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我々は歴史の授業で元寇において日本は散々に打ち負かされ、神風によって救われた辛勝であったと長年ならってきたが、どうやら史実は上陸すら許さず日本の武士団に散々にボコられて海上にやむなく留まっている処に台風がきたようだ。。。。上の絵は蒙古襲来絵詞で元軍が武士に蹴散らされているところ
2008/07/05
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以前掲示板でも述べたように少し歴史のトンデモな部分あるいは伝説的な点や脚色が多分に含まれている箇所をより掘り下げて、そこからより広く深い歴史認識を持てればと思い、一般的な歴史について考えるという処から想像的な部分、または創造的な部分を介入されこの明智光秀について数回にわたって述べようと思う。明智光秀とは言うまでもなく、戦国時代の武将で織田信長に仕えるが謀反に及び本能寺の変にて信長を討ったが、中国地方で毛利氏と対陣しており急ぎ機内に戻ってきた、同じく信長家臣の羽柴秀吉に山崎の合戦で敗れ、敗走中に小栗栖で落ち武者狩りに遭いその生涯を閉じたとして知られている。ここでメインで述べたいのはその明智光秀の生涯についてでも、功罪についてでもなければ本能寺の変の原因を掘り下げる事でもない。ある説、明智光秀は南光坊天海であるか?という事である。つまりは光秀は敗走中に落命せずに名を変え生存していたのではないかという説を探りたいと考えている。西郷隆盛、源義経、豊臣秀頼(共に真田信繁)、松平信康など日本には歴史上死なずに逃れた、あるいは存命していたと言われる人物が多く見受けられる。明智光秀も同様であり、数多くの論拠も散在しているといわれている。もっと言えば光秀死亡の根拠、証拠を探す方が困難なのである。次回より、まず光秀が死亡したとされる山崎の合戦後から詳しく述べたいと思います。以下最近の所感法務大臣が死神とどこかの新聞で叩かれたそうですね。これは私に言わせれば非常に残念な事であり国民は声を上げて非難するべき事だと思います。1、現行の法律において日本は死刑を設置している国である2、死刑の執行は法律に基づいたものであり3、法務大臣は執行指示に関しても精査の上、一定の期間内に指示せねばならない4、死刑の対象は相応の犯罪を犯した事に拠るものであり5、その死刑の決定は裁判によって決定されたものである。以上5点法律面から1、犯罪被害者が死刑を望むという現実と2、死刑囚は死神によって送られるのではないという点。加えて、メディアが上記の状況を無視して誰もが目にする事のできる場にてこのような発言をした事は非常に程度の低い事であり、死刑制度に疑問を投げかけるような次元の話でもなく、不適切極まりない発言であると思う。
2008/07/05
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アメリカのブッシュ大統領が北朝鮮をテロ支援国家の指定を解除する手続きをとったそうだ。後任になるであろう、マケイン氏やオバマ氏はこれには前者は批判的、後者は慎重姿勢とブッシュとは一線をひいている感があるが、前に断っておくが北朝鮮贔屓でもアメリカ贔屓でもないが一言。被害者家族会の方々の申し分もわかります、拉致の被害についても私は良く存じているし、初めて北朝鮮による拉致が国会で話題に挙がった日の事もわかります。敢えて一言。北朝鮮が北朝鮮以外の国からテロ支援国家であると指定されるものではないし、それの第三国からのいわれなき指定をされようと解除されようとそれはそもそも他国の評価に拠るものであり、本来それが影響力を持つべきではない。加えて、それが解除されようと指定されようと、我々はそのアメリカの評価に一喜一憂するべきではないし、自国の対北朝鮮政策が暗礁に乗り上げたと悲観すべきではない。我々はアメリカによるテロ支援国家であると烙印を共にアメリカの手を借り言葉を借り北朝鮮に焼き付けるべきではなく、我々は日本の日本人として北朝鮮に不当に拉致され搾取されている日本人の為に叫ぶべきで、その矛先をアメリカに向け要求を強めるべきではない。アメリカによるテロ支援国家の指定とその解除に左右されるのではなく、日本が日本として北朝鮮にテロ支援国家やあるいは拉致を行う不当な国家であると声高に叫ぶべきではないかと思う。
2008/06/27
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非常に過疎ってる件について。歴史や、特定の人物をテーマにするについてはどうしても「話が出切ってしまう」あるいは過去にすでに取り上げた話題である可能性が高いという点において、初めての方以外の方々の「飽き」というものに一番敏感でなければならないと思う。まだ存命中の人や国などをテーマの中心においているのであれば話題も欠かないだろうが、第二次大戦中の人物は比較的大部分がすでに解明されているという点でさらに議論の余地が奪われているように思う。そこで、トンデモな話を色々混ぜる事で新しい議論に発展すればなぁと思う。が、指示した指示してないで揉めるわけではないとは思うが産地偽装や異物を混入するのは、いけないよぉ。サイトで公開している雑感をこちらにも載せて、使い勝手、またご利用者様の使いやすいほうを採用しようと思っていますので、こちらでのコメントか、あるいはhttp://www.1616bbs.com/bbs/hitler.htmlの掲示板でご意見頂ければと思います。長期間放置していたこのブログ、宣伝業者の多い事に驚きましたが、共通して言える事は「wwwwww」←この多用馬鹿っぽいぞ。。。あとこんな宣伝文句みて誰かひっかかるの?
