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クロニクル ルール占領1923(大正12)年1月11日関東大震災の年の」1月です。来年で100年ですか、99年前の出来事です。第一次世界大戦が終了し、ヴェルサイユ条約が締結されてから4年。ドイツの賠償金支払いが遅々として進まないことに立腹した、フランスがベルギーを誘って、この日ルール地方を軍事占領しました。ルール地方は石炭と鉄鉱石の産地であり、ドイツにとって大事な工業地帯でもあります。占領地の住民は、戦勝国に軍事的に対抗できないことから、非暴力のゼネストで応え、フランス・ベルギー両国(第一次大戦の戦地となり、最も大きな被害を受けたのが、ベルギーと北フランスだったのです)は、占領することで期待した利益を得ることは出来なかったのです。しかし、このゼネストでドイツ経済は完全に破綻するに至り、この年11月にピークを迎える天文学的な数字となる超巨大な悪性インフレに突入していくことになりました。日本がアジア・太平洋戦争に敗北した結果の悪性インフレもお馴染みですが、ドイツの悪性インフレは、日本のそれの比ではない、もの凄ーいものでした。
2022.01.11
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クロニクル メートル法実施1959(昭和34)年1月1日皆さん、明けましておめでとうございます。関東はこの冬一番の寒さでしたが、良く晴れた元日になりました。どうぞ本年もよろしくお付き合いください。 63年前ですね。この年の4月10日が皇太子(現上皇)ご成婚の日。戦後14年目のことでした。この日まで、日本国内では尺貫法が使用されていました。大相撲のラジオ中継では「6尺豊かな大男」など、夏の氷売りは「1貫目でいくら」と、子ども達の悪口では「ヤーイヤーイ百貫デブ!」などと言われ、当時耳慣れた言葉でした。量り売りの商品の単位は100匁でした。1貫=3,75キログラム。1寸は3,3cmで、1尺は33センチ。今では逆になりましたが、当時は、「えぇっと、100グラムなんて書かれても、これって何匁かなと、忙しく頭をめぐらしたものでした。その結果、1貫目は3,75kgではややこしいので、これは4kgにしましょう。だから1貫目の10分の1の100匁は400gでいこうと、こういう形で生活の知恵を働かして、次第にメートル法は定着していきました。メートル法の発祥の地は、フランスです。フランスの革命政府が発議して案を練り、ナポレオン1世が実施に移したものです。このフランス発の度量衡システムが、ナポレオンのヨーロッパ支配の拡大に伴って全欧に広まり、やがて世界的に広まったのです。
2022.01.01
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クロニクル 第一回先進国首脳会議(ランブイエサミット)始まる1975(昭和50)年11月15日あの日から46年になるのですね。46年前のこの日、フランスのパリ近郊の古城、ランブイエにおいて、米・西独・日・英・仏・伊6ヶ国の首脳による、先進国首脳会議(サミット)が始まりました。首脳同士が泊り込んで胸襟を開いて語り合うことで、現下の関心事に共通の理解・認識を持とうという主旨で始まったのですが、この試みの背景には、73年のオイルショックに端を発した戦後初めての資本主義世界の同時不況がありました。オイルショックまでは、当初は米・英・仏のどこかが不況に陥っても、どこかが好景気で助けることができたのです。そのうちには西ドイツが、さらに遅れて日本がこの隊列に加わり、暗黙裡に助け合う態勢が出来ていたのです。それが不可能な世界同時不況。お互いが勝手に自国優先で他国を顧みずに、手前勝手な行動に出れば、需給のバランスを崩してしまい、いたずらに世界同時不況を長引かせることに繋がって、最悪の結果に行き着くことになります。それを回避するには、経済先進国が一致団結して、不況を乗り切るしかありません。そのため、イタリアというお邪魔虫も入りましたが、ともかく首脳同士が互いにツーカーの間柄にならねばならない。こんな危機意識が共有されたことで、サミットはスタートしました。スタグフレーション(不況下の物価高)に苦しむ先進経済諸国が、相互に勝手な行動に走るのではなく、互いに協調しながら不況克服という統一目標に邁進することを申し合わせることに、大目標があったのです。3日間にわたって、6ヶ国の首脳を缶詰にしたこの会議は、15項目に及ぶ合意事項をランブイエ宣言として発表、成果をアピールしたのです。 ところで、この会議は当初イタリアを除く5ヶ国の会議として計画されたのですが、途中で計画を察知した同国の猛烈なアピールでイタリアの参加が実現したのです。それならGNPの規模からいってカナダも有資格ではないかと、翌76年からは、アメリカの後押しでカナダの参加も認められて、参加国は7ヶ国になったのです。さらに77年からは、EUも参加することになりました。サミットは当初は、経済問題を首脳だけで討議する場だったのですが、経済の立ち直りと共に、次第に政治問題のウェートが高まり、官僚たちによる事前会議も周到に行われるようになって、次第に現在のような大掛りな政治ショーに堕していったのです。現在のサミット、当初の目的とは、かけ離れてしまっていますね。
2021.11.15
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クロニクル ワールドコム粉飾決算発覚2002(平成14)年7月21日19年前のこの日。全米第2位の通信会社ワールドコムが、粉飾決算の発覚で破産しました。負債総額410億ドルは、当時の全米史上最大級の破産でした。粉飾決算に伴う破産は、前年12月のエネルギー大手エンロンに続いて2例目でした。そして手口も同じような粉飾でした。利益を過大に見せて株価を吊り上げ、高株価を利用して株式交換で買収を行ない、規模の利益を追求する。そのためには粉飾も辞さないという手口は、どこかの誰かさんにも共通していた気がしますが、この手口の発覚が株式市場と経済界に与えた衝撃は大きく、監査方式の見直しも進められていくことになりました。日本でもそうでしたが、この時期は米国でもITバブルが弾けた後だったために、経済不振で大きく傷ついた企業業績を覆い隠すために、粉飾という禁じ手に手を染めたということなのでしょうか。企業の社会的責任を自覚しない、或いは自覚できない経営者を見抜くというのは、とても難しいことですね。そんなことを考えさせられた事件でした。それにしても昨今の日本では、巨大企業の粉飾決算は、マスコミまで巻き込んで見逃されるようですね。「不適切な会計処理」とか、「不適切な決算」という言葉で…。 規模の大きな会社ほど、見過ごしてもらえるように見えますね。 あんなことをしていては、日本の証券行政や証券取引所は、世界の信用を失って、やがて身動きとれなくなるのではと、心配しています。
2021.07.21
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これからの米国政治(11) 続・難題は経済外交も… バイデンさん、自宅でワンコを遊ばせていて、躓いてしまい、脚を骨折してしまったようですね。トランプ氏が見舞いのメールを送ったと、自らツイートしてましたね。彼の一番の不安材料は、噂されていた通り健康問題になるのでしょうね。少々不安です。ホワイトハウスの報道担当の7人、全て女性が指名されましたね。閣僚も相当部分が女性で占められそうで、しかも人種構成も多彩なようですから、かなり話題になりそうです。スタッフに相当の知恵者がいるようです。昨日米国のTPP参加は、超すべき障害が多く当面難しいことを指摘しました。米国の身ならず南北アメリカ大陸の参加がないRCEPはどうなのでしょう。参加国はASEAN10か国(マレーシア、タイ、フィリピン、インドネシア、シンガポール、ブルネイ、カンボジア、ラオス、ヴェトナム、ミャンマー)+3(日中韓)+豪・NZ/インドの計16か国で交渉され、インドが抜けて15か国参加の巨大自由貿易圏が出来上がったことになります。この15か国で世界人口の30%を占め、GDPも同じく世界の3割を占めます。交渉の過程を振り返ってみますと、まずはASEANに接近したい中国が、中間とASEANのFTAを結んだらと、持ち掛けたのがきっかけで、それでは中国の色が強すぎるからと、今度はASEANの側が、日本も加えた13か国なら交渉に値すると、日本の参加を強く求めたのです。日本政府も渡りに船と子の誘いに乗り、中国もASEAN市場の解放が狙いでしたから、これに応じ、13か国の交渉となったのです。そこに日本のアドヴァイスに納得したASEANが、豪州・NZ(ニュージーランド)にインドにも声をかけて参加を要請、3国も参加を快諾して、16か国で交渉が続けられたのです。2005年に始まった交渉の主役はASEANで、次に熱心だったのが中国でしたが、日本にとっても悪くないどころか、非常にありがたいFTAでした。豪州やNZとは、共にTPPの加盟国です。ASEANとも既に深い付き合いがあります。日本にとって有難いのは、RCEPが日中韓のFTAの役割をしてくれることになります。中国も韓国も大事な貿易相手なのですが、日韓FTAは、90年代から交渉しているのですが、ちっとも先へ進まず、いつ妥結するのか見通せない状況にあります。そして日中は互いに重要な貿易パートナーであることは、十分理解しているのですが、互いに内政上の理由で二国間のFTAには、及び腰でした。従ってRCEPによって、多国間貿易協定という形が出来たことは、共に大いに助かることだったのです。ただ、中韓の間では、中韓FTAは既に存在していますから、メリットは日本との関係に限られるのです。ですから、RCEPの最大の受益者は日本なのです。この場を利用して、膠着状態にある中・韓との政治的閉塞状況を、焦らずゆっくり解きほぐしてゆけば、バイデン政権にとっても、追い風となるでしょう。
