祝祭男の恋人

祝祭男の恋人

Apr 18, 2005
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カテゴリ: 小説をめぐる冒険
事件(1)

 翌朝、すっとんきょうな管理人の怒鳴り声でぼくは目覚めた。しばらくは、一体何を言っているのか、動物のうめき声のように切れ切れな金切り声と、隣の扉を繰り返し叩く音が続き、なんとなくただならぬ気配がしていた。午前六時、ぼくは自分の神経がいつもよりずっとひどく疲れ、ずたずたに切断されているような頭の重たさを感じ、それも全てフジオや昨日の女のせいだという気がしていた。
「フジワラさあん、フジワラさあん、開けてくださいよお」廊下中一杯に響いている金切り声が、朝の冷気そのもののように、ぼくの体を強張らせ、不吉な印象を与える。一端その怒鳴り声が止み、管理人以外の男の声が聞こえた。

 隣に住む寝たきりの妻を、夫が殺害したのだった。夫本人からの通報で管理人と警官が踏み込んだとき、七十過ぎの夫はお経のテープを大音量で流しながら押入の中にいた。三週間前に殺害した妻の遺体は毛布にくるまれたままだった。新聞を取るついでに廊下に出ると、寝間着姿の住人が開け放たれた扉から隣の部屋を覗き込み、粉を吹いたようなかさついた顔で眠そうに目をしかめていた。新聞配達の青年までもが仕事をそっちのけで近隣の住人たちと何やら話し込み、「鉄アレイで殴ったそうですよ」と言った。ぼくは老夫婦の家に鉄アレイがあるっていうのも変な話じゃないか、と一瞬思い、頭にカーラーをぐるぐる巻き付けた管理人が、「十年ですよ、十年なんてねえ、ほんとひどい」と言って突然泣き出すのを見て、つくづくおかしな女だと思った。反対隣の扉が開く音に振り返ると、半分ほど開いた扉の間に異様なくらい太った女が挟まったようにしてこちらを窺っているのが見えた。新聞配達の青年も、珍しいものでも見るようにして呆然と肥満女に気を取られていた。肥満女は自分に集中する視線に気づくと、すぐにばたんと扉を閉めてしまった。ぼくは不意に馬鹿らしくなり、もう一度眠ろうと部屋に戻った。何もかもがフジオのくだらない作り話そのままだった。このアパートの住人だけでなく、自分自身までもがフジオのいかれた頭の中に生きているような気がし、息苦しく、不快だった。冷たくなったベッドに潜り込み、無心、無心、と唱えながら目を閉じても、もう眠ることができなかった。すぐ隣で起きた殺人事件など、毎朝新聞を読んでいれば似たような話は腐るほど転がっている。ぼくにとってみればなんでもないことだった。今朝の新聞を開けば、やっぱり同じような事件の記事がある。要するにこんなことは日常茶飯事で、ぼくが気に病む必要などないのだ。

 眠りたいときに寝付かれない自分の体が、ひどくやっかいで腹立たしい代物に思えた。十年看病し続けた夫が結局妻を殴り殺したということではない、他の何かがぼくの神経をずたずたに切り裂いている。それはあの兄妹だった。私鉄の線路沿いにあるあの喫茶店の兄妹だった。〈オトウサンナンカキリコロセ オカアサンナンカキリコロセ ミンナキリコロセ〉女とその兄の住む部屋のこたつ机に、そう彫り込まれてあるのをぼくは見た。中年女性の団体客が帰った後、ぼくとフジオは結局二階の部屋に上がったのだ。ぼくとフジオの他に客がいなくなると、女はカウンターの端においてあったラジカセのスイッチをひねり、何か気の利いた音楽でもやっていないかとダイアルを回した。午後三時三十分。流れてくるものといえば、犬も食わないような痴話喧嘩を根ほり葉ほり問い質す人生相談くらいのものだった。くだらないことで死ぬの死なないのと電話でわめき立てている女の声にぼくはいらいらし、こんな時間にこんな放送を聞いている自分たちが救いようのないお人好しに思えた。女がラジオを消すと、突然わき起こったように雨の音が響き、自分たちがここへ何をしにやってきたのか今になってようやく思い出したという顔で、フジオがぼくを見た。

