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クロニクル 南アフリカ政府マンデラ釈放を決定1990(平成2)年2月2日32年前のこの日、アパルトヘイト(人種隔離政策)で知られる南アフリカ共和国のデクラーク大統領は、ANC(アフリカ民族会議)の指導者で、終身刑を科されていたネルソン・マンデラ氏ら、ANC活動家の無条件釈放を決定しました。同時に黒人解放運動を続けていることを理由に、非合法化して長期にわたって弾圧し続けてきた反アパルトヘイト運動の諸団体を、全て合法化することも合わせ発表されました。長くかつ苦しかった南部アフリカの黒人解放運動への、静かな支持の高まり、そしてANCに結集した黒人たちの団結と努力が、遂に南アフリカの白人政権を揺り動かした瞬間でした。2月11日、釈放されたマンデラ氏は、ただちに精力的な活動を開始、10月には日本を訪れ、国会で衆参両院議員を前に、人種差別撤廃を訴える演説を行いました。4年後、1994年の4月、南アフリカで初めて全人種参加による選挙が行なわれ、ANCは圧勝、マンデラ氏は大統領に就任し、全民族の融和を推進し、99年に政界を引退しました。2013年、95歳で死去。天国のマンデラさん、昨今の南アの混乱振り、残念がっているでしょうね。昨日の記事、コメントありがとうございました。慣れない家事もろもろで多忙につき皆様のブログに訪問できず申し訳ありません。 今しばらくお許しのほどを…コロナは東京一極集中も変えつつあります。リモートワークの進展で、東京23区の人口は、戦後初めて減少に転じました。都下や近県の都市部人口はまだ増えています(首都圏では千葉県流山市の増加が目立っているそうです)が、時間と共に地方への移住者が増えていく流れに転じたようです。
2022.02.02
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クロニクル ゴールドラッシュ始まる1848(弘化5)年1月24日174年前になります。この日カリフォルニア(当時はまだ州になっていません)のサクラメント渓谷で砂金が発見されたのです。川床にキラキラ光っていた金の発見は、大ニュースとして世界に発信され、我こそはとアメリカ各地から、さらには欧州その他から、30万人近い人々がカリフォルニアに集まり、カリフォルニアは2年後の1850年には州昇格の基準を満たし、アメリカ合衆国31番目の州となったのです。サクラメント渓谷に程近いサンフランシスコを例にとると、金発見の2年前1846年には、人口僅か200人に過ぎない小さな開拓村だったのですが、それが1852年には人口36,000人を擁する堂々たる新興都市に成長しています。実際にゴールドラッシュと呼ばれた現象が本格化するのは、翌849年の事で、この年カリフォルニアにやってきた新住民の多くは、鉱夫として採鉱に熱中し、フォーチィナイナーズと呼ばれました。
2022.01.24
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クロニクル 血の日曜日1905(明治38)年1月22日117年前のことです。明治38年ですから、日露戦争の最中。戦争の相手国だったロシア帝国の当時の首都ペテルブルグで起きた惨劇のことです。当時のロシアは、ギリシア正教に近い、ロシア正教を国教としていて、西暦とは少し異なるロシア暦を採用していました。西暦の暦から13日を引くとロシア暦に、ロシア暦に13日を加えると西暦になります。レーニンを指導者とするボリシェヴィキ(後のロシア共産党)が権力を掌握したロシアの革命を十月革命と言ったり、十一月革命と言ったりするのは、前者がロシア暦を基準に叙述しているのに対し、後者は西暦を基準に叙述するからの違いで、どちらも正しいことになります。ややこしいですね。で、血の日曜日事件は、西暦でいう今日1月22日に起きましたから、ロシア暦では1月9日のことになります。20世紀初頭のロシアは、フランスからの借款を頼りに工業化を進めていましたが、日露戦争当時は不況に喘いでおり、そこに戦争の負担が重なって、貧民の暮らしはどん底状態にありました。そんな民衆たちは、この日ロシア正教会の司祭ガポーンの指導の下に、自分たちの苦しみを訴えに、ツァーリ(皇帝)の下へと請願行進を行なったのです。民衆は、ツァーリを信頼し、ツァーリに直接訴えれば何とかしてもらえると。信じていたのです。今の窮状は、悪い官僚やツァーリ側近が、嘘の報告を繰り返し、ツァーリが実情に気付かないようにしているせいだ。こう考えていたのです。そのため、ガポーンの打ち出したツァーリへの請願行進は、貧しい民衆の心を捉え、この日の行進には、近在の村々を含めて、10万人以上の民衆が参加したのです。こうして雪の冬宮前広場は、群集で埋め尽くされます。武器を持たない素手の人々の集まりでしたが、あまりの大群衆の出現に、恐怖心に襲われた守備隊は、隊長の命令と共に、無抵抗の民衆に一斉射撃を浴びせたのです。雪の冬宮前広場は、血で染まり、大勢の犠牲者を出したのです。この事件の様子は、ロシア各地は勿論、広く世界に報じられ、ロシア各地では、次第に抗議行動が広がり、ツァーリに対する民衆の盲信が崩れるきっかけとなったのです。この血の日曜日事件をきっかけとする、ロシアにおける革命情勢の進展(最終的には失敗に終りますが、第一次ロシア革命と呼ばれます)は、ロシア政府をして、日本との戦争の継続は困難との認識に導きます。その結果が、アメリカ西海岸ポーツマスでの、日露交渉の受諾に繋がりました。この血の日曜日事件がなかったとしたら、日露戦争の帰結は、また違ったものになっていたように思われます。
2022.01.22
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クロニクル ルイ16世処刑1793(寛政5)年1月21日フランス革命200年の1989年は、日本では昭和から平成に移行した年、国内的にはバブル景気に浮かれ、何人ものバブル紳士が、そうとも知らずに束の間の我が世の春を謳歌していました。そして世界では、ベルリンの壁崩壊に代表される東欧革命の年として、ソ連圏とソ連の影響力とが、音を立てて崩れ落ちていった年でした。今日取り上げるのは、200年以上も昔のことになったフランス革命からです。229年前のことになります。丁度日本では、松平定信の寛政の改革に対する庶民の怨嗟の声が高まり、夏には彼が失脚する年に当たっています。そんな時でした。フランス革命が本格化してから3年半のこの日、国王ルイ16世が、革命広場(現在のコンコルド広場)のギロチン台に引かれ、処刑されたのです。
2022.01.21
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クロニクル リンカーン大統領に当選1860(万延元)年11月6日161年前のこの日、アメリカ合衆国で行われた大統領選挙で、共和党候補のエイバラハム・リンカーンが他の2人の候補を破って大統領に当選しました。当時の共和党は、今とは違い、南部では支持されることの全くない政党で、北部及び西部での支持に頼るしかない、地域政党でした。その地域政党に過ぎない共和党の推薦候補だったリンカーンが予想を裏切って当選することが出来たのは、民主党が分裂し、2人の候補を立てるという失策を犯したからでした。2人の候補の票の食い合いの結果、得票率で50%どころか、40%に満たない得票しか得られなかったリンカーンが当選したのです。南北戦争が始まるのは、この翌年のことでした。
2021.11.06
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クロニクル マリー・アントワネットの処刑1793(寛政3)年10月16日228年前のことです。日本では老中松平定信による寛政の改革が、なお猛威を振るっていた時代の後期にあたります。毀損令による札差イジメが、深刻なデフレを招き、江戸市中にご老中への怨嗟の声が上がっていた時期でした。1月に処刑された夫のルイ16世に続き、この日王妃だったマリー・アントワネットもギロチンの露と消えたのです。コンシュルジュリーの獄に繋がれた王妃は、子ども達とも離されて次第に体調を崩し、かつての美貌はその面影をなくしていました。晩年の様子を表した肖像をご覧下さい。彼女も革命裁判にかけられ、前日の15日に革命裁判所は、死刑の判決を下しました。判決の下った翌日早速刑は執行され、彼女は10月16日午後12時15分に、この世を去りました。時に38歳でした。
2021.10.16
