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◆他人の理解と誤解◆


多くの人は、恋人や友人や家族と、家庭内や職場など身近なところで、「私は解ってもらえない」という不満を抱いています。

私などは、身近な人ほど、私を正しく理解できないようです。
(私と無関係で、私をまったく知らない人の方が、私を許容してくれるのが、私には理解できないところです)


この不満は、「私のして欲しいことを、誰もしてくれない」という意味を持つことがあります。
しかし、こう訴えても、たいした効果は期待できません。
通常、「何でも思い通りになると思うのが大きな間違いだ」という冷たい反応が返ってくるだけです。
子供が、ダダをこねているのと同じと見なされ、それまでの評価に「子供じみている」という評価が加わるという、より悪い結果を招いてしまいます。
(私がそうです)

こうなった場合、スネる、グレる、という道がありますが、これが許されるのは、三十歳未満と、七十歳以上の人だけです。
「人は解ってくれない」という不満は、その他に「私を正当に評価してくれない」という不満を持つことがあります。
もちろん、本当の自分がどんなものなのか、本人にも解っている訳ではないのです。

ちょっと考えると、「本当の自分を知らないのに、どうして正当に評価されていない事が解るのか」という疑問が生じますが、答えは簡単です。
「私をこのように扱っていいはずがない。だから私は不当に評価されているに違いない」と推論しているのです。

こうして、本当の自分を求めて、自己探求の道へ踏み込む(迷い込む)ことになります。
もっとも簡単な自己探求の方法は、「私はどんな人間か」と、他人に尋ねる客観的方法です。

しかし、この方法は、見かけほど簡単ではありません。
例えば、自分をよく知っている人などに訊いてみるといいでしょう。
「お前は、女好きだ。それに生意気だ。おまけにお子ちゃまだ」などという答えが返ってきます。
このように、私を熟知している者は、すべて完全に誤解しきっています。
だから、私を正しく認識してくれる人は、私をよく知らない人の中にいるはずです。


そこで相談するのが、(とくに恋愛初期における)恋人です。

例えば、私があまり喋らないのを勘違いして、相手の女性が「マッケンジーさんて、不思議な人ですね」と言ったとしましょう。
私のほうは、どこが不思議なのか解らないまま、満足感を得るのです。
「物憂げな雰囲気の人だ」と言われれば、「自分では、体力と気力に衰えを感じていたが、そうではなかったんだ」と考えます。
「孤独の影が漂っている」と言われれば、その女性と仲良くなりたいという動機も忘れて、「やはり、自分は孤独を求めていたのか」と納得します。
高熱のために、頭がぼうっとしていても、「思慮深く、神秘的な表情です」と言われれば、「この人は、自分の事を理解してくれる」と思い込み、いよいよ誤解を深めることになります。

自分で、我が事のように書いていて、恥ずかしくなりましたが、このような誤解は、恋する人に共通の誤解です。
(あえて断っておきますが、上記の例は、事実に基づくものではなく、あくまで作為的事例です)

このように、恋人(とくに恋愛初期)の“誤解”を、“理解”と(疑うことなく)信じてしまうことが、不幸への第一歩です。


どんな訳の解らない評価でも、人は(求めている状態にあれば)、いとも容易く素直に受け入れるのです。
こうして、マッケンジー本人を含めて、誰一人として思ってもいない人格が、誤解の上に成立するのです。
(もちろん、私が子供じみている、というのも誤解です)



ところで、人生の経験を積んで、多くの修羅場を潜り抜け、深い洞察を続けた結果、自分には正しい自己認識が得られている、と考えている人がいますが、これも大きな誤解です。

私の周りの人間は、たいてい自分が賢く、正しいと思い込んでおり、それは、正しい認識からは、はるかに遠く隔たっています。

この連中は、何よりもまず、「マッケンジーよりマシだ!」という誤解を捨てるところから始めてもらいたいと思います。






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