか解からないまま、私は、ほぼ規則正しく午後十時就寝、午前五時起床を守っています。ただし、この時間はグリニッチ標準時です。日本時間で早寝早起きしている、という人がいますが、このような人々に国際人の資格はないのです。私の知人で、ミラノ在住の女性がいますが、彼女も日本人でありながら、日本時間を捨ててイタリアで生活しています。これこそ、グローバルなコスモナポリタンと言えるでしょう。私の周りを見ても、日本時間で早寝早起きするという、前時代的でローカルな価値観で生活する人は、(1)私を高く評価しない、(2)日本時間で早寝早起きしない私を低く評価する、という欠点を持った、ろくでもない人間ばかりです。しかし、日本ローカルの一般的分類では、私は夜型と言われています。夜中に、飲み屋さんで、女性を口説いている時に冴えわたっていた頭が、仕事の時には、ぼんやりして、目を覚ましているのが精一杯です。佐々木さんから依頼された仕事に取り掛かろうとすると、それまでこらえていたものが、せきを切ったように眠ってしまいます。(仕事をやめると、せきを切ったように目が覚めます)私は受験勉強も、繁華街での社会勉強も、深夜に行なう主義です。そのせいで、昼間に行なわれる大学の入試も、昼間にすべき仕事も、失敗の連続です。(夜の繁華街でも失敗の連続ですが)聞くところによると、朝型か夜型かは、先天的に決まっていると言います。日本で先天的に夜型だということは、私の父祖の地のスコットランドでは、私は先天的に朝型なのです。もう少し早く気がつけば、ケンブリッジ大学かオックスフォード大学の門をくぐれたのに、そのことが今でも悔やまれてなりません。【注釈】文中の“佐々木さん”について、詳しく知りたい(笑いたい)方は、私のフリーページの中の『ついに、催促の電話』などのページを参照して下さい。
December 20, 2004
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人間は必ず、いつか死にます。しかし、よっぽどの事が無い限り、死ぬような事はありません。(“よっぽどの事が無い限り”とは、「死ぬような事がない限り」という意味です)よく、「あっけなく死ぬ」と言われますが、原因も無く突然死ぬ事は、ほとんどありません。その証拠に、朝、目を覚まして「あれっ、今日も生きている」と驚く人はいません。(「あれっ、今日は死んでいる」と驚く人もいませんが)このように、人間は行き続ける方が普通です。だからこそ、人が突然死ぬと驚くのです。行き続けるには、特別な原因は要りませんが、死ぬためには、何らかの特別な原因が必要です。人間は死に難いにも関わらず、コンピュータやテレビのような機械と比べ、作り方は驚くほど簡単です。コンピュータを一台作るのは非常に難しく、高度の知識が必要です。「鉄板を一枚作れ」と言われても、どうやって作ったらいいのか途方にくれるのです。それに対し、人間を一人作るには、たいした知識も要りません。(知識が無いほうが、作れてしまうほどです)我々は、このように死に難い構造に生まれついていることを自覚しており、めったなことでは死なないと信じて生活しています。「明日も生きているに決まっている」と信じているからこそ、勉強をし、宿題をし、三ヶ月定期を買い、働き、貯金し、明日のおかずを作りおきし、バーゲンで買い物をし、あらゆるモノを手に入れようとしているのです。このため、我々は、ともすれば、明日も自分が生きているのを当然だと思い、いつかは死ぬという事実を忘れてしまいがちになります。これに対して、古来、多くの人々が「死を忘れるな」という警告を発してきました。(ジャスミンさんが詳しいかも知れませんが)ヨーロッパ中世絵画には、通常の絵の隅に髑髏を描いて、死を思い起こさせる趣向のものがあります。このように、警鐘が鳴らされるには、理由があります。死を忘れていると、生きていることの在り難さを忘れてしまう。死に直面する時、初めて人間は生きる事の大切さを知ります。それまで、異性に恵まれていない、顔が気に入らない、人生が思うようにならない、家庭がうまくいかない、お金が無い、と不満ばかり言い、目先の利益に一喜一憂している人が、死を意識すると一時的に真人間に戻り、それまでの生活を悔い改め、自然の美を見出し、隣人愛に目覚め、周囲の人に感謝するのです。人間が愚かな行為をするのは、「命の掛け替えのなさ」を忘れているから、という部分もあります。死と向い合って生きるのが人間のあるべき姿である。こう考えられるのです。この考え方には、もっともな所があります。実際、我々の日常の行動の中には、死から目を背けているとしか思えないものがあります。心情的にも、夏休みを遊んで過ごし、休みが終わる頃になって「早めに宿題をしておけばよかった」と悔い改める経験をした人には納得しやすいでしょう。明日かも知れない死を意識すると、どのような生活になるでしょうか。昼寝をする、浮かれ騒ぐ、ギャンブルやゲームにのめり込む、気楽に酒を飲む、といった事には無縁になり、何よりも時間つぶしをしなくなるでしょう。だらだらした生活は一変し、無為に時間を浪費しなくなり、濃密な時間の中で生活するに違いありません。