2008/06/26
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継続はチカラ也と昔の人は言った。私は日記を継続しない事を継続していたが、何の反響もないではないか。無いどころか存在を人に忘れられ、私自身も日記の存在を最近まで忘れていた。気づけば年も改まり、冬が終わり春が近づいている。政治的な思考を休止していた時間が多いせいか、考える事が、考えたい事がついてこないではないか。人間、サボると良くないね
2008/03/15
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第二次世界大戦後にベルリンの住宅街の地下からナチス時代の壁画が発見され、ドイツ政府はその公開をためらった。その壁画の内容はナチス親衛隊が盾をもって武器を持たない国民を身を挺して守っているというももであった。軍人の本来あるべき姿勢、国を、国民を守る。。。。果たして今、それが実践されているのか。アメリカの海兵隊の事件が次々と上積みされる中で海兵隊に対する目は軍全体、行き着く先には国への不信に繋がり、その身が軍、国家を危うくもする立場であることを自覚してほしい。
2008/03/13
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艦上に翻る日の本の旗。本日は京都府にある舞鶴に自衛隊の艦船を見に行きました。軍事的分野に非常に疎い私には、○○自衛隊○○基地という具体的名称がわからないのが非常に悔しいところではありますが、とにかく自衛隊の艦船を見に行きました。眠るように繋がれた艦船の横で、クラゲや鯉を見てはしゃぐ子も居れば、険しい顔で見上げる老人、興味深そうにレンズ越しに見つめる人・・・・。平和とは力の背景に保障されるのか、平和とは理想の上に平等に築かれるべきなのかいますぐに答えの出る世界ではないが、私は堂々と並ぶ艦船を頼もしいものと見ました。
2007/11/03
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福田新内閣が発足した。新しいのか古いのかわからない、あるいは中古品内閣か良くわからない新内閣だ。背水の陣内閣と命名したそうだが、貧乏クジを選択権も無く押し付けられた国民にはたまらない。背水の陣を強いられるのは我々国民という意味の云いなのか。使いまわしの気心の知れた閉鎖的な組織体で国全体をひっぱり、諸外国に物申す恐ろしさよ。お手並み拝見、で我々の生活を犠牲にされたのではたまらない。
2007/09/26
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政治が慌しく動いている。しかし、「歴史が変わる」という程ではなさそうだ。恐らくは、学生諸賢にとっては覚えるべき歴代首相の名が一つ増える位だろうか・・・。いずれにしても、今後政局は予断は許されない事に変わりはないが、およそ国民の手から遠く離れた処にある政治よりも、変わった事、驚天動地の事件が世を騒がせている。京都府において「また」子の親殺しがあった。また現段階において明確な殺意が認められている。これは裁判において不利となるという次元で認識するのみでなく、子が親に殺意を抱き殺害に迄及んだ事に親は子に寝首をかかれまいと、己の家の中ですら安心できず、子は先手を打たれまいと親の言葉に神経を総動員する異常な環境に今後変わる方が政治の混乱よりも恐ろしい事ではないか。政治は生活より出るものである。生きている事への感謝と宗教染みた事をここで書くのは不適切かもしれないが、子は親が育て活かしてくれている事を当たり前だと思ってはならない、親は子を育てる事においてそこに自分が受けた親の大恩を忘れてはならない。
2007/09/19
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安倍首相が辞意を表明した。死に時を誤ってイタズラに消えかけた歓迎されぬ生命を永らえて、今更??という感が強い。「退陣はしない」「人心一新」挙句「職を賭けて」臨むと言った直後の事だけに呆れるか、国民をからかっているのかと憤りたくなる。死に場死に時を見誤ったねェ
2007/09/12
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人心一新を叫び、心改めて態度に示さない政治指導者が牛耳る国。国民は強くこの恥知らずに対して、政治を返せと叫ぶ権利を今こそ行使すべきだ。
2007/08/21
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人間の人間としての歴史が始まって以来、体制にかかわらず、また宗教や習慣に左右される事なく、いつの時代もどこの国でも当然行われてきた、政治的、体制的な新陳代謝、または生理的現象、あるいは生命維持活動としての当然の如く行われてきた「老朽化した部分の排除」「不要な部位の変形」「有害な部位を修復しようとする活動」などが機能しなくなった日本の、世界の政治形態。只問いたい「貴方は在任中の日本国首相が首相で居る事を容認しましたか?」現在の政治は民意が反映されていると思いますか?
2007/08/02
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人は自分の、または人の死に際して様々な行動をする。人が死ぬ時、その周囲の者はあまりにその死が唐突なのか、ショックなのか現状を受け入れようとしない例が多々ある。死ぬ側も、自分の死を知った時に拒絶や抵抗を経るという。戦場においても、状況回天の可能性無しと見るや司令官は潔い死を選ぶ場合と、矢尽き刀折れるまで奮闘し、最後の一兵になっても己の肉体を武器に敵に対峙する場合があり、それぞれの場合においても賞賛、理解の余地はある。人は死に際して様々な行動をするが、許されない行動が今目の前で起こっている。実際には行動しない行動だが。すでに「死に体」となっている選挙情勢において、その母体が無残に瓦解しているのを目の前にして、状況を受け入れられず、己の家族だけならまだ良いが、日本国民一人余さず全てを背負ったまま、支持も組織の力も尽きて死に絶えた今、まだ指導者の座から降りる事を拒絶し続けているのだ。これは犯罪以外何物でもなく、国家に対する最悪の反逆であり、国民に対する最低の暴力である。すでに決まった審判を受け入れず、政権選挙ではないと不利と見るや吐き出し、恥を恥で塗り固め、不名誉と疑念を国民に押し付けた。政治家であるなら、国士であるならすでに次の行動は決まっているはずだが。国民や、他党は親切にも切腹の場を与えた。後は、切腹人の口上を待つのみだ。
2007/07/29
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上の写真は多くの支持を集めそれに応える20世紀の指導者参議院選挙の投票日が目前に迫った。ここに至り得票数を読み、敗色濃厚な政権党は卑劣にも保険をかけだした。「敗退しても政権選択の選挙ではないので首相の退陣はない。」「国民の皆様から率直な意見をいただいている。皆様の声を国政に反映させていかなければいけない(という)決意を新たにしている」首相の属する政党が、また首相が就いている総裁である政党が国民に選ばれなかったとしたら、それは何を意味するのか。はっきりさせておきたいのは、参議院議員選挙で首相の属する自民党が国民に選ばれず大幅に議席を減らしたとすれば、それは首相に指導者としての支持を失っている事を意味する。指導者は構成員に支持される事を絶対必要にして最低限の条件としており、また指導者は自分の分身たる大臣の指名においても絶対的な責任を負う事であると思う。指導者が指導的でなく、またその存在を支持されていないのであれば、存在自体が罪である。安倍内閣メールマガジンで、「いかなる状況にあろうとも、原点を見失うことなく、改革を着実に前進させていくこと。私は自らの使命を果たしていきたい」と表明したそうだが、朽ちた指導者の「使命をまっとうする事」とはすなわち、消え去る事の他は在り得ない。支持する事を辞めた国民の前に居座る事は犯罪に他ならない。脈々と続く歴史の中で変化する事、去る事を恐れる者達は生きながらにして恥の首を国民の前に晒しながら悪政の指示する他方の手で給与を堂々と奪い墓場まで逃げ延び次の世代へ押し付けようと、落とされまい、落とされまいとあがいているだけで、国民は幾度となくその選挙時にのみどこからか現れ国民の前で平伏する詐欺師に騙され続けたのだ。最早我々は完全に目を覚ます時である。権威者を引きずり降ろし、国民が為の政治である証を今こそ示す時である。某政党の代表はきっぱりと「負けたら辞めます」と言い、某政党では「負けても負けではない」と敗北間近で国民をあざ笑い給料を引き続き国民から徴収する事を宣言した。原点の原点は、指導者とは指導力を失えば即座にその首を自ら切り落とすべきであり、躊躇するなら支持していた我々国民が首級を挙げ次なる時代への禍根を残さない事であろう。原点からの改革と豪語する無能な指導者はこの原点を忘れている。
2007/07/26