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クロニクル コロンブス隊西インド諸島に上陸1492(明応元)年10月12日529年も前になりますね。ヨーロッパ人が書くと、コロンブスが「新大陸」アメリカを発見したとなります。コロンブス自身は、インド周辺の島に到着したと考えたようです。ともかく、西欧人がカリブ諸島(西インド諸島)に到着し、上陸したのが529年前の今日のことでした。コロンブス一行は、総勢90名(このうち87名の氏名が分かっています)、3艘の船隊で同年の8月3日にスペインのバロス港を出港しています。彼自身がサン・サルバドル島と命名した島への投錨は、11日の深夜を過ぎ、日付が12日に替わって間もなくであったとしるされています。島への上陸は、日の出を待って行なわれ、スペインの国旗を立てて島の占領を宣言しています。一行がスペインに帰りつくのは、翌年2月のことでしたが、隊員中、23名は、植民のため、現地残留を希望し、帰国しませんでした。
2021.10.12
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クロニクル ゲバラ死す1967(昭和42)年10月9日54年前のこの日、キューバ革命をカストロと共に戦ったチェ・ゲバラが、ボリビア政府軍との戦いで捉えられ、翌日射殺されました。39歳でした。ゲバラはアルゼンチン生まれの医師で、グアテマラで開業、夫人の影響でマルクス主義者となり、メキシコに亡命中にフィデル・カストロに出会ってキューバ革命への協力を決意。1959年のキューバ革命をカストロと共に指導しました。1965年にキューバを離れてボリビアに渡り、ボリビア革命を試みましたが、米国CIAの支援を受けた政府軍との戦いに敗れ、志半ばに倒れました。
2021.10.09
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クロニクル 「水上の音楽」初演1717年7月17日304年前のこの日、イギリス国王ジョージ1世は、テームズ川で舟遊びを行って、日ごろのウサを晴らしたのですが、その船上で、ヘンデル作曲の「水上の音楽」が初めて披露され、国王をはじめとする乗船客に好評だったことが伝えられています。ジョージ1世は、アン女王の死去(1714年)で、後継者のいなくなったスチュアート朝に変わり、母方繋がりでドイツのハノーファーから、イギリス王として迎えられたのですが、殆ど英語を解しないため、政務は首相と議会に任せ、殆ど干渉しない態度をとり、出身地のハノーファーに静養に出かけることも多く、結果的に君臨すれども統治せずお慣習を造ったことで知られ右国王でした。
2021.07.17
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クロニクル エリザベス1世戴冠1559(永禄2)年1月15日1561年が桶狭間の戦いのあった年ですから、戦国時代も後半戦に差し掛かった頃の出来事です。460年前になります。この日、当時はまだヨーロッパ大陸の西にポツンと浮かぶブリテン島の南の半分を占める小国イングランドで、日本では良く名の知られたエリザベス1世が戴冠式を行い、即位しました。彼女はテューダー朝の2代目ヘンリー8世の次女でしたから、王位継承順位は3番目でした。彼女は姉のメアリーと弟のエドワードとの3人姉弟の真ん中でしたが、3人は夫々母親が異なりましたから、宮廷の儀式でもない限り、殆ど顔を合わす機会もなく、姉弟仲特に姉のメアリーとの関係は非常に悪かったことが知られています。その上、イギリスは当時宗教改革の最中、父のヘンリー8世によって、ローマ教会との関係を断ち切り、修道院は全て解散とされ、修道院領は全て国有地とされていました。ところがヘンリー8世の最初の妻キャサリンはスペイン王室から迎えられた筋金入りのカトリック信者でしたから、その薫陶を受けた姉のメアリーもまたカトリック信者で、従兄のスペイン王フェリペ2世の妻となっています。対して弟エドワードの母は、ピューリタンでしたから、こちらはカトリックに敵意を持つカルヴァン派の信者でした。でエリザベスの母はというと、こちらはヘンリー8世と同じく、カトリックでもプロテスタントでもあるような、ないような良く言えば中道を行き、悪く言えばどっちつかずの立場にとどまっていました。そのため、父の死後弟エドワードが即位し、英国教会をピューリタンに近づけ、エドワードが流行り病で亡くなり、姉のメアリーが即位すると、今度はカトリックの教義が幅を利かす世になり、どっちつかずのエリザベスは、姉の女王ににらまれ監視下に置かれ、一時は命を危険にさらされる怖い体験もしたのです。その姉もまた亡くなったことで、彼女は命拾いをしたのです。こうして1559年彼女に王位が巡ってきたのです。ここから彼女が亡くなる1603年まで、44年間という長い統治が始まりました。彼女によって、イギリス国教会の立場(カトリックでもプロテスタントでもないその中間)はしっかり定められ、また財政赤字も綺麗に整理されることになったのです。最もこちらは、ともかく借金が大嫌いな彼女が、とにかく赤字を嫌って、野心的な事業などに決して手をつけなかったことに依るのです。
2021.01.15
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クロニクル ビスマルクの登場1862(文久2年)10月8日 文久2年は、日本で言うと森鴎外の生まれ年です。そんな158年前のこの日、ドイツ統一の父と謳われたビスマルクが、プロイセン王国の首相に就任しました。 当時ドイツは、なお50余の国々に分かれたままで、プロイセンとオーストリアという2国が統一へのヘゲモニーを巡って互いに牽制し合っていました。 首相になったビスマルクは、ただちに予算の組み替え案を議会に提出、国防費の大幅アップを画策します。首相の強引なやり方に議員達は、激しい怒りをぶつけました。会議に呼ばれたビスマルクは、その席で有名になった処女演説をぶち上げたのです。 「現下の大問題は(というのは、ドイツ統一を指しています)、言論によって解決されるものではなく、プロイセンの鉄(軍需工業)と血(兵士の流す血)によってこそ、達成されるのであります。」と。これが有名な「鉄血」演説です。 以後プロイセンは、ビスマルクの方針の下に、軍事大国の道を突き進むことになりました。
2020.10.08
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クロニクル 四人組逮捕1976(昭和51)年10月6日あれから44年も経ったのですね。この日、文化大革命を主導したとされる江青、張春橋、姚文元、王洪文の中国共産党政治局員4人、いわゆる文革4人組が逮捕されました。 4人は、後ろ盾だった毛沢東主席が亡くなった後、影響力を失っていましたが、逮捕はプロレタリア文化大革命の終わりを象徴する出来事でした。
2020.10.06
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クロニクル ミュンヘン会談始まる1938(昭和13)年9月29日ヒトラーを増長させ、第2次世界大戦を招くことになった、悪名高き融和政策の頂点を示すミュンヘン会談が、82年前の今日、ドイツバイエルン州の州都ミュンヘンで始まりました。ラジオ時代のサッポロビールのコマーシャルソングとして名高い、「ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキー、うまいビールの合言葉…」でお馴染みのミュンヘンです。1933年に選挙で勝利して政権を取ったヒトラーは、まず政敵を次々と弾圧しながら、ヴェルサイユ条約を無視して軍拡を進めることで、軍需生産中心の公共投資で経済の回復に努めて国民の支持を固めると、1936年~37年、自由と民主主義を謳歌していたスペイン共和国の人民戦線内閣に対する、既得権を守ろうとする財界・大地主・軍部中心のフランコ反乱軍に肩入れして、ファシズム連合を組むイタリアのムッソリーニ政権と組んで介入、英仏が共和政府を支援せず非介入を貫いたことを横目に、大量の武器弾薬と空軍を派遣して共和政府軍を圧倒、フランコ独裁政権を作り上げ、英仏の弱腰を見抜いて、第1次世界大戦で失ったドイツ領土の回復を目指すようになりました。38年3月には、オーストリアを併合、4月からドイツ系住民が2割強を占めるチェコ・スロバキアのズデーデン地方の強奪を狙ったのです。9月にはいよいよ強奪の仕上げとばかり、武力に訴えてズデーデン地方に侵攻、その地を占領するに至りました。この情勢を放置できず、ソ連の介入を避ける思惑から英仏が動き、ここに82年前の今日、英仏独伊4か国の首脳がミュンヘンに集まり、当事国のチェコスロバア首相は、会議に参加させずに別室に待機させ、翌0日にかけての会談を開いたのです。この段階でも、英仏首脳は国民が平和を望んでいることを背景に、対独戦争を避けることに終始し、全ての犠牲を小国チェコ・スロバキアに押し付けることで、ヒトラーの要求をすべて認め、「今後新たな領土要求はしない」ことだけをヒトラーに約束させることで満足したのです。英仏首脳は国内に戻って、「国民諸君、戦争は回避された。平和は保たれた」と演説し熱烈に支持されたのですが、一方のヒトラーは、英仏の弱腰を読み切り、今後さらに領土拡大に踏み切っても、英仏は出てこないだろうと考え、翌年にかけチェコスロバイア全土を支配下に置き、さらに39年9月1日には、ポーランドへの侵攻に踏み切ったのです。ここに英仏も、ポーランド侵攻を放置すれば、次は当然矛先を西へも向け、仏英の占領を狙ってくるだろうと考えるに至り、重い腰をあげて、9月3日に対独宣戦布告に踏み切り、第2次世界大戦の幕が上がったのです。融和政策を批判したイギリスのチャーチルは、もっと早く、遅くもミュンヘンの時点で、ヒトラーを叩いておけば、第2次世界大戦は起きずに済んだであろう」と語っています。