2020.11.30
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これからの米国政治(10)難題は経済外交も…バイデン外交は、パリ協定への復帰だとか、イラン核合意からの離脱を取り消しての復帰などは、実行に移されそうです(ただ、核合意への復帰は、それだけは阻止したいイスラエルとサウジの形振り構わぬ、イラン攻撃で、前途が危ぶまれつつありますが)ですが、TPPへの復帰だとか、拡大RCEPへの参加といった、経済協定への復帰や参加は、難しいように思えます。TPPもRCEPも、大型のFTAなのですが、質を重視したTPPとともかく量を重視して、アジア圏と大洋州を網羅したRCEPの違いがあるだけで、大型の関税協定、経済圏の構築と言って良いものです。そして、今月に入ってのいくつかの国際会議を見ると、11月14日にヴェトナムで開かれた東アジアサミットでは、RCEPが妥結し、その場で調印されました。加盟国はASEAN10か国+日中韓3国+豪、NZの15か国。世界最大の自由貿易圏が誕生をみました。20日にマレーシアで開かれたAPEC首脳会議では、習中国国家主席は、TPPへの参加意欲を表明しました。続く21~22日にサウジで開かれたG20閣僚会議でも、習主席はコロナワクチンなどの提供などをぶち上げ存在感を示しました。この間、大統領選の敗北対策に頭を悩ませていたトランプは、出席しても何ら具体的な提案もせず、まったく存在感を示しませんでした。アメリカの政治空白を突いて、中国が存在感を示した1か月でした。今後2ヶ月もこの状態が続くとすると、バイデン政権が遅れを回復するのはかなり大変です。まず、TPPの問題ですが、中国の参加は、意欲はあっても当面は無理ですから、実現可能性はほとんどゼロです。何故かというと、TPPは、しっかりした質を備えたFTAとなっており、「国有企業への例外的な扱いは禁止する」旨が定められており、これは今の中国にとってとてものことに飲めない内容だからです。では、トランプ政権が不参加を決め込んだアメリカは戻ってこれるのかというと、これも難しいように思えます。今回選挙でのバイデン勝利は、ラストベルト地域のブルーカラー層のトランプ支持を一部切り崩すことに成功したからこそ、こうした地域で僅差の勝利を積み重ねることが出来たからです。ということは、この層の支持を失うことに繋がる経済政策を打てば、4年後の選挙での敗北が視野に入ります。迂闊にTPPへの復帰だとか(アメリカは後からの参加になりますから、関税問題などで、条件を付けることは許されず、いまある規約を丸呑みしない限り、加盟できないのです。それだけ後からの参加は辛いのです)、対中制裁関税の廃止を考えるなどと言い出せば、ブルーカラー層が離れてしまうことは眼に見えています。つまり、アメリカの国際的なFTAへの復帰は、当分実現を見ないように見えます。それはそっくりアメリカの世界経済に対する発言権の後退を意味します。バイデン政権、グローバル経済へのかかわりをどうするか、悩ましいところです。 続く
2020.11.29
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クロニクル イギリス金本位制を離脱1931(昭和6)年9月21日アメリカウォール街の株価大暴落がきっかけとされる世界恐慌は、今とは比較にならない程小さな規模でしたが、それでも当事の世界経済をボディブローでいたぶるかのように、じわじわと締め上げ、およそ2年後の31年秋には、ソ連を除く(社会主義国ソ連は、世界貿易のカヤの外に置かれていたからです。何が幸いするか分からないのが、この世界ですね)全世界に波及しました。 困った日本が、満州侵略という行動を起こしてから間もないこの日、今度はイギリスが金本位制を廃止し、大英帝国支配下の自治国(カナダ・オーストラリア等)と植民地を囲い込み、排他的な経済ブロックの形成を目指しました。89年前のことです。フランスもこれに続き、やがて、世界経済の要だった金本位制は崩壊しました。ここに金という世界共通の尺度を失ったため、世界貿易は一段と縮小し、世界恐慌は出口のない泥沼の様相を示すようになりました。 今日の日米欧の超金融緩和の横並びは、果たしてどんな結果に繋がるのか、いまだ先が見通せない混迷の中にあるようです。とりわけ、事実上中央銀行による無制限引き受けの状態にあるだけに、超金融緩和の歯止めがない状態に陥っており、先行きに明るい見通しは描けないように思えます。
2020.09.21
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クロニクル タイ バーツ危機本格化1997(平成9)年7月2日23年前のことです。この日、タイの通貨バーツがドル・ペック制を止め、管理通貨制への移行を表明しました。バーツは厳密に言うと、主要国通貨との通貨バスケット方式をとっていましたが、円やマルクは申し訳程度に、バスケットに加えられていただけで、バスケットに占めるドルの比率は80%を超えていましたから、実質的にはドルペック制と呼んで良い性格を持っていました。そのため、対ドルレートで円やマルクが安くなると、ドルにペックしたバーツは、対ドル比で値下がりしないため、円やマルクに対して、実力以上に高く評価されてしまうため、輸出競争の面で著しく不利になっていたのです。 当時日本は、バブル崩壊後の経済危機の最中にあり、公定歩合は当時としては史上最低の0.5%になっていましたから、大口の資金は低迷する日本を離れ、金利の高い海外での運用を目指していたため、円は売られ、構造的な円安状況になっていました。マルクもまた、経済の論理を無視した政治的な判断で、東ドイツとの統一(実質的な併合)を果したため、東ドイツの不良債権や不良国有企業を1手に抱え、大変な経済不振に陥っていましたから、これまた金利水準は非常に低く、構造的なマルク安状態に陥っていたのです。 当然対ドルでのバーツの交換レートを切り下げ、円やマルクに対するバーツの割高感を是正する必要があったのですが、その措置が遅れている間に、バーツ切り下げ必至と見たヘッジファンドが6月下旬に入って、猛烈なバーツ売りを開始、タイ政府は1971年8月の、ニクソンショック時の日本政府よろしく、外貨準備を取り崩して、バーツの防衛に乗出しましたが、当然焼け石に水でした。こうして、270億ドルの外貨準備の内、180億ドルをバーツの買支えに投じた段階で力尽きたのです。それが、23年前のきょう発表された通貨バスケット(実質ドルペック)制を廃止し、管理通貨制に移行するとした、市場実勢に応じたバーツ切り下げ宣言だったのです。翌日からバーツは暴落しました。しかし、話はここに留まりません。バーツの暴落が連鎖的に他のアジア諸国に波及し、アジア金融危機と呼ばれる大きな経済危機に繋がっていったのです。
2020.07.02
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クロニクル 1ドル=100円を突破1994(平成6)年6月22日26年前のこの日、ニュヨークの外為市場で、史上初めて1ドルが100円を突破しました。細川・クリントン会談で、日米貿易摩擦に対する日本側の反応が鈍いことにいらだった米側が、円高ドル安を容認する姿勢を見せたことが、きっかけとなりました。この後も円高は続き、遂に翌95年に1ドル=79円台まで円高が進み、そこで天井を打って円安に転じ、やがて100円台に戻り、日本の金融危機と不良債権問題の闇が意識された2002年当時には、1ドル=140円近くまで円安が進みました。この事情は、サブプライムローンのメッキが剥げ、アメリカやヨーロッパの金融危機が深刻化するにつれて、再度逆転、1ドル=80円前後と、円高というより、ドル安ユーロ安の状況が続きましたが、黒田日銀総裁の就任と共に、異次元の金融緩和という、日銀による国債の大量購入(現在も大量の国債を、終期を定めずに買い続けています)によって、事実上の円安誘導を続け、1ドル=105円台~110円前後という、庶民泣かせの円安になっています。 私はどんなに円安にぶれても、1ドルは100円を超えないことが望ましいと考えています。他国通貨との交換比率は、基本的に国家の総合的な実力、国の信用によって決まると考えているからです。
2020.06.22
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クロニクル 英仏海峡トンネル開通1994(平成6)年5月6日 早いもので今年で26年になるのですね。この日ドーバー海峡をまたぐ、英仏海峡トンネルが開通しました。 全長50,5km、海底部38kmの長いトンネルですが、鉄道専用トンネルとして作られました。これにより、イギリスとフランス並びにフランス経由で西欧各地(とりあえずはベルギーのブリュッセル)を結ぶ鉄道網が整うことになりました。 工事は英仏側から、海峡中央部へ向かう形で、1986年5月にスタート、フランス側の工事に、日本の川崎重工業が参加し、シールド工法の掘削機は同社製のものが使われました。この掘削機の性能は良く、イギリス側の工事に比べ、フランス側の工事の進捗率はかなり高く、同社は面目を施しました。このトンネルをユーロトンネル会社が所有し、鉄道会社に貸し出す形(新幹線と同一の方式)を取り、鉄道会社は列車の運行毎に、定められた使用料を支払う形で運用されています。 工事の資金としては、80年代に絶好調だった日本の金融機関の融資が目立っていましたが、バブルの崩壊で状況が変わり、不良債権のヤマを抱えて行き詰まった日本の金融機関は、採算がとれずに困っていた「ユーロトンネル会社」に追加出資することが出来ず、損失覚悟で欧州の金融機関に、海峡トンネル会社の債権を譲り、手を引かざるをえない一幕もありました。 時は移りて、さらに数年、リーマンショックとそれに続くユーロ危機で、かつての日本の金融機関以上の損失を抱えた欧米の金融機関が、今度は損失覚悟で、日本の金融機関に手持債権を投売りせざるえない状況に陥ったのですから、まさに因果はめぐりました。この因果、いったいどこまでめぐるのでしょうか。まだまだ、これが最後とは言えそうもありません。コロナショックの現在は、各国とも入国を厳しく制限していますから、日本の新幹線同様、困りに困っていることでしょう。