「お兄ちゃん、二階使うよ」と女が言い、ぼくは自分の体が強張るのを感じた。女がフジオの言うとおりの女ならば、カウンターの中にいる兄であるはずの男が、何故何も言わないのか不思議だった。それよりも、 こそこそと妹を辱める姉夫婦をあれだけ軽蔑していた自分が、この場所にいること自体おかしなことだった。一体どれだけ同じようなことを繰り返し考えているのかとぼくは思った。妹が×××ず、父狂わない場所に行くことはできないのだし、ぼくはこれからフジオの言う、やりまん女の部屋へ上がろうとしているのだ。つまりこの喫茶店の中に四人の人間がいるが、それは揃いも揃っていかれた犬みたいな連中で、その手合いであるぼくのいるべき場所は、ここ以外にないということか、とぼくは落下し続けていた体がやっとどこかの地面に突き当たったようにそう思った。

 女とその兄が共同で使っているという部屋は、六畳ほどの息苦しい和室で、カウンターの奥の階段を昇ってすぐにある二畳ほどの物置のような空間から扉もふすまもなくつながっていた。上り口の脇のガラス戸がわずかに開いており、こたつに座ってテレビを見ている女の背中が見えた。それが喫茶店の店主であるらしかった。上がりかまちの前で靴を脱ごうとする物音に振り返り、ぼくとフジオの姿を見ると煩わしげにガラス戸をぴしゃりと閉じたかと思うと、すぐにテレビに反応してため息のような笑い声を上げた。そのしなびた感じの店主の顔から、何故だか分からないが、ぼくは実家にいる母を連想し、それとはなんの関係もなく、一瞬この店主をめちゃめちゃに殴り倒している自分を想像した。

 二階の部屋には、二組の布団が敷かれたままになっていて、湿っぽい生活臭が漂っていた。
「散らかってるけど、気にしないでえ」と女は言い、崩れ落ちるようにぺたんと尻をついて座り、電気ごたつに足を滑り込ませた。ぼくは床に散らばっていた洗濯物を避けながら座れる場所を探し、女の隣に腰を下ろした。
「もうこの時間になるとお店の方は暇なんだあ」女はわざと欠伸をするようにして言い、ぼくとフジオの顔をかわるがわる眺めた。その視線から顔を背けるようにして気づいたのだが、くしゃくしゃになった掛け布団の下から人間の手がはみ出しているのが見え、それはどう見ても二歳くらいの乳児の手としか思えず、ぼくが気を取られているのに気づくと女は「ああ」とため息のような声を漏らした。
「ああ、そうそう、あたし大学行くの辞めたんだあ」とまるで関係ない話を始め、「フジオちゃんもうすぐ受験でしょう?」と言った。フジオは何も答えず、目の前にあった空き缶を灰皿代わりにしてふてくされたように煙草を吸っていた。一体どうなっているのかとぼくは思った。フジオの誘いに自棄糞半分で乗ってきたぼくもぼくだが、金を渡してでも一発やりたがっていたはずのフジオが、別人になったように黙っていた。

 〈オトウサンナンカキリコロセ オカアサンナンカキリコロセ ミンナキリコロセ〉その時になってぼくはこたつ机に文字が刻まれているのに気づき、その意味に一瞬ぎくりとした。そして自分があの古びた平屋の座敷で、姉を斬り殺し、その夫、母を斬り殺し、病院に走り込み父を斬り殺す姿を走馬燈のように思い描いた。突拍子もないこととは思わなかった。むしろ、何故そうしないのかとさえ思った。
「当然よお」と不意に女が言った。「でも全然覚えてないんだなあ、小さかったってのもあるけどお、あたしってとろいんだあ」ぼくは一体何を言い出すのかと思い、フジオの顔を窺った。フジオは驚く気配もなく、煙草を缶の口から中へ落とすと、「そんな話しなくていいよ、今日は帰るよ」と言った。ぼくは訳が分からなかった。一体フジオが何を知っているというのか、女は「うん」と頷き、机に頬杖をついた。急にさばさばとした顔つきでぼくを急かし、「帰るぞ」とフジオは言った。






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Last updated  Apr 18, 2005 12:25:40 AM
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