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1月20日、今朝の宮崎日日新聞、特別紙面表裏前4面、1面トップ、スポーツ面2面、社会2面ほぼ鵬翔高校の全日本高校サッカー選手権大会初優勝の記事で埋め尽くされていた。その中で、僕が一番心惹かれたのは、1点を追う後半4分、DF芳川のヘディングの写真。「頭抜けた」という言葉があるが肩抜けた高さに停止している芳川選手の雄姿。これでは、流石のGKも止め立てすることができなかった?芳川の滞空時間が長かったことを示している画像?では、県外に住む宮崎出身のみなさん順を追って宮日紙面を紹介しましょう。通常紙面をとじ込む形で配達された特別紙面は表裏全面4ページ広告もなし。 特別紙面AB:スタンドの応援団へ笑顔で応える鵬翔イレブン特別紙面CD:全国4175校頂点への軌跡-青い旋風席巻通常紙面1面は鵬翔のほかは元横綱大鵬の納屋幸喜さんの訃報だけ。鵬翔日本一 全国高校サッカー 県勢初の快挙 PK戦5-3で京都橘下す次はスポーツの15面と14面も全記事が鵬翔優勝関連記事。15面中央に前掲の芳川ヘディング画像が載っている。14面にはキャプテン矢野の存在感をたたえる記事が中心。最後に社会面の24、25面。松崎監督の指導歴30年と応援団の喜びなど。ひたむきな情熱結実 松崎監督悲願の胴上げ全員総立ち笑顔、涙-校内で800人、スタンドに1500人、歴史的瞬間に歓喜。
Jan 20, 2013
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今朝の新聞で、第3次野田内閣スタートの際して共同通信社が行った全国世論調査結果が報じられた。宮崎日日新聞一面トップ自民党の急な支持率アップは明らかに安倍さん人気によると思う。彼の何が受けたのか?それはやはり、領土問題に対する強硬姿勢。しかし、彼が総理に返り咲けば(民主党の現状では間違いなく返り咲く)どうなる。身体(からだ)、というより神経が耐えられるのかな?中国とはますます対立するだろうし、過半数は取れないだろうし、2党ではなく維新を含めた3党連立が必要かもしれない。それにしても、一期で御曹司総理に逆戻りせざるを得ない日本の政治、芸がなさ過ぎて発展は望めない。のど元過ぎて原発回帰も経済界から待望論が出始めているし、震災復興便乗公共事業中心の政治への回帰という安直な景気浮上政策が採られることになりそう。景気回復するまで消費税は上げない(安倍さん)のだから財源は赤字国債しかない。自民党が政権復帰すれば財政破綻が10年早まると思う。株より金(キン)かもしれない。
Oct 3, 2012
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野田さんが昨日の演説で「我輩は泥臭い泥鰌である」泥鰌らしく泥の中を這いずり回って汗をかく。そんな意味のことを言って浮動票を独り占め。泥鰌ヌルヌルノーサイド手法で先ず手中に収めたのがタヌキ親父の「輿石幹事長」。参院でもあるし、まさかの目くらまし人事。党運営を小沢さんへ手渡ししたようなもの。子ども手当てが復活すれば貧乏人の子沢山は大いに喜ぶことであろう。しかし、年収800万円は高すぎる。後は、ノーサイド宣言によるポストの大盤振る舞い作戦の様相。聴くところによると野田さんは「西郷さんのような人」らしい。西郷さんは革命家として旧体制をぶち壊す腕力はあったが、新しい組織やシステムを作り上げる政治力には欠けていた。野田隆盛とすればこの際大連立を画策して最終的には民主党を潰して政界再編をやるといい。松下政経塾で学んできたことが何であったのかが問われるし、我々としても興味がある。泥鰌は今や絶滅に瀕している。田舎の泥鰌の復活作戦にも取り組んでもらいたい。
Aug 30, 2011
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2時就寝、サッカー3位決定戦を見ていた。で、起床は8時半。外を見ると降灰なしで安心。今朝の宮日新聞、新燃岳に溶岩ドームで噴火は長期化?、鳥フル4例目川南町、5例目延岡市。4例目の養鶏場と3例目(都農町)は斃死鶏の回収業者が同じだった。これで口蹄疫の発症地の内、都農町、川南町、新富町、宮崎市がダブルパンチ。これをみるとやはり渡り鳥のうち水鳥が集中する河口付近の地域に発症している。加えて、人の出入りが共通しているケースもあるので空と陸2方向の感染ルートがありそう。
Jan 29, 2011
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今朝の宮崎日日新聞の社会面(25面)に出ていた‐'10激動 知事選‐の記事。昨日木城町で行われた「県民フォーラム」で東国原知事は、「もし河野前副知事が知事なったら........僕が2期やるのと同じ」と発言した。これは、後継者を指名せず、あくまで中立を標榜する知事としては随分河野寄りに傾いた証拠。この変化の裏には、河野さんがヒガシイズムを継承し、不偏不党、しがらみのない選挙を目指していることに対する「拍手・握手」の意味がある。知事の心象が河野さん寄りに動いていることを感じれば、有権者も河野さんへ靡くし、他の候補はいよいよ名乗りを上げにくくなったといえる。これまで、必ず対立候補を出していた共産党に対しては、「無投票であれば県費が20何億円かが節約できる」と牽制球を投げていたのでひょっとすると、河野さんの無投票当選狙いの発言かも。要するに、知事としては国政へ転進しても「宮崎」に強力な地盤を築いておきたい意欲のあらわれ発言だと思える?知事に対してのみに「しがらみ」のある河野さんを後任の知事に送り込んでおけば今後がやりやすい。明治維新後の西郷と大山知事みたいな関係ができる。河野さんの作戦が知事を惹きつけたのか、知事の作戦が河野さんをリードしているのか。僕には、海千山千対深謀遠慮の虚虚実実の駆け引きのようにも見える。どっちがどっち?
Oct 15, 2010
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1時就寝、6時50分起床、雨は上がり薄日が射している。県外に住む息子に玄米を送ろうと未開封の米袋を開いたらコクゾウムシが大発生していてマイッタ。これは昨夜のこと。結局は白米を送ることにして、今朝は隙間に入れるオクラとナスを収穫。所詮は末生りだから隙間ふさぎにしかならないが1カ月早ければ玄米も野菜も立派だったのに。次は、今朝の宮日新聞からの話題はやはり「2ヵ月後に迫った知事選」と候補者河野さんのこと。河野さんは前にも書いたが、天下りのエリート官僚ではあるが宮崎には「総務部長、副知事」であった5年間のほか何の足がかりも手がかりも持たない。そこがしがらみのなさで売りのひとつであり弱みでもある。強力な対抗馬が出てくればまあ持たない。頼みの綱の東国原知事は「関与しない、あくまで中立。しかしヒガシイズムは継承して欲しい」結局、新たなしがらみを構築して「選挙」を勝ち抜くことになれば、つけこまれることになり、安藤さんの二の舞をすることになりかねない。その動きに関して、今朝の宮日には「東国原後援会」「地元財界」の動きを流していた。同窓会を初め地縁血縁皆無の異郷での選挙、自分の立場、精神、お金をさらけ出して県民に語りかけ、何の組織にも頼らずにひたすら「宮崎のために頑張りたい」と訴える意外なさそう。新しい、選挙手法で一時代を築いた現知事に習い「ヒガシ流」とは違う「河野流」で勝ち抜くしかない。知事も予測していた河野さんの運がよければ、対抗馬は共産党候補だけになるかもしれない。
Oct 14, 2010
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感動その1 興南高校の連覇と島袋投手の精神力&我喜屋監督の笑顔。昨日は会議や私用が重なり決勝戦を視ることができなかった。新聞を瞼を熱くし乍読んだ。人は人が作る。沖縄県高校球界が育てた3人の名監督。これからますます強くなりそう。沖縄県民あの大戦あれだけの犠牲を払わされたのに不屈の精神力がある。脱帽である。翻ってわが宮崎県、興南が沖縄初の準決勝に進んだころか前に宮崎も準決勝までは行った。それから数十年、ベスト8にさへなかなかの現状、これは県民力の差であろうか?島袋投手のトルネード投法と精神力、これはとても18歳の少年のものとは信じがたい。これで燃え尽きることなく、人間界のリーダーに育って欲しいものである。選手では、主将の我如古選手が素晴らしい。決勝戦では3ランホームランのおまけつき。我喜屋さんの温顔と笑顔、沖縄のリーダーに共通する大尽の風貌であると思った。感動その2 野球チーム1番から9番まですべて「菅」君。宮崎日日新聞には、110回程度連載の県域リーダーの自分史がある。現在は、延岡に本拠がある「旭有機材」元社長?の岡野徹さんが書いている。今朝の文章を読んで感動したと言うより「面白い、これはすごく面白い」ことがあった。広島県因島出身で中国帰りの筆者が故郷の国民学校入学当時の話であった。同学年130人中岡野姓が60人、村上姓が40人。同姓同名も多く、呼び方に工夫が要った。村上は村上水軍の末裔で、因島に進出し先住民を岡のほうへ追いやったとの伝説があるとか。中学校時代に愛媛県のチームと試合をしたとき相手は9人全員が「菅」、こちらは岡野6人、村上3人で、打順を読み上げるウグイス嬢が途中で笑い出した。僕らの小学校にも集落ごとに同姓が多かった記憶はあるが、これほども例は初めてで感動?関心&感心1題 拉致被害帰国者の一人「蓮池薫」さんの現況インタビュー記事。拉致され、日本語資料の翻訳に従事していた経験を生かし韓国文学の翻訳を手がけて自立。大学の専任講師をしながら大学院で勉強も続けている。立派と言うか転んでもただでは起きないたくましい生き様と真摯な学究精神。北朝鮮と平和条約がなった暁には、両国の架け橋になれる人材だと思った。分断国家となった原因の一端をわが国の植民地支配が担っていると思うが、一日でも早く半島統一がなり平和条約が締結され、日韓の歴史上のわだかまりが溶ける日が来ることを期待。「交流することでお互いの距離が狭まる」と語っている。正論である。
Aug 22, 2010
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平年値では13日が南九州の梅雨明け。しかし、今年は奄美の梅雨明けもまだのよう。梅雨前線は九州を南北に移動しながら列島上空に居座っている。おかげで各地で出水騒動。夕べも宵の口から大雨となり宮崎市周辺地域では夜に50ミロ前後の雨が降った。新聞予報イラストによれば、土曜日以降はお日様マークばかりなので梅雨明けは17日?一方口蹄疫の西都・児湯を中心とする移動制限区域は16日にも解除される。ところが降ってわいた山田さんの「何が何でも殺せ、殺さんなら解除もしない」コール。これに呼応する形で西都・児湯地域の生産者組合から「解除延期は困る。早く殺して」の要望書。「殺さないでください」という要望は東国原知事を筆頭に全国からの支持がある。トクソ法では、知事は蔓延防止のため必要な場合、健康な家畜の殺処分を所有者に勧告できる。所有者が殺さないときは、知事は家畜防疫員に殺させることができる。ところが今回、知事は6日を限度に殺処分の勧告を出していたが所有者はこれを拒否。そして反転攻勢案は「県に無償譲渡するから殺さないで」と知事の琴線に触れる提案。知事は県所有なら国に特例で認めてもらえると踏んで「その案、いただき」。ところがどっこい山田氏、元々県の対応に対する不満が鬱積していたものだから「ダメ」の一言。今度は東さん「国は頭が固い、小回りがきかん」と、両者一歩も引かぬバルトとなったが、ここまでは、15時ころまでの情報で記述したもの。ところがこのあと知事転進(大本営発表に似ている)により状況は解決に向かって大変針。つづく。
Jul 15, 2010
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今朝も宮日1面は、口蹄疫一色。26・27社会面も同じ扱いになっている。トップは、非常事態宣言の内容。ワクチン初使用することで検討に入った。近く決定する。 社会面では住民の表情、埋却作業が追いつかない、県民スポーツ祭などイベント延期など。続報として、MIYANICHI e PRESSでには次のような記事がある。搬出制限地域(10~20K)圏内の牛・豚を国が買い取る案について予算上困難(山田副大臣私見)農水省は19日、半径10キロ以内の牛・豚全てにワクチン接種後、全頭殺処分する方針を固めた。本日中に赤松広隆農相が発表する。対象は同県川南町を中心とする4町周辺地域。えびの市周辺は含まれない。感染発生地点から10K以内の牛豚の新たな殺処分対象は、牛約5万頭、豚約15万5千頭となる。ワクチン接種と一ツ瀬川が頼みの綱わたり?