その替わり、仕事や夏休みの宿題に力を注ぐ事も無くなるでしょう。たぶん、私のページか詩集でも読みながら、人に愛情を注ぎ、親に感謝の手紙を書き、遺書を書くでしょう。しかし、このように清らかな生活になるのは、たんに、死に直面すると、物欲や執着が薄れ、自己中心的な悪い事を考える余裕が無くなるからではないでしょうか。もっと余裕が無くなって、三日後に巨大隕石が地球に衝突して、人類が絶滅することが分かったら、人々は自暴自棄になって、目先の欲望を満たそうとして行動し、盗難、強盗、略奪、レイプ、殺人などを引き起こし、この世は阿鼻叫喚の地獄と化すでしょう。こういう事態でなくても、詩集と隣人愛は、長くは続かないでしょう。人間が愚かな行為を繰り返すのは、死を恐れるからでは無く、たんに「根が愚かだからだ」と思われるのです。こう考えると、死を考え続けるのも、考えものです。死を全く考えない「子供や動物が幸福そうに見えるのは、なぜか」を考えたほうがいいと思います。≪追記≫この文章の中には(いつものように)、哲学的解答も、普遍的な真理も、宗教的な救いも、私の主張も、まったく込められていません。暗に何かを主張し、暗にそれを皮肉っているように読めるかも知れませんが、何事も複雑に考えない「子供や動物が幸福そうに見えるのは、なぜか」を考えてみたほうがいいと思います。
December 19, 2004
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私の亡くなった父親が言っていたことです。「人は誰でも完璧ではない。 人は、みんな欠点だらけだよ。 人は神様じゃないんだ。 だから、人は、その欠点を埋めようとして、他人に求めようとする。 しかし、欠点だらけの自分を棚に上げて、他人に何かを求めてはいけない。 欠点だらけの人が、他人にしていい事は、たった二つしか無いんだ。 人を責めたり、人の罪を裁いたりできるのは、神様にしか許されない事なんだよ。 神様から、罪深い人が許されていること、それは、『受け入れること』。 もう一つは、『許すこと』、それだけなんだよ!」「…わかったよ! お父さん!」「人を許せるような人になるよ!」「…だから、だから死なないで!」(・・・といった話は、フィクションです!)しかし、その後の私は、人を許す事よりも、人に許しを乞うばかりの人になってしまいました・・・。…こんな人になってしまって、…赦して下さいっ!…こんな事を書いてしまって、…許して下さいっ!
December 18, 2004
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多くの人は、恋人や友人や家族と、家庭内や職場など身近なところで、「私は解ってもらえない」という不満を抱いています。私などは、身近な人ほど、私を正しく理解できないようです。(私と無関係で、私をまったく知らない人の方が、私を許容してくれるのが、私には理解できないところです)この不満は、「私のして欲しいことを、誰もしてくれない」という意味を持つことがあります。しかし、こう訴えても、たいした効果は期待できません。通常、「何でも思い通りになると思うのが大きな間違いだ」という冷たい反応が返ってくるだけです。子供が、ダダをこねているのと同じと見なされ、それまでの評価に「子供じみている」という評価が加わるという、より悪い結果を招いてしまいます。(私がそうです)こうなった場合、スネる、グレる、という道がありますが、これが許されるのは、三十歳未満と、七十歳以上の人だけです。「人は解ってくれない」という不満は、その他に「私を正当に評価してくれない」という不満を持つことがあります。もちろん、本当の自分がどんなものなのか、本人にも解っている訳ではないのです。ちょっと考えると、「本当の自分を知らないのに、どうして正当に評価されていない事が解るのか」という疑問が生じますが、答えは簡単です。「私をこのように扱っていいはずがない。だから私は不当に評価されているに違いない」と推論しているのです。こうして、本当の自分を求めて、自己探求の道へ踏み込む(迷い込む)ことになります。もっとも簡単な自己探求の方法は、「私はどんな人間か」と、他人に尋ねる客観的方法です。しかし、この方法は、見かけほど簡単ではありません。例えば、自分をよく知っている人などに訊いてみるといいでしょう。「お前は、女好きだ。それに生意気だ。おまけにお子ちゃまだ」などという答えが返ってきます。このように、私を熟知している者は、すべて完全に誤解しきっています。だから、私を正しく認識してくれる人は、私をよく知らない人の中にいるはずです。そこで相談するのが、(とくに恋愛初期における)恋人です。例えば、私があまり喋らないのを勘違いして、相手の女性が「マッケンジーさんて、不思議な人ですね」と言ったとしましょう。私のほうは、どこが不思議なのか解らないまま、満足感を得るのです。「物憂げな雰囲気の人だ」と言われれば、「自分では、体力と気力に衰えを感じていたが、そうではなかったんだ」と考えます。「孤独の影が漂っている」と言われれば、その女性と仲良くなりたいという動機も忘れて、「やはり、自分は孤独を求めていたのか」と納得します。