2020.05.06
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クロニクル EU首脳会議、ユーロへの統合を決定1998(平成10年)5月2日22年前の今日、欧州連合(EU)首脳会議が開かれ、99年1月に迫った欧州単一通貨ユーロへの各国通貨の統合を正式に決定しました。 英国は不参加でしたが、フランス・ドイツ・イタリア・オランダ・ベルギー・スペインなど11ヶ国2億9千万人が使用する巨大通貨がこうして誕生することになりました。 通貨の発行と利用は国家主権の重要な1部ですから、EUの統一通貨を作る運動は、いずれ頓挫する。これが私の読みでした。しかし、その後の流れが示している通り、この読みはものの見事に外れました。 国家主権の1部をなす、通貨の発行権を放棄してでも、ドルに匹敵し、そしてやがてはドルを凌駕する通貨を創出して、アメリカに一泡食わせるのだという、EU各国とりわけ独・仏首脳の強烈な意欲がひしひしと伝わって来る決定でした。事実の迫力に圧倒された一齣でした。そして導入後しばらくは、慣らし運転が続き、ユーロとドルは1:1近くで推移していたのですが、1部アジアマネーやアラブ資金が積極的にユーロ資産のウェートを高め、ドル安ユーロ高が続くなど、堂々たる国際通貨の地位を固めつつあるように見えた時期もありました。しかし、無理をしてユーロ圏を拡大した咎が出て、リーマンショック後は、首の革一枚を残して崩壊寸前にまで至りましたが、ヨタヨタした歩みながらもなんとか踏みとどまって、ここまでやってきました。 コロナショックに襲われ、問題児のギリシアが、何度目かのデフォルトの危機を迎えていますし、イタリアもまた危ない状態におと言っていますが、今回は、ポルトガル、スペインなど、今まではギリシア国債と共に売り込まれた南欧諸国の国債が、今回は連れ安せずに踏みとどまっていますが、ユーロの試練は続きますね。
2020.05.02
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クロニクル 日本OECDに加盟1964(昭和39)年4月28日前回の東京五輪の年ですから、56年前になります。この日、日本政府はOECD(経済協力開発機構)への加盟を、正式に閣議決定しました。OECDは1961年9月に発足した欧米の経済先進国20ヶ国が加盟する組織で、日本は21番目の加盟国となりました。OECDは、加盟国の協調によって、加盟各国の経済の安定的な成長と、途上国への経済援助を目的としており、資本主義的世界経済のリード役を自認する存在でした。このOECDへ無条件で迎えられた(閣議決定で即加盟したことになったのは、日本が決断すれば無条件で受け入れる旨の連絡を既に受けていたからです。問題は国内にあったのです)ことで、日本は、米・英・仏・西独(当時)と肩を並べ、完全に経済先進国の仲間入りを果しました。 既に4月1日、海外旅行の自由化(それまでは、留学並びに商用以外の海外渡航は許可されませんでした)とIMF8条国への移行を実現し、経済開放への道を徐々に進み始めていたのですが、OECDへの加盟を果したことで、今後は資本の自由化への道を、歩みを始めることになりました。 現在のOECD加盟国は37ヶ国に増えています。
2020.04.28
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クロニクル レンテンマルク紙幣発行1923(大正12)年11月15日 第一次世界大戦に敗れたドイツは、戦後猛烈なインフレに襲われました。戦争開始当時、マルクとドルとの交換レートは、1ドル=4,2マルクだったのですが、23年1月には、7,525マルクにまで急騰しています。この状況に対応するため、ドイツ政府と中央銀行は、次々に高額紙幣を発行してゆきます。そのためドイツ紙幣の信用は失墜し、物価上昇の速度は、さらにスピードを上げました。労働組合は、週間払いの賃金支払い取り決めを、即日払いに改めることを真面目に要求することになりました。 日々の物価上昇がバカに出来なかったからです。この要求はさらにエスカレートし、9月には、賃金は半日払いに変更となります。昼と夜では、もう商品の値段が違っていたからです。これだけの物凄い、物価暴騰(=大インフレ)の結果、11月には、1米ドルの交換レートは4兆2千億マルクに達したのです。1兆倍というわけです。この状況に対し、当時のシュトレーゼマン首相は、銀行家シャハトの協力を得て、96年前の今日、国内の土地を担保とした不換紙幣として、レンテンマルク紙幣を発行したのです。レンテンマルク紙幣の発行母体として、ドイツ・レンテン銀行を設立。旧マルクとレンテンマルクの交換比率は1兆マルク=1レンテンマルクとすること。レンテンマルクの発行量は32億レンテンマルクに制限し、国債発行量も上限12億レンテンマルクに制限すること、この2点を発表したのです。 土地の担保が設定されており、通貨発行量が土地に見合う形で制限されたこと、国債(=国の借金)発行量も厳しく制限されたことから、不換紙幣であるにも関わらず、ドイツ国民は幅広くレンテンマルク紙幣を受け入れ、ここにドイツのインフレは収束に向かったのです。この事実は、世界史上「レンテンマルクの奇跡」と呼ばれているのですが、その奇跡の幕は、91年前の今日、上がったのです。 翌年1924年の8月30日に、新しい法定通貨であるライヒスマルクが発行され、レンテンマルクとは、1:1の交換レートで交換されることになり、やがてライヒスマルクとの交換を通じて、レンテンマルクは消えてゆきました。
2019.11.15
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クロニクル ユーロスター営業運転開始1994(平成6)年11月14日ユーロスターは、同年に開通した英仏海峡トンネル(ユーロトンエル)を通って、ロンドンとパリ、ロンドンと北フランスの工業都市リール、ロンドンとベルギーの首都ブリュッセルを、最高速度300km/時で結ぶ、高速鉄道です。ちょうど4半世紀前の今日、トンネルの開通と同時に営業を開始しました。ちなみに、ロンドンからブリュッセルまでは2時間弱。ロンドン~リール~パリの所要時間は2時間15分だそうです。 昨年4月から、1日に2本だけですが、ロンドン~ブリュッセル線が、ブリュッセルからオランダのアムステルダムまで延長運転を始めています。年間旅客数は、2013年に1千万人に達し、以後、コンスタントに1千万人台を確保していますが、ここが上限となって、伸び悩んでいるようです。
2019.11.14
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クロニクル 中国IMFに加盟1980(昭和55)年4月17日39年前になります。この日中華人民共和国(略称 中国)がIMF(国際通貨基金)への加盟を認められ、正式メンバーとなりました。その結果、国際貿易の促進等、国内体制の整備も進み、中国の近代化が加速することになりました。当然外資の受け入れも、この時から動き始め、90年代からの急激な経済成長への下準備が進むことになりました。 中国の現在に至る近代化、工業大国化への出発点となるメモリアルとして、見落とせない出来事でした。今では、中国のIMFへの出資金の引き上げをどこまで認めるかが議論になるのですから、中国経済、問題を抱えるとはいえ、よくぞここまで伸びたものですね。
2019.04.17
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クロニクル 円、変動相場制へ1973(昭和48)年2月14日1971年12月のスミソニアン合意は、つぎはぎだらけの妥協でした。ドル切り下げに円とマルクの切り上げをセットして、固定相場制を維持しようとしたのですが、所詮無理な話でした。72年12月に、西ドイツでの猛烈なドル売りが各国に広がり、再びドルの危機、国際通貨危機が発生したのです。2月に入り、各国は相次いで外国為替市場を閉鎖、円・ドル・マルクのレートの調整に入りました。その過程でアメリカは貿易収支の赤字幅の縮小のためには、ドルの威信を捨てても構わないという,捨て身の姿勢でいることが判明し、日本も西ドイツも一定の譲歩はやむなしということになっていったのです。こうして、日本は1ドル=308円の固定相場に別れを告げ(といっても、前年12月からは、投機筋のドル売りを日銀が買支えに動く事で、辛うじて308円=1ドルを人為的に支えていたのですが)、2月14日から、1ドル=277円のレートから始まる変動相場制に移行すると、発表したのです。46年前の出来事でした。 翌3月には西欧各国の通貨も対ドルのフロート制に移行、ここにスミソニアン体制は完全に崩壊、各国通貨の固定相場制は終焉を迎えたのです。さて、日銀の介入もあり、スタート当初の円の値動きは、現在の人民元の動きに似た小波も立たないような静かな動きに終始し、10月に入っても、1ドル=260円台の取引が続いてました。当時の大蔵省と日銀の介入による人為的な為替操作によるもので、各国からはダーティフロートだとの手厳しい批判を浴びたのでした。こんなところも、現在の中国にそっくりだったのです。 この状況を変えたのは、10月に始まる第1次オイルショックの発生でした。現在は120円が大変な円安で、輸出企業は神風の到来とホクホク顔なのですが、当時は今の2倍以上の270円台ですら、大変な円高だと警戒され、輸出企業は、円切り上げ絶対反対を叫んでいたのです。今や昔の物語のように感じられますね。