May 19, 2010
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久しぶりにわが東国原知事登場。表題の漫画は昨日の9面に出た世相漫画。タイトルは、宮日漫画グループと年間賞受賞者によるの宮日世相まんが2009決定版。宮崎まんがグループは、まあ地元では名の知れたプロの漫画家集団である。問題の作品を書いた山本俊六郎さんは、昔の同僚の弟でよく知っているので気をつけて見ていた。昨日も、「あら俊六郎さんの絵じゃが、コメントはどうもいただけないな」と思ったが、たかが漫画と視流していた。さっき、ひょいと知事さんのブログを覗いたら「名誉毀損」のタイトルで大変ご立腹である。「たかが漫画だと言う人もいるだろうが限度がる」と、めんめんと怒りの言葉を吐露している。僕が思うに、漫画につけられたコメントがやはり度が過ぎている。今回は漫画だとは言え、筆の暴力で賛成できない。言論の自由はあるにしてもこれは行き過ぎだと思う。世評漫画としてのユーモアが感じられないし、悪意すら感じる。後の5編もすべて知事と鳩山さんを笑いものにした題材だが、コメントが画一的で面白くない。面白うてやがて悲しきピエロかなである。時事漫画には、ユーモアとペーソスとエスプリ(ここでは知性)が必要だと思う。
Dec 29, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、最終回No93「県人会の行方」重要性は今後も増すブラジルには現在、47都道府県(の出身者?)が県人会を結成している。戦前に県人会を結成したのは9県、最も古いのは宮崎の隣の鹿児島県の1913年。最初の笠戸丸移民到着から5年目である。1966年には日本人移住者の権利を擁護するため「ブラジル日本都道府県人会連合会」が組織されて現在、富山県を除く46都道府県か加入している。県人会の多くは戦後に相次いで組織された。移住してしばらくは経済的、時間的余裕がなかったことやリーダーがいなかったためではないかと考えられる。結成語はどの県人会も5~10年おきに創立記念式典を行い、県人会の活動を振り返り、将来のあり方を摸索している。宮崎県人会の創立は、戦後4年目、ブラジル日系社会がまだ混沌としていた1949年だった。戦後の県人会創立では2番目に早かった。これまでの創立記念式典には、故郷からも多数の参加をいただき、ほかの県人会がうらやむような式典を開いている。ヨーロッパ系やアフリカ系の人の中で生活していて東洋系の顔を見ると、近くに行って話し掛けたい衝動が起こる。それが日本人となるとなおさら親しみを感じ、宮崎県出身だと聞くと身内のように思ってしまう。だから県人会メンバーとの交流は心和むひとときである。ブラジル宮崎県人会はこれまで会員の親睦、相互扶助、子弟の教育、母県との交流に尽くしてきた。これからも資源大国ブラジルと技術大国日本との関係が一層深まって行くことを考えると、県人会の存在はますます重要性を増していくのではないかと考えている。将来の県人会を運営していくのは留学や研修で宮崎を訪ねたことがある2世や3世が主体となると思われるが、県人意識の薄い2世や3世は協力しようという機運が乏しく、年々運営は難しくなっていくのではないかと心配している。日本の高度成長に伴って移住者は途絶えた一方、1世が高齢化して、現在15の都道府県人会会長は2世に交代。役員会議も日本語のみは少なくなり、ブラジル語による会合に変わりつつある。一部の県人会は会館、寄宿舎や駐車場収入で会の財源を確保しているが、多くの県人会が先行きに不安を抱いている。県人会を存続させる有効な方法は「ブラジル都道府県人会連合会」が県連センターのような拠点を建設して、各県人会の活動を手助けしていくことではないかと考えている(おわり)読後感として自分等のクラスは理系(農学部農学科)ということで入学したのは定員1割増しの33名。うち女性は1名であった。出身県は地元の宮崎と福岡が各10、あとは大分が7名、熊本2名のほかは佐賀、長崎、愛媛、滋賀が各1。物故者は8名なので25名が存命中。筆者の長友圭蔵君は宮崎市の生まれで県内一番の名門大宮高校から宮崎大学なので本人が述べているとおり目立たないおとなしい人であった。しかし、合格していた宮崎県庁を振って単身ブラジルに渡る勇気と覇気があったのだから、ただものではなかったわけになる。彼のおかげで93回にわたり、近くて遠い国?「ブラジルの歴史と現実」を詳しく知ることができた。1国の事をこれほど身近に読んだことは始めてである。長友君は22歳まで宮崎で育った生粋の日本人だから言葉の端々に、祖国日本と母国ブラジルを日本語的な使い分けに混乱しているところが多々感じられた。ほほえましいというか「祖国忘じがたく候」が感じられてさもあらんと感じ入った次第である。彼の生活圏であるモジ市、スザノ市、サンパウロ市、サントス港の位置関係については、グーぐるの世界地図検索でようやく頭に入ることができた。同級会の名簿によれば、スザノ市ワシントン通りが彼が住んでいるところだがグーグル検索でその通りまで知ることができるが、Rua Washintonは探し当てられなかった。この稿は、宮崎日日新聞をとっていない県外同級生に読んでもらうために書いたものである。異国で健闘している学友がいることに心から敬意を表するものでもある。
Oct 25, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第43回No91「日本の反対側」今も戸惑う生活習慣ブラジルと日本の時差は12時間、ブラジルの朝は日本の夕方である。NHK衛星放送を見ていると、こちらが夜なのに「おはようございます」といわれる。いつも妙な気分になる。日本が夏ならブラジルは冬。日本は北風が寒いが、ブラジルでは南風が寒さを運んでくる。家は北向きに建てると、冬は暖かく夏は涼しい。北米と南米は収穫期が違うので北米が不作のときはブラジルの作物の値段に期待が持てる。朝顔のつるの巻き方や水の渦も反対に巻いている。人のしぐさでもブラジル人はあいさつをする際、頭を後ろに反らすようにする人が多い。人をこちらに手招きするときは手のひらを上にして曲げる。日本人は思い通りになったときは親指と人差し指で丸を作るが、ブラジルではこれを女性の前でしてはいけないことになっている。そういうときは、右手の親指を上に上げて動かす。ブラジルでは幸福のシンボルである。日本では両手を挙げて人さし指を頭の上に立てるのは鬼を表わすが両手の4本の指を頭の上で動かすのはロバをのことで、間抜けの意味になる。ブラジルでは肉体労働をする人を軽蔑する傾向があり、日本から来た技術者が手を汚しながら仕事をしているのをブラジルの技師はただ見ていて問題になったことがある。学校の教室や校庭の掃除を(生徒に?)掃除させると必ず問題になる。(ブラジルでは)土産物をいただいて礼して(お礼を言って?)また次に会った際に2度目の礼をすると(お礼を言うと?)もっと欲しいと言っていることになるらしい。応接間にゾウの置物を飾っていると清掃員が必ず尻尾をこちらに反対向きにしてくれる。そうしないと幸福がやってこないのだそうである。ドアは日本は外側に開けるが、ブラジルでは内側に開く。のこぎりは押し切りで、車は右側通行。買い物した時のお釣りの払い方は、引いてではなく、足して払わないと納得してくれない。教え導く人を日本では指南役というが、ブラジルでは「ノルテアール(北を指す)」が指導することである。ミカンやアイスクリームはブラジルでは食べるではなく「シュッパ(吸う)」という。ブラジルと日本は、地球の反対側にあり、生活習慣も大きく違う。ブラジル生活50年の今も戸惑うことが少なくない。違和感なく溶け込めた時が真のブラジル人になった時だと思っている。No92「60周年式典」知事出席かやきもきブラジル宮崎県人会の大きな節目のイベントには、そのときの県知事をお迎えするのが習わしになっている。1958年の日本移民50周年記念式典には二見甚郷知事が出席。黒木博知事は1964年の県人会創立15周年、1971年の日米知事会議後、1974年の25周年式典の3回来伯。松形祐尭知事も3回(81年県人激励、89年40周年、94年45周年)来られた。今年の創立60周年記念式典にも東国原知事に参列していただくため昨年8月、招待状を持って帰県した。式典出席をお願いすると「日程調整がありますから」とあいまいな返事だった。「ブラジルの宮崎県関係者の慰労と激励のため、是非出席したいと思います」との返事を期待していただけに、がっかりした。ところが今年になって、知事が式典に出席する予定との情報が入って安心する。しかし、衆院選絡みで自民党の古賀選挙対策委員長が宮崎入りして、東国原知事に出馬要請をしているというニュースがNHKで報道され再び気をもんだ。「やはりダメなのか」とあきらめていたら、衆院選には立候補しないことになり、胸をなでおろした。全国的に知名度の高い知事だけにブラジル国内の報道陣からも問い合わせが殺到した。母県からの訪問団もチャーター便を使うほど来てもらえるのではないかと期待したが、世界同時不況、新型インフルエンザ流行、衆院選と重なったためか思ったほどではなく残念だった。知事は8月22日にサンパウロ着。23日に式典参加、24日にホンダロック工場を視察する慌しい日程。ブラジルは10年後には人口2億900万人、国民総生産は2兆6千億ドルに達すると予想され、大きく飛躍している姿をもっと見ていただきたかった。式典後のアトラクションでサンバショーがあり、知事はダンサーの中に入って、楽団に合わせて汗みどろの実に軽妙な踊りを披露された。ブラジル訪問を楽しまれているようで、招待状を最初に届けた私もほっとした。
Oct 24, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第42回No89「出稼ぎ」夢砕かれて帰国を断念1908年に笠戸丸が日本人移民781人を初めてブラジルに運んだ。戦前だけで約16万人がブラジルに渡った。ほとんどは金を稼いだら日本に帰る予定の出稼ぎ者だった。日本からの出稼ぎ者は世界恐慌の1929年ごろが最も多く、船で45日前後かかったといわれる。しかし、出国時の夢は見事に砕けて、儲かるどころか借金がかさみ風土病にかかったりでまさに地獄だった。もがいているうちに戦争が始まり、永住を余儀なくされた。日本移民は当初、ブラジルに同化しない民族だと「日本移民制限法」が出されたりした。戦後は同胞間の勝ち組、負け組みのいさかいが問題になったこともあった。しかし日本からの移住者は子どもの教育に力を入れ、各分野に優秀な人材を輩出。ブラジル社会に大きな影響を及ぼし、現在は広く一般に日本人は高く評価されている。一方、戦後の日本は好景気で人手不足となり、1989年頃にはブラジルから日本への出稼ぎが急速に増加した。ブラジルは当時年間2,000%を超すハイパーインフレ時代。日本はブラジルの裏側だといっても飛行機なら24時間で行ける。昨年の世界同時不況直前は30万人近くが日本に滞在していたとみられる。日本への出稼ぎは2年もすればまとまった金を手にできるのが魅力のようだ。帰国後は新車や住宅購入、商売や事業資金、子どもの教育費になっている。日系人は日本の各種生産に従事しているケースが多いが、母国に貢献しているという話しはあまり聞かない。日系人は、ブラジルに毎年20億ドルの仕送りをしながら、日本から技術や経営のノウハウを持ち帰っているようである。むしろブラジルからの出稼ぎ者は道徳観念がやや薄くて犯罪を犯したり、子弟教育に無関心な人がいることが取りざたされている。出稼ぎは、人の流れが所得の低い所から高い所へ流れていく現象である。永続性のあるものではない。日系人が日本に出稼ぎに行った初期は、コーヒー成金がサンパウロのパリウスタ大通りに豪邸を建て、子弟教育のためヨーロッパから家庭教師を呼び寄せていたといわれる。しかし、日本人移民がブラジルに着いた頃は、コーヒーが暴落していた。将来、ブラジルが好景気になって、日本人がブラジルに出稼ぎに来る時代が来るかもしれない。しかし、これからの時代はグローバリゼーションがもっと一般化して、ブラジル人がどこで働いても出稼ぎという言葉は死語になるだろう。No90「愛国心」政治家の欠如に怒りブラジルは世界60カ国以上から来た移民でできた連邦共和国だが、1世移民の心情として生まれ育った母国に愛着を持つのは当然のことである。では2世はどうか。本当にブラジルを愛し、大切に思う気持ちがあるかどうか疑わしい。サッカーのワールドカップになると、試合当日は朝から仕事は手につかず、試合中は渋滞するサンパウロの大通りも車一台走らない、まるで死んだ街と化す。試合に勝てば大勢の人が通りに繰り出し、ブラジルの国旗を振り回し、あるいは自分のシャツを振り、大声で「ブラジル、ブラジル」と声も嗄れるほど叫び、クラクションを鳴らして大騒ぎする。それは翌朝まで続く。これが愛国心の発露なら、ブラジル人は世界にもまれな強烈な愛国心を持つ国民のような気がする。しかし負けたときは、いついなくなったか分からないように帰らないと罵声を浴びせられ卵や石を投げつけられる。私は45年前にブラジル人になった。ブラジルの大学で勉強して奨学金をもらい、現在は国から恩給をいただいている。予防注射、バスや電車は無料。博物館入場料やイベント参加は無料か半額という恩恵を受けている。そして長女も州立大学と大学院は無料の上、返済不要の奨学金を受領。三女も州立大学を金を払わず卒業させてもらった。本当にブラジルはいい国だ。それなのに(自分は)何と恩知らずな人間なのだろうか。日本の国歌を聞き、日の丸の旗を見ると目頭が熱くなる。しかし、ブラジルを愛していない訳ではない。外国を旅行していて、ブラジル語を話す人に会うと、寄っていって話しかけたくなる。ブラジルではジャニオ大統領の辞任後、ゴラール政権もクーデターで倒れ(1964)て軍事独裁政権が約10年続いた。民生復活で大統領選挙が施行されたが、1992年にはコーロル大統領が汚職事件で弾劾裁判にかけられて失脚した。1992、93年のハイパーインフレの思い出が走馬灯のように頭をよぎり、ブラジル人と同じ体験をしたことでブラジル人としての意識を強くする。私もブラジルの法規を守らなかったりしてきた人間で大きなことは言えないが、政治家の汚職や自分たちに都合のいい法令を作っているのを見ると、これが本当の非国民で国家発展にブレーキをかけているやからではないかと憤怒を禁じえない。ブラジルも北米も移民の国でありながら、北米は世界第一の大国となり、ブラジルは最近力をつけてきたとはいえ、世界を主導するにはまだまだ問題が多すぎる。愛国心の欠如ではないかと思う。
Oct 23, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第41回No87「食生活習慣」油を使った料理好むブラジル人の三大死亡原因は、心臓病、がん、伝染性疾病である。生活が豊かになるにつれて心臓病は年々増加している。世の中が便利になってどこに行くにも車を使い、運動不足になりがち。また脂肪分の多い食べ物やファストフードを気軽に食べるようになったためだともいわれている。ブラジル人の多くは肥満気味で、女性は尻の発達した人が多い。サンバダンサーはウエストがくびれていて尻が大きいのが普通で、やせた女性はあまり見かけない。私はうどんやそばのような淡白な料理が好きなが、妻が「ベン(自分の夫を呼ぶ言葉)の好きなものを買ってきわ」という時は焼き肉や脂っこいものが多い。とにかくブラジル人は、バーベキューが好きで、高級アパートの宣伝には必ずバーベキュー装置ありと出ている。バーベキューの店に行っても支給人が運んでくる焼き肉をことごとく、いかにもおいしそうに食べている。私は同じ料金を払って半分か3分の1しか食べないのでいつも損をしたような気になる。親族や友人が集まる誕生会や正月にはバーベキューは欠かせない。岩塩を振りかけ、脂のぽたぽた滴るのが一番うまいという。客が多かったときは「牛を何頭食べた」と自慢している。そしてブラジルの料理にはよく脂が使われる。日常の食事にも必ず油を使っている。ご飯は鍋に油をたらし、ニンニクと玉ネギををいため、その中に水を切った長粒米を入れてしばらくかき回した後に炊く。おかずは肉を焼き、残った油でタマネギをいためる。ご飯にフェジョン(豆の煮込み)をかけ豆をつぶしながら食べる。ワールドカップで5回も優勝した原動力はフェジョンコンアホース(フェジョン飯)のおかげだといわれる。日本人(日系ブラジル人)が新鮮な野菜を作るようになってブラジル人の食生活も豊かに健康的になってきた。しかし、食べ物ほど保守的なものはない。世界60カ国から集まった民族はかたくなに自分たちの食べ方にこだわって、ポルトガル慈善病院は心臓病患者でおおにぎわいである。最近、日本食人気が出てブラジル人もはしを使って刺身や寿司、豆腐を食べているのを見かけるようになった。これがブラジル人の食生活改善に寄与して健康なブラジル人が多くなればよいがと思っているNo86「すたれる小切手」便利で安全なカード日本では小切手で支払いをする人をあまり見かけないが、ブラジルでは普通の決済手段だった。今年になって支払いカードが小切手使用額を上回るようになった。店の人に聞くと支払いカードがうんと安全で便利だという。銀行口座に残金があるかどうかは即座に分かり、入金があればすぐに口座に振り込まれる。現金や小切手を持って銀行に行く必要もない。いずれカード使用が多くなっていくことだろう。商売を始めたころ、小切手は随分重宝なものであった。もちろん不渡り、盗難、紛失の恐れはあったが、手続きをすればたいした損失にはならなかった。ハイパーインフレ時代は10回払いで小切手を10枚渡しておくと、人によっては約束の日付前に振り込まれて大慌てすることも度々あった。日系人の小切手なら大丈夫だと思い込んでいて、それが裏目に出ることもあった。またモジ市では、一時期大切な顧客だった大規模農業経営者がいた。経営が左前になり、農業資材店を回って借金をしているようだとの噂を聞いた。私の店にも肥料約20トン分の代金支払いが滞っていた。何とか取り返さないと店の経営が危うくなるので約30キロの道を車をすっ飛ばして集金に行った。しかし「野菜が安くて払えないから来週着てくれ」。翌週行くと、また無理だと言う。損を覚悟で、無利子10カ月払いで小切手をもらった。これが何回か不渡りになり、その度に現金を貰いに走った。小切手にはその人の取引額に応じて普通、特別、黄金小切手などがあった。黄金小切手は銀行に残額がなくてもある限度まで支払ってくれた。その代わり利子が高く、毎月相当な額を銀行へに払わなくてはならなかった。銀行の収益で最も多いのが小切手からの収入だといわれていた。
