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今日は、少し勉強です。「水準点って何ですか?」。…では、「三角点」は?・・・と質問されれば、測量関連の職業の方を除いて、すぐに答えられる方は多くないでしょう。たまたま用事で行った、大阪合同庁舎 4号館前に一等水準点を見つけた。「水準点とは、土地の高さを測定する場合の基準を与える標識で、標高が精密に測定されています。全国の主要道に沿って、約2KMごとに設置され、各種公共事業の高さの基準、地震予知研究や地盤沈下による地盤変動の監視に、重要な役割を果たしています」・・、説明名板にそう書いてあった(画像は、大阪市中央区 大阪合同庁舎 4号館前の一等水準点)(説明名板)あとの、三角点とは、「山の頂上付近や見晴らしのよいところに設置され、経度、緯度が正確に求められています。地図の作成はもちろんのこと道路の建設、都市の開発などの公共事業を行う際にはなくてはならないものです。」・・・。地球上の位置や海面の高さを正確に測定したのを、基準点と呼び、水準点、三角点もこのなかに含まれるようです画像は、NHK大阪放送会館(左)と大阪歴史博物館(右)さて、1/25,000図を見ると、東側のNHK放送会館と大阪歴史博物館の建物東側にも、この「水準点」のみかんマークが書かれているので、行ってみると、NHK放送会館の西南角あたりに、水準点が2つあった手前に「地理院」と読める水準点が国が設置した水準点で横に、「一等水準点」と彫られている。後方の「大阪府」と読めるものは、大阪府の設置した水準点で、「1級水準点」と彫られている。鎖の柵で囲い大事に管理されており、見るだけ。後に回ると(「上町原標」の石板で、大阪府の基準水準点)このあたりは、「上町台地」と呼ばれているらしい。付近を少し探索して行くことにした。車の多い中央大通りを渡って、南東へ行くと、難波宮跡の公園になっていた(入り口の、史跡難波宮跡の案内石碑)(画像は、公園内、大極殿前より、官庁街を望む)広い公園内は、格好の市民の憩いの場。子ども連れのお母さん方を多くみかける。昔々、7世紀のころ大化の改新で都が難波に移された・・・と書いてある。火災で燃えて全焼するまで続いた・・・(前期)。後期は奈良時代(726年)聖武天皇の時に、再建され、766年首都と定められたようで大阪にも都があったと、記され、宮殿跡(大極殿)があった大極殿に上がってみると、円い礎石の跡があり、大きな宮殿のようすがよくわかる基準は、今も昔もいつの時代も変化し続けるのであろうと思うし、そうでなければ時代にそぐわないものになってしまいます。しかし、今ある最低限の基本的なルールや、決まり事はお互いに理解しあって守ってゆかねばこの人間社会では、アカンと思うのである。ニュースで、洋菓子メーカーの消費期限問題や、学校給食費の未払い問題(全国で22億円未払い)・・・等など、報道があった。「美しい国」を目指すならまず、足元からのような気がした。
2007.01.30
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その1・・・に続き、その2を書いてみました。休憩後、霊山歴史館へ行く事にした。円山公園から、南下して、円山音楽堂の横を過ぎ、豊臣秀吉とねねの寺で有名な、高台寺サイドを歩き、京都霊山護国神社鳥居のある分岐口へ到着。ここを、東へ行く。維新の道の石碑があった。突き当り右が、霊山歴史館で、左側に京都護国神社になっている。まずは、霊山歴史館に到着。入場料500円で入管。2階建てのようで、入ってすぐの1Fロビーに、「龍馬を斬った刀」と題して、ガラスケースに古い唾のない刀が展示してあった。長さ:42.1CM(1尺3寸9分)、反り:0.8CM、目釘穴:1個、銘:越後守包貞(偽名)と書いてあった。