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今回もまた参議院選挙から、政治家のお歴々を批判的に攻撃するシリーズ。7月22日、大阪市福島区の阪神電鉄・野田駅前で、参院比例選に立候補している自民党現職で党参院政策審議会長の舛添要一候補(58)が演説を終えたところ、兵庫県尼崎市内在住の男(41)が近づき、制止しようとした中山泰秀・衆院議員(自民)の公設秘書(39)の顔を殴った。というニュースがあった。「暴漢に襲われる」などと過激な見出しも見られたが、私に言わせれば襲うとなると今回のように阻止される事もあるし、また己自身の体力も消費する。ついでに公職選挙法違反や傷害なんかがくっついてくる。だが、この胸にバッチを輝かせておられる方々の事を考えてもらいたい。舛添さんだけでなく。己の一言で国民に甚大なる不安を押し付け、あるいは最高の夢を見させておきながら現実というどん底に叩き落し、挙句その挙手で日本全国へのとんでもない圧政にGOを出す最大の暴漢ではないか。法律を作り、施行する側は鉄壁の備えで保護され、それを押し付けられる者は選挙ポスターを破いただけでも史上最悪の民主主義の敵のように非難される。私は法を侵す事やモラルの崩壊を叫ぶつもりはないが、選挙での演説に堂々と異を唱える事や無効投票も立派な国民の政治的意思表明だと考えてしまう。だって、堂々と反論したって相手は本質はあやふやに、明らかに語るのはおよそ実現の難しい夢ばかりだもの。また、「最終の日曜日」などと各紙は選挙騒音合戦の過熱ぶりを報道、最悪貶めあいの批判の応報で彼らの幼さ、またそのような者達に政治を担わせる我々の悲しさが際立っていく。もはや我々に必要なのは強制するような「○○党と書け」というような内容の空疎なお願いではなく、根本の願い。「政治を国民に返して」という声である。
2007/07/23
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上記添付画像の映画、「ベルリン陥落」(ロシア)を見た。これはスターリンを神格化しているとの事で一時期封印されており、無かった事にされた映画だそうだが、ロシア版「史上最大の作戦」と評されるのも納得の名作であると言える。序盤、工場の親父が鉄の生産量の成績が良いからと赤旗勲章を授与され異常な喜び方と周囲の歓迎や、おねえさんの大層な演説あたりは眠気を誘う深夜映画のようだが、独露の首脳陣が登場するあたりからは戦後まもなく制作されただけあり非常に歴史的な価値の高いもので、スターリンやヒトラー、チャーチルなどはそっくりな人が熱演をしている。スターリンの神格化とロシアの快進撃を中心に据えた映画ではあるが、私の視点で見ると敗色濃厚なドイツ側のゲーリング(非常に服装や容姿そっくりです)やヒムラー(ちょい役)の裏切り、ヒトラーの崩壊など細やかに描かれており、最近公開された「ヒトラー最期の13日間」のような埃をはたいて出した作品と違い、非常に興味深いものがある。戦後間もなく制作された、しかもロシア映画でここまでベルリン陥落の経緯やドイツ首脳部の様子が事細かに記されているのは必見であった。※※以下政論※※不定期な日記の上に執筆意欲が日々非常に不安定な為、ここを読んでいる方には時には退屈をさせ、時には莫大な文字を押し付けてしまい心よりお詫び申し上げます。さて、参議院選挙迫るこの時期、貴重なる一票をお持ちの皆様におかれましては誰に、またはいずれの政党に投票するか思案中、決定済みの方も居られるかとは思いますが、これを読んで色々とお考えの参考、また私と色々意見を交わして頂ければと思います。朝から声高く「○○党です」と車で録音かマイクかはわからないが強制的に耳に叩き込み、テレビでは白々しい被害者の声や希望者の声の後で政党名と代表の顔を視聴者に植え付ける。我々は欲しくもない情報をこのようにして押し付けられるのだ。「最後のお願いにやってまいりました!」選挙直前には至る処であらゆる者が最後のお願いとして安息の生活を突き破る大音量で絶叫する。そして選挙後まさに最後の言葉通り国民の前からバッチを奪い取って去っていくのだ。選挙前には欲しくもない政治の情報を大量に国民に叩き付けるが、選挙後には欲しいと思った政治の情報すら満足に国民には提供しようとせず、煩雑な手続きと必要な莫大な時間に国民は閉口する。だが、いつまでも候補者や支援者の調子の良いその態度に国民は騙されてはいけない。空疎な約束を何度も信じて、意思を託した国民は国民の為に、また貴方に続く世代の為に空疎で壮大な劇場から目を覚まさなければならない。空疎な約束を何度も押し付け、希望と信頼を騙し取った搾取する者はその過ちと積み重ねた悪習を白日の下に晒し、己の首も国民の前に晒さねばならない。選挙前、選挙後も立場を双方理解せなばならない。不法な占拠者にはもうチャンスや温情は断固として拒否するべきだ。画面の向こうで、街宣車の上でバッチを求めて叫び踊る哀れな乞食よ。代償、対価を求めずに同じ理想と大層な改革論を語れるか。
2007/07/18
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また、テレビの向こうでバッチを光らせて、およそ国民の希望とは大きく外れた持論を自慢気に相手の話を聞かずに騒ぎ立てる方々が国民に擦り寄ってくる時期が来た。国民の代弁かのように国民を惑わして国民の首に巻きついた縄を締める。国民なくして私は在り得ません。また、「その時」が去れば同じようにバッチを付けて国民から去っていくのだ。口々に候補者は他勢力の批判を展開する。成る程。批判は人の同調を集めやすく、また怒りを煽り希望を集め易い。だが、国民はいつまでも愚鈍ではない。批判の先に己の修正案を用意しているか?国民の目をそちらに向ける目標、到達地点を。しかも一歩一歩着実にそこに至るまでのプロセスを。もっと言うなら右足の出し方、何故出すか。右を出せば次は左足の出し方、何故出すか。それを事細かに国民に説明でき、またその方向へ向ける事のできる者が勝利するべきだ。途方も無いゴールのみを示す者は国民を欺くと言い切っても良い。国民は国民の為に仕える者を選出すべきだ。
2007/07/12
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久間章生防衛相の辞任が決まった。しょうがないよね。原爆の投下を容認するというのは下の下であり、日本人としては恥じるべき存在である。しかも「しょうがない」という言葉で。「無数の人が悲惨な目にあった」という認識を示しながら結びの言葉が「しょうがない」。ただ、原爆の投下そのものに視点を完全に絞って他の状況、今までの歴史の流れを完全に思考の材料にしないのであれば、原爆の投下は全く許せる事ではないのだが、周囲の状況なども考えて日本人は原爆投下について非常に敏感になりすぎているとは私は思う。確かに、世界の歴史において唯一の被害国家がわが母国というのは特別な感情をそこに持ち込むことになる。また、唯一という事は、「わが国が初の被害者である」という事だが、その前の大戦では始めて毒ガスや飛行機による戦争も行われたものだった。初めて空でも戦争が行われたのだ。初めて尽くしの大量に戦死者が出る初めての機械的戦争であったが、何故同じようにその罪を声高に叫ばないのか。戦車は良くて原爆はだめ?戦車の目的は移動や物品の輸送ではなく、戦闘である。毒ガスは?拳銃は?剣は?殺す為のものとして同じ目的の物ではないか。目的は同じでも被害者の数で違うというのであれば、見えない敵、または敵勢力に属する者を大量に殺害した原子爆弾よりもその目の前に居る敵または敵勢力に属する者を剣などで殺害し断末魔を聞きながら剣を振るった項羽を始め歴史上の武将の方が残酷ではないか?(項羽は文献によると反秦の兵を挙げる時に同調しなかった同じ楚の勢力を攻め、降伏して武器を捨てた1000の捕虜を自ら剣で斬り殺した)原爆を必要以上に特別、別格扱いしてはいないか?不当の最たるものは敗戦側の指導者が戦犯となる国際社会の仕組みであり、またその行為であるとされている「勝てば官軍」という、原爆が不当であるというよりももっと根本にあるものではないのか。また戦争における行為、歴史の連続の中のひとつの事を論じる場合、判断、評価する場合、その歴史のいち場面に複雑にからみつく全てを見る広い視野を持つ必要があるように私は思う。
2007/07/03
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週末の朝になると、テレビでバッジを光らせた年寄り共が、あたかも国民の代弁であるかのように己の、およそ国民の希望とは大きくかけ離れた身勝手な持論を騒ぎ立て、結局は結論の出ぬまま話題が次々と流されていくのだ。そのバッジを付けた瞬間からもはや国民的な思考が出来ず独走していくのならば、私は国民として国民の幸福の為にここで叫ぶだけだ。
2007/07/01
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山本五十六長官の人の育て方、動かし方はその言葉にも良く出ているして見せて言うて聞かせてさせてみて誉めてやらねば人は動かず年金問題で率先して先頭に立つ者は、逆転のひと太刀を振るうのはどの党か。選挙は最早年金問題の有効な打開策を掲げた党や個人に傾くだろう。だが、忘れてはいけない、見失ってはいけない。年金問題の解決が模索され、解決の後は 貴方の選んだ代弁者は何をしてくれるのだろうか・・・・。国政を預かる者は常に一つ片付ければ終いではない。着実に一歩一歩階段を上るが如く国家繁栄と国民の幸福の為に上らなければないけない。イキナリ途方もない目標を掲げてそれ以上もそれ以下もない、それに拡大も縮小も立体的な説明も付与できない代弁者は論外だが、代弁者は代弁をする者だという事を忘れた時わが身とその身が負うた国民と国家が崩壊する。期待したいものだ。逆に人の上に立つ人が無能な場合は目も当てられない。大勢のマスコミの前で、会社では部下に、家では息子にあたる者に「もう本当の事を話して下さい」と土壇場であがく社長に向けて発せられ、覚悟を促された。脱法の「相談」という指示で公然の秘密を強要した。下の者の生活や再就職の困難さを握った者は人の首を脅かしながら己の首を最後まで守ろうと無様にも足掻き、足掻けば足掻く程悲惨な結果になるものだ。「消費者にも問題がある」と、無知な消費者を欺いた者はその消費者に見向きもされなくなったら終わりという事を理解していないようだ。食肉に望みは無いのか?