Oct 22, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第40回No85「信用して失敗」支払い拒否されて大損儲けるという字は「信じる者」と書くが、私が商売を30年続けて得たことは「人を見たら泥棒と思え」だった。西洋文明を受け継いだブラジルでは「紙に書いて署名したものでなければ絶対信用するな」と言われる。同胞を食い物にして涼しい顔で生きている日系人がいるが、世の中はそう甘いものではない。いずれ年貢を納め時は必ず来るようである。私も商売をして何度か嘘に引っかかったことがある。今でも思い返すと腹の立つことがいくつかある。常連でない客が肥料を5トン買いたいという。そして「これは銀行融資にするので保証人になってくれ」と頼まれた。これまでも何人かの保証人になって問題がなかったので、気軽に承知した。約半年後に銀行から、本人が払わないから貴殿が払えとの通達。それも24時間以内に払わないと差し押さえの手続きをすると言う。慌てて本人のところへ行くと「払う金はない」の一点張り。ならば農機具をもらっていくと告げると、農機具は自分のものではない、若し取り上げるなら警察へ訴えると言う。結局あきらめるしかなかった。店の調子が悪くなりかけたころのことであった。ベンツの15トン積みのトラックを持っていたが、運転手がこのトラックは故障しやすいので取り替えた方がよいとしきりに言う。私も7トン積み程度のトラックに代えようと考えていた時だった。今思うと運転手とトラックの売り手は口裏を合わせていたのだろう。この車なら今の店には最適だと盛んに勧める。車のことはよく分からないので運転手を信用して私の15トンベンツトラックとそのフォードトラックを等価交換してしまった。全く迂闊だった。1週間もしないうちにエンジンが焼けてしまった。この時は店を継続できないのではと思うほどの打撃だった。No86「時間の使い方」何もしないと罪悪感私は普通の人なら1回で頭に入ることが3回、4回と繰り返し叩き込まないと理解できないのでどうしても時間がかかる。私にとって時間をどう有効に使うかは人生の課題であった。休みの日に何もせずにテレビを視ていると罪悪感を覚える。組合で働いていた頃は出張が多くカバンの中に必ず1、2冊の本を携行した。スザノ市に店を構えてからは本当に時間の使い方に困った。忙しい時は昼食を食べる暇もなく、暇になったと思ったらすでに4時か5時になっていた。しかし、暇な時は客は1人か2人。それもつまらない話しを1時間も2時間もして帰る人である。日本から農業書や雑誌を買い込んでいたが、払う金がなくなると、般若心経の写経をして時間を潰したこともあった。スザノ市からサンパウロまでは約40キロだが、いつも渋滞がひどくて2時間以上もかかった。車中の時間はもったいない時間である。ラジオを聴いたり、CDやテープで音楽を聴いていた。最近はやや改善したが、銀行での現金の出し入れには、30分から1時間かかる。役所での手続きや支払いにも長時間は当たり前だった。特にひどいのは年金の手続きの行列。朝4時ごろ並び、午後2時ごろ順番が回ってきて、必ずあれが足りないこれが足りないと言われた。また別の日に行列に並んでようやく年金がもらえた。時間を有効に使うには、いつもこれからの行動を頭の中で想像して、どうすれば短い時間で済むか、暇な時間をどのように生かすかを考えておくべきである。
Oct 20, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第39回No82「所得格差」容易でない差別解消ブラジルには人種差別はないと言われるが、奴隷制度の名残がある黒人はあらゆることに機会均等ではなく依然いろいろなハンディがある。大学の学生定員の何%かは黒人を入学させなければならないことになっているが、入学してもほかの学生についていけないと退学する学生が多い。黒人の社会的地位の向上にはいろいろと優遇措置を設け援助の手を差し伸べないと、現状を打破するのは難しい。一握りの高額所得者の住む高級住宅街があり、中産階級の街が続き、ある一角に貧困者が肩を寄せ合って生活している。ブラジルではスラム街一帯をファラーベと言う。街の近くの空き地に不法侵入し、どこからか集めてきた木切れや廃材でミノムシのような家を造って住んでいる。このファラーベはブラジル全土に約4千カ所あり、サンパウロ州にも約1500カ所ある。ブラジルの貧困者は自分たちが貧しいのは、日本人が我々を働かせ搾取しているからだと言う人がいる。貧困層には犯罪や病気が発生しやすい傾向がある。ブラジルの治安を良くするのには、まず所得格差を少なくすることが重要であるが、簡単な問題ではない。No83「目覚しい国威」振興4カ国の「旗頭」ブラジルに関する情報が増えてきて詳しい知識を持つ人が多くなった。しかし、日本からの客を迎えるとき、この人はブラジルについてはアマゾン、サッカー、サンバぐらいしか知らないのではないかと思うことがある。サンパウロの空港から中心街へ向かうと「随分ビルがありますねー」と感心される。サンパウロの高層ビルの数は世界1、2位を誇る。地下鉄も総延長62キロ、1日約300万人を運んでいる。今年6月8日夜7時のサンパウロ市内の交通渋滞は延べ293キロに上り、史上最高を記録した。自家用機やヘリコプターの所有数は約12,000機、そのうちヘリコプターの所有数は世界上位となっている。海岸線には延々とぜいを尽くした別荘が立ち並び、ヨットハーバーには豪勢なヨットが係留されている。木曜日が休日なら金曜日も休んで海や山、遊園地に出かけ、どこも芋を洗うような混雑になる。ブラジル人は余暇を楽しむ天才のようである。BRICsの「旗頭」はブラジルである。しかし日本のマスコミには中国、インドの名前はよく出るが、ブラジルについての報道は少ないような気がする。今回の世界同時不況でも最も早く回復するのはブラジルだろうといわれている。これまでは先進8カ国会議が世界経済の舵取りを行なってきたが、これからは20カ国会議が重要性を増してくるであろう。1987年にモラトリアムを宣言したブラジルが今はIMFに100億ドル出資できるほどの国になった。世界経済の安定を論ずるとき、ブラジルの存在は無視できなくなった。ブラジルはラテン系の民族が多く明るく楽天的な雰囲気がある。ブラジルの歴史を振り返ると流血革命は少なく、殆どが穏便に収まっている。すでに幾つかの国が移民100周年を迎えているが、日系人には特に好意的で、功績を高く評価している。ブラジルに足を踏み入れた人は日系人に対する温かいもてなしを異口同音に言う。No84「国家プロジェクト」新幹線や道路が次々大きなプロジェクトが発表されると胸がわくわくする。リオとサンパウロを結ぶ新幹線、近いうちに入札が行なわれ、2014年のFIFAワールドカップブラジルまでに完成の予定。開通したら是非試乗したいものである。ブラジルの大きなプロジェクトは、1900年のブラジリア遷都、75年のイタイ・プーダム完工、トランス・アマゾニカ道路着工、セラードの開発、サンフランシスコ川流域の灌漑工事、カラジャス鉄鋼山の開発、ウジミナス製鉄所の造成、アルブラスアルミ精錬工場、セニブラ日伯紙パルプの設立、テレビ放送のデジタル化などがあった。来年末には大陸横断道路開通が控える。その殆どに日本の資本や技術がかかわっている。これらのプロジェクトが稼動するようになり、ブラジルは世界で頭角を現し始めている。そしてさらに新しいプロジェクトも企画されている。日本の23倍ある広大な国土は、今後の発展のために人や物の輸送がスムースに行なわれることが喫緊の課題である。そのため、リオ-サンパウロ間の新幹線、北伯での鉄道敷設、道路建設、パラナとサンパウロを結ぶチエテ川水路計画などが企画されている。ただ現在は政府が強権発動して実行できる時代ではなく、住民や世界からのまなざしを気にしなければならなくなっっている。メジチ大統領時代に華々しく着手したトランス・アマゾニカ道路は進捗率25%でストップ。今はアマゾンの自然環境破壊のやり玉ににあがり、住民から大きな抵抗に遭っている。エネルギー確保については、非常に明るい見通しが立っている。現在、イタイプー発電所はブラジル電力消費量の25%を賄っているが限界に近く、アマゾン支流での発電所建設が企画されている。最近エタノールが脚光を浴びたが、石油価格低迷で頓挫してしまっている。石油が高騰すればまた出番もあるだろう。何といってもブラジルにとって力強いニュースはサントス沖の岩塩層下の石油発見である。エスピリト・サントスからサンタ・カタリーナに及ぶ800キロの間に約50億~80億バレルの上質油が埋蔵されているという。
Oct 18, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第38回No80「電話のこと」国土広く携帯が普及1973年頃、モジ・ダス・クルーゼス市は商店の種類や数、インフラ整備もスザノ市より充実していた。このためどうしてもモジ市に頼ることが多かった。両市の距離は約12キロ、車なら20分で行けるが、電話なら3時間ぐらい待たされることがあった。しかし、電話はやはり便利である。父が危篤だとの電報を受け取った時、ブラジルからはすぐ帰ることができないから電話をかけることにした。宮崎市芳士の実家の電話番号を知らず、とにかく宮崎市の交換手に「宮崎市の長友貞美方をお願いします」と言ったら、赤江の同姓同名の人につながった。「その人は知っています」と教えてもらい、父の臨終の枕元に集まっている家族の声を聞くことができた。母の誕生日は「虫歯の日」の6月4日。毎年この日は電話をかけることにしていた。その日になると母は朝から電話の前で私からかかってくるのを待っていたという。「ブラジルの契蔵だけど誕生日おめでとう」と話を始めると「電話代が高いちゃかい元気な声を聞くだけでいっちゃが」といって電話を切った。しばらくの間、電話は高価で入手が難しく、有利な投資対象であった。出稼ぎでためた金で50台を買い賃貸しをしている人もいた。今は携帯電話が主力になっている。最初にスザノ市で携帯を売り出した時、朝早く家内と購入手続きに行った。販売台数の3倍以上の希望者がいて、約3時間待って手続きをしたが、運悪く当らなかった。最近、サンパウロ行きの電車の中ではこんな人がと思うような人まで携帯を持っている。生活の必需品になってしまった。ブラジルのように国土が広いと有線電話より、あちこちに携帯電波の中継塔を建てたほうが手っ取り早いようである。インターネットを使えば海外に電話をしても国内料金と同じとかで娘は夜中にアメリカ、フランス、オーストラリア、日本の友人と長電話をしている。私は携帯を持つ必要性を感じなかったが、県人会会長になって持つようになった。電話番号を100人くらい登録して、とても便利なのでいつも使っていたら、電話代が高くなるので気をつけて使うようにといわれた。忘れ物をしたとき、交通事故にあったとき、住所が分からないときや急用ができたときに携帯電話は重宝である。No81「鳥について」自然失われ生息損減少/font>ブラジルも開発が進むにつれて自然が失われている。以前見かけた鳥や動物も姿を消してしまった。モジ市の我が家ではミモザの枝に小バトが巣を作り、近づくとバタバタと羽音を立てて飛び立ったものだ。水槽で飼っている金魚をいつまでも待って食べてしまうサビアー、朝早くからイペーの木で鳴くビンテビー、ブーゲンビリアの花の蜜を吸いに来るハチドリも見かける機会が減った。店先で餌を探しているハトにトウモロコシを投げてやったことがる。次の日から開店前に電線に止まって餌を待つようになり、数も20羽ぐらいに増えた。近くの人から「汚して困るから餌をやらないでくれ」と言われてしまった。ブラジルでは足を不潔にして悪臭がすると「ウルブーが空を飛ぶ」という。しかし、ウルブーは目で死んだものの場所を知るらしい。道路で犬や猫が轢かれて死ぬといつの間にか片付けてくれる。プトマイン(死肉毒の総称)免疫を持っているらしい。入植直後に1年半研修した東山農場から研修所まで約4キロあったが、カラスより幾分小さくて人懐こいアヌーをよく見かけた。いつも牧場の牛と一緒にいて牛の背中に乗って耳を覗き込んでいた。ついているダニを食べているのだそうだ。パンタナールのサンフランシスコ農場ホテル行った時は、18羽の雛を連れたエマがいた。体重が35キロ前後あって飛べない鳥。メスは卵の孵化や子育てはオスに任せ、また別のオスと一緒になり卵を産み、またひなはオスに育てさせる。生存率が低いため多くの卵を産んでおかないと種の保存ができないのだといわれる。ヒナのうちは人間が小屋で育ててやればいいと思うが、自然環境局が許さないそうである。人間によく懐く鳥にジョン・デ・バーロがいる。スズメより少し大きい、黄色がかった褐色鳥で、人家のそばの梨の木や電柱にオス・メス力を合わせて、1週間くらいかけて粘土の内部が2室ある巣を作る。いかにも人間が笑うように「ワッハッハ」と羽を震わせながら大声で鳴く面白い鳥である。森や林の中より人間のそばに住みたがる鳥である。