2020.09.29
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クロニクル エカチェリーナ2世即位1762(宝暦12)年7月9日258年前になります。この日ロシアの女帝、名高いエカチェリーナ2世が即位しました。彼女は、義母エリザヴェータ女帝の甥で、皇太子のピョートルの妻でした。義母のエリザヴェータが、ドイツかぶれの皇太子妃にと、プロイセン王フリードリッヒ2世に、国王の養女をと依頼した結果、フリードリッヒが北ドイツの小領邦君主の娘だったゾフィーを推薦、ゾフィーはロシア皇太子のお妃候補として14歳でロシアに迎えられました。ロシア入りしたゾフィーは、1年でロシア語をマスター、乗馬好きの彼女は、ロシア軍の軍服の色である緑色の服を着ては乗馬に励み、軍人の支持を受けて、ドイツ好みの夫ピョートルとの違いを際立たせる行動をとり、軍幹部との親密な関係を築いたことが知られています。1762年1月5日に、エリザヴェータが急死し、夫ピョートルがピョートル3世として即位したのですが、ドイツかぶれの彼は、ロシア軍が苦心を重ねて、プロイセン軍を追いつめていたプロイセンとの戦いを、急遽中止し、一方的にプロイセンとの講和を結ぶに至ります。その上、ロシア軍にもプロイセン方式を取り入れることを強要して軍部と対立、軍部はエカチェリーナ皇后をいただいてのクーデタを画策、この日実行に移したのです。彼女自身も、クーデタに乗り気で、ロシア軍の緑色の軍服姿で、みずから指揮を執ったともいわれています。クーデタは無血で成功し、ピョートル3世は座敷牢に幽閉され、1週間後に獄死しています。証拠はないのですが、彼女の意向を忖度した側近の誰かが、毒殺したものと推測されています。ロシアの啓蒙専制君主にして、名君の誉れ高いエカチェリーナ女帝の誕生物語でした。1796年、脳梗塞により死去。
2020.07.09
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クロニクル 中国プロレタリア文化大革命を全面否定1981(昭和56)年6月27日39年前のこの日、中国共産党は胡燿邦の主席昇格を発表すると共に、1966年8月からのプロレタリア文化大革命を全面的に否定する声明を発表しました。 時に文化大革命当時の毛沢東主席が、1976(昭和51)年9月に死去してから5年が経過していました。文革の10年が、中国の経済・文化・市民生活・教育そして政治に残した傷の回復に、どれだけの時間が必要だったかは、今後も検証を続けないと明らかにできないように思いますが、少なくとも、文革なかりせば、中国経済は、今よりも相当先を走っていただろうことだけは、確かなようですね。 その結果として中国がどのような国家づくりを進めたのかは、なんとも言えませんが……
2020.06.27
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クロニクル 東ローマ帝国滅亡1453年(ユリウス暦)5月29日「古いヤツだとお思いでしょうが…」と鶴田浩二の『傷だらけの人生』ばりのセリフで始めるとすれば、差し詰め「古い話で恐縮ですが…」と言ったところでしょう。まして、ここは遠くボスフォラス海峡に面した、トルコ共和国最大の都市、イスタンブールの話ですから、なおさらです。567年前の今日、ここ東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルは、オスマン帝国軍の大砲を数問使った砲撃に、遂に三重にめぐらした城壁を破られ、陥落したのです。余談ですが、この時破られた城壁の一部は現在でも保存されており、トプカピ門と名付けられてイスタンブール市街地への入り口のような役割を果たしています。ここに西ローマ帝国の滅亡から、1千年弱の時を経て、東ローマ帝国も滅亡したのです。この時、難を避けた帝国の学者や文化人は、陸路ヴェネツィアを経由して、イタリア各都市に亡命します。そうした人々を迎えたイタリアは、ここにルネサンス文化の絶頂を迎えることになります。ルネサンスの隆盛の翳に、東ローマ帝国の滅亡があったことは、あまり指摘されませんが、大変重要な事実です。この年は、西ヨーロッパでは英仏100年戦争が、フランス側の勝利で終了した年でもありました。
2020.05.29
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クロニクル ラ・マルセイエーズの誕生1792(寛政4)年4月25日フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」と、アメリカ合衆国国歌「星条旗よ永遠なれ」の2曲は、歌詞はご存知なくとも、メロディと曲名については、ご存知の方が多いと思います。アメリカ国歌、「星条旗よ永遠なれ」は、1812年~14年にかけての米英戦争の初期の頃に作られた軍歌と呼ぶべき曲です。フランス国歌、「ラ・マルセエーズ」は革命歌です。この曲は、元々は「ライン軍団の歌」と言い、1792年の今日、初めて披露されたのです。作曲者はルジェ・ド・リール。仏軍の砲兵大尉だった人物です。5日前の4月20日、フランス革命政府は、オーストリアに宣戦布告し、革命フランスは反革命派から、革命を防衛するための戦争に入りました。そして、ライン方面軍として戦地に向かう兵士たちに捧げる行進曲として、ルジェ・ド・リールがこの日披露したのが、この曲でした。題して「ライン軍団の歌」です。それがどうして「ラ・マルセイエーズ」と呼ばれるようになったのか。この曲は当初、ライン方面=アルザス地方でのみ歌われていたのですが、国王ルイ16世と通じる将軍達の裏切りによって、戦局はたちまち不利となり、同年7月11日、革命政府は「祖国は危機にあり」と、非常事態宣言を発して、義勇兵の募集を始めたのです。この檄に答え、マルセイユ方面からの部隊が、ローヌ川を遡り、アルザス方面を経由して、パリに到着したのは、8月8日頃のことでした。 彼らは、アルザス地方でのみ歌われていた「ライン軍団の歌」が大変気に入り、パリッ子たちの大歓迎を受けながら、パリへ入場した際も、この曲を歌いながら入ってきたのです。たちまち勇壮なこの歌は、パリッ子たちの心を捉えました。そしてパリっ子がつけた名前が、マルセイユの義勇兵の歌を意味する「ラ・マルセイエーズ」だったのです。
2020.04.25
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クロニクル イタリア共産党解党1990(平成2)年3月10日30年前のこの日、当時西側世界で最大最強の共産党と自他共に認められていたイタリア共産党が解党、新党左翼民主党を結成しました。イタリア共産党は、グラムシらを先頭に、第一次世界大戦後の混乱期のイタリアで結成され、翌年の総選挙で、すぐに16議席を獲得する健闘を見せました。その後ムッソリーニの弾圧を受けて、一時衰えましたが、短期間で回復に向かい、1950年代には大きな勢力をほこるまでに成長したのです。グラムシの跡を継いだトリアッティも、暴力革命を否定して、「議会主義の下での平和的な権力の移行を実現する」として構造改革路線を推進しました。その後も政権に対して是々非々の姿勢をとりながら、時が経過しましたが、遂にこの日共産党70年の歴史に終止符を打ち、左翼民主党という新政党を立ち上げたのでした。 前年の東欧社会主義国崩壊の雪崩現象の影響も大きかったのでしょう。
2020.03.10
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クロニクル チューリップバブル崩壊1637(寛永14)年2月3日 日本ではこの年の秋に島原と天草の乱が起きています。また徳川幕府がポルトガル船の来航を禁止して、「鎖国」体制が完成するのは、この2年後の1639年のことです。そんな383年前のことです。この日世界で最初のバブルだったと言われる、オランダのチューリップ・バブルがはじけました。朝方に売り物が買い物を上回ったことがきっかけで、売りが売りを呼ぶパニックが発生したのです。チューリップ・バブルのいきさつについては、2008年の11月にブログに連載した記事を、フリーページにアップしておきましたので、ご覧ください。
2020.02.03