ひえ~。ほんまもんかな?!・・・と思ったが本物のようで驚きであった解説が書いてあったが、・・・京都見回組の桂早之助が、この刀で坂本龍馬を切ったと伝えられる。桂は、居合い斬りの達人で、コンテストに優勝するくらいの腕前だったようだ。なんでやね!・・・と呟かずにいられんやった。2階は、歴史年表や、幕末活躍した、人々などの写真などが展示してある。西郷隆盛や、木戸孝充、高杉晋作、新撰組の近藤勇、土方歳三もあった。また、近江屋の模型などもあった。2階奥の部屋で龍馬は遭難したようだ。外に出て、向かいの、京都護国神社へ参拝することにした。坂本龍馬のお墓があるようで、お参りしようと思った。300円入場料がいるので、今日は出費がかさむが、まあいいか!案内も書いてあり、有名なところのようだ。1000円払って、石板に願い事?を書いて奉納する案内書きがしてあった。いろんな石板があり、たくさんの方がおまいりに来ているのがわかった「龍馬様ここに来て元気になりました・・・また来ます」・・・と書いた石板もみかけた。当局も転んでばっかしや!!・・・5~6分歩くと、案内看板ナビで、すぐに龍馬の墓があり、それとわかった。右が、中岡(享年30才)、左が、龍馬(享年33才・2人ともまだ若い!)のようで、合掌!!。すぐ上に、桂小五郎や維新で打ち死にした志士の墓がつづいてあった。彼岸ではないのに、千羽鶴やお花がたくさん供されていた。国の為(日本国の為に戦って命を落とした志士たちを慰霊する為に、明治元年(1868年5月10日)に作られた・・コトを後で知った。それぞれに、合掌。この場所から、京都市内が一望できる。「これからの時代はどう生きるか・・・!」と自身に問いかけてみたが、ハッキリとした答えは出なかったが、少なくとも、この変わり行く今の時代は、維新に共通するものがあると感じた。たくましく生きようと思い。少し勇気をいただいた探索移動で京都東山をあとにした。
2006.02.19
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坂本龍馬と新選組を探しに京都へ行って来ました。今からおよそ150年前徳川幕府による幕藩体制が行き詰まりの頃、ペリーが黒船を率いの浦賀に突然来航しました。開国を迫りやがて、幕末→明治維新へと日本が変わって行きました。混乱しつづける歴史のなかで、活躍した坂本龍馬と、新選組。以前からその歴史探索をしてみたいと思っていた。その現場に立つことで、その時代のその瞬間にふれ、先人たちの深い志や、その想い、考えなどが分かれば自身のこれからの生き方、考え方の参考になるのでは・・・・?と考えたからである。地図を片手に持参で、いざ出陣!!さっそくご案内しましょう。(画像は、京都・円山公園にある坂本龍馬と中岡慎太郎像)2月10日、冬型気圧配置で気温は低いが、晴れ間がのぞき天気が良さそう。10時18分、京阪電車中書島駅到着。電車を降りてまずは、坂本龍馬が京都で定宿していたという『寺田屋』へ行こう。北の方へ歩き出す。ほうらい橋を渡りすぐの辻を左(西)へ行くと、寺田屋があった。ただの2階建て木造旅館にすぎないが歴史が語る趣がある。寺田屋のちょうちんや寺田屋騒動址の立て札などがある。龍馬はここでよく泊まっていたか・・400円で見学可と書いてあり、早速入ってみた。今でも、素泊りならOKのようで、表札は、坂本龍馬の表札がかかっている。1階は、龍馬に関する写真や小物また、風呂が展示してあった。2階へ階段をあがると、7つほど畳部屋があり、右側の「梅」と書いた部屋へ行くと、坂本龍馬の絵掛け軸がかかった部屋があり、龍馬がよく泊まってた6畳の部屋の様子。寺田屋騒動とは、文久2年(1862年)4月、尊皇攘夷派の薩摩藩士9名が殺傷されるという明治維新上有名な事件。