2019.02.14
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クロニクル 日米繊維協定締結 1972(昭和47)1月3日47年前になります。この年の前年にあたる1971年8月15日が有名なニクソンショック。米国が金・ドル交換停止を発表し、1ドル=360円体制が崩れるきっかけになった日でした。そして年末にスミソニアン協定が結ばれ、1ドル=308円になったように、ドルに対して各国通貨が切り上げられて、一応の小休止となりました。こうした国際経済上の大問題の根底にあったのが、米国の貿易収支の大幅赤字でした。当時米国の最大の貿易赤字国は日本でしたから、日本の安値輸出が、米国へ失業を輸出していると批判されたのです。特に米国の繊維業界が死活的な打撃を受けていたことから、日本の繊維製品の輸出が、槍玉に上げられました。これがその後、様々な分野に波及した,日米貿易摩擦の第一段でした。日本の繊維業界も、地場の中小企業が多い業界です。円切り上げの際にも、地元選出の代議士を超党派的に突上げ、猛烈な陳情攻勢をかけました。この時も大変な騒ぎとなって、ロングラン交渉となったのですが、47年前のこの日、遂にワシントンでの交渉が妥結したのです。 繊維製品の対米輸出の、年間伸び率を一定以下に抑える内容でしたから、現状維持ないし、現状より削減を主張していた米側も、大きく譲歩した内容になっていましたので、秋に大統領選挙を控える時だっただけに、米側もかなり思いきった譲歩で、交渉をまとめたと見ることができました。それでも国内の繊維業界や、業界拠りの族議員達は、5月に沖縄返還を受けることになっていたことから、「政府は糸で縄(沖縄のこと)を買った」と、政府批判を繰り返しました。 今では、米国業界の非難の矛先は、すっかり中国に移っていますね。
2019.01.03
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クロニクル スエズ運河開通1869(明治2)年11月17日149年前になります。この日の10年前、1859年にフランス人技師レセップスの手で、鍬入れがおこなわれたスエズ運河が、10年経過したこの日、遂に完成を見たのです。 運河の全長は163km、幅34m、深さ15m。運河を航行可能な最大の船の大きさのことをスエズマックスと言います。スエズマックスを越える一部のタンカーはスエズを通行することができず、喜望峰周りの選択を余儀なくされています。 北の地中海にポートサイド、中間地点にイスマイリア、南のスエズ湾側にスエズの町があり、交通の拠点となっています。 運河を航行する船は、スエズ運河庁の指示で船団を組み、一日数回の便に参加して運河を通過します。所要時間は北行きが約12時間、南行きが約16時間です。運河内は基本的に一方通行ですが、グレートビター湖など一部の拡張部においては対面通行が可能となっています。
2018.11.17
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クロニクル 日経平均株価バブル後最安値を更新2008(平成20)年10月27日 10年前の今日、日経平均株価は、バブル経済崩壊後の最安値(2003年4月の7603,76円)を更新、7141,27円をつけました。 米国発の巨大バブルの崩壊は、欧州をも巻き込んだことで、世界的な金融メルトダウンがおこったわけですから、日本だけの金融危機よりも、より深刻な影響を及ぼしたのも、当然と言えば当然でした。 あれから10年、日米欧は揃って市場に資金を泣き散らして、景気の底抜けを防いだのですが、底からの出口を探る段になったことで、またぞろ資金の巻き戻しが起こり懸けているのが、最近の世界的株安を呼んでいるように思えます。
2018.10.27
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クロニクル ブラック・マンデー1987(昭和62)年10月19日31年前のことです。この日、NY株式市場が急落、ダウ工業株30種平均は、一挙に508ドル32セント、率にして22.6%もの急落を記録しました。そうなんです。当時のダウ平均は2400ドル前後だったのです。現在のおよそ10分の1ですね。ですから、現在に引きなおせば、1日で5千ドルの下げということになります。もっとも現在は、規制がありますので、下落は2千ドル程度ですとっぷになるのでしょうが… 米国ウォール街での株価急落は、あの世界恐慌の引き金を引いたことで名高い、1929年の暗黒の木曜日が有名ですが、あの29年当時の暴落でさえ、下落率は12.8%だったのですから、記録を10ポイントも上回る大暴落でした。レーガノミックスによる財政と貿易という双子の赤字が、アメリカ経済を蝕んでいたとか、システムトレードの普及が、サーキットブレーカーを発動させ、売りが売りを呼ぶ連鎖となって、下落幅を拡大したとか、色々な検証結果が発表されましたが、おそらくその全てが一分の真実をついていたものと思われます。 一夜明けた火曜日の東京市場も、日経平均は3836円安と、14.9%の急落を記録、翌日こそ戻しましたが、その後再び下げに転じ、年末まで約2ヶ月の調整を余儀なくされました。しかし、欧米市場に比べると、日本市場の下げは小さく、翌88年1月から、89年12月にかけて、いわゆるバブル景気を謳歌することになります。
2018.10.19
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クロニクル T型フォード1号車完成1908(明治41)年9月27日もう110年も昔の事になったのですね。この日、フォード・モータースは、初の量産車T型フォードの第1号車を製作・発表しました。それまでの自動車は全て注文生産品で、自分の車と同じ車は、1台もなかったのです。それが、同じ車が大量に出回ることになり、大変高価な貴重品だった自動車の大衆化への第一歩が、ここに踏み出されました。 注文生産の高級車と違って、お値段も安かったことから、中産階級の上層の人たちから火が付き、2014年の第一次世界大戦の開戦後は、互いに消耗戦を展開する欧州諸国からの注文で、好景気を謳歌することになり、労働者階級の賃金も右肩上がりで拡大。20年代に入って爆発的な売り上げを記録することになりました。このT型フォードの需要が一巡し、フォードを中心に自動車産業が不況に陥ったことが、1929年にアメリカから連鎖した世界恐慌の引き金をひくことにもなりました。
2018.09.27
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クロニクル プラザ合意1985(昭和60)年9月22日 今年で33年なんですね。33年前のこの日、ニューヨークのプラザホテルでG5(経済先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)(参加国は米・日・当時の西独・英・仏)の会合が開かれました。当時この会合は、秘密裏に開かれていましたので、とりわけ各国蔵相は隠密行動に気を使っておりました。この会合でメンバーは、ドル高是正のために、為替市場への協調介入を強化することで合意、各国政府と中央銀行は、翌週の月曜日から猛烈なドル売り介入を行いました。その結果、各国通貨は軒並みドルに対して大幅高となったのですが、特に日本円と西独マルクの上昇が目立ちました。 とりわけ、1ドル=240円程度だった円は、12月には180円程度まで値上がり、慌てた日本政府と日銀は、金利を下げ、公共工事を大幅に積み上げるなどの景気対策を実行しました。それでも円高は続き、低金利を長く続けることになりました。その結果が、その後のバブルの発生を招き寄せることになりました。
2018.09.22
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クロニクル クライスラー社創業1925(大正14)年6月6日93年前のこの日、ウォルター・クライスラーによって、クライスラー社が産声をあげました。9年前の4月末に連邦破産法の適用を申請して倒産した、あのクライスラーです。 創業84周年直前の出来事でした。そしてビッグスリーのトップ企業、GMもまた5月末日に連邦破産法の適用を申請。GMはオバマ政権の手厚い保護を受けて、再建されましたが、クライスラーはイタリアのフィアットに飲み込まれました。2009年は、米国の歴史にとって、2001年と共に忘れられない年の一つになりました。
2018.06.06
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クロニクル GM破綻2009(平成21)年6月1日9年前のことです。あれからまだ10年経たないのですね。9年前のこの日、キャデラックやシボレーでお馴染みの、アメリカ最大の自動車会社ジェネラル・モーターズ(GM)が、合衆国連邦破産法第11条の適用を申請して、事実上倒産しました。連邦破産法第11条は、その条文の内容から、日本の民事再生法とよく似た内容を持つ、企業再建型の倒産法です。破綻当時のGMの負債総額は、1,728億ドル、当時の日本円にして16兆4100億円と、製造業の破綻としては、群を抜いて世界最大でした。その後のGMは、米国政府が株式の60%、カナダ政府が12%を保有する、事実上の国有企業として、再建を果たしてゆきます。中国市場に受け入れられ、外国車としてはフォルクスワーゲンに次ぐ第2位のシェアを確保したことが、再生に大きく貢献しましたね。トランプ氏、そのこと理解しているのかな?