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クロニクル 禁酒法施行1920(大正9)年1月17日100年前ですね。第一次世界大戦が終了して1年少々が経過した時期の米国の話です。前年10月28日に成立した合衆国憲法修正18条(別名禁酒法)が、この日発効しました。 禁酒法と呼ばれますが、この法は飲酒そのものは否定していません。ただし、酒類の製造、販売、輸送、そして輸出入の一切が禁止されました。酒屋や飲み屋は禁止ですね。このため、前日の16日は、なるべく沢山の酒類を自宅へ運ぼうとする車で、深夜までにぎわったそうです。しかし、この法は、字義通りの禁酒が実行されたかどうかという点でみると、明らかに効果の薄かった法に留まっていました。大都市ではもぐりの酒場が、多数営業を続けていました。アル・カポネが率いるシカゴ・シンジケートなど、ウィスキーの密輸と密売で巨額の富を得たギャング団が、幅を利かせたのも、このときでした。それでもこの法は、他方で、節約と勤勉を旨とし、敬虔であることを重んじるプロテスタントの価値観を、アメリカ社会の倫理的規範とする運動の政治的シンボルの役割を果たしました。こうして、20年代のアメリカで、禁酒法は、中産階級以上の人々から、なお幅ひろい支持を受けていたのです。この禁酒法、32年の大統領選で、ニュー・ディール政策を掲げて勝利したフランクリン・ローズヴェルトが、実は禁酒法の廃止も公約に掲げており、先ずはビールとワインを解禁、さらに憲法修正第18条を無効とする修正21条を制定することで、禁酒法と呼ばれる修正第18条は効力を失って今日に至っています。
2020.01.17
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クロニクル レコンキスタ完結1492年1月2日 古い話で恐縮です。1492年は、世界史ではコロンブス一行の航海、ヨーロッパ人にとっての「アメリカ発見」で有名な年です。528年も前のことです。日本では、応仁の乱を経て、戦国乱世に向かい始める頃、山城の国一揆は勢いをなくし始めていましたが、各地の土一揆は、まだ活発な頃のことです。 実は、1月2日のこの出来事こそが、コロンブスの航海が実行に移される大事な伏線だったのです。この日、イベリア半島におけるムスリム勢力の最後の拠点、グラナダがカスティーリャ軍(この国の王が、有名なイサベル女王です)の攻撃によって陥落したのです。ここにキリスト教徒勢力による、旧ローマ帝国の版図の1つイベリア半島を、ムスリム勢力から奪い返そうとする0運動(再征服運動、レコンキスタと呼ばれます)が、成功裡に完結を見ました。要するに、ローマ教皇とカトリックの諸侯による、領土拡大と勢力拡大の征服戦争を、レコンキスタの名で正当化したわけですね。 何事もネーミングが大事なのです。同じ時期に展開し、失敗に終った十字軍の侵略遠征も、ネーミングは立派ですが、要するにレコンキスタと同じく、領土拡大のための戦争でした。さて、ムスリム勢力を駆逐したイベリア半島には4つの国が出来ました。地中海側のアラゴン王国、大西洋側のポルトガル王国、そして中央部に広がるカスティーリャ王国と、ピレネー山脈でフランスと接するバスク王国です。このうち、アラゴンとカスティーリャは国王同士の結婚によって連合王国となり、後にバスクも併合してスペインとなります。 実は、征服事業を早めに完成したポルトガルは、更なる南への進出の野望を海を越えたアフリカに定め、北アフリカの勢力が手強いため、アフリカ西岸を南へ下って、西アフリカの諸王国との貿易で、富強を誇っておりました。 征服を完了したカスティーリャが、さらなる拡大を目指すとなると、ポルトガルと戦うしかありません。それを避けたいイサベル女王の前に現れたのが、冒険航海のスポンサーを探していたコロンブスだったのです。
2020.01.02
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クロニクル 第1次世界大戦の終る1918(大正7)年11月11日101年前になります。この日、ドイツ革命によって成立したドイツ臨時政府は、連合諸国との休戦条約に調印、ここに1914年7月28日に始まった第1次世界大戦は、4年3ヶ月余の長期戦の果てに、ようやく終結しました。 第1次世界大戦は、戦争末期の1917年11月(ロシア暦10月)には、戦時体制を維持する政治的・経済的耐久力を持ち得なかったロシアで、国内の反戦・平和の世論の盛り上がりによって、社会主義政権が誕生する一幕があり、同じく18年には戦場を中心にスペイン風邪が大流行して、敵対する双方の陣営で、多数の兵士が病死するなど、戦場以外でも多くの死者を出した戦争でした。 戦死者・戦病死者の合計は相方合わせて850万人、負傷者は同じく2,100万人強と推計されています。敗れたドイツでは、1100万人の動員兵力に対し、死傷者は600万人に近いと推計されています。ドイツの総人口およそ6000万人と言われていましたから、国民の1割が傷つくか戦死したことになります。 今年は2019年。100年前の1919年は、戦後の混乱期にあたっていたのですね。現在もあちこちきな臭くなっていますが、大規模な戦争にならないことを祈るのみです。
2019.11.11
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クロニクル ベルリンの壁崩壊 1989(平成元)年11月9日ちょうど30年になります。この日、東西ベルリンを分かつ「ベルリンの壁」が事実上崩壊、東ドイツ市民が、西ベルリン(西ドイツ)を訪問する情景が、現在進行形でテレビ放映されました。「これは夢ではないのか」と、一瞬不安に思ったのを覚えています。それほど、鮮烈な光景でした。 東ドイツ市民の手で、ブランデンブルグ門が壊され、移動の自由が久々に実現したのです。翌日10日には、壁の一部が本格的に撤去され、東西ベルリン間、東西ドイツ間の移動の自由が保障されたのです。ところで、ベルリンは、ドイツ帝国及びナチス時代のドイツの首都であったため、地理的には東ドイツに位置しながら、その特殊な地位のために、東西ベルリンに分けられ、その西半分が西ドイツの1部とされていました。そのため、その地位は不安定で、東ドイツは国民の西ドイツ、具体的には西ベルリンへの逃亡を警戒して、1961年8月にベルリンの壁を築き、東西ベルリン間の交通を遮断する措置をとっていたのです。 この日38年振りに、その壁が崩壊したのです。 東西ドイツの統合は、早くも翌1990年に実現しました。 追伸 何も語らずに1か月近くブログを休載してしまいました。自宅のリフォームの関係で、オーバーワークが続き、目の状態に注意号が出まして、1人で勝手に休ませてもらいました。 まだ完全に落ち着いたわけではないのですが、ようやく峠は過ぎましたので、またよろしくお願いします。ご心配をおかけしました。
2019.11.09
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クロニクル メイフラワー号の旅立ち1620(元和6)年9月16日400年近く前の話になります。日本史で言うと、大阪夏の陣の5年後、家康の死後4年の出来事です。中学校などの英語の教科書に良く出てくる話ですから、ご存知の方も多いと存じます。エリザベス1世の後を継いだイングランド王ジェームズ1世の信仰弾圧を逃れ、新天地での信仰の自由を求めたピューリタンが、メイフラワー号に乗ってアメリカ植民地に渡ったという、あの有名な逸話です。そのメイフラワー号がイングランドのプリマス港を出航したのが、399年前の今日だったのです。 乗組員を除く乗客は全員新天地への移住希望者でした。総勢102名の移住希望者は、イギリスからニューイングランド地方への最初の永久移民となりました。一行は、船上で社会契約説に基づくメイフラワー誓約を結びました。 彼らの一行は、11月19日にコッド岬、そして12月26日に現在のマサチューセッツ州プリマスのマサチューセッツ湾沿岸に到達しました。メイフラワー号はイギリスからアメリカまでの大西洋4,400kmを66日間かけて横断しました。 そして、彼らの上陸した土地は、後にプリマス コロニー Plymouth Colonyと呼ばれるようになりました。ところで、102名の乗客の中に、妊娠中の女性が3名おり、そのうち2名が新天地で下船前にそれぞれ男子を出産しました。また航海中に乗員1名、船客1名が亡くなったことが記録されていますので、移民としてアメリカに上陸したのは、103名ということになります。 彼らは、イギリスのアメリカ植民地として、第3番目となるタウンを建設するのですが、最初の冬を越すことが出来、春に畑を作って耕作することが出来たのは、土地は誰のものでもない神のものだと考えるインディアンが、彼らに食料を援助し、土地を耕作することを認めてくれたからでした。それでも住む家のない最初の冬の生活は厳しく、冬場で乗客を降ろして、すぐに帰ることは危険すぎてできないメイ・フラワー号が現地にとどまっていたので、乗客は全員、船の中で一冬を過ごしたのですが、栄養不足と、不衛生な環境とで伝染病が発生し、半数をやや超える53名が亡くなっています。船員もまた8名が死亡しました。