高熱のために、頭がぼうっとしていても、「思慮深く、神秘的な表情です」と言われれば、「この人は、自分の事を理解してくれる」と思い込み、いよいよ誤解を深めることになります。自分で、我が事のように書いていて、恥ずかしくなりましたが、このような誤解は、恋する人に共通の誤解です。(あえて断っておきますが、上記の例は、事実に基づくものではなく、あくまで作為的事例です)このように、恋人(とくに恋愛初期)の“誤解”を、“理解”と(疑うことなく)信じてしまうことが、不幸への第一歩です。どんな訳の解らない評価でも、人は(求めている状態にあれば)、いとも容易く素直に受け入れるのです。こうして、マッケンジー本人を含めて、誰一人として思ってもいない人格が、誤解の上に成立するのです。(もちろん、私が子供じみている、というのも誤解です)ところで、人生の経験を積んで、多くの修羅場を潜り抜け、深い洞察を続けた結果、自分には正しい自己認識が得られている、と考えている人がいますが、これも大きな誤解です。私の周りの人間は、たいてい自分が賢く、正しいと思い込んでおり、それは、正しい認識からは、はるかに遠く隔たっています。この連中は、何よりもまず、「マッケンジーよりマシだ!」という誤解を捨てるところから始めてもらいたいと思います。
December 16, 2004
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多くの人が抱いている大きな不満の一つは、「自分の思う通りに、自分を扱ってもらえない」あるいは、「自分は、(評価されて欲しい人に)正当に評価されていない」というものではないでしょうか。私の推測によれば、この不満(不幸)は、生命の誕生と同時に生まれます。私の記憶でも、この不満は、ライバルの誕生(弟の誕生)や、集団生活の発生(幼稚園入園)と同時に発生します。不思議なことに、この不満を持つ人は、私がそうだからよく解かりますが、“正当に評価されない”ほうが、いいような人たちです。こういう不満を訴えても、まともに誰も相手にしないから、いいようなものですが、それにしても、なぜ正当に評価されかねないような、危ない橋を渡るのでしょうか。私はこの問題に取り組み、考え抜いた末、一つの答えを得ました。五分間考えただけなので、まだ細部を詰めていませんが、私はこういう問題に答えを出すのが得意です。とくに間違った答えを出す点では、人後に落ちない自信があります。私の理論によれば、すべての人間は多かれ少なかれ、「自分は特別な存在だ」という信念を持って生まれています。(イヌ、ネコ、インフルエンザ・ウイルスなども、自己保存と種の保存本能によって、そう判断できます)子供の頃は、自分の周りが世界のすべてです。そして世界は、自分の周りに存在する以上、自分が世界の中心だと考えるものです。しかし、大人になるにつれて、自分は特別な人間ではなく、大勢の中の一人に過ぎないのではないか、という疑念が次第に芽生えてきます。周りの人間を見ても、それぞれ自分勝手に、自己の利益を中心に、行動しているのが見えてきます。誰もがそれぞれ、自分にとって自分は特別だ、と思っているのだから、他人から見れば、自分は特別ではない、という結論が明らかになってきます。ただ、一部の人は、「私以外、みんな勘違いしている愚かな人々だ」と考えることで、自分だけは特別だ、という信念を守ることはできます。(エリート意識、選民思想などは、このような不幸からの逃避行為です)しかし、自分は特別だと信じ続けても、他人と接触しているうちに、「特別な人間に対するにしては、扱いが、他の人と同じではないか」と疑う機会が増えてきます。こういう場合、最も自然な結論は、「ゆえに私は特別ではない」というものですが、多くの人はこれと違った結論を導き、「ゆえに私は、本当の自分を正当に認められていない」と考えます。ここに「正当に評価されない」という不満が発生します。これは自己同一性に矛盾を生じさせ、精神を蝕む原因になります。始末の悪いことに、「お前のどこが特別なのか」と問われたら、特別な存在であるはずの自分の中をいくら探しても、客観的に特別なところが、一つも見つからないのです。他人と違う、アンクル・E・マッケンジーという名前を持っているとか、脂肪の付き方が独特だ、などと考えて納得しようとしても、「それのどこが特別か」と言われたら、返す言葉がありません。自分が特別でないことに気づいた時、あるいは気づきそうになった場合、あくまで自分は特別だという信念を守る方法が、私の理論では二つあります。一つは恋愛です。(もう一つについては、思いついた時点で、改めて述べます)思春期において、自分が特別でないことに気づいた時、あるいは気づきそうになるのと、時を同じくして、恋愛を求めるのが、その証拠です。奇しくも私は、若い女性が愛に悩んだ末、「わたしを探して」という、自分探しを始めたページに出逢いました。愛を失うと、自分も見失ってしまうのです。それは、なぜでしょうか。恋愛(結婚でも可)の中では、相手が特別の存在になります。これは錯覚であるため、相手のどこが特別なのか、周囲の者の目には解かりません。