Oct 13, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第37回No78「国名のいわれ」染料を作る木に由来ブラジルの国名は、染料を抽出するパウ・ブラジルという木に由来する。紀元1500年、カプラルがブラジルを発見した時、大陸とは知らずにベラクルス島と見誤ったため、国王が聖十字の地と命名。しばらくはこの名が使われた。しかし、カトリック教会が強く反対したため、一般にはパウ・ブラジルの地とか、オウムの地と呼ばれ、結局ブラジルという名になった。(ヨーロッパでは)赤い染料を抽出する木は東洋から導入していたが、その後(ブラジル殖民後)はブラジルからパウ・ブラジルが大量に運ばれるようになった。乱伐と盗伐により18世紀後半頃には野生のパウ・ブラジルは著しく減少。この産業(貿易)は衰退した。ブラジルには、乱伐や開発によって絶滅しつつある植物が多数指摘されている。その一つに、ジェキチパー・ローザがある。この木は長寿で威風堂々としたたたずまいからサンパウロ州を象徴する木とされ、ブラジルの「国民友愛の木」といわれる。この木はかつて大西洋海岸森林地帯の土壌が肥えた、水分が適度にある所に自生していたが、一帯の開発とともに絶滅の危機にひんしている。昨年、アニアンゲーラ街道245キロのサンタ・リッタ・ド・パッサ・クアトロ市のバッスヌンガ州立公園内に聳え立つジェキチパー・ローザの木を見た。高さ39メートル、胸の高さの直径3.9メートル、根の深さ18メートルあった。全体の重量推定100トン。これまで吸収した二酸化炭素の量は40トンといわれている。杉の一種パラナ松は、アラウカリア気候地帯で育つ。ブラジル南部を旅行するとあちこちに番傘を広げたような変わった木を見かけたものである。クリチーバからサンパウロを結ぶ街道を走るトラックの多くはパラナ松を積んでいたが、今では殆ど見かけなくなった。パラナ松の伐採を厳しく規制しているがいつの間にか姿を消していく。失われた自然を取り戻すことはできない。今ある自然を大切に残していかなければならない。No79「難しい金儲け」損をする正直な人間日本を出る時、祖母から「ブラジルに行ったら絶対借金はするな」ときつく言われた。祖母は子を教育しながら財産を作った人なので、チャンスをつかんだら借金をしてでも手に入れようとしたのではないかと思っているので、この言葉は意外だった。私はブラジルに来て以来、恥ずかしいながら借金の鎖につながれて生きてきた。土地、車、家電製品、日本旅行、一度も現金で払ったことはない。月賦払いだった。商売をしている時も商品仕入れはすべて後払いか、小切手なら1週間とか1カ月の先付けで払った。小切手は人によって預金残額より余分に振り出してもいい額があって、それも使い切って不渡りになることもしばしばだった。ブラジルのインフレ率は1993年が2103%、翌年が2123%を記録した。月換算で30~40%のハイパーインフレ時代には、一日の売上金を銀行の閉まる前に走って預けにいき、オーバーナイトで利子を稼いだ。上手に運用すれば利息で従業員の月給が稼げたものであった。仕入れ代金はできるだけ遅らせ、売った代金はびしびし取り立てていた。品物を売って仕入れに行くと、どうかすると売った値段より高く払わなければならなかった。損をしないようにすべてドル建てにして、その日の為替レートで換算するようになった。インフレは正直な人間は損をして、ずる賢い人が得をするようになっている。このようなトンネルを通るとその習性がなかなか抜けきらない。物価が安定しても月賦で買うと得をしたような気がして、欲しいものにあれこれ手を出し首が回らなくなることもある。商売を辞めた今は、1カ月後の清算カードを使用。現金での買い物ならいくら使ったからいくら残っているか分かるが、カードの場合こんなにも使ったのかとびっくりすることがある。ブラジルでも銀行と一切取引せず、すべて現金決済している会社がある。社長は身の安全に気を配り、車で移動する時にも警戒を怠らない。どこに住んでいるかも一切公表せず、常時3人の護衛をに守られている。スザノ市で100万羽の採卵鶏を飼育し、従業員100人を雇っているIさんは月給を小切手で払っていた。しかし、従業員が小切手を換金するため銀行に行き半日くらい休んでしまうので、現金で支払うようにしたところ強盗に襲われた。やはり小切手が良かったと言う。ブラジルでの金もうけにはいつも危険が伴っている。
Oct 12, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第36回No76「野山の花」教習を強くくすぐるブラジルで木や花を見ると故郷宮崎を思い出す。春先のレンゲソウ、土手の草を刈る時気をつけたのは毒を持った黄色い花を咲かせるキンポウゲ、とげのあるアザミ、赤い派手な色をしたマンジュシャゲだった。「神武さん」の藤の花、垂水の桜、木花鏡州のツバキ、霧島のツツジ、学校帰りにいつも新芽を食べた白いノバラを思い出す。ブラジルに上陸して初めて見た紫色で油の匂いのするカッピン。ゴルヅーラ(アブラグサ)の花は忘れられない。サントスへ下る街道から見えるクワレズマの花も見事。7月か8月になると緑に包まれた森や山にイペーの花がくっきりと黄色い花をのぞかせる。イペーはブラジルの国花で、日本の桜の花と対比してたたえられている。自宅前の歩道に3本のイペーの木がある。高さ約15メートルの成木だが、下を通る人が立ち止まって思わず見入るほど美しく咲いたかと思うと、別の年はぱらぱらとしか咲かない。イペーの花には黄、紫、白色があるが、何といっても黄色のイペーの花の美しさは格別である。インド辺りの原産といわれる。ブラジルの各地で見かける綿の木(パイネーラ)は、遠くから見ると花が桜に似ていて、日本人の郷愁をくすぐる。誰が持ち込んだのか分からないが、ブラジルにはアジサイの名所がある。南リオ・グランデ州のアジサイは有名。花の時期にはブラジル中から観光客が駆けつける。サンパウロから194キロの距離で、標高2千メートルにあるカンポス・ジョルドンの霧雨に濡れたアジサイはことのほか素晴らしい。最近日系人が桜を各地に植えて桜まつりが行なわれている。オキナワザクラ、ヒマラヤザクラ、ユキワリザクラが主体のようである。ツバキは気候があわないようである。我が家にはサザンカがあって毎年紅色の花を咲かせ郷愁を癒してくれる。ブラジルからも世界に観葉植物、カトレア、プロメリアなど多くの植物が広がり人々の目を楽しませている。No77「きれいな街」屋外広告の看板禁止ブラジル各地を旅して街が随分きれいになったと実感する。街の入り口にある公園には街の名前がすぐ分かるように明記され、市長の力量を競うかのように飾ってある。街の中にはモダンなビルが建ち並んで近代的な都市が多くなった。現在、サンパウロ市では広告宣伝用の看板は一切禁じられ、ビル屋上のネオンは姿を消した。目抜き通り多かった日本企業のネオンサインもなくなった。ところが、意味不明の落書きは一向になくならない。私も店を開いていた時、シャッターや塀、壁によく落書きされた。梯子をかけても危ないような所にまで書いている。4、5階の高さの所にはスプレーで書いている。スザノ市には30年近く住んだ。引っ越した当初は、市中心街に溝があり、下水から鼻をつく悪臭がした。それも地下に埋設され、今では地下に下水が流れていることさえ知らない人が多くなった。スザノに日本人が入植したのは1921年。当時は駅周辺に数軒の家が点在する寂しい町だった。そこで日本人は花や野菜を栽培し、汽車でサンパウロに出荷していた。街を出るとどこも泥道。雨のあとは農産物を出荷できないこともあった。私が住むようになってからもしばらくは駅西側のチエテ河沿いは度々洪水になったが、今は上流にダムが造られ水害もなくなった。スザノでは宮平ペードロ氏が市長になって街の基礎ができたといわれる。最近まで、一人当たり税収はチエテ河沿岸の都市では最も多かったが、今はモジ市に追い越されてしまった。モジ市は、来年450年を迎える歴史のある街で、古い教会が多い。道路が狭いため車社会の今は窮屈な街にになってしまった。ショッピングセンターやスーパーマーケットは郊外へ移りつつある。2001年から8年間安部順二氏が市長を務め、大企業を誘致し、サンパウロやリオへの街道を完成させ、チエテ河流域を代表する雄都となっている。サンパウロからモジ市に入る所には道路をまたぐ大鳥居が建設され、日系人の存在を誇示しているようである。市民生活は為政者のかじ取り方で大きく左右されるようである。
Oct 10, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第35回No74「書籍の行方」若者には、無用の長物昔から本は大好きで大事なものだと思っている。本を粗末にする若者には腹が立ち情けない。日本人は世界で最も本を読む国民である。ブラジルでも日本人移民は本を読む人が多く、ブラジル発展に何らかの役に立っている。ある研究者は「日本人が日本の農業技術書を読み、その技術をブラジル農業に取り入れた」と述べている。一生の時間は短いので、自分の役に立つ本を読むためにはどうしても保管する本の数は多くなる。本がどれだけ仕事に役立ち、心の支えになったかしれない。貸した本が戻ってこないのが気になるように、失った本はことさら残念でならない。ブラジルに来て6回ぐらい引越しをした。そのたびに一番手間がかかって重いのが本。スザノ市に移転する時は蔵書を大事に箱につめて運んだが、家が狭くて農場に保管していた。ところが管理人が邪魔になるからと外に放り出し、雨に濡れて取り返しのつかないことになってしまった。現在の蔵書は、園芸辞典、百科事典、徳川家康26巻ほか小説・随筆・人生論などがある。娘たちから無用の長物で邪魔になるだけ、と言われるのは涙が出るほど悲しい。生きている間は手元に置きたいと思うが、死んでからはどうなるかわからない。移民1世は高齢化して同じような心境の人は少なくないだろう。時代の流れで、必要な情報はインターネットで検索したり、電子書籍が普及して本の影が薄くなる日が来るのかもしれない。No75「使用人のこと」読み書できず苦労読み書きできない日本人は皆無に近い。ブラジルでは現在、15歳以上の人口約1億4千万人のうち、1割の約1,400万人が文字の読めない国民である。読み書きできない人撲滅運動で毎年800万人が学校に入学するが、約43%が仕事や家庭の事情などで中退。ブラジル発展の足かせになり、所得格差の要因にもなっている。ブラジルには、1550年から1831年までに400万~500万人の奴隷がアフリカから連れてこられたといわれる。奴隷の中には文字の読める人がいたが、農場主には文字の読めない人もいた。植民地時代には管理上、文字を教えない政策が取られた。現在でもブラジルの指導者階級には、パンとカーニバルとサッカーでストレスを解消させてやればストライキやデモをする輩は出ないと思う人がいる。私は商売がダメになったときに備えて、スザノ市の農場に極楽蝶花、ラン、コンニャク、高麗芝を栽培。(非日系)ブラジル人の管理人を雇用していたが、読み書きができないので親指の指紋を採るしかなかった。読み書きはできなくても3回に分けて支払う給料の残額計算などは正確であった。先住民が文字を覚えるようになって、それまで部族内で伝承されてきた生薬名や効能を忘れてしまったといわれる。文字のない世界では野生的な勘や脳が特別な働きをするのかもしれない。この男は文字を書いたものに価値を認めないのには全く閉口した。彼の住んでいた住宅の隅に保管していた300冊くらいの本を邪魔になると捨ててしまったこともある。どうして捨てたかと詰問しても邪魔になるから捨てたと平然としていた。教育を受けていないブラジル人は「自分は文字が書けないから」「勉強していないから」と自分をわきまえたようなことを言うが、わずかのことで興奮することがある。月給支払いのとき、少しの食い違いで殺された人がいると聞いたことがある。文字を覚え、読み書きができるようになることがどれだけ大切か考えさせられる。
Oct 6, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第34回No72「人の心の変遷」権利意識が芽生えるブラジルで奴隷が解放されて120年がたつ。現在では、奴隷制度の名残もなくなり、使用人の権利が強くなってきた。ホームレスや、体の不自由な人へ施す人も少なくなった。ヒッチハイクで車に乗せてくれる人もいなくなった。1960年ごろには大卒は特別な人であったが、今では大学を出るのは当たり前になって、一流大学を出ても外国に出稼ぎに行く人がいる。モータリゼーションが進んで特殊な人間も形成されているようである。交差点でシグナルが青に変わり、スタートの反応が遅いと後ろから警告のクラクションをならされ、「お前は間抜けだ」と言われる。前を遮っただけでピストルを向けられることもある。地下鉄では30秒程度で乗り降りしなくてはならない。最近ブラジル人も走るようになってきた。ブラジルでは約束した期日を当てにしていると「アテアマニアン(またあす来てくれ)」と言われたものだ。今では期日も守られるようになってきた。コンピュータ全盛で高齢者には生きにくい世になったが、ブラジルは高齢者に対していろいろな優遇措置が取られていてありがたい。ブラジルに住んで50年。時代も変わったが、人の心も変わった。No73「富を求めて」堅実経営は至難の業戦前の移住者の大半はブラジルで金をもうけて、4、5年後には故郷に錦を飾るつもりでいた。しかし、現地に来てそれはかなわぬ夢となった。戦後の移住者は永住する気持ちで移住した人が多いようだが、日本よりもっと豊かな生活設計を描いて来たに違いない。日本からの移住者は戦前19万人、戦後25万人に上る。果たしてどれだけの人が目標を成し遂げただろうか。ブラジル移住が再開されて56年。戦後移住者で大農場主、大企業家になった人は少ない。戦前移住者では世界80カ国に噴霧器を輸出してポンペイア市民生活の8割を支えていると言われる西村俊治、ブラジル化粧品の帝王といわれる池崎博文、奥地で大々的に農場や加工工場を経営する前田常左衛門さんの子孫の活躍が際立っている。宮崎県移住者では、戦後ミナス州でコーヒーやゴム栽培をした興梠太平、南マット・グロッソ州で綿や大豆を栽培する竹原祐貞、アマゾン河口のパラー州でテッカ6万本を植林する小野和親さんらが突出している。長い目で見ると堅実経営をするのは至難の業である。一時大きな事業を営んでいても途中で挫折した企業も数多くある。農業に不適と言われたサンパウロから1,200キロ離れたジャナウバで、灌がいによるバナナ栽培を始めて一大産地に育て上げた山本勇次さん。バナナの年間出荷量3万5千トン。ブラジル最大規模を誇っている。いつも自分より周囲への配慮を忘れなかったという。前述したポンペイア市でジャクト噴霧器会社を世界的な企業に発展させた西村さんも地域社会と一緒にに栄えていこうとする姿勢が共通している。成功した移住者は明確な目標を持ち、いつも新しい事業に挑戦しようとする勇気を持っている。社会繁栄のために仕事をしているようである。
Sep 30, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第31回No66「カラオケ大会」年齢別に細かな階級ブラジルにカラオケが入って20年近くなる。サンパウロには「サンパウロカラオケ連盟」があり、250のカラオケ愛好会が加入して毎週5~10か所でカラオケ大会が催されている。大会参加費は約7ドル、400人の応募があると2,800ドルの収入になるが、入賞者トロフィー代、審査謝礼、会場費、プログラム代などの費用がかさみ決して儲かるものではない。スザノ市在住のカラオケ愛好家は、毎週どこかのカラオケ大会に挑戦し、年間100個以上のトロフィーを貰い「家の中はトロフィーが一杯で置き場所がない」と言う。どうしてこうもカラオケが盛んなのか。自己陶酔してなんともいえない気持ちになるようである。ブラジルのカラオケ大会は、日本の柔・剣道に段位が設けられているように、それぞれに階級がある。まず年代によって、児童、学童、青年、壮年、高齢者などに分け、熟達度で、新人、B級、A級、上級、特上級、ベテラン級に達する仕組み。新人は、1回優勝すればB級に昇格、B級で2回優勝すればA級になる。A級から上級に上がるには違った曲で3度優勝しなければならない。上級から特上級になるには、それぞれ違った曲で5回優勝することが必要。特上級からベテラン級へはやはり違った曲で10回優勝することが条件である。A級あたりまではスムースに昇格できるが、それ以上になると大変難しく10年以上も足踏みしている人もいる。歌う曲は何でもいいが演歌が殆ど。参加者は1世の高齢者が多いが、2、3世層にも広がっている。非日系の参加は10%程度である。宮崎県人会は、週3回、指導者が付いたカラオケ教室を開いている。参加者は100人前後で、上、特上級の人が多い。ベテラン級に達した歌手も4、5人いる。第3回県人会カラオケ大会には406人が応募し、朝7時から夜11時まで次々と歌い、審査員がカテゴリーごとに採点して、その日のうちに結果を発表する。No67「ふるさと巡り」団長として5回参加今年3月6日~11日、県連移民ふるさと巡りの団長としてリオデジャネイロ方面を旅行した。団長を務めたのは今回が5回目。この事業は、88年、移住80周年を記念して始まった。今年で21年、通算では31回目の旅行となる。ブラジルに移住した日本人は、9割以上が農業移住者でアマゾン、パラナ、マット・グロッソ、サンパウロ州など各地で農業に従事した。契約労働期間を終えると別の耕地に移動したが、子弟の教育のため市内やその近郊へ移転した人が多い。ふるさと巡りの参加者は70歳以上が多いものの、これまで病人が出たり、事故が起きたことは一度もない。1週間から10日間も一緒に旅をするので自然と親しくなり、再会を楽しみにしている人も多い。、訪問した移住地では必ず住職にお経を上げてもらい、開拓先亡者のみたまに合掌、焼香して、法話を聞くことになっている。この事業は大変好評で31回の内27回も参加している人もいる。次の予定を発表すると、1週間もしないうちに定員をオーバーして、断るのに苦労している。ふるさと巡りの一団は、40人乗りのバス2台か3台で、サンパウロの日本人街を夜間に出発する。アマゾン方面には飛行機を利用している。総勢が100人以上になると、宿の確保や食事の準備が難しい。これまでパラグアイ、アルゼンチン、日本にも足を延ばしたが殆どブラジル国内の日本人移住地巡りである。訪問先の歓迎会では、まず、先没者の霊に黙祷をささげ、関係者や団長のあいさつに続き、その地方の簡単な歴史を話してもらう。乾杯後は婦人部が作ったふるさとの味をご馳走になりながら、現地会員の和太鼓、日本舞踊、武道の模範演技やカラオケを楽しむ。最後にふるさと巡りのテーマソングである「ふるさと」を歌ってお別れすることになっている。