2019.09.16
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クロニクル 大韓民国成立 1948(昭和23)年8月15日それは、日本の降伏から、丁度3回目の独立記念日の出来ごとでした。71年前のこの日、朝鮮半島の38度線の南の地域、すなわち日本の降伏後、米軍が治安維持にあたっていた地域が、大韓民国として独立することを宣言したのです。大統領には、李承晩が就任しました。これを受けて、ソ連軍が進駐し、治安の維持に当たっていた38度線の北側は、南の独立から刺激を受け、9月9日に朝鮮民主主義人民共和国としての独立を宣言しました。首相には金日成が就任しました。 日清戦争以後、次第に日本の支配を受けるようになった朝鮮は、1910年に日本に併合され、完全に日本の植民地とされて、日本の敗戦の日まで、35年間の植民地支配を受けたのです。1945年の7月下旬に発表されたポツダム宣言は、「朝鮮の独立を認めること」という一項を含んでいました。そのため1945年、日本がポツダム宣言の受諾を表明したその日が、朝鮮の人々にとっての独立の記念日となるはずでした。しかし、そうはならなかったのです。日本の軍部の無益な抵抗の続行は、2発の原爆投下やソ連軍の参戦を生み、日本の国民にも、本来ならなくて済んだはずの多大な苦しみを生みましたが、それと同じく植民地だった朝鮮の人々にも、大きな苦しみをもたらしました。ソ連の参戦と進出を受け、米軍は対日戦の参謀次長だったラスクに、朝鮮半島中部に、適当な分割ラインを見つけるよう、命じました(この事実については、後にケネディ・ジョンソン政権で、国務長官を務めたラスクが自ら証言しています)。適当な山脈や河川を見つけられなかったラスクは、38度線を分割ラがインに選び、ソ連側との合意に達したのです。 適当な時期に南北同時選挙を実施して、ひとつの国にする予定で‥。しかし、この構想は戦後における米ソ冷戦の激化で水泡に帰し、ここに48年、南北分裂国家が誕生することになったのです。そしてこの分断は、49年10月の社会主義中国の誕生を経て、50年~53年の朝鮮戦争という民族的悲劇に発展し、今なお続いているのです。すべては、東条を筆頭とする日本軍部の頭目たちの、現実を直視できない指導者としての決断力の不足と、敗北を受け入れる勇気の欠如が招いたことでした。
2019.08.15
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クロニクル ベルリンの壁建設始まる 1961(昭和36)年8月13日 第二次大戦後のドイツの扱いは、1945(昭和20)年2月のヤルタ会談で決められます。ご承知の通り、ドイツは東西2つに分割され、さらに東ドイツの領域に収まるベルリンについては、そこがドイツ帝国の首都であったがために、米英仏の管理する西ベルリンとソ連の管理する東ベルリンに、分割されることになりました。こうして西ベルリンは、東ドイツの内部にポッカリ浮かぶ離れ小島のような存在となったのです。東西ドイツが相互に自国の素晴らしさを宣伝し合っている内は、特に問題はなかったのですが、50年代の半ばにかけて、西ドイツの経済復興が進み、東ドイツとの経済格差が目立つようになると、次第に西ベルリン経由での、西側世界への亡命が無視できない数となってきたのです。ここに東ドイツ政府は、西ベルリンを東ドイツから隔離するために、西ベルリンの周囲全てを、壁で覆うことを考えました。こうして、58年前のこの日、午前0時を期して、一斉にベルリンの壁を築く作業が始まったのです。まずは、当日昼までに、西ベルリンに通じる道路という道路がバリケードで封鎖され、交通が遮断されたのです。ついで、ブロックで補強され、最終的にはコンクリート製となりました。この壁は東西ベルリンの接触範囲のみでなく、西ベルリンの周囲全てに建設されたのです。総延長は155キロメートルに達しました。ところで、離れ小島の西ベルリンとの交流はどうしたのでしょうか。高速道路は東ベルリン区間には、インターチェンジを設けずに、国境の検問所だけで通行できましたし、ノンストップの特急電車も通っていました。また、西ドイツのルフトハンザは運行できませんでしたが、米・英・仏・蘭などの航空会社は西ベルリンへの便を運行することも出来たのです。また壁は東西の国境線の上ではなく、いくらか東ドイツ寄りに入ったところに建設され、さらにその内側に第2の壁が作られました。こうして西ドイツへの亡命を防いでいたのですが、65歳以上のお年よりは例外で、亡命を申請すると、すぐに許可されたのです。これは、年金受給者が亡命してくれると、支払額が減って助かるからでした。この壁も1989年の11月に、あっけなく取り壊されたのは、ご存知の通りです。
2019.08.13
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クロニクル ウォーターゲート事件発覚1972(昭和47)年6月17日47年前のこの日、ワシントンの民主党全国委員会本部に、盗聴器を仕掛けようと侵入した5人の人物が逮捕されました。 現職大統領の犯罪として、ニクソン大統領の辞任に繋がった、世に名高いウォーターゲート事件は、この比較的些細な事件がきっかけとなって、世界を揺るがせた大事件へと広がっていきました。あの当時、米国のマスコミ、輝いていましたね。
2019.06.17
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クロニクル 南ヴェトナムで抗議の焼身自殺1963(昭和48)年6月11日63年は東京オリンピックの前年でした。56年前の今日、衝撃的な写真が世界を巡りました。そうです。敬虔な仏教徒の多い南ヴェトナムで、多くの仏教徒の尊敬を集めていた老齢の高僧、クワン・ドゥック師が、政府の仏教徒弾圧に抗議して焼身自殺を遂げたのです。 抗議の焼身自殺は、事前にマスコミ等に報じられており、官憲の妨害を避ける意味もあって、仏教寺院の僧侶から一般の市民まで、6千人を越える人々が、老僧のクワン・ドゥック師を守って、大きな円を描いて、ドゥック師と共に念仏を唱えながら、焼身自殺の1部始終を見守ったのです。それは異様な光景でした。ドゥック師は袈裟姿で、静かに路上に座ると、手ずからガソリンをかぶって、火をつけ、正座のまま、手を合わせて、祈りを捧げながら、自ら命を断ちました。このニュースは外国通信社や特派員の手によって、ただちに世界各地に打電され、日本の夕刊各紙には、手を合わせた姿のまま、黒焦げになって横たわった老師と、涙ながらに見送る群衆の写真が、掲載されました。それは、何よりも、1954年のフランスとヴェトナムとのジュネーヴ協定の約束を無視して、米国の支えを頼りに、一方的に居座りを決め込む南ヴェトナムのゴ・ジン・ジエム政権の強権体質への打撃となりました。ジエム政権では、解放戦線に勝てないと考えた軍部は、同年秋にドン・バン・ミン将軍を担いでジエム政権へのクーデタを敢行、頼みの米国にも見放されたジエム政権は、あっけなく倒れました。高僧の抗議の焼身自殺と、その衝撃的な映像は、世界の世論を動かし、歴史の歯車を回したのでした。
2019.06.11
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クロニクル ウィーン議定書締結1815(文化12)年6月9日204年前の話です。その1年前、1814年にナポレオンの退位と地中海のエルバ島への隠棲を受けて開始された、ナポレオン後のヨーロッパの体制を定めるためのウィーン会議は、喧々諤々の各国の主張が入り乱れて、何事も決まらないマラソン会議となりました。その有様は、会議の主催国オーストリア宰相メッテルニヒをして、「会議は踊る、されど決まらず」と言わしめたと伝えられ、名作映画『会議は踊る』を生み出したことは、ご存知の方も多いと存じます。この何も決まらなかった会議が、急に動き出したのは、この年3月ナポレオンがエルバ島を脱出、フランスに戻って、瞬く間に皇帝の座を回復してしまったからでした。ここに会議は急進展し、ナポレオンとの決戦が迫る中、この日遂に合意に達し、ウィーン議定書が締結されたのです。そこでは、フランスは革命前の所領を保証され、オーストリアはベルギーをオランダに譲る替わりに、北イタリアのロンバルディア平原(中心地ミラノ)とヴェネツィア共和国などを獲得、イギリスはオランダからケープ植民地を獲得すると共に地中海のマルタ島を得るなど、海洋帝国の地歩を固めました。 議定書の締結から10日後、ベルギーのワーテルローで行なわれた、両軍の会戦は連合軍の勝利に終り、ここにウィーン体制と呼ばれる時代の幕が上がりました。
2019.06.09