(時間が経てば、当人同士も、どこを特別だと思ったのか、解からなくなります)鼻の形、目、アゴ、手、この辺りなら、まだ客観的に違いが見えますが、中には「やさしい」などと、およそ曖昧で不確かで、誰でも(一時的には)所有および行使できるモノを、特別だと思い込むのです。何でもないモノを、何の正当な理由もないまま、特別視するのです。何のために、そんなことをするのでしょうか。自分が特別視している当の相手から、特別だと思われたら、自分も特別な存在になれる(ワケはないが、特別な唯一無二の存在だと思うことができる)。「愛する人に、愛されたい」と思うのはこのためです。(愛してくれる人を愛するようになるのもこのためです)恋愛(とか結婚)は、ちょうど「こっちも特別扱いするから、そっちも特別扱いしてくれ」という取引のようなものです。我々は、このような無理なやり方をしてまで、自分は特別な存在だと実感しようとしているのです。恋愛における幸福とは、「自分という存在を、唯一の特別な存在として認めてもらう」のと同時に、「自分も認めてあげられる」という自己満足に過ぎないのです。恋愛は、自分は特別な存在だと思っている幼児的状態から、自分は特別でも何でもない人間だと悟るまでの、移行期に発生する、過渡的現象です。通常、この過渡的現象は、思春期に始まり、死ぬまで続きます。年を取ると恋愛から卒業したように見えますが、実際には、恋愛の対象から外されて、やむなく遠ざかっているだけです。恋愛がダメとなったら、特別視されるためには、権力や金に訴えるしかないでしょう。あるいは、子供を特別な人間に育てようとします。それもなければ、年を取っているとか、病気であるとか、不幸であるとかの事実に頼って、特別扱いを要求することになります。長々と述べましたが、私の理論の骨子を要約すると以下のようになります。1、 みんな、特別でも無いのに、特別な存在である、と思いたがっている。2、 みんなと違って、私だけは特別である。
December 13, 2004
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ほとんどの女性は占いが好きなようです。(占いが好きな男もいる、と誤解している女性がいるかも知れませんが、真相を打ち明けると、男は「女性との話題」として好きなのです)(つまり、女性が好きだから、占いが好きな男がいるのです)特に若い女性には、占いは人気があります。私には、これが不思議で仕方ありません。若いうちは、占いに興味を持つものです。私も学生のとき、翌日の期末試験が上手くいくかどうか、よくトランプで占っていました。なかなか良い結果が出なかったので、よく徹夜したものです。不思議だと感じるのは、若者の普段の行為にふさわしくないように思われる点です。ふつう、占ってもらうといえば、つきあう相手のことや、将来のことあたりでしょう。しかし、つきあう相手について知れたければ、相手をできるだけ細かく観察するしかありません。後悔したくなければ、つきあわないという道しかありません。要するに、つきあうか、つきあわないか、という選択肢しかないのです。それを、他人に相談して、どうするのでしょうか。つきあおうと思っている相手が、その占い師の子供なら分かります。将来の進路として、占い師になろうか、と迷っているのなら、占い師に相談してもいいでしょう。しかし、そういう状況でもないのに、占い師にアドバイスを求めているのです。アドバイスしてくれる人がいなくて困っているなら、見知らぬ占い師に相談する気持も理解できます。しかし、たいていは、アドバイスしたくて手ぐすね引いて待っている、親などの年長者が周りにいるのです。もちろん、周りにいる年長者にも答えられない問題がいっぱいあります。むしろ、ほとんどの問題に答えられないと言っていいでしょう。しかし、つきあう相手とか、将来の進路の問題のように、「やれることをやった後は、本人の決断次第」という、知識を必要としない「決断の問題」については、年長者は誰でも明確な意見を持っており、自信を持ってアドバイスをすることができるはずです。こういう問題こそ、自信を持って「お前の決断は間違っている」と断言できるだけの失敗の蓄積が年長者にはあるのです。(私などは、失敗の蓄積には自信があります)(よく考えてみれば、ヘンな自信です)年長者は、若者が自分と同じ間違いをしようとしているのが判っていながら、手をこまねいて見ているしかないのです。年長者にとっては、苛立たしい限りです。精神鍛錬になってもよさそうに思える程ですが、精神というものは鍛錬されないものです。通常、若者は、子供の時から長年にわたって教育を受けた結果、親や教師の言うことは何でも拒絶するという態度を身につけます。しまいには、有益な事なら何でも拒否するようにまでなっています。この態度を貫き通すのなら、私は納得します。有益な事を避けるのは、年長者も同じなのです。しかし、なぜ占い師の言うことには、耳を傾けるのでしょうか。不可解なのはこの点です。占い師だけは、信頼できる職業だと思っているのなら、占い師になりたがる人がもっと多くてもよさそうなものです。占いが流行るのは、若いうちは自身を持っていないことの現われだ、と考える人もいるかも知れませんが、自信を持っていない者が、年長者の意見をあれほど独善的にばかにするでしょうか。