Sep 23, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第30回No64「果物の変遷」種類豊富で安さ魅力ブラジルの都市の発達、道路網整備、文明の利器の進歩をこの目で50年にわたって見てきた。農業面の発達も目を見張るものがある。コーヒー、綿、はもとより牛、鶏、豚肉、オレンジ、大豆、セルローズ、エタノールなども世界的な供給国。これに伴い農業機械も大型化し、アグリビジネスでは人工衛星やコンピューターを使った経営が一般化している。その弊害が完全に解明されぬままに大豆、トーモロコシなどの遺伝子組み換えが普及しつつあるが、今世紀の世界農業の担い手はブラジルであるといわれている。ブラジルでさまざまな果物の変遷を見てきた。まずマンゴー。インド原産だがブラジルによく適合しブラジルの農村を歩くとどこにでもマンゴーの大木があり樹下を歩くのに邪魔になるくらい実が落ちている。小さくて筋が多く大して美味しいものではなかった。現在のマンゴーはいかにも食べたくなるような色で、食べると筋がなく実にうまい。次はパパイア。ブラジルに着いた頃のパパイアは大きさがまちまちで、特殊な匂いがして味も物足りなかった。今はハワイマモンや台湾マモンが導入され、甘くて形も手ごろ。食卓には欠かせないデザートとなっている。スイカは最初見たのは10キロもある丸形の北米種だったが、日本種の大丸大和が出回り、今は姿を消して、少し大型の丸いスイカが出回っている。最近、日本ナシが八百屋に姿を見せるようになったが日本で食べるような汁液豊富な柔らかく甘いナシには出会えない。ブラジルの富有柿は大きさ、色つや、味といい日本では知らなかった素晴らしい味が楽しめる。ミカン類では、オレンジ、レモンのほかにポンカンが市場にあふれ、最近はデコポンや金柑も出回るようになった。ブラジルには、ほかにも珍しい果物がたくさんある。レイシ、アテモヤ、マンゴスチン、スターフルーツ、ジャガー、バンジロウ、キウイ、アボガドなど。果物の種類は豊富で値段が安いのは魅力である。No65「アマゾンの県人」新事業や栽培で功績アマゾン河は、全長6,300キロ、流域面積は705万平方キロ、ペルー、エクアドル、コロンビア、ベネズエラ、ボリビアから運んできた土砂が堆積してできた河口の町がベレンである。ベレンは人口140万人。今年2月、宮崎県からの農業研修生を案内してベレンを訪問した。サンパウロから3,200キロ飛行機でも3時間半かかる。土地は肥え、年間を通して気温は28度前後。このため植物の生育は旺盛だが病害虫の発生も多いようである。ピメンタ単作ではフザリウム菌による立ち枯れが発生しピメンタ栽培が危機に陥ったので、最近は、パラー栗、バナナなどとの混植法が普及している。戦後、宮崎県からも多くの人がベレンやトメアスーに入植してこの地方のリーダー的存在となり大きな功績を残している。下前原輝男さんはアセローラに着目、品種改良を重ねて一大清涼飲料水の原料として育て上げ、93年に第26回山本喜誉司賞を受けた。デンデヤシ栽培の吉野秀幸さん、ベレンの日本人会会長の横山秀明さんはベレン郊外に大きなレンガ工場を持ち、一帯の46工場で品質の良いレンガや瓦を出荷している。今回の訪問で一番関心のあったのは小野和親さんのテッカ(チーク)の造林であった。小野さんはトメアスーに入植し、多くの苦労を重ねカピタン・ポッソに移転して現在に至っている。チークの将来性に目をつけた小野さんはマレーシアから苗を取り寄せたドイツ人農場に何度も足を運び徹底的に研究。その後、テッカの造林を始め6万本が既に伐採期に入り、自分で製材機械を導入し、材の販売も開始している。チークはインドやマレーシアが原産地で高さが45メートル、直径3メートルになり、約15年で伐採できるようになる。伐採直後の黄色からやがて暗褐色になり、一度乾燥したら伸び縮みせず、割れたり反ったりしにくい。シロアリや病害虫に侵されることも少ないので船舶や木工用材、家具用材として東南アジアでは最重要樹木とされている。小野さんのテッカ林を見ると。生育が非常に旺盛、葉の長さは90センチ近くなり、二酸化炭素吸収量が多く環境浄化には最適な樹木と思われる。このような樹木に着目した小野さんに敬意を表したい。
Sep 17, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第24回No52「イグアスの滝(上)」恐ろしいほどの勢いイグアスの滝には今年2月に行き、通算7度になる。滝は何度見ても一度として同じだったことはない。旱魃で水量が少なく、滝の中をツバメがしきりに出入りするのを眺め、滝つぼには黄金の魚といわれるドラードの泳ぐ姿が見えた。イグアスの滝は幅約4キロ落差は70~80メートルある。大昔から大量の水が落ち続けているにもかかわらず、年間3ミリ程度削られるだけだといわれている。イグアス公園にある岩のかけらを取ってみると実に硬い。岩石は溶岩が固まった硬い玄武岩で大量の水が断崖から落ちているにもかかわらず容易には磨り減らないのである。第1回のイグアス訪問は1963年(渡伯後3年目)。ウルグアイ経由ブエノスアイレス側からボートで滝の落ちるそばまで行った。当時はむしろアルゼンチン側の方が観光設備は整っていた。ブエノスアイレスは地下鉄が走り、南米のパリと言われていた頃である。アルゼンチンはその後ペロン政策により没落していった。あれから45年ブラジル側の街にはビルが建ち並び、道にはきれいな車が走っている。滝の近くには1975年に完工した世界最大規模の発電量を誇るイタイプーダムがある。高さ196メートル長さ270メートルで発電能力1260万KW,ブラジル全電力の25%を供給している。この発電所建設では多くの日本人技術者が働き、日立や東芝の発電機が備え付けられている。No53「イグアスの滝(下)」世界各地から観光客イグアスの滝第2回訪問は1976年。実家から母と姉が初めてブラジルにやって来た時に案内した。3回目は1984年、宮崎県農業青年研修生3名を案内した。ガソリンスタンドでトラックの運転手に聞いた道が遠回りで帰り道に迷ったことを思い出す。4回目はパラグアイのイグアス植民地を訪ねる日本人3氏に同行した。今は見ることができないがイグアス植民地には原始林があり、密林を伐採して農耕地を造成中であった。今パラグアイに行っても警官や税関職員の仕事から感じが(ブラジルと)全然違う。走っている車も日本製の中古車が多く、ブラジルはいかにも近代国家らしくなった。国策でこんなにも差がつくものかと考えさせられる。第5回は家内の親族5人をガイドした。このときはヘリコプターで約15分、上空から滝を眺めた。6度目は1987年宮崎大学農学部農学科で同級だった宮崎県農林水産部長のM君を案内した。第7回は今年2月、宮崎農業青年ブラジル研修生の3君を伴って出かけた。世界三大瀑布として知名度が高いため、欧州、北米、東アジアなどからの観光客で溢れていた。研修生の1人が下痢で体調不良、加えてパスポートと航空券を紛失、カメラの故障などトラブル続出、散散な旅になった。腹痛の上に財布を落として顔色が悪く、元気がない。滝の展望台で「ここから飛び込む人がいるだろうか」と言う。ほんとに気をもんだ。(パラグアイからイグアスに向かうために乗ったタクシーの中に財布を忘れたことが分かったそうであるが、出てきたとは書いていないので結局は現地の領事館かのお世話になったのであろうか?)
Sep 9, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第21回No46「従業員の裏切り」裁判に訴え金銭要求農業資材店を営み、調子の良い時は、15トントラック2台、7トン1台、フォークリフト1台を所有、従業員10人を抱えていた。店は中心街にあり、トラックの駐車場がないので従業員に各自自宅に持って帰らせていた。その1人が、他人の建材を運搬中に交通事故を起こして不正が発覚。修理代は彼の月給の約3倍。「分割払いにしてくれ」と言う。修理費支払いが終わる頃になると、反抗的になり「辞めたい」と言い出した。10年くらい働いていたので、自分から辞めると不利になるから「辞めさせた」ことにしてやった。これで一件落着と思っていたところ、突然、労働裁判所から通達が来た。運転手が月給や超過勤務手当、仕事中の食事代など約10項目の未払い給与10年分で月給の20倍を払うよう訴えているので弁護士と出頭するよう命じられた。ブラジルでは仕事を辞めさせられた従業員は、雇い主からできるだけ多くを巻き上げようと弁護士と知恵を絞って労働裁判所へ訴える。弁護士は2割の成功報酬を受け取る。全く予想もしなかった事態となった。こちらも弁護士を雇わなければならない。2千ドルで雇った非日系の弁護士が悪徳弁護士で弁護してくれるどころか「和解せよ和解せよ」というだけ。最初の裁判に、相手が欠席して再度裁判になった。弁護士はさらに2千ドル寄こせと言う。事情を説明して日系の弁護士に依頼したら200ドルで済んだ。裁判は和解になったが要求額の約3割で結着した。(思うに、相手は修理費を取り戻そうと計画的に辞めたのであろう。労働法上は「再就職等で不利にならないよう経営者の都合で辞めさせた」ことにしてやった温情が仇となったわけかな?ただし、3割の和解金で手を打ったのを見れば、個人経営会社のトラックの運転手なのでサービス残業なども日常的にあったものと推測される。日本人的な温情経営では何時飼い犬に手をかまれるか分からない。解決金の支払いには宮崎市長であった兄貞蔵氏の援助を仰いだとのことであるが、内情は自転車操業で、融資もままならない状況だったのだろうか。以上読後感である)No47「就労ビザ」娘2人が日本で働く日系人に就労ビザが発行されるようにた1990年には一挙に4万8千人が日本へ。それまでに行っているものと合わせると約32万人が日本に行ったが、昨年来の世界同時不況で約8万人が帰国するのではないかといわれている。日本に出稼ぎに行って1年で新車を買ったとか、立派な住宅を手に入れたなどの噂が広まると、日本行きは大きなうねりとなり、日系人家族で出稼ぎしないのは珍しくなった。非日系の若者が日系人と結婚すれば日本に働きにいけると、日系人の娘や青年が外国人(非日系のブラジル人のこと=愚利公注)にもてるようになった。長女は州立カンピーナ大学生物学科を卒業、大学院へ進んだ。蛇のヘモグロビンの研究を行い、イギリスの科学誌に学術論文が2回掲載された。将来を期待していたのに研究室の主任教授が娘の資料を使って留学生に修士論文書かせたことから、落ち込んだ娘は大学院を辞めて日本に出稼ぎに行ってしまった。日本では、公文数学教室で働き、習得した日本語でが役に立って、今では中南米公文教育研究所の主任として忙しく働いている。三女カーチアは、サンパウロ大学建築学科を卒業した。日本にいる姉に引かれたのであろう。日本で日系出稼ぎ2世向けのポルトガル語新聞「ジャパンエクスプレス」のグラフィックデザイナーとして採用された。カーチアは6年後かなりの貯えを持って帰国。モジの自宅に現金を隠してサンパウロに働きに出た。我が家は、私が県人会長として毎日サンパウロに行き、家内は公文教室を開いているので日中は留守、2匹いる犬は、誰にでも尻尾を振って近づくラブラドールと小さなプードルで何の役にも立たない。出稼ぎから帰った人のいる家には必ず泥棒が入る。我が家もやられて、カーチアの1万ドル、宝石類をことごとく持っていかれてしまった。(ブラジルでは銀行預金は安全ではないことがこれを読むとわかる)
Sep 3, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第20回No44「ニシキゴイを飼う」移住者の心を慰める(この稿には、祖国を思うよすがとして新潟県産「ニシキゴイ」の導入余話と自らも経済的余裕ができて、庭に池を作り高価なニシキゴイを飼った話しが紹介されている)最初に船で運んだ1954年には赤道通過の頃から次々に死んで、リオに着いた時に生きていたのは2ひき。この2匹も陸揚げ後に死んでしまった。1973年に飛行機による移住が始まり、この頃から個人による導入がが始まり、飼育と繁殖が行なわれるようになった。80年に第1回の品評会、そしてサンパウロ市イビラブエラ公園内の日本館の池に建設25周年を記念して85匹のニシキゴイが放流された。80年、経済的余裕ができたので、我が家の庭に井戸を掘り、ポンプを設置してニシキゴイを飼い始めた。最終的にはかなり値のものにも手を出すようになった。しかし、結果的には停電によってほぼ全滅、思い出すと無駄なことに金を浪費してきた。No45「酒井繁一先生」業績たたえ歌碑建立1995年は、日伯修好通商就航条約締結100周年だった。記念事業として考えたのが歌碑建立。スザノに住み、日系人に短歌を指導し、ブラジルの短歌発展に大きな業績を残した南郷町(南那珂郡)出身で、ひえつき節の作詞者でもある歌人酒井繁一氏の歌碑建立をスザノの短歌愛好会へ提案した。愛好会の人たちからは経済的な理由で同意が得られなかったが、日系コロニアの代表的な歌人藤田朝寿さんの賛同と協力が得られて実現できた。スザノ短歌愛好会が選んだ短歌は「美しき日本語を言う幼らに移民の歩み満たされて来ぬ」建立した場所は、汎スザノ文化体育農事協会入り口。歌碑は1.5トン、台座が10トンの歌碑、刻んだ石工は非日系人で日本文字を彫らせるのが大変だった。95年11月12日にめでたく除幕式を行った。以下は、愚利公独白。伝承ひえつき節の歌詞は、夜這い節と呼ばれる子どもたちには歌わせられない卑猥なものであった。これを聴いた小学校の先生が誰にでも歌えるようにと新たに作詞したのが現在の歌というのは知っていた。さすれば、その作詞者がここに出てくる酒井繁一さんであるに違いないとネットで調べてみた。ドンピシャリである。酒井繁一(1901~1984)宮崎の101人に選ばれた人材。県南の南郷町生まれ、地元中学校から現早稲田大学の文学部へ進み、終生の師となる歌人の窪田空穂(くぼたうつほ)と出会う。折からの経済不況で家業が傾き、やむなく休学して帰郷。1927年(昭和2年)、椎葉村の隣りの諸塚(もろつか)村の小学校代用教員として赴任。その際に村人たちから頼まれて作詞したのが現在の歌詞。1932年(昭和7年)に一家をあげてブラジルに移住。1984(同59)年スザノ市の自宅で亡くなった。享年83歳(原田解さんの文章から抜粋)
Aug 30, 2009
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今朝の宮日社会面で目についた記事。「おや、4年前から僕らがやっていることやないの?」総務省は26日、自治会や福祉分野など地域で公共的な活動をしている民間団体が連携し、市町村とも協力する「地域協働体」組織を各地に創設するよう促すため、来年度から全国で実証業務を始める方針を決めた。組織創設の目的は、地域の民間活動を促進して、市町村合併や地方財政難で低下が懸念されるぎょうせいをサービスの補完する目的。実証業務では、協働体の事務所開設や運営を支援する予定で、来年度概算要求に盛り込む。地域協働体は新たに組織されたNPOやボランティア組織、まちづくり団体と、既存の自治会、地元企業、商店街組合などが提携した「多様な主体による、公共サービスの提供をマネジメントする」組織とし、各団体の代表で構成。総務省は市町村を通じ、協働体を小学校区単位などで設けるよう呼びかける。以上が新聞記事の概要であるが、これは将に旧佐土原町が合併に先立ち、合併による町の疲弊を防ぐべく、行政主導ではあるが小学校区単位に組織し、交付金でもって運営を開始した「地域づくり協議会」そのものである。ただし、設立4年目を迎えて組織を活性化する必要に迫られていて、リフォーム検討委員会を立ち上げ、明日スタートすることになっている。