その時か、龍馬が幕史に捕らえられかけ、戦いの時についたとおもわれる、刀傷や弾痕が、柱に今でも残っているのに驚いた。龍馬の刀と柱についている、刀傷お龍さん、(この宿で働いていた、のちの龍馬の嫁さん)の写真もかかっていた。寺田屋をあとにして、北へ行くと、「竜馬通り商店街」になっている。龍馬館と書いたみやげ物屋を見つけた。いろんな龍馬グッズを販売している様子。龍馬せんべいとかもあった。次は、近鉄桃山御陵前駅の前、高架下を東に行き、1つ目め辻を南へ行ったところにあった「伏見奉行所」を探しに行った。慶応4年(1868年)土方歳三率いる、新選組ら幕府軍が討幕派の薩摩軍と激戦を繰り広げていた所で、付近をうろうろするがよくわからず市営住宅の付近に着くと、その石碑があった。伏見奉行所跡・・石碑のみで当時の面影は何もない。駅の方へもどると、赤い大鳥居を見つけた。御香宮神社だ。薩摩軍が本陣を置いていた場所で、境内へ行って参拝後、本殿の脇に「御香水」という湧き水があり、ご婦人がペットボトルに汲みにこられていた。お茶にしたらなんとも美味しいようで、当局も杓子で飲んでみたがなるほど美味しい。平安時代に突然湧き出した・・・と書いてあった。伏見を終えて、三条まで京阪電車で移動することにした。12時20分、三条駅に着、地上に上がり、西方向へ進む。三条大橋から加茂川の上流の北山方向は雪景色で白くなっている。冬日で寒い。まずは、新選組の名をしらしめたとされる、池田屋事件の舞台になった。河原町三条の近くにある、池田屋を探しに行こう。しかし、池田屋は無く、パチンコ屋さんに変わっている。この『パチンコSOLT』前にて、石碑と案内板があるのを見つけた。「池田屋騒動の址」と書いてある。そのクーデター計画は・・・・・『元治元年(1864年)旧暦6月5日、祇園祭宵々山、四条小橋の古高俊太朗を捕らえて、調べた結果、倒幕派がクーデターを起こす計画を知った新選組は、池田屋で密会中の長州、土佐、肥後藩の尊攘過激派浪士20数名を近藤勇率いる、新撰組10数名で襲撃し多くの死傷者を出しました。尊攘派は痛手をうけ、新選組はこの事件を機に一躍名をあげました・・・・と案内板が書いてあった。次は、河原町三条の交差点を南下して、1つ目を東に行ったところにある、材木商「酢屋」を探しに向かう。龍馬が隠れ住んでいたところで、龍馬の開運会社の「海援隊」の京都本部のあった場所。今でも、営業しているようで、すぐにわかった。2階は展示室になっている様子。石碑と、海援隊の名簿板が入り口にかかっている。隊長、坂本龍馬。隊士、陸奥陽之助、伊吹周吉…など58名の名前が載っている。河原町通りに戻り、南下する。人通りが多い京都のメーンストリートだ。今度は、龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲われて暗殺されたとされる、近江屋(醤油屋)を探しに行ったが、その場所は京阪交通社にかわっていた。それを示す石柱がポツンとあるのみ。気を付けてみないと通り過ぎてしまいそうな所。遭難の碑の石碑があるのみ。すぐ、斜め向かいに、中岡慎太郎の隠れ住居の「あぶらとり屋 象屋」は、今も営業中で、石碑も店の前にあった。次は、河原町四条交差点を、東に行き八坂神社へいこう。本殿へ行くと、観光客やお参りの人が多い。・・・1200年にわたって、京の町を疫病から守る為に発祥して受け継がれる、祇園祭は、八坂神社の祭礼で・・・などと観光看板に書いてある。当局も、拍手を打って参拝完了。そのまま境内を東に抜けると、円山公園に到着。小池で鴨が5~6匹泳いでいる。のどかなところ。龍馬と中岡の銅像はここから東へ50Mほどの広場の前にあった。(その1 おわり。その2は、次回へ)
2006.02.17
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