2007/06/27
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小説『悪魔の詩(The Satanic Verses)』の著者のサルマン・ラシュディ氏がイギリスより「爵位」を与えられた事に対してイスラム諸国からの非難、抗議が吹き荒れているそうだ。小説の内容を詳しく読んだわけではないが、報道などによるとイスラム教を侮辱する内容だそうだ。我々日本人はおよそ宗教心というものが希薄な方々が多く、また完全に一つの宗教や教え、一貫した習慣にその生涯を置くという事をしないので理解はしにくいだろうが、その生活、精神の拠り所などとも言える「特別」あるいは「世界」を否定された方々の怒りは十分理解できよう。また、著者へ対する「ホメイニ師による死刑宣告」も「首への懸賞金」も日本人の表現でいう「汚名をすすぐ」行動という見方をすれば理解はできよう。実際、誰かが心の拠り所としている宗教や習慣、伝統について根本から批判したり攻撃するという事は許されるものではない。まぁ、その拠り所や真実を強要する事も許されるものではないが・・・・。いずれの行為かが行われる場面は歴史上、一つの国が他に支配される前後に多い事からもわかるように、全ての命運を賭けて行われる行為である。宗教と言論、表現の自由。宗教とは我々日本人が考えるほど生涯と離れて存在しているのではなく、人によっては自己よりも優先されるべき事項であり、また寛容でない部分も持ち合わせている事を知らせてくれる。自由とはその行為に対して自分で責任の取れる範囲で自分の判断により行動するという事、完全に誰かに安全を約束された上で何を言っても良いという事ではないという事。「イスラム」という名称は、他の主要な宗教のように創始者(または民族)の名称を宗教名に冠していない(即ち、ムハンマド教とは呼ばれない)。この理由には諸説あるが、主な宗教学者[4]の解説によれば、イスラムが特定の人間の意志によって始められたものではないこと、及び国籍や血筋に関係なく全ての人々に信仰が開かれていることを明示するためであるとしている(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部抜粋)堂々と無神論者だと自分を言う者は全ての宗教を理解した上で信仰しないと言明でき、かつ、「何か存在」に祈ったり願ったりしない者の事を言うので、無神論者はそう居るものではない、私もこの日記のネタを搾り出すのに 何かに祈りネタを搾り出している。ネタくれ。
2007/06/24
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国会の会期が延長された。できますと、年金問題の解決を約束した。あやふやな発言で、牛ミンチの豚肉混入を誤魔化そうとした。どれも死がすぐ目の前に迫っていて、無駄なのに最期の足掻きを土壇場でしているかのようだ。人間も、会社も国家も生き物であるから、己の身を守らんが為に最後の一滴の水で喉を潤し己を闇に紛れさせ、他を攻撃しようとする。首に縄がかかった状態で暴れるとどうなるかを死に直面した者は知っているが理解できていない。国民は騙されてはいけない。無能な犯罪的指導者こそが愚かにも純粋な意思を持つ国民を騙し、身を託すに値しない夢を恥ずかしげもなく披露し、押し付けようとするのだ。気が付けばその夢に己を託した事になっている。だが我々は知っている。年金問題で言えば、解決期限だけを公開されても、その明確なプロセスを明かさない限り、その場を凌いだ後は、次の代の者が采配を握る迄逃げ回るであろうという事を。我々は気の遠くなるような歴史の中学んだのだ。壮大な夢を語るだけでは我々は動じないと。遠く、夢のような目的地が在ろうが、その道を示せない者は信用に値しない。我々は理解している。相手を攻撃するだけで自らを表現できない者は民の代弁者ではない。人間も、会社も国家も生き物であるからいつかは死ぬ時が来る。着実に死に向かって歩きつづける我々は、せめて、安らかな生きる道と、安らかな死を誰もが願うはずである。
2007/06/22
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最近よくニュースで親による子への虐待子による親への暴力などの類を見る事がある。理由はどうであれ、今の世では非難される事である。日本では歴史上放火、親殺し、主殺しは重大な犯罪であった。一番の虐待は、国による国民への虐待、仕打ちであろうが、何を論じよう、その国を動かしている議員を政界に送り込んだのは我々国民ではないか。あなた方を議員たらしめた、いわば親である国民をないがしろにすると、いずれ自分を追い込む事になる。
2007/06/19
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古くは中国の劉邦や始皇帝は大規模な粛清に頼り、またチンギス・ハーンは絶える事のない拡張の勢いに頼り、欧州の王達は権威で国を治め民を治めた。スターリンや金日成も同じく恐怖で人と国を治めた。それに対してヒトラーは人に夢を持たせる事、魅了させる事で民の支持を得、その先をヒトラーと共に歩む事を約束した。結果はどうであれ、手法に目をつぶった場合。。。大きな夢を見せた後で、それを実現できるプロセスと、今何をすればそこへ到達できるかを具体的に示せたからこその支持であり、いつの世も人を恐怖の鞭で叩き進ませる以外にはその全ての人を巻き込む壮大な構想と、緻密なまでのそこへ至るまでの階段を用意せねば時代は味方しない。加えて、人を引き込ませる表現とイメージを味方につけねば、出る前に滅ぶ。イギリスのオズワルト・モーズリのように。また、己が勝手な夢には大衆は命運を共にしようとしない、世の中の動きを敏感に読み取ってそれを代弁できるもののみがフューラーとなる。
2007/06/18
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人口が二人以上いると、必ず喧嘩、戦争になる。逼迫した食料事情における奪い合い。言った言わないの名誉を賭けた、或いは汚名をすすぐ為の拳。虫の居所?・・・・。己の心には数万騎に匹敵するが如くそれぞれの世界があり、兵馬の大権己が手に相手を称える一方でプライドが扇子を開こうと圧力を加える。平和を呼びかけながらも盾を構え、平和を叫びながら剣を振るう。そんな個人を有する国家は国家同士で同じく欺き、恫喝し、主導権を伺いながら共存している。この微妙にして絶妙なバランスに唯一の主を奉るのは夢のまた夢。賛成と握手を求めながら相手を地雷原に誘い込み、自称覇者はさらなる軍靴を世界に響かせる。