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クロニクル スペインで半島戦争始まる1808年5月2日 日本では江戸後期、松平定信の寛政の改革と水野忠邦による天保の改革の中間の時期に当たります。今から211年前のことです。1808年2月、ナポレオンはスペインに兵を進め、バルセロナを占領します。さらにスペイン王家の内紛をついて王家を追放、自らの兄ジョゼフを王位につけました。この状況にマドリードの市民が決起し、ナポレオン軍に対する叛乱に立ち上がったのが、今日即ち5月2日でした。ここに反ナポレオンのスペインゲリラの戦い、半島戦争が始まりました。ところで5月2日の叛乱はミュラ将軍に鎮圧され、捕虜となった1500名の市民は、翌日にかけて銃殺されました。ゴヤの名画、「1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での虐殺」は、この出来事に対するゴヤの静かな怒りが書かせたものとして知られています。マドリードの蜂起は鎮圧されましたが、山岳地帯に逃げ込んでゲリラ化した市民たちは、反ナポレオンの戦いを続け、ナポレオン軍を悩ませ続けます。大軍の機動的な移動によって、敵の主力との会戦に持ち込むことを得意としたナポレオン戦術は、大軍を動員できない山岳地帯でのゲリラ戦に戸惑い、長くゲリラとの戦いに足止めされ、それがロシアのナポレオンからの離反を招き、遂にはナポレオン失脚につながってゆくのです。スペインは、まさにナポレオンにとってのアキレス腱となったのです。
2019.05.02
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クロニクル リンカン狙撃さる1865(慶応元)年4月14日 彼の死から今年は154年になります。米国を2分した南北戦争の終了から間もない頃でした。日本では幕末の動乱いよいよ激しく、志士たちの活躍も目立ってきた頃です。 大統領2期目に入り、いよいよこれからという時期、ワシントンのフォード劇場を観劇のために訪れたリンカンは、劇場内で狙撃され、重傷を負いました。すぐに病院に運ばれたのですが、翌15日未明に息を引き取りました。もう少し、彼の2期目の施策を見たかったですね。それにしてもアメリカは民主主義国家という割りには、困ったことに暗殺による死者が、多いです。 銃所持の自由がもたらす負の面ですね。
2019.04.14
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クロニクル ソ連軍ウィーン占領1945(昭20)年4月13日74年前の、第2次政世界大戦の一齣です。この日ソヴィエト赤軍はオーストリアの首都ウィーンを占領しました。ドイツの命運は、ここに尽きることになりました。ソ連軍のオーストリアへの侵攻は、4月2日~3日にかけて始まりました。それからわずか10日で、首都ウィーンは陥落、ドイツ軍はオーストリアを放棄して、本国へと敗走しました。
2019.04.13
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クロニクル ドイツ国会議事堂,放火により全焼1933(昭和8)年2月27日 今から86年前の事件です。1929年の10月に、アメリカに発した世界恐慌の発生から3年4ヶ月、この年、1月にはドイツにヒトラー政権が誕生したばかりの時でした。 首相になったヒトラーは、政権基盤を固めようと、すぐに議会の解散に打って出、3月5日を投票日に選挙戦の最中でした。そんなこの日、午後9時30分頃、ドイツ国会議事堂が放火によって全焼したのです。放火犯として、附近にいたルッペという少々気のふれたオランダ人青年が逮捕されたのですが、事件の背後関係や真相は、今日まで明らかになっていません。 分っていることは、選挙戦の最中にあったヒトラーとナチスが、政権政党の特権を生かして、この放火事件を、政敵の弾圧に、徹底的に利用したということです。ヒトラーは、事件の報を聞くと、ただちに「事件は共産党の組織的な犯行である」との談話を発表、共産党勢力を一網打尽にひっ捕らえて、同党に壊滅的な打撃を与えたのです。社会民主党もまた、無傷では済みませんでした。
2019.02.27
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クロニクル ディアス喜望峰に到達1488年2月3日531年前になるのですね。アフリカ西海岸を、南へ南へと進み、黄金や象牙の売買と黒人の人身売買(奴隷貿易)で、巨利を得ていたポルトガル王国の探検隊が、バルトロメウ・ディアス提督の指揮の下で、この日、ついにアフリカ大陸の最南端に到達、その地を喜望峰と名付けました。 日本では、この年加賀の一向一揆勢が富樫氏を破って統治権を握っています。以後1580年までの100年近く、一向宗門徒の国人たちの支配する門徒の国が続くのですが、その誕生とポルトガル人の喜望峰到達は、同年のことでした。コロンブス一行のカリブ海到達は、この4年後の1492年。バスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到達するのは、10年後の1498年のことでした。ディアスの航海が、大航海時代の本格的幕開けを告げたのです。
2019.02.03
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クロニクル スターリングラードの戦い終了1943(昭和18)年2月2日 第二次世界大戦の一齣です。ソヴィエト赤軍がドイツ軍の怒涛の進撃を食い止め、ヒトラーの不敗神話を打ち破り、第二次世界大戦の大きな転換点となったとされる、スターリングラードの戦いが、76年前のこの日終了しました。スターリングラード(現在はボルゴグラード)は、ヴォルガ河の西岸に広がる工業都市で、当時はソ連の重要な軍需工業の生産拠点でもありました。この都市への攻撃を、ドイツ軍は1942年6月28日から開始し、数日間に及ぶ激しい空爆で、都市のほとんどを廃墟としたのですが、その瓦礫の山が、逆にソ連兵に絶好の狙撃地点を提供してしまったのは皮肉でした。ドイツ軍の攻勢に耐えたソ連軍は、11月に入ると逆に攻勢に出、増援部隊を加えてドイツ軍を包囲、この日遂にドイツ軍の最後の部隊が降伏して、戦いはドイツ軍の完敗に終ったのでした。ここに戦局は完全に転換しました。
2019.02.02
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クロニクル インディラ・ガンディー首相誕生1966(昭和41)年1月19日インディラ・ガンディーは、独立インドの初代首相、ジャワ・ハルラル・ネルーの娘です。ネルー首相は、日本の平和憲法を高く評価し、日本が非同盟主義をとることを望んでいました。それは適わぬ夢に終ったのですが、日本の子ども達の像を見たいという希望を受け入れ、日・印平和条約の締結後に、上野動物園に、アジア像というビッグなプレゼントを贈ってくれました。このアジア像はネルー首相の最愛の令嬢の名をとり、「インディラ」と名付けられたことは、ご存知の方も多いと思います。さて、1964年5月末、東京五輪の4ヶ月半前、ネルー首相は急死します。後任首相も2年後に急死し、ここにインド国民会議派は、ネルーの血を引くインディラ・ガンディーを首相に推したのです。こうして、53年前の今日、インディラ・ガンディー女史は、第3代のインド首相の座に就いたのです。ネルーの著書、邦訳名『父が子に語る世界歴史』(みすず書房刊 全6巻)は、ネルーが獄中から、当時10代の娘インディラに、世界の歴史を語ったものです。
2019.01.19
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クロニクル ドイツ帝国誕生1871(明治4)年1月18日148年前のことになります。日本ではこの年廃藩置県が断行されています。そんな年のことでした。前年の晩夏に始まった普仏戦争(プロイセン<普>とフランス<仏>の戦争)に勝利したプロイセン宰相ビスマルクは、この日占領中のヴェルサイユ宮殿鏡の間にて、プロイセン王ウィルヘルム1世の、ドイツ皇帝への戴冠式を行い、併せてドイツ帝国の誕生を宣言しました。 明治維新に遅れること3年、ここにようやく統一ドイツが誕生し、1861年登場の統一イタリア、68年に誕生した日本の明治政府と合わせ、後の第二次世界大戦でトリオを組む3カ国が、後進資本主義国としての歩みを、ほぼ同じ時期に始めることになりました。
2019.01.18