それとも「周りの年長者は信用できない。ゆえに見知らぬ年長者は信用できる」と推論しているのでしょうか。占いに頼るというだけでも不可解ですが、さらに不可解なことに、自分の性格を見ず知らずの占い師に判定してもらう者が増えているのです。最近では、部屋のカーテンの色や部屋の間取りまで占いに頼る有様です。そのうち、ヘアスタイルや服装、スケジュールや夕食の献立、どんな映画を観たらいいかも占ってもらうようになるでしょう。そうは言っても、私も人間です。占いに頼りたくなる時もあります。今も、明日のプレゼンテーションの資料を作成中ですが、明日のプレゼンで、クライアントに納得してもらえるか、不安で仕方ありません。あまりに不安で、資料の作成が手につかず、まったく出来ていません。しかし、私は占い師などに頼るつもりは、さらさらありません。いつものように、トランプで占うことにします。運が良ければ、徹夜にはならないでしょう。
December 8, 2004
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最近、朝起きると頭痛がします。原因として考えられる可能性は三つあります。1. 不規則な生活と寝不足と肉体疲労と眼精疲労と肩こりから派生した、容姿容貌に恵まれ人格的にも申し分ない41歳の男性によく見られる、ただの頭痛である可能性2. 誰かが私の睡眠中に何らかの有形力を行使しているという可能性3. ただの二日酔いもしかしたら最初、二日酔いか何かの原因で、朝に頭痛になるのが続いていたものが、朝は頭痛だ、と身体が学習したのかも知れません。学習は繰り返しによってなされます。犬が「お手」を学習するのも、人間が何かを学習するのも、繰り返しによって定着します。道具でも使い込んでいるうちに、手に馴染んできます。(正しくは、手が道具に馴染む、と言うべきだと思います)このように、何回か繰り返すうちに定着するという現象は、広く観察されますが、よく知られた古典的な例は、「パブロフの犬」の実験です。これは、パブロフ博士が犬に食事を与えるたびに、ベルを鳴らすのを十数年続けたところ、犬が死んだという実験です。これにより、ベルを鳴らしても、死を防ぐことはできない事が判明しました。さらに、犬が死ぬ以前には、ベルが鳴るだけで、自動的にパブロフ博士が、犬に餌をやるようになっていたそうです。似た効果としては、心理学でプラセボ効果(プラシーボ効果)と言われる暗示を与えるという方法も、繰り返しによって効果を現します。この現象を証明する有名なエピソードがあります。アメリカで難病に罹った少女がいました。治療に使われる薬は副作用が激しく、彼女は副作用で苦しんだそうです。そこで薬の量を減らすため、薬を飲むたびに、バニラだか、レバニラだかの匂いを、いつも嗅ぐようにしていたところ、匂いを嗅ぐだけで薬の効果が得られるようになり、副作用を免れることが出来たということです。しかも最終的には、患者が“匂いを嗅いでいるだけだ”ということを承知していても、薬効には変わりが無かったらしいのです。「匂い」が、薬の代わりになるというのが本当なら、非常に便利です。金が無いときなど、食べ物の匂いを嗅いだだけで、食べたのと同じ効果が得られるだろうし、遭難しても匂い袋のような物さえ持っていればいいでしょう。ただ、ダイエット中の人は匂いを嗅いだだけで、食事を摂ったのと同じ効果が得られることがあるから、不便な面もあります。ただ、このエピソードを聞いて、私は疑問に思ったことがあります。匂いを嗅ぐことによって薬の効果が得られるのなら、匂いを嗅ぐことによって副作用も起こりそうなものです。繰り返しの効用が大きいことは確かですが、どんなものにも同じように効果があるわけではありません。繰り返しが、どの程度の効力を持つかに応じて、私は次のように分類しました。(1) 繰り返しによって、定着するもの 〔「お手」・ギャンブル・酒・タバコ・怠けぐせ・不健康な生活・不幸な恋愛関係〕(2) 繰り返しても、定着しないもの 〔「おあずけ」・英会話・ダイエット・禁煙・親孝行・ラジオ体操・健康的な生活・幸福な恋愛関係〕(3) 繰り返さなくても、ひとりでに生じるもの 〔病気・死・ギャンブル・酒・タバコ・怠けぐせ・不健康な生活・不幸な恋愛関係〕(4) 繰り返すにつれ、悪化するもの 〔携帯電話の充電能力・掃除機の吸引力・借金・ギャンブル・酒・タバコ・怠けぐせ・不健康な生活・すべての恋愛関係〕
December 6, 2004