2018.06.01
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クロニクル フォルクスワーゲン1号車誕生1938(昭和13)年5月26日フォルクスワーゲンは、ドイツの国民車を生産することを目的に、ヒトラーの肝いりで1937年に設立されました。ヒトラーは政権を獲得した翌年の1934(昭和9)年に、ベルリンのモーターショーで、国民車の製造計画をぶち上げ、フェルディナント・ポルシェに設計を依頼し、ポルシェの開発した車を製造する、国民車製造会社として、フォルクスワーゲンを設立したのです。そして、76年前のこの日、フォルクスワーゲン・タイプ1の1号車が完成したとされています。しかし、国民車のその後の歩みは、決して順調には進みませんでした。迫り来る戦争の足音の中で、フォルクスワーゲンの工場も、軍需工場に転換されたからです。現在のフォルクスワーゲン社は、第二次世界大戦後の1945年秋に、イギリス軍の管理下で再建され、新しいスタートを切ったことから、会社自身は戦後のスタートと称しています。ヒトラーが生産させた車は、「かぶと虫」の愛称で戦後長く親しまれた車とは全く違っていましたから、会社の主張も理解できるように思います。
2018.05.26
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クロニクル OAPEC結成1968(昭和43)年1月9日ちょうど半世紀前のことになります。この日アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が、アラブの石油産出諸国と近隣の石油大国イランとで結成されました。それは、エジプトを盟主としたアラブ諸国が第三次中東戦争(別名七日戦争)で、イスラエルに大敗した翌年のことでした。現在問題となっているガザは、この戦争の時に、シナイ半島と共にイスラエルが占領した地域です(因みに、この戦争でイスラエルはヨルダン川西岸~話題の東エルサレムもここにふくまれます~をヨルダンから、ゴラン高原をシリアから奪っています)。このOAPECは、1973年の第四次中東戦争において、陰の主役を務めます。石油資源を武器として、戦争勃発と同時に、イスラエルの味方をしたり、イスラエルを支持する国には原油を売らないと宣言し、実際に油井のバルブを閉めて油量を調節したのです。結果として、アラブやイランの原油に頼っていた諸国は困り果て、相次いで中東戦争に中立の立場を表明し、従来のイスラエルよりの立場を修正しました。欧州諸国にその傾向が目立ちましたが、日本などは、駐イスラエル大使を一時召還し、イスラエルとの貿易を凍結した上で、中曽根通産相(当時)を中東諸国に派遣して、原油輸出を懇請する慌てぶりでした。当時の田中内閣の列島改造計画は、このとき生じた石油危機によって頓挫しています。この時石油危機も生じたのですが、これが資源産出国の資源外交が成功した最初のケースでした。それは、アラブ産油国の団結が保たれたことが大きな原因でした。OAPECの団結がイスラエルに一糸酬いることに繋がったのです。
2018.01.09
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クロニクル 円新高値へ1978(昭和53)年1月4日40年前になります。新年最初の為替取引きが行われたこの日、海外市場での円高傾向を受けた東京市場で、円はいきなり1ドル=237円90銭の新高値をつけました。1971年12月18日のスミソニアン合意で、円はそれまでの1ドル=360円から、1ドル=308円に切り上げられたのですが、この固定レートは1年しか持たず、73年2月14日から日本は固定相場制に別れを告げ、為替相場の変動幅制限を廃止する変動相場制に移行しました。ヨーロッパ諸国も3月には相次いで変動相場制に移行、ここに為替取引きは現在に続く変動相場制の時代に移行しました。初日の円レートは277円丁度のスタートでした。その後ジリ高が続きましたが、夏以降は1ドル=260円台の小動きが続き、政府・日銀の介入による円高阻止の動きがなかば公然と続けられました。73年10月、第1次石油ショックが勃発すると、原油高から円は売られ、円安に振れましが、この世界同時不況を最初に抜け出したのが日本でした。資源小国であるが故に燃費効率の良い車の生産を常に心がけざるをえなかった日本車が、アフターサービスの良さをもプラスして、アメリカの相対的低所得層のニーズを掴み、爆発的に売れたことがきっかけでした。やがて80年代の日米自動車摩擦に発展するこの動きは、自動車産業を牽引車とする日本経済の復活だけではなく、日本を世界経済をリードする経済大国に押し上げたのです。急増する輸出は巨額の貿易収支の黒字を積み上げ、欧米からの日本のダーティフロート(政府・日銀によるドル買い介入はこう呼ばれました)に対する批判は高まる一方となり、ここに政府も為替相場への介入を控えざるをえなくなっていったのです。その結果が、この日の円新高値に繋がりました。その後も円高は続き、この年10月31日には、1ドルは175円50銭の高値をつけ、スミソニアン合意まで続いた360円の固定相場から、僅か7年で2倍にまで円の価値は高まりました。輸出業界はブツブツ言っていましたが、自国経済の地位向上を実感できるのですから、我々一般の国民にとって、これは気分の良いことでした。ただ生活実感の乏しい気分の良さだったことも事実でした。当然ドルベースの国民所得、平均賃金も切り上がり、生活実感に乏しい経済大国日本が出来あがったのです。農協をはじめとする日本人の海外団体旅行が隆盛をみせはじめ、昨今の中国人旅行者のように、欧米各地でノーキョーとして顰蹙を買ったのも、この頃のことでした。国内旅行より、海外旅行の方が割安だという、円の強さを実感できるほとんど唯一の時だったからでもありました。それにしても、当時の高値は200円前後、現在は大きな円安といっても、せいぜい110円前後なのですから、不況不況といわれても、GDPで中国に抜かれたと言っても、日本経済の世界経済に占める地位は、いまだ大変強力であると考えてよいように思います。
2018.01.04
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クロニクル 日銀BISに加盟1970(昭和45)年1月2日48年前になります。この日日銀はBIS(国際決済銀行)に加盟しました。1990年代の日本のバブル崩壊期に、BIS規制として、「国際業務に携わる金融機関は、自己資本比率8%を維持しなければならない」とする規制が知れ渡り、一躍BISは有名になりました。 本部はスイスのバーゼル、駅前の目立つ建物だそうです。さて、BISは1930年に創設された、各国の中央銀行が加盟する組織(それゆえ、正規のメンバーは、各国の中央銀行総裁になります)です。当時、第一次世界大戦後で、ことあるごとにドイツの賠償金の支払い問題で揉めていたため、ドイツの賠償支払い事務を扱う機関として、創設されたのです。ドイツは個別に各国当局に賠償金を払い込むのではなく、BISに一括して払い込み、BISが公平に賠償を受ける権利のある国に分配することにしたのです。ですから、当時はヨーロッパの戦勝国のいさかいを仲裁する役割が主だったのです。そのため全く中立的な仲裁役を担える存在として、日銀も乞われて加盟しておりました。しかし、世界恐慌の深化と国際連盟脱退を機に、日銀はBISを脱退しました。それが、60年代の末になると、日本の貿易黒字が次第に問題化する兆候が強まってきましたので、BISへの再加盟が必要となってきたのです。こうした事情で、厳密に言えば再加盟したのですが、BISの役割は戦前とは全く異なり、国際的な金融政策の調整機関に変わっていましたので、ここでは再加盟とせず、単に加盟としました。その日銀は、1994年から理事国となり、日銀総裁がBISの理事を兼務しています。理事国はG10と言う、BISの最高意志調整機関のメンバーとなります。毎月1回、各国中央銀行総裁が集う会合が開かれているのですが、あまり報道されることはないようで、粛々と金融政策等の調整がなされるのは、かえって良いことかもしれません。
2018.01.02
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クロニクル トウ小平路線確認1990(平成2)年12月25日27年前のこの日、中国共産党の第13期7中全会は、トウ小平の改革・解放路線を正式に確認しました。ここに中国共産党は、共産党1党独裁の政治体制を堅持したままでの、経済発展の大胆な導入に、大きく舵をきりました。それはいわば、社会主義体制の下での資本主義経済の導入ともいうべき試みでした。こうして中国は、先に豊かになるものがあっても良いという、トウ小平路線の下で、社会主義市場経済と銘打って、広州から上海にかけての沿岸地帯の経済特区を中心に、大胆な外資の導入なども組み込みながら、驚異的なスピードで経済発展を続け、その結果蘇州、大連、北京、天津、重慶などでも工業化が進み、押しも押されもしない経済大国の一角に名を連ねると、その後も驚異的な経済成長を続け、今や米国に続く世界第2の経済大国となり、自国中心の経済ブロックを形成しようとするところまで来ています。昨今は、さすがにその勢いも減速気味ですが、中国経済が何とかバランスをとり続けることが出来るのかどうかは、来年以降も世界経済の大きな関心事となりそうです。
2017.12.25
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クロニクル マカオ中国に1999(平成11)年12月20日18年前のこの日、中国はポルトガルの領有を黙認していたマカオを回収、マカオにおける中国の主権を回復しました。イギリスの香港返還から2年と5ヶ月後のことでした。マカオは、珠江のデルタ地帯にある、南北約5kmの小半島で、16世紀にポルトガルが来航、マラッカ、ゴアと共にポルトガルのアジア貿易の拠点として繁栄しました。この間、ポルトガルは中国当局に多額のワイロを送っては、マカオにおける交易の独占を続けたのですが、19世紀半ばから植民地支配に転じました。第二次大戦後に成立した中華人民共和国政府は、ポルトガルにマカオの返還を要求しました。そのときポルトガル政府は、流入する難民に反中国、親台湾の活動を一切させない方針を貫き、1965年には台湾政府とも断交するなど、親中国の姿勢を貫くことで、99年のこの日まで、中国政府に領有を認められてきたのです。そしてこの日、香港と同じく、ポルトガルの領有期限の満了をもって、中国政府に返還されたのです。