2007/06/17
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最近はよく仕事中に考え事をする時間ができた。これこそが最大の財産であり、また成長の糧となるだろうと期待し、今日も頭の注意を手から頭に切り替えた。人間が暇になったら陥る哲学の迷路「人は死んだらどうなるの?」誰もが一度は真剣に悩み、誰もが投げ出す最大のテーマだ。だが、誰もが一度は行く道で、来た道ではない。死に至るまでの人間の心理の移行は先日述べた通りだが、1拒絶 死という、すぐそこに迫っている状態の受け入れを頑なに拒む。2格闘 死という先の無い先を知ったが自力で回避を試みる3目に見えないものにすがる 自力で回避できないと見るや人間は神という人が作った全知全能な存在に取引なり、頼み込むなりで回避を試みる4受容 それでも無理だと悟った人間は最早死を受け入れる。である。それを踏まえた上で今日は大胆な仮説を立ててやろうと思った。つまり、「仏教とキリスト教は相通ずる処在りや?」というものだ。まず、その起こりは仏教は釈迦(シャカ族の王子釈尊)の教えから始まり、朝鮮などアジアで儒教の教えを吸収し、日本へ入った。元々仏教とは釈迦の現世における煩悩からの解放であり決して死者の為の死後の安息を約束するものでも、また死者に畏れにも似た感覚を与えるものでも無かった。仏教的であると言われる死者への畏敬の念も、年長者への敬いの精神も儒教的思想なのである。インド仏教では死者は最早ゴミと同じで川にでも流して捨てられてきた。つまり、仏教本来の教えは「生きている時にこそ精進し、生命の歓喜を得よ」というものであり、浄土真宗開祖の親鸞も「無常の風に吹かれる前に信心決心せよ」と説いている。なので、例えば死に水(末期の水の儀式)は釈迦が入滅(死ぬ)間際に喉が渇いて水を求めたという動作が発祥とされて、脈々と現代まで受け継がれる儀式のひとつであるが、仏教的な儀式ではあるが、仏教の教えに準じているとは言えない。あの世で喉が渇かないように?目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもないと般若心経は説く。次にキリスト教。キリスト教は日本人には信仰している方は仏教に比して少ないようだが・・・・。そもそもキリスト教は「キリストの教えを伝える」という部分よりも、どちらかと言うと「キリストをメシアとし、聖書に書かれたキリストや使徒達の言行に信心の元従う」という部分の方が色濃い。取り分けキリスト教の中でも深く信じられていると思われるのは奇跡だと言える。(奇跡とは「常識で考えては起こりえない事」という意味だが、決して常識的な考えの範疇で物事は収まるものではないが。)十字架上で刑死したが、三日目に復活し、昇天。キリストは自らの死を克服し、人類をもまた死から解く正当な権能を得た。 またキリストは再臨し、全ての死者と生者を審判し、その後永遠に支配する。 と信じられており、死者の復活と来世の生命が最大のテーマになっている。奇跡を信じキリストを信じ、そして奇跡を待つ。神に祈りながら死んだ人間は果たして奇跡を見たのか。仏教との決定的な違いは願いは来世での他力で約束された平安であり、仏教のように生前の平安を自力で頼もうとしない点である。だがこの二つの宗教の共通点は人間の死に至る精神プロセスに当てはまるのだ。2格闘 死という先の無い先を知ったが自力で回避を試みる→仏教はまさに現世での解決、障りのない人生を現世で得る事を本来説いている。3目に見えないものにすがる 自力で回避できないと見るや人間は神という人が作った全知全能な存在に取引なり、頼み込むなりで回避を試みる→キリスト教はまさに、死を回避できないと見るや来世での平安を祈り、その信心の証を求める。どちらが正しいと私は断じて、その宗教の優劣をつけるつもりはないが、所詮釈迦もキリストも人間。もしキリストが神だ、神の子だと声高く叫ぶ人が居て反論を書き込もうとするなら以下の問いへの答えも添えてから反論して欲しい。「子なる神が肉体をもった人間として現れた意味は人類を救う為であるとされているが、来世での平安を約束する為に何故現世へ罪なる形を持って現れたのか。」「子は父ともに天地を創造したのであり、被造物ではないのであれば何処から来たのか。」教義に疑問を持ち、宗教を否定するつもりはないが、所詮神は人の理想や根本解決を願ってその心の逃げ場所的存在を神と呼び、便宜上神に人の形や動物の形、または惑星の輝きを押し当てた。この宗教の発生、信仰、権威付与と無条件の服従。これこそが奇跡ではないか。まぁ、宗教の発生には奇跡がつきものだろうが・・・・・・奇跡とは信仰の対象が起こす事象を奇跡と呼ぶのではなく、常識では考えられない「ありがたい」現象の原因を究明する事をさぼり、その原因を神に押し付け奇跡としただけである。仏教でいう「善因善果、悪因悪果」(良い結果には良い原因があり、悪い結果には悪い原因があるということ)を認めよ。待っていると神も見えないだろうが、自ら奮起し、本気の願いの元行いを改めれば神の如き奇跡は当然の結果として起こる。所詮神も奇跡も人の手にかかっているのだ。※注釈本日の私の日記の中の仏教について興味がありましたら、親鸞の弟子が書いた歎異抄がお薦めです。以下のアイコンをクリックしても購入できますが、まずは古本屋などで探してみましょう。歎異抄入門
2007/06/15
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燃やせ!体脂肪という本日の日記の表題だからといって、ランニングやウォーキング、自転車をこげなどという結論に繋げるつもりはない。あぁ、しかしウォーキングはダイエットや綺麗な体系作りには良いらしい。ちょうど、「あ、雨が降りそう。少し急いでウチに帰ろう」程度の早歩きが良いとの事だ。まぁ、どこかの国の軍隊の基礎訓練風のビデオの前で汗をかくのを否定はしないが。。。wとにかく私が今日言いたいのは、健常な臓器や体に不要な脂肪を熱心に落とすが如く、国も不要な制度、必要だがあまり発達していない決め事をさらに磨かねば、いずれ進退できずに死んでいくしかないという事だ。国政選挙の視点が完全に集中してしまっている年金、社会保険庁問題だが、過払いや未払いの事務処理ミスの公表する、しないは事務局に委ねられていたという。ゆとり教育方針転換。週休2日は撤廃に。増える虐待。重なる税金。あまりにも「美しい国 ニッポン」そろそろ体脂肪、燃やしません?