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私のページに訪れる女性から、よく「男は弱い」「男は逃げる」というコメントを聞かされます。私も男ですから、とても脆弱で虚弱で貧弱で衰弱しています。それだけに、強いものには憧れの気持を抱いています。K1選手などの格闘家や、アクション映画の主人公、ハードボイルド小説の探偵などにも憧れていますが、とりわけ私が憧れているのは女性です。女性は長生きするなど、体力面で強いだけではなく、精神面でも強く、口論などでも男を圧倒します。見た目はいかにも弱そうですが、フグでも何でも、無害な外見をしているものが、本当は恐いのです。女性の中には、外見まで強そうなのもいますが、そういうのは本当に危険です。私は女性の強さから、なにがしか学んで、精神面の強化を図りたいと願っています。その矢先、女性の強さの秘密の一端を垣間見る出来事を目にしました。駅のベンチで、小学生の男の子と女の子が並んで座りました。後からやって来た小学生の男の子の一団が、それを見つけて「わー、二人は付き合ってるんだー」と、はやし立てたのです。こういう場合、二人は何らかの方法で反論しないと、明日の学校で噂が広まって、困った事態になるものです。男の子は、ムキになってこう言いました。「ちがわい。つきあってなんかないよ。おれ、こいつのこと嫌いだもん」この反論は明らかに弱い。嫌いなら、どうして並んで座るのかとつっこまれるのが目に見えています。論理として弱いだけでなく、女の子を蹴落として、自分だけが助かろうとする、卑しい根性丸出しです。(まるで、幼い頃の私と、今の私の姿を見るようです)その時、業を煮やしたかのように、女の子が反論しました。「つきあってなんかないよ。つきあうっていうのは、手をつないで帰ったり、一緒にアイスを食べたりすることだけど、わたしたちそんなことしてないもんっ!」なんという見事な反論でしょうか。女の子は、まず“つきあう”という言葉の定義を述べ、自分達がその定義に合っていないことを指摘し、だから、つきあっていないと結論づけています。これは、論証の形式としては完全に正しい。それだけに、女の子に反論することは非常に困難です。女の子に反論しようとするには、“つきあう”という言葉の定義の仕方に疑問を呈するくらいしかないでしょう。だが、“つきあう”という言葉の定義は、実は極めて難しいのです。“つきあう”の定義が何か、ということが問題になったら、果てしない議論になってしまい、決着がつかない可能性が非常に高い。このように女の子の発言は、反論が困難な上に、「二人がつきあっているかどうか」という問題を、言葉の定義の問題に切り換える効果もあります。男の子の発言とはレベルが違うのです。これは特殊な例だ、と思われるかも知れませんが、そうではありません。例えば、ほとんどの女性は「わたしのことを好きなら、どこかへ連れて行って」くらいのことは言うでしょう。この言葉は、愚かな男にも理解できるように、簡単な形で表現しているために、一見すると甘えているだけのように思われるかも知れませんが、これまで述べたのと同じ手法を使っています。「好きだということは、どこかへ連れて行くものだ」と定義し、そこから「連れて行かなければ、好きではない」と結論づけているのです。他にも、女性と話していると、「かわいい」とか「やさしい」とか「きれい」とか「うそ」とかの、定義を争う場面が多いことに気づくでしょう。そのうちに「わたしは正直で、あなたはウソつき」といった定義が成立してしまうのです。このような勝手な定義の上に築かれた信念をくつがえすことは不可能です。例えば、「信じられないというのは、わたしが信じないことだ」という定義に基づいた上で、男の主張の「信じろ」と言う発言が、果たして受け入れてもらえるでしょうか。しかし、男としては、これほど高度に洗練されたやり方でなくても、この手法を学ぶことで強くなれるかも知れません。やり方は簡単です。自分の主張に合わせて、自由に定義すればいいのです。「愛するとは、与えることだ」とも。「愛するとは、奪うことだ」でもいいでしょう。「愛とは、見返りを期待しないものだ」でも「愛の継続には、金が必要だ」と言ってもいいのです。もっと身近な定義としては、「愛していれば、プレゼントをしなければいけない」とか、「愛していれば、毎日メールを送るものだ」などが挙げられるでしょう。謙虚な人は、いくらなんでも自分の定義は勝手すぎるのではないか、と不安に思うかも知れませんが、そのような場合は、「真の」とか「本当は」などを付けるとよいでしょう。宗教家や占い師は、これを得意としてきました。哲学者などは、まさに自分勝手な定義を基にして、「時間は、本当は存在しない」、「あなたが願っている幸福は、真の幸福ではない」、「確実だと信じるのは、本当は疑わしい」など、信じられない主張をしてきたのです。これをみても分かるように、普通の言葉を、ほとんど正反対の意味に使っても構わないのです。世間では、同様の主張は広く使われています。たとえば「真の民主主義とは、民衆をだますことだ」、「真の防衛とは、何も防衛しないことだ」、「自由主義経済で本当に豊かになるには、統制することだ」、「教育とは…」など。(少し政治的な色彩が色濃くなりましたので、ここではこれ以上書きません)それにしても、人間とは、どこまで勝手になれるものかと思います。無責任極まりない。怒りを禁じえません。いま、佐々木さんから、仕事の催促の電話が来ました。二日前、「提案書は、一両日中に送ります」と言っておいたのですが、「一両日中」を、「一週間以内」と、私が定義しておいたのが、通じなかったのかも知れません。≪註≫文中の“佐々木さん”を、ご存知ない方もいらっしゃると思われますが、その場合には、私の11月19日の『ついに、催促の電話』をご覧下さい。