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クロニクル 張学良、蒋介石を軟禁1936(昭和11)年12月12日82年前のことです。時に満州事変の5年後、日中戦争が始まっておよそ半年が経過した頃です。この日、シーアン(西安)を訪れた中国国民政府の蒋介石は、東北軍指導者張学良によって逮捕軟禁され、共産党との内戦を停止し、抗日統一戦線を結成することを求められました。世に言う西安事件です。 当時の中国では、満州事変後も続く日本の侵略に対し、国民党軍と共産党軍が一致して抗日戦争を戦うべきだという世論が高まっていたのですが、蒋介石は頑として共産軍の弾圧を優先して、抗日戦争は後回しとする姿勢をかえようとしなかったのです。 張学良は、蒋介石のこの姿勢を改めさせようと強硬手段に出たのです。逮捕、軟禁した蒋介石に対し、彼は、内戦の停止、愛国的指導者の即時釈放、救国会議の召集などを訴えました。 張学良の実力行使を知った共産党の周恩来が仲介に立ち、最初は頑なだった蒋介石も、張の要求が全国民的基盤に立っていることを認めたため、和議が成立、25日にようやく釈放されるに至りました。やがて国民党と国民政府は、国共内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成を確認、翌年2月第2次国共合作が成立するに至ります。 日本の理不尽な侵略行為がなされなかったとしたら、当時劣勢だった共産党軍は、国民党軍との戦いに敗れ、蒋介石による中国統一が実現していたと私は考えています。隣国中国における共産党政権の誕生は、日本の中国侵略が齎した側面ももっているのです。 日本では、こうした観点からの議論、反省が少な過ぎるような気がしてなりません。ところで、西安事件後の張学良は、どうなったでしょう。日中戦争期~その後にかけて、張学良のその後については、何の情報もなく、日本では処刑されたのだろうと、誰もが受け止めていたのですが、1981年に台湾のマスコミのインタビュー記事が世界に発信され、張学良がなお生きていたことが、驚きをもって迎えられました。 西安事件後、長く国民党政府によって軟禁状態に置かれ、国共内戦に敗れた国民党政府が、台湾に逃れた時も、一緒に台湾につれて行かれ、当地でも軟禁が続いたのですが、1975年の蒋介石の死去後、次第に台湾における民主化が浸透するに連れ、軟禁状態は緩められ、80年代と共に、マスコミの前に姿をあらわすようになりました。90年には、NHKテレビに出演し、元気な姿を我々も目にすることが出来ました。1991年にはアメリカ合衆国のハワイ州のホノルル市に移住、2001年ホノルルにて、100歳の大往生を遂げました
2018.12.12
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クロニクル ドイツで革命1918(対象7)年11月9日ちょうど100年前です。この日ドイツで革命が起き、カイザー(皇帝)ウィルヘルム2世は退位してオランダに亡命、社会民主党右派のエーベルトを首班とする政府が誕生しました。このドイツ革命政府が、無条件で連合国に休戦を申し出、受理されたため、この日を持って、第1次世界大戦は終ったとされます。
2018.11.09
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クロニクル ロシアでボリシェヴィキ革命1917(大正6)年11月7日101年前のことになります。第一次世界大戦中の出来事ですが、この年2度目の革命が、この日ロシアで成功裡に行なわれました。レーニンの指導するボリシェヴィキ党(後ロシア共産党に改名)を中核とする、世界で最初の社会主義革命が、旧権力の打倒と権力の奪取に成功したのです。これがいわゆるロシア十月革命です。十一月なのに、なぜ十月革命なのか。それは、当時のロシアがロシア暦を使っていたからです。この日はロシア暦では、10月25日に当たり、このロシア暦に「13を加える」と、西暦になるのです。ロシア十月革命=社会主義革命は、労働者、兵士、農民の要求を叶えてくれない臨時政府を見限った国内各層の支持を背景として、成就したものでした。
2018.11.07
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クロニクル ケネディvsニクソンのTV討論1960(昭和35)年9月26日 米国の大統領選、候補者同士のテレビ討論が、選挙戦の華のひとつです。この最初が58年前の今日、共和・民主両党の候補によるTVでの公開討論会として、初めて実施されました。 共和党の候補は、アイゼンハワー大統領の下で副大統領を務めて頭角を現したニクソン候補。民主党の候補は、弱冠43歳のケネディ候補でした。討論では、当時無名だったケネディ候補が優勢で、ニクソン候補は押されっぱなしでした。こうして、史上稀に見る大激戦を、ケネディ候補が制することになったのです。 敗れたニクソン候補は8年後、68年の大統領選に再び共和党の候補となり、民主党のハンフリー候補を僅差でやぶって、念願の大統領に就任、ヴェトナム戦争から撤退して支持を集め、2期目も勝利したのですが、ご存知ウォーターゲート事件への関与が明るみに出て、任期半ばでの辞職に追い込まれました。
2018.09.26
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クロニクル マゼラン出航1519年9月20日499年前になります。日本は戦国時代前期の混乱期にありました。そんな時代でしたが、遠くユーラシア大陸の西の果てでは、コロンブスやガマの航海の成功から、大西洋を往来したり、アフリカ南岸経由でのインド交易などが、冒険野郎達の血を滾らせていました。そうした中でこの日、世界一周航海でお馴染みのマゼランの一行が5艘の船団を組んで、265人の仲間と共にスペインの港を出発しました。インド貿易でポルトガルに名を成さしめたスペイン王家に対し、ポルトガル人のマザランは、大西洋経由で、噂の高い香料諸島に向かうという、野心的な計画を提出。ようやくその実現にこぎつけたのでした。 一行は南アメリカ大陸を南下し、マゼラン海峡を通過して困難な旅を続けました。マゼランにとっての誤算は、大西洋の数倍に及ぶ太平洋の広さの知識がなく、旅の途中で壊血病により、多くの仲間を失ったことでした。ナゼラン自身も、フィリピンのセブ島で、原住民との戦いに敗れ、戦死しています。 隊長のマゼランをも失った一行は、なおも航海を続け、旗艦のヴィクトリア号1艘だけとなったのですが、1522年の9月8日にセビリャの港に帰還したのです。265人の乗員のなかで、生きてスペインの土を踏んだのは、僅か18名だけという、犠牲の多い旅でしたが、確かに世界一周の航海でした。
2018.09.20
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クロニクル ピルニッツ宣言発表1791(寛政3)年8月27日日本は松平定信の寛政の改革の時期ですね。227年前のことです。この日、オーストリア皇帝レオポルド2世と、プロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム2世がピルニッツ宣言を発表、フランスの革命政府に圧力をかけ、「革命政府がヴァレンヌで捉えた、フランス王ルイ16世一家に対する対応によっては、武力介入を辞さない」と、表明しました。その結果、革命政府は、紆余曲折を経て、翌年4月20日、オーストリアに宣戦を布告、ナポレオン1世の敗北まで続く、15年の戦争の時代につながりました。
2018.08.27
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クロニクル マクドナルド挙国一致内閣成立1931(昭和6)年8月25日1929年10月、米国ウォール街での株価暴落に端を発した世界恐慌は、1933年にかけ、日を追うように深刻さを増していったのですが、この年1931年の5月には、オーストリアの中央銀行、クレディート・アンシュタルトが倒産、世界金融恐慌の様相が深まってきていました。 特に、ドイツの受けた打撃は大きく、7月には大手銀行の1行、ダナト銀行が倒産、取引のあった、イギリスの金融機関も大きな打撃を受けました。その結果、イギリス経済も大きな打撃を受け、第一次世界大戦中と同じような挙国一致体制構築の必要性が、意識されるようになりました。 当事イギリスは、労働党のマクドナルドが、単独政権を率いていましたが、8月24日、マクドナルドは内閣総辞職を断行、翌日のこの日、保守党、自由党との三党連立による挙国一致内閣を成立させたのです。この挙国一致内閣の成果は、9月に現れ、ポンドの価値低下に悩まされたいたイギリスは、金本位制の停止に踏み切ったのです。これで、恐慌から脱出できたわけではありませんが、単独政権では実施できなかったであろう思い切った政策を、短期間に実施することが出来たのは、まさに挙国一致内閣の成果でした。 87年前の出来事です。それにしても、ユーロとなると、1国で挙国一致内閣が出来たとしても、加盟国全体でユーロ圏一致とはいかないだけに、まだまだ世界経済の波乱要因として、負の影響をまき散らすす可能性を持っていますね。気になるところです。
2018.08.25
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クロニクル ハワイ、州に昇格1959(昭和34)年8月21日59年前のこの日、ハワイ準州が、アメリカ合衆国の州に昇格しました。こうして、合衆国の50番目の州が誕生しました。以来59年間新しい州の誕生はありません。51番目の州の誕生はあるのでしょうか?
