祝祭男の恋人

祝祭男の恋人

Apr 22, 2005
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カテゴリ: 小説をめぐる冒険

雨(2)

 今こそ全てを思い出す。今になって何もかもが甦る。今ここで全てのからくりを思い出すのだ、と思った。心臓が嘘だと一つ脈打つたび、ぼくの過去がずっと奥深くからほじくり返される。ああ、ぼくには見えていた。受話器の向こうで泣き叫ぶこの女、マーガレットにいるあの兄妹は、かつてのぼくと妹の姿ではなかったか。
 ぼくのかわいい妹が死ぬ以前には、ぼくは本当に希望なんてものを持っていたのか。父が狂う以前、ぼくは今より幸せだったろうか。いや、違う。あの男はいつも何かに憤慨していた。学校から帰ると、昼間なのに家にはあの男がいる。母もいたはずだ。玄関から靴を持ったまま家に上がり、ただいまを言う。ぼくと妹の勉強部屋の窓をそっと開け、「お兄ちゃん、靴持っとって」ぼくが先に外へ出てから、小さい妹を引っ張り上げてやるのだ。背中から青い草の臭いが立ち上る。隣家の裏庭にそのままつながっている物置の隙間を抜けようとすると、「シゲル、どこにおるんだ」とすでに酒に酔ってしまったあの男の声がする。棒きれの立てかけられた物置の隙間でぼくらは息を潜めた。妹がぼくの手をつかみながら顔を見上げ、ぼくは落ちていた雑誌がはらはらと風にめくられるのをじっと見ている。遠くには逃げられなかった。いつも決まってあの男の声のせいで動けなくなったところを家に引きずり戻された。拳の関節一つ一つがはっきり感じ取れるような殴り方だ。顔は殴らない。薄い皮膚は破れやすく、すぐに血が滲み、跡が残るし何よりも男の手が汚れるからだ。風呂場の戸を閉めて、浴槽にシャワーを流したままなら声は外へ届かない。男の履くスリッパは先から足の指がいつも少しだけ出ていた。だらしなく伸びた爪がぼくの皮膚をえぐった。妹はその時、家のどこかで耳をふさいで泣いていたのだ。ぼくは急に思い出した。受話器の向こうでは、女がまだしゃっくりを上げながら何かをしゃべっていた。

「他にもいろんな子がおってえ、あたしは小さい子のお守りをしないかんかったのお、毎日お兄ちゃん殴られるで、だから逃げたのよお」いつもぼくだけだった。ぼくだけが、殴られた。どうして母は助けてくれなかったのだろう。母も確かに家のどこかにいたはずなのだ。みんなで泣いていたのか、みんなそうすることしかできなかった、精一杯だったのか。違う。嘘をつけ。嘘をつけ。嘘をつけ。

 ぼくは、自分でも予期しない記憶が溢れ出してくることに戦いていた。今、自分はアパートの近くの喫茶店にいるはずだったが、まるで実家の風呂場に一人立ちつくしているような気分だった。その洗い場一面にぼくの本当の過去がバラバラに散らばっている。一つ一つ拾い集めて元の形に戻すことがとてつもなく怖ろしい。これも自分なのか、これはここの部分だな、一つ一つ元の場所にはめ込んでいって一体どうなるというのだ。そんなものをまだ取っておきたいのかというぼくの思いに反して、ひとたび甦った記憶は堰を切ったように流れ出てくる。泣いている。痛みにこらえて口の肉を歯で食いしばり、口中小豆のような血豆だらけのぼくが見える。しかし、まだ心のどこかでこれは本当に自分の身に起こったことなのかという疑いがあった。というよりも信じたくないのだと言った方がよい。忘れていたのなら、忘れたままの方が楽なのだ。いいお父さん、優しいお父さん、ずっとぼくの父はそういう人だと信じて疑わなかったのに。

 あの男、ぼくの父よ、おまえが憎い。〈オトウサンナンカキリコロセ オカアサンナンカキリコロセ ミンナキリコロセ〉これはぼくの言葉だ。おまえが一番憎いのに、父よ、ぼくはあなたから一番愛されたかった。堪らなく悔しかった。殴る時以外にぼくの体に触れたことがあったのか。ぼくが何をしたというのだ。あなたに憎まれるようなことは何もしてないじゃないか。電話口では女が激しく鳴き声を上げ、ずるずると鼻をすすり上げる音が聞こえた。ふとぼくは自分も涙をこぼしかけていることに気がついた。何故自分がそんな何もかも忘れてしまっているのか不思議だった。