2017.12.20
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クロニクル 日本OECD常任理事国に1965(昭和40)年12月14日 今から52年前のことです。丁度戦後20年が経過し、東京オリンピックが終了して1年が経過した時でした。世界的にはヴェトナム戦争へのアメリカの介入が泥沼化の様相を強めていた時期です。そういう状況のこの日、日本がOECD,経済協力開発機構の常任理事国に推挙され、満場一致に近い支持を得て、就任することになりました。 以後ODA(政府開発援助)も年々増額され、日本は次第に援助大国になっていったのですが、2000年以降財政難を理由に、ODA予算が減らされているのが残念です。日本の平和的支援が必要な国はなお多く、そういった支援が将来の日本の国際的な発言力の向上に、間違いなく大きなプラスになるのですから…。
2017.12.14
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クロニクル ウォール街の暗黒の木曜日1929(昭和4)年10月24日88年前のことです。世界恐慌の幕開けだったとされる、有名な株式大暴落の話です。10月はじめから微妙な値動きを示していたNY株式は、この日の朝は平穏でしたが、10時前から急激に下げ始め、売りが売りを呼ぶパニック状態になりました。昼近くには、取引の正確な情報さえ分からないという混乱状態に陥りました。しかし、午後になって金融界が急遽対応策を練っているとの情報が伝わると、急速に持ち直して、この日の取引を終えたのです。しかし、これは1時的な凪に過ぎず、翌週29日火曜日には終日売りの嵐が吹き荒れたのです。 「暗黒の木曜日」に続く「悲劇の火曜日」の追い討ちでした。ここに、株価は10月だけで、37.5%も急落、上場株式の時価総額は9月末評価の896億ドルから、12月1日には、なんと635億ドルへと、259億ドル強の減少となりました。 NY株式の工業株平均は、ニュヨークタイムズの発表によれば、1926年末の180ポイントから上昇を始め、28年1月には240ポイント、29年1月には330ポイントと、倍近くに上昇していました。その後も、実態経済の変調、フォード車の売れ行き不振が報じられる中、なお夢見る投資家の参入で上昇を続け、10月には440ポイントの高値を付けていたのです。バブルの崩壊、ユーフォーリア(根拠のない熱狂)の醒めたあとを知る我々には、何かわが身に起こったことのような感じもします。さて、米国の株価大暴落は、実態経済の変調に目をつぶっての買い漁りの結果でした。それだけに投資家の受けた傷は大きく、資金繰りに窮した投資家は、欧州への投資を回収して、損失の穴埋めをせざるをえなくなったのです。こうした行動は、米国からの資金流入に頼って、第1次大戦の破局から、経済再建を進めていたドイツ経済を直撃し、そのドイツからの戦争賠償に頼って経済再建を進めていたイギリスとフランスの経済にも大打撃となったのです。この混乱は植民地経済にまで波及して、ついにはソ連を除く全世界を巻き込む世界大恐慌となったのは、御存知の通りです。
2017.10.24
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クロニクル OAPEC石油戦略を発動1973(昭和48)年10月17日44年前になります。この日、ペルシア湾岸6ヶ国は、原油公示価格を21%引き上げることを決定、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)10カ国の石油担当相会議は、イスラエル支持国向けの原油生産を5%削減するという、石油戦略を発動しました。6日に始まった第4次中東戦争において、この日いよいよ産業社会の命綱,石油を武器とした石油戦略が発動されたのです。世界経済を大きく揺るがせた、史上に名高い第1次オイルショックは、この日の決定が基となって、始まりました。
2017.10.17
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クロニクル ニクソンショック世界を走る1971(昭和46)年8月15日72年目の敗戦記念日ですが、こちらを取り上げました。46年前のことです。この日、ニクソン米大統領はテレビを通じて、ドル防衛策を含む新経済政策を発表しました。その最大の目玉が金=ドル交換停止でした。第2の目玉が10%の輸入課徴金の創設でした。アメリカ経済が如何に貿易収支の赤字に悩んでいたかが、分かる措置でした。しかし、戦後ブレトンウッズ体制を構築し、「米ドルを持つことは金を持つことと同じである」とすることで、自国通貨をドルにリンクさせて(日本で言えば、1ドルを360円とすること)、通貨価値を安定させてきた各国にとっては、これは晴天の霹靂でした。ヴェトナム戦争の戦費負担に苦しみ、その上西ドイツ(当時)や日本の経済的発展によって、貿易収支までもが赤字体質を強めていた米国にとって、ドルはいつでも金と交換することができるという神話を維持することは、苦痛以外の何物でもなくなっていたのです。こうして、この日のニクソン大統領による金とドルとの交換を当分の間停止するという、強硬策が発表されたのです。これはある意味で正論でした。「米国経済の力が衰えてきたので、今後は世界各国の経済のお守り役までは務められないので、その地位はおります。各国通貨も各国の責任で交換レートを決めて下さい」としたのです。日本のみならず、世界の為替市場はパニックに陥りました。自国通貨の対ドル相場の急騰を見越して、翌日から当分の間為替市場を閉鎖した国がほとんどでしたが、1人日本だけが市場を開き続け、1ドル=360円でドルを買い支え、円高に振れるのを防ごうと務めたのでした。各国の為替ディーラーは狂喜して日本市場で(当時日本の為替取引は自由化以前なので、日本の業者に委託しての取引でした)ドルを売り続け、政府・日銀は世界の趨勢を読もうともせず、ひたすら米国への陳情によって、円切り上げを防ごうの1点張りだったのです。しかし,経済先進国でただ一つ為替市場を開き続ける日本の愚かさは際立っていました。その日本政府が円切り上げ不可避を悟り、1ドル=360円でのドル買い介入を止めたのは、何と2週間後の8月28日のことでした。この間1ドル=360円で買い支えたドルは、およそ40億ドル。現在ならどうということもない額ですが、当時としては大変な額でした。米国は変動相場制への意向を持っていましたが、日本のみでなく西欧各国もドルの基軸通貨体制維持に執念を燃やし、渋る米国をこぞって説得し、ドルに対して各国通貨を切り上げることを了承する替わりに、ドルは基軸通過であり続けることが約束され、一時的にこの騒動が収束するのは、12月18日のことでした。スミソニアン協定がそれです。円のレートは1ドルが308円と16,88%の切り上げとなりました。円切り上げで輸出企業は大打撃を受けると、産業界中心に悲観論が勢い良くぶち上げられ、政府は補正予算を組んで公共事業の大盤振る舞いを行なうなどの、ドタバタ劇が演じられましたが、日本や西ドイツ経済の足腰は強く、ドルの固定相場はこの後1年少々しか持ち堪えることは出来ず、73年2月には現在に繋がる変動相場制に移行しました。それにしても、80円だと円高、100円だと円安。時代が変わると人間の感覚も変わるものですね。93年と95年の1ドルが100円を割っていた時代に、フランスやイタリアにしばらく滞在した身にとっては、今のユーロ対円、1ユーロが130円程度というのは、円が安すぎる感が拭えないのですが……。私の感覚では1ユーロは100円程度が、程よい水準に思えてなりません。それにしてもニクソンショックにおける大蔵省と日銀の対応はオソマツでした。思考が内向きに過ぎ、経済の国際派を育てる努力を怠ったツケは大きかったようです。
2017.08.15
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クロニクル 牛肉・オレンジで合意1988(昭和63)年6月19日まだ30年も経っていなかったのですね。29年前の今日、日米の貿易摩擦の焦点になっていた牛肉・オレンジの自由化問題が、遂に決着しました。当時の佐藤隆農林水産大臣とアメリカ合衆国のヤイター通商代表部代表との閣僚交渉で、日本側が折れ、3年後の完全自由化で合意したのです。牛肉については、その後BSE問題の発生で、1度輸入が禁止されました。その後、生後2年以内の若い牛に限って(2年以内にBSEを発症する可能性は、低いからとされています)、危険部位を除いた輸入を認めるとの合意が交わされました。
2017.06.19
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クロニクル フォード自動車の誕生1903(明治36)年6月16日114年前のことになります。この日、ヘンリー・フォードは、11人の投資家の支援を受けて、2万8千ドルの資金を元手に、フォード・モーター・カンパニーを創設しました。カール・ベンツが自動車の生みの親と言われるのに対し、ヘンリー・フォードは、自動車の育ての親と言われます。創立5年目の1908年に、彼が世に問うたT型フォードが発売され、最盛期には米国の自動車の半数以上を占めるという、大ヒット商品に育てたのです。発売以後、1927年の生産休止まで一度もモデルチェンジすることなく、累計で15,007,033台生産されたというのですから、驚きです。生産はベルトコンベアによる流れ作業方式を採用した最初の自動車としても知られています。以後、T型フォードの記録を上回った自動車は、フォルクスワーゲンのタイプ1があるだけです。この車の生産台数は、2,100万台以上だったとされています。
2017.06.16