Aug 27, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第19回No41「ヤシの木王国」故郷を思い出す樹木私が育った宮崎市の実家は、市指定の名木白ツバキ、タブ、ヒトツバ(イヌマキ)ヤブツバキがある。市内の住宅周辺にこれだけの大木が残っている所は少ないのではないだろうか。ブラジルに渡った後は、山を眺め、大木を見ると故郷を思い出す。ブラジルはヤシの木王国で、ヤシの実は豆粒ほどからラグビーボールの大きさまである。森の中ではほかの木を威圧するように立っている。ふるさとの木戸に植えてあった棕櫚の木を思い出す。北伯を旅すると海岸線や街の中にココヤシの並木が目に付く。「金のなる木はココにあり」と日系人がリオヤやパイヤ方面に大々的に植えたこともあるが、ココヤシほどブラジル人に恩恵を与えた木はないのではないか。若いココヤシは実に蔗糖、蛋白を含む500CCくらいの汁液がある。熟すとビタミンB、C、粗繊維、脂肪が豊富。北伯では、タピオカの粉と干し肉とココヤシの水を飲んでいれば、何とか飢えをしのげるのである。「ココヤシ」は東南アジアから導入されたといわれている。最近ブラジルでは、国家プロジェクトとしてアフリカから導入されたデンデヤシをアマゾン地方約100万ヘクタールに栽培してバイオディーゼル油を採集する計画が立てられている。アボガドの果実を見ると宮崎の実家木戸のタブを思い出す。アボガドはクスノキ科で、幼果はタブの実にそっくり。またパイネイラの花は遠くから見ると日本の桜の花を思わせ、多くの日系人が俳句や短歌に詠んでいる。No42「番犬を飼う」雑種を襲い警察沙汰現在、ラブラドールとテリアを飼っている。ラブラドールは夜眠れないほど吼えるが、昨年空き巣に入られて1万ドル以上盗まれた時、何の役にも立たなかった。スザノ市に引っ越した当初、自宅は中心街から離れていて治安もよくなかったので非常に獰猛な大型の番犬「フィラ・ブラジレイラ(土佐犬に似ている)」を飼った。ある日義父がエサやりに犬小屋の戸を開けた隙に2頭のフィラが飛び出して別に飼っていたコリーの首に噛み付いた。耳に水を入れてようやく引き離したが、コリーはその日のうちに死んだ。また別の日には、車を車庫に入れ、門扉を閉めようととした時、フィラが鎖を切って飛び出してしまった。大声で犬の名前をを呼びながら追いかけたが遅かった。近くの人が飼っている子犬をかみ殺してしまった。飼い主から「死んだ犬と同じ犬を返せ」と抗議され、集まった野次馬は口々に「フィラを殺せ」と言う。サイレンを鳴らして警察が来る。最終的には警察署長が中に入って、近いうちに同じくらいの犬を見つけて返すことで勘弁して貰った。泥棒に入られるのも腹が立つが、犬の問題で頭を痛めるのも困ったものである。(フィラ・ブラジレイラという犬種は多分土佐犬のルーツの洋犬と同じだと思う。そっくりな姿、重さが60キロというので土佐犬よりは小型?元は、逃げた黒人奴隷の探索、先住民対象の奴隷狩り用に改良された非常に獰猛な犬。ブラジル人はこの犬には絶対近づかないという)No43「研修生受け入れ」各所に案内して歓待宮崎農業青年ブラジル国派遣研修制度は1982年に開始、今年で27年。これまで51人がブラジル農業を体験した。帰郷後は、ブラジルからの留学、研修生の受け入れや世話に尽力していただいている。この事業がなかったら、宮崎とブラシルの関係はもっと疎くなっていたことだろう。ブラジルの国土は、日本のざっと23倍、宮崎県内を案内するのとは事情が違う。県人会員はアマゾン河口のベレンや1200キロ離れたポルト・アレグレにも居る。どうしても見せたい「イグアスの滝」はアルゼンチンとの国境にある。気候も熱帯から雪の降る温帯まである。できるだけブラジルのいいところを見せたいと歴代役員が手分けをしてお世話してきた。私も、1984年、第3回生3人を自家用車で約3千キロの案内旅行をした。宿泊は行く先に住む宮崎県出身有志宅、イグアスから次の目的地への途中、ガソリンスタンドで会ったトラックの運転手に間違った道案内を受けて300キロ余計に走る羽目に。時間になっても着かないのを心配した県人会の人が警察に問い合わせるやら大騒ぎになっていた。夜中になってようやく目的地に着いた。宿泊先の国府さんへは大変な迷惑をかけてしまった。今年は、2月10日から10日間、ベレンからリオ、ポルト・アレグレ、イグアスと約1万キロの旅をしたがすべて飛行機を利用したので快適な旅だった。
Aug 26, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第17回No27「山本さんを訪問(上)」入植して成功を収めるNo38「山下さんを訪問(下)」経済基盤築き好評価 (山下さんは宮日の誤植)今年2月、研修生を連れてサンタ・マリア市の山本豊子さんを訪問した。山本さんは移民成功者の1人。山本邸は4階建てで、5つ星ホテルのようなたたずまい。どのようにしてこんな財産を築いたのか?豊子さんの亡き夫山本重喜氏は宮崎市の出身で1957年(昭32)25歳のときに米作移民として渡伯。夫人となる豊子さんも同じ移民仲間であった。移民受け入れの元駐日大使?の現地農場主が移民条件の約束を履行せず困窮ののどん底に。住居は土間が1間きりの棟割長屋、トイレ浴室なし。稲刈りなどの労賃は約束の現金ではなく食料などの現物支給。現地までの旅費も支払ってくれなかった。携行ドルは一人当たり50ドル、手持ちの現金も尽きて衣料品や日用品を売って食べた。米作移民の窮状を知った海外移住協会連合会ブラジル代表が農場主に契約履行を求めて奔走。これをサンパウロ新聞が取り上げ、農場から出るための旅費と借金の返済のために「33家族救済キャンペーン」を行い、合計10万クルゼイロスが集まった。さらに、メソジスト協会がサンタ・マリア市に菜園を作るにあたり受け入れを決定。現地までの移動旅費は連邦政府移植民院が出すことになった。サンタマリア市に入植して4年後重喜氏と豊子さん結婚。市の中央市場に八百屋を開き野菜や果物の商売を始めた。その後順調に経営も伸びて、アパート経営にも進出し成功者のひとりとなった。還暦を迎えこれから2人で海外旅行を楽しもうというときに重喜氏に変調。肝臓がんと判明。94年2月に帰らぬ人となった。その後、息子さんと娘さんは結婚、3人の孫にも恵まれた豊子さんは孫たちを連れて海外旅行を楽しんでおられる。現在は、4階建てのビルの4階部分が自宅で、階下を12家族に賃貸ししている。日本政府は、かつて困窮していた米作移民を快く受け入れてくれた当時のサンタ・マリア市長、困っていた日本人を無料で診察した医師に勲章を授与するとともに、2008年の日本移民100周年には市に医療機器を贈呈して日本移民への温情に報いた。
Aug 15, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第16回No36「妻の死(上)」医師から「ガン」宣告'85年(昭60、筆者48歳)のクリスマスの日だった。夕食後TVニュースを見ているときにサンパウロ援護協会の医師から電話がかかってきた。「あなたの奥さんは胃がんです。それもだいぶ進んでいます。2日後手術で準備をしています」妻は胃潰瘍だろうと思っていたのでショックは大きかった。「妻の死を覚悟しなければならない」と思った。家内に「あさって手術をすることになったので明日入院しよう」と告げると、家内は「手術をすればよくなるだろうか」と聞き返してくる。胸が高鳴って返事をすることができなかった。長女が17歳(長女智恵さん、生後7ヶ月で死去の稿があるので実際は次女?)、三女が11歳、こからは父親よりも母親を最も必要とする時期である。自分の手には負えないところがあるのでこれまで親しくしていた福音協会の牧師に電話をして、子どもたちがこれからも強く生きていくよう導いていただくようお願いする。No37「妻の死(下)」治療や薬を次々に試す12月27日、妻香代加の胃がんの手術が行われた。がん細胞は既に肝臓、膵臓、大腸にも転移し、手の施しようが無く、何も切除せずに縫合。家内は1時間もしたら手術室から出てきた。妻はまだ47歳、これからまだ30年ぐらいは生きることができるのにと思うと残念でならない。医師は、家内の余命は1月20日頃までだろうと言った。(それから筆者は日本にいる兄弟姉妹やあらゆる伝手を頼りに奥さんのガン克服のために手を尽くした。加持祈祷、民間療法の数々)手術から1ヶ月の命だと医師に宣告されたが、家内はそれから1年半後の'87年3月20日に息を引き取った。家内が亡くなったとき、娘たちは病院の廊下を「ママイ、ママイ」と大声で泣きながら走り回った。家内は、当初から胃弱でかかりつけの女医に診てもらっていた。胃炎の薬をもらって飲むと良くなっていた。そのころ女医が大学病院で診てもらうよう言ってくれていたら、何とかなったのではと考えることもある。医者を選ぶのも寿命の一つだったのかもしれない。
Aug 13, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第15回No34「トルコ人と商談」高値要求されて決裂「この稿では、商売上手と言うか、したたかなトルコ人気質に危ない目にあった話」ブラジル人の潜在意識の中には民族の定義が刷り込まれているのであろう。ブラジルに移住して処世術が上手で資産家に成っている民族は、トルコ、ユダヤ、レバノン、中国、インド、韓国人のようである。以前は日系人が優勢であったサンパウロのリベルダーデ界隈は今、中国人や韓国人が幅を利かせている。私は商売を始めて10年目、資金的に余裕ができたので、自分の店を構えようと不動産屋へ適当な物件が見つかったら知らせてくれるように頼んでいた。スザノ市のメーンストリートに申し分のない住宅が見つかり、値段的にも払えそうな金額だったので、購入契約するつもりで(家主の)トルコ人に会った。しかし、トルコ人は家族会議を開いて返事をするから1日待ってくれという。翌日訪ねていくと「昨日の値段は安すぎたので2割くらい多くもらいたい」と言い出した。それでも、まだ払えそうなので、買いたいと申し出たら、また明日返事すると言う。最後には最初の値段の倍近くを吹っかけてきた。もう話にならないと、商談は決裂してしまった。後で知ったことだが、この物件は建築許可証が無く、家屋税、地租税を10年以上払っていなかった。もし買っていたら、どれくらい金がかかったか分からない。後日、トルコ人との商取引で破産した日本人のスーパーもあったと聞いた。メーンストリートに無許可であれだけの大きな建物をどうしたら建てられたのか不思議である。やはりスザノ市中心街に家具類を扱っている10階建てのビルがあるが、このビルも無許可で建てたのだとの噂があった。現在では到底考えられないことでだが、トルコ人にはそれができたのである。
Aug 12, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第14回No32「参政権行使」国籍取得し45年投票(この稿では、ブラジルにおける選挙事情が紹介されている)23歳で渡伯して28歳で大学院進学の奨学金を貰うためにブラジル国籍を取得。それから45年、大統領、州総統、市長、上院議員、下院議員、州議員、市会議員選挙に投票してきた。'05年からは、日本での選挙のたびに総領事館に投票場が設置され日本国籍者が投票に足を運んでいる。ブラジルでは、投票は国民の義務で、投票しない場合は、その理由を選挙管理委員会へ報告しなければならない。報告しないと罰金を支払い、3回投票しないと投票権失効、そのまま放置するとパスポートや身分証明書の取得、学校入学、政府系銀行からの融資、公務員試験受験、政府系入札への参加ができなくなるなど、色々と制約を受け、世の中が狭くなってしまう。(しかし、そのようなことに縁のない大衆はやはり棄権するのではないだろうか。投票率がどのくらいか書いていないので罰則の効果は不明;愚利口公)ブラジルの選挙は電子投票機を使い誰にでも簡単にできるようになっている。ブラジルでは低所得者が多く、選挙時には多くの現金が動くといわれ、その金は現職時に蓄えた出所のはっきりしないものが多いようである。ブラジルの選挙は激烈を極め「立候補を辞退しないと殺す」とか「自分は辞退するするからいくら払うか」とか、実際殺人事件も発生している。有権者の良識によって選ばれた優れた日系人の政治家も各地に誕生している。本当の民主主義は国の品格によってはぐくまれていくものかもしれない。No33「移民国家」日本人も25万人渡る(この稿は、人種のるつぼと言われる移民国家ブラジルの紹介)ブラジルは、世界各国からの移民によって国が形成されている。最初の移民は1621年ポルトガル政府によってアゾレス島民が北伯に移民、1747年から1752年までに南伯に5千人入植した。スイス人は1819年に南伯に、ドイツ人は1818年に北伯、1824年に南伯に移住している。ポルトガル本土からは1847年に移民が始まり1972年までに157万人が移住している。イタリア人は、1834年から1958年までに151万人が主に南伯に住んだ。イタリア人の子孫はブラジル人口の1割を占めて政財界に大きな影響力を持っている。ブラジルには、1874年から1972年までにスペイン人70万人、日本人25万人、ドイツ人20万人、ロシア人11万人、オーストリア人9万人、トルコ人8万人、ポーランド人5.4万人、アメリカ人4.6万人、フランス、シリア、レバノン、アルメニア人4.3万人、ルーマニア人4万人、イギリス人3.3万人など合計530万7千人が移住した。これだけの多くの国から来た移住者でつくられた国で、日系人の(移民)100周年が大きく報道されたのは何故だろう。日本が世界第二位の経済大国であることが最も影響しているのだろうが、日本の文化は長い年月のわたって磨かれ、洗練されているからではないだろうか。日本人がへまをすると「オー、ジャポネーズ」商売でずるいことをすると「オー、ツールコ」商売上手は「パレッセ。シネース(中国人みたい)」間抜けなことすると「オー、ポトゲース」と言って、その国を代表しているように言われる。
Aug 11, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第13回No30「最初の計算機」母が土産として持参No31「ビデオデッキ」日曜日ごとに見せ歩く(この2稿は、ブラジルでは手に入らない日本のハイテク機器を取得したお話。計算機は「パソコン」のことではなく今で言う「電卓」のことのようである)ミナス州立大学(現在は国立)大学院でも計算にはハンドルでガチャガチャ回す機械式を使った。'70年(昭45、筆者33歳)帰郷して大阪万博に行ったとき、百貨店に飾ってあったソロバン大の電子計算機が8万円。買いたかったが懐が寂しくなるので諦めた。(宮崎でもそのころは、タイガー計算機を使用しておりぐるぐる回してチンチンとうるさかった)'76年(昭51、筆者39歳)母と姉がブラジルに来た時、はがきぐらいの大きさの電子計算機を持ってきてくれた。その計算機は、紐で店のカウンターに結び付けて使っていたがある日いくら探しても計算機がない。先ほど種を買いに来た外国人(日系ではない人のことかと思う;愚利公注)に違いない。その人の農場まで乗り込んで「実は、云々」「正直一筋で生きてきた心外だ」と怒られて平身低頭して謝る。店に帰り、書類を整理していたら計算機はその中にあった。何とも申し訳ないことをしてしまった。商売も順調になって、'78年(昭53、筆者41歳)、今度は家族4人で帰国した。この旅行ではどうしてもソニーのビデオデッキ、ベータマックスが買いたかった。宮崎市内の百貨店では取り寄せるのに2週間かかるということで、秋葉原で2千ドルで買った。友達から頼まれものの釣り道具、カメラ5台とともに3万円で買ったとランクに詰めて帰国。当時ブラジル税関では500ドル以上は超過額の200%の関税がかかる仕組み。知人の紹介でサンパウロ州警察の大佐と渡りをつけて空港の別の出口を使い、何も払うことはなかった。そのころビデオはまだ珍しく、知人からソフトを借りて楽しんだ。このビデオは電圧が下がり焼け付いて2ヶ月くらいで壊れた。部品が届かず修理もできなかったので、もう一台ベータマックスを買った。日曜日には、紙芝居叔父さんよろしく、車にビデオを積んで老人クラブや日本人会を回って見せて歩いた。当時、スザノ文化協会の学務係をしていたので、日本語学校に導入を提案したが高いので無理だということになった。そこで父兄会を開きビデオを購入するために古着を提供してもらうことに決めた。まだ新しい背広、女性の服、靴などが集まり、農産品評会の時に販売して、思ったよりも簡単に日本語学校にビデオが設置できた。1週間に1回、生徒に教育番組を見せていた。その後ベータがVHSに変わり、'90年(平2、筆者53歳)にはNHK衛星放送が開始されビデオの時代が終わった。(大阪万博時にビデオデッキを手に入れたというのは先端を行っていたといえる。我が家でビデオを買ったのはそのずっと後のこと。平成2年にビデオの時代が終わったとしているが20年近くたった今も我が家ではまだビデオである)(この来日の折に県庁近くの喫茶店で、在宮の同窓生数人とともに長友君家族にお会いした。卒業後彼と会ったのはその一度きりである。まさに一期一会の邂逅である)