December 4, 2004
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またやった。事務所の机に足をぶつけてしまったのです。首が治ってきたと思ったら、今度は足です。どうして、こうも私は次々と不幸な出来事に見舞われるのでしょうか。日記のネタのために、わざと不幸を引き起こしていると疑われても仕方ありませんが、もちろん実際にはそのような事実はなく、私の日常に不幸が満ちているためです。(ネタが満ちていると言ってもいい)(たんに、そそっかしいと言ってもいい)何度も言うように、私は精神的苦痛より、肉体的苦痛に弱いタイプです。精神的苦痛に強い、と強く言えない弱い一面も持っています。それにしても、激しい衝突でした。私は何事にも手を抜かず、正面からぶつかるタイプでもあります。どうして私の周りにある物は、どれもこれも不必要に固いのでしょうか。もう少し柔らかい素材で机を作れば、居眠りするのに便利なのに。私は、人と意見が衝突しそうになると、妥協したり、体調が悪いふりをしたりして、正面衝突を回避していますが、机のほうには、そのような協調精神は微塵もありません。協調精神のないものに限って、破壊的で暴力的なのが世の常です。衝突という現象は、物理学的に言えば相対的です。私が机にぶつかった、とも言えますが、逆に机の方が、地球全体を含む、少なく見積もっても、何兆トンもの物体と一体になって、私の繊細な足にぶつかって来たと言ってもいいのです。その何兆トンの中には、鉄アレイ、金属バット、大型ダンプカー、大型タンカー、六本木ヒルズ、活火山、核ミサイル、整体の先生など、あらゆる痛そうなものが含まれており、その破壊力たるや想像に難くありません。それでも私は、泣き叫ぶようなことはせず、誰がこんな机を作ったのか、誰がこんな所に机を置いたのか、誰がこんな机を買ったのか、と怒りをぶつけていました。時間が経つにつれて、怒りが自分に向かいそうになったので、机の発明者を探し出して、怒りをぶつけようと考えるに至りました。「自分でやった事だから、誰にも文句は言えない」とよく言われますが、文句のつけようは無数にあるのです。打撲の痕は、青黒い変色から部分的に紫色とか、赤色とか、青色とか、黄色のまだら模様に変色してきました。私のどこに、これだけの色素が存在していたのか不思議です。当社の事務員は、「打撲の痕が、腫れたり変色したりするのは、身体の防衛反応です」と何ら医学的な根拠もなく無責任な発言をしたのですが、防衛するのに、こんなに派手な色を使う必要があるでしょうか。防衛するなら、机にぶつかる前にしてもらいたいと思います。しかしよく観察してみると、私の打撲痕には、色の三原色が含まれています。そのことから推測すると、全身打撲すれば、私もカメレオンのように変色できるようになるかも知れません。訓練すれば、念願の女風呂に侵入することも不可能ではないでしょう。銀行の金庫に忍び込むことも可能です。それに、レンタルビデオ屋さんで、エッチなビデオのコーナーにいても、視線を意識しなくて済むのが何よりです。少しだけ、痛みが和らぎ、元気になってきました。
December 2, 2004
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世の中には、過小評価されているものがあります。とくに世間から、不当に過小評価されているのは、私ですが、首も過小評価されています。首というのは、「頭と胴体の接合部分」といった程度にしか認識されていませんが、実際には「首に、頭と胴体が接合している」のです。この真理に着想できたのは、つい先日のことでした。朝、目が覚める直前だったのか、目が覚めた直後だったのか、今となっては、どうでもいい問題ですが、首に激痛が走りました。首に五寸釘を打ち込まれたようです。首を少しでも動かすと激痛が走ります。そのままにしていても激痛が走ります。動かす前の状態に戻しても激痛が走ります。「前門の虎、後門の狼」、「四面楚歌」、「孤立無援」、「八方塞がり」という状況には慣れていますが、私は心理的苦痛よりも、肉体的苦痛に弱いタイプです。このまま、ずっと生きていろ、と言われれば断るでしょう。すぐに殺してやる、と言われても断るでしょう。寝る前までは異常ありませんでした。眠っている間に、誰かが私に馬乗りになり、頭を二回転捻った上、首に五寸釘を打ち込んだに違いありません。しかし、そういう無慈悲なことをする人間が、多過ぎて特定できないのが問題です。というより、そういう状況を招いている私の生き方が問題です。黒い疑惑にさいなまれながら、何とか起き上がります。この瞬間に誰かに襲われたら、ひとたまりもありません。そういう事態に追い込まれる私の人生に問題があったとしても、この際、そんな問題は後回しです。その後の出来事は、昨日の日記に書いた通りです。しかし、書き忘れていたことがあります。整体の先生は「寝違えたために、首の骨がズレたのだ」と説明していたのです。痛みは治まらず、改めて病院に行くと医者は「寝違えたのだ」と説明しました。ここまでは整体の先生と同じでしたが、「寝違えは、筋肉が炎症を起こしたものだ」という説明が違っていました。「こういうときは、筋肉を乱暴に動かしてはいけない」と言われました。その夜は、なかなか眠れず、朝の五時から、やっと三時間ほどの睡眠を取ることが出来ました。それまで、六時間ほど眠っていたから良かったものの、そうでなければ、身体がもたないところです。《追記》以前に使ったオチを、また使わざるをえなかった、私の窮状を察して、気が付かないフリをして下さい。見舞いは下さい。