2007/06/12
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今日少し縁あって、政治的な活動をしている青年達を見た。どう見ても周囲から威圧感を与える風貌、服装ハンドマイクの演説は途切れ、棒読み、挙句声が小さくなっていく始末。自らの信念の元、自らの理念の共有を目指さんが為の活動が何かにさせられているが如くの気だるい感じで時間切れ。参加してやってる。これでは国は見向きもしてはくれない。その国は今、年金の対策で大いにゆれている。国の構成員より預かった血の対価は無かった事にされるのか。
2007/06/11
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戦場のピアニストという映画がある、これはナチスのポーランド進出から、欧州戦線終結迄のポーランドユダヤ人音楽家に焦点をあてた映画であるが、まぁ悲惨な映画である。もちろん、全てが事実に基づいている、もしくは脚色が強い、事実に相反しているなどとここで断じるつもりはない。言わせれば、人間の極限状態における行動が、面白い。不謹慎な表現かもしれないが、面白いとは興味深いという意だ。極限の状態、つまりは眼前に死が具体的に見られるようになると人間の行動は以下のパターンに推移していく。つまり1拒絶 死という、すぐそこに迫っている状態の受け入れを頑なに拒む。2格闘 死という先の無い先を知ったが自力で回避を試みる3目に見えないものにすがる 自力で回避できないと見るや人間は神という人が作った全知全能な存在に取引なり、頼み込むなりで回避を試みる4受容 それでも無理だと悟った人間は最早死を受け入れる。受容の前段階で無気力な状態も入るようだが、人は業に拠って拒絶を続け寿命という死刑台の階段を着実に歩みながらも突発的な死を必死に回避している。執行の未確定な死刑囚である我々は迷走しながら、己の価値との格闘を続け、その先に何を築くのか。
2007/06/10
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実は私の趣味のひとつに刀剣があるのだが、私の手元にあるもののひとつにナチスのサイトをやっている手前あまり声を大にして紹介はできないのだが、旧日本軍の指揮用サーベルを2振り所有している。(まぁ、旧軍の軍服や制帽も所有していたりするのだが・・・)レプリカではなく、信頼のできる古美術商の方から譲り受けた。気まぐれで写真を更新してみようと思った。。。いま、1振りは刀装、及び全てが錆びてしまっているが、階級によって装飾が違うようだ。このような細かい気配りが心地よい。実生活も同じく細部に至るまで目を光らせておかねば、頼みにしている年金にも裏切られる世の中だ。我が身は信念の刀を常に磨くよう心がけたい
2007/06/09
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大攻勢が始まる。今は何もしなくてもいい。敵が攻めてきた時に陣地を築きながら守れば良いのだ。段取り無くして無駄に全滅する死に如何程の価値やあらん。一時の恥じを着て、意味ある戦いに身を投じる事こそ意味ある生と思う。何事にも段取りや順序はある程度必要だよと、仕事中に思った愚痴でしたwwww
2007/06/05
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ひとつ積んでは母が為・・・・ひとつ積んでは父が為・・・・賽の河原では親より先に死んだ子が成仏する事なく河原の石を積みつづけるという。一生懸命子の霊は石を積むが積み上げる手前で鬼がそれを蹴散らす。ひとつ積んでは母が為・・・子はまた始めから積みなおす。一生懸命血と己の時間を犠牲にして積み上げた物が一瞬にして無に帰す。「納付記録がないので年金お支払いできません」・・・・・・。はぁ?テレビは年金の納付記録の消失、支給漏れが騒がれている。年金を納める事は、先の日本の為に血を流し、汗を流し支えてきたご老人への生活の為、何よりも将来の自分が為の河原の石であり、政府は、国家は決して賽の河原の鬼になってはいけないのである。早急に、かつ徹底的に国民の信頼を得、また無能な指導者には退陣してもらわねば、この悪習も踏襲される事だろう。政府は事此処に至って対応策を数多く打ち出してこようが、次は世論という鬼にその政策の石が叩き壊されないようにせなば、滅ぶ。
2007/06/01
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はるか昔、まだ地球が平らであった時代。バビロンの空中庭園より王は天へと伸びる工事中の塔を見て、己の権力に酔った。何に毒されてか、神に挑まんとバベルの塔を天の神を並び見ようと積み上げた。それに怒った神は塔の建造を阻止。神はバベルの塔の工事夫達の使用する統一されていた言語をバラバラにし、意思の疎通を絶ったのだ。以降、世界には多くの言語が生まれ住む地域によって使用される言語が違うようになったと昔の本に書いてある。たしかに、現在使用されている言語は複数あり、また風習も信じる神も違う。まわりくどい言い方を排除すると。その違う風土の人間を頭から否定、その価値を決め付ける事は誰にもできないという事だ。例えば、国によっては月曜日から一週間とする処もあれば、日曜日からとする国もある。数字の最小は1であるとする国と0であるとする国もある。その国の盛んな宗教の関連で食べない物があるかもしれない。それらを否定などできない。加えて、他の国を判断するときに、判断する側の価値観に無理やり押し込めて結論をひねり出すという考え方は、思考の中の野蛮な侵略者となる。「▲○■」これらの違いを判断する時に形だけで判断せず色も同時に見て判断するはずだ。同じようにひとつの物事も多面的、様々な条件で判断する事が特にこの国際社会では必要なのではないか。
2007/05/31
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松岡農相が在職中に首をくくった。イラクのフセイン元大統領のように外国の人間らによって引きずり下ろされた挙句に首を他人の手によってくくられたのに比べると、自らの手で自らを処分するという点では救いではある。だが、フセイン元大統領と比較するのがどうかとは思うが、フセイン元大統領はそれに至るまでの行動を他人の手を借りて・・・ではあるが一応の決着と清算を見て、階段を上っていった。それに引き換え、遥か東の侍の国の人の上に立つ者はどうだ。疑惑を封印せんが為、逃げと言われても致し方ない。追求を回避するが為の死に潔しは、ない。政治において、唯一つの正義はない。様々な正義があり、それぞれが自信を持ってその正義の為に発言し、行動し、そこに支持者が集まるのではないか。日本の胃袋を背負う大臣の死は消化不良で、下痢になりそうだ。
2007/05/30
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連日で「我が政論シリーズ」を掲載しようと思ったが、ここを読んで下さっている奇特な方を退屈させては申し訳ないのと、私の頭の老化により本日はテーマを大きく変えて私の歴史の捉え方と、その延長にあるこの先・・・・を記載したいと思います☆歴史とはもちろん、有史以来云々とよく言われるように文書など資料から読み取れる時代、それ以降を指す。もちろん、その文書(文字や記号)が発明される以前にもこの星はあり、人間及びその他の生物は生息していた。加えて、記号や文字にて残された言葉は歴史全体からするとごく一部であり、その中からおよそ莫大な歴史を読み解く事はできない。まだまだ多くの謎を歴史は含み、その一部を我々に残し試しているかのようだ。例えばこれ。モアイ。ご存知イースター島に鎮座する石像であるが、未だに起源、目的などはっきりせず、それが記されているであろう島の文字の記憶も歴史にさらわれてしまっている。祭祀目的であろうとされているが、かつてそこにあった大陸の一部ではないかと考える人間も存在している。次に、世界各地でオーパーツと呼ばれるものが次々に発見されている。オーパーツとはOut Of Place Artifactsの略語であり、それが発見された時代、場所が明らかにそぐわない物という意味であり、そこには多くの歴史の謎が秘められている。・・・・考古学という範囲に限られた可能性の元であるが。。。。コロンビアのおよそ紀元500年から800年頃の遺跡から発掘された黄金の飛行機型の装飾。物として残されたもの以外にもインドの紀元前10世紀頃の古典ヴィマニカ・シャストラには航空機らしきものの操縦法まで記されているらしい。