2018.08.21
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クロニクル バスティーユ襲撃1789(寛政元)年7月14日 今日はパリ祭ですね。229年前の今日、フランスはパリの民衆が、バスティーユ監獄を襲撃した有名な事件が起きました。良くここからフランス革命が始まったとされることもありますが、革命初期のハイライトだったと理解する方が正確なように思います。 四つの搭に大砲を備え、堀に囲まれた堅牢な要塞だったバスティーユが、民衆の襲撃であえなく陥落したことが、革命の第1段階における革命派の勝利を決定づけたことは間違いありません。だからこそ、革命派は翌1790年のこの日に大々的に連盟祭(これがパリ祭の原型です)を行ない、この日を革命の記念日としたのです。しかし、パリの民衆はこの日朝からバスティーユに集結したわけではありません。民衆は先ずアンヴァリッド(廃兵院と訳されます。現在はここにナポレオンの遺骸が安置されています)を襲い、目的が半分しか達成できなかったために、襲撃し難いバスティーユに向かう事になったのです。そのため、バスティーユに到着するのは、昼近かったと記されています。 民衆の目的は、自ら武装することで、国王に反旗を翻した議員たちが結集する「国民議会」を守ることでした。そのために、この日アンヴァリッドを襲ったのです。ここには確かに大量の小銃や何門かの大砲がありました。しかし、弾丸は、ごく少量しかなかったのです。 弾丸はバスティーユにある。そう聞いた民衆は、時の勢いでバスティーユに向かったのです。その結果は、皆さんご存じの通りです。
2018.07.14
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クロニクル 米国18歳以上に選挙権1971(昭和46)年7月5日日本も2年前の2016年から、18歳選挙権に移行したのですが、アメリカ合衆国では、日本よりも45年も早く、今日から47年も前の1971年に、選挙権が付与される年齢を21歳から18歳に引き下げるアメリカ合衆国憲法修正第26条が発効、18歳選挙権が 認められました。
2018.07.05
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クロニクル 五月革命始まる1968(昭和43)年5月13日半世紀も前になるのですね。50年前のこの日、パリ大学のナンテール分校の学生を中核とした、パリの学生と労働者がゼネストを決行しました。きっかけは、3月22日に、ナンテール分校で学内の待遇改善を要求する学生のグループが、大学当局の禁止令を無視して集会を決行、大学側が導入した警官隊と衝突して、流血の惨事が引き起こされたことにありました。この事件に反発した学生たちは、5月2日に至って校舎を占拠し、これに対抗した大学側は、翌3日に大学を封鎖する挙に出たからたまりません。 伝統的にフランスの学生は、反権威、反権力の色彩が濃く、労働運動とも近しい関係にありましたから、ナンテール分校当局の警官隊を導入しての学生の排除は、呆れるほどの愚行でした。 問題の根は、当時フランス病とも言われたフランス経済の不振を、高等教育を受けた質の高い労働力の不足にあると考えたドゴール政権が、大学拡充政策を取り、学生数の急拡大に踏みきったことにありました。パリ大学のナンテール分校も、この一環として新設されたものでした。この学生数の急増に、施設の整備が追いつかず、施設面での学生の待遇が極端に悪化していたのです。 学生たちはこの点と、ドゴール政権による集権化の動き、社会的な管理強化の進行にも関わらず、いっこうに改善しない経済不振などに不満を募らせ、異議申立てに立ちあがったというのが真相でした。こうした学生によるノンの動きに、彼等の行動の背景を分析することもせず、施設面の待遇の悪化の改善策の説明もせず、警察の力まで借りて抑えこもうとした大学当局の姿勢は、完全に裏目に出ました。 抗議の声は、パリ大学の本拠ソルボンヌに波及、同じく経済不振に悩まされている労働階級にも広がり、この日のゼネストとなったのです。この動きは、ほぼ1週間程で、全フランスに波及し、およそ1年近くに及ぶ、ロングランの運動となって、ドゴール政権の屋台骨を揺さぶり、翌年4月、遂に権勢を誇ったドゴール大統領を辞任に追い込むことに成功するに至ります。こうしてこの運動は五月革命と呼ばれることになりました。 五月革命で特筆されることは、この革命の結果として、当時のフランス社会において、最も大きく変化したことが、女性の社会進出を可能とする諸改革が一挙に実現した事でした。五月革命は、女性の社会進出を大いに促進する役割を果たしたのです。 同じ時期、日本では東大と日大の学生闘争が次第に広がりつつあった時であり、日本とフランスの怒れる学生たちの運動が脚光を浴び、駿河台はソルボンヌ地区をもじって、日本のカルティエ・ラタンと呼ばれたことは記憶に新しいですね。
2018.05.13
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クロニクル ルイ16世即位1774(安永3)年5月10日フランス王ルイ15世は、この日天然痘によって崩御しました。当時のフランスの慣例に従い、20歳の皇太子ルイが、ただちに新王ルイ16世として、この日のうちに即位しました。日本では田沼時代と言われる田沼意次の全盛期に当たります。このルイ16世は、およそ19年後の1793年1月、フランス革命の激化の中で処刑されたことは、ご存知の通りです。
2018.05.09
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第1回万国博覧会をめぐって その7最後に、当時の新聞『デイリー・ニュース』が報じた。1人の男性の万国博見物の様子を記すことにします。この男性を、仮にトーマスと呼ぶことにしましょう。デイリー・ニュースは、こんな風に書き始めます。「トーマスは、7月22日の夜ハダスフィールド(ヨークシャーのウエスト・ライディングに含まれる工業都市です)をロンドンに向けて出発した。」 「トーマスが乗るのは、勿論3等車で、駅頭で往復運賃5シリングを払って切符を買うと、財布には僅かに1シリングしか残っていなかったようである。彼は弁当の替わりに、ポケットに数切れのサンドウィッチをねじ込んでいた。水晶宮で博覧会の入場料1シリングを支払い、入場券を手に入れたトーマスは文無し状態となった。」 記事はさらに続きます。「見物中に、博覧会場の中で、トーマスは持参のサンドウィッチを食べ、飲み物は会場内の水飲み場で、水を飲んで済ませた。」 「見物を終えたトーマスは、その夜の夜行列車に乗ってハダスフィールドに帰り、そのまま仕事場に直行した。家を出てから、40時間という長い時間、トーマスは汽車賃と入場料以外には、何も買わず、不眠不休、殆ど飲み食いもしていないのだから、呆れた男が居たものだ。」トーマスのような男性は、大勢いたに違いないのです。そこには、どんなに無理をしてでも、万博見物を実現したいという、庶民の渇望が浮かんでいます。不眠不休の40時間の後に、昂揚した気分のままに、すぐに仕事に就くことも平気だったのです。これが、庶民にとって万国博だったのです。 完明日からクロニクルに戻ります。
2018.05.08
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