Aug 8, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第12回No29「強盗に遭う」肥料袋投げつけて撃退(ブラジルは物騒な犯罪大国であることの紹介。昨年は10万人当たり23.7人が殺された。ブラジルの人口は1.93億人だから年間45,700人ほど。ちなみに日本は、1.2億人で600人程度。そんな国で暮らす学友はこれまで3回ピストル強盗に遭った。それがすべて自宅と自分の店で)最初の時は、2人組が玄関から進入、大声で「出て行け!」と怒鳴ったら退散した。2度目は店で、カバンを提げて入ってきて、カバンからピストルを取り出し「強盗だ、金を出せ」とわき腹にピストルを突きくけられた。都合よく客が入ってきたので強盗は退散。わき腹に突きつけられたのと同型の拳銃「タウルス」3度目は、やはり店へ未成年の外国人がどやどや入ってきて「肥料を買いたい」というので奥に取りに行くとついてきて「強盗だ」と額にピストルを突きつけられた。この日は少しまとまった金をポケットに持っていたが渡すわけにはいかない。しばらくにらみ合った末、持っていた肥料袋を投げつけてやった。肥料がそこいら一面に飛び散り、強盗はびっくりして飛び出していった。(強盗がピストルを出したら、「金はまた何とかなるが、命は一度失ったらおしまい。言われるままに渡した方が良い」と分かってはいるが、性格がつい抵抗してしまう、と結んでいる)宮崎県の他殺数は平均5人台、他殺は佐土原では数年に1人程度。我が家はというより、生まれてこの方空き巣にも入られたことはない。宮崎県の人口は110万人強、殆どのデータが全国の100分の1で表わされる。
Aug 6, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第11回No26「日本人会」望郷への思い癒すスザノ市に引っ越して1年目にスザノ文化協会から教育係りとして協力してくれないかとの相談を受け、それを機会に各種日系団体と関係するようになった。(No1に、「ブラジル宮崎県人会に関係するようになったのは'76年ころだった」の記述があるので昭和51年、筆者40歳前後のころか)日本人会の存在意義も「互助組織」から「日本文化継承」へと代わっていった。現在は、日本の優れた文化や技術をブラジルへ伝えるための橋渡しが重要になっている。ブラジルの州や市が催す行事に日系人の協力がなければうまくいかないと必ずお呼びがかかる。日系人は、長い間、会を運営し、力を合わせて何かを成し遂げることには長けているのである。だから、日系人が行事をする時は、ブラジル人口の1%に満たない日系人がその存在をブラジル国民へアピールする絶好の機会である。スザノの日伯学院には300人の生徒が在籍し、内3割が非日系人で、午前中はブラジルの正規の授業を受け、午後は全員が、自由選択で日本語や日本文化を学んでいる。No27「爆発事故(上)」風呂沸かし中に引火(この稿には、バイオ燃料大国のブラジルのアルコール事情が紹介されている。サトウキビから作るエタノールの値段はガソリンの約半値だが石油の値段が下がると生産中止に追い込まれるお家事情なども紹介されている。 そして、最後に'74年=昭49年筆者37歳=に、風呂沸かし用の炭にアルコールボトルから直接振りかけて爆発事故をを起こした発端部分が書かれている)No28「爆発事故(下)」顔中に大やけど寒い日であった。三女が生まれて初めての義父宅を訪問して我が家に帰った。早く風呂を浴びて温まりたかった。ドラム缶の外側に還流式の木炭湯沸かし器が取り付けてあり、木炭にアルコールをかけて火をつけた。が、どうも火が付いていないような気がして、ボトルからアルコールを(再度)かけた時、引火してボトルが爆発。火の付いたアルコールが頭、髪の毛、ジャケットに染込み凄い勢いで燃え出した。顔全体をやけどして、髪の毛も半分以上焼けた。家内の運転で病院へ駆け込む。顔全体を包帯で巻かれエジプトのミイラのよな何とも情けない様となった。1週間休んで店に出ると、来客のすべてに「実は、アルコールを火にかけて、云々」と飽きるほど説明した。ブラジルでは良くあることだそうで、バーべキュウで炭火を起こす際にやけどどころか命を落とす人がいると話してくれた。35年すぎた今でも太陽に当たると顔が痛くなる。これまで、色々失敗してきたが、偶然や不可抗力は一度もなかったような気がする。
Aug 4, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第10回No23「居眠り運転」傾いたまま500メートル走行(この稿はやや閑話休題的な話題。'73年(昭48:筆者36歳)愛車FWカブトムシで居眠り運転をして50センチの仕切り壁に引っ掛け、左に傾いたまっま500メートル2輪走行、パンクしたタイヤを取り替えるときに行きずりのドライバーが後方からライトで照らしてくれた。タイヤ交換を終えてお礼を言おうと近づいたら、何も言わずに去っていった)(その親切に何か恩返しがしたいと思っていた。あるとき、未舗装の道路で自転車が転倒し、頭から血を流している青年に出会い、「薬局まで連れて行って欲しい」と言うので送ってあげた。いいことをしたと気分が良かったが、あとで、ひき逃げ犯人と間違えられて警察に連行された。薬局で、青年の怪我がひどいことが分かり、救急車を呼ぶ騒ぎとなり、見ていた人が「赤いフォルクスワーゲンの日本人がはねた」と話したことが原因だった。 留置場の鉄格子前の椅子昼食もとらず証人の青年が来るのを待っていた。結局は、怪我をした青年が証人となり無罪放免になった)No24「組合を辞める(上)」後輩が月給を追い越す'62年(昭37:筆者25歳)にサンパウロ産業組合中央会に就職、5年後に職員身分のままピソーザ農科大学大学院へ行かせてもらう。その際、修了後5年間は働くという契約書にサインをしていたので、それまでは勤めた。辞めることにした動機は、主張中に(自動車)事故を起こしては大変だということと月給のことだった。長友さんは、良く働いてくれると褒められていたが、何年か前に私より安い月給で就職してきた連中が次々に追い越して行った。給料を上げてくれとは一度も言わなかったが、このままでは子どもの教育もおぼつかない。組合を辞めて、以前土地を買っていたスザノに店を開くことに決めた。スザノ中を探し回り、ようやく繁華街の駅から約800メートル、日本人経営の散髪屋が譲ってもいいというので借りることにした。母から200万円送ってもらったが住宅や車を買ったらいつの間にかなくなってしまった。金がないので、古材を購入して商品棚を作り、棚ができても並べる商品がない。何時になるか分からないが自分の店で商売ができるようになったら片側の目を入れようと考えて、高さ50センチのダルマを飾った。そのダルマには20年目に目を入れることができた。(長友君の文章、時系列が飛び飛びで読んでいて痛く混乱させられる。ここの20年目に目を入れた、の部分。店を借りて20年なのか、そうであれば、20年間商売は始められなくてこの店で何をしていたのか良く分からない。次稿で分かるのかな?)No25「組合を辞める(下)」農家回って資材販売(この稿は、農業資材店を開いたものの、資金不足で仕入れがままならないので売り上げが伸びない。そこで、日系人経営の肥料販売会社と契約し、農場への訪問販売をした苦労話。店の方もおまけつき販売で売り上げを伸ばし、おいおいと繁盛した。娘さんを有名高校に通わせ、サンパウロ大学に合格した時にはアパートを買ってやった。家族を連れて2度訪日することができた。しかし、奥さんを亡くしたころから形勢が悪くなり、商売上のライバルが出現して脚を奪われ、何時店を閉めようかとそればかり考えるようになった。65歳、恩給がもらえるようになるまで頑張るのは大変だった。20年分くらいがいっぺんに書いてあるので読む方は中々難しい。奥さんをなくしたのは、長女を亡くした'70年=昭45から15年後のこと。)ブラジルという国は、政治的にも経済的にも何度かの激動期を経ていて、その都度日系人も辛い目の有っている。現在、多くの日系ブラジル人が日本へ出稼ぎに来ているのもその影響であろう。
Aug 1, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第9回No21「長女知恵の死(上)」帰郷中「スぐカエレ」母親からの援助で渡伯して10年目の'70年(昭45:筆者33歳)初めて帰国。そのころ、長女知恵は生後3ヶ月、何ごともなく育っていた。天理教の団体一行に加えてもらい、ロスのディズニーランド、ハリウッドを観光、就航間もないジャンボ機で羽田に着いた。新幹線で天理市へ行き、天理教宿舎から大阪万博会場へ通った。アメリカ館では6時間の行列に並び、月の石を見学した。わくわくしながら最先端の技術を見て廻ったが、3日目になるとすっかり疲れてしまった。入場者の少ないブラジル館、東南アジア館を回って宮崎に向かった。タラップを降りて母や姉、妹、弟の姿を目にした時、感情を抑えきれず声を出して泣いてしまった。どれだけ帰りたかったか知れない。良く夢に見て泣いたことがある。10年ぶりの故郷はすっかり変わっていた。この機会に、2カ月をかけて日本を縦断したいと考えた。まず根室でタンチョウを見て、阿寒湖の紅葉、猪苗代湖など各地を観光し、農林省勤務の貞蔵兄の官舎で体を休めた。残る1ヶ月の旅行計画を練っていた時のことだった。「チエキトクスグカエレ」の電報、突然のことで気が動転、部屋の中を歩き回り、「そんなばかな」と繰り返していた。4時間後の日航便で帰伯することに決めた。(長友君の10年目の帰国の時は、お会いした記憶はない。人ごみが嫌いな僕は、万博には行かなかった。物好きな家内は幼児2人を母親に預け、妹と2人で出かけた)No22「長女知恵の死(下)」帰郷中「交代で看病して祈る」(子ども危篤の知らせで急遽ブラジルへ帰ることになった飛行機の中で不思議な体験をした。ミッションスクールを出てブラジルではプロテスタントの教会に通っているいるのに「南無阿弥陀仏」の声が聞こえて止まなかった、という。長女知恵さんは麻疹から腸閉塞を起こし、切開手術をしたが手遅れで亡くなった。12月3日、生後7ヶ月だった。それから15年目に妻を亡くした、と書いてある。ちなみに万博終了が9月13日、帰伯した時が千恵さん生後5ヶ月とあるので日本へ帰国したのは8月の初めころ?)
Jul 30, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第8回No19「大学院で学ぶ(上)」奨学金を求め帰化決意コチア産業組合の農事部で働くようになって4年目の1965年(昭40:筆者28歳)農産物流通税の4%を組合に払い戻す法律ができた。このお金は組合子弟の教育、農業振興に充てなければならないという規定がった。コチア産業組合でもこの払戻金を利用して日本の大学を出た農業指導員何人かが大学院で学んでいた。自分もそれまでの農業指導で持った疑問の研究とブラジル語の習得のために大学院入学を願い出て、次回には行かせてもらう確約を得ていた。さらに、大学院生には政府から奨学金が支給されることを知ったが外国人には資格がないので帰化手続きをした。日本国籍を放棄することに感傷的になることもなかった。帰化手続きの最後に裁判所でブラジル語での法律試験があるという。緊張して順番を待った。待合室にはドイツ、スペインなど欧州系が多い。彼らにとってはブラジル語(ポルトガル語)は親しみやすい言葉で簡単だが、私は果たして帰化できるだろうかと心配になった。だが、試験はブラジル語の六法全書のあるページを「ここからここまで写せ」という簡単なものだった。自分が終わっても隣のスペイン人はまだ半分しか終わっていない。少し、誇らしい気分になって試験室を出た。No19「大学院で学ぶ(下)」試験が多く嫌になるビソーザ農科大学大学院農業経済学修士課程の授業は、3月(1967・昭42:筆者30歳)から始まった。1年半で26単位を習得し論文審査をパスしなければならない。クラスには中南米の大学を出た男女30人がいた。教授陣は米国のMSAの支援で来ているアメリカ人5人とアメリカでDrの学位をとったブラジル人の先生がいた。教授陣の研究目的は、中南米の共産化防止のようだった。授業はアメリカ式で、こんなに勉強したことはなかった。ブラジル語は大体理解できると思っていたが、皆目分からず、分からないから眠くなる。私だけが居眠りをしていた。毎日参考書を読んでくる宿題があり、土曜日には必ず試験があった。さらに月に一度、さらに期末と試験ずくめ、クラス会でもっとお手柔らかにと交渉に行ったが受け入れてもらえなかった。ほかに、リポート提出やセミナーがあった。これでは途中で放棄せざるを得ないかと心配した。不思議に3ヶ月過ぎたころ、目の前の霧が晴れたようにブラジル語が理解できるようになった。もう辞書も必要ない。新聞も読めるようになった。大学院でも自分独特の勉強法で頑張った。ある時、ブラジル人よりいい点を取り、「お前はカンニングしているのではないか」と疑われたこともあった。大学院の授業にもついていけるようになったので'67年7月の冬休みに(日系)2世の島川香代加と結婚、(大学院のある)ビソーザに連れて行った。サンパウロから700キロ、あまりの田舎で家内は泣きだしてしまった。(結婚後)暫くホテル住まいをしていたが大学院生用のアパートに移った。学校の宿題やリポートは家内に手伝ってもらい大変重宝した。必要な単位も習得、余ったお金で家具も買い入れサンパウロでの(ふたりでの)生活が始まった。今から40年前のことだ。
Jul 28, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第7回No17「初めて土地を買う」月賦額が給料と同額ブラジルに来て3年、サンパウロ産業組合中央会に勤めて1年目だった。安月給で、土地などかえる身分ではなかったが時間を持て余した日曜日、不動産屋を訪ねてみた。'60年まではリオが首都だったので、リオからサンパウロまでは鉄道中央線が走り、'75年にはモジまで延びた。不動産を買うなら中央線と決めていた。日系人の販売人が親切に対応してくれた。不動産屋では、105haの土地を3~5haに分割して月賦販売していた。別れ際に斡旋人が「どうですか」と言う。「安月給でとても!親切にしていただきありがとう」と、平身低頭。ところが日系人の販売員が「何とかなりますよ。立ち木を売れば土地代の3割くらいにはなります。売る方は私が責任を持ちますよ」と、真面目に助言してくれた。立ち木で3割払っても、月賦の額は私の1月分の月給と同額、出直してくると約束して別れた。下宿屋へ帰りもう一度、払えるかどうか冷静に考えてみた。当時農業指導員は、各地からの巡回指導要請が多く出張旅費が月給より多い月もあった。土地を買う決心をして再度土地斡旋人の事務所に行き、契約書に署名した。その頃、ブラジルではインフレが進行し始め、月給も徐々に増え、支払いの見通しがついたので同じ要領で、(中央鉄道モジ)第2、第3の土地を買った。モジに土地を買った関係でスザノ市に農業資材店を開いた。その後この土地を売ったお金でスザノ市中心街近くに(土地500、建物200平方m)住宅を買った。(26歳の頃に不動産を取得したとは見上げた根性である。おとなしく全く目立たなかった長友君には持って生まれた商才がったのだ)No18「最初に買った車」手にする前に壊れる私は'67年(昭和42:筆者30歳)旧ミナス州立ピソーザ農科大学大学大学院の農業経済学科にサンパウロ産業組合中央会から遊学した。大学院終了後5年間は働く契約で毎月月給をくれた。さらに、政府の調査諮問委員会からも奨学金がもらえることになった。両方あわせるとホテルに寝泊りして8割くらいが残った。以前から欲しかったFWのカブトムシの中古車をパラナ州に住む農業技師から前払いで買った。ところが、何時までたっても車が届かない。1か月過ぎ車の持ち主が「鍵」だけ持って来て、「あんたの車はこれだけになった」と手渡した。(顛末は交通事故、車の搬送を依頼した売主の同僚技師が道路わきの牧場に突っ込んでアリ塚に激突即死。同乗していた売主は無事で、払ったお金は返してもらった。お国柄と思えるのは、車の売主は友達、それでも契約をしてお金を支払い、お金を返さない時は裁判所に訴えるつもりだった、という既述がある。日本では友人から中古車を譲り受ける際に契約書を交わすことはまずない。蛇足ながら、自分は公務員くらしで中古車を手に入れたのは35歳の頃、家を建てたのは42歳だった)
Jul 26, 2009