また古代インドのヒンドゥーの聖典マハーバーラタには太古のインドでインドラが、アスラ族の王ラーヴァナの大軍を一撃で葬ったという「インドラの矢」という兵器が記述されているし、インダス川流域において、大規模の火山活動の痕跡が見つかっていないにも関わらず、溶けてくっついたレンガや、ねじ曲がったり気泡が混じってガラス化した壺の破片などが発見されているモヘンジョダロ遺跡、旧約聖書に記されているソドム、ゴモラの崩壊など、現在では容易に考えられるような一瞬にして大量に人、物を消し去るような核、及びそれに類する兵器を古の痕跡、記述、残された物から連想させられる。およそ気の遠くなる時代から進歩し、現代のような発達した文明を得たのか、突然変異的にその技術を得たのかはわからないが、超古代文明の存在を完全に私は否定する気にはなれない。だが、なんらかの原因によってその世界的に発達した文明は滅び、または去り、棍棒の時代になり、またゆっくり歩みだし今に至るのではないかと私は考えている。歴史とは、過ちと成功をちょうど人間が歩く時のように右足を出して次は左足、次はまた右足。成功を得ては失敗、失敗をしては成功というように当たり前の如く繰り返しているかのように思い、また、その歴史の繰り返しという歩みは大きな壁にぶち当たればまた引き返して、また引き返した先の壁に当たればまた来た道をというような流れであるように思う。あと数歩先を見れば、次は滅亡、文字も言葉も失い棍棒の時代が来て、我々の残した物が気の遠くなるような先にオーパーツと呼ばれているのかもしれない。インドラの矢についてのくだりは、上記アニメにも出ているようです。興味があればどぞ
2007/05/28
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次に教育的分野であるが、週5日制を事実上廃止しようとの動きがある。著しい日本の学力の低下を憂いての処置だろうが、ゆとりを「怠惰」と受け取った側、受け取らせた側双方がこの現実を正見するべきだろう。与えられた時間を有効に活用しなかった者もそうであるが、何もわからない子らに時間の有効な使い方の助言もできずにただ学力、質が他国に追いつかれ、追い越される失態を晒した教育者にはこの現実を重大な事として受け止めるべきだ。次受け持つ子はこのような事がないようにしよう・・・・。人間の一生を左右する教育者に失敗は許されない。人間は老い、もちろん思考も低下する生き物である。年配者がいつも敬われ、物を教える立場でなければならないとは限らない。人に教える資格をある一定の基準で定め、それをクリアした者が教師とし、定期的に、具体的には自動車運転免許証と同じように定期的に更新、及び更新時に試験を課すべきであり、その試験に落ちた者はその瞬間教育者の資格を失うようすべきである。しわ寄せは子供達ばかりに課されるべきではない。
2007/05/26
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アメリカ人から銃を取り上げる事もできないこの現状で、世界の軍の一部を除いての解散は夢のまた夢である。そもそも世界の現在ある国々の多くは武に拠って興り、または武による侵攻を武に拠って守り維持した歴史を持つ。和を以って平和どうこうというそのもう一方の手のナイフを捨てる勇気を持てないのが世界だ。またナイフを捨てるメリットが見えないのだ。実際、戦時の恩恵、戦争前の恩恵を頼りに生きている商人も居るし、積極的に武をもって脆い部分を突き奪い生きている者も居る。その片方でその被害に遭い命を失う者も居る。軍事力とは剣でもあれば盾でもあるのだ。若し、軍事力を総解除するのであるならば、それら全てを救うだけの器、財が必要である。非現実的な事、突飛な政治的理想は魅力的であり、また多くの者が惑うであろう。しかし、実際に世界に必要なものは現実に即した段階的計画であり、また夢を見せると同時に確信を与える構想でなければならない。大衆に、不特定多数にその構想を語る場合は、大衆の最も理解程度の低い者が苦も無く理解できる平易な表現にし、さらには目先の解決の連続で一歩一歩、構想、理想の階段を上らせる必要があるのだ。多くの政党、政治団体は己の世界でのみの満足が最重要項目になってはいまいか?また世界に語りかけるとするならばなおさら、自己満足や己の土壌、風習に拠る思考を他に押し付ける事はできない。前回言った主権の問題もあるが、何よりも人心なくして政治は築きあげる事適わないからである。まずは、江戸幕府の栄光を築いた家康の言葉を学ぶべきである。『身の程を知れ』
2007/05/25
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久々に面白いものを見たので、私も政治的構想などを披露したいと思う。まず、世界連邦制を採り、議員を200程度選出しての運営だが、現在の世界での対立の原因を掘り下げると・宗教的事由によるもの・利益、資源獲得のためのもの・持たない者の持てる者への挑戦・歴史に起因するものこれらをクリアーしない内には成しえない。また、支配地の概念を気の遠くなる歴史の連続に放り出されている現代人にとって切っても切り通せない部分でもある。一定の領域内に住む人間集団が作る政治的共同社会を排除し、言語も宗教も法律概念も異なるヒトをひとつの器に入れる事の危険性はすでに小さな小さな日本の歴史を見てもよくわかる。加えてひとつの形態に統合した場合、軍の存在意義は重大なる環境被害や仮想敵「国」の持てないままただ手をもてあまして、銃をちらつかせるのが仕事となるのか。銃と言えば、銃を形態する国、しない国があるが統合により治安の問題はさらに深刻化する。明確な支配機構にしきれないのならば、即ち国民は存在できないのであり、国民が存在できないのであれば形態はいかにしろ国家は存在できない。また、民族の意識を人間の心理から排除できない。現存国家はまた国際法上各国家に主権が存在しているので、その連邦の加盟、非加盟はその国家の意思に委ねられ、加盟、脱退が国家の意思に拠る限り、政治学的にもそれは国家という単位に認められないのである。以上が明確な私からの反論と指摘であるが、加えてインターネットに拠る政治的決定が合議でなされるのであれば、文化程度及びインターネットが各国完全に同一レベルまで昇華されている事が必要であり、現在その程度に押し上げるには莫大な時間と費用、また人々の協力が必要である。私の構想はこうだ。国際社会には様々な国家が存在していて、その国家全てに主権が認められ何人もそれを侵す事はできない。これは、国際社会上最も根本的な事であり、EUのような共同体でもそれを無視する事はできない。故に、もちろん国連も合意が基本とされており、国際司法における出廷も合意でしかできないのだ。加えてその国家には様々な対立要因が個々に含まれている。例えば、日本と中国の場合中国:日本は第二次世界大戦中中国に迷惑をかけた、その上現在に至るまで靖国参拝をしている日本:中国は著作権を無視し知的財産を簒奪している。 など。それに加えて北朝鮮のように世界から孤立を現在進行形で加速させている国もある。反発する国を武力で抑える事はできない。何故なら、祖国を攻撃する相手には力で屈しても心から信頼は寄せない。経済的な格差によって相手国家を貶める事も同様である。ではどのようにするのか、まず頭で理解できない血、地、智をどうこうできる問題ではない。知の部分の共有であり、また政治的対話の前に相互の把握と学術的分野における共有、共闘より入り政治的分野へ移行すべきである。
2007/05/24
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人間がおよそその人生を振り返った時、多くの人は良いことは特に無かった、あるいは、悲劇でる割合の方が多いと思う。破滅的結果に帰着する事が悲劇であるのなら、人生之途上において今に至るまでを悲劇と形容しても、決してその先は悲劇とは限らない。「柿を食べると身体に障る」と処刑直前に我が身の健康を案じての一言を出せる石田三成にその精神を学びたい。
2007/05/17
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私は携帯電話へニュースが配信されるようになっているが本日面白い記事が配信されたので少し紹介したい。4月25日16時26分配信 読売新聞 地球型生物が住める可能性がある太陽系外の惑星を、ヨーロッパ南天天文台(チリ)の研究チームが世界で初めて発見した。 AFP通信などによると、この惑星は、地球からてんびん座方向に約20光年離れた「グリーゼ581」という恒星を、13日の公転周期で回っている。半径は地球の約1・5倍、重さは約5倍。地球と同様、岩石でできている可能性が高いという。 研究チームは、惑星が恒星の前を横切る際に起きる、わずかな光のちらつきを観測して、存在を突き止めた。恒星と惑星の距離は、地球と太陽間の14分の1程度だが、恒星の大きさが太陽よりも小さく、光も微弱な「赤色わい星」のため、惑星の表面温度は、液体の水が存在できるセ氏0~40度にとどまるという。ただ、大気の有無や組成などは不明だ。