November 30, 2004
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私は金持ちではないが、頭痛持ちです。膝も痛みます。膝は、いつも痛むわけではありません。季節の変わり目などに、膝をどこかにぶつけた時に痛むのです。目の調子も良くない。パソコンなどで目を酷使した後などに本を読んでいると、漢字によっては読めないことがあります。アラビア語の本などは、まったく読めません。よほど目の調子が良い時でないと、読めないでしょう。(今まで一度も、アラビア語の本が読めるほど、目の調子が良かったことがありません)心臓の調子も良くありません。きれいな女性と一緒にいると心臓の動悸が激しくなります。そのうえ、高級ブランドのブティックなどに入ると、心臓発作を起こすに違いありません。(幸い、入った事はありません)先日、追い撃ちをかけるように、首が痛くなりました。これまでも痛かったのですが、真後ろにまで首を回そうとした時しか痛まなかったため、異常だと思いながらも、誰にも言わないでおいたのです。それが、今度はちょっと横を見ようとしただけでも痛むのです。そもそも首というものは、ネックレスやマフラーを巻くためにあるのではありません。首は身長を増やし、頭部を回すためにあります。首が回らないのは、考えない頭と同じくらい始末が悪い。魚介類のように首が無いのもいますが、その場合は目が、ほぼ360度見える位置に付いていて、頭を回転させる必要がないのです。首が痛くなって発見したことがいくつかあります。1. 身体の不調は、より大きい不調によって取って代わられる。 (実際、首の痛さで他の不調が気にならなくなりました)2. 首が痛い時は、背筋をピンと伸ばした異様に正しい姿勢しかできない。3. 首が痛む人は魚介類ではない。首を痛めた原因としては、仕事のしすぎ、パソコンの使いすぎ、食べすぎ、飲みすぎ、運動不足、睡眠不足、端正な顔立ち、優しい性格、寝違え、などが思い当たります。(首が回らないことから推測すると、資金繰りの悪化も懸念材料です)一日経ってもよくならないので、通りがかりに偶然見つけた治療院に入りました。指圧と整体を合わせたような治療を掲げているところで、一般の民家の一部を少し改装したような治療院です。入ってみると、誰も居なくて薄暗くひんやりとした内部で、選択を誤ったという後悔が私を襲いました。六畳ほどの和室が診療室になっており、真ん中にぺちゃんこの布団が敷いてあります。奥から出てきた先生は、六十代後半でくたびれた白いワイシャツに黒ズボンという格好です。太い眉、厚い唇、太く短い首、つやの良い顔色、いかにも頑丈そうです。どうして、こういう人は丈夫そうなのでしょうか。指圧されるよりも、指圧する方が健康にいいのかも知れません。ズボンのベルトを外し、布団の上に座るように指示されます。どうしてベルトを外す必要があるのか、疑問に思いながら指示に従うと、先生はやおら上半身裸になり、さらに、ズボンを脱ぎました。私は「や、やめてください」と叫ぼうとしましたが、ちゅうちょしている間に、先生は背後に回り、両腕と両足を私の身体に巻きつけて、強い力で抱き締めました。抵抗しようにも身動きがとれません。もう、なるようになれ、と諦めたとき、身体に回した腕に力が入ったかと思うと、裂ぱくの気合とともに、私の首が強く捻られ、ボキッと音を発てて折れました。整体治療で頚椎を折り、全身不随になったという噂話を聞いたのが思い出され、脇の下に冷や汗が滲みます。おそるおそる手足を動かしてみると、幸いなんとか動くようです。ホッと安心したところに、二回目の気合が走り、今度は本当に首が音を発てて折れました。「少しは良くなりましたか」と訊かれて、恐々と首を動かしてみると、痛みが走り、麻痺していないことは判りました。痛いのがこんなに嬉しかったのは始めてです。私は、「嘘のように治りました」と嘘をつきました。「痛い」と答えたら、今度こそ本当に首を折られるかも知れません。奇跡が三回も続くはずがありません。私は痛いのを悟られないよう、晴々した顔を作り、できるだけ自然に見えるように首を動かしながら診療室を出ました。帰り道、私は異様に正しい姿勢で歩きながら、首が痛いことの喜びをかみしめていました。そして、この治療院を、日頃から私を酷使する佐々木さんに薦めようと思い立ち、ついでに何人かの友人の名前をメモしたのです。《追記》これを読んだ私の周囲の方々で、私のせいで体調が思わしくないとおっしゃる方には、是非この治療院の治療を受けることをお薦めします。
November 29, 2004
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