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クロニクル 前川リポートまとまる1986(昭和81)年4月7日31年前のことです。この日、中曽根首相の諮問機関であった「経済構造調整研究会」(座長前川春雄元日銀総裁)は、中曽根首相に対し、「内需主導の経済構造転換」を求めた報告書(いわゆる前川リポート)を提出しました。これ即ち、70年代初頭の繊維協定に始まり、牛肉・オレンジと鉄鋼からカラーTV、そして自動車へと、連綿として続けられた日米貿易摩擦の解消へ向けての、日本側の取り組みと覚悟を示したものでした。内需振興、以来今日まで何かにつけて叫ばれていますが、日本のGDPに閉める輸出の割合は、実を言うと僅か16%に過ぎず、84%は内需です。日本は堂々たる内需の国なのですね。だからこそ、欧州の有名ブランドは、競って上得意の日本進出を果たし、日本の一等地に軒を連ねるのです。昨今は、対日貿易よりも対中貿易の不均衡が大きく、対日貿易が問題化する事はなかったのですが、米国並びに世界経済を見る眼が、今なお20世紀に留まり、古き良き時代への回帰を目指す時代遅れの大統領の登場で、なんだか騒がしくなってきました。彼がその方針をあくまでも貫くとすると、米国経済の歯車が狂い、世界経済へのマイナスの影響は半端じゃないことになるでしょうから、ちょっと心配しています。
2017.04.07
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クロニクル マーシャル・プラン終了1951(昭和26)年12月30日65年前のことです。マーシャル・プランとは、1947(昭和22)年の6月2日に、アメリカ合衆国国務長官のマーシャルが発表した、ヨーロッパ経済の復興計画を指します。第二次世界大戦終了後の欧州では、東西ドイツや東欧を巡って米ソの対立が目立ち、アメリカは、東西に分割されたドイツの欧米側となる西ドイツの経済復興を急ぎ、ここに西ドイツ地域の再生とイギリス・フランスなどの復興をはかる必要が生じたのです。実行されたマーシャル・プランは、西ドイツの目覚しい経済回復に繋がり、西ドイツ経済の力強い復活が英・仏などの経済に好影響を与えるなど、アメリカの期待以上の成果を生み、65年前のこの日、開始4年半で、終了が宣言されたのです。こうして、開始から4年半余のこの日、マーシャル・プランは所期の目的を達成して、終了することとなったのです、アメリカのヨーロッパへの経済援助は、総額で120億ドルに達したと言われます。ちょうど60年前のことです。
2016.12.30
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クロニクル ウルグアイ=ラウンド合意1993(平成5)年12月15日23年前のこの日、ガット(関税・貿易一般協定)のウルグアイラウンドが、ようやく合意に達し、日本はコメの部分的市場開放に踏み切りました。「コメ市場は開放しない」と言い続けてきた日本政府と農林水産省(当時)は、当初の関税率は200%や300%でも認めると説得され、工業製品の関税率の引き下げで、最も利を得る立場でもあり、拒否し続けるわけにいかないと、ようやく重い腰をあげたのです。それから数年後、高い関税率を維持するなら、最低限度の米輸入を義務付けられる年限に達し、工業用に利用するか、倉庫に積んでおくしかない米を、お金を払って輸入するようになり、今に至っています。倉庫の保管料も嵩むのですが、長期の保管で黴の生えた事故米を、工業用と偽って超安価で買い入れ、それを煎餅などの加工食品会社に横流ししていたあくどい業者が登場、社会問題になったのは、皆さん御存知の通りです。
2016.12.15
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クロニクル マーストリヒト条約締結1991(平成3)年12月11日あの日から今日で25年。今はユーロが揺れています。25年前のこの日、欧州共同体(EC)首脳会議は、マーストリヒト条約を締結し、欧州連合(EU)を創設すること、参加国で、99年までに通貨統合を実現することの,2点の合意に達しました。やがて、導入する共通通貨にはユーロの名がつけられ、市民権を得ていくのですが、マーストリヒトの合意が発表された当時にあっては、一定の政治統合までは進むであろうが、共通通貨の導入までは難しいのではないかとの、空気が一般的でした。私もそう思っていた1人です。通貨の発行権は、主権国家にとって手放したくない最重要の権利であり、かつ経済政策の重要な手段です。こんな大事な権利を、大陸国家のフランスやドイツが唯々諾々と手放すはずがない、そう考えたからです。しかし、ドルの1人勝ちは許せない。ドルの1人勝ちを阻止するには、ドルに対抗し得る通貨を創るしかない。それには、まず国家同士が、過去の対立の歴史を超えて、連携を深めるしか道はないとの合意に至り、19世紀のナポレオン戦争以来、いやそれより早くルイ14世の膨張主義から、犬猿の仲だったドイツとフランスが手を組み、独仏連携を中軸に、通貨統合への道が進んだのです。米国の覇権を阻止するためには、ドルよりも強く、信頼される通貨を作成し得るか否かにかかっていると思い定めた、独仏の執念が感じとれる出来事でした。そのユーロが危機に陥り、難しい状態に陥っています。この危機を乗り越えるには、参加国が財政統合への道へ踏み込む必要があります。欧州はそこまで進めるでしょうか。英国が勝手に出ていったことで、やりやすくなった面も確かにありますが、今がまさに正念場であることは確かです。
2016.12.11
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クロニクル 第1次オイルショック本格化1973(昭和48)年10月23日43年前になります。この日、石油メジャーのエクソンとシェルの両社が、そろって原油価格の30%値上げを、日本の各社に通告してきました。この年10月6日に始まった第4次中東戦争は、イスラエルへの武器補給をやめない米国とアラブ諸国の対立に発展し、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は、石油を政治交渉の武器とする戦略を決定しました。その戦略は、原油生産を削減して、イスラエル支持の国々への原油の輸出割当を制限するというものでした。この戦略は見事にヒットしたのですが、スポット買いに走る業者が続出して、原油価格は急上昇を続けました。その結果、買いつけ価格の上昇に悩む石油メジャー各社は、原油価格の上昇分を製品価格に転嫁することを選択したのです。その結果が、この日の日本各社への、値上げ通告でした。それでも、この時の高値は。1バーレル16~18ドル程度でしたから、下がったといっても50ドル近辺の現在から見ると、まだまだ原油価格は安かったのですね。
2016.10.23
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クロニクル ワールドコム粉飾決算発覚2002(平成14)年7月21日14年前のこの日。全米第2位の通信会社ワールドコムが、粉飾決算の発覚で破産しました。負債総額は410億ドルは、当時の全米史上最大級の破産でした。粉飾決算に伴う破産は、前年12月のエネルギー大手エンロンに続いて2例目でした。そして手口も同じような粉飾でした。利益を過大に見せて株価を吊り上げ、高株価を利用して株式交換で買収を行ない、規模の利益を追求する。そのためには粉飾も辞さないという手口は、どこかの誰かさんにも共通していた気がしますが、この手口の発覚が株式市場と経済界に与えた衝撃は大きく、監査方式の見直しも進められていくことになりました。日本でもそうでしたが、この時期は米国でもITバブルが弾けた後だったために、経済不振で大きく傷ついた企業業績を覆い隠すために粉飾という禁じ手に、手を染めたということなのでしょうか。企業の社会的責任を自覚しない、或いは自覚できない経営者を見抜くというのは、実は大変ですね。そんなことを考えさせられた事件でした。それにしても昨今の日本では、巨大企業の粉飾決算は、マスコミまで巻き込んで見逃されるようですね。「府警切な会計処理」とか、「不適切な決算」という言葉で…。 なんで東芝は見過ごしてもらえるのか? あんなことをしていては、日本の証券行政や証券取引所は、世界の信用を失って、やがて身動きとれなくなるのではと、心配しています。
2016.07.21
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クロニクル 日産・ルノーと提携1999(平成11)年3月27日17年になるのですね。業績不振に陥り、98年度には累積赤字が2兆円に達していた日産自動車は、この日フランスの自動車大手ルノーと提携関係を結んだことを明らかにしました。ここに日産は、ルノーの下での再建に活路を見出そうとしたのです。この時、ルノーが日産再建の切り札として送り込んできたのが、カルロス・ゴーンCCO(最高執行責任者)でした。日産のがん細胞は、強すぎる労組にありましたから、労組とのしがらみを断ち、経営再建に邁進することは、日本人の経営者では難しいと考え、ゴーンCCOの派遣を受け入れた、日産の経営陣の判断は的中しました、ゴーンCCOは、リバイバルプランを作成し、部品購入における系列との取引の見直し、早期退職の実施など人員の削減、ルノーとの車台の統一、部品の共通化などによる経費の削減など、考えられる合理化を徹底的に追求しました。他方で、残った従業員の提言など、社内の意見を良く聞いて、社内の風通しを良くして、社内のやる気を鼓舞するなど、従業員の支持と協力を取り付けました。こうした努力の結果、2兆円を越えていた累積赤字は、5年後の2003年には、その全額を返済することに成功したのです。問題は、その後にあります。日産・ルノーの関係はその後逆転し、リーマンショック後の欧州の経済危機で、今やルノーは青息吐息、日産からの高額配当やその他の支援を受けて辛うじて生き延びている状態にあります。露骨な表現をあえて使うとすれば、日産の儲けをルノーが食いつぶしているのです。ルノーとの資本関係を早めに逆転させないと、日産も苦しいですね。研究開発に回るはずの資金がルノー救済に使われてしまっているのですから…。ゴーン氏が日産、ルノー両者の代表となっているのが、実は曲者なのですね。
2016.03.27