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大学卒業と同時に渡伯した学友長友契蔵君の自分史「ブラジルに五十年」の紹介、第6回No15「農業指導員として(上)」月給上げ実らず1960年(昭和35年)7月移民船アメリカまるでサントス着。電車で標高800mにあるサンパウロへ。移民収容所からトラックでカンピーの東山農場研修所へ。ついた時は既に暗くなっていた。研修所は農場本部から5キロ離れた寂しいところにあった。ここで1年半ブラジル生活に必要な知識を学んだ。実習は1週間に1日、自分の希望科目を経験。研修後は、サンパウロ産業組合中央会農業指導部の指導員として就職した。仕事は、中央会加盟の地方組合を巡回して農業指導に当たる、というもの。月給は、ブラジルの大学を出た農業技師の3分の一程度。差が大きすぎるので文句を言ったら、言葉もブラジルのことも知らず仕方がないと一蹴された。1年くらいして、サンパウロから南西約100キロにあるピエターデ出張所駐在指導員になった。ここは、地味は良く、玉ネギ、トマト、ニンジン、カンラン、バレイショ、イチゴなどを栽培、サンパウロの中央市場へ出荷していた。この地方一帯は日系農業者が多く、旧移民は土地持ち経営で安定いた。新移民は、裸一貫で來伯して日浅く、歩合作とか借地農で借金して作物を生産していた。(契蔵君、24歳~25歳ころのこと。地理的に把握する必要がある。人口約610万人のリオデジャネイロから西へ450キロに人口約1,100万人のサンパウロ、サンパウロから南60キロにサントス港、この3地点がブラジル経済の中枢である。首都ブラジリアはリオから北西約1,000キロ?、この稿で出てくるピエダーデをネットで検索するとアガリクスのことばかり。今は野菜よりもアガリクスが主産品かもしれない)No16「農業指導員として(下)」ニンジン施肥に成功ピエダーデ駐在農業指導員の仕事の中心は、組合を通さずに抜け売りする生産者の監視。抜け売りされると組合の貸付金が回収できないというわけ。農業技術指導では、潅水栽培と肥料設計の普及に努めた。人口潅水は自然の雨で十分収穫できるので金をかけることはない、肥料設計は慣行施肥の2、3倍の経費がかかるので中々受け入れてもらえなかった。しかし、中には試してくれる人がいて、収量が多く品質のいいニンジンを生産したためこの施肥法は普及した。
Jul 24, 2009
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No10「浅見先生の激励」何でも1番を目指す。市内であった壮行会の時、農業経済学研究室の主任教授浅見金夫先生が駆けつけてくださった。そして、「君は何でもいいから1番になることを考えなさい」と言われた。この言葉がそれからの私の人生に大きな影響を与えたような気がする。小中高では1番どころか落ちこぼれの部類でよく卒業証書を貰えたものだと不思議なくらい。大宮高校時代に編み出した勉強法で成績はよくなり、ブラジルでの大学院では殆どがAだった。大学時代は小説は1冊も読まなかった。友達と話す時は自分の幅が狭い気がし、劣等感を持った。(僕はその反対で県立図書館の本ばかり借りて読んでいた。君子と凡人の違いかな)(学生時代の風貌は記憶に残っているが全く話した記憶がない。恐るべき忍者学生だった?)ブラジル東山農場研修生として1年半、全国の大学出身者と生活をともにし、それぞれブラジルの各分野へ就職していった。ブラジルへのアメリカ丸で航行中同行者20人中の一人が全員の人物評を書いている。私については「この男は大農場主になるのは無理だろう」と。読んで相当なショックを受けた。私は内気で、人前で話す、自己主張をする、疑問点など手を上げて聞くなどが苦手であった。しかし、いつも「研修生の中で何でもいいから1番になろうと」と考えていた。(僕なんかそのような競争心は子どものころから全くなかった。それより人並みでありたかった)最初の一番は日本での研修の時の土のう揚げだった。その後、ブラジルで土地を買い、帰化し、政府からの奨学金で大学院で学び、県人会長になり、県連副会長になった。1番だったと思う。その後、長友の名前や写真が頻繁に新聞に出た。「長友がこんなに日系コロニアでリーダーシップを発揮するとは夢にも思わなかった」と研修生出身の方が話された。これまで「自分がやります」と手を上げたことは一度もない。いつも「お前がやれ」と言われてやっただけである。今になると「長友は長兄が市長になったし、素質があったのだろう」と言われる。しかし、浅見先生の言葉が後押ししたような気がする。(やや、自慢が過ぎる感じがしないでもないが、大器晩成型で素質が眠っていたのは事実だろう)No12「初めての自転車」高下駄がブレーキ役(この稿には、訪日の折に感じた駅、スーパーに多い放置自転車の邪魔のことから、高校の時に初めて買ってもらった中古の自転車にまつわる思い出が綴られているが省略)文章は原文に沿ってはいるがかなり省略している。県外に住む学友のために書いている。
Jul 22, 2009
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今回が戦後23回目の解散だとか。その1回ごとにネームが付いている。僕の記憶に残る解散ネームは昭和28年「バカヤロー解散」と41年お「黒い霧解散」。で、今回のネーミングはと言うと、硬軟織り交ぜていろいろと取沙汰されている。自民山拓氏「がけっぷち解散」、若手義員が作った「やぶれかぶれ解散」「やけくそ解散」。民主 鳩山代表作「政権交代解散」、東国原知事作「どうもお待たせ解散」バカヤロー解散のパロディー版「バカタロー解散」、中川秀直元幹事長作「バンザイ突撃解散」橋下大阪府知事作はなんだったのだろう?愚利公作は「マゴタロー解散」、心は、孫がマゴマゴしている間に戦機を逸してしまった。結果的に、鳩山さんの思惑通り政権交代にでもなれば、解散史に燦然とその名を刻むことになる。
Jul 22, 2009
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宮崎市出身で渡伯50年、ブラジル宮崎県人会名誉会長「長友契蔵」君の自分史紹介。No8と9「父親のこと上・下」付き合い苦手で悩む。私は父に反抗してブラジルに移住したのだが、子どものころの父の思い出は楽しいことが多い。小学校の先生をしていて話し上手、魚とり、山芋、シイタケ採り、薪の準備、味噌しょうゆ作り、大根漬け、餅つきなどをする父の姿が思い出される。父は酒好きで、教え子によると授業中でも酒の匂いがしたという。中学、師範でも成績が良く校長には一番早くなるだろうと言われていたが教頭どまりで退職。祖母からは「お前は校長にもなれず酒ばかりのんじょる」と叱られていた。父は、人間関係に悩んだのか、恩給(年金)が付く前に辞めたいというのを祖母や母がなだめて恩給がもらえるようになってから(在職23年で)辞めている。父は校長や視学と折合いが悪く辞めたとき「学校は決して清く正しいところではない。昇進や転勤にわいろやごますりが公然と行われていた」と言った。昨年の大分県教委と同じことがはるか以前からあったようである。学校を辞めて実家に帰り百姓をしていたお陰で農地改革で土地を余り取られることもなかった。「酒あれば飲み続ける」師範を卒業した頃は飲めなかったが付き合いのために練習して飲めるようになったらしい。盆正月には親戚や教え子が焼酎を持ってきてくれて戸棚には5、6升の瓶が並んでいた。父はこれが無くなるまで農作業が忙しかろうと飲み続けた。田畑は草ぼうぼう、田植えが終わってもまだ植えていない田が転々と目立った。恥ずかしかった。学期末試験の頃になると田の草取りを手伝わされた。稲の葉が顔を刺して右腕は痛くなった。来客が持ってきてくれた焼酎を倉庫に隠して鍵をかけていたら父は窓から入って飲んだ。そこで、客が帰ったらすぐに貰った焼酎を捨てるようにした。それを知り怒った父から、契蔵を殺してやると、両端が尖った荷い棒をもって追い掛け回された。祖母から「俺が作った財産を食いつぶす」と言われ酒が入ると手当たり次第に家財道具を壊した。その頃から父と会話することがなくなった。家に酒がなくなると、教え子の家を訪ねて酒を強要して飲み歩いていた。知らない人からの知らせで酔って道路に寝ている父をリヤカーで拾いに行った。高校2年の頃から大学を卒業するまで父と口を利かなかった。父から離れて暮らしたいと思った。しかし、ブラジルに渡って、自分はこれでよかったのだろうかといつも父のことを考えていた。最初に帰って弱った父を目にしたときは、泣けて仕方がなかった。No10「薩摩守と言われて」見送りの汽車に乗車ブラジルに渡って10年に一度ぐらいのわりで日本に帰っている。帰ると「薩摩の守が帰って来やった」と言われる。(そのいきさつが紹介される)昭和19年、京都帝大を出て内務省勤務の貞利叔父が出征することになった。叔父は、宮崎中、五高、京都帝大に進み、3年生のときに高文試験に合格して内務省に入った。政治家志望で将来を嘱望されていた叔父だったが結局はルソン島沖で撃沈され海の藻屑と消えた。末は知事か大臣かと長友一家の希望の星だった。貞蔵兄が農林省に合格したとき、祖母は「農林省か」と鼻にもかけなかった。その、貞利叔父の出征見送りに住吉駅(日豊線)に行った際にそのままその列車に乗ってしまった。宮崎駅で泣きながらプラットホームを走っていたところを駅員さんに保護された。そこへ偶然友達と叔父さんの見送りに来ていた姉上に出合った。(19年は小学校1年生かな)それ以来、ただ乗りして宮崎まで行ったというので「薩摩守」になった。
Jul 21, 2009
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大学卒業と同時にブラジルに渡った宮崎市出身長友契蔵君の自分史、既にNo14まで進んだ。No4は「小柄が多い長友家」長兄の貞蔵さん(元宮崎市長)は160センチに満たなかった。(大学の先輩で、県議を経て市長になられたので良く存じ上げていたが小さい感じはなかった)長友家の家系が小柄なのは曽祖父のDNAに起因しているようだと書いている。体が小さく、風呂でおぼれないように両手両足で支えて湯船に浸かっていたという。その曽祖父は算術が得意で、佐土原藩の勘定方助手として参勤交代に加わったそうである。永友君も小柄だがブラジルの混血の人々も小柄な人が多く劣等感を持ったことはなかった。No5「祖母の信念」祖母は強い信念の人で子ども全員に普通以上の教育を受けさせた。8人の子をなし、成長した男児5人は、師範学校、高等農林2、京都帝大2を卒業させた。入学試験の頃は合格祈願のために毎朝神社へお参りをした。学資調達のためには、政略結婚も辞さなかった。娘は資産家へ嫁がせた。さらに、祖母は筆者の弟と幼時に両親をなくした孫の2人を自費で大学を卒業させた。No6、7「母のこと」5男6女11人の母の苦労を書いている。祖母と母のいわゆる嫁いびりなど。祖母からいじめられて実家へ帰った母に対し長男の貞蔵氏が「いやなら出て行っても良い、あとは自分が何とかするから」と言ったらそれ以来2度と出て行くとは言わなかったとか。母の一番の悲しみは、3人の子が自分より早く亡くなったこと。夫婦仲は良くいさかいや喧嘩は見たことがなかった。71歳のときの58年連れ添った夫と死別。母親が亡くなったのは1995年93歳のとき。(子どもをたくさん産んだ女性は長命だと思う)No7には、両親の結婚のいきさつが書かれている。母は11人兄弟の下から2番目だったこと。父親が嫁探ししているときに同僚から紹介を受けた。宮崎の大淀の醤油屋にいい娘がいる。父の勤務が赤江小で、大淀は目と鼻の先という地理的関係があった。当初は姉が候補だったが、気が強いのを嫌った父に下の娘ではと写真で紹介されて決まった。母親は、挙式のときに初めて夫の顔を見た。母は夫の、勤務に従い転々とし第1子は韓国生まれ。11人生まれた子どもたちは、小学校までは両親の下で育ち、その後は実家の住吉の祖母に任せ、出産と養育を分業しているようだった。
Jul 20, 2009
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マジは宮日の紙面紹介。フィナーレにふさわしく大々的に掲載。一面トップ社会面は大きく全体的に、お騒がせを批判的な扱い。まあ、もう済んだこと。心は次回の参院選とか。古賀さんの談話、「相手が自民党でなければ世論もこんなに反対はなかったのではないか」相思相愛の感があったが、親(古賀さん)が気に入った婿候補だったのに娘(党員)が肘鉄。政略結婚は失敗に終わった。まあ、言うなれば「政略」の見通しに党の共通理解がなかった。東国原さん、思うに「サムライ」ではなく、モミ手をしながら腰の低い「アキンド」。しかし根性はしたたか、婿入りはするが、即、家督も譲ってくれるならとの注文が余計だった。婿入り後に、地道に努力して家督を相続するとの謙虚さがあればうまく行ったのにね。知事の力で宮崎が全国ブランドになったのは確か。捲土重来を期し「どげんかせんといかん」
Jul 17, 2009
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記事内容は、見出しにあるとおり、県民は意外と冷静? 県民の受け取り方は、それぞれ違うが、今支持率を問えば半減しているのではないか。考えようでは、結果を見越して「転身」を舞台にかけて大向こうの反応を楽しんだのかも。「総裁云々はどう考えても尋常ではないし、相手が呑むはずが無い」「マニフェストだって、丸呑みできるはずが無い」そして、今夕、ご本人の手で「転身」の幕引きが行われた。今聞いたニュース、今日16日の16時 東国原知事は、県庁で緊急会見を開き、「本日午後、古賀誠氏から正式に書簡をいただき100%マニフェストをのむことは難しいとあった。自民党からの出馬はなくなった」と述べ、次期衆院選での自民党からの出馬を断念すると発表した。 その上で「今回県民の皆様、県議会、県職員にご心配、ご迷惑をお掛けしたことをおわび申し上げたい」として陳謝した。(miyanichi e-pressから)泰山鳴動した異能知事の国政転身騒動、マスコミを賑わし、古賀さんの首と引き換えにチョ~ン。勿論結果は、元の鞘に納まった?風だが、一度点火された「東征ミサイル」、消火できるの?
Jul 16, 2009
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華やかに開幕したシアター・コクバルの「平成の東征」。仕掛けた自民党が支離滅裂で幕。幕引きの理由は、「条件の受け入れは難しい」。これは想定内、知事もほっとしているかも。古賀さんにしては、想定外だった知事の反応(言動)を支え切れなかった。戦術が稚拙だった。折角の逸材を半殺しにして、自らも切腹では何ともやりきれないね。自民党いよいよいけない。あとは、本格的な2大政党時代が来るのか。自民党の自壊が進み、政界再編へ動いていくか。自民のリーダーは殆ど世襲議員であり、やはりどこかが、何かが欠けている。人がいない現実。松下政経塾出身者が中心になってニューリーダーによる国家運営を目指すべきときかもしれない。
Jul 15, 2009
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今朝の宮崎日日新聞社会面の記事から。「逆風」が強く次期チャンスを待て、県民に早く謝った方がよい」との師匠の言葉をよりどころに、元の鞘に収まるというシナリオに落ち着きそうな感じ。ブームが去り、既に過去の人になっている。言うなれば一人カヤの外に放りだされた酔っ払い。自作自演にハエ(マスコミ)はブンブンたかったが、いまやたかるのはやぶ蚊だけ。「私を自民党総裁候補として次期総選挙をお戦いになるお覚悟がおありですか」マニフェストの丸呑みだけにとどめておけば世論も風向きも変わっていただろうに。ザンネン。まあ、これが、空振りの三振という因果応報のすべてであった。
Jul 14, 2009
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今朝の宮日新聞から。 劉邦となれるチャンスはあったが、一言一句と総裁候補の肩書き要求が大方の反発を呼んだ?
Jul 11, 2009
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今朝の宮崎日日新聞3面(社会)トップ記事から市内高岡町で開かれた県民フォーラム後に記者団の質問に答えた。フォーラムでは、「いろんなところから反対や抵抗があり、逆風ですわ」と強調。フォーラム後の取材では、「今回のことで(自民が負ければ、報復等で)県や市町村の予算が絞られるかもしれない、そのときは責任をととらなければならない」「自民党に示した2条件については、受け入れられなければ出馬しない」「不出馬の場合、マニフェストに期待が持てる党に応援や推薦などをする」世論よりも、自民党内からの抵抗、拒絶反応がいわば想定外だったのだろう。伊吹さんは輸血にたとえて血液型が違うといっていたが、総裁ともなれば心臓移植みたいなもの。自民党の議員総会に乗り込み、一席ぶって中央突破を図らないと事態は混乱するばかり。手術できるかどうかも分からなくなってきた?まずは、都議選の結果待ちでしょうかね。
Jul 10, 2009
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