「誰も教えてくれん、子供を殴っていい理由もお、捨てられたらどうやって生きていくかもお、誰も教えてくれん」女はぼくにしゃべっているのではなく、ただ自分と兄のためだけに泣き、叫んでいるようだった。ぼくは一体どれくらいの間父から虐待を受けていたのか、はっきりと思い出せないでいた。何年もの間母も姉も、妹さえも何も語らず、ぼくが受けた仕打ちは無視され、否認され、決して話にのぼらなかった。だから、きっと忘れてしまっていたのだ。みんな平然と暮らしていた。何も知らない顔で楽しくやっていた。やっぱりあんなことはなかったんじゃないのか、でなけりゃ、この女に騙されているんじゃないのか。ぼくはそう思いたかった。父を恨む理由は、いや、恨むのではなく、廃人になった父を素直に哀れみたい。普通だったじゃないか、何年も、何年もの間、普通だったじゃないか。父と下宿を探した日、あれはいい思い出のはずだ。あの父が、ぼくを殴るはずがない。そう思った途端ぼくは打ちのめされた。涙が溢れ出した。痛みが甦ってくるのだ。風呂場の扉の隙間から、姉が見ていた。おびえて声が出せない訳じゃない、助けようともせず、ただ、じっと見ていた。今更ながら姉に対して憎しみが込み上げ、母もまた姉と同類だと思った。しかし、妹だけは、妹だけは違う。ぼくの妹も、電話口の女が兄をいたわって泣くように、涙を流してくれたはずだ、とぼくは信じたかった。しかしぼくの妹は死んだのだ。唯一ぼくのために泣いてくれた人は、死んだ。お兄ちゃんが可哀想だよおと言って泣くこの女ですら死ぬのだ。
「何でよお、思い出しなくないのにぃ」ぼくはこれ以上憎しみも、悲しみも何一つ増やしたくなかった。だから、女がまるでもう生きていられないと言うように泣き叫ぶのを聞くと、ぼく自身が生きていることもどうしようもなく辛く、何の価値もないことのように思えるのだ。親に捨てられることなんか大したことじゃない、愛してもらえないことなんか屁とも思わないと言ってしまいたいじゃないか。深刻ぶるのはしゃらくさいんだ。ぼくは自分の考えが結局そこにたどり着き、しかし何も変わっていないのだということが、ただただ腹立たしく、しょうもなく、惨めな気がした。

「どうってことないじゃないか、そんなことよお」ぼくはあくどいいたずら電話をしてきたことは棚に上げて、声を裏返しながらも、明るくそう言った。
「いやよお、いやよお」と女はもう手に負えないほど取り乱し、このまま舌を噛んで死んだりするのではないかとぼくは柄にもなくはらはらした。カウンターの上かどこかにつっぷしたのか、ぜいぜいというくぐもった女の息が聞こえ、不意に受話器がもぎ取られたのか、荒々しい男の声に変わった。
「誰だおまえよお、妹に何言ったんだよ、いい加減にしないとぶっ殺すぞ」女の兄だった。その声を聞いた途端、ぼくの意識ではなく、肉体に刻み込まれていた記憶が神経という神経を食い破り、うなり声を上げて吹き出してくると思った。ぼくと同じ痛みにうめく声だった。心のどこかで、もう一人の自分自身の声を聞いたような気がしていた。しかしぼくは自分の身に何が起きたのかを抹消するように、忘れ、生きてきたのだ。その分だけ女の兄とは違う、中途半端な人間のように思えた。〈オトウサンナンカキリコロセ オカアサンナンカキリコロセ ミンナキリコロセ〉この言葉をぼくがどこに刻みつけることもなく生きてこられたこと自体不思議だった。脇腹がずきずきと痛む。思い出したくない。せっかく目を背けていたのに、記憶が甦るたび、またあの痛みを繰り返さなくてはならない。何もいいことはない。電話代の上にかけられた鏡に自分の顔が映っているのをぼくは見、子供の頃の面影をどこにも残していないことに少しだけ安心した。
「おまえらみたいな屑に何が分かる。分かって堪るか」女の兄がそう怒鳴ると同時に、また高ぶった女の声に変わった。
「でも、でも、今はいいのよお。赤ちゃん生まれて、あたしにも母親らしいことができるって分かったのよお」さっきよりもはっきりとした女の声を聞きながら、あの部屋で見た小さな手を思い出し、言った。
「誰の子なんだよ、フジオか?それでフジオから金巻き上げてんのか?」心にもないことだった。もうそんなことは言いたくなかった。
「違うわよお、フジオちゃんなんかあ」
「じゃあ誰だよ、おまえの兄貴か、おまえ繋がってんのか、ただの変態じゃねえか、あ」ぼくは自分を止めることができなくなっていた。
「どうしていけないのよお、好きなのよお、お兄ちゃんしかいない・・・」突然電話が切れた。ぼくは受話器を握りしめたまま震えていた。鏡にぼくの顔が映っている。次の瞬間に泣き出すのか笑い出すのか予想のつかない青ざめた顔だった。振り返ると店の中の人間全てがぼくを見ていた。学生風の若者が何か呟き、笑い声を上げた。おまえらに何が分かる。ぼくはこれからその学生をめちゃくちゃに殴り倒すのか、と思った。違う、そうじゃない。違う。違う。

 ぼくは喫茶店を飛び出していた。傘もささず、駅の方向へ走り出す。このままどこへ行くのか分からなかった。日が暮れかけ、街灯に明かりがつき始めている。それが雨粒と一緒にぼくの目の中で滲み、粉々になったガラスの粒のように突き刺さっていた。駅前に出た。傘の群をかき分けながら信号を渡ると、客待ちをするタクシーが並んでいるのが見えた。これに乗るのか、と思うのと同時に、ぼくは車にしなだれかかるようにして窓を叩いていた。マーガレットと言っても通じない運転手を殴り飛ばしている自分を想像し、踏みとどまり、昨日フジオと降りた駅名を告げた。





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Last updated  Apr 22, 2005 01:19:44 AM
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