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クロニクル T型フォード1号車完成1908(明治41)年9月27日もう107年も昔の事になったのですね。この日、フォード・モータースは、初の量産車T型フォードの第1号車を製作・発表しました。それまでの自動車は全て注文生産品で、自分の車と同じ車は、1台もなかったのです。それが、同じ車が大量に出回ることになり、大変高価な貴重品だった自動車の大衆化への第一歩が、ここに踏み出されました。注文生産の高級車と違って、お値段も安かったことから、中産階級の上層の人たちから火が付き、2014年の第一次世界大戦の開戦後は、互いに消耗戦を展開する欧州諸国からの注文で、好景気を謳歌することになり、労働者階級の賃金も右肩上がりで拡大。20年代に入って爆発的な売り上げを記録することになりました。このT型フォードの需要が一巡し、フォードを中心に自動車産業が不況に陥ったことが、1929年にアメリカから連鎖した世界恐慌の引き金をひくことにもなりました。
2015.09.27
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クロニクル プラザ合意1985(昭和60)年9月22日今日でちょうど30年なんですね。30年前のこの日、ニューヨークのプラザホテルでG5(経済先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)(参加国は米・日・当時の西独・英・仏)の会合が開かれました。当時この会合は、秘密裏に開かれていましたので、とりわけ各国蔵相は隠密行動に気を使っておりました。この会合でメンバーは、ドル高を是正するために、為替市場への協調介入を強化することで合意、各国政府と中央銀行は、翌週の月曜日から猛烈なドル売り介入を行いました。その結果、各国通貨は軒並みドルに対して大幅高となったのですが、特に日本円と西独マルクの上昇が目立ちました。 とりわけ、1ドル=240円程度だった円は、12月には180円程度まで値上がり、慌てた日本政府と日銀は、金利を下げ、公共工事を大幅に積み上げるなどの景気対策を実行しました。それでも円高は続き、低金利を長く続けることになりました。その結果が、その後のバブルの発生を招き寄せました。
2015.09.22
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1931(昭和6)年9月21日アメリカウォール街の株価大暴落がきっかけとされる世界恐慌は、今とは比較にならない程小さな規模でしたが、それでも当事の世界経済をボディブローでいたぶるかのように、じわじわと締め上げ、およそ2年後の31年秋には、ソ連を除く(社会主義国ソ連は、世界貿易のカヤの外に置かれていたからです。何が幸いするか分からないのが、この世界ですね)全世界に波及しました。困った日本が、満州侵略という行動を起こしてから間もないこの日、今度はイギリスが金本位制を廃止し、大英帝国支配下の自治国(カナダ・オーストラリア等)と植民地を囲い込み、排他的な経済ブロックの形成を目指しました。84年前のことです。フランスもこれに続き、やがて、世界経済の要だった金本位制は崩壊しました。ここに金という世界共通の尺度を失ったため、世界貿易は一段と縮小し、世界恐慌は出口のない泥沼の様相を示すようになりました。今日の日米欧の超金融緩和の横並びは、果たしてどんな結果に繋がるのか、いまだ先が見通せない混迷の中にあるようです。
2015.09.21
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クロニクル タイ バーツ危機本格化1997(平成9)年7月2日18年前のことです。この日、タイの通貨バーツがドル・ペック制を止め、管理通貨制への移行を表明しました。バーツは厳密に言うと、主要国通貨との通貨バスケット方式をとっていましたが、円やマルクは申し訳程度に、バスケットに加えられていただけで、バスケットに占めるドルの比率は80%を超えていましたから、実質的にはドルペック制と呼んで良い性格を持っていました。そのため、対ドルレートで円やマルクが安くなると、ドルにペックしたバーツは、対ドル比で値下がりしないため、円やマルクに対して、実力以上に高く評価されてしまうため、輸出競争の面で著しく不利になっていたのです。当時日本は、バブル崩壊後の経済危機の最中にあり、公定歩合は史上最低の0.5%になっていましたから、大口の資金は低迷する日本を離れ、金利の高い海外での運用を目指したため、円は売られ、構造的な円安状況になっていました。マルクもまた、経済の論理を無視した政治的な判断で、東ドイツとの統一(実質的な併合)を果したため、東ドイツの不良債権や不良国有企業を1手に抱え、大変な経済不振に陥っていましたから、これまた金利水準は非常に低く、構造的なマルク安状態に陥っていたのです。当然対ドルでのバーツの交換レートを切り下げ、円やマルクに対するバーツの割高感を是正する必要があったのですが、その措置が遅れている間に、バーツ切り下げ必至と見たヘッジファンドが6月下旬に入って、猛烈なバーツ売りを開始、タイ政府は1971年8月の、ニクソンショック時の日本政府よろしく、外貨準備を取り崩して、バーツの防衛に乗出しましたが、当然焼け石に水でした。こうして、270億ドルの外貨準備の内、180億ドルをバーツの買支えに投じた段階で力尽きたのです。それが、18年前のきょう発表された通貨バスケット(実質ドルペック)制を廃止し、管理通貨制に移行するとした、市場実勢に応じたバーツ切り下げ宣言だったのです。翌日からバーツは暴落しました。しかし、話はここに留まりません。バーツの暴落が連鎖的に他のアジア諸国に波及し、アジア金融危機と呼ばれる大きな経済危機に繋がっていったのです。
2015.07.02
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クロニクル 1ドル=100円を突破1994(平成6)年6月22日21年前のこの日、ニュヨークの外為市場で、史上初めて1ドルが100円を突破しました。細川・クリントン会談で、日米貿易摩擦に対する日本側の反応が鈍いことにいらだった米側が、円高ドル安を容認する姿勢を見せたことが、きっかけとなりました。この後も円高は続き、遂に翌95年に1ドル=79円台まで円高が進み、そこで天井を打って円安に転じ、やがて100円台に戻り、日本の金融危機と不良債権問題の闇が意識された2002年当時には、1ドル=140円近くまで円安が進みました。この事情は、サブプライムローンのメッキが剥げ、アメリカやヨーロッパの金融危機が深刻化するにつれて、再度逆転、1ドル=80円前後と、円高というより、ドル安ユーロ安の状況が続きましたが、黒田日銀総裁の就任と共に、異次元の金融緩和という、日銀による国債の大量購入(現在は年間80兆円もの国債を、終期を定めずに買い続けています)によって、事実上の円安誘導を続け、1ドル=120円台という、庶民泣かせの円安になっています。私はどんなに円安にぶれても、1ドルは100円を超えないことが望ましいと考えています。他国通貨との交換比率は、基本的に国家の総合的な実力、国の信用によって決まると考えているからです。
2015.06.22
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クロニクル EU首脳会議、ユーロへの統合を決定1998(平成10年)5月2日17年前の今日、欧州連合(EU)首脳会議が開かれ、99年1月に迫った欧州単一通貨ユーロへの各国通貨の統合を正式に決定しました。英国は不参加でしたが、フランス・ドイツ・イタリア・オランダ・ベルギー・スペインなど11ヶ国2億9千万人が使用する巨大通貨がこうして誕生することになりました。通貨の発行と利用は国家主権の重要な1部ですから、EUの統一通貨を作る運動は、いずれ頓挫する。これが私の読みでした。しかし、その後の流れが示している通り、この読みはものの見事に外れました。国家主権の1部をなす、通貨の発行権を放棄してでも、ドルに匹敵し、そしてやがてはドルを凌駕する通貨を創出して、アメリカに一泡食わせるのだという、EU各国とりわけ独・仏首脳の強烈な意欲がひしひしと伝わって来る決定でした。事実の迫力に圧倒された一齣でした。そして導入後しばらくは、慣らし運転が続き、ユーロとドルは1:1近くで推移していたのですが、1部アジアマネーやアラブ資金が積極的にユーロ資産のウェートを高め、ドル安ユーロ高が続くなど、堂々たる国際通貨の地位を固めつつあるように見えた時期もありました。しかし、無理をしてユーロ圏を拡大した咎が出て、リーマンショック後は、首の革一枚を残して崩壊寸前にまで至りましたが、ヨタヨタした歩みながらもなんとか踏みとどまって、ここまでやってきました。問題児のギリシアが、何度目かのデフォルトの危機を迎えていますが、ギリシア国債はデフォルトを織り込んだ価格まで売られているにもかかわらず、今回は、ポルトガル、スペイン、イタリアなど、今まではギリシア国債と共に売り込まれた南欧諸国の国債が、今回はギリシアに連れ安せずに踏みとどまっています。今なら、ギリシアをユーロから追い出しても、金融危機が再燃すること心配はなさそうです。
2015.05.02
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クロニクル 日本OECDに加盟1964(昭和39)年4月28日51年前になります。この日、日本政府はOECD(経済協力開発機構)への加盟を、正式に閣議決定しました。OECDは1961年9月に発足した欧米の経済先進国20ヶ国が加盟する組織で、日本は21番目の加盟国となりました。またOECDは、加盟国の協調によって、加盟各国の経済の安定的な成長と、途上国への経済援助を目的としており、資本主義的世界経済のリード役を自認する存在でした。このOECDへ無条件で迎えられた(閣議決定で即加盟したことになったのは、日本が決断すれば無条件で受け入れる旨の連絡を既に受けていたからです。問題は国内にあったのです)ことで、日本は、米・英・仏・西独(当時)と肩を並べ、完全に経済先進国の仲間入りを果しました。既に4月1日、海外旅行の自由化(それまでは、留学並びに商用以外の海外渡航は許可されませんでした)とIMF8条国への移行を実現し、経済開放への道を徐々に進み始めていたのですが、OECDへの加盟を果したことで、今後は資本の自由化への道を、歩みを始めることになりました。現在のOECD加盟国は37ヶ国に増えています。
2015.04.28
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