2007/04/25
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実をつけない花を徒花(あだばな)という。親の言葉と茄子の花千にひとつの徒もなし親や先人の言葉と、茄子の花に実のならないものはないのだという言葉・・・らしい。茄子はともかくとして、先人の言葉を信じるとするならば、先日の私の云いに反して「ヒトラーは悪である」とするものがあてはまるとも考えられる。が、見誤ってはならないのは勝者、敗者とも考慮されるべき先人の言葉、証拠であり歴史を検証する上で最も陥り易いのは勝者側の資料をそのまま鵜呑みにする事が即ち歴史であったとしても紛い無き「事実」とは限らないのだ。たとえば「南蛮(なんばん)」物珍しいものを指す用語として使用されるが、言うまでもなく侮蔑的な蔑称の色合を込めての言葉である。もちろん、これは主眼を中華思想に基づく中国本国をその発言者として固定した場合の言葉、もしくは中世、近世の欧州を見た時の日本の立場での言葉として使用されるが、間違いなく当時の中国南方や欧州にも様々な文化や国家が存在しており、自らを「蛮」などと見てはいない。もちろん同じ事が「夷」にも言える。中華思想でいう異民族の蔑称であるが、異民族側からの視点に置き換えた場合、その形態は違えど「夷」は適当ではない。視点の相違はこのように文献に顕著である。次に勝者の時代変革の正当化はもちろん存在するわけで、何故なら王朝、もしくは市民の統制において己の存在の自己弁護が必要であり、その手法はしばしば打ち破った勢力を野蛮勢力扱いする方法が多様されている。古代中国の殷代には東部の異民族を夷と侮蔑して区別していたが次第に周代に漢民族に同化する事によっていつしか蔑称はさらに遠方の他民族に使用されるようになった例日本の存在が明らかになった後にはさらにその範囲を広げ日本においても東夷と蔑んだ。倭は倭で政権地から遠く離れた関東、東北、北海道の居住民を東夷と呼んだ。歴史を見るうえで危険なのは彼らの言葉を鵜呑みにして評価を固定することだ
2007/04/24
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このサイトを運営していると、定期的に批判を頂戴致します。ヒトラーは悪であるから否定すべきだ、ヒトラーは狂っているから黙るべきだ。。。などなど。貴重なご意見感謝致します。が、全く否定的な態度では見えるものも見えないのですよ。
2007/04/14
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はい、久しぶりの更新です。色々と更新の遅れに対して有難い応援を多数お寄せ頂きましたが、なんとか生きております。世を見れば、「さようなら」 から 「おめでとう」去っては入る世の忙しさよ。今までの文体の書き方も忘れ、575にごまかすのはどうかと思いますが、どうもサボるという事は理由は如何にせよ恐ろしい事です。老い、私事、果ては己の未熟さを理由に持っているものをなくす、無いものを求めるのを止める事は、堕落という病気の第一歩です。実は、政治に対する意見を求められており、何時もの如く土壇場でなんとか気の利いた意見を提供できると油断していたら、脳はすっかり衰えて、いざという時恐ろしく思考停止してしまいました。人間の死とは、いわゆる死も当然そうだが、考える事を休んだ時が死の始まりであると実感しました。私が黙っている間に知事選挙など政治に少しの動きがありましたが、私の今住んでいる大阪府では大阪府府議会議員選挙が立候補者の定員に満たなかった為候補者が全員選挙なしで当選という事態に陥ってしまいました。選挙なしで、候補者は全員府議会議員となったのです。私はこれで当選した議員共がその当選を喜んだのならば即抗議しようと考えています。まず対立候補云々の前に国民に政治への参加やなんらかの意見を求め、また積極的な立候補、そして発言を促す為、その敷居を低くすべきだと考えています。そうでなければ、無能であっても候補として出て、候補者が少なければ無条件で府の政治を左右できる立場になれる事態が蔓延するのだ。
2007/04/11
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不二家が客を欺き己の器を偽り、事至って「子供がおなかを壊す程度です」とペコちゃんが卑しく舌を出した。子供が愛するペコちゃんが牙をむいた。だが、このような偽りはどこにでも「あるある」。この偽りで納豆の業者、それを梱包する業者は泣き、番組は無きものとなった。日が経つごとに、非が明るみに捏造の総合商社でもデパートでもいいけど。。。もうこの番組に信用はありませんと、スポンサーは言った。「ありません」と言ってそこここでは給食費を払わない親。子は親を殴り、その親はそのまた親を介護放棄。兄弟はバラバラ。夫婦でもバラバラ。文字通り体そのものがバラバラに。身はここに心は信濃の善光寺。解体必要なのは古い思考の老政治家。更正無理なんだから、厚労大臣。女性を装置と形容し、野党は退陣要求の助勢をした。駆け抜けた一月。来月こそは良い月であってほしい。
2007/01/31
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環境を守る為に先進国は率先して排気ガスの規制を叫び始めた。だが後発国家は排気ガスの規制以前に今目の前に発展が見えている。先進国は後発国に自らが歩んだ発展の道を閉ざそうとしている。
2007/01/27
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往々にして人間が他人に要求する点は自己が未完成な点の場合がある。だが、人に何かを要求する時、自己を映し出す鏡は封印しているものだ。
2007/01/24
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一時期納豆が品薄に陥っていました。1月7日放送のあるある大辞典において納豆のダイエット効果を紹介したのが発端で、栃木のラジオですが納豆についてさらに紹介したりと提供側、消費者側共おおいに踊らされたのですが、結局実験データ、研究者の証言に至るまで捏造されたものと判明しましたね。他、奥様向けのお昼の番組で取り上げられた健康に良い食品がたちまち品薄になるといったように疑う事なくその情報を信用しているように我々国民の多くは情報を取捨選択しているとは思えません。私がテーマのひとつにしている、連合軍など戦勝側の与えた情報のみを見ていては中庸は叶わないという事を今一度ここを見て下さっている方だけでも再度ご理解下さればと思います。
2007/01/21
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インターネットは国家を超えた利用が可能なので、無法地帯とも言える。・個人または法人の表現の手法はさまざまであり、それを強制、排除できない。・表現をある程度規制する法律は国内法に拠り国家を超えて規制できない。・情報を得る者の精神までも強制できない。・ある国においてその内容が法律に違反する場合でもそれが合法の他国経由で簡単に情報が入手できる。など挙げればきりがない程インターネット上には抜け道や問題があり、およそその全てを規制したり、全く安全なインターネット上の環境を全体が享受する事はできない。匿名性に安堵し、他者を執拗に攻撃し、または個人情報、事実如何に問わず本人の同意なしに不特定多数に情報を配布する事は明らかに国内法に抵触するが、それ以前に倫理が完全に欠如している。分析と称して個人の情報を掲載する事も同様である。無法地帯たるインターネット上の世界で、せめて私は参加者、来訪者だけでも安心して利用できる環境を創造したい。
2007/01/20
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口に出さぬは妄想一度口に出し表現する者は創造者。同じ事を出来ない者は評論できても批判はできない。
2007/01/19
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遠慮していては心が老いる熟慮しすぎては機会が老いる黙っていては舌が老い充実した一生は時間が老い何もしなければ自身が早く老いる
2007/01/18
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